きょうは、6時にしっかりと、イスラムのアザーン(お祈り)の声で目が覚めた。 いつも、うすぼんやりとあの声で目が覚めるんだけど、きょうはシッカだった。 で、7時には本格的に起きて、外で体操、7時半には、父方系のおばさんが現れて「お昼を食べにきなさい」 で、三枝子の分も、と6回もほっぺにぺたぺたされた。
ここで横道講座 ★エリトリアのご挨拶★ 親戚やかなり親しい友人の挨拶 相手に軽く腕をかけて抱き合って、ほっぺを右、左、右とくっつける。で、すごく親しかったり、嬉しいと、この数が倍増する。 男の人たちは、顔の代わりに肩をぶつけ合って、挨拶している。 会ったときと別れるとき両方する。 で、何しろ、こじんまりした町だから、住人たちはあっちこっちで知り合いと会うわけだ。で、上記の挨拶がかわされるというわけです、通りで。 それは、見ているとほのぼのしていていいモノですが・・・ ほっぺ、ぺたをおえたときは、みな笑顔だし、肩ぶつけ合っている人たちも楽しそうだし、この挨拶もなかなかおつでしたわ、慣れたらね・・慣れるまでは、ドギマギでしたが。
親戚に出かけるまでの時間、プリンセス3人は洗濯Day。 洗濯機がないので、手洗いなのだ。 私は汚れるたびにせっせと洗うのでとくに溜まっていない。 というか、お遍路旅よろしく、余分の衣類はそう沢山持ってきていないのでこまめに洗わないと足りなくなるのだ。 たいして、とくにビレンとアスカデッドは、洋服ダンスが移動してきたようにいろいろと持ってきている。 ナオミちゃんは時々二人のモノをかり出してきている。 ナオミちゃんは地味好みで、少年ぽい格好をしているが、彼女らは女っぽいモノを好む。アスアカデッドなんて、いつもおへそだし、腹出しであんまり出ていると私が引っぱる。 彼女たちのテイストのフリフリがついたお洋服とか、スカートとか、ナオミちゃんにあうんだ。で私が「ナオミちゃん、にあうよ、これから・・・そういう格好するといいよ」 私が・・・と、つまったところで「もっと、大人っぽいカッコと、いいたいんでしょ」と笑って「イトコのを借りて着るからいいんだよ」と、勧める私にぷんぷんする。テレだね。 わたしはハガキを書いて郵便局に行って出して、薬局で、レディダイアナ洗顔クリームというあやしげなイギリス製の80ナクファもするヤツをかって、博物館の位置を確かめて帰ったら、ちょうど、親戚にご飯のご招待に出かけるところ。 私は暑い中を歩いた疲れで「もう少し休みたい」といったら、じゃ、あと30分ほどしたらまた戻ってくるから、ということで。 しばし、すずしい室内で休憩。 バックにつけた温度計は、12時を過ぎて外にいると30度近くまで必ず上がる。 湿気がないし、屋内や木陰は涼しいのだが、やはり歩くと暑い。 それと、ひょうこうが2300mはあるので、長い時間歩くと、空気の薄さのせいか疲れがはやい。 ちなみに、ローランド(マサワのような標高がないところ)から、このハイランドに来ると心臓発作を起こす人もいるらしいからご用心ではあるのだ。
おばさんのおうちのごちそうは、いわずと知れたインジャラである。 ます、ほっぺぺたぺたのご挨拶、飲み物を聞かれて(たいていコーラ)洗面器が出てきて石けんで手を洗う。右手のみで食べるので右手を石けんでこしこしすると、おうちの人が、水を注いでくれる。 るぎにでっかいほうろう引きの浅い洗面器のようなヤツにテフ(ミルとアスカダムはいっていたが)という独特の粉を発酵させて焼いたでっかいでっかいパンケーキが出てくる。 そこに、バルバレというすごくホットな香辛料で似た鶏1匹のソースがかけられる。辛くない野菜の煮物(カリフラワーやニンジン)。要するに、発酵パンケーキに、いろいろな具を入れたソース(基本的に辛い)をかけて、それを手でちぎってつけたり、こねたりして食べるのだ。 大皿一枚をみんなでかこんで、自分の前のところからちぎって食べる。 アムステルダムにいるときからこれは時々食べるが、好きではあるが大量には食べられない。 しかし、自分の前の分を食べおわったら、すばやくおばさんが3枚目をちぎって私の前に置いて食べろ食べろ・・イヤーわんこそばみたいだ、と日本語でいったら、ナオミちゃんがわんこそばって何というんで、説明したら、この国の人はいらない、といっても入れてくれるんだよ、違うよという。 確かに、勧められるのも苦痛でござるわ。 それで、これは一つしかないから、一番のゲストに出すものだ、といって私の前に置かれた肉のかたまり。がんばって食べるとこりこりする。 しんぞうかな?といったら胃袋だという。 その後、また手を洗ってコーヒーセレモニー。エチオピア、エリトリアのコーヒーセレモニーは有名である。 しかし、すごく濃いので、アメリカン党の私には苦くて胃によくなかった。 それと、このコーヒーとインジャラがおなかの中で化学変化を起こして、再発酵を開始して、もうどんどんおなかがふくらんで、首の辺りまでグウと来る。これには参った。いる間、食べるはいいがその後が恐い・・だった。 だいたい、昼にインジャラを食べると、夜は再発酵でおなかがふくれて食べられない。もしかしたら、この国のこの主食って、沢山食べなくてもおなかがふくれる良さがある?のか。・・だって、そうしたら、空腹を感じなくてもいい分、小食で助かるもん。
会話は基本的にテグリニアというエリトリアのことばである。 時々なおみちゃんが日本語で、となりに坐ったアスカデッドやビレンが英語で耳打ちしてくれる。 しかし、みなさんが会話に夢中になると取り残される。 サラにしかしだ、私は退屈しなかった。 なぜか。 みんながしゃべっている間ひたすら結婚式ビデオを見ていたからである。 すごくおもしろかった。 これといった産業の確立していない国だが、結婚産業だけはある、と思った。 とにかく派手だもん。 おばさんの子どもの結婚ビデオを2本みた。 もうエンエンのぎらぎらビデオだ。 あきなかったわ。
夜、大晦日のカウントダウンに、大通りに行った。 すごい人だ。 ふだんはいない、ミニタリーが角々にさりげなく銃を持って立っている。 人が大勢出て、ひょんな事から暴動などが起きるのを防ぐためだろう。 銃を持っている人はのどかそうな顔をしているが、やはりなんか事があるとあの のどか顔が豹変するのだろうか、と思った。 12時、町中の教会の鐘が鳴り響いた。 私は、除夜の鐘をおもいだした・・それも、雪の高野山なんかでつかれる除夜の鐘。あるいは東北の山寺の鐘。(いったことないけど、テレビなんかで見るよ) ちょこっと、日本の田舎の大晦日がなつかしかった。
| 2003年12月30日(火) |
★市場にいってお粥をつくる |
ビレンの調子がよくない。 私はおなか、とくに異常ないが、みんな少しずつ調子がよくないらしい。 アスカダムが大丈夫かと聞くので、「異常なし」と応えたらびっくりしていた。 そりゃ、私、腹が黒いモン、黒くなるほど、悪い菌飼っているもんね、なんてさ。 で、市場で野菜やらタマゴやらを買ってきて(米はインデカがある)、お粥をつくる予定だ。 ビレンには、おなかを冷やさない、コーラなどの冷たいものを飲まない、脂気のものもよくない、などと注意してツボマッサージをした。 若いのに、かちかちの身体だった。
朝八時に起きて、アスカダムと市場へ。 ニンジン、オニオン、ほうれん草、生姜、卵を購入。 それで、プロパンガスに火をつけて煮炊きする実に素朴なキッチンでお粥をつくった。 できあがったお粥に、アスカダムが、コンソメパウダーとソイソースを買ってきてくれたので、加えてさらにうまさグレードアップして完成。 大鍋でつくったので、みんなが食べて美味しいといってくれた。夕方やって来た、ガブリエススさんも食べて美味しいからレシピを教えて、とまでいわれてしまった。(ちょこっとお世辞?かな) それにしても、アフリカまで来てお粥つくりする私は「日本人だ!!」わ。 しかし、世界中探しても野菜タマゴお粥ほど、おなかグワイの悪い時、美味しくておなかに優しいモンないと思うよ。日本が誇る健康食だわよ。
それにしても、アスカダムは毎日親戚、友人さんたちに一日5人前後はあっているぞ。このうちにもしょっちゅう人が訪ねてくるし。 本日は私も午後からでかけて、おばさんのおうちまで行った。 そこの家にいた孫娘(アイシャという)は、両親がいないのだという。(ナオミちゃんの説明) 「戦争かね」 「多分ね」 とのこと 親戚関係が強固な限り、この国では「社会福祉」は不要というか、整備されないだろう。
夜、インターコンチネンタルホテルへお食事へ。 女たちがまず向かったところ、トイレチェック。 アスカダムが笑っていた。 別世界でしたわ。 もちろん食事も・・・料金も別世界だったが・・ ここのホテルのお得意さまはUN(国連平和維持軍)だ。 「エリトリア国境からアスマラまで車で2時間もはしればここに着く、2時間でリラックスできるんで、UN兵士たちはエチオピアよりエリトリアで働きたがるんだ」 とはアスカダムの説明だ。 エチオピア国境からアジスアベバまでは約800キロはあるとか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・ アスマラの市場 市場は私の大好きなところ。 ここでも、材料は、むきだし(例えば、鶏は足をしばられて1ぴきモンで売っている)香辛料、穀類、泥の付いた野菜、積み上げられたフルーツ・・・見ているとその鮮やかな色やにおいでくらくらしそうだが楽しい。 市場の角に男の人たちが大量に溜まっているところがあった。 アスカダムに聞くと、仕事を探している労働者だという。 ここでたまっていて、求人に従って連れられていく。 山谷とかのシステムもコンなんだよね、確か。 アスカダムに賃金を聞くと 大工・・一日200ナクファから、300ナクファ 工事人・・・一日50から60ナクファ とか いや、プロフェッサーアスカダムはなんでも知ってはりますわ。 たいていの質問に打てば響くように応えてくれる。 ホント、感心する。 私は、日本についての質問にアスカダムのように応えられるだろうか? Noだわね。 (比較の参考に) オレンジ1キロ・・・17ナクファ シャイ1杯(紅茶)・・・・1ナクファから2ナクファ バニー(丸パン)1個・・・30セント バナナ1キロ・・・6ナクファ 町中で買うアイス・・・ワンコーン3ナクファ 別世界のインターコンチのバイキングデナー1人 165ナクファ
月曜日。郵便局や買い物がしたいので、初めて市内へ一人歩きである。 今までは、誰かと一緒だったが、だいたい様子が分かってきたし、ボチボチ歩きだ。
で、本日のストレンジ
私は通りを横切っていたら、写真屋から出てきた足が不自由なじいちゃんが、おいでおいでをした。 そばに行くといった。 「アンタ英語は話せるかね」 「ちょっと」 「じゃ、ワシを助けてくれ・・」 (いいけど、足が不自由そうだし) 「車を持っているか」 「いえ、私は旅仔者だし、持っていません」 「そうか、だったら、ワシに20ナクファおくれ、それだけあれば、ワシは家までタクシーで帰れるから」 「・・・・」(絶句) (気を取り直して)「アイムソーリー」 スタスタ、私は去った。 もうびっくりだ。 ちゃんとした身仕舞いで、写真屋などという、小金がないと用のない店から出てきた人が・・・・ いかにもという人からいわれたことはある、お乞食さんからもある。 メキシコやトルコでは、たつ前日、コインをちかくのお乞食さんの手へ落としに行ったこともある。 しかし、こんな形で「市民」からいわれたのは初めてだ。 帰ってきて、ビレンに話したら「それは彼にとって、癖というか、習慣になっている、旅行者にとって20ナクファ(1ドルだ)は大した額じゃないことが彼にはわかっている、もしかして、いってみたら暮れるかも知れないと考えたんだろう、今までもそれでもらっているのかも知れない。私だって、いわれるかも知れない・・・」 私だって、というのは、ビレンやアスカデッド、ナオミちゃんは外見(肌の色など)はまあこっちの人おんなじだが、外国からきたこの国の人ってやっぱりわかるんだよね。そういうことだ。 私が見ていても、どっかしらちがうもん。
付記 オランダに帰って、三枝子やテクラブにこの話をしたら、テクラブは、お金のないお乞食さんでも身なりは立派だったりするんだ・・といっていたが・・・ しかし、彼は、写真屋から買い物をしてでてきたんだよ、お金がないとは思えなかった。
| 2003年12月28日(日) |
★メイド イン エリトリアズ ムービー |
11時にマサワのセントラルホテルを出て、アスマラへ帰る。 帰り道、マサワに空港ができているというので、見に寄るが、まだできていないということで引き返した。 途中、「ノマド」(遊牧民)の集落を見る。 ずんずん高度を上げて涼しいアスマラ着2時。
1時間ほど、シエスタ、アスカダムにはお客様、ナオミちゃんは外で近所の子どもを集めて「折り紙教室」を開いていた。 びっくり、折り紙やらペンを「この日」に備えて持ってきていたというのが立派。文化人類学専攻の彼女だが、ユニセフあたりがいいんじゃないの?と思った次第。 折り紙といえば、大昔、ビレンとアスカデッドがまだちっこい子どもの頃に、私は、彼らのオスロのうちに泊めていただいたんだけど、そのときに彼女たちにやはり折り鶴を教えたんだわ。 で、その話になって、ビレン「あれ、○○○(私の名前)だったの、よく覚えている、鳥を折ったの」といってくれた。昔々のお話・・・
さて夕方「きょうは映画を見に行く、エリトリア製の映画」 そういうことで、6時にうちをでた。 ・・・・映画「プリンスパル」・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ファーストシーンから撃ち合い。 左下に曜日と時間がでる。要するに、これはドキュメンタリータッチの映画よ、ということだろう。 いろいろと人の動きはあるが、よくわからぬ。それはまあ当然、だって言語はテグリニア。ナオミちゃんに訊くも「私もわからないよ」とうるさそうにいわれた。言葉が難しくて、はやくて、らしい。 左隣にいるアスカデッドも、初めは左下の曜日時間とか、の説明をしてくれていたが、言葉の理解がやっぱりイマイチらしくて、だんまりである。こうなると、とりつくシマなし。私は想像力ならぬ妄想力で見ねばならぬ。 シーンで、でてくるのは、アスマラらしい、中流以上のご家庭の居間。興味深い。 大きなサイドボード、テレビ、応接セット(またはテーブルとイス、キッチン「隣の部屋は寝室って感じ。 今(アスカダムが借りてステイさせていただいているところ)おんなじようなところにすんでいるので、なるほどな、である。 やがて、はっきりとわかった、一人の男が仲間を裏切った。 反政府組織の仲間に仲間割れが起きたのである。(理由?もちろん、わかんない、言葉がわかんないとこういうことはわからん)しかし、裏切った、というのは裏切り男がミニタリーと話してのち、仲間であったはずの男を撃ち殺したことで判明したのであった。 ナオミちゃんに再度「ネエ、どうして裏切ったの」と訊ねるもまたしてもうるさそうに「私にもわかんないんだよ、ことばがむずかしいよ」といわれたので、この後は実におとなしく自己妄想力を馳駆してみる。 でも、だんだんドラマの構図がはっきりしてきた。 裏切り男+ミニタリー × 反政府組織 である。 何が「×」(対立抗争)の要素になるかといえば、反政府組織の政治資金の在処を巡る攻防戦である。 で、、裏切り男はかつての仲間を次々と追いつめて、金を探しながら殺していく。 そして、金の行方を知っている男と女を拷問していく。(実にくらいのだ) そして、最後にお金を隠し場所からとりだした組織の男を撃った裏切り男が勝利したかに見えたのだが、土壇場で別の仲間が来て彼をシューテング。最後の最後に反政府組織の勝利で終わった。 裏切り男が撃たれたときに拍手が起きた。 ここで、思った。 ドキュメンタリータッチと最初に書いたが、実はこのありがちなストーリーに実際の体験から共感する人が多いのだろうということ。 つまり、この国の独立まで、戦争を30年戦う間、こういった時間は次々とあったんだろうなということ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 終了後、アスカダムに「わかったか」と訊かれた。 「テグリニアはまったくワカランが、ストーリーは理解した、しかし、かんたんに銃を使って人を殺すシーンが多いのは好きじゃない」 アスカダムもそれはそうだと応えた。
まあ、エリトリアテレビは1局しかなくて「政府のプロパガンダ」化しているのと同じく、この映画も似たような側面を持つ。 しかし、日本はどうか。 テレビ局も新聞もたくさんあって、一応なんでもありよ 自由よ、みたいな感じだが、実はニュースソースはおんなじで、政府発表を裏をとりもせずに掲載したりで・・・テレビ、新聞、オバカな政府のプロパガンダしている・・が見えにくい分だけヤバイかも。
きょうは、ダラックアイランドに行く予定だったが、パーミットがいるのと、ダイビングとかをする人なら楽しめるのだが・・という話になって急遽、ホテルから船で10分かそこらでいけるグリーンアイランドとなった。 しかし、私はもう昨日「紅海初入浴の儀式」はすませているので、泳ぐのはやめにして、ビーチコーミングをすることにした。
ほかの4人が例のごとく美しい海につかっているのを眺めながら私は傘を差して(暑い!!)渚をウロウロ、貝とめずらしいもの拾い。 大きな収穫はお椀のようなさんごと、戦争の時の薬莢、宝貝のでかいの。 とくに宝貝は、我ながら、ヤッホーだった。 薬莢は、エチオピア軍のものかと思ったら、アスマラに帰って訊いたガブリエススさんの話によると違った。 もっと前、アラビア軍が攻めてきたときのモノだろう、とのこと。それってアラビアのロレンスのころ? とかって、私は一人でにんまりしたのだった。
渚にはゴミがまったく落ちていない。 それが奇跡のようだ。 紅海は狭い海だし、もっと渚は汚いかと思ったのだが。 (後で判明したこと・・・アスカダムが教えてくれたこと・・・「ゴミは着岸する前に船でさらえてボーダーの向こうに持っていっているんだ」・・それって、つまりはゴミは、対岸のイエメンとか、サウジとか、お隣のジブチとかに着くわけ?か。ひ、ひどい話じゃないか、とわたしはびっくりしてあきれた)
帰ってきて、例のごとくお昼寝。 私はビール。 そもそも、イタリア式でこの国には、シエスタの習慣があるのだが、ここマサワではそれは実に有効のようだ。 夕方4時過ぎに(変なじかんだ)ダラックホテルでお昼。 ダラックホテルは皇帝の冬の宮殿だったところで、レストランになっている丸形の建物は実にいい感じ。 私は、魚スープを食べたが、美味しかったし。 さらに夜、8時半頃、もう一度と、私だけサラームレストランに魚を食べにいった。(日本人は魚だ) みんなを誘ったのだが、おなかいっぱいとかでのってくれんかった。そりゃ、インジャラとか、パスタとかこってりしたモノを食べていたしね。 サラームレストランは、私のことを覚えてくれていたが、きょうはビッグな魚はなくて、ミデアムだけ、であった。私は自分の顔よりでかいヤツを一人でむしって食いたかったのだが、少し残念。 でっかい方が断然においしかったが、ミデアムもそれはそれ・・やはりうまかった。要するに鮮度が抜群にいいのだ。
魚を食べて9時半頃にかえったら、アスカダムが一人でテレビを見ている。 お嬢さんがたは、ホテルのガーデンフェらしい。 今テレビは、テレビ開局25周年とかで昔のフィルム(戦い)、昔兵士だった人で生き延びて今はえらくなった人などの話を延々と流している。この国の大統領をはじめとして、主だった閣僚はみんな昔「ファイター」だった人たちだ。 そんなテレビを見ながら、アスカダムと話した。 アスカダムはフランス語の先生だった人なので、フランス語か、ノルウエー語か、母国語のテグリニアが一番いいのだろうが、私が日本語と簡単英語しか解さないので、実にゆっくりと、分かりやすい英語で話してくれる。 さすがモトセン(元教師)、それで、何でも知っている。 昔、エリトリアもエチオピアもリサーチをしたことがあるといっていたのでそのせいもあるだろうが、私にとっては、旅の間中「プロフェッサーアスカダム」であった。 以下、アスカダム語録 「この国がふるわないのは、アタマのいい人、能力がある人がみんな外国にでていってしまうことだ」 「この国の政府は外国で教育を受けた人たちが国に帰ってくることをあまり好まない」 「もし、そういった人たちが帰国したら、発展するだろうと思う」 (私もそう思う) 「紅海から、魚はたくさん捕れる、周辺国との関係が良好なら、これをとなりに輸出できるのに。野菜や果物も同じだ」 「エチオピアでは毎日、今も人が死んでいる、飢餓で。しかし、エリトリアは死なない、我々は食物を持っている。戦争をしていなかったら、売ることができるのに・・・」 ほんに・・・この言葉は愛国心からでたのか、と思ったが、そうではなくて、この後あちこちに行って、確かに餓えてはいない、この国の人は。たらふく食っているかどうかは疑問だがとりあえず食っているぞ、と感じた。この感想もまた、20年前の中国で受けた感想とよく似ている。 アジアの発展は、ひとえに周辺国と仲はよくなくても、最悪の戦争はしないから・・に尽きるかも知れない。 「彼ら(エチオピア人)は、餓えていても皇帝のプランテーションに手を出そうとしなかった、私だったら、死ぬのだったが手を出す、盗む、生きるために奪う」 ※付記・・皇帝ハイレ・セラシエ・・20世紀の、いいことも悪いこともいろいろとなさったエチオピアの皇帝であります。詳しいことを書きたいのだが、今手元に資料がないのでありまする、ごめん。
彼の話で最もびっくりして暗然としたのは「戦争しているエリトリアとエチオピアの大統領同士は親戚だ」ということだった。 もう「えええ!!!」と叫んでしまった。 アスカダム苦笑いで「そうなんだよ」 親戚のつながりが日本の50倍以上強い国にして・・・そりゃないでしょ、だった。 それでは、もうこの戦争は要するに近親憎悪の世界に突入しているのではないか。 もともと、一つの国であったから、人の関係が濃いのは当然だが。 ああ・・・だ。 「南アフリカのマンデラ、タンザニアのニエレレのような偉大な指導者がこの国にはでなかった、それが大きな問題だ、それは他のアフリカの国にも共通する問題だが」 来る前にエリトリアをネットで調べていたら、印象的な一言があった。 「エリトリアには、日本の明治維新の時のように、自分の命を犠牲にして、国に尽くすような人物が出ていない、それが今の悲劇を生んでいる」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ アスカダムも、26才の頃に解放戦線に参加した人だ。 しかし、インテリ(フランス留学した)ブルジョワと、何かと故ない差別や罵りにあって、離脱したのだ。 その話もたくさん聞いたが、また別の機会に。
もちろん晴だ。 紅海にしずしずと初入浴?する日だが、昨夜はファンの音でよく眠れず。 体調、芳しからず。 暑いからつけていたんだけど、うるさかったのだ。 体がだるい、というか、ここの湿った暑さは、空気に睡眠薬が入っているというところか。ベトナムの空気に似ているぞ。 ホテルで、ハエの襲来を追い払いながら、フルブレックファストを食べて10時半にでた。 砂漠の中の道をダダダと走って、ビーチホテルという、これまた砂漠のビーチ沿いにできたガイジン租界風のホテルについて、その前がビーチ。 まったく何もない、延々と続くビーチのハシッコ、ここだけに人気アリって感じ。 砂漠のビーチらしく、ラクダを引っぱったおじさんがいるが、それでのれって感じだがイランというと実にあっさりと引き下がりなさるわ。 私は、かったりいので(というか、今年のベトナム東シナ海初入浴で自分はもう若いときのように海で泳ぐことを楽しめない年齢になってしまった、と悟りを開いたので)、パラソルの下でごろついていらのだが、ナオミちゃん、ビレン、アスカダム、アスカデッド、みなさん、喜々として海に向った。 アスカダムは私がごろついていたら「どっか、悪いのか」と聞く始末(お優しいことよ)。上記のような説明を英語でするのは、ニュアンスが難しいので「昨夜、ファンでよく眠れていない」(事実だし)と応えておいた。 ナオミちゃんが海から上がってきて「お風呂みたいに暖かくて気持ちいいよ」というので、んじゃ、ちょっくら・・海縁へ。 内海の特徴・・ざざざざーーーーーざざざざざーーーーーという感じの波の打ち寄せ方。 ざっぶんーーーーーざああーーーーーざぷううんーーーーざざざあーーーーーじゃない。 このざざざ的波のうち寄せ方は、バルト海、北極海の内海辺りの音と似ている。 サントリーニで泳いだエーゲ海はもう少しダイナミックだった。 考えてみれば、今年は、東シナ海に始まって、エーゲ海、この紅海と日本では入れない時期に海にはいったと感慨に耽ってしまったわい。 ナオミちゃんのいうとおり、あったかい。ほとんど、お風呂、ホテルのシャワーよりうんと温度が高い。で、しょっぱい。この紅海は、流れ込む川が1本もない海だし、しょっぱいのもすんできれいなのも、なるほどだが。
泳いでいるのは、若干の白人観光客と地元観光客。 地元といっても、大方はアスマラ辺りから来ている人たちだろうが。子どもを連れて楽しんでいる。とても、ボーダーでは、国連の平和維持軍が駐在している国とも思えない。しかし、だからこそ、30年も独立戦争を闘えたんだろうな、なんてなんだか矛盾したことを考えてしまった私だ。 それにしても、こういったところに必ずある土産物屋がない。 あの、ベトナム10ドルリゾートだって、何人も、ハエのようにうるさい移動土産 物屋の兄ちゃん、ネエちゃんがいたぞなもし。 ここには、ラクダ引きのオヤジが手に申し訳程度宝貝のネックレスを持ってはいるがこれも断ればあっさりと引き下がる。 商売っけというものが希薄である。 アジアのリゾート、ハワイ、みならわんかいといいたくなった。 アジアまで行かなくとも、エジプト人だって、すごい商魂だもん。 今だ、素朴な観光地の典型であった。
帰ってきて、2時過ぎに帰って遅い昼食と昼寝。 私は昼寝はせずにビールを飲みに。 しかし、ビールにハエが飛び込みそうで追っ払うのに疲れた。 ホテルのボートを管理しているにいさんに「サラーム」(ハロー)といったら「あれ、テグリニアが話せるの」とうれしそうな顔でいわれたが・・・ごめん「サラーム」だけなのよ。
夜、ネットカフェに行くというビレンについて行ってみた。 いや起きるのが遅いわ。 1ページ開くのに5分以上かかっている。 それでも、あんまり広くない部屋に16台くらいのPCが稼働していて、満員。 隣の若い兄さん2人は、回りを気にしながら、ぎんぎんの顔してアダルトサイト(白人女性のヌード)を見ていた。 最終的に、追い出されていたけど。 やれやれ、男性はドッコモおんなじでんなあ。
ナオミちゃんは、子供用のテグリニアテキストを買って、お勉強の体制に入った。 「話せるけど、読めない」とは自己申告の言葉。 ナオミちゃんは、オランダ語のほかに、英語、ドイツ語、日本語、イタリア語?かな。それにこの国の言葉のテグリニアとエチオピアの言葉アマリニアも話せるのではないかしら。 で、今度はテグリニアをかけるようになる・・というその心意気はすばらしい。もともと両親からすばらしい耳をもらっているようだが、それに加えてしこしことがんばるお嬢さんだし、やるだろう。
夕刻、町の中を歩いた。 例のごとく、見せ物状態だったが、それでも、いまだに傾いたままの建物、爆撃で穴が空いたままになっている家などを町中にたくさん見た。 その下に人が暮らしていたはず・・・とおもうとショックだった。 (付記・・・帰ってきてアスカダムの義弟ノガブリエススさんにその話をしたら、エチオピアのアタックだけでなく、マサワは、1920年に大きな地震があってそのときに倒壊した建物もそのままになっているはずとのことだった。しかし日本的に絵いえば、80年以上も前の地震の爪痕がいまだに残るのか・・・と思う。阪神大震災後の神戸を見るとなおさらそう思う。回復するには、それなりの経済力やら政治力やらが必要なのだろう。で、この国は、金(ドル)はいるけど、口出すな、人はいらない(来なくてよろし)の体制を外向的にとっておるので、なおさら復旧ということから遠くなるのであろうとの感想を持ったのであった)
| 2003年12月25日(木) |
★紅海・・・マサワへ泳ぎに |
マサワについて 紅海沿いの町である。 エリトリアでは、マサワに行くといえば、海に入りに行く・・・リゾートに行く意味になる。ついでにうまい魚を食べに行くの意味かな。 聞くところによると、紅海ではお魚がジャンジャヤン取れるらしいのである。 しかし、エチオピアとも、スーダンとも国境を閉ざして戦争状態なので、近隣の国に売れない。それはたいへんこまった問題で、はやく平和的解決をすればいいものを・・と思うのだが、そこはそれ、日本と中国、北朝鮮などの問題ともにているような(にてないか)とにかく、兄弟が喧嘩をするように近隣とはなかなか仲良しになれないのが・・愚かな人間どもの宿命か?? 話がそれた。 マサワはリゾートの町だが、その昔イタリア時代は、鉄道が通っていた。 それに乗りたい・・といったのだが、アスカダムの話によると、まだ25キロしか修復されていないとか。で、チャーターの時しか動かないのだとか・・残念だったね。ロンプラによると、今にも、修復されて乗れそうなことが書いてあったが、まあそれは当分というか、5年や十年は無理だろうと、実際にみて思ったことであった。
。。。。。。。。本日のできごと。。。。。。。。。。。。。。。 10時発。 例のごとく、親せきを一つ訪ねてからアスマラをでた。 町中にいると感じないが、いったん市街地をでると眼下にアフリカの乾いたアフリカの山峰が続いていて壮大な眺めだ。そして、ここが、2400mほどのアフリカ高原上にある都市なのだ、を実感できる。 アスマラからは幹線道路が4本でていて、そのうちの1本がマサワ行きの道路だ。町はずれに、コントロールがいて検問。とは行っても、アスカダムがマサワに行くといったら、検問にいた男がアスカダムに途中の町の家にあずかりものをしていた(「お、マサワまでいくのかい、●●へ、これこれを持っていってくれないかい」・・みたいなことなのだろう、テグリニアでようわからんが。)のんびりした検問なのである。 外の国から見たら戦争状態にあるのに、のんびりゆるみがちなのは国民性と見たぞ。 道はどんどん高度を下げる。 下の崖の合間にイタリア人が造った鉄道の線路が見える。 いや、確かに平和になって、あれが開通したら、観光資源だね、これはと感じた。 高度が下がると、砂漠的な景色が広がる。サボテンの森、赤茶けた土の色と同化したような人の群れ。たきぎを拾って帰る途中の人が多かった。 12時45分 ネファシット 途中、アスカダムが山のてっぺんを指して、この山のてっぺんに教会がある、自分は子どもの時にのぼった、女性は登れない、と話してくれた。 エリトリアの、エチオピアの、山の上や、岩の中など人里離れたところに教会があるのだが、たいていは女性禁制だ。 1時20分、ギンダ。 かなり下ってきて、もうほとんど平地である。 暑い。 またしても、見せ物状態の私である。 で、町中のややましそうなレストランで卵サンドのランチ。 すごいハエ・・インドを思い出すわ。 インドの黒ゴマパンの話。 インドに行った旅人が、真っ黒いパンを見てセサミパンちょうだいといったら、店の人が手を伸ばしたら、はえが飛んでふつうのパンがでてきたという話。 つまり旅人は、ふつうのパンにたかっていたハエをクロゴマと間違えたという話だ。 その話をアスカダムにしたら、ウエーといって笑ったが、ここだってにたようなモンだぞ。 ちなみに、アスカダムはあずかってきた、荷物をここの町で届けていた。
3時頃に、マサワ着。 マサワは、マサワアイランドと、チュルルアイランドと二つの島に分かれていて、それが橋でつながっている。 町の入り口には、戦車が並ぶ市民公園があった。 このマサワは、戦争時、エチオピアから手ひどくやられた町の一つだ。 あちこちホテルを探して、セントラルホテルに落ち着く。 ホントは2000年にできたレッドシーホテルがよかったんだけど、満室、仕方ないよね。お休みだし、一番きれいなホテルだし。 わたしたちが落ち着いたセントラルホテルのファミリールームは、ダブルルーム、ツインルームにベットを一つ入れて、350ナクファ(1ドル・・・公式レート10ナクファ。非公式レート20ナクファ・・私は非公式レートで両替した) それに、トイレ・シャワーが付いている。 シャワーはほとんど水のようなぬるま湯だが、まあ暑いので苦にならない。 アスマラも日中は26,7度まで行くが乾燥しているので気にならないが、ここマサワは蒸し暑いので汗がでる。それと、確実に30度以上になる。 ホテルに落ち着いて、やれやれで、私は喫茶室に行って、ビールを飲んで日記を書いた。ここも、ハエ概要に多いので追い払い追い払い・・・ アスマラビール、うまし。8ナクファ。安い。
夕方、アスカダムが町の人に訊いた一押しレストラン、サラームレストランに行った。 こぎたないレストランで、やや心配だったが魚はまちがいなくうまかった。 でかい魚をみんなインジャラを食べるように手で食べて、後はチャパティ。イスラムの店(イエメン人がやっているとか)なのでアルコールなし。 うまい魚だったが、できれが、醤油とご飯、箸があれば・・などと哀しいことを考えてしまった。 ポルトガルのナザレで、イワシの炭焼きを食べたときも、パンじゃないんだよ、飯もってこいと切れそうになったっけ。 日本人は、うまい魚を食えば食うほど、飯もってこい状態になる。私のようにあんまり日本食にこだわらないものでさえ。 性(さが)かね・・・なんておおげさな。
ここは、カがいる。 マラリアに気をつけねばならないエリア。 アスカデッドとビレンにお薬をもらって飲んだ。 アスマラで買おうと思ったのだが、薬局がしまっていて。 しっかと、カに食われた。
エリトリアの首都アスマラ。 一時エリトリアを植民地支配したイタリア人が作ったコロニアルスタイルのイタリア建築が【凍れる状態】で残る美しい町である。長い独立戦争で、大きく破壊されていまだに回復していない町も多い中で奇跡的に破壊を免れたラッキーな町。 美しいといっても、そこはアフリカ、小路を入ると、みほそうだし、かたむきかけたビルに人が暮らすし。鶏は走り回っているし(もちろん食べるため) 大通りを、車と一緒に、馬やロバがしごく当たり前に走るし、ひなびてはいる。 そして、車が少なくて極ゆっくりと走る。となりのとなりのエジプトのカイロなんて、みんな競争のようにクラクションをぷーぷーいわせて走っていたことを考えると、そののどかさはいい感じである。 それに、人の顔つきものどやかで、にこやか。 日本語のアフリカガイドブックに「アフリカで一番治安のいい国」とエリトリア人自らが自慢したとあったが、それがあながち嘘ではないなと感じさせる落ち着きと安定が待ちの雰囲気や人の表情にあった。 しかし、私は落ち着かなかった。 なぜかって? 一人で歩いていると、穴が開くほど見つめられる。子供はチャイナ、チャイナとよってきて(チャイナやないちゅうねん!)、後ろに行列が出来るほど。大通りでは、お金おくれといわれたり、換金によって来る人多数。 直美ちゃんやアスカダムファミリーといると来ないで眺めている人たちがいっせいによってくるのである。 アジア人が珍しい。 旅人が少ない。 ためである。 顔に穴が開く前に「ハロー」とか「サラーム」とか挨拶すると、大人青年はは、眉で返答が帰ってくる。眉がぴくぴくと動くんだよね。 で目が和やかになる。 チャイナという子供たちに、ノウチャイナ、ジャパン、なんてマジにいおうなら、もう取り囲まれる。 一度、大通り(インデペンデンスどおり)でやったら、大変だったのでよくよくのことがないかぎり無視していたが・・・・・静かに旅人させてほしかったと・・・。 町は大きくなくて、私たちが暮らしていたアスマラ大学そばから中心まで歩いて10分弱。だから歩いて10分行けば、さすがに首都、何でもあるし揃うし。それは便が良かった。 イタリア人支配のなごりで、食べ物もイタ飯系、パスタとか、ピザがうまい。 レストランやカフェ、アイス屋(コレも美味かった)、ケーキ屋、バー、びよういん、、まちなかにこういったお楽しみ系のお店が沢山ある。 食べること、飾ることを楽しんでいることが、町のお店の様子を見ているとわかった。 地元名物インジャラにかなりまいった時などは実にありがたかった。
町の中心には、ゴシック系カテドラルの尖塔がそびえ立っていてよき目印。 そのほかに、グリーク教会、ルーテリアン協会、オーソドックスなど、キリスト教の教会多数。 イスラムも国民人口の半分を占めるのでモスクも多い。 朝、近くのモスクのお祈りの声でよく起こされた。 元々水と油のようなクリスチャンとモスレムが同居している国なのである。 エチオピアとの関係も問題だが、いずれ、この二つの宗教対立なんて事があるかも・・・・なんて思ったりした。 だって、今の大統領の次の人はモスレムとかで、クリスチャン(つまり私の滞在中の周囲の人たちだが)は、みんなそれを気にしていた。 アスカダムなんて「イスラムの法で支配するなんていわれたら・・・」みたいな心配をしていったけ。
。。。。。。本日の出来こと。。。。。。。。。。。。。 9時起床。 アスカデッドとビレンが言うには、既に来客が三人あったという。 アスカダムが買ってきてくれたパンで朝食を済まして、親戚、知人訪問に出かける。 アスカダムが1ヶ月、この町に休暇で滞在する理由の主なるモノは親戚訪問である。 それが早速開始されたというわけだ。 乗るエーで娘さんをなくした老婦人と、昔アジスアベバに住んでいたころの家族(親戚)にあう。 家に帰っても、訪ねてくる人多し。 「エリトリアに行くというと、ジャ、アレを持っていって、とかコレを頼むと買って、毎日電話がかかってくる、だけど、ルフトは荷物制限が20キロ、ママは毎日の電話に悩んでいた」 アスカデッドの言葉である。 アムスにも、大きなエリトリア、エチオピア社会があるが、オスローにもあるのでネエ。 それは良くわかる。 なんでも人にたのんじゃって割と平気な国民性みたいだから。日本人みたいな遠慮感覚はない。(違う意味であるようだけど) 祖言うことで、来る人は、オスローから、何かしらアスカダムが預かり物をしてきた人たちの家族である。 送金が主なようだが、物もある。 聞いてはいたけど、いや濃密で大変な関係である。 夜、ブルーナイルレストランで、食事。 エリトリアなのにぶりーナイルとはこれいかに・・だが(ブルーナイルはエチオピアにある)グッドレストラン。 」私はピザを食べたが、実に美味かった。 夜、降るほどの星が美しかった。
エリトリアは、アフリカ東部の国である。 紅海に伸びる細長い小国、1993年にエチオピアから独立したばかりのアフリカで一番若い国といっていいだろう。 30年の独立戦争を戦って独立した国だが、い98年には再びエチオピア国境で戦端を開き、国連平和維持軍の力で戦いを何とか避けているという状況の国だ。 外務省は、主とアスマラに危険度�◆△修谿奮阿療垰圓筌棔璽澄識茲い猟�には危険度��を出している。危険度�△箸蓮峇儻�旅行延期勧告」 ちなみに日本大使館はない。エリトリアの管轄はエチオピア大使館だ。しかしネエ、戦争していてボーダー閉じている国の日本大使館が管轄っておかしいよなあ。
。。。。。。。。。。。。。。。
飛行機はエリトリアエアラインだ。 チェックイン窓口には荷物の行列。 私の荷物は一つだが、なおみちゃんとアスカデットはすごい荷物。テクラブが笑いながら1つ私の方へ荷物をよこして【コレ、あなたの荷物ね】 全て現地の人への頼まれ物とか、差し入れ品である。 ミエコからきいてはいたが、すごいもんだ。 1人40キロまでいいらしいが、みんなぎりぎりか、それいじょうもっている。 私の前にいた女性たちは、少ない私の荷物を見て【あなたは一人、それ一つ?】と聞く。要するに、私の荷物が少ないから、自分たちの荷物を私に上乗せしてということ。そんなこと平気で頼むお国柄ですからネエ。私は【ノウ】といって、後ろにいたアスカデット直美ちゃんの荷物をあごで示すと 納得して引き下がった。 送りに来たテクラブを始めとした面々、知り合いにあうごとに肩をぶつけ合うエリトリア独特の挨拶をしている。 おお、もう、エリトリアが始まっているわ・・・・・ とにかく、【族】の結びつきの強い人たちだから。
機内はすいている。 そりゃね、戦争が始まりそうな国へ観光で行く人は少ないと見た。 しかし、騒々しい。 みんな、「お友だち化」して喋りまくっているんだな。 空くかデットと直美ちゃんも、マラス(テクラブの弟)の知り合いとか言う人としゃべっている。 アイスランドエアにのったときも、飲むとみんなで騒いでしゃべりだしたからああみんな知り合い化していると思ったもんだが、ココもそうだわ。 人口の少ない国、小さい国の特長か知らん? それにしても、テレビもなく、イヤホンもない飛行機だ。 直美ちゃんによると、エジプトエアのお下がりを買ったらしいが、イヤホンくらい欲しいよ、音楽くらい聞かせてよ、であった。 6時間、退屈しまくった。 慰みモンがないのはつらいもんッス。 でもまあ、それはエリトリア人と知り合い化出来ない私くらいで、後の人はそんなモンはイランのだろうよ。 アジア人が一人もいない飛行機というのも久しぶりに乗るわ。
アスマラ空港について無事に着陸すると、割れんばかりの拍手が起きた。 アメリカ人の多い飛行機に乗ると彼らのお楽しみ、陽気差で拍手が起きることはあるが、これは真剣な拍手・・だ。 自国のエアラインを愛しているね、の気配が伝わってきた。
着いてビックリ玉手箱はビザ代だった。 宿泊先なんぞを聞かれてチョコット困ったがすんなり取れた。が、なんと60ドルだぜ。 それはないよ、の高さであった。 アジア最貧国のネパールでさえ、30ドルよ。 故なく高いよ。(後でそのわけがわかるが) 私が払ったビザ代で最も高い・・・・ 「この国の人はよその国の人が入ってい来ることを喜ばない」(だから、高い) というのが直美ちゃんの説明。 しかし、お金、ドルだけは欲しいらしい。 だから、ビザ代が高いのか・・・・それにしても、直美ちゃんがオランダで取ったのは40ドルくらいだそうだ。ひどいよな。 ドルだけ欲しいから・・・は、むしのいい話だ。 「この国の人は、他の国の人に何かを教えてもらうのを喜ばない、他の国の人に教えてもらって高いお金を払うんだったら、自分でやると思っている」 そんな説明までついた。 しかし、出来ていないから停滞したまま、で、その国民の不満のはけ口として戦争始めたって感じなんだよね (後で感じたこと、故なくプライドだけは高いのだね、この国の人たちは)
何とか入国して、ビックリしたのはバゲージルームに荷物が放り出されていることだった。 これまた、始めて。さらには、カスタムで荷を空けさせて延々と時間をとっている。違法な持込を防ぐためだろうが、ほとんど20年前の中国だわ。 「カルチャーショックを感じる」 と私がアスカデッドに言ったら【そう、だけど、ココはアフリカだから】 ココはアフリカだから・・・・に現実感があった。 ようように、外に出たら、先にノルウエーから来ていたアスカデッドのお父さんアスカダム(テクラブの兄・・・昔、オスロにムンク美術館を見に行った時にとめてもらったことがある)と姉のビレン、アスカダムの義弟さんがお迎えに来てくれていた。 アフリカだが、ココは240m程の高地にある。 日本晩秋ほどの寒さだ。 ヤレヤレでござった。
朝 晴れていたと思ったら、午後になって雪がきた。 朝から,セッセとアイスランド日記をアップして終了. シャワーを浴びて荷物を用意して、あれこれしていたら,晴れた. で、買い物に出た. 今日は,ノルウエ‐から,子供達の従妹が来るのでカレーとサラダの献立。 カレーは無難だモンね。 町はクリスマスの気配が濃くなってきて,お菓子やケーキなどがスーパーでも賑々しく並んでいる。 オランダ名物の花屋の前にもクリスマスツリーに使う本物のモミの木が突っ立っている. 冬のヨーロッパの空気をしっかり吸って帰ろうという感じだね。
夜,サバ(テクラブ氏の妹)なども来て,総勢9人でカレーを食べた. こういう夕食も、たまには田舎の家みたいでいい. 今,サバがお皿洗いをしてくれている.
| 2003年12月21日(日) |
オランダは8時にはぼちぼちと |
23日にエリトリアに行くので、色々とやることがある. でもオランダはいいわ. 8時にはそろそろと明るくなって、9時には朝! でも、今日1日雨。 で終日、家.夜には、かみなりまでなった.
| 2003年12月20日(土) |
アイスランドから帰りました |
アイスランドのケフラビック国際空港発7時50分。しかし、例の如く遅れた。 飛行場で、2000年にアイスランドを訪ねたおりに知り合いになったOさんと待ち合わせてお会いする. 彼女は、今日お父さんの看護の為に、コペン経由で1ヶ月日本にお帰りになる。 日にちが一緒だったので、飛行場で少しお会いしましょうか、ということになった。 レイキャビクは、すごいクリスマスイルミネーションですが、どう思いますか、と聞かれて「びっくりした、夏には小さいけど、かわいい町だったのに、電飾で、ほとんどアムステルダムのレッドエリア(赤線地帯)みたい、と思いました。でも、1週間いるうちに、昼が無い、闇に飲みこまれないようにけなげな努力をしているんだ、とわかりました」 といったら、アムスのレッドエリアが受けてしまった. 彼女、大笑い。 そんな話を1時間ほどして、お互いにそれぞれのゲートへ。 アムス行きは、席が半分ほど埋まっているだけ。横になれたのが良かった. でもまあ、出るのが1時間遅れで、つくのは30分遅れだから、まあ取り返したほうかな. アムスは雨. レイキャビクの2日間(18,9日)は、昼も零下5度から8度だったので、アムスが暖かく感じる. それにしても、スキポールについて、バゲージホールまでの長いウオーキングをすると、アムスに帰ってきたな….と思ってしまう私って、こまるよね。 もう、来年は来ないんだからね、と自分によく言い聞かせる。 レイキャビクから帰ると、ホント、スキポールが大空港、都会だな。。と思ってしまう. 電車でセントラルステーションまで出て、トラムで帰った. ミエコは、日本、下の子供たち2人は、風邪を引いて寝ていた. モリアのほうは大分良くなっているが、メルキは重症。 しおれた菜っ葉のように元気が無い. ご飯を食べないので、じゃと、たまご粥を作って食べさせて薬を飲ませた.
私の遅い昼ご飯は、テクラブのお母さんから来たエチオピアのインジャラ。 テクラブが家でテーブルのリサイクルをしていて、用意してくれた. 美味しかった.
野菜が無いのでこれから買出しだ。 洗濯もしないと・…
朝から,ふぶいている.温度も低い. きょうは、オーロラ来るゾウ. キッチンで,外出の用意をして外を眺めていたら,ご飯を食べていた男に声をかけられた. 「こんな天気なのに出かけるの」 「そう,でも,今晩は晴れあがって,あなたも私もオーロラが見えるでしょう」 「ホント?」 「ウン,多分ね(メイビー)」 「ビッグ,メイビー」(大笑) しかし,ビッグメイビーは大当たり. プールから帰ったら,晴れ上がって,空には星が. で、昨日から予約しておいた{オーロラハンティングツアー}は催行された. このバスツアー,日本人が一番多い. 中に赤ん坊を連れている若夫婦がいて,それにはびっくり,鯨,オーロラ,これは大人が我慢してみるもの,子供はかわいそうだ,大人のエゴで子供を肺炎にするつもりだろうか. あきれた。 子供は,零下10の外気で案の定泣き止まず. まったく….親はなに考えているんだろうか.
最初のストップで,南に白いオーロラが見えた. 次のストップでは見えず. 最後の山の上で,北の空に,北斗七星のあたりに白い光が出て刻々と姿を変えて動く. オーロラは「ノーザンライツ」(北の光)というが,まさに北の空で輝き動く光だ.文字通りの「ノーザンライツ」 今のように明かりがなかった時代,この国にすみついたバイキングたちはどんな思いで北の空に現れる光の帯を見たのだろうか.と思った. 希望,を見たのだろうか. また,光が戻ってくる希望・… 色が緑にならないかな,と思ったが,寒さが足りないらしい. それが残念だった.
とにもかくにも,最後に見ることができた. 明日は,帰る。。オランダの昼が恋しいぞなもし。
今度,アイスランドに冬来るとしたら,毎日プールで温泉療治の世界かな. しかし,もう来ないだろうなあ……さいなら アイスランド。
今日もお変わりなく,明るくなるのは11時。 お昼を食べて,午後から,レイキャビクの中心にあるハトグリムスキ?教会の塔にあがって,教会からほど近いインドアプールに出かける.
塔の上のついたとき,全くおり悪くふぶき. サムイったらありゃしない. 早々に降りて,インドアプールへ.
アイスランドのプールの入り方は少し変わっている. きがえたら、シャワー室で,もう一度,素っ裸になって,石鹸で身体を洗う. 洗う場所まで指示されている. これは,日本人から見たらかなりユニーク. 「あんまりお風呂に入ってないな」だ。 大体ヨーロッパの人は風呂はいらんよね。 まあ,お陰で「香水」が進化したわけだけど。
プールは,飛び込み台つきの25メートルと、10メートル四方ほどの子供プール。 25メートルプールは,温度のマックス29度,更には,飛び込み台付近は、3,6メートルもあって,深くて寒い. 結局,子供用があたたかいのでそっちへ. 見ていると,アイスランド人は,チョコット泳ぐと外へ。。外のホットタブに行くのである. 外…マイナス5度の外か….とおびえるが,挑戦することにした。 外に出るドアが自動で開く. 自動にしないと,凍りつくからだろう. で、ホットタブまでの五メートルほどが,水着を着ての地獄道だったが,ホットタブ…ああ,気持ちいい!! 二つあって,一つは38から40度,もう一つがマックス41度. 41度のほうにアイスランド人はいないが,私にはこっちが気持ちいい。 一人占めで温泉を楽しんだ. アイスランドは,地熱エネルギーを最大限に利用している国. 電気も暖房も,火山の地熱エネルギーで作り出している. 台所も,オール電化で、化石エネルギー(石油,石炭)は使用していない. だから,プールも,実は,湧き出す温泉をそのまま利用しているのである. だから,どこの町にも,村にもホットタブ付きプールがある。アイスランド人は、だから外国人には必ず「プールにいったか」と聞くのだ. それにしても,極楽じゃ. 零下の空の下で温泉,北海道で露天風呂にはいっているという感じだ. 久しぶりに,からだの芯から暖まって,さらに運動した(300メートルは泳いだ)ので,体が軽い。 明日も来るぞう。
夜.晴れあがったので,海辺のほうに,オーロラハンテング。 ドヨンとした、らしき青白いものを見たが…動かず 代わりに、深夜12時すぎにUFO(未確認飛行物体)を見た. 見ていたら,突如現れて.30分ほど,ゆっくりと,動いていて,消えた. 小樽君も不思議だといった. アイスランドは,第1回国際UFO会議が開かれたところでもあるしなあ。
| 2003年12月17日(水) |
★ゴールデンサークル エキスプレス |
ゴールデンサークル エキスプレス 夏,やっているツアーのほとんど全てがないレイキャビクのデイツアーだが唯一あるのは「ゴールデンサークルツアー」だ。 シングベットル国立公園、グルフォス、ゲイシールを回るゴールデンツアー(FOR ICELAND)である。
ヒマだし,午後からこのツアーに参加することにした。 首尾よく,このYHで働くことになった小樽君も,スエーデンの元気な女ノ子マリアと参加,あと一人はボルチモアから来た男の人。 ツアー参加者は全てYHのメンバーである。 因みに小樽君をはじめとしたマリアなどYHのでフリーで働く(賃金なし、かわりに置いてもらう…ベットをもらう)面々は週1度,希望のツアーに参加できる(フリーで)のだとか。 小樽君は,2月15日までここにおいてもらうことにしたんだとか。 久しぶりに空が晴れてお日様の黄金色が輝く。 もちろん,山の端っこにチョコット出るだけだけど. シングベットルは、2000年に来たときに{一つくらい残しておくと,また来る}ということで残した,名所. ヨウするに,ヨーロッパプレートと北アメリカプレートの裂け目ができているところだ. ぎざぎざとした裂け目が何キロにもわたって走る. その広いところで,10世紀に,世界最古の民主的国民会議がこの国で開かれたのだ. バイキングはもともとかなり民主的な人達で、会議によって物事を決めた. 年に一度,この裂け目に、馬に乗って集まって彼らは会議をしたのだ。 何故か. 裂け目は深い谷のようになって,声が反響したのである. マイクがない時代にあって,プレートの裂け目が音響効果をもたらしたのである. 「ハイ,北米からヨーロッパへ」何て,いいながらプレートわたり遊びをして 見学.ここはアイスランドの聖地で,お国にヴィプが来たときは,ヘリでここにあるゲストハウスにお連れてしてもてなすらしい. 近くでは,中国の首相がおいでたとか. 因みに,ここでぐんぐんと開いている(生まれている)プレートの裂け目は,日本で,また地球の中心へ戻る(消える)らしい。最近の地球物理学?地質学?の成果である.日本からはるかに遠いアイスランドだが,意外と近いのである.
次は,グルフォス。金色に輝く瀧という意味になる,巨大な瀧だ. 夏は確かに上がる水飛沫がお日様の光で金色だった. しかしねえ,そろそろ,薄暗くなりかけた冬空の下で,ただただ侘しくなるばかり・…でっかい瀧ですけどね。
最後は,ゲイシール。 いわゆる日本で言う間欠泉。 五分おきくらいに、ブオーと10メートル以上に熱湯が吹きあがる. 夏は,周りに人がたくさんいて,特に温泉とか火山は珍しいヨーロッパの観光客におおうけだったが,今はねえ・…寂しいわ。
近くにある,ゲイシールホテルに泊っていた日本人のおじさんがレイキャビクへ帰るバスの乗った. 「オーロラを待って四日間いたんですけどねえ,出ませんでした」 ひゃーかわいそう….明日青帰りになるらしいが,明日が出ないだろう.多分… 「今年はあったかいみたいですね」 「エエ,アイスランド人もそう言いますね」
夜 何と,日本人が五人もYHに揃った. アメリカ,イギリス,日本から。 日本から着た20歳の学生,情緒不安定でチョコットおかしい,目が合わない子 だ。マリアが「ティピカルジャパニーズ」と話していたが、ある意味,若い世代の代表みたいな子。 「こんなに日本人はヨーロッパの僻地のレイキャビクに揃うなんておかしいよね」 という話をしながら,夜遅くまでおしゃべりした.
| 2003年12月16日(火) |
★レイキャビクに戻る |
雨である. レセプションのお兄さんの言うとおりに今日もここにいても、オーロラは見られない、と思う. またしても寂しい一人ぼっちの、真っ暗な外を眺めながらの朝ご飯、それでも、お兄さんはご親切にも、いかが、と聞きに来てくれる. 「エブリスイング イズ オーケー、エクセプト アウトサイド ダークネス」 といったら、笑われた. で、レイキャビクに連れていってくれるオーナーのおじさんを待ちながら、彼がどんなときにオーラが見れるかを話してくれた. 雨のときはダメ. 空が、厚く雲になっていて無理. 雪が降って、気温が昼間零下に下がり,夕方になって空がからりと晴れ上がる日がベター。 気温の下がり方も,零下10度以上がいいとか。 ネットで天気予報をみて、「もしかしたら,木曜は見られるかもしれない,でも,金曜はこのまま天気予報が変わらなければ,あなたは見ることができる」 「わたしの最後の日」 このホテルレイクホルトには,日本人のグループツアーがオーロラを見るために良く来るが,彼らは夜中,寝袋に入って,ずっと外を見ている,しかしあんまりでない. 「何故か オーロラがよく出るのは,彼らが来る前の日か,帰った後なのさ」 「じゃ、わたしもそう?」 「いや、きょうは100%出ないよ」 その後,日本人は何故グループツアーが好きなのかいう話しになって「私達は英語を話さないからねえ,普段,国での生活に英語は不用だ」「それで,私も話せない日本人の一人よ」 「あなたはコミュニケーションができるから,いいよ」 ありがとね。 北欧の人は,大抵こういって慰めてくれるよね. 更に私は,私は2000年の夏にもアイスランドに来て1ヶ月近くいた,今冬のアイスランドの生活,気候を体験してアイスランドの全てが良くわかった,だから,オーロラが,もし見られなくてもわたしにはいい旅だった. と話したら,彼は深くうなずいて「アイスランドは,グリーンランドについで,冬にうつ病になって,自殺したり,リストカットしたりする人が多い,とくに若い子たちに」
10時半、オーナーとレイキャビクへ。 時々アイスランドホースがいる枯野を走る. 車中 私「オーロラが見れなかった」 オーナー「ごめんなさい,でも,暖かすぎるのだ,今年は」 「あなたが,ごめんなさいということではない.しかし,アイスランド人にとっては,暖かいことはいいことだが,私にとってはよくない」 オーナー「プールに行きなさい,行きましたか?」 私「アウトドアプールは,日本人には寒すぎる.死ぬ,インサイドプールに行くつもりだ」 オーナー「笑いながら,死なないさ,それに,ホットポットに入ったら暖かい」 何て会話をぼちぼちとしていたら,YHについた. オーナー,私の荷物をYHのレセプションまで運んでくれて去った. ありがとう 12時前,着。 出かけようという気にならず. お昼寝をして,目がさめたら,外は真っ暗だった. やれやれだ。
夜. 小樽から出てきて,イギリス,ヨーロッパあちこちを旅して(勉強したり,イレギュラで働いたり)している男の子(21歳)と話した.
| 2003年12月15日(月) |
★レイクホルトの1日 |
夕べ朝食は何時と聞かれたので、9時と答えておいたのだが、目がさめたら10時近い. もう一組いた客は、私が起きていったら、チェックアウトするところだった。 もちろん、まだ外は真っ暗。 客は私一人。 大きなダイニングで、一人、北欧バイキング風の朝食を取る. さ、寂しいわー‐‐‐さ。 窓には、黄色や赤の電飾。 サンタや、ガラスだまも、たくさん下がっている。 レイキャビクに着いたときは、下品な電飾の洪水で、まるでアムスのレッドエリアだわとあきれ返ったのだが、このケバさは、暗やみに対するアイスランド人の必死の抵抗なのだ. けなげなことである. 朝食後、しばし明るくなるのを部屋で待つ。 12時、完全武装で、悪天候の外へ散歩. 何しろ、国民人口28万の国なので、こういう日、外に出てもぜったに誰にも会わない. 夏だと、晴れていると干草刈をしている農家の人に会うが。。この季節はねえ。 ここレイクホルトは、スノーリというアイスランドサガ(バイキングの歴史を書いた叙事詩)の研究家にして政治家だったお方が住んでいたところで、確か彼はここで暗殺されたんだった…18C?のことだったか?? まあアイスランド人にとっては、この地域は歴史あるエリアで、彼は彼らの誇りのお方なのである. しかし、今は昔、スノーリの「ホットバス」(露天風呂)と、古い教会がのこっているだけ。 この辺は、ホットスプリングポイントで、電気や暖房に温泉の地熱を利用しているので、ホットスプリングがあるところには、家ができたり温室ができたりする。 ホテルの周りには、白い煙が噴き出していて、すぐにそれと分かる. まさに「アイスランドだなあ」 教会とスノーリのホットバス、ささやかな森の中を歩いた. アイスランドにとって、森があるところは、まさにビューティフルプレース。 寒すぎて、木が大きくならないのだが、ここは育っている.… そばの丘にも登ったが、ホントにホントに寂しい景色だ. 夏だって、雨が降ると、寂しい国なのだ. いわんおや、冬. でもまあ、その分オーロラハンティングには暗いし好都合なのだが. レイキャビクは、電飾が明るすぎて見えない. 帰ったら、3時. お茶タイムにして、受付のお兄さんに、私は夕食は、日本から持ってきたジャパニーズフードを食べたいのでお皿とお湯を頂戴と頼む. 登山用の若布ご飯や五目ご飯、味噌汁を持ってきたので、今晩はそれを食べたいのだ. たった一人のお客の為に、ご飯を頼むのも何かなで.… ところで、このアイスランダーのお兄さん、誰も来ないカウンターで1日中PCを眺めていたよ. アイスランドは、PCの普及世界一なんだけど(といっても国民人口が知れているが)、新聞なんて来ない国でPCは、大事な通信手段、かつ、情報を得る窓口になっているのが良く分かる. 因みに、今は大方の人が車に乗るアイスランドだが、少し前までは馬(それも寒さに適合して小さくなったアイスランデックホース)だった。 今でも、子供が小学生になると馬を贈るとか。 アイスランド人にとっては、乗馬はたしなみなのだ.
夕方、受付の兄さんが言った。 「オーロラは、今晩も出ないよ、暖かい、冷えて空がクリアにならないと出ないのだ、明日もダメだと思う。明日はオーナーがレイキャビクに出るし、戻ったらどうか」 私は3日間滞在するといっていたのだが…1日で、越し方行く末まで考えてしまった。 行為で言ってくれているらしいお兄さんのお言葉にしたがって、戻るか.… レイキャビクなら、プールもあるし、ショッピングモールもある。 YHには、日本人もいるしな… で、決めた、もどるぞ。 しかし、私のオーロラツアーのみとおしは暗くなってきた. 「今年の冬は暖かくてウエットだ」 と兄さんは言う. そういうときはオーロラさんは出ないのだ・・…
| 2003年12月14日(日) |
★アイスランド…レイクホルトヘ |
昨日は、予約してあったレイキャビクYHについて、ミエコに連絡をしようと思ったら、アドレス帳を忘れてきていることに気がついた. 400クローネ(600円くらい)をはらってネットで自分のメールを見たい(そこにYHへのメールに連絡先としてミエコの電話が書いてある)が、日本語が化ける. アップデートしろと出るのでYHの受付の子にいうと、いいよ、しても、と簡単に言ってくれるが、出来ず. まあ、ふつう出来ないようにプリ設定してあるんだろうさ。でもまあ、化けたまま、うろ覚えの自分のパスワードも何とか思い出して、メールを開いたら、皮肉なことにこのYHに出したメールは英文なので化けもせずに読めて、連絡先として書いた電話番号ゲット.やれやれ。 そんな、こんなですっかり疲れて、9時頃から寝ていたのだが、12時過ぎにオーロラが出たらしい。 同じ部屋のオーストラリアから来た女の子が夜中に帰ってきたので聞いたら見たよといっていた. 残念。
今日は、シティインフォに行って、ホテルレイクホルト当たりに行こうかと思うが、しかし、アイスランドは、夏と違って、公共交通機関(バス)が主なるところを除いて全て休眠している.これまた、やれやれ. 朝は、11時過ぎにならないと明るくならない. 町も、ヨウするにほとんど冬眠しているのだわ. でも間、9時半過ぎにチェックアウトして、雪の中をバスに乗って市内へ. インフォで、ホテルレイクホルトに泊りたいといったら、予約をいれてくれたが、どうやっていくの、車?というので、バスといったら、バスはボルガネスまでしか行かない…知っている、そこにホテルの車、ピックアップに来てくれないかな…とかいいう話になって、彼女、難色。 それで、ため息をつきながら、あちこちに電話をして夕方5時にレイクホルトまで行くバスがあると調べ上げてくれた. バス時刻表に無いが…大丈夫か. アイスランド人は時々うそ言うからな.(知っている限りの知識で話してくれてそれが間違っていることが、しばしばある) しかし、彼女、更に電話をして「レイキャビクに戻るバスは土曜にしかないようだけど」と笑いながら言う. そして「ホントに行くの」 「いくよ、レイクホルトでオーロラ見るんだもん.ヒッチハイクして帰ってくるから」 「グッドラック!」 はいよ。 彼女、いい仕事をしているのに、ため息をつきまくって仕事するのだ. なんで… そりゃ、朝は来ないし、お日さんが出ないし、聞き取りにくい英語のへたくそな日本人が朝イチのゲスト…わからんでもないがねえ… にもつをツーリストインフォに預けて、11時になってあけはじめた市内ウオーキングへ。 しかし、寒い、バッグにつけた温度計は零下10度だ. 顔がきれるように痛い.
昼過ぎ、カフェパリスでランチ. 2000年の夏、サルベーションアーミィに泊っていたときにビールを飲みにきた しかし、ランチをするもお腹が冷えて、下痢状態. 半端じゃないアイスランドの寒さだ. 2時半過ぎ、そろそろ、夕暮れもよう。 お日さんは、地平線にちょこっと出ただけで、また沈むのだ。 これが北欧の冬. アムスは、9時には明るくなるし、4時くらいまでは明るいし、多いにましだわ. 吹雪の中を3時過ぎにバスターミナルへ。 助かるのは、一旦、屋外に入ると暖かいこと。救いだ. といっても、10℃前後ではあるが、マイナス10度の外から入ると汗をかくらいに暖かい. ヒマラヤのように部屋の中も、屋外とたいして温度が変わらないのとは違う. お腹が痛いのが納まらないので、ホカロンをお腹に張ったら少しましになった。 5時、バスはホントにあった. で、6時半過ぎにホテルレイクホルト着. なんにもない、やっぱり。 さびしいわ アイスランドは幽霊が多いんだけど、確かに幽霊が好みそうな土地柄、だってまじにさびしい、この国。 予想はしていたが…
夜中、ちょこっと大変な事件が起きた. 12時半すぎ、外に出たらロックアウトされてしまったのだ。 雨混じりの吹雪。 死ぬぞ、とおおあせりで、ホテルに隣接したうちに助けを求める. ちょうど、そこはホテルのレセプションで働く人のうちで、彼がドアを空けて、ロックアウトされない方法を教えてくれた(解除のし方を2回も練習させられた) 「こんばんは、100%オーロラは出ないよ、暖かいし、湿っているときは出ない。それに、外まで行かなくても、窓からチェックすればいい」 「はい」(しょぼん) 素直に寝ました。
レイクホルトの奥は、日本の極地研がオーロラ観測をする所がある、で私はこっちに来たんだけど、彼が言うには、このところ暖かいから・・という話し. どうなりますことか…
今日の午後1時20分、アムステルダムスキポール空港から、アイスランドのケフラビク空港まで飛ぶ. 目的はオーロラ. しかし、夜が来るまで何をしていたらええんじゃろ。 もっともこの時期、多分9時過ぎに明るくなって3時過ぎには暗くなるだろうが. 首都レイキャビクでは、2000年に行ったときに知り合った日本の方とお会いする予定。 そんなことで、日記も、ネパールトレックもアップできません。 しばらく、バイチャでございます. ではごめん。
| 2003年12月12日(金) |
アイスランド行き 準備 |
どうも、風邪の気配が取れないが、明日はアイスランドだ。 で、物価が異常に高いのでラーメンやパン、果物や野菜などを買ってきた. 自給体制である. 2000年に行ったときに、ヨーロッパの人達はみんな食料持参状態だったので私も今回はまねっこだい。 イタリア人なんて、ワインからパスタまで持参だったモンね. 私も登山用の米飯も持ってきたし. いよいよ、私の旅は日本人離れしてきたね。
オーロラ、見られるといいなあ。
今日もし、時間があったら、ネパールトレック24日アップしたいが…どうなることか…
| 2003年12月11日(木) |
風邪でせきが止まらない |
ネパールで引き込んできた風邪の咳バージョンが回復しない. おまけに今日のアムスは寒かったので、さらに具合は良くない. しかし、でも、三枝子にサバをオープンマーケット(青空市場…青空でなくともやっているけど)で買ってきてくれといわれたので、完全防備をして出かけた. それにしても、オランダ人は氷雨がふるような空なのに、夏同様自転車に乗るわ、傘はささないわ…それに、出来たばかりの公園のお祝い祭りみたいなことを、雨降りの中で賑々しくやっていた.日本だったら中止だよ. 全く、やわな日本人(私のことです)と大違い。 頭、下がります。
13日から、アイスランドにオーロラを見に行くんだけど、またまた寒いところだ. とりあえずは、13日分の宿泊はレイキャビクYHにネットから予約を入れたが…後は未定。 オーロラ、見れるといいけど、寒さが心配だわ.
夕方になって、ますます調子が良くないので(時差から回復していないせいもあり)夕ご飯作りは三枝子さんにお任せでごろついていた. そんな訳で、ネパール日記アップなし。悪しからず.
| 2003年12月10日(水) |
アムステルダム…寒し |
朝からお金を下ろして、スーパーとトルコ屋で買い物をしてきた. みかんがうまい. 温度は、ほぼ零下、バックにつけた温度計が0に限りなく近い. 息は白いし. クリスマスツリーが、木で売っている。 午後から、帰国便のチケットとり。 ルフトハンザ1・18日片道450ユーロ+tax40ユーロ ユーロが強いので、安い気がしない. 1ユーロ、130円、これって故なく高いと思う.
日が落ちると寒い。 ……… 11月23日の日記アップ。
朝7時20分のバスで成田着。 成田、正月前の閑散期でわりと空いていた. 家のことも気になるが、しかし、まあ行こうという感じなのでもう一つ気分は晴れないが…
予定通りにANAフランクフルト便出る. 隣はおばさんグループ、特にすぐ隣のおばさんの飛行機グッズに、おお!だった。 先ず、お尻に敷く、円型いぼいぼがついたようなクッション、枕、テーブルに鍵フックでロープを掛けて、それに空気枕を巻いてぶらぶらさせて靴を脱いで足を乗せるヤツ.みんな空気を入れる仕様で、ふーふー三つも膨らませていた。 さらに、良く飲む人達で、ビールワインなんでもござれ、特にワインはお代わりをしてそれをバックにいてていたっけ.夜食に出たお握りも、寝ていたのでもらえなかったといってわざわざスッチーさんを呼んで頼んでバックに。 備えつけの雑誌と、ビデオが見たかったわたしは、ワインは食事のとき1回だけ.負けましたわ. でも、アエラ、朝日、新潮、文春、新聞2誌、と読んでビデオ「トウームレーダー2」(サントリーニから始まるヤツでいつかみっちー先生がお話してらしたものみたい)「秋刀魚の味」をみて、少し眠ったら、フランクフルトはそこだった.フライトタイム12時間。 で、乗り換えてアムスまで。4時半のフランクフルト、窓の外は美しい夕焼け だった。 飛行機が空からボーダーを超えると、すぐにオランダとわかった. 何故かというと、花を育てる温室がオレンジ色の明かりを放っていたから. 四角いオレンジの箱が続く空からのオランダはまるで宇宙のベースキャンプのようでおもしろい景色だった. ルフトは予定よりも15分の早く着いて、おまけに荷物は1番に出てきて・・外に出たら、まだ迎え来ず.こういうとき、アジアとか、中東のアヤシイ空港だと、タクシードライバーから客引きまでわらわらと寄ってきてえらいことになるのだが、スキポールは、そんなことないし、まあ安心して待てるわい。 もしかして「2番出口」で待っているのか、といって戻ってきたら、到着掲示板を見上げる三枝子とヨエル、モリアを発見. やあやあ!!!となった。 メルキは、学校でドイツのケルンへ社会見学とかでいなかった。 「あんた、5日に着たら、家、洗濯機が壊れていたから大変だったよ、今日新しいのがきたしちょうど良かった」 と、三枝子は運転しながら言う. この数ヶ月で、二人の男の子はまた大きくなったように思う. アムステルダムは思ったより寒くない.
10時半(日本時間だと朝)、爆睡。
昼頃にうちに帰って、銀行やら、郵便局やら、買い物やら・・・アッという間に夕方になった。 ストーブとかなしでバタバタしていたのだが、さすがに日が暮れると寒い。 で、ガスストーブをつないだ。 家にも冬が来たなあ・・・
仕度が終了、夜中だよな。 忙しいよ・・で、トレッキング日記はお休みです。
夕方になって、みぞれが雪になった。 寒い。 暗いし・・・・ 3日帰ってきて、4、5、6、7日・・あっという間に過ぎた。 明日は、父の朝ごはんを食べさせてから新幹線で帰る。
・・・・・・・・・・・・・・・ 11・22日「ナムチェへ・・・しんどかった!」をアップ。 ナムチェは3440m、シェルパ族の心のふるさとのような町である。
| 2003年12月06日(土) |
ネパールからのはがきが着く |
父の食事の世話をして帰ったら、ネパールからのはがきが着いていた。 出したのは、12月1日だし、早いではないか。 沢山の山の写真の絵葉書、母がこのはがきはきれいだから、飾って眺めると気に入ってくれた。
・・・・・・・・・ 11・21日の日記「★ルクラからパクディンへ」アップ。
今日は、東山が真っ白、雪を被っていた。 山に雪が来てじきに里だ。
しかし日中はいい天気で暖かだった。
11月20日の日記アップ。
新潟は山沿いは雪である。 寒い、日が出ないし、氷雨が降り続いた。
朝病院に行くと、父はどうやら私はわかったようでよかった。 朝、昼としょくじをさせに行った。 看護士さんがやってはくれるのだが、忙しいので時間はかけない。 だから、家族が食べさせに行かない人はすぐ点滴がつながれる・・とはわが家族の話。 義妹は、ベット待ちで自宅療養。 しかし、左の手と足がしびれているので介助がないと不自由、動けない。 9日に入院で11日に手術となる。 落ち込んでいるので慰めたが・・・・ うまくいくことを祈るのみだ。 8日まで手伝いをして9日の飛行機でヨーロッパに行くことにした。 8日からは姪が帰ってくるというので。 飛行機変更、125ユーロ(15000円ほど)で出来た、ヤレヤレである。超安と出来ないのだろうが・・・まあよかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11・19日の日記(ネパールへの道、バンコック泊)アップ。
| 2003年12月03日(水) |
とりあえずは、郷里へ |
朝日の当たったエベレストの賀状を作成した。 これを持って、とりあえずは帰郷だ。 夕方の新幹線に乗りたい。 ヨーロッパ行きは、数日延ばすことになるだろう。
| 2003年12月02日(火) |
「ネパール病にかかって」帰国 |
バンコックからのナイトフライトで成田帰着朝。 バスの到着のようにピッタリと着いた、タイエア642便であった。
空港からいつものように田舎に電話したら、まあ大変! 父は排尿不全で入院。 義妹も、急に首が動かなくなって、お医者に駆けつけたら「首ヘルニア」で、緊急手術の予定。 ドッヒャーである。 5日にヨーロッパに出る予定なのに・・・ 困った。 などと考えながら、11時近くに帰宅。 すぐに、洗濯、ネパールでお世話になったhさんに頼まれてきた品を今治に送り・・等々をしていたら夕方。 恒例、お寿司を買ってきて食べたら爆睡していた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11/21日より歩き始めて、22日から毎日エベレストを眺めながら歩いた。 hさんが紹介して下さったガイドさんがいい方で、実にラクチンで快適な旅。 同行のIさんと「おばちゃん姫の旅」と自称していた。 高度による空気の薄さとただならぬ寒さには終始悩まされたが、俗世のことはすっかり忘れ果てた9日間だった。 今回は、4000mほどのタンポチェで戻ってきたが、次回は、5000mのエベレスト展望台カラパタールやゴーキョにも足をつけたいと誓った旅だった。 帰りの飛行機で「ネパール病」なる病があると聞いた。 お遍路病と同じく、何度もネパールへ行ってトレッキングする病。 訊けば20回、30回の人もおられるとか。 私もどうやら、「ネパール病」らしい。
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