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2003年01月26日(日) ■ |
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「夢のある広告」vs「不純な才能」 |
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「あの娘は石ころ」(中島らも著・双葉文庫)より抜粋。
(中島さんが、印刷会社の営業マンをやりながら、コピーライターの学校に通っていたころの話)
【毎日、宿題が出る。次の週までにコピーなりCFの絵コンテなりを作らねばならない。商品はいろいろである。ウイスキー、紙おむつ、胃薬、インスタント・ラーメン、バスケットシューズ、英会話教室、香港ツアー、たわしETC。 大学生諸君は、その商品に合わせて夢のある広告を提出した。が僕は違った。僕はその日その日の講師の人となりに注目し、分析していたのだ。二時間半も一人の人の話を聞いていればその人についていろんなことがわかる。 「あ。この先生は、ほんとはギャグの広告が好きなんだけど、化粧品メーカーを担当させられて、ちょっとスネてるんだ」 といったことが読めてくる。読めてしまうのは、僕が五年間営業マンをしていて、ヤクザから一流会社の社長まで、いろんな人に会ってきたからである。 で、ギャグ好きの講師には徹底してばかばかしい企画を出す。反対にリリカルなものが好きな人には、美しい、詩のようなコピーを出す。 結果的には半年のうちに僕は一等賞を八つ取り、賞状と時計をもらって卒業した。】
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結局、中島さんは印刷会社に辞表を出して、フリーのコピーライターとしてやっていく覚悟をすることになるのです。
彼の姿勢は、ある意味「純粋じゃない」という批判を受けても仕方がない面を持っています。だって、中島さんは「自分が良いと思うもの」を書かずに、「相手に認められやすいもの」を狙って書いていたわけで、文学作品でいけば「読者に媚を売っている」という類のネガティヴな評価を受けそうです。 確かに、広告というのは「消費者の好みに合ったもの」でないといけない、という面が強いですが、それは芸術の世界でも、それを生活の糧にしようとすれば、同じことがいえるわけで。
しかし、僕が思うに「人間の才能」というのは、それを高く評価する人がいてはじめて世間に認められるものです。 歴史上、ごくごく一部の人間には、大多数の人々を認めさせる絶対的な才能があったのかもしれませんが、大部分の「天才」(とくに芸術の分野)には、その人が表現したいものが、その時代の世間の人々の嗜好に偶然一致した、という「運」の要素があるのだと思います。 それに、中島さんのようは「相手の好みに合わせる」という技術について、自分で「汚い、ずるいと思う人がいるだろう」と書かれているのですが、対象者の好みを理解し、それにマッチしたものを作る、というのは、ある意味すごい才能だと思います。誰にでもできることじゃありませんよね。
僕たちは、簡単に「才能がある」「才能がない」と決め付けてしまいがちだけれど、実は、人間の才能なんてそんなに個人差はなくて、その人のやりたいこと、できることと受け手の嗜好が合っているかどうかのほうが大事なことなのかもしれません。 「僕には才能がない」とあきらめがちだけれど、足りないのは「才能」じゃなくて、自分の能力と世界の現状を見極める客観性であるということは、意外に多いんじゃないかなあ。やっぱり、受け入れてもらうための努力も必要だと思うし。 どんなに素晴らしいサイトでも、観てくれるひとがいなければ、存在しないのと同様であるわけで。
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