世界お遍路 千夜一夜旅日記

2004年01月31日(土) ブリギッタ先生の原稿貼り付け

閑話休題。
忙しいような、忙しくないような・・・
以下に「佳作」の原稿を貼り付けました。
興味のある方はお読み下さい。
もう、プリントされて配られているモノなので、ここに貼り付けても問題ないと思うので貼り付けました。
ネット上とか、タビットとい阪神電鉄の会員誌にもそのうちに載るようなのだが。
2004年1/1日、2日の旅日記をアップしたいとは思っているのだが・・・できるかな・・・

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「ラトヴィアのブリギッタ先生」

 北ヨーロッパのバルト海沿岸に並ぶバルト三国の一つであるラトヴィアは、人口は約二四二万人、北海道より少し小さいくらいの広さの国である。
 そんなラトヴィアにブリギッタ・クルーミニャという女性が中心になって創設した国立日本語学校があるという。
 昨年バルト三国を旅しようと求めたガイドブック「地球の歩き方〜バルトの国々〜」のコラムに書いてあった情報である。
 どうして日本からずいぶん離れた小さな国で、極東の特殊といっていい言葉を学習しているのか不思議だった。
 私はラトヴィアに着いたら、観光より、まず「日本語学校」に行こうと決めた。

 ラトヴィアの首都リーガ到着の翌朝「地球の歩き方」に記載してあった番号に電話した。
 そしたら英語で「○×△ツーリスト・・・」というアンサー。学校じゃない。しかたないのでもう一つの日本語私塾「スタジオ言語」に電話してみた。
 出た女性に「日本語で話していいか」と英語でいったら、いいですよ、と日本語の返事。ブリギッタ・クルーミニャ、その人だった。
 聞けば、国立日本語学校はもうないのだという。(二000年の秋にはあったのに!)
しかし、電話の声は明るかった。そして「興味があるのだったら来なさい」と言う。
 伺うと、塾はビルの半地下になったフロアにあった。
「よく来ましたね」
 ブリギッタ・クルーミニャ先生は昔からの知り合いのように迎えて下さった。
 ひっつめにした金髪、ドーンとした大柄な身体、よく動く力強い目が印象的な女性だった。身体からエネルギーがあふれていて、五十代後半とは思えない。
 案内されたクラスには、男女二人の生徒が学習中だった。「こんにちは」と日本語で挨拶すると、二人ともちょっとはずかしそうに「こんにちは」と返事してくれた。
 男性は、日本へ陶芸の勉強に行くので準備として、女性は日本の音楽に興味があって留学したいので学習しているとのことだった。
 二人ともシャイでおっとりとした印象、何となく日本人と似ている。
 授業のあと「マフィアの家へラトヴィア語の個人教授に行きます」という先生と、途中まで一緒に歩いた。
 この国で金持ちはたいていロシア人、そしてマフィアに関係する人が多いとか。
「でも私がラトヴィア語を教えている男は愚かではない、ロシア人がラトヴィア語をやろうというのは立派なことです」
 ソビエト崩壊後に独立したラトヴィアは、ついこの前まで公用語はロシア語だった。だから、たいていのロシアンマフィアはラトヴィア語なんてバカにしてやらないらしい。
 
 先生の「夕方には子どもたちが来ますよ」という言葉に誘われて、夜、再び訪れた。
 小学三年から六年くらいの子どもたち六人ほどがノートにひらがな練習をしていた。
 書く、書く、書く、そして発音。
 その後、壁に貼り付けてある筆書きのひらがな表で、今かいた文字を探すのだ。
 古風な学習法である。
 それでも子どもは、ちゃんと今書いたひらがな墨書バージョンを見つける。
 墨書は、何とブリギッタ先生お手製だった。
 先生の話だと、ぽっちゃりした小三くらいの男の子は弟が目の前で池に落ちて死んだ心のケアのためにここに来るのだという。日本語と心のケア、どうつながるのかよくわからない。しかし、見たこともない国の文字を一心に書く時間、彼はつらい思い出を忘れているのかも知れない。
「縦に文字を書く日本語は体にいいと興味を持つ親はラトヴィアにはたくさんいますよ」とは、ブリギッタ先生の説明だが、それはさておいて・・。日本から遙かに遠いこの国で、金髪であおい目の子どもたちが日本語を一生懸命勉強する姿になんだかジーンとした。
 「ありがとう」といいたくなった。

 授業が終わった。
 時間は七時過ぎだが、外はまだ明るい。
 子どもたちが帰ったあと、「グナさんという、私の友だちのうちを訪ねませんか」と先生がいった。
「はい」
 グナさんもまた「はじめまして、よく来てくれましたね」と歓迎してくれた。
 ブリギッタ先生とは対照的に細身でおっとりとした印象のグナさんは俳句の研究者、ラトヴィアに「haiku」を初めて紹介した人だ。
 うす闇に包まれ始めた庭でキャンドルを灯してスグリジャムを入れた紅茶で過ごした。
「これはナマジャムですよ」
 ブリギッタ先生がいう。
 確かに煮たものとちがう味で、フレッシュだった。
「この庭で採れたスグリです、ナマジャムは煮るのではなくて、砂糖を入れて何時間も棒でつきます」
 グナさんが作り方を説明する。
 自宅でとれた実を根気よくつぶしてジャムを作る・・・質素でゆったりしたラトヴィアの生活の一端をかいま見た気がした。
 グナさんは愛知県岡崎市に一ヶ月いたことがあるという。
「日本語の日常会話は難しいです、あなたはゆっくり話してくれるからわかりますが」
なかなかどうして、お上手な日本語である。 グナさんは日本語はもちろんだが、英語も教えるという。
 ブリギッタ先生も、グナさんも本来なら年金生活で悠々自適だったはずなのだが、年金を支給してくれるはずだったソビエトロシアが崩壊した。「語学教授」は不足する生活費補充のアルバイトだ。
 母国の独立は慶賀なことだろうが、こんな問題も出てくるのだ。

 ブリギッタ先生は「私は漢字研究家で写真家、映画監督もします」という。ラトヴィアでは、有名人らしい。
 漢字研究家の先生は、事実、たくさんの難しい漢字を知っていた。「鸛」という字、私は読めなかったが、先生は「コウノトリ、と読みますね」とニタリとした。
 負けた・・。
 そこで「何故、日本語を?」と聞いてみた。
「運命でした」
 モスクワで映画を勉強していた彼女は、夏休みにリーガに帰ってきて海に行った。そこでYさんという日本人の男性と会った。そして文通が始まった。彼女は日本語の、特に漢字に興味を覚えて独学で日本語をマスターした。何気ないちょっとした出会いから始まった日本語の研究なのだ。そして、それが日本語学校を作るという情熱にまでつながった。
 国立日本語学校が無くなった理由もきいてみた。
 簡単にいうと「こんな小さな国に日本語の国立学校はいらない」という文部大臣の鶴の一声で廃校になってしまったらしい。ラトヴィア大学の「日本語科」はそのまま残ったが、まあ客観的にいって大臣の一言は常識的である、と私は思う。
 それでも、ブリギッタ先生はめげない。
 「良語辞典」という、ラトヴィア・日本語辞典まで編集して出版していた。
 「良」は、「ら」とも読む。すなわちラトヴィアの「ラ」だ。
 だから「良語」は、ブリギッタ先生の造語である。漢字研究家の面目躍如といっていい。さらに母国語を「良い語(ことば)」と書く造語は、先生の強い愛国心やソビエトロシアを始めとした強国に蹂躙されてきたラトヴィアの歴史までも考えさせられてしまう。

 次の日も先生に会う約束をした。
 リーガは、中世ヨーロッパの雰囲気を残す美しい町である。そんな旧市街を先生が案内して下さることになったのだ。
 午後一時半、ブリギッタ先生と市場で落ち合った。
「失敗しました。大学は明日からです」
 先生は昨年から教育学の学位が取ろうと、また大学に通っている。今日は新学期最初の授業だと学校に行ったのに違ったらしい。
 五十九歳にしてまた大学生。実に意欲的である。そのことをいったら「まだ、若いですからね」。これは先生の口癖だ。昨日から、何度も聞いている。
 ところでリーガの市場はかつて飛行船ツェッペリン号の作業所だったドームを使用している。実にでかい。野菜や果物から、肉、チーズ、ハム、魚・・・あらゆるものが並んでいた。リーガの食卓の豊かさが想像できる品揃えだある。
 市場の後は街を歩きながら話した。
 時々子どもの物乞いが寄って来る。
「ソビエト時代はいなかった、教育は無償だったから。でも、今は四十ラッツ(一ラットは二〇〇円くらい)もいる、子どもがたくさんいて貧しかったら学校にはやれない」
 先生に「お子さんは?」と聞いた。
 「娘がモスクワにいますよ、でもロシアはもう外国です、訪ねるにはビザがいります、ビザを取るにはたくさんのお金がいります、もう行けませんね」
 先生はため息をついた。
 夕方、ちょっとおしゃれな店でビールと軽食をとってリーガ大聖堂へ行った。
 「リーガ大聖堂のオルガンを聞かないとリーガに来たことにならない」と「地球の歩き方」には書いてある。そうなるとすぐその気になるミーハーな私なのだ。
 大聖堂窓口で訊くと一番安い二ラッツチケットがなかった。次の三ラッツもない。
 先生には「明日発つので、十九ラッツしかない。両替すればいいのだが、できればこのお金で今日の二人分の費用すべてをまかないたい」と話してあった。先生は「大丈夫」とうなずいたが、一番高い四ラッツチケットとなると予算が狂う。
 先生が大きな声で抗議した。
「どうして二も三もないのか?」
 なんと三ラッツが出てきた。しかしそれは、よく見ると先月、八月の券だ。勿論それで入れたのだが、先生は怒る。
「この切符はおかしい、二ラッツがないのもおかしい、年金生活者が来ても四ラッツでは高すぎてはいれない」
 先生がいうには、あの入場券売りの女性は不正を働いている。売れ残りになった八月分を売って代金は自分のぽっぽに入れているのだろうという。ありそうな話ではある。
 大聖堂のパイプオルガンは渋く重厚だった。一八八三年製、六七一八本のパイプ、十メートルにも達する高さなど、当時は並ぶものがなかったらしい。外側の木彫り装飾は十六世紀のものだ。
 始まる前「ソビエト時代はこうやって聞きました」と、先生はひょいと固い板でできたイスの向きを変えた。そうすると、聞く人はキリスト像のある教会正面に背中をむけることになる。ソビエトロシア時代、信仰は許されなかったから、だ。
 三ラッツの席は隅っこだった。
 でも、先生はいう。
「このイスが十六世紀からのもので、この教会で一番古い、だからここがいい」
 やがてコンサートが始まった。荘厳な音が疲れている身体に気持ちよくしみ込んだ。
 コンサートが終わった後、先生は窓口の女性に「どうして八月のチケットなのか、私は館長と知り合いなので話す」と宣言した。
 フェアだが・・・まっすぐな、あまりにまっすぐで、賄賂が横行したらしい社会主義体制の中で大変だったろうなと思った。

 八時過ぎ、先生おすすめの「民族料理店」に行った。
 それぞれサラダ、グラタン、デザート、ビール。これで、五ラッツにもならない。
「お金が三ラッツも余りましたよ」と、財布を見せたら、先生はニコニコした。
 十時くらいまでたくさんお話して別れた。
「ありがとう、楽しかったですよ、また来なさい、今度は私のところにお泊まりなさい!」
 そういって、先生は手をふって下さった。
 
 おばさんバックパッカーを自認する私の旅はいつも一人だ。いろいろな人に出会う。
 バルト三国の旅は、三泊四日のリーガ滞在とブリギッタ先生の印象が何よりも強烈だった。時々先生の「運命でした」という一言、明るさ、まっすぐさ、一心に日本語を学習する子どもたちのことを思い出した。
 そうして一年が過ぎた。
 ふっと思いついてインターネットで、ブリギッタ先生の名前と先生の運命の人であるYさんの名前を入れて検索をかけてみた。
 そうしたら、Yさんのホームページが上がってきたではないか!
 さっそくメールをしてお会いした。 
「会ったのは一九六九年、ソビエト時代です。ユルマラ(リーガ郊外の保養地)で声をかけられたんです。私の持っていたカメラがめずらしかったんですよ。そのときに名前を漢字で書いたらブリギッタは見事に書き写した、びっくりしました、彼女は、絵を描くのでそれが出来たんですね」
 その後モスクワに仕事で行ったときに再会し、日本語の本を送ったりして交流が深まったのだという。
 ブリギッタ先生は、一九九八年に短期だが日本語学習のために来日してYさんの家にホームステイしている。
「鰻丼が好きでね、よくごちそうしましたよ」 私も、ブリギッタ先生にリーガの市場を案内してもらったとき「日本の鰻もおいしいけど、ラトヴィアのもおいしい」と、一緒に立ち食いした。なつかしい。
「ブリギッタが日本語塾を始めたのは、生き残り戦略だと思います、ソビエトが崩壊して彼女の運命も変わりました」
 またしても「運命」・・・。でもブリギッタ先生は、顔を上げて堂々と彼女の「運命」を生き抜くだろう。
 いつかまた、先生に会いに行きたい。

           完

参考文献
 地球の歩き方 バルトの国々 
二〇〇一〜二〇〇二版



2004年01月30日(金) なまの兼高かおるさま 斎藤茂太さま・・・ 

日本旅行作家協会と阪神電鉄が主催する「ハービス旅大賞」の、旅エッセイで佳作をもらって、浅草のホテルで表彰式があった。
旅行作家協会の総会と一緒とかで100人ほどの会だった。
佳作なんていうのは、グランプリその他の作品を引き立てるためにある賞だし、まあ賞状もらうのみ、楽しみだったのは、「有名人」が見れる!に期待大だった。
何しろ、会長は、あの斎藤茂太先生である。
副会長は下重八重子さんとか、兼高かおるさんだし。
伝説の旅人、兼高さんに会えるというだけでうっほほ。
で、あえましたわ。
ショッキングピンクのドレスを華やかにきこなして、見事に美しいおみ足で、赤ワインが入ったグラスがお似合いで・・・
優秀賞に選ばれた方のデジカメで一緒に写真を取っていただいたので、おくって下さるらしい。楽しみ。
斎藤茂太先生も、足元はややおぼつかなかったが、すごくいい笑顔で、「みなさん私はモウタではありませんよ、シゲタです、」なんてやりながら楽しかった。
下重さんは、200人あまりの応募作から優秀賞、佳作2点を最終的に選んで下すった責任者だが、体調がわるそうで、宴会が始まって少しお話をして帰って行かれた。
小柄で、品がいい感じで、キュートだが、ほんとお顔の色が悪かった。
風邪かな。
感激したのは、これまた伝説の西丸震哉氏が登場なさったことである。
新婚旅行に奥さんと共に首切り族の村に行った話は有名だが、「大台に乗りました、来年生きているかどうか、」なんていいながら「2,3年後には歩かなくていい冒険をやりたいね」なんて、頬を紅潮しながらいわれる姿、これよし。
けっこうな80才でしたわ。

こういう人たちに会えて、バイキングのお食事もワインも美味しかったし、よい宵でありました。

ちなみに大賞は、フォト部門の方。
エッセイ部門の優秀賞は、大阪の方で花嫁衣装をタイにつくりにいった話。すごくおもしろかった。
佳作もう1本は、転勤族だった主婦の方が、滞在した京都のことを書いたもの。これまたいい視点である。
私のは「ラトビアのブリギッタ先生」
昨年秋に新聞のコラムにラトビアの日本語塾のこと、ブリギッタ先生のことの2本を書いた。
で、あの時の思い出がむくむくと湧いてきて、なんだか無性にもっと書きたくなって。エイヤーもうちっと書いたれ、と、コラムを再構成。
実際、新聞コラムっていうのは、800字程度で、思いが十分に書けなくて欲求不満になるのだ。
のってくると、字数切れになる。
で、なんか応募するとこないかな、とネット検索したら、上記の賞が上がってきたので半日ほどかけて規定枚数に合わせた字数増して応募した。
かなりお手軽で、知らせをもらうまでわすれていたシロモノ。
でもま、これでまたブリギッタ先生やラトビアの宣伝が少しできた。
それが嬉しい。
印刷された冊子をいただいてきたので、ラトビアのブリギッタ先生と、ブリギッタ先生の運命の人Yさんにお送りしようと思う。
喜んでもらえると思う。

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12月31日分アップの予定



2004年01月29日(木) 1996年のナショナルジオグラッフィク

夏の頃に、渋谷の古本屋で、古いナショナルジオグラフィックを大量に見つけたので買っておいた。
2000念とか98年とか96年とか・・100円だった。
お蔵入りしていた古本で、ある。

こういうのを見ると、また旅に行きたくなると、封印をしておいたのだが、そういえば・・・確か、そのうちの1冊がエリトリア特集ではなかったか、ということでほどいてみた。
そうであった。
ああ、行く前に読んでおきゃよかった、すっかりわすれていて、ふっと思い出す悪い癖だ。まあ、思いださんよりいいが・・・

96年のエリトリアの写真が沢山あった。
ケレンや、メンデフェラへの道などに今でも沢山の戦車や軍用トラックがあったが(96年当時は、それ以上、ごろごろしているという感じで戦争の残骸があったのだ、ということがわかった。)
そして、96年当時は、みんな希望にあふれていたことも・・・
内政がうまくいかない不満を外にむけようと98年から戦争をはじめたという評価があるが、96年の頃の様子を読むとそれもあながちはずれているわけじゃないなと思った。

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少し、心持ちの切り替えができてきはじめました。
きょうは、がんばって、12月29日と30日の日記をアップ。



2004年01月28日(水) 無為だよな

きょうは、はやく起きたら、坂東観音歩きをしようかと思っていたのだが、ダメであった。
どうも、力が湧かぬ。
帰ってきてはや10日というのに、こまったよ。
古新聞(12月分)を読みちらしていたら、夕方が来た。
旧事だが、フセイン大統領の逮捕、「麻原」と似ているよね。
逃げ方、逃げ込んでいた場所、あわれっぽさ・・・いよいよとなると、人は穴の中に逃げる本能があるのだろうか。

12月28日の日記「メイド イン エリトリアズ ムービー」をアップした。



2004年01月27日(火) 1月11日日記を書く

穏やかなお日和だ。
こういう日はせめて7時に起きて、気持ちよくお散歩でもしたいのに10時にしか身体が動かない。
いやはや、困ったわ。

友人の同人誌に頼まれて寄稿する原稿を書いた。
その一部を、1月11日の日記にアップした。
読んで下さい。

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2月にお遍路に行くことを考えると、のんびりと日記をアップしているとおわんないうちに歩きにでてしまうと気がついた。
で、1/7日も新聞社に送った記事で埋めた。
ケレンのクリスマス
お読み下さい。

今日思ったことは、まだ私の身体には「アフリカ」(エリトリアの景色、人、香り、音等々)がつまっていて動けないのだという感覚。
ボヤン・・としたまま1週間が過ぎた、って感じ。




2004年01月26日(月) 手紙を読んで・・・・

昨日、友人宅にあずかってもらっていたお手紙類、もう一度見て、返事を書いたり、何ダリとして、フィルムとかを整理して出しに行っていたら、それで夕方近く。日が沈む頃、猛烈に眠くなってうとうとしていたら夜がきた。
しかし、電話でおこされて長電話。
で、目が覚めた。
どうも、眠りのリズムがイマイチだわ。
数年前まではこうじゃなかったはずなんだけど、これも年でしょうか。

これから12月27日の日記アップをしよう。

 



2004年01月25日(日) やれやれ、やっと人の住めるうち

今日こそ、と思って、朝から(といっても、10時過ぎだが)お掃除開始。
何とか3時前に終えて、お引っ越しをしたsakurankoさんのところに郵便物を取りに行った。
お友だち3人が見えていて歓談。
この日記を読んで下さっていて、ありがたかった。
みなさん、どうも楽しい時間をありがとうございました。

溜まっていた郵便物を読むと、年賀状の今年の顕著な特徴は「NO WAR」の声だ。
自衛隊派遣の怒り、疑問、嘆き・・・・よくわかる。
よくわかっても、祈るしかないのは、無力だ・・・やっぱり。

帰ってきて、あっという間に1週間が過ぎた。
そろそろ、ビチボチで。
とりあえずは、太らないように。
でないと、2月のお遍路がきつい。

昨夜は、眠れぬままに12月25日のエリトリア日記をアップ。
今日は12月26日、するかな・・・・



2004年01月24日(土) 身体から力がわかんねえ・・・

昨夜も11時ころに寝て夜中の3時に目が覚めて(ヨーロッパタイムだと夕方・・要するにヨーロッパでお昼寝して、目が覚めたというところか)明るくなるまで眠れず。
で、起きだしたのは10時過ぎ。
掃除洗濯、たーくさんあるのに、起きだしても、どうもやる気がしないで、汚い部屋でごろごろ、イライラするが、このイライラが極限に来ないと、どうも力が出ないという感じか。

やる気が湧いたら、エリトリア日記の25日アップしたいけど、湧かない感じ、今現在は21時である。
これも、疲労の一種かな。
困ったね。




2004年01月23日(金) 大伯母の命日

ほんとうは、24日まで新潟にいるつもりだったが、大伯母の月命日なので帰って川崎に行った。
先月(要するに去年だが)、7回忌なので来てねといわれていたのだが、旅でいけなかった。
もう7年か・・・とおもう。あの大伯母が亡くなった年、私は事故に遭ったのだった。
家に午後について川崎に電話すると、ママは、お墓参りと女学校時代の友人がホスピスに入っているので見舞いに行くということでいなかった。
手を合わせられたらいいので、ということでパパはいるというので行く。
その後、歩いて20分の川崎大師にお参りして、駅ビルのバーゲンにひっかかって帰った。

非常に疲れた、というか、妙な時間に眠くなって、深夜に目が覚めるのが一番困る。
また時差系の障害だとは思うが・・・



2004年01月22日(木) 寒波

寒い。
昨日まではホントに雪が降るのか、という感じの気温だったが今日はマジに寒い。
タクシーとバスを乗り継いで父の病院に行ってきた。
転院になった先は信濃川の向こう、いわゆる川西地域といわれるところで遠い。
しかし、行ってみたら、数年前に出来たリハビリと老人介護専門系の施設で広々としていてきれいだ。
高台にある地形をうまく利用して、開放的な病院となっている。
初代の院長は、絵を描くロマンな方で知られているが、そんな人の、地域医療に理想が仄見えるような施設だった。
で、父の具合といえば車椅子で、ご飯も介助が必要な常態で、機嫌も悪く、こまった。食事後、入れ歯磨きをしようと、口に手を入れて、入れ歯をとったのだが、痛いから入れるのはいやだと、口をあけくれない。つめを切ろうとすると、そんなことはしないでいいと怒る。
いやはや、かわいい爺さんになってくれよだった。
で、車椅子で広い院内をつれて歩いて、返答なしを承知で「ホラ、今日は風が強いから地吹雪だよ」「今日は1月22日なんだよ」「ホラ、東山がきれいに見えるね、あの辺りがうちだ」とか話しかけていたら、じょじょに気分回復で。帰るときにはボチボチになっていて、まあ良かった。
また2がつにくるからね、と行ったら、おうおうとうなずいていてヤレヤレ。

寒いわ、どうやら今晩辺りから新潟らしい雪が降りそうである。

12月24日のエリトリア日記のアップでもするかな。



2004年01月21日(水) 新潟は雨

夕方の新幹線で帰郷。しかし、県境の越後湯沢にはなにやらすこしばかりの雪がありだが、あとはさっぱり。
雨模様だ。
明日からふると家族は言うのだが・・・・どうなることやら。
雪になるにしては、暖かすぎる気がする。
近所のスキー場も困っている様子。
福岡や四国で積もるというのに、どうして、だ。

父は、別の病院に転院。
まるっきる動けないらしい。
どうして急速にこうなったのか?
母が言うには、新薬が良くなかったと思うということだが。。。。
義妹は、17日に退院したが、いまだに手に力が入らないと嘆く。
でもまあ、手術をしてまだ1ヶ月だからネエ。
でも、思ったより元気そうで良かった。
ほっとした。
明日は父の病院に行ってみようと思う。

これから、エリトリア日記(2003・12・23日)をアップするかな。



2004年01月20日(火) 荷物が届く

夕方に荷物がやっとドイツから届いた。
「君だけ、43日間旅をしたね」
とちょこっと、けっぽってやった。
2000年にシベリア鉄道からはじめた世界一回りの旅、以来ずっと一緒だった、ズリズリ引きずり型の55リットルザックくん。
あちこちすり切れたり、ジッパーのひもが取れたり、けっこうハクが付いてきたよな。
しばらく、キミを使うこともないよ・・・といいきかせる。

美容院に行って、お寿司を買ってきて(昨日はヨーカ堂、今日は東急のちょこっと豪華なヤツ)食べたら、急速に眠くなって、日付けが変わる今さっきまで爆睡。
家の中がぐちゃぐちゃ、荷物もぐちゃぐちゃで片づけたいと思っていたのだが、ナニもせず。
今日はよく寝た。
朝は九時起き、昼過ぎにこれまた急速に眠くなって(ヨーロッパの朝方)爆睡。
14時間以上眠った??

松山の友人から届いたミカンが異様に美味しい。
身体の色が変わりそうなほど食べてしまっている私だ。
伊方の美味しいミカンジュースも頂いた。四国の味だなあ・・・
2月10日過ぎから、3巡目の結願を目指して体調を整えなければいけないのに、食い過ぎ禁物なのだが。

あと数分で明日になりそうだが、少しゴキブリのようにごそごそと片づけでもするかな。



2004年01月19日(月) 荷物、フランクフルト

成田について、バゲージを取りに行ったら、何と私の名前を書いたプレートがベルトにのっている・・いやな予感がしてANAの職員にいったら「すみません、お荷物がフランクフルトにまだあるんです」
ええ!!そりゃないだろ?
だって、フランクじゃ、1時間半は乗り換えの時間があったんだよ。
寝不足もあって、私はご立腹であった。
まあ、しかし、怒っても荷物が出て来るってモンじゃないので紙を書いて(内容物を細かく訊かれる、ったく!!)帰ってきたが。
明日の便で来るとか。
アムスからの便で、やっぱり、マヨルカからの荷物がどっかに行った、大阪のおじさん二人組にあったが、あんな話を聞かされたんでロストバゲージがうつった?のか。
それとも、まだヨーロッパにいたい私の潜在意識の反映か?
とにかく、これだけたくさん飛行機に乗っているが、ロストバゲージは初めてだ。
最後に貴重な体験をさせていただきました・・・ったく。
明日は田舎に帰ろうと思っていたのだが、荷物を待って帰るかな・・・・状態だ。
家に帰ったら、ペリカンさんからも電話で明日にもつが届くというし

1時に家について、4時過ぎまで眠った。
で、背負ってきたものなどを整理してこれから買い物。お寿司を買いに走るつもり。
家の中が寒い。
ストーブをつけているんだけど、あんまり暖かくない。
ホットカーペットも出すか、だわ。

42日ぶりで、やることはたくさんあるんだけど、ナニから手をつけるか未定状態だ。



2004年01月18日(日) アムス最後の朝

アムス時間,朝8時35分。
あと20分ほどで,出る.
しばらくというか,次はいつかわかんないというか,当分というか,とにかく来ない,と言うかこれない。
今回は,片道切符で帰るのだから.
昨夜,アムス日本語教会のサトコさんが来て、片道切符だよといったら「ホントにもう来ないんだね」「ハイ,そうでございます」
この日記は日本に帰っても読むからね,といってくれた。
ありがとう。

この家の家族、ミエコ,テクラブ,ナオミチャン、ヨエル,メルキ,モリア…
色々お世話になりました.
ありがとうございました.
子ども達は素直で,みんないい子達でした.
ナオミチャン,エリトリアでは色々ありがとう,お陰で,最後のいい旅になりました.感謝してます。
2000年から始まった私の旅,たくさんのいい思い出ができたのは,この家の家族のおかげだと思っている、
ホントにありがとうさん,ミエコさん。

子どもたち,次に会えるときには,どのくらい大きくなっているかな…



2004年01月17日(土) ライデンへ

明日の朝の飛行機なので、今日がアムステルダムの最後だ。
で、前から訪ねたかったライデンの国立民俗学博物館へ行くことにした.
ここには、シーボルトコレクションがあるのだ。

アムスから,電車で30分あまり,ライデンはかわいいきれいな大学町だ.
幕末,シーボルトが持って帰ったものは莫大らしいがスペースなくて残念,と言う感じの展示だった。
シーボルトハウスも展示があるのだが,工事で閉館中だった.
びっくりしたのは,入ってすぐの展示がアイヌのものだったことだ.
衣,靴,手工芸品
シーボルトさん,そこまで手を出していたのね、という感想を持った。
その他に,仏像,茶道のセット,屏風,盃,だるまさん、菓子器まで多種多様。
おもしろかった.
ブックショップで,英語の本だが,幕末,明治初めの写真を見つけて興味深かったので、買ってきた。

で,もう何時アムスに来れるかわかんないので、セントラルステーションからブラブラとムントプレーンまで歩いて,夕暮れのなか、名残を惜しんだ.

明日の朝の便に乗る予定.
ルフトで,フランクフルト乗り換えで19日着となる。
一二月から42日間がすぐに過ぎた.



2004年01月16日(金) 暗いオランダ

エリトリアの首都アスマラでは,朝,七時におきて,外に出るといつもさわやかな青空が広がっていた。
それなのにそれなのに、アムステルダムでは8時すぎまでまっくら。
気分も暗いわ・・・・・・

それより、アスマラは日中は26,7度まであがるのに,アムスは寒いのだ。
あったかいところから、寒いところに帰るのはきついモンがあるなあ。
(ここで、ミエコからアイスランドから帰ってきたときは,アムスは日が早く出ていいなあ,といってたでしょうが、といわれた…はい、そのとおり)

夕方、中国屋までとうふをかいにいって,麻婆豆腐、車麩の煮物した.
一緒に帰ってきたアスカデットがドイツに行くので「中国と日本の料理でいいか」といったらいいというので、そうしたわけ。
やっぱり 日本系のご飯はいいわ……でした。





2004年01月15日(木) エリトリアから帰国

朝七時,オランダアムステルダム着。
深夜に出て七時間のナイトフライトだったが,「最後の晩餐」をエリトリアの別世界のインターコンチ(ホテル)で食べて、南アフリカワインを飲んだので3時間はぐっすり眠れた。
同行のふたり、ナオミチャンとアスカデットはあんまり寝ていないようだが。

空から見るオランダはやはり冬真っ最中。
ああ,アフリカから帰ってきたね、だった。
ミエコが迎えに出ていてくれた.

バルバラという,エリトリア人にはかかせない調味料(唐辛子や他のスパイスの塊みたいな)を、お土産に持って帰ったのでテクラブの妹弟のサバとマラスが昼から取りにきた.
「エリトリアはどうだったか」
もちろんこの質問は,テクラブからもされた.
簡単には答えられない.
しかし,楽しんできたよ。。である。

夜,夕食後に、さらにミエコやテクラブの今のエリトリアの問題や,将来のことなどなどを話し合った.
国連の平和維持軍によって何とか戦争をやり過ごしている国で過ごした3週間という時間、ただ、「楽しかった」ではすまないいろいろなものを見たし,知ったし,考えたし……
ぼちぼちと日記にアップしていこうと思っている.

一緒に過ごした(というか,アスマラというエリトリアの首都でホームステイした感じ)テクラブの兄アスカダム、彼の娘ビレンとアスカデッド、アムスから一緒に行ったナオミチャン、みんによくしてもらった、あちらであった彼らの親戚の方々にも歓迎してもらった…感謝,低頭。合掌。
いい最後の旅でした.

18日の便で帰る。



2004年01月14日(水) ★帰る日

深夜発のフライトである。
朝早く起きたが、今日は寒い。
昨夜遅くに来た親戚の女の子が8時半には出るというので、お茶の用意とかをしていたら、アスカダムが起きてきて、洗面器に突っ込んであった、肌着類をさして誰のか、という。
「私のではないし、ナオミちゃんはシャワーごとに洗濯しているし、アスカデッドかビレンでしょう」
 アスカダム、なんと、その洗面器に手を入れて下着を洗い始めた。
「彼女たちは、もう少女じゃない、あなたがすべきではない、自分でするべきだ」
「しかし、きょうは、アスカデッドは帰る日だ」
「あなたは甘いパパね」
そういっても、彼はつけおき下着をさっと洗ってかけていたモンね。
私はあきれかえった、おこしてしなさいといえばいいものを・・・
(私たちの話が聞こえていたのだろう、その後すぐにアスカデッドがあわてて起きてきて、私の顔を見ながら、もう一度洗濯をし直していたが)
私とナオミちゃんのベッドのまわりに散らばっているものも、お嬢さん方のものが大半。
アスカダムが私のはどれか、と聞くので、私は自分のそばのベッドサイドと常に旅行カバンの中だ、私は20分あれば、出る支度ができると応えたら、そうか・・・
お嬢さん3人、越後の言葉でいえば「ショータレ」(かたずけができない、とっ散らかっている)。
しかしアスカダムはいわない、決して叱ったりしない。
彼は、ホントに優しい父親で。
今度の旅での彼らの関係は私にいわせると3人のプリンセスと彼女たちの忠実なる執事ってところかな。
(この話をオランダに帰って三枝子にしたら、アスカダムの母親がノルウエーを訪ねたときにアスカダムの動きを見て「アスカダムは妻と子どもの召使いのようだ」と評したという話をしてくれた。私の「執事」もそう的はずれではないのだな、要するに日本の父親からは考えられないマメぶり、動きぶりなのだよね、日本のオヤジに見せてやりたいくらい。うちの田舎の弟もよく動くお人だが、アスカダムには負けているね)
私?
私はプロフェッサーアスカダムのかしこい?生徒である。
ついでにいうと、一番身体が動いて気がつくのは、アスカデッドである。
ナオミちゃんはマイウエイ。
ビレンは口先は達者。
ビレンで気になったのは、食べものの食べ方が汚い、食べられないほどの量をとって残したりする、ということ。これは、やはりこれは親のしつけの領域だろうと思った次第。
3人ともいい子、ということを前提にしての話だが。

もう一つ、彼らがショウタレなのは、時間。
時計をうつけていないせいだろう、少しずつ、約束の時間を過ぎる。
とくにビレン、彼女は人をつねに待たせる子だ。
本日は、アスカダムが11時半に出るからといっているのに、帰ってこなかった。
アスカダムは探しにいったが・・・で、すべての予定が狂った。
だから、夕方に来たガブリエススさんも待つことになった・・
「彼らは、3人とも時計を持っていない、若い子たちは時間にルーズになることが多いけど、約束を守らないのはよくない」
さすがにアスカダム「そう思う」と、これには、イライラしながら賛成した。
彼らが帰ってきたのは1時近く。
私がなんで、誰かが一人帰ってきて遅くなるとか言えないの?といったらナオミちゃん「3人で写真撮りにいってこい、といったノアスカダムなんだよ、で、ビレンが遅くに来て時間がすごくかかった」とぷんぷんする。
私は写真屋に行くとは聞いていたけど、フィルムでも取りに行くのか、と思っていたんだが、写真を撮りにいってていたのか・・フーン・・大時代的だなあ。
しかし、それだったら、もっと早い時にできただろうに・・・なんで今日なんだろうね・・・
で、ワタシ的に考えると、すごく時間がかかって、約束守れないようだったら、キャンセルとかの知恵もあろうものを・・・。3人とも応用が利かないというか、時間の感覚がアフリカ的というか。これって、若い?なんだろうか。
ふつう、どれくらい時間がかかるか、自分の予定をいってそれに間に合わないのだったら、キャンセルとかっていわんか・・これって日本人的発想なのかな。

今朝は、親戚の子が出るというのに、ナオミちゃんが1番にシャワーを使ってアスカダムがイライラして「ナオミは、彼女が行くことを知っているのに・・(それなのに、どうして一番にシャワー室を親戚の子に使わせないかという意味を含む)」みたいなことを私にいうし・・そんなの知らない、ナオミちゃんは、ただ一番シャワーだったら熱いお湯が沢山使えるとしか考えていなかったと思うし、多分。

さすがに3週間が過ぎると、いろいろと出てくる。

私は、きょうは親戚にいかない、とお断りして、町の中を一人でほっつき歩いた。
もう多分2度と来ない町だモン。
で、ワールドプレスインフォ・・という報道写真展を見た。

まあ、気持ちをさらにいえば最後の日の訪問にまで私がくっつていくのは如何なものか?親戚同士だけで、楽しくしみじみとした方がよいだろうという、日本人的発想で遠慮もしてみた。じきに日本に帰るのだし、感覚を戻さないと。

いつも一人の時に行っていたレストランでなじみになった女の子に「今日帰る」と挨拶してきた。
「エリトリアはどうだった」というお決まりの質問をにこやかにされた。
「たのしかったよ、みんな親切だった」

そうそう、市場でツーリストインフォのおネエさんにもあった。
やはりエリトリアはどうだったか、結婚式はどうだったか、と質問された。
結婚式はセレモニーだけだったといったら、それはまたどうして、というので、新郎の親や親戚がアジスだといったら、顔をくもらせた・・・・早く平和が来ればいい。

いったんうちに帰って、よく通してもらったお隣のおネエさんとおわかれの挨拶。
鍵ナシでうちに帰るとき、隣りのうちの中を通してもらって裏庭経由でよく帰宅したのだ。
うちの中を抜けるときに必ず、コーヒーはどう、お茶は?といわわれた。
時々ごちそうになって、カタコト英語でおしゃべりした。
6時過ぎにみんなが最後の親戚訪問に行くのを、9時にインターコンチのレストランでと約束して送り出して私は一人で最後のエリトリアテレビ視聴。
そうしたら、ガブリエススさんが奥さんと子どもを連れて、お別れにきた。
アスカダムと6時から8時の間で約束しているとか。
しかし、でていたんだよね・・・で、7時50分までまつが、帰らず。
ガブリエススさんがインターコンチまで送ってくれて、9時にみんなインターコンチに来る、飛行場は11時という話をしてお別れする。
彼には何かとお世話になった。
お土産にするバルバレの質のいいのを手配してくれたのは彼だ。

私は一人で、最後の晩餐。
ここはUNの御用達なので、別に一人で食事をしていても不審はないところ。
(ホントは、みんなでするはずだったんだけど、やはり親戚、親戚、インジャラ、インジャラで、みなさんは大変なことである)

9時過ぎ、みんな来る・・・ガブリエススさんのとこへは寄ってお別れをしてきたらしい、よかった。
11時に飛行場へ。
滞在のすべてが終わった。



2004年01月13日(火) ★きょうはひさしぶりに家庭訪問

昨夜は、グゼイが、今夜帰る、と挨拶に来た。
「写真をおくれ、アルバムで」としっかとリクエストされた。
で、「いつか日本に行きたい」(メイビーがついていたし、確定ではない、彼の夢かな)
いいよ。ガイドするよ。

で、きょうは朝から、エリトリアンエララインで、リコンファームだ。
だってわたしたちも明日深夜(15日になる)に帰るからね。
3週間以上、少し長すぎの気もする。2週間でよかったな、という気もするが。
その後、お土産などを買いに、それぞれ別行動。
で、昼は、アスカダムのイトコのおうちをご訪問。
例のごとく、コークとインジャラ。
コーヒーセレモニー、コーヒーは1杯だけで失礼した。3杯まで飲むのが礼儀だとナオミちゃんから習ったのだが、胃が持ちません。濃すぎだ。
12時から3時くらいまでいたが、大人たちは政治ムキの話。
「モノはどんどん高くなるし、若者は戦争にとられるし、この国には未来はない」といったこと。「外国に行ってもなじめない人は帰ってくる、なれない気候と寒さで子供を失って帰った来た人もいる」
 すべて、いつもご親切なアスカデッドの通訳だ。
こういう時肝心のナオミちゃんは自分がテグリニアをしゃべることに夢中で、あんまりお役に立たない。もちろん、聞けば教えてくれるし、通訳してと言うと私のいうこともどんどん訳してくれるが。しかし、話に夢中の彼女にそれを頼むのは話の腰を折るようで悪いので黙っていると、アスカデッドやビレンが気がついて話してくれることが多い。ありがとうであった。
ビレンとナオミちゃんは、髪の毛を細かな三つ編みにしてもらってご満悦。
私にもしろ、といわれたが、私は直毛出しダメだろう。
それと、編むときがグッと引っぱっていたそうなのでイヤだし。

彼らは、もう1軒行くというが、私は失礼した。
もう、さっきのインジャラがお腹で再発酵している。
で、夜は、フルーツジュースのみだった。
アスマラのマンゴージュース、ミックスジュース、オレンジジュース、しぼり立て、ホントにおいしい。
アイスは、高知のアイスクリンみたいでさっぱりしていてうまいし。
これともじきにお別れだね。

夜、ガブリエススさんがアデガイヤはどうだったか、と聞きに来た。
セナフェにあった難民キャンプのこと、ホテルが閉じていたこと、水がでなかったこと、帰りは膝に坐って帰ってきたことなどを、アスカダムのサポート付きで話した。



2004年01月12日(月) ★コハイトー遊覧

昨夜はアデ・ガイヤ泊
ボーダー近くでは大きな町の一つだ。
ボーダーが開いていたときは、エチオピアからのモノの中継地として栄えていたらしい。(アスカダムや、ガブリエススさんの話)
しかし、今や、単に田舎の埃っぽい町だ。
町の中心には、モスクがでんとそびえていて、教会の影は薄い。
アラビック系の町であるようだった。

お客が来ないので、町で一番いいホテルの、アデガイホテルはなんと閉鎖していた。で、ウロウロしていたら、私の後ろについてまわっていた子どもたちが、こっちこっちという感じで導いてくれたのがサミホテル。
ロンプラによれば、静かでクリーンとかいてあるが、とんでもない。夜中近くまで大音響で音楽が流れて踊る人たち。
で、クリーン??とんでもない。
トイレは、ゴミだらけですさまじく、水がとまっているし。部屋にはさすがにゴミは散らばっていないが、タンスなどはボロボロ、何より、ベットカバーらしき布の上に、ちっこいゴキブリの死体がいくつも見える。シーツは、洗濯してないよな、って感じだし。
仕方ないので、町の洋服屋から、女性の人がアタマにかぶる白い布を買ってきて敷いて寝た。帰ってきて、この布がいくらだったか、アスカダムに聞かれたので130ナクファだった。高いと思ったが、デスカウントはしてくれなかった、しかし、私はシーツが必要でチョイスの余地がなかった、といったら、確かに高いよ、でも、仕方ないねと笑われた。
おまけにベットは、マットレスではなくて、裏は金網系のスプリングになっていて、朝方はしんしんと冷えた。
アデガイヤは、2400M以上の高地にある町、エリトリア一番、アスマラより高い。さすがに寒いよね。それに、走ると、息が切れます。
そんなこんなで、このサミホテルに2泊する気は毛頭なくて、とにかくコハイトーを見たら、さっさとアスマラにかえろ、と決めた。
いやはや、こんなに汚いホテルに泊まるの、久しぶりであった。
97年に中国三峡を人民船に乗ってうろついていたときに、奉節(フォンジエ)についたときが時間が遅くてホテルがなくて、窓ガラスが割れているわ、ベッドはボロボロだ、薄暗い裸電球が1個、共同シャワーはこれまたゴミだらけというすごいとこに泊まったけど、サミホテルほどすごいのはあれ以来である。

で、そのサミホテルもお客がいなくて、客室は家族の部屋になっていた。
どうやら、爆撃で壊されたらしい、一部の部屋は工事中だったし。
ゆいいつの客たちは、ミニタリー。
で、昨日はその部屋のミニタリーに「ご招待」されてお話しした。
まあ、めったに来ない観光客が来た、それも日本人の女が一人で来た、というので宿の人がミニタリーにご注進に及んだらしい。
断ってあとがめんどうになるのも困るし、しばらく伺ってお話をしたが、一番印象に残っておるのは「国のために自分を犠牲にできるか」の質問。
「No!」
私はしっかりと応えた。
アントニオ猪木のような顔をした、一番えらい軍人さん(部屋には3人いた)「なぜだ、どうしてだ、自分はできる、国のために死ねる」としつこい。
ほとんど、自己陶酔的に「国への自己犠牲」を語る、お前だけ勝手に死んでソルジャーツリーになれ!とはいわなかったが・・がね。
議論できるほど、エイゴできないし、向こうの英語もけっこうあやしいし。
「私は私が一番大事、私の命は私のものだ、国にやる気はない」
とこれまた、ビールで彼の酔っぱらった目をまっすぐに見て応えたら、彼、むううう・・と考え込んでいた。
彼らは、前線で働いている、つかぬ間の休息をこのホテルでビールを飲んだりおどたったりする事で過ごしているようだ。
アントニオ猪木ソルジャーはおネエさんがスエーデンにいるらしい。
で、自分はまだ結婚していない、早くしたい・・と訴えていた。わたしに訴えられてもね・・シランよ。
前線でいつ死ぬかも知れない男の嫁は難しいだろうよなあ。
しかしまあ、休暇をこんなとこでリラックスしていないで、アスマラにいって、大通りを歩きなさい、それで、可愛い女性に、たくさん声をかけなさい、といったら、大笑いされた。
30分ほどおつき合いして、まだ町の中を見ていないし、夕食もしたいので・・と失礼したが、話の中でこまったぞ、と思ったのは、「コハイトーはパーミットがないと通れない」ということ。
彼は、宿の女将を呼んで「明日、彼女のためにコハイトーにいけるようにしろ」とかなんとかいってくれたが、さて困った。
ただ、足(タクシー)は彼女が、探すよと確約してくれた。

町中で、なんとかパスタを出すレストランを見つけて入ったが、まあそのまずいこと!!
どうしたら、こんなにまずく作れるんだ、というくらいにただ辛いだけのミートソーズスパゲッティだった。
アスマラでの美食になれた口には、ゲゲゲ!
数十キロ先のエチオピアでは、いまだに1日に何人も餓死者が出ているとアスカダムにきかされているし、のこさず食べようと、がんばったが、イヤにつらかった。

そんなことで、セナフェからアデガイヤについて、昨日は日が暮れたのであった。

危険度??
それは、全くない。
町中の人が私が歩いているとじっと見ているが、危険な目つきではないし、こどももついてきて、袖をひいたりするが、それも好奇心で。
昔、トルコで日本人は悪意なく話しかけても無視する、それが悲しいと聞かされたことがあるので、以来、たとえ悪意(だまそう)がほの見えても、「ノウ」「いらない」「ハロー」等々で応える方針にしているので(無視は人としてよくないと思うので )そでひく子たちにも、じっと見る人にも「サラーム」とご挨拶はしていたが。
こういうのも疲れますで。

で今朝。
勇気を持ってトイレにいったが、相変わらずきたないので、長く滞在したくない。便秘。
仕方ないねえ・・・水も、ちょろちょろだし、ぬれテッシュで顔を拭いて、ミネラルウオーターで歯を磨いた。
これも、大昔、中国奥地のチベットの村以来だ。
昨日は、8時には、コハイトーに出たいと話していたので、朝飯!だが、ホテルの人たちはみんなまだ寝ている。ここの女将だけは、外へなにやら出ていったが。
昨夜、私にコハイトーの状況を英語で話してくれた子は、自分がついていってもいいよとまでいっていたのにもちろん姿見えず。(だいたい、この手のお調子のいい言葉は、体験上、アテにできないので眉唾で聞いていたのだが、やっぱりねえ)

しかし、タクシーを手配するという女将さんは帰ってこないし、ご飯は食べられそうにないし・・・
で、中庭をウロウロしていたら、女将さんが帰ってきて「ミニバスで行け」という。
朝早く彼女がでていったのは、どうやら私のタクシー探しだったらしい。
約束を守るためだったらしい。
ありがとう。
しかしだね・・ミニバスって・・・「タクシーの約束だろう」
「タクシーは見つからなかった、ミニバスだと400ナクファ、タクシーより200ナクファ、安い」
「ミニバスは他の人を乗せる、私は、午前にコハイトーをみて、昼のバスでアスマラに帰る、時間がない、人を乗せるのは困る」
「人は乗せない、あなただけ、それは約束だ」
・・・・・同じ約束をして、中国の北京郊外、司馬台長城でやすやすと破られたことあるしなあ・・・・
しかし、ミニバスしかない、といわれれば、それもまた仕方ない。
女将のいうままにバスに行く。なかなかしっかりした車だ。
もしかしたら、ダートを走るのだし、タクシーよりよいかも。
で、ドライバーに「私の占有だ、その約束を守ってくれないと、料金を全額、払うのは止める」と半分の200ナクファだけ渡した。
彼「了解した」
正直、というか真面目そうな雰囲気で、信用してもよさそうなので決定。朝ご飯がまだなんだ、といったら、彼、戻ってもいいよ、といってくれたが、近くの店で、水とバナナ、ビスケットをかってすませる事にした。
彼も走り出すと「コハイトーのパーミット、アスマラでとってきただろう」という。
しかし、昨日ミニタリーがパスポートでもいけるだろう・・といっていた話をすると首を傾げながらも走り出した。
で、気安く、コハイトーの入り口へ
砂漠のっぱらのまん中に検問所・・・通してくれませんでしたわ・・・
こういとき、例えば、インドとかトルコだと確実に「袖の下」を請求されて通してもらえる確率が高いのだが、しかしここはそれも通じず。
(ダメだったら、それで行こうと、実は私、思っていました)
結局、ミニタリーオフィスに戻ることになった・・・
メンドかったが、それでも実は嬉しかった・・・
というのも、あんなのっぱらの検問所、誰も見ていない。
私から「袖の下」をとって通してもあんまり問題が起こりそうもないのに、大地の色をしたような村人ソルジャーたちががんとして入れてくれなかった、金おくれ、といわなかった・・汚されていないな、清廉だなと思ったのだ。
それが、嬉しかったのだ。
で、町中のミニタリーへ戻っても、そしてコハイトーにいけなくても、その気概にふれたでいいかなと。
この、清廉さもまたエリトリア人の美徳だろうと私は思うのだ。
彼らが好きなだけに、彼らの善さに触れただけでやっぱり嬉しい。

で、ミニタリーオフィス。
えらい人たち(かつて前線で闘った人たちだろう、ツーリズムオフィスの人は足を引きずっていた)は、英語がダメ。
ありがたいことに、バスドライバー氏がすべて通訳してくれた。
彼は、14年前まで、アジスアベバにすんでいたといっていたが、さすがに・・都会にいただけのことはあって。
私、ラッキー。
で、「どうしてアスマラでとってこなかった、出せない」の一辺倒。
「今まで必要といわれたことはなかった、知らなかった」
で通した。
「私は日本で、モノを書く仕事をしている、日本人はエリトリアについて何も知らない、南米の国だと思っている人もいる、だから、もしあなたが許可をくれたら、私はコハイトーやエリトリのことを日本人に紹介するだろう、私はエリトリアが好きだ、遠い国からやって来た、ぜひ、この国の誇るヒストリカルサイトのコハイトーをみたい」
とぶった。
ドライバー氏、通訳をしてくれる。
ボス、しばらく考えた。
それで、私に、こい。
奥まった部屋の、どうやら一番偉い人らしい男の前に連れて行かれた。
彼も、英語を解さないので、若い男の秘書つき。
で、前述のことをいうと、秘書さんが通訳した。
やはり偉い人、しばらく考えて、うなずいた。
秘書さん、「我々は、あなたにパーミットを出す」
オオ、やった。
で、足の悪い局長さん、女性秘書にいってパーミットを下さった。
この間約30分。
仕事、遅くないぞ、判断早いぞ。
との感想を持った。
パーミットをとらないできて、返っておもしろ体験ができたのだった。(とは、もらえたから言える脳天気な台詞・・ははっは)

で、コハイトーに戻る。今度は入れてもらえた。
例のごとくダートな、ただだあーーーーと平原続く乾燥大地を走る。
遙か先にモスクが見えていて、あれが、コハイトーだとドライバー氏はいう。
「エリトリアはどうか」
ドライバー氏、お決まりの質問である。
いつものようにみんな親切で好きだよ、安全な国だ、戦争をしていること以外はね。で、私の国と自然が全然違う、私の国の山は緑だ、木に覆われている、といったら、彼、ため息をついて、この国もそうだった。戦争で、みんあ切った、それで砂漠のようになったのさ。

で、コハイトー村で、ガイド氏を頼んで、遺跡を見て回る。
遺跡は村から、車で走ること5から10分のことにある。
5,6世紀頃の王国のあとらしいが、全貌はまったくわからず。調査されていない。パレスのあとらしき柱や石積みがあるが・・・遺跡の90%以上がまだ地下に眠っているのだ。
わざと出さないらしい。
でている柱はエチオピアが壊して倒していったから。
「ほら」
とガイド氏が石を持って地面をどんどんとたたく。
そうすると、中でそれが響いている。
つまり、地下に遺跡があって、それで中空になっていて響いている、ということらしい。
3キロ×15キロくらいの範囲で、これが起きるらしい。
つまり相当に広い範囲に古代の「町」が眠っているということ。
規模的にいったら、クノッソス(ギリシャ、クレタ)いじょうになるだろう。
もちろん、時代的には、クレタとまったく違うが(こっちが新しい、あっちは紀元前だし)もし、発掘されて、整備されたら、世界文化遺産級の遺跡になると思う。
そうすると、このコハイトーにもホテルができたり、アデガイヤのホテルで水がでないなんて事はもちろんないだろうし・・・・広場でたむろっている男たちの多くが仕事を得るかも知れないし・・なあんて私が夢を描いてどうする!
まずは戦争、止めないと、すべて、日本人のオバはんの妄想に終わるぞなもし。
いつか、この国が平和になって、コハイトーの遺跡が掘り出されて観光地になって、今私が踏みしめているところは入れなくなって、「私、あの遺跡が掘り出される前に行ったのよん」なんて話せるときが来るといいな。
遺跡の周囲には、土器のかけらや柱のかけらがたくさん散乱していて、ガイド氏はそれをいくつか拾って説明したあとに私にくれた。
いいのか?遺物だぞ??だったが、せっかくだし頂いておいた。

一枚岩をくりぬいたエジプト人のお墓もあって、エジプト人、ここまで来ていたか・・で。しかし、まあ、コプトのマークがついていたし、キリスト教が入ってからのモノでそう古くない。ADのもの。

あちこち見ているうちに日がどんどん高くなって、アジジ状態。
風はさわやかだが、日差しはやっぱりアフリカだ。

アデガイヤのバス停11時半着。
12時発のバスは来ない・・し、来たら満員で置いてきぼりをくった。
で、ミニバスで、途中の町デカメハレにいって、そこからアスマラ行きの乗り換えて。
と書くと簡単そうだが、デカメハレに行くミニバスがおしくら饅頭。
アスマラまで帰るという、エンジニアの男性が、私に「ぼくの膝に坐りなさい、いいから」という。「ええ・・・」
そんな、マリリンモンローみたいなことはできんと思ったがそうしないと、引きずり下ろされそうなので、彼のでっぷりとした膝に腰をかけさせてもらってなんとかバスの乗客。
で、よくワカランが、私を乗せるために男が一人降りてくれた。(すまぬ、あのお人、どうしたんじゃろ)で、10人定員のバスに19人乗ってでた、やれやれ。
途中、例のごとく何度も検問。
私が、エリトリアの女性がかぶる白い布(シーツにしたヤツを日差しよけにかぶっていた)にかけていたせいだろう、アスマラから来るときにはなんの誰何もなかったのに「どこからきた、ナショナリティは?」と何度かミニタリーに聞かれた。
「アデガイヤ」
というも、発音(この地名の発音、難しい、ガは日本語のガとちがうのだわ)が違うので、ミニタリーは厳しい顔して聞き返す。
そうするとバスのほかの乗客が「アデガイヤ」(と同じに書いたが彼らの発音は私と違う)といっせいに声を出していってくれる。
中にはそれにつけて何かブツブツというヤツがいる。
「彼は、自分たちと一緒にのってきた、っていっているんだ」
とわたしを膝に坐らせてくれた、でBデブチョのエンジニアの男性が説明してくれた。
いっせいに私の味方をしてくれているらしい乗客たち、ミニタリーが嫌いなんだな、という気配がひしひしと伝わってきた。
ありがとう。

とにかく、夕方5時半すぎ、アスマラバスステーション着。
見慣れたスマラの景色にホッとした。
1泊2日だったが、もっと沢山、3泊位した感じの気分だ。
みんないなかったので、例のごとくお隣のドアをとんとんして、裏庭経由で帰った。
で、お茶を飲まないか、アデガイヤの話を聞かせて・・ということでシャイとお菓子をごちそうになった。
彼らは、アジスアベバから来た人たちで、いつか帰りたいという話、姉がイタリア人と結婚していたタイにいってきた写真などを見せてもらってくつろぎました。

7時過ぎにテレコミに電話をかけにいっていつものレストラン(ビストロアルバ)で食事。
すっかり、ウエートレスと顔なじみ。
一人で、アデガイヤにいってきたという話をしたら、びっくりされた。
この国は女性の権利がアフリカにしては画期的に高い。例えば、所有権があるとか。しかし、女性が一人で旅する文化はまだない。

ひとり旅、ホントに楽しかった。
そして、バスドライバー、膝に乗っけてくれた男性、ホテルの約束を守ってくれた女将・・・この国のまっとうな人々に会えた。
戦争が終わったら、こういう人たちのまっとうな力が生きるのにと思う。

※ 私、演説ぶった約束、果たしました。
故郷の新聞コラムに2回にわたってエリトリアのこと、書きました。
しかし、コハイトーはかいてないので、いつか紹介することがあるといいな。
(と、独り言) 



2004年01月11日(日) ★二つのチョイス・・一人の若者と話す

帰る前に、ローカルバスで1泊2日のひとり旅にでた。
バスはひどくオンボロで、ブレーキ大丈夫か、と心配になるくらいだったが、入り口の席にいた私の隣には、バス乗客の自主的な思いやりか、遠来の客へのお接待か、英語のできるおじさんが必ず座って、周囲の景色や沿線の町の案内を英語でしてくだすった。
一度だけ、羊飼いのおじいさんが座ったときは、テグリニアで「○×△・・・」
ワカラン・・タラン・・だったが、すかさず、通路をはさんで横の席から「あんたはテグリニアを話すのかい」ってきいてんだよ、と英語で解釈がはいった。
朝6時発5時間のバス旅行だったが、そんなわけでなかなかに楽しいほのぼのとした旅であったのだ。
エリトリアの政治やお偉いさん(テレビで毎日見る)はキライだが、ふつうの人たちはやっぱり好きだなあ。ええ感じやわ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

緊張状態が続いているエチオピア国境まで二十五キロほどしかないセナフェまでたどり着くのに一体何度検問を通過しただろうか。
 最後は、UN(国連軍)の検問だった。バスに乗っている外国人は私だけ、一人下ろされてパスポートチェックを受ける。
「どこへ行くの」
「セナフェ。メテラの遺跡を見て、夕方のバスでアデ・ガイヤの町に戻る」
 インド人的風貌の国連軍のバッチをつけた兵士はうなずくと、パスポートナンバーと乗っていたバスのナンバーを控えて「ありがとう」と、バスポートを返してくれた。
 やがてバスはセナフェに到着。バスステーション近辺の建物は穴が開いたり、傾いたり、完璧に破壊されていたり・・町の入り口には、難民キャンプのテント村があったし。
 まさに戦争の爪痕だった。
 この国に来て、空爆された建造物は何度も目撃した。しかし、間近に破壊された建物を見て、その下に人が住んでいた生活があったはず、と思うとやはりショックだ。
 そんな町の日曜日。
 ちょうど地元の自転車レースが行われていた。崩れ落ちそうな建物に人が鈴なりに腰かけている。それで、疾走してくる自転車レーサーに声援を送っている。
 しばらく、彼らの奇異の視線に晒されながら眺めていた。「平和っていいよな」
 思わず、独り言が口からでた。
 さていよいよ、ジリジリ照りつけるアフリカの太陽の下、二キロ先のメテラ村を目指して歩く。
 緊張の続くボーダーの町に旅人はめったに来ないし、さらにめったにお目にかかれない東洋人が歩いている、というので私の後ろに好奇心の強い青少年の行列ができた。脇に並んで「どこに行くの」「名前は何というんだ」と訊くヤツがいる。子どもは「チャイナ!!」とはやし立てる。この国には、中国製と韓国製の物品がいろいろと入っていて、東洋人というと、だいたいそのどっちか、と思っているフシがある。車はトヨタ、電気製品は「メイド イン ジャパン」を愛用しているくせに、まったく。
 反対方向から歩いてくる村人たちはじいいっと穴の開くほど見つめる・・・そういう人たちには、顔にクレーターができる前に「サラーム(こんにちは)」とニッコリする。そうすると「サラーム、サラーム」とすばらしい笑顔で返礼がある。
 要するにセナフェに悪いヤツはいないんだけど、かつて上野動物園にパンダ行列ができたように私の後ろと周囲に人が集まるというわけなんだわ。いいけどさ、首都でも、そういう扱いを受けたし・・でもけっこう疲れますわえ。
 メテラ村の入り口にまた検問があった。
 通してもらったものの、どこが遺跡かわからない。検問所の男は、英語がまったく通じず、ガイドブックに書いてあるテグリニアを見せても、首を振る。どうやら文盲らしい。 困っていたら、一人の少年が寄ってきた。「あなたはどこに行くの?遺跡に行くのだったら案内するよ」
「あなたはガイドなのか」
「ぼくは、ガイドじゃない、彼は親戚の結婚式で、今日はいない」
 一月はこの国の結婚月、毎土・日曜、教会では結婚式がある。そして親類縁者、数百人を招いてのパーティが行われるのだ。
 そういう事情でガイドが不在というのはよくわかる。彼はウソをいっていない、と思う。
「遺跡はどこにあるの?」
 あそこ、と少年は指さす。
 自分で行けそうだが、彼は付いてくる。顔つきは真面目そうで、何より目が落ち着いている。案内してもらうのもいいかも知れない。「OK、あなたに案内を頼むわ、でガイド料はいくらなの」
 こういうところで現れたガイドに付いて行く場合は事前交渉は必須、という「我が辞書」に乗っ取って訊いてみた。法外なことをいわれたら、断るか、デスカウント交渉をするつもりだった。
 少年は一瞬困った顔をして「別にあなたの気持ちで」みたいなことをぼそぼそ、長々という。明らかに当惑している。
 その顔を見て、私がどきっとした。「エー、キミはお金目的で現れたんじゃないのか?」と思った。今までこういう状況で出て来るガイド志望者はみんな金目当て・・そうだ、彼らはまず「いくら」を先に言った。いくらで連れていく、いくらで案内する・・金をまず口にした。彼らは訊かれるままに遺跡の位置を示したりしなかった。そんなことをしたら、仕事を失うモンね。
 彼も「お金がほしい」気持ちはあるのだろう、しかし、プラスアルファ・・外国人と話したいというピュアな好奇心が見えた。すれていない。
 私は海千山千が現れる観光地をたくさん旅して、したたかになってしまったのかも知れない。少年の横顔を見ながら少し恥ずかしかった。
 まず彼は「オベリスク」(古代の文字が刻まれた石の塔)に案内してくれた。それは、エチオピア軍が侵入したときに倒されて転がっていた。「エチオピア軍は、この国で沢山の遺跡を壊しました」
 彼は、悲しそうな顔をしていった。
 メテラの遺跡もしかりだった。「初めはトルコが、次はエチオピアが破壊しました」
 戦争とは、建物も遺跡も生命も人の関係もすべて破壊する行為だ。知ってはいたけど、しかし、崩れ落ちた遺跡を見ながら改めて「最低だぜ」と感じた。
 彼は、地中に埋もれて残った遺跡を案内しながら「ここが入り口です、ここは神殿ではなくてふつうの住居でした。ここに住んでいた人たちは神を信じませんでした」などと説明をしてくれる。詳しい。
「あなたは、歴史が好きなのね」
 少年は、ちょこっとはにかみながらうなずいた。
「あなたは将来、歴史を勉強するの?」
「大学に行けたら・・落ちたら、ソルジャーになります」
 ああ・・・・そうだった。
 この国では、高校卒業後にサワに行かねばならない。サワは、まあ、私にいわせれば「軍事教練」をするところだ。(アスカダムは今は軍事訓練の場ではありません、若者の教育施設ですと言うが、エリトリアテレビで見たサワの様子は軍人養成所以外の何ものでもなかった)
 卒業後、と書いてしまったが、最近は卒業前に行くようになったらしい。みんな、サワに行くのをいやがって高校を卒業しないで辞めるからだ。
 大学の入学試験に合格するか、サワで訓練を受けてミニタリーサービスで前線や各地の町に駐在するか。無期限、無給のまさに「サービス」のお仕事につくのだ。
 この国のふつうの若者には将来の選択肢がこの二つしかなかったのだった。
 目の前にいる一七才の歴史好きの若者にはそのどっちかしか、未来は開けていないのだ。
 サワで訓練を受けていて、大学入学許可通知が来ると抜けることができる。しかし、入学を許されないと、下手したら前線で戦死だ。
「アスマラ大学で歴史学を学びたい」
 それが彼の第一希望だった。
 若者には無限に未来がある、といったのは誰だろうか。
 とりあえず正しいとは思うが、こんな国もあるのである。
 若者に二つしか選択肢がない国に明るい未来があるわけがない、と私は思う。この国のヤングエイジは何とか外国に出たがる、時に親も必死に出したがる。道理である。 
 メテラの遺跡を見終えて彼に案内されながら村へ戻った。途中、すれ違った女性が私を見て彼に何かを言った。   
「彼女、何を言ったの?」
「あなたは荷物を背負って、疲れているように見える、何で代わって持ってあげないのか、といわれました、ぼくが背負います」
 私のザックを指した。
「疲れてなんていない、ただ、日差しが強くて暑いだけ」
「暑い?今、この国は涼しい、寒いですよ、あなたは暑いですか」
「日本は、今は冬、毎日十度にならない、冬とはそういうモノです」
 なんて話をしながら、村に着いた。
 彼に心ばかりの礼を渡しながら「がんばって勉強してアスマラ大学に行ってね、成功を祈る」と、握手して別れた。     
 エリトリアの忘れられない思い出一つ、だ。



2004年01月10日(土) ★エリトリア式結婚式を見る

九時半、ルーテリアン教会の結婚式に出るためにみんな早起き。
アスカダムの奥さんの親戚の結婚式。
おじさんとかイトコとかいう以上に遠い親戚。日本でいえば、イトコの子とか、そういうのも、ここの国では近しい親戚になる。なにしろ、一度親戚になったら、7代以上過ぎないと、その親戚同士での結婚はいけないというし。
9時半、きっちり教会着。すでに、カップルが庭にいる。
花嫁は父に腕をとられて、しずしずと教会にはいる。招かれた客たちもはいる。
新郎新婦は、入り口で結婚のサインをしている。
お客は、左、新郎側、右、新婦側と別れて坐る。
わたしたちは新郎側席へ。アスカダムは写真を撮るために前にでた。
もちろん、プロの写真家も彼らを追っている。
あとで、結婚式ビデオを作成するためだ。
新郎の親・親戚は多くがアジスアベバで、戦争のために来れない(でると戻れない)ので、新郎側の席に人が少ないとはいうものの「オールドリラテブズがたくさん来ている」と、新郎側をながめ回していっていた。
両方合わせて数百人の会場、それなりにうまっている。エリトリアン親戚パワーだ。
★式次第
新郎新婦が入場。
牧師さんによる「汝病めるときも・・・」の儀式と、指輪交換
お説教
賛美歌
その後新郎新婦両サイドから、年輩者がでて歌(賛美歌、聖歌?・・もちろんお祝いのため)。
いわゆる日本でいう、祝辞ってヤツにこの歌が該当するのだろう。
結局、歌になる・・なんでも歌にしてしまうのね・・というのが、感想でした。
「この人は、飛び入りよ、プログラムにない」
3人4人と歌が続くと、隣にいたアスカデッドが私の耳元でささやいた。
要するに飛び入り、お祝い歌が年輩者からでて来るというわけ。
もちろん、楽士(カラオケ)は、ありますし。
ほとんどお祝いカラオケ大会みたいだわ。
飛び入りは、そうほう、2人はいたね。つまり合わせて4人だわ。
で、最後に合唱。その後、握手と例のほっぺぺたぺたのお祝い挨拶を招かれた人というか、来た人全員と新郎新婦がする。
こうして、1時間半ほどの式終了。
教会の庭で、軽食とドリンクがが配られた。
本来なら、このあと、披露宴テントに移動して飲めや歌えの大騒ぎになるのだが、今回はナシ。二人はハネムーンカーででていった。
ビレンに、二人はハネムーンにったの?と聞いたら、多分・・・
「ほんとうは、このあと宴会、で、来週も今度は新婦側の宴会などが続いて、それが終わるとハネムーンなんだけど」との説明だ。
新郎新婦の歳が私にはわからない。
そう若くないカップルだ、ということはわかるのだが。
ビレンに聞いた。
「多分、花婿は、40才から35才までの間、花嫁は25才から30才までのあいだ、彼女は子どもじゃない」
という説明。
披露宴を略したのは、一つには、新郎の親や親戚が戦争でアジスから来れないということ、それから、新郎がシンプルが好き・・ということらしいが。
私としては、テープで見たようなドハデでど明るい結婚式の体験をしたくもあった。
私が帰ったあと、19日にまた結婚式があって、そちらの方はドハデ披露宴があるらしい。残念である・・・
新郎新婦には、気持ちばかりお祝いを包んだ。

日本人のアンタがなぜに見知らぬ若いお人たちの結婚式へ?のムキもあるらしいが、その辺は、親戚の友だちだし、おいでよ、来てもいいよ状態で、要するに祝ってやる気があるなら資格ありなのである。
こういうのも、いい感じである。

その後、私はみんなと離れてバスステーションへ明日の旅のバスチェック。いやはや、バスのしっかりとしたタイムテーブルがない・・要するに、朝来い・・5時から6時の間にバスは出るのお返事で。
これまた、昔の中国を思い出すわ。
まあ、人が満員になったらでる、というアジアによくあるスタイルのバス出発のかたち。
明日、大丈夫か・・・朝6時って真っ暗だよ。



2004年01月09日(金) ★またまたボーダーへ

8時出発が8時半。
アスカダムは、ややあせっている。
なぜというと、するりとアスマラに帰ればメンド無いものを、アコールダット、バレンツ、メンデフェラと大回りをして帰ろうというもの。
理由は、見たい、と言うこと、同じ道を帰れば、また挨拶に親戚に寄らねばならないということ(いやはや)。
それと、彼はいわないけど、私がいるので、見せたいということもあるのだろう。

◎ケレンからアコールダットまで
険しいぐるぐるの道を下る。
右側下は枯れ川だが、雨期は大河となりそうな・・・。そんな険しい道を、アフリカいずずトラック(ラクダ)やアフリカトヨタ(ロバ)ひいたおじさんやオバさん、子どもがずんずんと歩いてくる。材木を積んでいる。
「ここでは、地形が険しいのでエチオピア軍は勝てなかった」とアスカダムが運転しながら説明してくれる。道のはじっこには戦車や軍用トラックの朽ちかけたものが放置されていた。
ぐるぐる道を下って、平原に降りたとたん、あっつい。「アフリカさ」的太陽の直撃だ。
プランテーションに、水を完遂して作物を作っていた。
道沿いの町や村は、素朴というか、木とパームツリーの葉と・・みたいなものでできている。
都市部と田舎の落差に、毎度の事ながら驚く。
険しい岩山にイタリア人は残していった陸橋のあと(鉄道)が見えている。
まったいらな道を、「木が生えていることは下に水脈があるんだよ」などというアスカダムの説明を聞きながらすすむ。
アスカダム教授は、運転していても「生徒」を忘れない。
アコールデットにはいる手前でUNのパスポートコントロール。
町は、緑色の屋根のモスクがどんとある、それ以外はとくに見るべきモノもない田舎の町だ。アラビア色が強い。多分、クリスチャンよりモスレムが多いだろう。

少し休んで、またずんずん走る。
で、11時20分、バレンツ着
ここは、UNのキャンプがある。
それ以外は、ホコリッぽい田舎町である。町の中心で、お昼タイム。
お日様ぎらぎら。
エジプトの砂漠の太陽を思い出した。
メニューはテグリニアのみ、読んでもらって私は、サラダとタマゴザンドを頼んだつもりが・・・なんと、サラダというのは、生野菜のついたインジャラであった。
私は、イメージが違う、と言ったら、ビレンがエリトリアでは、サラダはこうなるの、と笑いながら説明してくれた。
で、インジャラはしつれいして野菜と卵サンドのみを食べたが、オーダー失敗の巻でした。

◎バレンツからメンデフェラまで
UNのキャンプを横目に見て、いよいよダートロードに突入だ。
すごい道だった。
ゾウや、キリンがいたら、ジャングルサファリそのものだ。
しかし、戦争できが着られて、乾燥化がすすんで、エリトリアの動物はスーダンの方に出ていったらしいいし、いるのは、羊とラクダと、時々さる・・位だ。
時々、人とものを満載したバスが来るが見ていると今にもひっくり返りそうで恐い。
途中、まるでエリトリアの大地そのもののような、クナマ(エリトリアの部族の一つの集落を過ぎる。
江戸時代どころか、ほとんど縄文的な生活だと思う、見た感じは。
半地下にした住居、水は共同水場、羊をかうお仕事・・・もちろん電気やガスはない。
感心というか、政府のたくらみを感じるのは、そんなところであっても、学校は整備されているということだ。
教育が人を幸せにする、と言うことはわかっていても、やがて「兵士」となる人材のためか、とつい勘ぐりたくなる。
すごい道路を走っても、走っても、メンデフェラは遠い。
アスカダムは、いやはやと言う顔で暑い中を走っている。
後ろの3人のお嬢さんたちは、だまあっているのでみればシエスタみたい。
ドライバーの隣にいる人は眠ってはいけない、という義務感で私は目をこじ開けていたが・・・景色が珍しくて眠ったら損・・みたいな気持ちもあった。
途中の町で休憩。
店はあっても、コークさえない、飲み物はシャイだけ。
物流がうまくいっていないのだ。
人を運ぶだけで精一杯の状態なのだろう。
その人だって、こぼれるほぼバスに乗っているし、乗れなくて、しばしば、待っている人を置き去りにしている。
シャイを飲んだところで聞くと、メンデフェラにつくのは、7時とか。
ハー。
12時半にバレンツをでて、もう4時間もはしっているんだぞ。
それでも走らねば・・でまたずんずん行く。
この辺は激しい戦いがあって、あそこにエチオピア軍がいて、この辺りをコントロールしたとかいう話をアスカダムから聞きながら、メンデフェラを目指す。
こんな道を走った日本人、いないだろな、アスカダムもはじめてなんだモン。
で、道々、バオバブの木が多くて、私はもうマダガスカルにバオバブを見に行く必要を感じなくなった。

6時15分前、見覚えのあるメンデフェラ着。
ナオミちゃんがハレルヤ、を歌ってくれた(笑)
いつぞやのホテルで夕ご飯・・しかし、この前もオーダーを間違えたおネエさんは今回も間違えてくれて、笑った。

私は三枝子に電話のために町の中心のテレコミュニケーションオフィスへ。
みんなは、親戚へ。
で、アスマラ着、9時半。
身体中が埃でどろどろだった。
やれやれ、やっぱりアスマラがいいや。



2004年01月08日(木) ★ケレンにて

ケレンは1200メートルほどの標高だが、朝は涼しいというか肌寒いくらいだ。
シャーワー室、シャワーを浴びたくなるほど、きれいではないので体を拭くだけにして、階下で朝食、例のごとく、ハエを追っ払いながら、パンとオムレツとシャイ。
ナオミちゃんたち三人娘は、朝5時起きで教会に行った。
きょうは聖餐式がある、洗礼を受けた人でないと参加できない。
ホテルは教会がすぐ裏にあるので、歌声が延々と聞こえていて、眠れず、だった。
で、6時には、例のごとく、今度は反対側から、モスクの祈りの声はでっかい音量で響いてきて・・・まあああったくだ。眠るのをあきらめた。
にぎやかな朝だ。
この町の名物は「バオバブの木の中にマリアさんが安置してある」マリアデアリッツ教会だ。
アスカダムは、あとでみんなで車で行くだろうと言うが、まあ、しょっちゅう予定変更になるし、中止になるしなので、アテにしないで一人で行くことにした。
私は多分2度と来ない町だが、彼らにとっては、奥さんの実家の町で、どうしても今回行く必要はないのだ。
里帰りと、旅人のちがいはこういう所に歴然とある。
行くかもといわれて、待っていて行かなかったら、心が残る。
それと、集団行動は、かなり飽きてきている。
まあ、1月になってかなり自分のみ行動で動いているが、それでも「旅していないよな」の気分が心の底にある。
で、アスカダムに「どっち」と聞いて、そっちの方向へ。
1時に奥さんの実家(おじいちゃんとおばあちゃんの所、昨日もお昼、夕ご飯とごちそうになった)を訪ねる事になっているのでそれまでに帰る約束をして出た。

私が立ち止まって、道路の標識なんぞを見ていると、必ずだけかが寄ってきて「どこ行くの」
マリアデアリッツ、と言うと、「この道まっすぐで、町の端まで行くと英語の表記がある、すぐにわかるよ」「20分以上歩くよ」等々、うるさいくらいに教えてくれるので、一人歩きにまったく困らなかった。
この町でも、例のごとく、子どもに「チャイナ!!」「名前は」「どっから来た」とつきまとわれたが。
名前を教えたら、帰りおんなじとこを通り過ぎたとき「はい!○○○」と名前コールされていやはやだった。
それにしてもアフリカの子は明るいわさ。

町はずれの、マリアデアリッツ教会、500年もののバオバブの巨木の中に、マリア像が安置されていて、そばに小さい教会がある。(修復中だったが)
だあれもいないでっかい木の中のマリア様、日本で、巨木のうろに、お地蔵さんがあったりするのと実によく似ている。
人は、大きな木のうろを見るとしたくなるのは同じなのかも知れない。
途中に、さりげなく石の小山が転々とあるのは、もしかしてお墓か。
ここ、ケレンは、やはりエチオピアとの激しい攻防戦があったところだ。
多分、お墓・・・兵士の人たちの。
アスカダムにいわせると、ケレンは山の険しいところにあるのでエチオピアは勝利を得られなかった、とのことだが。
ケレンに来る途中のイタリア人が開いたブドウやオレンジのプランテーションは、エチオピアによって破壊されてやっと元通りになりつつあるらしいが。

町中で、水を買って「どこから来たのか、コレアか?」と聞かれたので、違うジャパニーズだ、と言ったら、オオ日本のどこだ、と言うので、横浜といったら、ああワールドカップの決勝があったところ、見ていたよ、と嬉しいそうにいわれた。
「日本人は、自分の国だけでなく、他の国も応援するんだね」
「当たり前じゃない、ファインプレーをしたら」
「だけど、しない人も多い」
なんて話が弾んだ。
こういう話は一人じゃないと、誰もしない。
みんなとつるんでいたら、そもそも誰もよってこないモン。
12時半にはホテルに戻るとアスカダムと約束をしていたので、それまで、街角のカフェに行った。
それで、すずんでいたら、なんと3人娘さん達が、教会の友(親戚)と一緒にやってきた。
世間は狭い、と言うか、こぎれいな店が少ないということなんだろうさ。

1時、おばあちゃんとおじいちゃんのおうちで、羊の唐揚げ、パスタ、等々をつくる準備をしてみんなで食べた。

で、4時過ぎまでお昼寝とぼんやり
4時過ぎに、また親戚まわり。
昨日教会で一緒になったおばあちゃんの兄弟のおうちとかへ。アスカダム曰く、お義母さんにいけといわれたところに行かねば・・らしい。
最後が、子ども10人のおうち。
壮観で楽しゅうございました。

8時過ぎに戻って夕食。
しかし、私はもう食べたくない、と言うか食べられない。
ので、自家製ミルクのみを頂いた、しかし、ミルクしか飲まない私のためにおばちゃんは2杯もつくってくれて(もう死にものぐるいで飲みました)
夜、月がすごくきれいだった。
明日は去る孫2人とナオミちゃんを一人ずつ呼んで、なにやら言い聞かせているおばちゃんであった。
明日から、またじいちゃんとばあちゃん二人、お手伝いで親戚の子は来てくれるが・・・さびしい・・・過疎の日本の農村と状況はおんなじだよね。
日本の場合は、子どもが住んでいるのは都会だが、この国は外国になるのだ。
おばあちゃん、最後に三枝子によろしく、と言っていた。



2004年01月07日(水) ★ケレンのクリスマス

☆エリトリアクリスマススケジュール☆
アスマラのクリスマスイブ・・・1月6日
ケレンのクリスマスイブ・・・1月7日

ケレンとアスマラの距離、自動車で走って3時間足らず。
なのに、クリスマスもイブも違うのだ。
なんで???といろいろな人に詰め寄っても(ナオミちゃん、アスカダム、ガブリエススさんなど)「暦の読み方が違うから」だと、平然とした顔で言う。
カレンダーの歴史によれば、世界の暦がたくさんあった(ある)ことは知ってはいるが。しかし、なんで、すぐ隣の都市とクリスマスがちがうんよ。

まったく不思議で新鮮で・・・
de
寄稿している故郷の新聞社に以下のような記事を送信した次第でございます。
すでに、掲載済みなので、以下に転載します。ご覧下さいまし <(_ _)>

・・・・エリトリアのクリスマス・・・・・・・
> 
> エリトリア(アフリカ東部の国)は、クリ
>スチャンとモスレムが半々くらいの国だ。な
>ので、十二月の首都アスマラはクリスマスデ
>コレーションが華やかだった。
> しかし、一二月二五日が過ぎても、元旦がき
>てもクリスマスの飾りが取れない。
>「どうして」と、訊ねると「まだ,クリスマス
>が終わっていない」。ええ?である。
>聞けば「アスマラのクリスマスは、一月七日、
>ケレンは一月八日」だという。ケレンは、首
>都から車で数時間,近い町なのにクリスマス
>の日にちが違うらしい。暦の読み方が異なる
>からだというが、おかしな話だ。
> ちなみにエリトリアの旧暦では、今年は一
>九九六年である。
> 私が寄宿していたエリトリア人家族の奥さ
>んの実家はケレンで、彼らはそこでイブとク
>リスマスを過ごすというので一緒に行った。
> ケレンは、エリトリア第二の町だが,首都
>に比べるとのどかで、田舎の香りがする。
> 訪ねたお宅も庭先に牛が四頭、鶏は放し飼
>い,猫が二匹うろうろ…まるで四、五十年前
>の日本の農家のような気配があった。
> 定番のご馳走インジャラをご馳走になった
>後、夕方教会へ行った。
> 主に,子どもたちが歌う聖歌が中心になっ
>てイブの儀式は進行した。堅苦しくない。子
>どもも大人も心からイブの宵を楽しんでいた。
>特に印象的だったのは、ケレンの町にある聾
>者の学校の生徒達が手話で歌う聖歌だった。
> 儀式が終わって外に出ると「メリークリス
>マス!」の挨拶があちこちで交わされている。
>「メリークリスマス! 聖なる日に遠くから
>ようこそ、如何でしたか」と英語で,牧師さ
>んの奥さんに訊ねられた。「楽しみましたよ、
>ありがとう」と答えたら、ニッコリされた。
> 翌日、クリスマスの教会では、早朝五時半、
>九時半、一一時半と、三回にわたって祈りの
>時間が持たれていた。そして昼、朝に屠った
>羊の肉が食卓にのぼった。油で揚げたそれは、
>まあ、新潟の正月に鮭が欠かせないのと同じ
>感覚だろうか。イブの朝,あちこちで羊を引
>っ張っているおじさんを見たのだが、「ご馳
>走」だったのか,と納得した。
> 所変われば品変わる、ですね。
>



2004年01月06日(火) ★アスマラのクリスマスイブ

10時過ぎに昨日明日の10時過ぎに来いと言ったトラベルハウスと言うエージェンシーへ。
待たしてもいない。
もう言いやあ、自分で行くぞ、とツーリストオフィスへ。
アデガイヤのパーミットをちょうだい、と言って、オーガナイズドツアーは今はやっていない、と言う話をしたら、そうねえ、ツーリストが少ないから・・と。私もそうだと思う、と言った。
でツーリストオフィスは、きょうは二人のおばさんがいて、アンタがここでツーリストビザを取る最初の人だと喜んだ。

お昼は昨日、休んだカフェ「カサ イタリアーノ」でパスタ。
本日のスペシャルのラザニアを食べたが、うまかった。
が 量が、莫大だ。おなかの皮が伸びてしまった気がするくらいにぎっつりとした。
アスマラの町は、イタリア人の舌が残したうまさが確かにある。
ピザ、ラザニア、スパゲッティ・・すごくうまいよ。とくにピザはいい。だけどネエ、量が量が・・・なんだよね、いつも。
で、みんなはおなかの調子が悪いときがあったようだけど、私は壊れないので、こういう時、つい食べてしまう・・私は絶対に太った。
やばいよ

夜は、クリスマスイブなので、教会へ。
6時過ぎ、ルーテリアン教会に行く。
すでに、数百人は入れそうな大きさなのに満員だ。二階席もイスは満員なので階段に座る。
すごいモンだ。
子ども、若い人が多いのが印象的。
歌と、キリスト生誕前夜がやはり子どもが出演してドラマになっていて、私にもわかるというか、子どもに焦点をしぼったイヴのもよおしだと感じた。
とにかく、子どもがやたらに多い。
アフリカの人口爆発、と言う問題をおもい出してしまった。
少子化も困るけど、爆発も困るよねえ。
しかし、イブの夜のこういった教会体験が経験が心の基本、宗教心を育むと感じる。
みんなでうたう歌に「きよしこの夜」があったが、これだけは私も歌えるので日本語で歌った。
外に出ると、あちこちで「メリークリスマス」の声がしていた。
明日はケレンのクリスマスイブだ。
まったくフシギな暦の読み方だ。



2004年01月05日(月) ★トラベルパーミット

9時に家を出て、アスマラ中心部のツーリストオフィスに出向いた。

ケレンからかえって来たら、10日すぎに一人でセナフェとかコハイトーに行きたいのだ。
両方とも、この国の歴史的遺物があるところだ。
アスカダムは、石がたっているだけだ、どうしてそなんなものが見たいのかワカラン、と言うが私は行きたいんだよ。
最後の最後に、ひとり旅しないと「おばさんバックパッカー」の名がすたる。
それと、やはり、集団行動ではなくて「ひとりの旅人」になりたいのだ。
本能がそう叫んでいる。オオカミの雄叫びのように・・・
さて、ツーリストオフィス
感じのいいおばさまがいていろ色と話したが・・びっくりしたことは、アスマラ、ケレン、マサワ以外の都市に行くには「トラベルパーミット」がいるということだった。
しらんかった、というか、ロンプラには書いてあったが、それ以外の町、メンデフェラにも、ドアルバにも行ったが、どこでも(コントロールも含めて)パーミットを見せろなんていうところはなかった。
ボーダー手、前5キロまでせまったのに(日本政府は危険度3を出している)、なんもいわれなかった。
「中央」以外は情報がいきわたっていないらしい。
彼女は、あなたが行ききたいところがあったら、すぐにパーミットは出す、パーミットを出すのは、旅人の安全のためとは言うが・・・・実情に即してないよな。
「アスマラの主なトラベルエージェンシーを教えるから、もしオーガナイスドツアーに参加したかったらそこにコンタクトを取ってみて、私たちは紹介するだけ、アレンジはしない」
で、教えてもらったエージェンシーにいったら、一つは、今はオーガナイズトツアーはやっていない(まあ、戦争で観光客がこないせいだ)、もう一つは、ガイドの人がいない、明日こいといわれてしまった。
もう1社は、中心か少し離れていて・・どうせ2つとにたようなモノだろうと、暑くなってきたし、カフェで休みながらどうするかなと、ロンプラを眺めつつ考える。
セナフェの先のメテラはいい、バス停から歩いて2キロだ。
問題は、コハイトーだ。
不便なんだな、これが。ロンプラでさえ、一人で行くことをすすめていない、オーガナイズとされたツアーにのってガイド付きで行くのがベストと書いているではないか。
明日、もう一つのトラベルエージェンシーに行ってから結論を出そう、ということで、うちへとぼとぼと歩いていると3人娘に遭遇。(アスマラは狭い)
彼女たちにも、メンデフェラとかドアルバはパーミットがいる見たい、とはなしたらびっくりしていた。
市場で、オレンジやらを買ってくる。1キロ、18ナクファ
うちに帰って、ガブリエススさんに聞くと
やはり、少し高く売りつけられているようだ。
フィルムは32ナクファでか買ったが、これは明らかに2ナクファ高かった。
ツーリストプライスというヤツだ。
まったく・・でもしかたないよな。この国にも「公正価格」はない。
それにしても、道を歩いていると、突如いろいろな人が寄ってきて「こういうプロジェクトをしているのだが、問題をか抱えている、お金を出してくれないか」を言い始める。
政府にいえよ、旅人にいってどうすんだよ。
1ナクファとか2ナクファ、ぼられるのは我慢するけど、これには嫌気がさす。
頼むから、心静かに通行させてほしいのだ。



2004年01月04日(日) ★コロニアルスタイルのビルデング見学

午前、博物館にいった。
ちっこい、素朴な、博物館で、1時間かからずに見学終了。
おなかがすいてきたのと、サラームホテルという、いいランクのホテルに野次馬根性で、フルブレックファストを食べに行く。
オムレツと、カプチノが絶品。
うまかったわ。
しかし、何しろ、戦争状態の国だし、お客なし。
本来なら、優雅に遅い朝食を食べている観光客がいてもいい時間(10時すぎ)なのに、人気なし。
UN(国連平和維持軍)の車が外に沢山止まっていて、ここもインターコンチと一緒で、UNがお得意さまらしい。
11時、暑くなりかけてきたので、帰りかけていたら、私を呼ぶ声。
止まった車からグェゼイが顔を出して「なに考えてあるいていたのか、きがつくのがおそい、一人か、みんなはどうしているんだい」という元気な声だ。
そもそも、旅人に知り合いがいるわけがないという、いつもの気持ちで歩いているので、私を呼ぶ声がしても気がつけないというわけ。
なんてことを英語で、頭の中を翻訳機にしながら、いうのはめんどいし、暑いからねとかって。それで、みんなはうちにうちにいるよ。
あとでいくとかって、またいなくなったがホントにあとできて、みんなとお昼を食べに、そして例のごとく親戚訪問にでたらしい。
私はサラームホテルで食べたから、おなか空いていないと断って、涼しいうちの中で、ごろごろ、少々昼寝。
イヤ、親戚訪問でインジャラがこわいのもあった・・・
行けば、食べねばならぬ、それはこの国の掟だ!

3時過ぎに、アスマラコロニアルイタリアンビルデング見学ウオーキングコース(ロンプラにある)にのって歩く。
確かに、見るほどに、ここはアフリカを忘れさせる美築がある。
近所の子どもたちは、すでに私を見慣れ初めてじろじろ見なくなったが(かわりにナオミちゃんが私の名前を教えたので、外に出ると○○○とかれら、私の名前を呼ぶのよね)、しらない街角を歩いていて学校があったりすると子どもすすなり状態だわ、やれやれ。
歩き疲れて、街角のカフェで、サンドイッチと冷たいコーク。
ここは、学生さんに人気の店なので、じろじろは少ない。
こういったオアシスのような場所がたくさんあるのもアスマラのいいところだ。
一人でいても退屈しない。
おなかがもう少しというので、フレンチポテトをテイクアウトしてきて囓りながらテレビを見ていると、アスカダムが帰宅。
テレビを見ながら、いろいろとなことを話してくれた。
一番仰天したこと
「国が、ドルほしさに、ドル建てでアスマラ近郊の土地を売っている」
ウッソー
私があ然としていると、アスカダム、「いったことが理解できたか?」
私、もちろん、しかし、それは信じられない、この国のお金で売るのならわかるが・・といった。
この国のシステムが壊れるようなことを国がしてあるのだ、まったく。
そういった土地を誰が買うのか・・・家族が外国に行っていて仕送りがある人たちである。
アスカダムは、国が土地を売り出したお陰で、アスマラの住宅難が少し解消したとかって明るいことをいっていたが。
ちなみに娘たちは、この国の未来をかなり厳しく見ているが、アスカダムは楽観的だ。
私の倫理に従えば、国がドル建てで土地を売るなんて「国賊」だよ、だ。
この国の通貨単位の「ナクファ」は独立戦争の拠点があった歴史的な村の名前だ。
自分の国の通貨への矜持、持てよな。
根拠のないプライドだけは高いのにさ。
外国から援助受けない、金だけもらうのはいいけど、いろいろと条件を付けられるのだったらいらないというのがこの国の方針らしい。それはそれで、いい。(バカだと思うけど・・・条件をできるだけ自分たちに都合のいいモノに持っていくようにして借り受けるのがお利口さんのやり口、中国を見なさい、そういう点では、やはり中国は凄腕だし、エリトリアは田舎のガキだ)
しかし、だが、外国への出稼ぎ者が送金するドルだったら、いいのか。
みんな、どうしておこらないのだろうか。
それがプライドの高い人たちが・・・不思議だ。



2004年01月03日(土) ★アサーブ行きは中止か?

朝、シャワーと洗濯。
10時に、アスカダムとツーリストオフィスと、レンタカーのお値段調べにいった。
アスカダムは昔、リサーチのために、エチオピア、エリトリアのあらゆるところにいったが、唯一いっていないのがアサーブ。
紅海沿岸の、ジブチとのボーダーにある町だ。
エリトリアの独立によって、海を失ったエチオピアが、戦争前に海の玄関口として使っていた町だが、ボーダーを閉じている今、かなり寂れているようだが。
アスカダムはここに行きたい。
私は途中の、アフリカ大地溝帯ダンカリラの絶景(ロンプラによると地球でもっともかんそうしている場所の一つという説明、それと、このほとりで、早期のホモサピエンスの骨が見つかっている)がみたい。ここは、ロンリープラネット(英語版のエリトリアエチオピアガイド)のおすすめ場所の一つなのだ。
アスカダムの計画だと、アサーブまでの陸路は、オフロードだ、しかkりした4wdと道を知っているドライバーを頼まないと行けない、そして行きは車だが、帰りは飛行機でさっと帰る、車はドライバーに頼んでということ。(日本や他の国のように乗り捨てなんていうシステムはまだない)
しかし、すごく高い。
2日間トヨタランクルドライバーつきで7800+1200ナクファ+いろいろ
要するに、ドルにして500ドル・・これはこの国物価からしたら異様に高い。
これ以外に、飛行機代もいるから、一人100ドル+アルファで、かなりの金額になる。
アスカダムは高すぎる・・・
私もそう思う。
大地溝帯は、いつかエチピアにいったときイヤでも行くし。
おじさんのガブリエススさんは、アサブはあついし、何もない、それに飛行機も小さくて混んでいる、どうしてそんなところに高いお金をかけていくのか、と。
要するに、アスカダムは、いっていない場所に行きたいのだが・・どうやらこの一言にやめることにしたようだ。
そうなると、アサーブ行きのはずだった、この数日がヒマになるのだ。
やれやれ、まあ、いいけどね。
アサーブに行くと、またマラリアの心配をしないといけないし、私はむっと暑いとこより、このアスマラのさわやかさがお好みだし。

夕方近く、市場にお散歩へ。
ワタシ的には、あちこちで、こういう市場風景を見ているので違和感ないが、フツーの日本人にはびっくりものの市場だ。
しかし、あんまりすれっからしの旅人になるのも、おもしろ感、びっくり感がへってつまんないもんだ。
暗くなってきたので、ぽこぽこと帰宅していたら、車が止まってアスカダムの呼び声。
夕ご飯のピザをブルーナイルに買いに行くのでつきあえとのこと。
待ちながら、アスカダムとビールを飲む。
彼は、今日、急に親族の(といっても、日本人的に見たら他人くらい遠いのだが)男が人に殺されて、奥さんと子ども6人を残ししていった。2時間の間にそのことに関して7人の人に会った、そして彼女にお金を上げてきた、とため息をついていた。
アスカダムたちの父親も、人にお金を貸して、返してくれといったら、さかうらみされて殺されている。彼が9才だったかのときだ。下のサバはまだ1才になっていなかった。
今は、エチオピアのアジスアベバに住むお母さんがインジャラ屋をして4人の子どもを育て上げたのだ。
一番上だったアスカダムは人一倍責任感がある人だし、かなり苦労したらしい。
自分に起きた事件とにているので他人事ではないのだろう。沈痛そうだった。



2004年01月02日(金) ★きょうは、アマデル

きょうは最初にアデゴロ・・じいちゃんの故郷
アマデル・・アスカダムたちのお父さんの故郷を訪ねるとのこと。
昨日は、用事があるといったん帰ったグェザイが11時に来て出発だ。
アデゴロ
伝統的おうち(入り口にロバや牛がいて、土壁と、木の小枝の屋根などで造った家、金属波などは使わない、トタンの屋根のあるうちはお金持ちなのだという)に、じいちゃん(80すぎ的感じ)が一人で暮らしていた。
1年前に、奥さんを亡くしてしまったらしい。
子どものことは知らないが、多分、アスマラなどの都会か、外国だろう。
グェザイがいみじくもいった。
「エリトリアの一番の輸出品はエリトリア人さ」
悲しい名言だ。
日本の農村は、若者が都会にでて過疎化したが、エリトリアの場合、外国に出稼ぎに行って、過疎化が進んでいるという現実。
戦争で、思うように仕事がない、戦争自体に行きたくない・・・そういう人たちはなんとか外国にでようとがんばる。
だから、日本の田舎同様に、年寄りだけになる・・・
田舎と入っても、田舎度はまったく違うが・・・
電気がないのは当たり前(ランプ)・・オフロードの道を走ると、ロバ、牛、馬、羊、そして土と同化したような人たちが農作業に励んでいる。
ほとんど人力。
日本の江戸時代ってこんなだったかも、と思ってしまう。
12時半、アマデル着
アスカダムやテクラブは、子どもの頃にさんざん遊びに来たところらしい。
ここで、お昼をごちそうになった。
できるのを待つ間、やはり親戚の、お隣へ。
そこには、宣教師のご主人はアジスアベバ、子どもはカナダのトロントという、女性(名前・・ウーン、忘れてしもた)がいてなんとこの村で車椅子生活だった。
一緒に住んでいるのが、103才というじいちゃんだ。
自分で集めたはちみつをごちそうしてくれた。
アマデル、というのは大きな森という意味で、昔はホントに大きな森があった。ライオンやゾウ、いろいろな動物がやってきたり、すんでいた。
それが戦争で、エチオピア軍が木を切った。
昔はゾウ刈りもした・・みたいな話をじいちゃんがしてくれた。
アスカダムも、子どもの頃森にはゴリラやさるがいて、行くのがこわかった、という話をしてくれたが、彼の指す辺りは今や丸裸。砂漠化がすすんでいる。
それでも、ダム化された水源は、乾期というのに、水を湛えていて夜にはアフリカらしい動物学くるとのことだったが。

ご飯のあとに、アスカダムが解放戦線の兵士を辞めてスーダンに逃げると木にこのうちにおいていったという水筒とベルトがまだとってあって、それをオジイちゃんが出してきてくれた。
アスカダムはなつかしそうにそれをしてみて、まさにセンチメンタルジャニーだねえ。

この後、さらに、2,3,4,5,6,7軒と訪ねて、2軒目3軒目では、どうしてもということで、インジャラを食べた。
死にそうだった。
詳しく書くと、あのどうしても食べねば、の苦しさがよみがえって苦しいので割愛だい。ああ・・・
訪ねる事に、ナオミちゃんがどういう関係が、説明してくれるのだが、右から左にでていった。ごめんね、ナオミちゃん。
 彼ら(エリトリア人)には、東洋人はみんな同じに見えるといわれるが、私にとってはよほど個性的な人以外はエリトリア人はみんな同じだ。何度もあっているうちに顔と名前が一致するが・・・例えば、グェザイとか、ガブリエススさんとか、ケレンのおばあちゃんとか、おじいちゃんはわかるよ、だが。

アスマラに帰ったのは、9時半近く。
食べることに疲れ切った日であった。
そして、エリトリア人のウエルカム精神と血の濃さ感覚に感嘆した日でもあった。



2004年01月01日(木) ★メンデフェラ近く・・グェザイさんの村

9時半、親戚から借りた?らしい4WDで出発。
ノルウエーからやはり休暇で帰ってきているアスカダムのイトコのMrグェザイさんのお姉さんのうちへ。
村からでてきているおばあちゃんにあった。
シワを深く刻んだ、優しそうなお方だった。
そこで、バターでトウモロコシの粉?を練った、エリトリアの朝ご飯なるモノと、豆のシチュウのようなモノをごちそうになった。
おいしかったけど(やたらに辛くないので)誰かのうちに行くと、食べねば、というのは大いなる苦痛である。
インジャラを勘弁してもらったのはよかったが・・・

グェザイさんもまた、ノルウエーから休暇できていてきょうは一緒にメンデフェラへ行く。
首都アスマラからは、地方へ4本の幹線道路がある。
そのうちの1本がメンデフェラへの道である。
グェザイさんの運転、彼は運転しながら、いろいろと景色、建物、等々を説明してくれる。
途中、日本の会社が銅の採掘をしていたところも通った。
1時半、メンデフェラ着。
グェザイさんが、ここで育ったとか、この学校に行ったとか、町に中を走りながらなつかしそうに話す。
で、彼のもともとの出身の村へ。
町の幹線からはずれたとたんに道はオフロード状態の悪路になった。
ホントに「村」である。
車なんて通らない道、ウマだの羊だの、ロバだの道である。
乾期なので、道沿いにある木や草も生気がなくて、エリトリア特有の赤い土をかぶって、半死半生状態だ。
グェザイさんの村の家は立派だった。(ふだんは、今日の朝にあったおばあちゃんが住む)
持参の食料で昼食のあと「一緒に行くか、どうする?」とアスカダムが聞くので「もちろん行くよ」・・だっておもしろそうだモン。
お嬢さん3人はここでテレビを見ているようだが。
もちろん、この村で生まれたグェザイさんに近い親戚になるわけだが、イトコなのでアスカダムにとっても、親戚である。日本では親戚とはいわない関係までも、この国では親戚。
ナオミちゃんがイトコの子どものなんとか・・・とかって説明してくれると「そこまで親戚というか?!」と驚くことがよくあった。

一軒目
じいちゃんとばあちゃん、お嫁さんがいる家。
じいちゃんとばあちゃんは二人して、ベットにちょこっと坐っていた。
じいちゃん105才、ばあちゃん98才(ただし、戸籍とかないので、自己申告)の夫婦だ。
グェザイがいうには、ばあちゃんの方は、昨年あたりまだ元気で外で仕事していたらしい。
ふたりの孫娘はドイツ在住で、ドイツ人のお友だちをここに連れてきたこともあるとか。
グェザイが「おじいさんがあなたに質問があるというが」
「なに」
「日本の老人はどうしているのか、だって」
「?」
「この国には、老人をケアする施設がないのだ」
「ああ。日本では、老人ホームに行ったり、田舎では子どもたちが世話をしたりする。でも病気になると、病院に行く」
グェザイがテグリニアでそうはなすと、爺ちゃんはウンウンとうなずいていた。
ぼけとらんのう、105才。
ここでもお決まりの「インジャラ、食べないか」だったが、アスカダムとグェザイはしっかと断っていた。
次は、となり。
ベットにばあちゃんがシエスタしていた。
その部屋の入り口にはネコが寝ていて、部屋の中では、ヒヨコを10ぴきほど連れた鶏が遊んでいた。
なんというか・・・
二人があいさつすると、それでも、起きあがっておくってでてきた。
3軒目
ここは、若い奥さんと子どものいる農家。
典型的エリトリアの農家かな。
4軒目
ここには、ばあちゃんが3人いた。
2人はでて迎えてくれて、一人は庭に座っていた。どうやら体が不自由らしい。
ここでは、坐って、ローカルビ−ル(トウモロコシをはっこうさせたモノだったかな?)をいただく。すっぱい。
コーヒー?といわれたみたいだがことわったみたいだ。
ブンナ(コーヒーのこと、エリトリアではブンというらしいが)という言葉が、おばあさん口から聞こえた・・・
もう一人のばあちゃんが足をしばった鶏を連れてきた。
お客がきたら、鶏1匹つぶしてもてなす、というのがまあしきたりというか、もてなしというかで・・もちろん、アスカダムとグェザイは断った。
三枝子が、昔、アスマラを訪ねたときに私の歓迎に生きた羊を引っぱってきた人がいる、という話をしていたが、生きた鶏に改めて「なるほど」であった。
オバアちゃんお兄さんが昨年亡くなったとかで、その話をおばあちゃんが涙を浮かべながらしていた。
5軒目
ここも若い奥さんと子どもの多い家。
奥さんに「エリトリアはどうか」
と訊かれた。
「みなさん親切で、いいですよ、好きですよ」
事実である、はい。
入り口当たりで、若い男の子たちがお互いのアタマをシャンプーしあっていた。
「きょうは学校が新年で休みだし、男の子たちも身繕いをしている」
とは、アスカダムの説明。
やれやれ、これで終了。
時間にして、2時間弱。
お墓によって、町へ。ホテルではやい夕食をして、ボーダーへ車を走らせた。
すいすい・・どこが戦争という感じでアッという間に国境まで25キロへ。
「ほら、全然危なくないだろ、日本へ帰ったら、日本人によく伝えてくれよ、エリトリアは危険じゃないって」
 グェザイが明るく話す。
「アスマラは危険度2,それ以外ボーダーは危険度3だよ、日本政府はエリトリアに旅するのは危険といっている」
 とわたしが話したせいだ。
実際、何度かの検問はあったが、アッという間にボーダーまで5キロに到達した。
ちょうど、日が暮れて、最後の残光が地平線に残っていた。
美しい。
「ほら、あそこにかすかに明かりが見えるだろ、あれがエチオピアだ」
アスカダムが説明してくれる。
手が届きそうなエチオピア。
あそこの村と、このボーダーの町と、結婚したり、友だちがいたり、親戚があったり・・・しかし、手が届きそうでも遙かに遠い。
国境が戦争で閉じられているから行けないのだから。

今日走った景色は私にとっては、ただ珍しく、外の景色に没頭した。
マサワに行くみちもおもしろかったが、もっとだ。
道沿いの並木は「ソルジャーツリー」
戦争で一人兵士が死ぬと木を植えようというプロジェクトでできた道だ。
グェザイがそう話してくれたときにすごくショックだった。
延々と並木が続くほど、若者が死んだのだ・・・

再び走ってドアルバという町のホテルへ泊。




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