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2002年11月29日(金) ■ |
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「巧い文章」と「巧いだけの文章」 |
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「論文・レポートのまとめ方」(古郡延冶著・ちくま新書)より抜粋。
<休憩室>の「書きたいことと書く技術」というコラムの一節。
【書きたいことがなければ文章は書けないのは当たり前のことである。次の例を考えてみよう。
小学校1年生の子供が家に帰ると母親の置き手紙があった。それには、あれこれと指示をした後、「夕食を食べ、さきにねていてね」とある。 母親が帰ってみると、そこに 「ママ、ありがとう。○子はとてもあたたかいきもちです」 という書き置きがあった。
この子供の文章は本当に書きたいことがあって書いた文章の好例である。だれにでも書けるというものではない。たったの二文の中で伝えたいことを実にうまく表現している。】
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このあと、著者は野口英世の母シカが、アメリカにいる英世にあてた手紙を例にあげています。そちらのほうは、とくに僕も異論はないのですが。
さて、この例文なのですが、僕がこの子供の親だったとして、こんな子供の書き置きを見たら、嬉しくてたまらないと思います。 子供の気配りに、というよりは、むしろ「この子は世の中うまく渡っていけそうだ…」という気持ちで。 この手紙、なんだか狙いすぎているような気がして、赤の他人としては、ちょっと嫌な感じがしませんか?えなりかずきが書いてるような雰囲気。 僕は、自分もこういう手紙をわざわざ親に書くような子供だった記憶があるのですが、今から考えると、こういうのは「おいしかったよ」とか「ママもがんばって」というだけのほうが、素直に受け入れられるような気がするんですよね。
巧い文章というのは、確かに他人の心を動かすのですが、巧いだけの文章というのは、なんだかかえって薄っぺらい感じがします。 「巧言令色、少なし仁」という言葉は、いかにも東洋的な発想なのかもしれませんが、読み手としては、あまりに「すごいだろう!」というような表現は、かえってしらけてしまうこともあるのだなあ、とあらためて思いました。 巧すぎる文章よりも、文章は滅茶苦茶でも、何かを書きたいという衝動が伝わってくるもののほうが読み手の心を揺さぶることって、多い。 もちろん、これは私的なやりとりについての話で、公に公開される文章については、別なのでしょうけど。 何年も前、僕は振られた女の子に、当時読んでいた村上春樹風の別れの手紙を長々と書いたことがあります。今思うと、振られた自分に酔っていただけなんですよね。恥ずかしい。もらった女の子は、きっと唖然としたことでしょう。
でも、あのときは自分にでも酔ってないと、やってられなかったもんなあ。
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