世界お遍路 千夜一夜旅日記

2003年11月24日(月) ★プンキテンガまで

8時出発。寒い。
ナムチェから稜線に出る道が急坂。
凍っているし、フーハ―いいながら登る.
登り終わるあたりに、お姉さんが二人、何だか募金運動をしている。
私には、トイレを作ると聞こえたのだが、正しくはゴンパ(お寺)を作る募金だったらしい.
五十ルピーを寄付したら、何と領収書までくれた。
Iさん、ガイドのNさん、みんな五十ルピーづつ。

今日は、普通タンポチェまで行くのだが、私達はその半分の所でお泊りの予定.
歩き的には、とても楽チンである.
タンポチェまでの道は、最後の数時間が高低さ600m以上在るのだ.
ここで、高山病になる人も多いという難所である.
で、私達は、今日一気に越さないで、明日にするというわけだ.
今回の予定は、Iさんと「タンポチェまでいけたらいいね」と言い合っていたので、まあ予定はこなせたというところだ.
しかし、ここまで行くと、その先、カラパタールまで行ってみたい、と思う.
いつか、いつか…きっと。
今日はそんな訳でのんびり空の雲などを見ながら進む.
彩雲が次々と出て、空を見上げていると見飽きない.
藤原新也さんが「チベットの空を見ると不幸だ、あそこの青を見ると、どんなにきれいな空を見てもにごっているように見えるから」とかいていたが、その言葉が納得できる美しい空だ.
道筋に、皇帝キジ(ダフェ)といわれる羽根の美しい国鳥がいた.
朝日を反射してホントにきれいだ.
ガイドさんとポーターさんが石を投げてくれたので、飛んだ.
(強制飛翔 笑)
飛ぶ姿まで見た人は少ないと後で知った.
更には、かもしかも、至近距離に。
カモシカの毛がやはり朝日に光ってつやつや、ふさふさときれいだ.動物園では決して見られない色艶だ.
「朝シャンしたみたいにきれいだよね」
とIさんと感心して眺める.
カメラの望遠をのぞいていると、シカも好奇心いっぱいの目つきで私達を眺めている.逃げない.
しっかりと目を合わせてアイコンタクトまでしてしまった.

10時半過ぎ、ガイドのNさんが本日の宿と決めていたキャンズマのロッジへ.
しかしなあ、いくらなんでもはやすぎるわ。
Iさんと、もう少し行きたいよね、というが、それでもここは景色が美しいので長い休憩をしようということで、オープンテラスになったテーブルへつく.
ナムチェからついてきた犬が、ごろついて昼寝している.ネパールでは、牛は大変だがいぬは日本より幸せそうだ。
隣りにいたマレーシアからきたファミリーと話す.
ここはガイドのNさんのお友達のロッジとかで、昨日食べてみたいと頼んでおいた新そばをつかった料理が食べられるらしい.
「ここのそばは少し黒いです、苦いし、それでもいいですか」
「はい、いいですよ」
ということで、まずはパンケーキから。
確かに色は黒いが苦味もまたよし。
素朴に美味しかった.
その後、お湯でそば粉をこねて、スープにつけて食べるという料理.これもいけたが、いかんせんお腹がかなりいっぱいで残ってしまった.
12時30分、膨れたお腹で出発した.
サナサのロッジ泊りということだったが、私は丘の上に見えていた新しいホテルが気になった.
はーは―いいながら行ってみたら、1泊100ドル。それも、キャッシュのみ。カードがつかえないのだったら無理だ.そんな…で、しかた無く、また降りて進む.
そしてついたのがプンキテンガである。
タンポチェへの登りのすぐしたの宿.
すごく古くてびっくり・・ガイドのNさんが、13年前に高山病の人をここまで背負いおろしてきて泊ったことがあるが、そのときから変わっていないという.
そして「こういうところもいいでしょう」と、笑っている.
確かに、日本ではぜったいに泊れない…まあここは江戸か明治か、的な宿だ.
更にびっくりは、夕ご飯がジャガイモのみだったこと。
どっちかというと、ジャガイモは苦手な私には辛い夕食だったが、Iさんがジャガイモが好きで、結構にこにこしていた.
それにしても、ここの家族も、客の私達もみんなイモのみ。
いや.忘れられない体験になりましたわ.
イモはシェルパ族の主食だというし、いい体験でした.
ガイドのNさんが皮を剥いて火の中で焼いてくれたオジャガは、香ばしくて美味しかった.
その夜、真っ暗、目を空けても閉じてもおんなじだね、と笑った.
これまた、めったに無い体験。
6時半には寝袋の中.
やることが無いので、Iさんとカラパタールまで行くに派何日かかるのか、根ながらシュミレーションしてしまった.
イヤーシンプルだけど、長い夜でした.



2003年11月23日(日) ★エベレストマラソン!

本日は、ナムチェで停滞.
高度馴化のためである.
ガイドさんによると、トレッカーの95%は、ここで2泊、高度馴化をするそうである.
街中のちょこっとした坂をうろついても、ゼーハーしているので…まあ妥当なセンである。
おまけに今日は、エベレストマラソンの日だ.
宿の親父が10時半頃に、ゴールであるこの町へ到着する、という。
それまで、通りをブラブラしてエベレストベーカリーなるパン屋でピーナツクッキーを買ってIさんと共に、テラスでコーヒーを飲みつつ食べた.
ピーナツゴロゴロで美味しかった.南部ピーナツせんべいのクッキーバージョンってとこか。
Iさんは、おいしい宅配ベーカリー屋さんなので、おじさんが粉をこねているところまで熱心に見ている.
このパン屋さんで、ペンを忘れたのだが、戻ったらあった。
エベレスト街道、物がなくならないとこなんだよね.
10時半近く担って、エベレストマラソンのゴールまで行った.
このマラソン、エベレストベースキャンプ(通称BC。。標高5400mくらい)から一気にこのナムチェバザール、3440mまで駆け下りてくる.勿論、単に下るではなくてアップダウンがある.
トレッカーなら、行きは高度馴化もいれて1週間、かえってくるにしても3日はかかる。そこを、3時間から4時間で駆け下りてくるのだ.
いやはや、アイアンレースである.
ディレクターなる女性がいたので、参加者は何人と聞いたら60人ほど.賞金は500ドルとか。完走者にかけるメダルと椅子、水とお湯、粗末なマットレス、そんなものしか用意されていない.
「日本だったら、最新の医療設定で待つのに」
とIさんと話しながら待つ.
やがて11時杉、見物人も増えた中を、全力疾走の1位選手ゴール。細い、小柄.
しかし元気だ.
15分以上2位をはなしての堂々1位だ。やがて次々とゴールしてくるが、みんな余裕しゃくしゃく、なるほど、椅子と水くらいの準備でいい訳だ。
みんなシェルパ族の人である。
(しかし、あとできくと1位の人はライ族という人でシェルパではないという話をガイドさんがしていた)
Iさんとそのエネルギーに、ただ感心した。

ガイドのさんとポーターさんもみていた。
ガイドさん曰く
参加者は72人、賞金は500ポンド
エエ…私が聞いたのと違うぞ.
主催者と土地の人の話の違いかな…しかしでもなあ…
まあ、このへんがネパールかな.
それにしても彼らの強さを見ていると「21世紀はシェルパに任せよう」という気になった。
昼ご飯の食欲がない。
食欲なしも、高山病系だし、心配だ.
午後、昼寝をして、ガイドさんとナムチェを囲む山へ登り、ゴンパを参り、カモシカを眺めた。
道々、びっくりしたのは、いまだにエベレストマラソンが続いていたことだ。
何と女性もいた。これまた、びっくり。
その後、裏山へ、夕方のエベレストを見にいった。
ガスが出たが、それでも、夕焼け色に染まったエベレストの姿を見た.
夜寒し。
ただ事ではない、寒さで自然にのど、鼻が痛い.






2003年11月22日(土) ★ ナムチェへ・・・しんどかった!

*ダルバートについて*
ネパール人の常食である。
ダルは豆のスープ、バートは炊いたご飯のこと。炊いたご飯(細長米)にダルスープをかけて漬物や野菜のおかず等でご飯を食べる、コレがネパールのご飯である。大きな金属の器に山盛りのご飯、青野菜などが少々、でダルをかけて、汁かけ飯にしてネパール人は手で。外人はスプーンで食す。
しかしですね、凄いのは、おかわり無限!器が空いてぼやんとしているとわんこそばのように、またまたご飯がてんこ盛りでダルのおかわりがやってくる。かなり食べる私でさえ、うんうん、入れられそうになると「キャー、やめて」しかし、ネパール人は、おかわりを必ずする。大食漢である。基本的に、ベジタリアンというか、肉はあまり食べない。
それでこのダルバートの味、店によって、家庭によって味が大いに違うのだ。最初の晩にhさんにつれていいって貰ったカトマンズ市内の「タカリバンチャ」はA級の味。おいしかった。昨日の最初のランチ、ガットのお店もかなりいい味を出していた.しかし、パグディンは、イマイチ。パグデンの宿は、朝ごはんのチベッタンブレッドがグッドだった。
しかし、この宿は、宿代をぼってくれたぜ。
ガイドのNさんはいう「あの宿は、だんなさんはいい人だが、奥さんは悪い人だ」
100ルピーといえど、嫌な気分だった。
あと、ナムチェの宿のダルバートは、美味くなかった。

ということで、ネパールはダルバート食べ比べでも楽しめるかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、パグディンの宿を7時半に出てアップダウンのある川沿いの道を進む。サムイけれど、日中は凄く熱くなるので、背の高いダリアの花や、菜の花などが咲き乱れている。
川は、ドウドウ・コシ(ミルクの川)と呼ばれる白濁した流れ、しかし勢いがあって鮮烈。
何本も、つり橋を渡らなければならないので高所恐怖症の私にはきつい。
橋の向こうから、ヤクとかの荷役牛がきたら最悪。ど、どないするねん・・状態になる。
欧米の旅人は、大抵ストックを持っている。用意してこなかった、私とIさん、「いるよね」
そうしたら、ガイドさんとポーターさんが竹で金剛杖みたいなのを作ってくれた。
いよいよ歩けないとなったら、馬にも乗れますから、とhさんにはいわれていたが杖を付いても自分で歩きたい。
昨日一人、馬に乗った人に行き会って「ああいうのもいいかもね」と、Iさんと大声で話していたら、乗っていたおじさん「腰痛めたんです」と憮然とした顔で言った。
ありゃ、日本人のおじさんでした、だった。
くだりはよいよい、登りはぜーはー。
私の登山歴は、せいぜい2000m、毎日未踏の境地(ちょっと、大げさ)だ。その点、Iさんは「山登りする人」だったようでルンルン??
ジョッサレ(2804m)からしばらく行くと川から離れて、いよいよ、大変ですよといわれている急坂である。
で、その前に、昼ごはん.外のテーブルで私たちが食べていたら「飲みすぎだぞ やろう」が来て「のみすぎだぞ」
彼はフランス人で英国に留学したときに学友だった日本人に教えてもらったらしくてお茶を飲んでいる私たちに向かって「のみすぎだぞ」と嬉しそうに言う。しかし、それしか知らないんだよな。
私たちが日本語で色々というと【英語で話せよ】というのだわ。
彼は、友人と歩いているが、お友達の方はおとなしくてあんまり喋らない。
欧米の若い子達は、ガイドもポーターも連れずにでかい荷物を背負って自分たちでずんずん歩いている人が多い。
確かにこの道なら、迷うことはないだろうから、それも可だろう。
しかし、彼らを見ていると、体の出来がちがうと、つくずく思う。
それと、何と言ってもシェルパ族の人たちの強さだ。
自分より大きい荷物を背負って、ゴムぞうりのような履物で、砂埃を立ててバリバリと去っていく。
ときどきT字形の止まり木みたいな杖に寄りかかって休んでるが、彼らもまた私たちと体の出来が違う。
顔は良く似ていて、性格も穏やかでこれまた我々とよく似ていて、、、この街道沿いの村々はなんだか懐かしいような気持ちにさえなるのだが・・・・その生命の力の強さは大いに違う気がする。

さてさて、いよいよ本日の難所である。
途中のつり橋で、ヤクと行きあって、なんとあの足の丈夫なヤクが足を滑らせて、落ちそうになる場面に遭遇した。なんと、ヤクがしばらく固まって動かなかった。
ヤクもビックリしたようだけど、見ていた私たちも息を飲んでしまった。
川から離れた途端に、急坂が始まる。
日本だったら、ワシワシとすすめそうな、まあ熊野古道程度の急坂、しかし、しかし、苦しい。息がはーはー。心臓ばくばく。足には鉛が付いているように重い。
少し歩いては休んで、ズーハーズハーとでかい呼吸をする。
とにかく、苦しい。もっと、空気ちょうだい・・・・
いや・・死ぬ・・と思ったときにガイドのNさん「ホラ、エベレストですよ」
おお!!
なんと、そこが、エベレスト街道で真っ先にかのお山が見えるポイントだとか。
ガスって見えないときもあるらしいが、本日は見えた。
チョコッと、右に首を傾げたような、8848m。やあ、こんにちは
私「写真とそっくり・・・・」
ガイドNさん、真面目な顔して「あれは本物です」
いやまったく。
Iさんと大笑いした。
「いや・・苦しいし、もう見えたから私、かえってもいいわ」
とマジジョークを飛ばしてしまった。
多分、私の歩き人生で最も苦しい道のりだった。
とにかく、空気が少ない、息が出来ない、心臓が飛び出るよ・・・
見かねて、ガイドのNさん「荷物を持ちましょう」
なんと、私、杖にすがって、空身で歩いてしまった。
これまた、私の歩き人生で始めて。
それでやっと、道に咲いていた岩リンドウを見たり写真をとったりするゆとりは出てきた。
でも、あまりのしんどさに途中の松ノ木に寄りかかっていたら、なんと背中にべっとりと松脂のお土産。まあ、松のにおいは好きだから良かったが、それでも着たきりスズメなのに、一枚洋服がなくなったのは打撃だね。
いくらしんどくても、足を進めていれば、進むものだ、3時間あまりをかけてナムチェバザール、3440m着。(ちなみにシェルパの人は荷物を背負っても、1時間から1時間半だという)
2800mから、一気。500m以上を超えるときに高山病要注意だが、一応薬を飲んでいるのでどうやら大丈夫か?私はやや頭が痛いが、Iさんはなんとも無いという。
町の入り口には兵隊さん、チェックが入った。
マオイストの警戒らしいが・・・・

ナムチェは近隣の人たちの交易の場。
近くの村から人々が物を持って売ったり、買ったりということで栄えた。
すり鉢状のなかにできた、コンデリーとタムセルクという二つの美しい山に見守られるようにあるシェルパ族の故郷とも言える町だ。
それにしても、空気が薄い。
宿の階段を上るだけで、ぜーはーぜーはー。
Iさんが「階段上がるときの、ぜーはーが部屋まで聞こえるよ」
そのIさんは「ホットシャワーショック」
シャワー室の鍵を貰って、私が入ったときは、ただ一筋の水の筋。悲しかった。寒いし・・しかし、一応、私は中国奥地で似たような体験をしているので、まあしゃないか、だった。
しばらくとめて、シャワーの筋が増えたところで上に戻ってIさんに声をかけた。
しかし、日本の快適生活から一気にここへのIさんにとってシャワーの筋が6本のホットシャワーのショックと、寒さに切れた。
「寒い、寒い、死ぬ、死ぬ!!!」と、喚きながら戻ってきた。
ウーム、それでも筋は増えたんだけどネエ。
で、そのご(夕食後)なんだか延々と探し物をしている。
聞けば、石鹸だのくしだのを入れてシャワーに持っていった袋がないのだという。
「シャワー室に忘れてきたんじゃないの」
「いや、絶対に持ってきたわ」
「見てきた方がいいよ」
「いいや、ぜえったたいに、もって帰ってきたんやわ!!」
断固として言い張る。
頑固になって人の言うことに耳を貸さないのも高山病の前兆だというし、もしかして・・・・
「それでも、あなた、シャワーから戻ってきたときに正気じゃなかったよ」
もう一度に行って、やっと見てきた彼女、「あったわ」
以上「Iさんホットシャワー6筋ご乱心事件」である。
シャワーといっても、人力。シャワーしたいという人のためにバケツに湯を入れて落とすのである。湯は貴重品、ちなみに宿代100ルピー、この6筋シャワーは150ルピーである。
しかし、Iさんはこの事件以来強くなった。

部屋の寒さ防衛のためにカーテンにサバイバルシート張りまわして休む。
夜は、ダイニングから(唯一、この部屋に暖房がある、あとは無い、それでまあ、部屋といえど、零下に近い)シェルパ族の宴会(ガイドさん)で歌や手拍子が聞こえていた。
とにかく寒い、私は寒さと乾燥が、弱い喉や鼻に来て自然と風邪を引いてしまった。以降、風邪薬と、大量のテッシュのお世話になる事になる。
防寒できない喉鼻の粘膜が弱い・・コレ、私の致命傷だね。










2003年11月21日(金) ★ルクラからパグディンへ

4時30分に、モーニングコールを頼んだのに、かかってきたのは5時5分。ネパール時間、と笑った。まあ、こんな按配だと思っていたら、この国は気分良くすごせるのだろうと思う。
夕べは、ほっとシャワーはホットにならず、結構寒いシャワータイムで・・・・、Iさんは震えてはりましたわ。私はインドの水シャワーを思い出してしまった。今を去ること、二十数年前、のことである。まああの時は夏だったし、若かったしだが。
5時半にhさんとガイドのNさんがホテルまで迎えに来てくださり空港へ。
空港ゲートはガードが固く、パスポートと航空券がないとは入れない。
外はまだ暗い。なんと着いた空港も、まだしまっている、ビックリだ。一応、国際空港なのに・・・・まあ朝一番は国内線で霧が出ているときは晴れるまで飛ばないから、そういうもろもろの気象条件を見て取ってみんな出勤しているのだろうが。クローズしている空港の外で待っているのは、トレッキングや他の都市に行く外人観光客のみだ。
下弦の月明かりがほんやりと待つ人々の顔を照らす。
ネパールは、50年前まで鎖国をしていた国だし、こんなものだろうと、納得。
6時5分過ぎに空港の門があいて、ばたばたとチェックイン。
hさんとガイドのNさんが手際よく動いてくださってあれよあれよという間にセキュリティへ、しかし、今度はセキュリティに人がいない。

男女別のセキュリティ、カーテンの陰で・・と実に原始的だが・・・まあ無事終えて待合室へ。
しかし、今度は、ガスが出てきて飛ばず。
ガイドさんの話だと、コレがはれないと飛ばないらしい。
ネパールの飛行機は朝が勝負で、ガスが晴れたら即、飛ぶ、昼からになると風が出たりで、欠航は当然らしい。
われらがガイドNさんは「そのうちに飛ぶでしょう」
待合室には既に100人ほどの人が溜まっている。
マウンテンフライト(空からヒマラヤを見る観光)や、トレッキングに行く人、自然、ゲート前に人が溜まる。
そうすると、バッチリ化粧のインド系の顔した(ネパールの元になったネワール族の人だが)ネエさんが「ガスが晴れるまで後30分くらい待ってください」とやる。それが繰り返されることこと3回あまり、8時10分、やっと飛べる次第となった。
本とは6時45分のフライトだが、まあ、この状況ではタイムスケジュールはあってなきが如しであろう。
Iさんは、マウンテンフライトに行く日本人のおじさんとなんだか話があったようで時間までおしゃべりをしていた。
私は例のごとく人ウオッチング。
難度追い返されてもゲートに集まる人たちに(文明のこっけい)をみてしまったのであった、なんちゃって。
飛行機は17人乗り、フリーシート、真っ先にのってよい席ゲットに燃えた私、ちゃんと搭乗一番乗り。左側窓際、一番前に座ったのであった。Iさんは私の後ろ、空からのヒマラヤを堪能。
ガイドのNさん、操縦席を示してここからの景色もいいですよ。
はい、そうでした。
操縦席に顔を突っ込んで写真取らせてもらいましたわ。
まあ、そういう飛行機です。
離陸前に、雨と耳に詰める綿が配られましたしね。

ルクラの飛行場は、滑走路1本、それもがけの上にあるかなりの急傾斜の滑走路に飛び込むように着陸する。岩にぶつからんの?とひやひやするが、名人芸。めでたく今回のトレッキングの出発点2860mのルクラ着、9時10分。
空気が違う、コンデリーという、真っ白い山の頂がまるで町を見下ろすようにそびえ立っている。
Iさんと着いたネ、ついたと大騒ぎして。
Nさんは、私たちの荷をもってポーターさんを待っている。
やがて、色の浅黒い、実直系の山の人という感じのポーターさん登場。ガイドのNさんと同じくシェルパ族の人である。
近くのカフェに行って、お茶を飲んで荷をポーターさんとガイドのNさんに託してわたしとIさんはデイバックのみ。それでも2800m、坂になるとふうふうと息切れがするのだ。
ルクラの町は、エベレスト街道といわれる道筋では大きいが、それでもメインストリートは一本、石畳の通りを牛が荷を積んで歩いている。
この辺、既に車はない。
牛が車で、あとは歩きのみ。
これも、常々車社会を快く思っていない私としては、コレだけでも感動である。
「エベレスト街道」というだけあって、道筋の村にはゲストハウス、御茶屋、などなどが続く。
荷を積んだヤクや牛、ツーリスト、ポーター、ガイド・・・・などなど、人通りも実に頻繁。
初めは、下るのみの道。
Iさん、コレ、行きはいいけど帰りが大変やね。
確かに。
上ってくる人、みんなタマの汗である。
呼吸も荒いし。
帰りが怖いなあ。
途中、トキドキ白銀に輝く山峰が現れる。
感動だ。
山というより、巨大大岩がにょっと立って人を見下ろしている感じ。
人は上から見られている感じ。
山(私に言わせれば大岩)に人々が神を見るって言うの、わかるねえ、だった。
山の名前を聞くとガイドのNさん「ネパールでは6000m以下の山は、名前はありません、山です」
6000m以下、「山」という名の「山」
大きな滝も「名前はありません、滝です」
まあ、そういう世界なのである。
時々、道の真ん中をマニ石やチョルテンが立ちはだかる。左を通る。それが礼儀。左が急坂だったりすると、萎えるが、それでも日本仏教の源流チベット仏教の地、敬意を表して守る。
ガイドのNさんを初めてとしたシェルパ族の方々も仏教徒だから、こっちです、と左に誘導されるのである。
で、マニ車があると、Nさん、かならず回すので私も回す。

つり橋を渡って初めての登り。
2600mかそこらしかないのに、いやいや苦しいの何の・・・・明日は3000m台だよ、どうなるんだ??
Iさんもしんどいネエ・・と唸っている。
12時すぎにガットという村の茶店でお昼。
ダルバート。おいしかった。
hさんが、彼らの常食だから、ダルバートは山おくまで行ってもおいしいですよとのことだったのでできるだけダルバート食べることにするが・・・問題は巨大な量である。
Iさんは、食べ物に保守的と自ら申告する人、コレからが大変そう。

2時20分、今夜の宿、パクディン着。
ベットのみの部屋。
山が見える。
しかし夜は星はきれいだったが、もの凄く寒かった。

Nさんに明日は少し大変です、と念を押されている。
3400m台のナムチェへの道程である。







2003年11月20日(木) ★カトマンズ着

6時半起床。
朝食のバイキング、果物がおいしい。やはり、タイである。
Iさんのお友達のOさんが差し回して下さった車が来たので空港まで直行。
Iさん、旅行保険に入ってきていないというので心配で空港で入れないかと聞くがない。
しかたないね、こうなれば無事に帰国しかないよ、ということでチェックイン。快晴である。ほとんど満席のタイエア(なんとルフトとのコードシェア便)は、12時半過ぎ、カトマンズ着。
ヒマラヤの山峰がはるかに見えるローカルでのどかな空港である。
ネパールは空港でヴィザが取れるのでその列に並ぶ。
で、ココで大失敗。
ヴィザフォームだけを貰って行けというほうに出たら、アレアレという間にそのまま外へ。で、迎えに来てくださっていたhさんに再会!
で、とって置いてくださったホテルについて、変なんですが・・・と書類を見せたら、もう一度列に並んでヴィザを貰うことが判明した。
アホくさ・・・申し訳ないが、hさんに付き添ってもらってもう一度空港へ行った。それで、何とか確かにヴィザをいただいた。
いや、出たゲートをもう一度いとたやすく逆行してヴィザを貰う・・・なんて大胆なこと、始めてした。
迎えてくださったhさんいわく「ネパールは何でもアリですからね、ネパール人は優しいですからね」で、逆行をたやすく許してもらったわけだが、何と言うか・・なさけない。
それにしても、私の前にいた日本人数人も私と同じ行動を取ったけど、大丈夫であったか?心配なことである。
しかしhさんは言う「何とかなるのがネパールなんです」
はい・・・・そういうの、好きだけど。
両替をして、明日からのガイド、Nさんにカフェであった。
彼は、ネパール高地のガイド、ポーターとして名をはせているシェルパ族の人、がっちりした体に温厚そうな顔がのっている人だった。
「彼は、初め学校の先生のガイドをしていたんですよ、そのときに言われたのか、凄く時間にきっちりしていますよ」とは、hさんの言葉。
hさんがこの春カイラス巡礼を五体倒置で巡礼なさったときのガイドさんだ。
彼が絶対の信頼を置くガイドさんのようで、Iさんと私もほっと。
だって、トレッキングはガイドさんによると本に書いてあったし。
まあ、日本人相手のネパール旅行社に相談しても、よいガイドに当たるようだが・・・・
Nさんは、私たちがトレッキングに行くクーンプ・ヒマール地方の出だ。
明日の朝の時間や、料金のことなどの打ち合わせをしたあとに、hさんがカトマンズの市内を案内してくださった。
私たちの宿のあるタメル地区は、いわば外人街。
ココに隣接する旧街は、面白くて懐かしい雰囲気を漂わせている。
そして、街角のそこここに神様(ヒンズーや仏教)がお祭りしてあって、拝む人でにぎわっている。
「カトマンズ市内も巡礼するコースがあるくらい市内に神様が多いんですよ」とhさん。
雰囲気は、20数年前にいったインドとよく似ているが、しかし、とがったかんじ、けんけんした危険な感じはない。
夕食はネパールの典型的食事「ダルバート」。
おいしかった。
しかし、ホテルに帰ると、停電。
早速ネパールの洗礼を受けてしまった。

明日は飛行機に乗って、一気に標高2800m台へ飛ぶ。
どうなることやら・・・・
同行Iさんは、グアムについて2回目の海外とかで、目を点にしておられるが、ネパールは彼女にとって長年の憧れの地。明日からが楽しみだ、ね。




2003年11月19日(水) ★ネパールへの道・・バンコック泊

ネパールへの道は、タイエア、ロイヤルネパール辺りが常識的だが、ロイヤルネパールが関空からの直行なのに対してタイエアは、バンコックに1泊しなければならない。
それでも、私がタイエアに決めたのは、色々調べる過程でロイヤルネパールはちょくちょく欠航すること、な、なんと、ひび割れたフロントガラスにガムテープ張って飛んでいたというトンでも情報をネット上で得たからだ。
それと、私のマイレージは、ANAでスターアライアンスメンバーのタイエアなら、マイレージ加算ができるからだ。
まあ、ボチボチ書くが、このチョイスは正解だった・・・・

ということで、朝5時50分、65リットルのザックを背負ってえっちらおっちら駅まで。で、友人のダンさんに拾ってもらい成田着。
いつも空港で保険に入るのだが、ネパールでトレッキングをするといったらそういうのは・・・云々かんぬんとAIUの美人だが無愛想な顔した女性がぐちぐち言うので「ジャ、もういいわ」
で、その裏にある損保ジャパン、顔はさっきの子より落ちるが、愛想のいい親切な子が色々ときいてくれて何の問題もなく入れた。
「損保ジャパンて、聞いたことないけど大丈夫なの」という私の、おばさん失礼的な問いも親切に答えてくれていい子であった。
次回もココではいろう。
こういう窓口の子は「愛嬌」「親切」第一。
今まで、出かける前AIUばかりだった私だが、あの無愛想美人のせいで、今後ひとりの客を逃したね。
あの無愛想美人が知らなかった情報
定義「登山とは、6000m以上の高地で現地政府の許可等を得て行う行為。トレッキングとは異なる」
私のように、4000mくらいまでしか行かない普通の歩きは問題なく保険には入れるのである。

タイエア、通路、席、狭い。
日本やルフトなどは、このごろは必ず席前にTVなどがついているがそれもなし。ああつまんない。機内食もうまくなかった。
なんてことを考えながら、うとうとしていたらもうバンコック。
タイは近いよね。
場ゲージを受け取りに降りたら、関空から先に飛んできていた姫路のIさんとばったり。よかった、ヤレヤレだ。
にもつをとって、Iさんの旧友であるOさんにお目にかかる。
予約してくださったホテルに車で送ってくださり、すぐにフットマッサージ。凄く気持ちが良かった。足の角質取りもしてもらって、足だけが
生まれ変わった。
その後、タイスキ。これまた、案内していただいてご馳走していただいて。
感謝・恐縮でした。
Iさんは、Oさんと十数年ぶりとかで楽しそうだった。
2年ぶりのバンコック、ちょこっと空気がきれいになったような気がする。



2003年11月18日(火) ネパールトレック、荷物準備

★服装
 半袖シャツ2,長袖シャツ1、スボン2、下着上下数組、ソックス2,手袋、防寒着(フリース、カシミアセーター)羽毛服
★行動用品
登山靴、サンダル、大型ザック(65リットル)ザブザック、ショルダー、雨具上下(防寒としても使う)折り畳み傘、サバイバルシート
タオル、日焼け止め、リップクリーム、ロールペーパー、ウエットテッシュ、ホッカイロ20個、洗面具、カップと箸やスプン、アメなどの嗜好品少々、医薬品あれこれ(高山病予防薬も)、ヘッドランプ
★その他
ガイドブック、ノート、カメラ2台・・・エジプト、トルコのナニも取れていなかった苦い体験が忘れられず今回は2台で万全の構え、フィルム、お土産(カトマンズの友人、タイのIさんのお友だちへ・・・Iさんは同行者)
航空券、写真、お金(TC、ドル、円)

などを用意していたら、夕方になった。まだカトマンズで用意するシュラフが入っていないのに荷物満杯。私のシュラフは3シーズン用なので寒いだろうということで。
こまったけど、とりあえず、これで行こう、だ。

明日は、何と、昨日、友人のダンさんが、カンボジアのアンコールワットへ、同じく朝のJALで行くことになっているということが判明したので、急遽、バスチケットをキャンセルして成田まで乗せていってもらうことになった。
私はタイエアだけど、時間的には、40分ほどしか違わない。
バスチケットをとるときに、何となく、このチケット使うのかな・・というおかしな気分になったんだけどこういうことだったんだと納得。100円の手数料のみでキャンセルできたのでよかった。
同行のIさんとは、バンコックで待ち合わせだ。
彼女は、関空から飛ぶ。

それでは、お休みなさい。
明日から、しばらく日記はお休みです。



2003年11月17日(月) トルコの自爆テロ

トルコで自爆テロが起きた。
ショックだ。
2001年秋、あの9/11日以降にトルコやエジプトに旅して、かの地の人々はいっていた。
「この国ほど、安心なとこはない・・、それなのに何で日本人は来ないんだ?」
「日本政府は、アラブの国はアブナイと危険情報を出している、だから、グループツアーは来ない」
「アメリカやイギリスを旅する方がアブナイ」
その通り。
だから、私は、観光客が少ない2カ国を安全に楽しく旅できた。
毎日がおもしろくて楽しかった。
なのに・・・
あのトルコで自爆テロとは・・・ショックだ。
ニュースの詳細を見ると、新市街。
イスタンブールは、旧市街と新市街に分かれていて、事件は、新市街(アジア側)だ。
新市街、私も滞在中に一度行ったが、いわゆる観光地ではない。
生活の街だ。
そのせいで、観光客は巻き添えにならなかったようだが・・24人の人が亡くなった。合掌

アルカイダは、自衛隊のイラク派遣後は東京も標的にすると言明しているが、これは、脅しではないだろう。
ほんとうにするだろう。
どうしてそう思うのかといえば、私が旅で感じたモスレムの人たちは「約束」を護ること「いったこと」を実行することに名誉をかけるからだ。
トルコのギヨレメ村、SOSレストランでのこと。
私が、2日前に「今日は、おなかのぐわいがよくない、治ったら、必ず来る」と約束して、2日後に夕食に訪ねたら「お前はいったことを守った」とすごく感激されて、頼みもしない、フルーツやコーヒーまででてきて大サービスをされた。
「また、この村に来たら、濃い、お前のことは覚えているだろう」とまでいわれた。
要するに「信義(ってほどのことではないが)というか、来るという口約束を守った」ことに感激してくれたのだ。
エジプトでも、2回ほど似たことがあった。
彼ら、イスラム教徒は「いったこと」を守る、守ろうとする人たちだ。
そして、守る人たちを尊重し、大事にする。
旅人としても、筋を通すと、わかってもらえるところがあったりして、おもしろかったが・・・
テロも、きっと・・そうだろう・・な。
ざるの目のように穴だらけの日本、場所、時間によっては大変な犠牲がでるだろう。

ラムズフェルドが、「ナニが何でもすぐに送れ」といわなかったのは、送れば必ず死者が出る・・・国民の世論の批判・・・小泉政権の不安定・・それは長期的に困る・・・とりあえず、金さえ出させれば、ということだ。
それにしても、私にはラムズフェルドの顔が、正真正銘の悪魔に見えて仕方ないのだが、他の人はそう見えないのだろうか。あれは人間ではない。
「悪魔裁判」で、アイツをさばきたいね。
火あぶりとか、いや火あぶりしなくても、南蛮いぶし(出羽修験で、新入り行者たちが遭遇する修行の一つで、締め切ったお堂で赤唐辛子が焚かれ、燻されの行苦しいらしい)くらいで、悪魔の角やしっぽがニュルニュルとでてきそうだけどな。
ホントに、あいつ人間じゃないってば。
おい、みなさん、見破ろうよ!!



2003年11月16日(日) 帰宅

朝から、ご飯のしたく3回。
こういうのは久しぶりだわ。
ああ、私向きじゃないなあ、、、疲れました。
本を持ってきたがロクに読まず。
ヤレヤレだ。

ただ、破磐神社の宮司さんからお聞きしていて気になっていた、自分の田舎の氏神様のお参りだけはした。
もう冬の雪囲いがしてあった村社をほうきを持っていって掃除をして、お神酒を上げてお賽銭上げて、榊を上げてで、お参りしてきた。
まあ、コレは良かった。
じきに、ウチを出て、帰りは高速バス。
本が1冊は読める、コレが嬉しい。
帰ったら、ネパール行きの荷物まとめだ。
ガンバロ。



2003年11月15日(土) 越後戦線、異常あり?

父の病状の進み方には唖然とするばかり。
9月には歩くことも(一緒に散歩にいったもの)、自分で食べることも出来たのに、今回は歩くのは手を引っ張らないとダメ。ご飯はいやだと目を閉じたまま、持たない、食べない。で、口まで持っていくと食べる、というわけ.
一日づつ、階段をおりるように悪くなる、と家族は言うけど、まったくそうだ。
こんなのあり、かだ。
ほんの一年半前は、ボケは入っていたけど、曲がりなりにも、秩父まで行ってお寺回りが出来たのに・・・四国に連れて行かないうちにこんなになるとは。。。後悔先に立たずとは、こう言うことをいうのかもしれない。
でもまあ、まだ、私のことはわかるみたいだ。

母は、あちこちイタイイタイといいながら、元気だ、とりあえず。

父を見ていると、怖いよな、自分の老後が・・・・父方はみんな後半はボケ気味。で、叔母も、パーキンソンだったし。
母方は、あまリぼけていなかったような記憶があるが。
ため息が出る・・・・2ヵ月後が怖い。



2003年11月14日(金) 帰省

昨夜も、今日も発熱なしだ。
どうやら、黄熱病は去ったようだ。
腕の注射のところはまだ腫れているけど。

朝、やっとアムスのクリエイテブからメールがあったので、アイスランド行きの確認。
何と、信じられないことに日本でチケットを取った方が安いことが判明。
朝から、アイスランド航空に電話して手配。
これから、東京に出ながらチケットをとりに行く。
で、数日、田舎だ。
昨夜、弟から「着いたら電話しろ」と電話が来た。
ありがたや。



2003年11月13日(木) 雪男を背負ってこよう

今日は、電車で30分(もかからないか)、クランベリーモールというアウトレットショップにある「モンベルショップ」に買い物に行ってきた。
寒いし、持っていくものがたくさんあるし、でっかいザックを買ってきた、上下に分かれているゴアテックスの雨具も買ってきた。
お遍路・巡礼は、雨具はポンチョなので、上下別の雨具はもう古くて、使えなくなっていた。
この時期は乾期なので、ほとんど振らないが、防寒服としても必要だ。もちろん、羽毛ジャケットも持つけど。
それ以外の小物もビチボチと。
けっこうな出費でしたわ。
ざっくは、55と65リットルを迷いに迷って「大は小を兼ねる」で、でかい方。
トレッキングの時は、ポーターサンが運んでくれるので、私はデイバック一つだし、マアでかいほうが防寒用品をたくさん持って行けそうということで。
でも、小型の雪男だったら、丸めて入れられそうだ。
土産にするか。

しなければならならないことを今日は、3個した。
まだまだ先がある。



2003年11月12日(水) 子どもを護るって?

★横浜市の中田宏市長は、13日に川崎市で開かれる8都県市首脳会議(首都圏サミット)で、青少年の深夜の外出に対する保護者への罰則規定を都県条例に盛り込むよう提案する。
 首都圏の4都県では、東京都を除く千葉、埼玉、神奈川県の条例で、18歳未満の青少年の深夜(午後11時―翌日午前4時)の外出を制限する規定があるが、保護者については、いずれも「外出させないように努めなければならない」との努力規定にとどまり、罰則はない。★
@上記ヤフーよりコピー@

ヘエ・・・・しらんかった。
そんなきまりがあったの。
アラスカで、親が小学生を遅くまで連れ回していると罰則があると聞いた。
オランダでも、私も前はよくモリアの学校まで彼をおくったりおむかえに行ったりした。親(及び周囲の大人)が子どもを、まもんないと「罰」がくる。
要するに「保護者責任」が明確なのだ。
私、そういうのを聞くたびにほんとうに子どもを大事にする社会とは、そうあるべきだと思っていたから、市長は好きじゃないが、提案には賛成だ。
「子どもが夜遊びすると、悪くなるから」ではなくて「子どもを護る」という観点で。
長崎12才の事件のとき、わたしが最初に感じたのは「親はたとえ、十分といえど、どうして幼児を一人遊びにやったのか?はぐれてしまったのか?」という疑問だった。
この国ではみんな「可哀想」しかいわなかったが、欧米諸国だと「親の責任」が問われるだろう。だって、まだ自分の身を護れない幼児を護るのは周囲の大人・保護者だからだ。
それから、TVで「初めてのお買い物」とかって、子どもを出汁にした番組があるが、あれも子どもが社会で護られることを阻害している。
子どもは行動の不自由、当たり前だと思う。
この国は大人たちは「子どもを大事にする、かわいがる」ってことを、もう一度考え直したほうがいいな。
居酒屋で、ママたちがコンパしているそばで子どもがキッズコーナーで遊んでいるってどう見ても狂っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ネパール出発までにすましておかねばならないことを書き出したら、20個もあった。ギャオ、と猫になったぞうサン。
お尻の急性激痛のせいだ。
まったく・・・ねえ。
まあ、そういうことで、今日はいろいろとやりましたわ。
明日もひきつずき・・・
でも、さっきの地震、恐かった。
かなり揺れました。

追記
今日、外出して空を見てな〜〜〜んだか、雲がまがまがしく見えた。
巨、巨大なイワシ(人食いイワシといおうか)の横腹にあるようなうろこ雲。
なんだか、なんだか、イヤだな、明日は晴れるはずなのに、なんだ〜〜〜かいやだな、あの雲・・と思いつつ帰宅した。
ちなみにその方向は、東の方に流れていたような・・・
そんで、地震、で、気になったから、地震雲を調べてみた、ネットで。
あった、私が見たのとおんなじヤツが。
東海地震、近いのかなあ。



2003年11月11日(火) 息が白い!?

夕方、鍼灸院に行くときにふっと気がついた。
吐く息が白い・・びっくりだ。
寒いわけだ。
速攻効果で、一昨日の痛みがウソのようではあるが・・・痛いとこにホカロン当てて、やれやれの日でした。

過労死や過労による疾病の後遺症で労災認定がウナギ登りらしい。
どうして、死ぬまで働くのだろうか?
いや、私も「死ぬ前の日」まで、ボチボチと働くのが理想とは思う。
しかし、討ち死に的過労死は、怠け者の私には、永遠の謎だ。
外国でときどきこの話になる。
例外なく「クレイジー」という表現をされる。
私もそう思う。
オランダ人などは、仕事さぼっても、自分の生活や家族との時間を大事にする。
それが社会問題になったりしている。
過労死や過労による疾病が社会問題になるよりずっといい。
夏に欧米を旅していると、十分にバカンスを取っているゆとりに「豊か」だと感じる。

過労死をなさった方は、身体の奧から悲鳴は聞こえてこなかったのだろうか?
合掌

ところで、黄熱病の発熱予告が、明日、あさってに迫ってきた・・・
いかがなりますことやら。
腕はいまだに注射周辺は、さわると熱を持っているのがわかるもんね。

お日様、明日はでてほしいな。
太陽電池が切れかけだ。



2003年11月10日(月) 地震と火山の島国

今日は、なんとか椅子には無理なく座れるようになったが、まだ痛い。
で、「ごそごそしないで」安静にしていた。
雨だし、ちょうどよかった。
ごろごろと動くとやっぱり痛いので、マジに上向き安静だ。
いや、まったく、事故直後の悪夢を思い出した。

で、本を1冊読んだ。
「地震と火山の島国」(岩波ジュニア選書)
日本のことみたいだが、アイスランドのこと。
この本で、あのアイスランドの特異な自然の成り立ち、わけ、を知った。
私がいったのは、2000年で、この本2001年・・今これ以外にもアイスランドの本、でている、ちょっとしたブームだ。HPも多くなってきたし。

アイスランドは「海嶺」のさきっぽが陸になっている珍しい島だということ。
つまり、海底火山の山麓に人が住んでいるというわけ。
この島の歴史(自然)は1000ねんほど、でその意味でも実に若い島。
国民人口28万人のこの国は、あちこちに吹き出ている温泉利用で、でどこに行っても温泉プールがあるし、温室で野菜栽培をしていた。暖房や電気も地熱発電だ。
火山国であることにかけては、日本の比ではない。
なんてことを納得しながらなつかしく読み進めて読了。

夕方、お尻の痛み、かなり消滅。
まだ、ほんの少しいたいが・・昨日の痛みを考えると奇跡的だ。
カネサカ大明神「すぐに治ると思うよ」の予言大当たり
やった!!
よかった。
エベレストを拝みに歩いていてこれが来ていたらえらいことだった。
神さま、仏さま、お大師さま、ありがとうございました。
しかし、大事をとって、「ごそごそしない」のお言葉厳守。



2003年11月09日(日) 腰、直下型地震

昨夜、急激にお尻の右側尾てい骨そば辺りの痛みがきた。
何となく、昨日夕方くらいから、なんだか痛いけど、転んだりぶつけたりしたわけじゃないし・・・と気にはなっていたのだが・・・夜遅く「急に」だ。
もう寝返り打つのも、くしゃみするのも、おならするのも痛くてたまらない。
寝られない。
4時頃に、ついにたまらずそおっと起きて、鎮痛剤を飲んだ。
で、少しホッと、眠れた。
朝八時半になるのを待って、こういうときの強い味方「カネサカ鍼灸院」に電話。
日曜だけど、1時が空いているよ、といってもらえた。
「でも、昼から、休みでしょ・・悪いなあ・・」
カネサカさん、日曜は、午前のみに開院なのだ。
「急にぐわい悪くなる人は、ほかにもいるんだよ」
なるほど。
しかし、坐るも立つも、寝ころぶも、別のアクションに移るたびにお尻右辺の骨に響いて痛い。
こういう痛みは、久しぶり。
六亡星直列の時間10時12分近辺は起きて、「世界平和」をお祈りしたけどそれ以外は12時半までごろごろ、じゃない安静。
1時から2時過ぎまで、みっちりと1時間、鍼灸、その他諸々、足に置き鍼まで。(これをされるときはかなり悪い)
すごくすごく、楽になった。(おなら、くしゃみ平気になった)
原因:右の腰、いつもつまる骨に加えて、左も今回は動いていた、それが原因とか。事故に遭ってから起きる「右がつまる」現象は半年に1回くらいは治さないといけない。合図は、右足くるぶしが痛くなってきて歩行するときにかなりいたいとき・・なのだが、考えてみたらギリシャのアテネでその合図があったのだ。でも、帰ってきたら、痛くなくなっていたので忘れていた。
(きっと、わたしの身体、コイツ(私)、身体の声を聞くとの忘れている、少し感じてもらわんと、手ひどい痛みをくれたように思う、ネパール行きの前でよかった)
カネサカさんも「わりとすぐによくなると思うよ、でも今日は安静ね、ごそごそしないこと。11日にまた見せて下さい」としっかり言い渡されてしまった。
はい。
ということで、選挙も棄権しないですんだし、これからまた布団に入ります、です。ごそごそしない。
それにしても、こうやって椅子に座って字が打てるようになってよかったわ。
カネサカ大明神、て拝んでいたら、奥さんが笑っていたけど、ホント大げさではない。やれやれだ。




2003年11月08日(土) いい台詞

今日、金沢のKさんからメールをもらって、その中にすごくいい台詞があった。
紹介!!

★最近、映画で「人はほうっておくとコドモから老人になる。オトナになる人はとても少ない」との台詞にショックを受けたからです。年だけ取って、「年の功」はない人にならないよう、日々修練したいものだと感じています。★
 (Kさん、ごめんね、この台詞レンタルしました)

「人はほうっておくとコドモから老人になる。オトナになる人はとても少ない」

これって、今どきの大人、言ってやりたい人がたくさんいるよねえ。
20代の彼女は今頃から、戒めているから、大丈夫だろう。
戒めの足りない人、上の一言を読んでどきっとした方々よ、心がけましょう。
せめて、明日は選挙にいって合法的な「ノウ」をいおう。(ありゃ、ちょっと違うか(^^;))

今日は穏やかなお日和。
右腕は、かゆさは夕方になって収まったが、まだ服の上からさわってもそれとわかるほどふくらんで熱を持っている。
「黄熱」菌、強いヤツだなあ。
確か、野口英世サンは、これで亡くなったんだっけ?



2003年11月07日(金) ラエリアン・ムーブメントって仏教!?

ダライラマ法王様の講演のおりに、外や駅前でもらったビラを捨てる前にちょこっと目を通した。(活字中毒者の宿業)
そうしたら、「西方からのマイトレーヤ」というタイトルのビラにびっくりのことがのっていた。
●以下はその中の一文●
仏教では、ブッダの死後3000年経つと、「鶏の王の国」に新たなマイトレーヤ(仏陀)があらわれる、と預言されていました。
フランス人は昔、ゴールとよばれていました。
ゴールの意味は鶏、ラエル聖下(ラエリアンの教祖さん・フランス人)は、1964年に生まれましたが、その年のフランスの首相は「ド・ゴール」でした。
つまり、ラエル聖下は、「鶏という名の王」が統治した「鶏の国」、フランスで生まれているのです。

(私感・・・「ド・ゴールでした」と「つまり」の間にある、大呼吸というか、飛躍というかに笑うよ)

また、ある仏典には、過去、現在、未来を照らす真実は3000年後に明らかにされ、マイトレーヤは7日後にあらわれると書かれています。北方仏教によると、仏教年3000年は西暦1973年に当たります。
預言者ラエルは、1973年に12月13日に異星人「エロヒム」と遭遇し、6日間でメッセージを受け取りました。そして7日目、彼らの地球大使として任命されました。
・・だって●●●●

イヤーびっくりした。
要するにだな、西洋文明に限界感じたヒッピー系のフランスのお方(多分そうだと思う)が、きっと、ネパールかインドの奧でなにやら身につけた仏教とUFOが合体して創始されたのが、ラエリアン??てこと。
そこまではいいんだけど、で、どうして、それが「クローン人間」つくるのに関係してくるだろか。
だって、クローンだの、臓器移植は仏教が要注意を喚起している最たるものだ。
ああ、びっくりだ。
ちなみに会場には、いました、たくさんラエリアンムーブメントたち。
警備のおじさんたちが「あの白装束注意」といってました。

このビラの中に仏像の顔のとこだけ、ラエル聖下になっている像が印刷してあって(力いっぱい合成写真です)、この像を見ながら瞑想しろだって。
でもね、キュウピーさんみたいなラエル星下の顔って、瞑想に使える感じじゃない、笑える・・・
まあ、笑うのは、身体にいいそうから、「明るい瞑想」にはなるのかも知れないが。
と考えてから、ビラにバイバイしました。
(ヒマですよね・・・)
今日は、右腕(黄熱の注射)が腫れて熱くてかゆくて、かゆくて。思い切りひっかきたいけど、まさかまさか、でバンバンたたいて我慢した。
1週間後には、発熱だの、発疹だのも予告されていて・・イヤだね。
黄熱は、微毒性のワクチン系の注射だから仕方ないらしい。
やれやれ。





2003年11月06日(木) 注射2ヶ

午後から、破傷風と黄熱病の注射をしてきた。
右と左。
黄熱は、熱がでるかもとのこと。
「黄色い熱ってどんなん?」
両腕に、一気に2ヶしたせいだろうか、帰宅したらだるい。
ごろごろごろりん・・・・
破傷風3500円×2
黄熱イエローカード付き 2430円
まだ入手していないが、
マアリア予防の錠剤(メフスキン)6錠入り一箱 9000円
アフリカに行くのは、お金がかかります。
まあ、エリトリアもエチオピアもどっちのお国の人も、自分たちは「アフリカの人」だとは思っておられないと、聞きましたが・・・注射の種類はアフリカですだ。

ところで突如話が変わるが、
自衛隊のイラク派遣、死んだら1億円だそうな。
これが「命の値段」・・アメリカとどこまで仲良くせんといかんのかねえ。
あのアホブッシュとさあ。
むっかつきながら、ごろんごろん。



2003年11月05日(水) 意外な話

ファンケルの広報誌を読んでいたら、おもしろい記事があった。
「ガンの原因についての主婦と免疫学者の考え方のちがい」

★主婦が考える、ガンの原因ベスト6
1食品添加物
2農薬
3タバコ
4大気汚染・公害
5焦げ
6ウイルス

★免疫学者が考える、ガンの原因ベスト6
1ふつうの食べもの
2タバコ
3ウイルス
4性生活・出産
5職業
6アルコール、放射線・紫外線

主婦の方は、よく問題にされているモノばかりで、ウンウンとうなずくが・・・
免疫学者の方は・・これって要するにふつうの生活者なら、みんな関係していることで・・。防ぎようがないではないか。
あっけにとられてしまった。

どっちにも顔を出しているのはタバコとウイルス。
それで、ガンの原因の65%は、喫煙、飲酒、食事だとか。
塩分のとりすぎと、胃ガン、動物性脂肪取りすぎと大腸ガン、食べ過ぎと前立腺ガン、大腸ガン、乳ガン、子宮ガンが関係しているいう。
(オオ。食べ過ぎに気をつけよう)

なお、食品添加物は何でも悪いのではなくて例えば、ハムやソーセージに含まれる「亜硝酸塩」は、ボツリヌス菌を防ぐ働きをする。ドイツやフランスでは、ハムソーセージをつくるのに、この亜硝酸塩を含む岩塩を使っていたというほどで。
(わたしなんかも、ハムはよく無添加を買うが、へエーと思った)
日本人が好む柔らかめ、薄味、低糖は、裏を返せば微生物繁殖の好条件とか。
(そうか・・・)

降りはしないが、パッとしない天気で洗濯物が乾かない。
ところで、耳より情報。
「9日朝10:12分42秒に、きちんと六ぼう星に星がならぶそうです」という話が昨日メールできた。
「祈りの時間」であり「種をまくとき」らしい。
9日を境に前後三日、世界各地で「平和の祈り」が行われるらしい。
世界の平和を祈る時間、ちょっと立ち止まって手を合わせて念じましょうね。
(とこれを読んで下さっている方々に呼びかけるわたしでした)




2003年11月04日(火) ダライラマ法王 in国技館 2日目 

2日目の前半の要約
 
★ 西欧社会で、仏教について話すとき、いくら仏教がいいと思っても、宗教(つまりキリスト教?)を変える、信じるモノをやたらに変えるのはよくないと話している。(中世の、実は日本をキリスト教にして支配しようとしたバテレンたち、よく聞かしてやりたい。しかしまあ、だから、仏教はインドから退散したんだわね・・以上私感)

★ チベット仏教は、ナーランダ僧院(インド仏教)の伝統を受け継いでいる。
大乗や密教は釈尊の教えではないという人もいるが、そんなことはない。チベット仏教はすべてを受け継いでいる。(私感・・・私は、初期仏教の厳しい禁欲性を考えれば、密教は確かに釈尊の直接の教えではないと思う。しかし、キリスト教において、ルター、カルバン派がでてきたように、仏教においても同じ展開があっても然りだ)

★チベットには、大乗、小乗、密教が完全な形で伝えられている。

★釈尊の教えは「縁起に基づく見解」(多分この字?)と「実践」の2つと考えられる。実践とは、すなわち
 暴力を用いない
 他者に思いやりを持って、その気持ちを育てる
 他の命あるものを害さない
  ↓
 悟り、一切智へ

★わたしたちは本来光り輝く存在である。それが、煩悩によって曇らされている。この世の生き物たちは、苦しんでいる。
苦しみの因をなくすことによって、解脱を求めるしかない。
よい結果←よい因をつくらねばならない

★四締
不幸せ、苦しみ→祈願だけでは、取り除くことはできない。因を知って因を取り除かねばならない。自分自身が幸せの因をつくることで幸せになる。

★苦しみは動物にもわかる。幸せの内にも苦しみの因はある。すべてのモノに苦しみの因は潜んでいる。この辺りが仏教のユニークさであろう。

★滅諦、我執、苦しみの原因をとのぞくことの手段を講じる、それは可能。
 わたしたちが望む幸せは苦しみをなくした状態。それが永続する境地が悟り。

★般若経は、我執をなくすための教え。
空の教え・・理解できたときに我執を滅することができる(私感・・・この理解って、いわゆるふつうの理解じゃないよね)

★あるものをあるがままに理解することが大切。(ここは理解というより、受け入れるとか、見つめるとか?)

★如来蔵経・・・心の本質は光り輝くものであるといっている。
毎日の生活には、怒り執着がずっと同じ状態で存在しつづけることはない。
執着はみにくいということを認識することで鎮めることは可能
怒りを鎮めることは、愛によって、慈悲の心を高めることによって可能

★解脱とは、汚れを対策を困じることによってなくする(滅する)ことで到達する境地(私感・・・対策って訳どうかと思うねえ・・・つまりそれは修行ってことかな)

★空の理解・・ブッダの法身をみることができるだろう。
これは、功徳を積む、知恵を積む、ことによって

★功徳、修行、衆生のことも考える・・これがブッダに従う人たちだ
 法衣を着ているからといって、ブッダの教えに従っているとはいえない。高位の法衣を着ていても、仏教徒になっていない人もいる。(私感・・・一部のお坊さんや先達さんに聞かせてやりたい言葉だわ)

★五雲の苦しみー無明に支配された汚れた心・身体 
(このお話近辺、難しすぎて私にはよくわかりませんでしたわ、。ここに納得してまだ書けません)

★慈悲の心とと執着心のちがい
  ↓     ↓
  ↓     限られた人への思い 
すべての人を助けたい
すべての有情(生きとし生けるものへの救済→菩提心)   

以上
これが二日目前半の法話である。
しかし、私が理解した範囲なので悪しからず。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうも、頭がやや痛い。右側のみ。
風邪を引きかけた??人の多いとこで菌をもらってきたか??
それとも、このところの太陽から降り注いでいる電磁波のせいか?(まるで、パナウエーブだが・・・)しかし、ワタシ的には、何となく身体がパッとしないのそれ、関係していると思うのである。



2003年11月03日(月) 仏教と科学の対話(ダライラマ法王 in 国技館)

総司会 龍村仁監督
出席 ダライラマ法王 
   2002年ノーベル賞受賞者 小柴昌俊博士
   DNAの世界的権威 村上和雄博士

龍村 20世紀は物質的に豊かな社会を築いた。しかし何かおかしい・・・不安が芽生えている。特に2001/9/11以来それは顕著だ。9/2日にセントラルパークで20万人が法王の話を聞いた。これもやはり不安の現れではないか。
そこで、法王に質問したい。
仏教者である法王が、科学者との対話を重視されるのはなぜか?
(法王は、世界各地で科学者との対話を試みて折られるとの説明があった)
我々は、科学の進歩に見合うだけの進歩を遂げているのか?

法王 科学者世の対話を試みるのは、新しい何かを学ぶことができる。
ある人は、あなたは科学者と話さない方がよい、なぜなら、そうすることで仏教は科学に殺される、気をつけてと言われた。
しかし、私が学んできたナーランダでは懐疑的態度は伝統である。
釈尊ご自身が言われた言葉でさえ時に疑う。リサーチによって、それを信じる。
これは、科学者の態度に近いのではないか。  
しかし、心理学に関して言えば、仏教の方が深いところがある。意見を交換することは、彼らの役に立つだろう。
物質的向上、肉体の快適さ、その幸せは「心」に役だったか?
仏教は、来世涅槃といったことを別にして考えても、心のサイエンスであり、一人一人が心の平和を築くことに役立ち、それは世界平和に貢献する。

小柴 科学は主体と客体を完全に分離して物事を追求する。観測や認識から結果を導きだし、誰にも理解できて、それが人類共有の財産となる。
しかし、思うのは、科学(者)は、認識する自分(主体)をどこまで理解できるのかな、と思う。
歴史において、他宗教や国、人を攻撃しないできたのは仏教だけ(ここで大きな拍手・・もちろん私もしました)。他の一神教宗教に比べて、排他的ではない。その一神教が戦争を引き起こしてきたといっていい。(また大拍手)そういう意味で、世界平和に一番貢献できるのは仏教ではないか。
(私感・・確かに、小さな事を言えば、仏教も真っ白ではないだろう、しかし、一番手が血に汚れていないのが仏教であることは確かだろう)

法王 主立った宗教のメッセージは、愛、慈悲、赦し、平和・・である。よりよきモノをと、と念じている。
争いは、それを伝える者が、正しく伝えていないから起きるのだ。(うん、確かに)
いくつかの宗教があり、いくつかの真理があり、一人一人が、自分に合う宗教を信じればよい。
宗教間の対話と理解・・これは、可能であると信じる。
キリスト教のような創造主を信じていない私がクリスチャンの前で話す、あるいは、仏教にとっての最も大事な聖地ブッダガヤでクリスチャンと共に瞑想をした。彼らが、その我々にとって、最も大事に聖地にはいるのを許した。

小柴 そうは思いたいが・・・納得がいかない。
例えば、法王とオサマ・ビンラデンが話し合いをして相互に理解できるとはとは私には思えない。

法王 (笑いながら)では、私も彼のように、自動小銃を持ったら、話し合えるでしょうか・・・
私は、どんな人も心に慈悲の種を持っていると思う。ビンラディンでさえも、ヒトラーもスターリンも持っていたと思う。
同情が目覚めれば、よい者になる、彼らに同情や慈悲がないとは思えない。


村上 遺伝子は、onとoffのスイッチを持っている。
(龍村監督が紹介した村上先生のおもしろい実験・・・吉本に百人の糖尿病患者を招いてさんざん笑わせてから血糖値を計った、血糖値は40も下がっていた。笑いが明らかに血糖値の改善に役立っていた、つまり笑いがよき遺伝子のonに役だった・・・私感・・笑いを取るのがうまいおもしろい先生でした。自分の研究成果は吉本に出会わなかったら、なかったとかってマジ顔で言われるとやっぱり笑えるよ)
遺伝子のonとoffは、笑い、楽しい、うれしい、感動と関係している。
笑いによってどの遺伝子がonになるのか、ということがわかったら、医療が変わる。「笑い薬」を処方することになるかも知れない。(会場大笑い、でした)
寝ているいい遺伝子を起こすこと、働いている悪い遺伝子をoffすること・・・
仏教(の修行)は、感情をネガテブからポジテブに変換するのに役立つのではないか、と思う。ここに詳しくはまだ言えないが「村上理論」が加わるとおもしろくなると思う。
自分の仕事は遺伝子を読むこと。しかし、それを書き込んだのは誰か、という大きな疑問は解決していない。
30億の遺伝子(情報)が1グラムの200億分の一に入っている。
まさに「自然」が書いた。後ろに大変不思議な力が働いている。科学者は「神が書いた」とはいえない。(笑い)だから自分は「Something Great」とといっている。

法王 ウイスコンシン大学が仏教者の脳の実験をした。一点集中の瞑想、慈悲の心の瞑想で脳波を調べた。ポジテブな心に関係すると言われる左の脳の活動が特に活発だった。脳が反応すると身体や意識、感情なのにも大きく影響する。

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以上、要約です。
疲れと難解、ボーと聞いていたところもありましたが、私の理解の範疇で。

刺激的だったのは、「Something Great」の話。
村上先生はなかなかの魅力おじさん。(多分おじいさんのようなお歳のはずだが若々しかった)今度本を読んでみよう。
法王は、心底「性善説の人」
そして、心底、他宗教との対話が平和にきっと役立つと信じておられる。その姿は貴いと思った。
法王が身につけておられる食わず嫌いをしない柔軟性、腰の低い大きな慈悲心(非暴力とは、つまりはこれなのだろう)は「真なる仏教徒」のあるべき姿と感じた。



2003年11月02日(日) 「心を訓練する八つの教え」・・ダライラマ法王 in 国技館

朝は7時にでて、8時半会場に入って、9時半から、今日のダライラマ法王のお話。
昨日は、若者へむけた「ふつう人 ダライラマ」の法話というスタイルだったが、今日は、本格的だった。
前半は、けっこうむずかくて、通訳の人に、文字、どん文字かいってくれないと、わかんないよ、というところがいくつかあった。
お隣の若者二人は、早くも退屈(枡席となり)、何と弁当を出しよった。
さすがに私はつついて「ダメ、注意されるよ」といってやった。
ホントは、「法王様のお話を聞きながら弁当あぐらで食べるって失礼よ」といいたかったのだが、会場が静かだし、恥をかかせるのもナニかな、と忍んだ。
下の椅子でも、マックを食っていて注された男の子アリ。
何で、おそれ多くも法王の話を聞きながら、あぐらで弁当食えんのか、私にはワカラン。この非常識度は何なのか。
でも、注意したら、素直にやめて、その子は席を立って会場の外に弁当を持っていった。(よしよし、少し知恵が回ったな、と思った)
8000円払って、お話を聞きに来る位なんだから、それなりに真面目な子のはずだ。その子にして・・・やはり、大人が悪いんだろうと思う、ね。そういう、けじめのなさを教えたのは、というか節々でそういうことを教えられなかったのは、大人であり、社会だ。

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すごく長いので、とりあえず
タイトルの「心の訓練する8つの教え」(ゲシェ・ランリタンバ・ドルジェ・センゲ)をここに書きたい。
それ以外も、明日以降にボチボチと・・・

1「すべての有情(衆生と読み替えよう)のために 最高の目的を達成しようという 如意宝珠にもまさる決意によって 常に有情(衆生)を慈しむことができますように」

2「誰と一緒にいるときでも 自分を誰よりも劣った者とみなし 他者を最もすぐ
れた者として 心の底から慈しむことができますように」

3「いかなる行いをするときも、自分の心をよく調べ 自分と他者を害するだけの煩悩が 生じるやいなや真っ向から立ち向かい すぐさま力づくで退治することができますように」

4「悪い性質を持った有情たちが 悪行や辛苦に苛まされているのを見たとき 貴重な得がたい宝を見つけたかのように 得がたいものとして大切に慈しむことができますように」(この辺が仏教の限りない優しさというか、ユニークさ、田とわたしは思う)

5「誰かが私に嫉妬して 罵倒し 侮辱するなどひどい目にあわせても 負けは自分が引き受けて 勝利を他者に譲ることができますように」

6 「私が助けてあげて 大きな期待を寄せていた人が 理不尽にも私をひどい目にあわせたとしても その人を 聖なる師とみなすことができますように」

7「要約すると 直接的にも 間接的にも 母なるすべて(の有情たち)に利益と幸せを捧げ 母なるすべての有情たちの 被害と苦しみを みな密かに私が引き受けられますように」(この、密かに・・と言うところがすごい、というか・・・)

8「これらのすべての修行が 世俗の8つの思惑にけがされることなく すべての現象は幻のごとき者と知って 執着を離れ 束縛から解放されますように」(すべての・・辺りからはまさに「空」の教え、だ)

反対隣りの女の子二人が、34,辺りで「むずかしいよね」567辺り「無理、無理、無理だよ」と小さい声で連呼。
笑った・・・同感で。
でもね、「そういう志で生きよ」だよ、といってやりたかった・・・・

ちなみに今日も昨日同様、若い人が目だった。
みんな「何か」を求めているんだろうねえ。「衣食住以外の何か」

12時過ぎに終わって、金沢から来たKさん(高野山YHで知り合った若い友人)と落ちあってご飯。その後、あったかいひざしの中でいろいろと話した。
やはり「前半」はむずかしかった、という感想だった。
二人して「ラエリアンおじさんにはびっくりしたよね」
はい、国技館の前で、黄色いジャンバー来てラエリアンの幟を持って、ビラ配っていたのがラエリアンおじさん。
二人ともラエリアンを見たのは初めて「いるんだね」「おじさん、というのが意表をつくよね」

昨日の最後の質問、(私は聞かずに席を立った)
小学生がたって「法王の夢、希望は何ですか」
「世界の平和とチベットに帰りたい」だったそうな。
満場の拍手だったらしい。いいですねえ・・・・
Kさんが教えてくれた。
事実、今日8時半過ぎに会場について、待ったわけだけど、国技館の中が気持ちよかった、なんだか気持ちいい気に満たされているな、と感じたんだけど、きのうの最後がそうであるなら納得。
数千人の人が待って、入り口で荷物チェックを受けてはいる。
しかし、、何の混乱もなくで。待つのもほのぼので。
春の世界平和デモの時もそうだった。
こういうのって、人の志と魂のレベル?の問題かな。

それにしても、檀上に二人、壇下に二人、あちこちにSPの姿。「チベットに帰りたい」という法王の希望がはたされるのはかなり先だろう。

午後からは「仏教と科学の対話」
法王と、例のノーベル賞の小柴さん、遺伝子学の権威山口教授、司会ガイアシンフォニーの龍村仁監督
(これのしだいは明日にでもアップ)

帰り、またラエリアンの集団がビラ配り。
ふつうの、おネエさんお兄さんがラエリアンなんだね。びっくり。

関内の友人のグループ展へ駆けつけて、別の友人夫婦にあって・・一日忙しかった。
で、昨日は日記のアップもせずに、お風呂も入らずに10時頃から爆睡・・・
3日5時半に起きて、日記アップのお粗末でありました。

PS
ちなみにこの法王の講演会は、中国を刺激しないためだろう、新聞などにはでなかった。
インターネットと、チベット通信というダライラマ日本事務所が出している通信のみの案内だった。
私もKさんがメールでネットのページを送ってくれて知った。(ありがとうね)
へんろ館の談話室に書き込んだら「遍路と直接関係ないですから、あれはよくてどうしてこれはダメなんだ」というメールがきますから悪しからず、ということで、即 消去されてしまった、くすん。ビッグサイトの掲示板の運営ってって大変だな・・・と改めて思った次第でありました。

かなりひっそりの催しであったにもかかわらず(それでも、国技館、と言うのがすごいけど)でもこの人数・・確かに法王の夢はいつか実現するかも、と思った。
うん、今気がついた・・ネットで知った、が多い、とは若者が多い、なんだよね。
昨日の仙台の女性もネットだった、ね。



2003年11月01日(土) ダライラマ法王 in国技館 「慈悲の力」

12時半、開場、しかし12時10分、すでに長蛇の列。
法王のカリスマ、すごしだった。
会場内は、すでにイス席はいっぱい、枡席なるものに初めてすわった。
そもそも国技館が初めてだわ。
場内は、日本というよりアジア・・いろいろな言葉、国籍の人がいた・・・
私のこの催しを教えてくれたのは夏に高野山YHで知り合ったKさん。彼女も金沢から来ているはず。(明日は一緒に食事の予定)
で、枡席お隣は仙台から来た女性。
小さいお子さんを家においてどうしても来たかったので・・今朝まで迷っていたけどやはり行こうと来たという。
みんなすごいなあ。

○講義録○
ダライラマから変わった話が聞けるのじゃないか、と思われても、ヒーリングパワーがあるのではないかと思われても困る、みなさんと同じ人間。頭の中で考えていることは同じ、煩悩も、可能性みなさんと同じです。
同じ人間として自分の今日の話を聞いて欲しい。
★愛情
人は小さいときから母の愛を受けて育ってきている、それはほかの動物も同じ。
母の愛のように内よりわき起こってくる力、これが慈悲、慈愛である。
愛、慈悲・・これはすべての宗教で大切だととらえている。
ある宗教は、創造主を持つが、やはり愛、知、力を大切だという。
仏教に特定の創造主はいない。しかし、ブッダの教えも、慈悲(愛)、知恵、善の力・・同じモノがある。
どの宗教でも愛(慈悲)はもっとも大切とされる。
宗教相互にに関係しあい、仲良くしていくことが必要であり、大切でしょう。
科学者によると、産まれたときに母の慈愛、温もりをそばに感じたこと感じない子ではそだちかたや脳の発達が違う。
今世界の人口は増えているが、人の愛のあかし「慈悲」の力ではないか。
慈悲と人の関係についてのほかの例
*医師に慈愛がないと、患者は治りにくくなる
*わたしたちはみんないずれ死を迎える。そのとき、回りの人が「慈悲」ヲ持って送り出してやれば、その人は安らかに浄土に旅立てる。
今(日本においては)物質的状況派ととのっている。しかし、内的状況(心の中)はひどい。これでは人は幸せになれない。
教育は大切である・・すべてのモノを知る努力(知恵を付けるということ)成果はかなり十分だ。しかし、心からの愛(慈悲)を育むことにおいては不十分だ。自分心の安らぎや愛を確かめたり育てるすべを学ばないと、社会全体の幸せは難しい。
★科学的向上
人間のためになるモノならいいが、それが破壊的なまちがった心で使われると恐い・・テロもそうだし、原爆がいい例
遺伝子操作、クローン細胞の操作なども、人の幸せにつかわれるのだったら、とは考えるが人を害そうとして使った時が恐い。
★戦争反対の動き
争いや戦争は、人を害そうとすること。他に対する愛(慈悲)があれば、起きないはず。
一人ひとりの中の愛(慈悲)の気持ちを高めることが大切。
暴力は本来、人の本質とは相反するモノ
人と人、国と国へと慈悲の力を広げることができるはずだ。
まず、家庭、そこから始めよう
愛(慈悲)を育てる・・これが世界平和につながる
自分も他人も幸せに・・・対話、会話、心の勇気を手段として一歩一夫進んで行かねばならない。
外の世界の武器を捨てる 心の内の武器(人を害そうという気持ち)を捨てること

1核兵器をなくす
2兵器を売らない
3攻撃もダメ
心の内で、みんなの思いが育っていけば、それは夢ではない、実現する。
★貧富の差
今実にこれが激しい。
世界の資源には限りがある。
それぞれがライフスタイルをもう一度考えてほしい、少欲知足が今必要。
これもまた慈悲である。(貧なる他者を思いやるという点において)

この後質問コーナー
司会ピーターバカラン氏が、ハガキに多かった質問として
「法王ご自身、怒りや憎しみの感情を持たれるか」
もちろん、みなさんと同じ人間です。
腹が立ったとき・・そういう気持ちはほっておく(開場から大笑い・・その言い方が実にチャーミング・・私も笑いました)
「悩みや不安はありますか」
それは誰にでもさまざまな状況で起きてくるモノでしょう。
でも、心の持ちようで・・・安定していればコントロールできるモノです。
煩悩の力は強いモノです。
自分は菩薩行(観音経を唱える意味で?らしい、通訳の言い方がおかしい)で「この虚空が続く限り、苦しむ人がいる限り・・」(ここは、空海が「衆生尽き願い尽きなば、我が願い尽きん」といわれたのと同じだと思った)
「戦争が起こるわけはなんですか」
人を憎む心、狭い心

・・・・・・・
この後も応答続くが、私はともだちとの約束アリ、仙台の人もうちに帰る時間で一緒にでた。
途中、日本語訳の人がへたくそでいらついたよね、と感想一致。
やたら愛愛といっていたけど、あれは慈悲といって欲しいよね。
これまた一致。
法王ご自身はずいぶん英語が堪能だから、むしろ英語の方がよかったんだろうけど、だけど、それでは「魂の言葉」にならない。英語は「コミュニケーションの道具」ということなどを話していたら、東京駅、さよならした。
賢くて、きれいな仙台女性だった。
危うく、「メルアド交換してお友だち化」しそうだった。

法王は、けっこうせっかちで表情豊か、キュートなおじちゃんさまだった。
好きですね。

5時前、三越の永井吐無画伯の展覧会。
落ち着いた色調と緻密な絵、癒し系のタッチであった。

5時半、大学時代の友人が出張でこちらに来ていたので銀の鈴で会う。
一緒にタイレストランで乾杯。
誕生お祝いということで・・しかしもう「誕生日 冥土の旅への一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(一茶の句・・誕生日のところホントは「正月や」です、はい。私の好きな句です)彼女も、1ヶ月前くらい先にお誕生日だったし、ね。

さあ寝ましょ。
明日も、法王様のお話を聞きに行きます、です。
  


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