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2003年04月15日(火)
障害者にとっての「最も不快な言葉」の一例。

「隣のサイコさん」(宝島社文庫)より。

(巻頭の筒井康隆インタビューでの聞き手、ノンフィクション・ライター大泉実成さんの発言)

【大泉「以前にホーキング青山という人を取材したんです。彼は四肢が完全に動かなくて、口だけで電動の車イスを操作するんですが、奴がとにかくお笑い芸人になりたくて、自分でホーキング青山っていう芸名まで名乗ってるわけです。そいつがいちばん嫌なのは何かっていうと、道端で会ったババアから「まあ、かわいそうねぇ、大変ねぇ、だいじょうぶう」って言われることで、「俺は赤ん坊じゃねえんだ」って怒ってましたけどね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このインタビュー、まだ筒井さんが断筆されていた時代のものですから、もう7〜8年くらい前のものなのですが。ひとつだけ言えるのは”ホーキング青山”氏が、それからメジャーにはなっていない、ということですね。まあ、どこのメディアでも取り上げにくいでしょうけど。

 僕は、とりたてて大きな障害を持っているわけではないのですが、オバサンに同情されて憤る彼の気持ちは、なんとなく理解できるような気がします。この「だいじょうぶう」の後に呑みこまれた言葉は「私は障害がなくて幸せねえ」というような言葉のような気がしますから。
 「お前に同情なんてされる筋合いはない!」って思いますよねえ、きっと。そんなら代わってくれるのか、と。

 ただし、同情=悪とばかり言い切れない面も世の中にはあって、たとえば、僕たちが老人福祉のために税金を使うのを肯定するのには、自分の親だとか、ひいては自分自身も年をとって世話になることがあるだろうと考えているからなのですよね。持ちつ持たれつ、とでもいいますか。
 正直、僕も青山氏のような障害を持っていたらキツイだろうなあ、と思います。内心、「大変だろうなあ」とも感じるでしょう。
 でもなあ、それを口に出すことが、かえって相手を傷つけてしまうこともあるのですよね。
 
 むしろ、普通に接するほうが、はるかに相手にとっては心地よいことだと思うのです。
 しかし、その「普通」というのが、実は非常に難しい。

 僕は「敬語」というものは、ありがたいなあ、と思います。
 それを使っていれば、形式だけで表向きは相手に敬意をあらわしていることになるから。
 「普通の言葉で、態度や会話の内容だけで敬意をあらわす」ということのほうが、かえって難しいのではないかなあ、と。

 「かわいそう」って言っとけばいい、っていうのは、実はすごくラクなんですよね。
 まさに、無難な選択。それが相手にとっては障害=人格という決めつけのように感じられることもあるわけです。障害のある人は、すべからく、かわいそうな人、だと。
 差別をしない、つもりの同情の言葉が、実は最も差別的だというのは、皮肉なものですね。

 でも、僕にも良い言葉が見つからないんですよね。
 探す努力をすること自体が、一番欠けていることなのかもしれないけれど。