世界お遍路 千夜一夜旅日記

2004年09月29日(水) 伊勢で立ち往生

9時20分、宇治山田着。
愛知東海市のお遍路仲間のおうちで「気を付けないと、伊勢の線はすぐにとまるぞ」といわれたので、台風の中、そそくさと外宮から内宮への道を歩き出す。
もちろん、大雨で風も強い。
旧伊勢街道。
なにも残っていなかったが、「間の山」の意味が歩いていてよくわかった。
さすがに、内宮、この天気なのに、人が多い。
喪中なので、写真の看取って、1時過ぎにはまた宇治山田に戻って、帰るべく切符売り場へ。
「大阪、上本町へ」
「今、止まっています」
あれーーーーー
で、ずううと、とまりっきりだ。
風も雨もますます強くなる。
行けるところまで行こうと、松阪まで動く。
途中、宮川と櫛田川が今にもあふれそう・・・数時間前はこんなではなかったのに・・・怖い。だって、線路を持っていきそうだモノ。
近鉄がんばるねえ。電車の客はみんなおう、と声を上げている。
で、松坂着。
JRも動かず、一時近鉄も前線動かず。ホテルは満杯。
もしかして、駅で野宿か、と思ったが、8時過ぎに大阪ほうめんがぼちぼち
動き出して、深夜12時近くに、枚方の友人宅に転げ込んだ。
車中車掌さんに聞いたら、新幹線やそれ以外のものもとまっているので、これから出ても大阪も宿は満杯でしょう、探すのは大変ですよ、ということで、急遽、友人宅へとなったわけ。
いやはやでありました。

それにしても、台風の動きと一緒に動くことこれで3回だ。
6月の熊の、8月の今治、そして今回・・・笑うしかない。
どうなっているのだ????




2004年09月27日(月) 知らない方3人と・・・

朝8時50分の飛行機で、東京へ来ました。
で、夕方まで3人の方と会った。
さすがに、疲れた。
最後の方が一番お若い。
一人旅についての講座をするので・・・ということだった。
講師は集めたが、講座に参加する人はこれから・・・状態らしい。
講座に出るんだったら、私だったら、旅にいく・・とつい、いってしまったが。(笑・・・ごめんなさい)

その後、久しぶりに川崎の親戚へ。
あれこれ、あれこれ、さんざん、女3人でしゃべった。
生きているカニを酔わせて、食べちゃう、料理があって(パパが作った)カニが至極うまかった。幸せでした。
まあ、みんな話題にするのは、10月にやめてどうするの、ひどい会社だねえ云々・・・系の話だ。私も他人様の話として自分の話を聞けば、そう思うがご本人はいたって元気、やめる日を待っているんだから、いいのだ。

こんなこともあるってことで、世の中はまか不思議。長く生きるもんである。

幸い今日は晴れた。
もう一度、明治神宮に行って、お写真を撮らねば。



2004年09月26日(日) 今関さんの本

今日は、今関さんがはるばると「新刊本」を配達に来て下さった。

「虫嫌いの田舎暮らし」(家の光協会 1470円)

帰られてから、早速に「第1章 田舎の恐い生き物」を読んだ。
マムシの話やムカデの話、ご本人から聞いたことがあるし、ほかの著作でも目にはしているのだが、おもしろくて一気に読んだ。
今「破天」という、大作を読まねばならぬ状態なので、名残を惜しみつつ、ページを閉じたが・・・。
早く「破天」を読みおえて、書評書いて、今関さんの本に戻ろう。
みなさん、おもしろいですよ、お勧めです。

さて、ほとんどすべて自給自足というゴージャスな食生活の今関さんに、ランチにナニをお出しするかで考えた。
試験を受ける生徒みたい。
特製カレー、幸い「おいしい!」といってもらえてよかった。
英子さんと3人、沢山おしゃべりをした。
お二人は、2時過ぎに鳴門であじ釣りをするといって、帰られた。
前回、今関さんは70匹釣ったのだという。
うまそうな話だ・・・



2004年09月25日(土) 花ゆずとすだち

ホントは、18日に破磐さんにお参りして、徳島のすだちと花ユズの苗(木)を奉納するはずだった。
しかし、15日の父永眠で延期になった。
で、本日、5時起き、6時15分始発にのって、本土へ渡った。

喪中だから、鳥居の脇からよけて、拝殿でも頭を下げるだけ。
竹炭をいただいたお礼を述べて、宮司さんご夫婦にお会いして、生前いろいろと父のご心配して下さった御礼を述べた。
奥様が花ユズが欲しかった、と喜んで下さった。
実は大きくならないが、中をくりぬいてそこにいろいろと入れると、香りがうつっていい、と教えて下さった。
なあるほど。
喜んでいただいてよかった。
喪中があんまり長居をするのもナニかな、と思ったので境内のお地蔵さんと観音堂にはお参りして失礼した。

姫路のDサンがおつき合い下さって、ネパール同行のIさんが、おいしいパンを下さった。
ありがとうございました。



2004年09月24日(金) NHKの中国

このところ、朝のNHKで中国の発展ぶりをずっとやっていた。
それが何ともいやな感じで、昔の日本の右肩上がり時代そっくり。
それをNHKは賛美、賛美。
1997年、長江を人民船で途中下車しながら下ったとき、その汚れ方が恐かった。
揚子江カワイルカ・・・なんかを期待していたのだが、こりゃ無理だと思った。
船が、南京や武漢に近づくとみんな咳きをする、それは空気が汚れているから。
低い川面に、工場の煤煙や車の排気ガスが流れ込んでよどんでいるんだわ。
こういう、悪しき側面を見ないで、右上がり中国の賛美とは如何なものか。
安い賃金の労働と、その影に暴利をむさぼっている経営者(日本人だったりして)がいることにはふれないでねえ・・・。
1983年の中国・広東。のんびりしていた。フランスの植民地(確か)だった面影がそこここに残って、人は親切だった。
香港から、広州にはいる汽車のそばには、運河があって、水牛が鼻先だけ出して浮いていた・・・・
こんな深洲、中国の若い世代もしらんよな・・・そのうちに、中国の昔話をしに中国にいこか。(笑)そうそう、昔の知り合いに、北京にまだ城壁が残っている頃を知っている人がいたっけ。今は一部地下鉄に利用されて、すっかり取り壊されてしまったけど。
中国のあまりの変わりように、なんだか悲しいような気持ちになるのは、私が年取ったせいだろうか。





2004年09月23日(木)

昨晩、明け方、奇妙な夢をみた。
そもそも、夢をみること自体が久しぶりなのだが。

登場するのは、青岸渡寺の高木副住職さん。
副住職さんに私が「私の足に気を下さい」とお願いしていて、高木副住職さんが足のふくらはぎに手を当てて「気」を下さっていて、そのうちに、私にも私にも、何人もの女の人が現れた。またまた、そのうちに、高木副住職さんは、瀧行の時のような浄衣を着ていらしたのだが、すごい呪文のような文字が書かれている背中を見せて退場された。

こんな夢だ。

なんだあ??と夢を見ながら首をひねっている私がいた。
起きていろいろ解釈をした。
もしかして熊野のカミサマが、やや気力衰弱気味の私に、エネルギーを入れにきてくださった??なんていう自分に都合のよい脳天気理解をしているわたしは「明日天気になあれ、はいよ、日本晴れの天気だよ」という感じのお気楽さではあるのだ。

今日、片埜神社の若奥様のお話を編集していて、アテルイとモレという蝦夷のオサの首塚の前で撮った写真のすみにすごいぎらぎらのエネルギー体がうつっていることに気がついた。
片埜神社さんの祭神は、スサノオさんだし、それ系の何かか、、それとも、アテルイのエネルギーなのか。

昨年玉置神社の2500年祭の祭司をなさった金剛さんが亡くなったという。
ショックだ。とても元気そうで、ビョウキには無関係そうなお方だったのに。。
その前の、佐藤宮司さんについで、2人目。
玉置のカミサマのさわり?だろうか。
どちらもご立派な方で、しっかりカミサマのお仕えになっていたと思うのだが。
どこか私心があったのだろう。それが、さわりになったのではないかと思う。
「清く明<あか>く、正直<せいしき>な心」という言葉は祝詞にある、そういう気持ちでお仕えしないといけないと思う、、破磐の宮司さんがいわれていたが、難しいことだと思う。まさに畏み、畏み・・なのだ。

この世には(にも)、いろいろと不思議なことがありますねえ・・・



2004年09月22日(水) 「あちら」

この日記を読んだ いろいろな方から、お悔やみのメールをいただいた。
ありがとうございます。

ところで「あちら」はあるのだろうか?
私が悲しみよりも今のところ「ホッとしている」感情が強いのは、「あちら」の存在を信じているからに他ならない。
肉体という有限の檻に閉じこめられている魂は不自由だが、その肉体が亡くなってでたとき「自由に羽ばたける」と信じているからだ。
私は疑り深い性格だから、これにはそれなりの根拠がある。

その1 エネルギー不滅の法則
人は命はエネルギーである。
見えない。
しかし、死んだからといって、このエネルギーまで消滅はしない。まさに「見えない」ままに存在しつづける。それが「あちら」
まさに「不生不滅」

その2 自分の体験
交通事故にあって手術をしたとき、麻酔で私の身体は仮死状態になったらしい。ピンク色のふわふわした雲の上を飛んでいた。そこは、明るい輝かしい場所だった。
チベット死者の書などでは、身体を抜け出た魂は輝かしいモノに向かって天を目指すと書いてあるようだが、まさにそんな感じの気持ちよいところ、気持ちよい心だった。あれぞ お浄土 か。

その3 お迎え
お遍路さんをしていると、「お大師さんが枕元に来ている。もう、逝く、北枕にしてくれ」とか「あと何ヶ月で死ぬから生きている家に挨拶回り」なんて逝って、亡くなったお年寄りの不思議な話をたまに聞く。。
「お迎え」と、昔からいうが、確かにそれは来る人には来るらしいのだ。

その2の体験が、父の死にあたって私を楽にしてくれる。
「あんな気持ちいいトコをふわふわして、先に逝った、親や兄弟にあっているのかな」と、すぐにイメージできるのだ。
(私は、ピンク色の雲の上をお散歩してきただけで誰にも会わなかったが、それは、まだ定命があって、だれもお迎えにでてくれなかったせいだと思う。というか、私は車にはねられたその瞬間、まだ生きる!と自己決定して生き延びたようなモンだから)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
TVで「糖尿病」についてやっていた。
血糖値をよくするのは、筋肉運動が大事。それと、早起きして、朝食を早く摂ることが大事とやっていた。
これって、歩き遍路にピッタリではないか。
よく、四国をまわって糖尿病が治りました、という話を聞くが、これ、科学的根拠があったというわけだ。
ガッテン!
この番組を見て爆睡した。
家の中は、不夜城・・・でした。




2004年09月21日(火) 昨夜 帰宅

昨夜11時少し前に帰宅した。
弔休が3日という連絡があったので。(伯母を初めとした親族は、親の死去はふつう1週間じゃないかといぶかっていたが・・・)ちなみに、今日は、田舎でいう「段崩し」(祭壇をくずす)なる初7日があるが、なんだか父はもう家の近辺にいないような気配なので、もういいやとかえってきた。

ご弔慰下さった方々には心から御礼申し上げます。
ありがとうございました。

父は15日早朝5時10分永眠。
7時40分のJALに乗ろうと(これが一番早い)仕度していたら連絡が来た。
地元家族も間に合わなかったらしい。
14日夜遅く、病院に呼ばれていって来た・・かなり肺炎が広がって悪い、もう延命処置はしないが・・という説明を聞いてきた、という電話が入って、家族はそのときにあって来ていたが。
要するに、父は誰のことも待たずにさっさと逝ってしまったというわけ。
私だけでなく、みんな間に合わなかったというのが、ゴーイングマイウエイで時々家族からひんしゅくを買っていた父らしいといえば、父らしいし、最後に「味なこと」をしたねえ、ともいえるし。(苦笑)
(医者は、前夜、もし必要ならご家族が到着するまでの延命はできますといったらしいが、家族は、本人がさらに苦しむことはやらなくていい、と断ったこともあって間に合わなかったという事情もあるにはあるが)
昼1時過ぎに帰ったら、もう祭壇ができていて、父が眠っているそばで母や伯父、伯母がそばでお稲荷さんを食べていた。
「おや、早かったなあ」なんていわれて。
前日までぐずついていた新潟の空、この日は快晴で、空気もさわやか、まさに日本晴れの中、あっちににいった・・・という話をしていた。
この4ヶ月あまり、みんなが苦しそうな父の姿を見てきたからなんだか悲しみよりホッとしていた。
私も・・・実はお彼岸は人が逝きやすい時だし、危ない、18日に帰ろうとおもって切符を予約済みだったが、まあ、会えなかったのはつくずく残念だが、もう、ちょこっと身体を動かされても痛くて「ウー、ウー」といやがる姿を見なくてよかったのは、なんだかホッとしたといえばホッとして。
実は、みんな、悲しみよりホッとであったのだ。

16日お通夜、17日告別式。
お骨は、骨箱にけっこういっぱいになって、農民だった父の骨太さを実感した。

15日の夜、父のそばで、一晩、燈明と線香をあげていたが、深夜1時近く、姪が飼っている犬が激しく鳴いた。
犬は4月に来たが、姪が写真を持っていって「じいちゃん、いぬがいるよ、退院してきたら会えるよ」といっていたので、どうやら、2階の姪の部屋まで見に行ったらしい・・・(とわたしは確信した)
父は犬が大好きだったし。
朝方5時近く、線香番を弟と交代して、居間に毛布をかぶって転がってウトウトしていたら、胸のあたりをグウと踏まれた時間をおいて2回。
玄関側の戸が開いて、黒い影が入ってきて(ウトウトしていた私がつかんだイメージ)、私の胸をグウと踏んだ。
初め、仏間で線香番をしていた弟が暗闇でまちがって私を踏んだかと思うくらい強かった。
しかし違う・・・
そう、私がねっころがっていたところは、父が生前トイレを探して徘徊するときに通り道になっていたところだ。
で、時間的にも、トイレに行く時間だし。
母が入院していたとき、この時間に起こすと「大丈夫」だったモノだ。
どうやら、トイレを探して、例のごとく徘徊していて私を踏んだらしいのだ・・・(とわたしは思った)だから2回。3回目はなかったから、どうやら自力で無事に最後のトイレに行き着いたらしい。よかった。

お通夜の晩は、気配なし。
告別式以降も、気配なし。
どうやら、父は、通夜の晩に供えられたお酒を飲んで、新米のコシヒカリを食べてけっこう満足してひらひら酔っぱらいながら浄土に旅立っていったという気がするのだ。
霊感系の母もいう。
「じいちゃんは、もうこの辺にいないようらなあ」
賛成だ。
とりあえずは、あちらでなつかしい人たちに再会している・・宴会でも張っているのではないか。
父は法事、新年会・・・等々・・家でしてにぎやかに力いっぱい飲むのが好きだったし、それに乗っ取って、セレモニーホールではなく、すべて家でした。仏間と茶の間2間と廊下を取っ払うと20畳あまり。あまり広くはないが、仮通夜、お通夜、告別式と、祭壇の前で、伯父や従兄弟、その他親族の人たちでにぎにぎと宴会した別れだった。
弟も、「これで本人大喜び」といっていたが、私もそう思った。

しかしまあ、いまだに、入院していた病院に行くと「父2号」がいそうな気がしてはいるのだが、まあそれは「無いはずのちぎれた指」が痛むのににている・・・

離職まであと1ヶ月、がんばろ。





2004年09月15日(水) 父が・・・・・

父がアブナイ・・・という電話が田舎から朝方に来た。
これから、かえる。
新月だし、祖母もそうだった・・・
間に合わないなあ・・・
お彼岸も近いし、祖母が迎えに来たのだろうか.

日記、しばらく、更新できないだろうが、みなさん悪しからず。



2004年09月13日(月) いろいろ・・書くぞうさん

★自動車免許
私にとれんのかね・・・つくずく、ハンドル握っている人がお利口に見えるこの頃。しかし、教習所の先生たちはお優しくて、まあゆっくり取って下さいよ、だって・・これって・・・どう言うこと・・まあ、バカだのヘボだのと叱られるよりいいけどね。

★今日もイラクで・・・
今日もイラクで600人だった?沢山の人が死んでいる。北朝鮮じゃ謎の爆発。アメリカにもでかいハリケーン。金沢じゃ、無職17才が強盗殺人・・・ろくなニュースがない。

★女性専用車
数日前のニュースだったかで、どっかの電車に終日女性専用車とつけるというとった。関西圏だけど。山陽線で、近江舞子から、姫路まで乗ったときに、前に止まったのが女性専用車。
知らずに乗った、高齢の男性が大慌てで降りて、次の車両まではしっとった。変・・と思った。こけたら大けがだよ。
で、気をつけていると、関西って、女性専用車がおおい。関西男がえげつないってことか?なんかしらんが私は不愉快である。
この不愉快を分析していると長くなりそうだし、まあ直感でもう一度いう、わたしは女性専用車は不愉快だ。
社会的弱者用車両だったらいい。
妊娠している人、子供、身体がご不自由な人、高齢者、痴漢被害に遭いたくない女性等々・・・こういった人用の車両が確かにラッシュの時間帯に1両くらいは着いていてよい。
だけど、女だけ車両って、これまた差別だよ、もう一度言う、不愉快!
関西はモスレムの国化しているか、もしかして。
モスレムは、全部男女別だもん。

今日、今治のKさんより電話。
タイでの話を聞いた。
「そのうち行こうね」「・・・父がねえ、びょういんで危篤状態のうちは私、海外は行かないよ」「・・・いつかね・・・」「そう、いつかね」

ところで、いつか日記に書いた16年遍路さんが
丸亀市通町商店街 町の駅「秋寅の館」(10時から5時)で、18日まで、歩きながら描きためた絵の個展をしています。
タイトルは「観音様は猫がお好き」
私は残念ながら行けないのですが、お近くの方はぜひ、お越しになってみて下さいね。優しくて不思議な絵に出会えるはずです。



2004年09月12日(日) 宴会だあ

夕方、遠来の客来る。
彼女のお土産はすでに昨日いただいていたが・・・・
ゆうがた5じくらいから、12時までしゃべりたおした。

献立
ショウガの入った稲荷寿司、近海産のお刺身、阿波特産フィッシュカツ、なると金時の大学芋、なるとワカメの酢の物 アスパラのごまだれかけ お土産のクラッカーにこれまたお土産のおいしいチーズを乗せて、スダチも乗せてのおつまみ。

おいしくて、楽しくてで、あった。
 
昨日、1番から5番まで歩いた彼女、汗だくだったが、ビールがうまい、よく眠れた・・で、良き体験をしたようだった。
1晩で一緒になって歩いたおじさまが、ばてて、お助けしたとか。
3番から4番、自販機がないところでばてたらしい。
かりんちゃんみたいだ。

それにしても、菅さんはタフだなあ。
  



2004年09月11日(土) ミッドナイトウオーク

朝はよかから、教習所。昼は、東京からの客人にあって、ランチ。彼女は札所を歩きたいというので、明日会いましょうと、徳島駅でいったんさよならした。
夕方は、山川町の今関さんが、徳島市内の異業種の会(お楽しみ会みたい)があるから、一緒に行こうと言うことで、同道させていただいた。
楽しく飲んで、しゃべって・・・ここまではよかったのだが、阿南行き最終便23時31分にのって本を読んで、ついぐっすり。
気がつくと、南小松島であった。
時間は、11時55分近い。
げっげげげ
どうする。
おりたものの、タクシーはいない。
小松島まで行くべきであった。

歩き始めたが、どうやてってあるいたら、帰れるのか、ワカラン。
で、ときどき来るタクシーを止めようとするもとまらんのだわ。
ああ、ここは徳島。
仕方ないね、こりゃ歩いてみるか。
国道55号、歩きました。
1時間半でした。
けっこう、楽しかった。
でも、さすがに眉山の灯りが見えたときはホッとしたね。
それと、途中に、勝浦川がでてきたときは笑えた。
だって、勝浦川って、私が最初に歩いた時に、まだかと、泣きながら歩いた目印の川だったから。今回はなぜか、笑えた。ついでに、滅多にないことだが、唄いながら、歩いてしまった。
田舎は手強いが・・・ケガの功名。(笑)

ミッドナイト、チョウー眠い。
誰だ、日本人の5人に一人は不眠症だなんて。
2時間、あるきゃ眠れるよ。ほいな。
イタリアンのおご馳走を食べたし、いい腹ごなしをしたみたい。



2004年09月10日(金) 一気に涼しくなって・・・・

涼しい、秋が来た。
早いねえ。
というか、今年は桜も早く咲いたので、そうかな、とは思ったのだが。
当然、ビールども低くなって、菅1本で収まっております。
ああ、缶違い、じゃ。
菅・・といえば、菅さん、なんと、9月7日より、高知入りして11日まで室戸より歩いているようだ。
ウエブ上の日記にあった。
昨日、見たときはなかったのに、今日はあった・・・まあ追っかけよけかな。
昨日の朝にあったら、いけたのに・・・残念。
新聞は、今日段階ではどこも書いてなかった。
高知新聞、どうした、と思ってチェックしたけど。

彼、もしかして「お遍路病」??
それにしても、国会議員って意外とヒマなの??
まあ、民主党の代表も岡田さんに決まったし、そういいこともあってかな。
またまた、自分を見つける旅。であろうか。



2004年09月09日(木) 正解は・・・

昨日の、正解・・・かくしゃく・・・でした。
お二人からメールをいただきました。
もちろん、正解、でした。
さすが!!

ところで、わたしは今日、生まれて初めて「お車」に乗りました。
ハンドル、握っちゃいました。
ああ恐かった!!
私はドライバーになれるのか??
ヤバイね・・・だって、メチャ恐いもん。
まあ、若い子より5万円余分に払ってフリー券なるを持っていて、何度でも技能ができるし、ボチボチデッセ、にしましょう。(ホンマかいな)
適性検査では、運転にむいているとか、動作が素早いってでていたけど、私、エンピツだのペンだの持ってやるのって得意なのよね。
あれ、全然あたっていないよ。
PCに始めてさわったときより、不安が大きいぞな。
明日は行かないけど、土曜はまた行く、今度は50分がふたコマ・・ああ・・でも、たあくさんお金を払ったんだし、がんばらねばりん。



2004年09月08日(水) 読めますか?

きょうは、仕事中、
   矍鑠

の字が読めなかった。
1年に、数度、「あ、よめん!」(?_?)ということあるが・・・・
誰か、読めますか。

正解は あした



2004年09月07日(火) 台風18号

昨日は、夕方歯医者さん(支払い1920円)、買い物をして帰って8時少し前。さすがにご飯を食べたら、10時前から爆睡であった。

で、一夜明ければ、台風だ。
外は風と雨が激しい。
しかし、行かないわけにはいかないし、着替えをもって、長い合羽を出して、ザックにもカバーを掛けて出発。
強風で、傘の骨は曲がった。
服もびしょぬれ。着替えをもってよかった、が、しかし、風はますます強く、、、、まったく次々とでかいヤツがよく来るよ。
ついでに朝は地震もきたもんな。
浅間山噴火の時に、お次は、また噴火か地震か?と書いたような気がするけど、地震できましたね。
いやはや、だ。
ロシアじゃ、子供の葬列が続くし、イラクじゃ、相も変わらぬ殺し合い・・・・

そうそう、カメラマンも鬱らしくて、何を言っても、身体から力が抜け落ちるような反応。どろんとした、底なし沼のような気が彼の周辺には漂っている。
私のように、「ひろしまあ?いっきません」と、悩み無くお断りした者に比べると、行くというか戻る彼は「悩み多き状況」みたいだけど、あんなに「陰気」になったら、いい気も福の神も逃げるねえ。
その鬱の気のあまりの強さ、風邪のばい菌のようにうつりそうで、戦々恐々としている。恐い。

風速60メートルを観測した広島、私が8月に行った厳島神社で社殿の一部が壊れたようだ。
船もあちこちで難破しているし・・・・
大自然の猛威には勝てないことを改めて実感。
広島のるりさん、ダイジョブかな。
岡山は倉敷方面、先日お世話になった方々は、大丈夫かしら。
お見舞い申し上げます。

ところで、ブルーノ・タウト、伊勢神宮や桂離宮の美しさを日本人に再発見させてくれたお方だが、彼は、ナチスの支配するドイツをきらって、昭和8年にシベリア鉄道で日本にやってきた。招かれてきたらしいがさしたる建築のお仕事もなく(不運の時代であったが、その代わり、日本を紹介する名作を何冊も書いたらしい)、日本に昭和11年までいた。
その間、3年半。その後はトルコに去ったとか。
まあ、ブルーノ・タウトは、遙々と日本まで「引っ越し」をしてきたわけで、それで、長期滞在をしたわけだ。
そう考えると、私の引っ越しなんて、タウトに比べたら、コンマイわけで、読んでいた本にあったタウトの謹厳なお顔ををながめて思わず「キミには負ける」とつぶやいていた私であった。
タウトさんのように、3年もいない予定だけど、有意義に時間を使ったタウトさん、見習いたい。




2004年09月06日(月) チボリ公園

倉敷駅前にあるチボリ公園前に10時集合。
ぜんこん宿をして下さった、よっさん&クレーテさんとお孫さんのかりんちゃん、たまちゃん、私で現地に向かった。
歩いて5分ほどのところ、空からは雨が時々落ちてきていて心配だったが、10時には、蒸し暑かったが、晴れた。
本日は総勢11人である。
本家のコペンハーゲンにあるチボリ公園は、以前行ったことがある、まあテーマパークの走りだったが、けっこう寂れていて。倉敷のチボリ公園も、昔に比べたら大分寂れたようだが、それでも、こちらのほうがきれいなような。
ちなみに、アンデルセン生まれ故郷のオーデンセは、チボリ公園の中にある街並み通りにそっくり。旅心を誘われた。
たまちゃんは、観覧車から始めていろいろと乗って楽しみました。
一度、よそ見をしていてこけて泣きましたが・・・それも、まあ大事なくてよかった。

2時半すぎ、よっさん&クレーテさん宅に戻って、児島まで送っていただいて4時半すぎに高松でご両親に合流した。
たまちゃんは、いろいろなことを「一人でやれる!」と気張りました。
少したくましくなったように思いました。
たまちゃん「楽しかった!」と、いうことでした。
私も以下同文。

迎えて下さったみなさん、応援して下さったみなさん、本当にありがとうございました。





2004年09月04日(土) 倉敷へ

10時半、たまちゃんとお父さんお母さんと合流して、高松駅へ向かった。
本日はよい天気だが、明日は心配。予報はよくない。
高松まで1時間のはずだったのだが、前方にのろのろ運転の車に何回か出会って、予定のマリンライナー11時53分に乗れず。
で、12時22分に乗った。
たまちゃんは駅の切符売り窓口で「倉敷!」と大きな声で。
2階建てのマリンライナーグリーン席に、お父さんとお母さんに見送られて2人して収まった。
ちょうどお昼でお弁当は、お父さん差し入れの「お遍路さん弁当」であった(笑)
グリーン車で駅弁。外には讃岐の景色が広がって・・・
「ゴンと留守番」と、たまちゃんに言い渡されたご両親は不安だろうが、電車に乗って旅に出たかったたまちゃんにはピッタリのセチュエーションである。

岡山で長い階段やエスカレーターを登ったり降りたりして、山陽線に乗り換え。
15分ほどで倉敷着。
ミッチー先生を始めとして、倉敷在住の方々に出迎えていただいた。(たけさんはわざわざ、香川から来て下さった)
ありがとうございます!!
再会を喜び合って、由加山蓮台寺までお参りに行った。

夕方は、総勢12人のお食事会だった。
にぎやかに楽しい2時間弱。
その後たまちゃんご期待のカラオケ大会で11時半まで盛り上がった。
もともと 氷川きよしはじめとした好きな曲はすべて暗記のたまちゃんだが、この夜は一段とさえわたって、実にいきいきとしていた。
お父さんとお母さんに電話することも忘れるくらいに。
まあ、クレーテさんと相談して、カラオケ熱唱のたまちゃん添付でメールしたが。
楽しきかな倉敷の夜!!



2004年09月03日(金) 片埜神社

今日は、朝から徳島発枚方行きのバスに乗って、片埜神社へお参り兼取材に行ってきた。
よい神社であった。
よい神社の条件をここに述べよう。
★浄らかであること(掃除が心が通って行き届いている、つまり、できるだけ、宮司及びその親族が清掃に関わっていること。こちらではご家族がなさっているとか)
★水が流れて、滞っていないこと
これは大事:水が腐る、つまり気が悪くなるってこと
★上記の条件があると、まちがいなく、社務所の方もよい。
よい神社に参ると、ホントに気持ちよい。
それは、人の心、誠がそこに形として感じられるからであろう。

ちなみに今日お訪ねした片埜神社は、かつて社域(今は公園)に蝦夷の勇者アルテイとモレを祀る。
坂上田村麻呂が降伏させて都に連れてきたのだが、大阪のこの地で処刑されたと、伝えられる。
田村麻呂は、彼らの人徳や勇気に友情を感じて朝廷に無罪放免を朝廷に願ったらしいが聞き入れられなくて処刑されたようだ。
それは高橋克彦さん(それこそ蝦夷の岩手の作家)小説にされている。

もっと書きたいが、明日は私にとって、大事な旅に出る日だ。
ビールと酎ハイで酔っぱらっていますし、もう寝ます。
では good night!



2004年09月02日(木) 予讃線の台風爪痕

 昨日、予讃線に乗っていて、石鎚あたり(新居浜)で線路至近で土砂崩れ、いまだ生々しく、恐いような感じだった。
今年は、毎度水不足の香川での水害も含めて、四国は大変だった。
もうタイフーンあっちに行け、状態だ。

浅間山が噴火した。
次はどこだろうか・・・・
富士山、那須茶臼岳、それとも大地震???
これまた、なんの前兆?と恐いような気がする。
あの辺、みんなつながっている感じだしネエ。
これ以上、天変地異がありませんように、と祈りたい。



2004年09月01日(水) 今治より帰る

台風で十分調べられなかったところなどをやって、2時過ぎに帰った。
一日目は、地風の中を午前歩き、次の日はカンカン照り。
さすがに疲れた。
で、日記も失礼で。

家近辺、すっかり稲刈りが進んでビックリだ。
秋なんだよ。
あっというまに、だ。


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