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2003年07月12日(土) ■ |
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「罪をつぐなう」という言葉について。 |
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共同通信の記事より。
【沖縄県北谷町で中学2年の座喜味勉君(13)を殺害し、遺体を埋めたとして補導された、同じ中学の2年男子(13)の母親が、座喜味君にあてて償いを誓う一文をつづったノート2冊を、事件現場近くに置いていたことが、11日分かった。 ノートはいずれもB5判で表題はなく、うち1冊の冒頭に「つとむへ」と書かれた文章が、2ページにわたり手書きでびっしりと書き込まれていた。 文面は「一番、友達だったA(息子の名前)が何で、って いつもつとむはおばさんの子供だよっていっていたのに。Aがこんなことしたこと、おばさんもゆるせない 一生かかっても 勉のつぐないするから おばさんが死ぬまで。Aも一緒に 一生死ぬまで。勉がゆるすまで」と謝罪の言葉で始まっている。】
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「ごめんよ、きっとこの償いはするから」 僕たちが、この言葉を口にするのは、どんなときだろう? ずっと約束していた彼女とのデートが、急な仕事で中止になったとき。 子供の参観日に行けなかったとき。 大事にしていた茶碗を割ってしまったとき。
こういう場合の「償い」のしかたって、なんとなくイメージが湧きますよね。 代わりのデートをセッティングしたり、次の参観日には必ず行ったり、新しい茶碗を買ってきたり。 もちろん、「過ごすはずだった時間」や「大事な茶碗そのもの」は、戻ってきませんが、ほとんどの人にとっては、まあ、それは「償うことが可能なもの」ですよね。
しかし、「命の償い」というのは、どうやったらできるんでしょうか? 僕には、考えれば考えるほど、そんなことは不可能なんじゃないか?という気がしてくるのです。 この母親の「一生かけてつぐないするから」という気持ちにウソがあるとは思えません。もちろん、世間的なパフォーマンスの一面だってあるだろうけど。わざわざノートに書かなくても、自分の心にしまっておけばいいはずのことだから。
でも、具体的にどうすればいいのかなんて、想像もつかないですよね。 お金を一生遺族に送り続けるの? 亡くなった人のことを心の支えに、自分は一生懸命頑張って生きていくのかな?(それって、すごく自己満足…) だからといって、開き直って忘れて生きていく、というものムシのいい話ですよね。 僕は、「勉くんは ぜったいに ゆるさない」と思います。 賭けてもいいです。 いや、「ゆるせない」んだよ。死んでるんだから。 赦そうにも赦せない、なぜなら、彼は何も考えられない、感情も持てない、「死者」になってしまったんだから。
よく「一生かけて償いをします」という言葉を耳にすることがあります。 でも、この世界には「償えるもの」と「償えないもの」があるのです。
僕の父親は、僕が子供の頃、いつも言っていました。 「お前がもし事件を起こして他人に迷惑をかけるようなことがあったら、お前を殺して、俺も死ぬ」って。 当時は、「なんだかガラが悪くて古臭い発想の親でイヤだなあ」とその言葉を聞くたびに反発していたのですが、今考えると、それはある意味、いちばん正解に近い「償い」の方法なのではないかという気がします。
もちろん、一連の事件の加害者(やその家族)に「死ね」なんて僕が言う権利も資格もないのですが、彼らが「一生かけて償う」なんて口にするのは、単なる自己満足なのではないでしょうか。
本当に、「一生かけたら償える」と思ってるの?
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