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2002年11月27日(水) ■ |
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たまたま、業績がうまく当たっただけの人々。 |
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「らもちち・わたしの半生〜青春篇」より抜粋。 中島らも氏とチチ松村氏の対談の一節。 【らも「でな、いろいろ偉人伝読んでんねんけど、そのうち何かこれおかしいなあと思いだしたのよね。たしかに、偉い人のことばっかり書いてあんねんけど、たとえばキュリー夫人を読むとね、キュリー夫人はすうっとガリ勉してて、本代に回すために食費を節約して、1日にスープ1杯だけしか食べへんっていうような生活をずうっと続けたあげくな、貧血で倒れてしもたんよな(笑)。で、おじさんのところへ行って、ステーキを食わしてもらって、やっと体力を回復するわけよ。 そんなことが「どうでしょう、偉いでしょう」みたいに書いてあんねんけどね、それってさあ、ただのガリ勉やんか、別に偉ないやん、そんなん。ただのガリ勉やん。ガリ勉の子なんかは世界中見回しても、何百万人とおるわけやんか。結局ね、ガリ勉の末に大学卒業して、研究員になって、ラジウムかなんか発見したんでしょ、あの人は。
チチ「そうそう。」
らも「たまたま、業績がうまく当たったからいいんだけど、当たらない人なんかいっぱいおるわけやん。」
チチ「そっちのほうが多いわ。」
らも「うん。同じガリ勉でな。そんなもん偉くも何ともないじゃない。
チチ「それを小学校2,3年のときにもう気づいてしもうたん?本読んでて。」
らも「うん、気づいた」】
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確かに、らもさんの言うとおり。先日ノーベル賞を取られた日本人の学者が2人いらっしゃいますが、日本に研究者と名のつく人間が、いったい何人いることか。 それに、受賞された2人は、確かに偉大な業績を残されたのですが、まだまだ世界中には、彼らに負けず劣らずの業績を残した人はいるんだと思います。 今、新しい発見をしたわけではないのに、賞をもらっただけで、急に研究の内容が評価されまくったりしてしまうのは、よく考えたら変なことで。いい研究だから賞をもらったわけで、賞をもらったからいい研究というのは本末転倒。
ノーベル賞の創設者(というか、彼の遺言と遺産を基にはじまった)であるノーベルは、当時非常に危険でありながら、土木工事に必要不可欠であったニトログリセリンを安全に使用するために苦心を重ね、ダイナマイトを発明しました。 でも、彼に巨万の富をもたらしたのは、工事を安全にすすめるためのダイナマイトではなく、戦争の道具としてのダイナマイト。彼は、そのことにひどく心を傷めていたそうです。 ノーベルの場合は、意に染まない利用のされ方だったわけですが、現代の研究者にも本来の目的とは異なる有用性がみられたため「偉大な発見」となった場合も多いのです。 逆に、結果が出ないような研究、世間に役に立たない研究に才能を浪費してしまっただけの天才だって、たくさんいたはずです。 結局、「運」の要素は、必要不可欠なんですよね。
でも、そんな非効率的なこと…と思う、らもさんの気持ちもわかるんですが、ある意味、その非効率的なことに気付かない、もしくは気付こうとしない「愚かな」人たちが、人類の歴史を作ってきているという面もあるんです、絶対に。 成功したからといって、何でも「努力のおかげ!」と言ってしまう偉人には、僕もちょっと違和感を覚えますが。
高速道路に乗っていて思うこと。 追い越し車線に乗って他の車を追い越そうとすれば、いつかは自分より速い車にあおられる。ずっと走行車線で、前の車の後をのんびりついていければ、それほど楽なことはないのかもしれないけれど。
一度の人生、さて、どこまで自分に賭けられるだろう?
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