2003年05月31日(土) |
「兄おとうと」を見る |
この嵐の中、井上ひさし師の、新作芝居を見にいって来た。 おなじみの新宿紀伊国屋ホール。 都内の芝居小屋で私がもっとも好きなホールのひとつだ。 ここで、見た芝居、はじめては つかこうへい、並んで座布団もらって・・から始まった。熱海殺人事件、銀チャンの台詞に泣いた。まだ20代の頃だ。 あの頃からボチボチ始まった私の芝居狂い、一時は定期券持って澁谷に通うときもあった。多分、一財産、使っているよな・・・ おっと、話が横道だ。 今日のは吉野作造をモデルにした新作・・・吉野作造には、10歳ちがいの弟がいて、彼も又秀才、大臣を歴任した男。民本主義を唱え、さまざまな、今でいう「福祉」を民間で試みたりした学者、吉野作造とは、実に好対照の弟とのお話である。妻たちどうしも姉妹、という設定。歌あり、台詞の妙ありで、笑った。 大笑いした。 まあ、客も、楽日のこともあり、井上芝居のファンが大多数。例のごとく(新作だと、井上ひさし師は必ず遅れる・・遅筆堂)2日遅れだったので、その時に見られなかった人たちもいて、とにかく良い雰囲気であった。だから、笑いも伸びやかで、心得て、の笑いだ。 今日の台詞の白眉 「三度のご飯をしっかりたべよ 火の用心 それで 今日も元気に生きよう きっと、ね」(これ、いいよ!) 「国が国会外でかってにろいろなことを決めている、それが不幸を招く」 この今の状況とあまりに呼応する台詞は、いわゆる大正デモクラシー以後、太平洋戦争に突入する前夜の日本の状況でもあった。 大昔、佐多稲子さんとお話しすることがあった。 「今の状況は、日本が太平洋戦争にはいる前に似ていますよ、怖い時代が来ていますよ」 もう、20年近く前に聞いた言葉。 状況はもっと、複雑に、もっと悪くなっている。 先日は、防衛庁の長官がやがて徴兵制に・・と発言したようだし。 こうして不幸は又来る・・きっと、ね。 そして「「三度のご飯をしっかりたべよ 火の用心 それで 今日も元気に生きよう きっと、ね」が、出来難い時代が来るかも知れないのだ。 この、井上師の焦りが「国が国会外で飼ってにろいろなことを決めている、それが不幸を招く」という言葉に集約されている気がした。 あまりにナマの台詞、それは深い悲しみと怒りでもある。
私は以前つかこうへい師が主宰する劇団で「井上ひさし戯曲塾」(多分、今もやっている)をやったときに、井上ひさしさんの話が4回も聞けるというので申し込んだ。 「むずかしいことを、やさしく ふかいことをたのしく」 「我々は、すでに、原水爆の戦争が起きたら一気になくなるという悲劇のまっただ中の日常にいる、すでに悲劇の中にいるのだから、もう悲劇はいい、笑い、喜劇こそが戯曲のテーマです」 なんてことを、聞いた。 こいう教えを下さる方は「師」である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・ 綾ちゃんが亡くなられた。 判衣が満願しての、ご逝去・・不思議。 うつくしいお顔だった。 よく頑張られた。 ご冥福をお祈りしたい 合掌
2003年05月30日(金) |
小説 中上健次 を読む |
図書館で、ふっと目についた「時の肖像 小説・中上健次」借りてきて一気に読んでしまった。 あの作品に見られるエネルギッシュで濃厚な性描写とは裏腹な、中上の可愛い性格(女性にはトコトンうぶであった、という面が活写されていて)がおもしろかった。 中上と同世代だった担当編集者が書いた本なのだが、編集者と作家の実に幸福な関係がよく描き出されている。 又、作者(元編集者)は、中上の担当として濃い関係(もちろん文学において)の時代、子どもの抱えている障害によって、まるで家庭から逃げ出すように仕事にのめり込み、それによって奥さんとの関係が冷え切っていく時間でもあって、それが、裏腹のように描写されていて、この、小説・中上健次という作品に陰影を与えている。
熊野を歩くと、ふっと思い出すのはやはり中上の「熊野集」の熊野の描写だったりする。 改めて、生きていたら、この時代、どんなものを書いているだろう、と思う。 あの熱さ、行間に孕む熱気が今必要な時代かも知れない。 寒い時代だ。 外国で、日本人の心の体温、低いなあと感じることがよくある。
本日は、お遍路仲間のM氏が大学の同窓会で水戸まで行った帰りに寄るから、ということでご一緒にランチをした。 つな八のてんぷら定食。これだけでも立派なカロリーなのに、昼ビールまでついていた。 ホントにお久しぶりのビール。美味しかったです。 で、かえってきてだるくて、大昼寝してしまった。 (いかん・・・ですね。だって、M氏が一人で飲むのはつまらん、というからねえ) M氏は鶏を飼っているのだが、一緒に飼っているのが、手品によく登場する鳩である。 その鳩、手品用なのでかなりふつうとちがうらしい。 ★鳴かない。(ふつう、鳩は「くう くう」という) ★小さい。(土鳩なんかにくらべるとすごく小型らしい) ★動かない。(エサの時以外はじっと止まり木にいる。タオルなんかで包んでも、鳴いたりさわだりしない、されるままになっている)
聞いてびっくり、であった。 長い「鳩史」の中で、上記のような傾向のある鳩がかけ合わさってできあがったのだろう。 あの鳩、手品ではなくてはならぬ存在だが、どうやってあそこまで馴らすのか、おとなしくさせるのか、疑問だったが、その様子を聞いてなるほど、であった。
こんにゃく、美味しくない。 ところてんは、まだ寒い。 野菜はちょこっと秋田県、こってり食べたい・・・ ケーキ、甘栗・・恋しいなあ。 ビール、冷蔵庫で冷えているワイン、飲みたいな。 と、ダイエットの倦怠期である。 危機である。 もうじきダイエット宣言1ヶ月だから、仕方ない現象か。 しかし、負けない、がんばる。
群馬山中で行方不明になっていた父娘が救出された。 「命の携帯」だったらしいが、どこの会社のかな。 多分、ドコモ?? 熊野では、KさんのJホン、ホントにはいらんかったもんね。 山に入る時は絶対ドコモだ。 マジに、命にかかわる。 迷ったら尾根、というのも大事なことだ。 沢におりたら、場所によっては突然滝に出くわして危険などということもあるようだ。 大昔、役行者にこっていたころ、友人と葛城金剛山に、奈良側から登ったことがあった。 途中まで細々とあった登山道が突然ぷつんと切れて(崩落したらしかった)藪こぎ。「尾根だ、尾根だ」と必死で登り詰めたら、なんとダイヤモンドトレイルとなづけられた立派な登山道が現れた。友人と、キツネにバカされたようだね、と話したものだった。 どうしてこんなところで、という場所で迷う。 同じところをさまよったりする。 こういうとき、人のちっこさを痛感する。ありんこみたいだ・・ 老行者師は、わからないところにないところは、木を切っていけ、といわれていたな。事実、ちっこい鉈のような者を法螺貝と共に身につけておられた。 私は道筋にヒモを結びつける、と思ったんだけど。 (持っていった)
今日は、PCの前に座るも、どうもダメだった。 進まず。 無為の一日・・に近い状態だった。 よくないね。 こういう時間、自分の内部で「何か」が蓄積しているとき、とは思うのだが、結果としてでないので、じたばたするし、情けなくもなる。
今日、老行者師に差し上げる200グラムのシュラフやチタンの食器を購入したついで(?)に、自分も、今度こそ、もっと荷物少なくと、新しいザックや寝袋代わりのシュラフカバー、軽い懐中電灯、短いスパッツ、ゴアテックッスの帽子(笠はブッシュの崖ではじゃまだった)などを購入してしまった。散財・・・ でも、やっぱり行きたくて、行きたくて・・・ 玉置からの帰り、もう来ない、と心だけじゃなくて、口に出して誓ったのに。 喉元過ぎれば・・だ。
★玉置から行仙小屋(無人)まで(3時にでて、地蔵だけは迂回ルートで) 行仙小屋から持経小屋(無人)まで 持経小屋から前鬼へおりる ★前鬼から登り、深仙小屋(無人)へ 深仙小屋から弥山小屋へ 弥山から行者還岳小屋(無人) 行者還岳から和佐又ヒュッテ・・途中笙の窟へお参り ★天川側から行者還小屋へ登る 行者還岳から七曜岳、大普賢岳などを経て女人結界門から柏木へおりて杉の湯泊 杉の湯から五番関(結界門)へ登り吉野へ(きつい場合は二蔵小屋へ泊まる)
とまあ、3回に分けたら、いけそうな・・・実践の中で高所恐怖症は克服するしかないかと。 老行者師は、一気に行くな、分けていけ、といわれた。 その中で、いろいろなこと(山のこと)を覚えろ、といわれた。
先日の過労死しそうな一日で何が一番怖かったかと言えば、実は「自分」だった。 疲れてくると、集中度が徐々に低下して、ふっと気がゆるむときがあった。 転落等はそういうとき起きるのだろうと思った。 長期になると疲労で、体力もさることながら、自分の緊張が解けるとき・・精神力の低下が一番問題になる、命取りになると思った。 3泊4日だったら、なんとか持続できるのではないか。
ここまで、思い詰めるって、私、大峰病ではないか・・・と思う。 どうせ、又、岩ごろごろで、平らなとこがなくて・・そういうのが分かっているのに、行きたくなるって、人間の思考(じゃない、私の脳みそ)ってどうなっているのか、と思う。
そうそう、今日山屋さんで聞いたら、靴も買ったとこに持っていくと皮を柔らかくしたり、してくれると言っていた。 明日、電話してみよう。
2003年05月26日(月) |
このごろの問題は、ダイエットと筋力 |
お昼を一緒にしようと、友人2人と会った。 話題になったのは、ダイエット、そして、筋力。 先日もそうであった。 みんな年で、基礎代謝が落ちているから、今までと同じモノを食べていても太るのだわ。 私の場合もしかり。 今日の友人、一人は水泳、もう一人はエアロビ。 先日の友人たちも水泳。 みんな、健康志向だわ。 先日の友人たちが通っているスポーツクラブには、ロッククライミングの施設があるのだという。 やろうかしらん・・とくらりとなった。 高いところに対する免疫をつけるのにいいのではないかと・・・今考え中。 筋力もつくし。 ところで、私の体重、ベトナム帰国時から3キロ減った。 *夜7時以降は絶対食べない。 *ご飯は減らし、甘いモノには手を出さない。 *海藻やこんにゃく、ところてん、豆腐・納豆、きのこ、チーズ、ゆで卵、トマト、キュウリ・・等々をうまく組み合わせる。 *甘いモノが食べたくなったら、ダイエットキャンデー1個。 以上を厳守した結果だ。 いつまで続くか、だが、今のところ、大峰奥駆けに再挑戦したいとか、もっと道を楽に歩きたいとかの目的があるのでやれそうな気がしている。 あと、5キロ落としたい。 そうすると、せおう荷物ぶんくらいはやせることになる。 膝が喜ぶだろう。 (このところ、膝が痛いので千年灸をしているのだ、トホホ)
老行者師に軽いシュラフをプレゼントしたいと、鶴見まで買いに行ったのにお店はお休み。がっくり。 何だか、肌寒いお天気。 昨年、私は、西国道を歩いていたのだが、毎日晴れでありがたいやら、大変やら。 今年はえらくちがうお天気だ。 黒潮の蛇行と関係しているのだろうか。
昨夜も、大峰を歩いている夢をみた。 困ったもんだ。「重症」だ。 頭はもう行くことを拒否しているのに、身体というか、潜在意識がきたがっているのだ・・・どうないせいちゅうんじゃい。 今朝、Kさんに老行者師の伝言を携帯へメールしたら、九州の久住山から電話が来た。 オオ阿蘇かいな。 「私も、ホンマやったら、どこかなって指おっている」 ホンマやったら、今日は行者還小屋泊である。
それにしても、今回、反省というか考えるところが多々あった。
1)できる、という思い上がり ものすごく不安だった。知らない外国の空港に降り立つよりずっと心配だった。だって、今までの私の登山歴ときたら、那須茶臼岳周辺(この辺はくわしいよ)、林間学校の下見で行った箱根の明星明神あたり、中国奥地では、4000メートル近いところまで行ったけど、歩いたのは2時間ほど(高度馴化できていなくて頭がガンガン痛かった)、尾瀬歩き・・・四国や西国の札所あるお山は別として、思いつく限りで書いたがこのくらい。高度恐怖症なので、高いお山は避けてきた。 しかし、歩くと言うことは気力・・だと思っていたので、お遍路や西国道ではそれができたし、今度もきっとできると思って奥駆け道に臨んだ。 それが、間違いだった。 道の質が違うんだもん。 これだけ歩いているのだから「できるだろう」と思うのは、一種、思い上がりだろう。 私は、大森山手前ですれ違った中高年登山グループに「自己過信」を感じたのだが、人ごとではない。私もそうであった。
2)体験して知ること 不安だったので、地図と照らし合わせながら、アルペンガイドといわれるガイドブックを3冊読んだ。 で、不安をさらに増幅させつつも分かったつもりでいたが、全然分かっていなかった。今、「アリの戸渡り」と言われるとあの道無きやせ尾根を思い出せるし、「貝ズリ」(山伏が、岩壁に法螺貝をすりあわせるように進む場所)といわれると、見上げるような登りをイメージできる。身体で実感的に、恐怖感と共に分かる。 帰ってきて、もう一度、枕元にガイドブックを並べて読んでいる。身体の感覚がちがう。改めて、奥駆け道って大変だあ、と思う。
3)野蛮な宗教、修験道 五来重氏が修験道は、ヒューマニズムの対局にある野蛮な宗教である、ひとつまちがえば死ぬというのはそれの証明である・・・みたいなことを書いておられた。 その通り、とよく分かった。 老行者師が、ハイキングとちがうんやし早立ちせんといかん、どこでも寝られるようにせんといかんのや、といわれたけど、それもまた納得できる。 「温泉入浴」などという「人間的」なことを道中してはいかんのである。 だって、玉置より先、最低3泊はお風呂はないし、下手をしたら、お湯も沸かせないかも知れないのだ。「快」を排除するのが「行」。 身体を精神を「生命の危機的野蛮」な状態に置いて覚醒すること、生き物としての生命の質を高める、それが修験の本質・・かな。 それは、一種マゾヒズム的ではあるが、苦のなかにものすごい「楽」や「快」が潜んでいるように思う。 だから、紀伊の背骨大峰で、1000年以上、奥駆けは続いてきたのだ。明治の時なんて、修験道禁止のおふれがでたのに、である。このおふれは、やはりその「野蛮性」(から必然的に導き出される呪術性も嫌われたと思う)のせいだろう。
4)荷物つくりの反省・・今後へむけて・・(^^;)ホント?? 水を入れたら、10キロ強という荷物であった。 しかし、まだまだ多い。 老行者師は、区切りで進め、といわれた。 その方が確かに食べ物が少なくてすむし、楽ではある。
*寝袋の代わりにサバイバルシート2枚なら軽い。 *嗜好品(コーヒーだの、ココアだの)は持たない。 *着替えは、身につけているほかに下着1セット、防寒のぬれたときの替えの上着とズボン。 *食料は、乾パンやラーメン主体。アルファ米はやはり重い。 *非常の準備(薬品など)は最低限とする。
やはり、水を入れて6キロくらいに抑えないといけないと感じる。 日常性、文明の快感(例えば、暖かいモノが飲みたいといった)は捨てないと荷は減らない。
昼は出かけていたが、夜になって、忘れぬうちにと奥駆けの日記をアップした。 長くなった。 だんだんと、つづきがしたい・・の思いが募る。 しかし、玉置からの地蔵岳が、全奥駆けルートでは一番手強そうな気がする。 だって、山地図では、ここだけは破線だよ。
夕方近く、老行者師から電話「昨日は善光寺に行って」と言ったら元気じゃノウといわれた。 Kさんなんて、ご主人と九州のお山に登っておるはずだから、もっと元気だ。
朝、5時起き。6時前にうちをでて新宿発7時20分の長野行き高速バスに乗った。 けっこう満席。 前、斜め前、斜め後ろ、熟年夫婦の姿。金曜だし、ふつうのお勤めの人はなかなか行けないし、勢いこうなるのだろう。 まあ、けっこうなことである。 横川で休憩。 高速道路沿いの緑が美しい。 しかし、緑を見ると、どうしても、奥駆け道を思い出す。 昨夜なんて、やせ尾根の上をびくびくしながら歩いている夢をみてしまったもん。 あの100日行の若行者さん、お大師さんのお若いときのような方、今日もお山の上をかけっておられるのだろう。かっこよかった。 私たちが、行を続行していたら、しばらくあの方と一緒だったのだが・・・
長野が近づいたら道路が混んで着は11時20分。 20分遅れだ。 駅の観光案内所で、ご開帳のパンフをもらって、少しはやいけど、名物の信州そばを昼食に食べて善光寺まで歩いた。 15分ほどで行くのだが、門前町のにぎわいをプラプラ歩いたんで20分はかかった。西光寺という浄土宗のお寺に大師堂があった。もちろん、お参り。 大門交差点を過ぎたら突然門前が人であふれ始めた。 お参りの人たちである。 観光バスで来る人が多いのだ。 駅に着いた人も、たいてい、たかだか15分を歩かない。ひっきりなしにでているバスにのる。(私ため息) 仁王門から、ご本尊さんとご縁を結ぶ「回向柱」周辺は人の波だ。 老いも若きもべたべたと柱にさわり、その手で頭や身体に触り、お線香の煙を浴びて・・・日本てやっぱり仏教国なんだよな、と納得した。
★善光寺について★ 善光寺本堂の前立本尊・・・一光三尊阿弥陀如来。白雉5年(654)以来の秘仏。鎌倉時代にお身代わりとして現在の前立本尊がつくられた。ひとつの光背にまん中に阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ。 7年に一度ご開帳される。 歴史・・・縁起はインドの月蓋長者は娘の如是姫を如来に救ってもらい、深く仏教に帰依した。長者なき跡、本尊は百済に渡り日本へ。しかし、物部氏によって難波の掘りに捨てられ、月蓋長者の生まれ変わりである本田善光がそこを通ったときに出現した。そこで善光は如来を故郷へ持ち帰り自宅に手厚くお祭りした。 これが善光寺の始まりである。 となっているが、歴史的には成立年代不詳・・「正体不明」ナゾの多い大寺なのである。しかし、火に遭うたびに再建されて、庶民信仰の場として現在に至っている。 また、その霊験を求めて権力者が変わるたびに如来も「転居」。元善光寺をはじめとして、祖父江、佐久などにも「善光寺」がある。 どこの宗派にも属さずに天台宗と浄土宗が護持している。 従って、朝の勤行も2回それぞれのやり方であるのだという。 ★ ★ ★ ★ ★ ★ 内陣と戒壇巡り、経蔵、資料館、合わせて500円。 問題は長蛇の列、お参りの場所に行くまで30分、戒壇巡りに至っては1時間待ちだ。さすが、である。 如来さまは、さして大きくないが細身で優美、燦然と輝いておられた。 戒壇めぐりは善通寺を思い出したが、如来さま直下のカギにさわると極楽浄土保証します、というもの、誰が始めたのかしらないが、うまいこと考えてある。 善光寺参りの講は今でいう旅行社のはじめだというし、戒壇めぐりはちょこっとテーマパーク風。 この戒壇めぐりと朝の「お数珠頂戴」(導師が朝のお勤め時に参道にひざまずくsi信徒さんの頭を数珠の房でなでて功徳を授ける)などは、庶民信仰の演出としては心憎いものがあるとおもう。 ところで、カギ、私、さわりました。がちゃんがたん、いわせてきました。 極楽パスいただいました。 資料館は、高村光雲の仁王像がなかなかだった。 境内は広くて、厄除けお不動様、延命地蔵、佐藤忠信・継信の墓(歌舞伎の義経千本桜にでてくる)があったり、なかなか見所多しだった。 ツツジもきれいだったし。 友だちに名物の唐辛子を買って、5時半のバスで帰宅。 予定より10分も早く着いて、我が家着10時。
高所恐怖症の私には、やはり奥駆けは無理だ・・とあきらめたはずだったのに・・でもやっぱり、と、昨夜も眠いのに枕元に大峰のガイドブックを並べて読んでしまった。 未練たらたら、だ。 しかし、体重を減らす 高所恐怖症を治すこの2点を克服しないと難しい。 老行者師は、決めた以上今年中に出直して何回かに分けて行満せよ、といわれたが、自信はない。
今日は、洗濯をして、手紙類を整理して昼からお昼寝してしまった。 夕方は、友人たちと会食。 でも、ダイエット、ということで、厳しいものがあったが楽しかった。
明日はもうじき終わりになる善光寺のご開帳に行くことにした。
その後はしばらく、穴ごもりのように「休眠」状態で暮らすつもりである。 「やらなくちゃいけないこと」・・というか「したいこと」がある。 まあ、日記の更新はしますが。
奥駆けについては、あさってあたり書きます。
2003年05月21日(水) |
靴パッカン、3日にして帰宅・・でござる(-_-;) |
本日、午後10時半、帰宅。 昨日すごい急坂(岩登り、木つかまり登り)で、同行のKさんの靴先がパッカと割れた。下のラバーが半分ほどとれたのである。 「ひゃー大変、靴が壊れた!どうしょう」 それから、靴をとりあえずヒモでしばって、やせ尾根をはいのぼり・・。 とにかく、無事に玉置神社宿坊到着の幸運を感謝するという感じで。 で、足元が壊れたということはもう行くな、ということだろうと先達老行者さんに言われて、私たちもそういうことだろうと思って、帰ってきたのでありました。 というか、道のすごさを考えると靴に支障があってはとうてい進める道ではないのである。 玉置神社であった吉野と本宮の間を100日行している役行者かお大師さまか、という爽やかな若行者さんに「この先、明日はもっと大変だ」と真剣に言われた。
遍路道、西国巡礼道、熊野古道、小辺路・・どれともちがう。まさに行の道である。 昨日一日で10日分の体験をした気がする。 老行者師は、決めたことだから、出直せ、是非とも今年中に、といわれた。 しかし、私の場合、高所恐怖症を克服しないと、玉置神社より先の「地蔵岳」で目がくらんで死にそうである。 まだ死にたくない。
・・・・・・・・・・ 今日は、朝7時から玉置神社の朝拝に出て、食事をして老行者さんは歩いておりると言われたが、私は、Kさんに「折立」まで降りるとしても2時間はかる、かなりの急坂である。その間にさらに靴が壊れたらどうするのか、と説得して車を呼んででバス停まで行った。で、五条経由で京都まで出て、東寺にお参りして帰ってきた。 老行者さんとは五条でさよならした。ありがとうございました、だった。 いろいろ教えていただいた、何より、78歳にして法螺貝がすばらしくうまい。法螺貝は年を取ったり、歯に問題が起きると吹けなくなるモノだという。 Kさんも、今治に向かって帰った。 ご主人に、靴パッカンの話をしたら「笑かすなあ」といわれたらしい。 いや、靴パッカン、いずれ起きることだったら、引き返すのが簡単なとこでよかったです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明日から、予定の期日が大幅に余ったので何しよか、である。
2003年05月20日(火) |
熊野本宮から玉置神社へ 大峰奥駆け行(3) |
(今日の行程) 本宮・・七越峰・・大黒天神岳(825M)・・(アリの戸渡り・貝ズリといわれる難所)・・五大尊岳(825M)(岩と木の根を頼りに登るやせ尾根)・・大森山(1078M)・・玉置神社(1078M)
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老行者師は、五時に出られた。
朝5時半出ようとしたら、雨が来た。 よりにもよって、本格的奥駆け道に入る今日雨になるとは。 初めての遍路で焼山越えのどしゃ降りだったことを思いだす。 まさにご修行である。お大師さん、役行者さん、「愛」がお深いですねえ。 雨具を着ていたら直ぐに6時近い時間になった。 それでも、本宮旧社地に寄ってもういちどお参りをして山に向かった。 熊野川にかかる備崎橋を渡って、奥駆け道(旧道)の入り口を探すも、見あたらず。この辺は昔徒渉したところなんだけどなあ・・・。 訊く人も見あたらないし、仕方ないので、車道を進む。 しばらくいったら、そばの牧場のようなところからおじさんが出てきて「どこいくんじゃ」 「七越峰から玉置神社、奥駆け道」 といったら、ご苦労なこっちゃといいながら、道を教えてくれた。 「七越過ぎたら、山道や、熊はおらん、猿がおるな、今は。ハメもおるが、さむうてよう動かんやろ、ハメは秋は危ない、腹に子ぉもったときやしな」 ハメが動かない、と聞いて蛇嫌いの私は少しほっとした。 道は登りに入った。何しろ七越しの峰だもんね。 空は暗い。雨は止む気配なし。 七越峰の頂上近く、いいトイレがあったので休みがてら入った。 今日は、これ以降、こういう屋根のあるトイレには、玉置に着くまであたらないはずだ。 最後の「文明トイレ」である。といっても、ボットン、ではあるが。
おじさんの言う通り、やがて道は地道に、そして杉の森の中に細々続くのみになった。そま道とクロスすると、どっちに行こうか、しばし迷う。 ここでは、行者さんの教えを思い出しながら進むしかない。
★昨夜の老行者師の教え★ 「山道で迷うたらどうするか」 昨夜寝る前、問われたので、 ・元に戻る ・道を探す場合は、印を付ける。(そのために白いヒモは用意してきた) ・磁石と地図で確かめる。(もちろんどっちも持っている) 行者さん ・尾根に出ろ ・獣道は、木の根が踏んでない、そま道もそうだ。どうしてかというと、獣も樵も、木を大事にするから、根は踏まない、だから根の皮がむけていない。二本、道があったったら、木の皮がむけている方が人の(奥駆け)道だ。 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
しかし、どうして行者さんに追いつけない?? それが不思議だ。 8時15分、吹越峠を下り林道とクロスすると、行者堂についた。 鉦の音がするので見ると、人気のない林道を下ってくる人がいる。 金剛杖を持って、なかなかのスピードだ。 行者堂の前で、お参りをなさったので話した。 なんと、玉置神社からだった。 は、速い。どういう足なんだあ?? 私たちも今日は玉置まで行くというと、自分も行くという。 「え?本宮まで行かれるんでしょ」 「お参りしたら、また戻るんです」 おおお。 それは、すごすぎるよ、だって、登山地図のコースタイムを合計しても、8時間はユウにあるんだよ、そこを行って戻って、どういう人だあ。 「この先は厳しいところがたくさんありますよ、足滑らせたら、おしまいみたいなところが。ゆっくりゆっくり進んで下さい」 「やっぱりそうなんですか。青岸渡寺の高木副住職さんに死んだ人がいるから無理するな、いわれてきました」 「だいぶ、脅かされてきましたね。ゆっくり進めばだいじょぶですよ」 「きっと、私たちがゆっくり歩いていると、追い越して行かれるんですね」 と、Kさん。 そうだねえ。 私たちに道を教えて下さったあと、ジャ、飛ぶように行かれたその足の速いこと。 たちまち、森の中に消えた。 涼やかに爽やかに、何より目が澄んでいて印象的だった。 「行者さんやね・・」 とKさんが後ろ姿を見送りながらしみじみ言った。 年の頃は、四十歳前後であろうか・・・
行者堂でお参りをして林道を進む。 山在峠で宝きょう印塔より、また山中へ。 しかし、「許可無く立ち入るべからず」の看板が何枚も立っていて、果たしてここでいいのか、迷うところであったが、地図ではここしかないし、さっきの行者さんもここ、といっていたので踏み込む。 まさに踏み跡程度の道だ。 ここから大黒天神岳の道、厳しい登り。さらにはブッシュの中を道を探して・・状態。熊野古道なんかと全然違う。 身体はもう、汗まみれでびしょびしょ、立ち止まると寒い。 雨は小降りになってはいるが、木の中なのであんまり関係ない。 最後の、地図上では等高線を垂直に横切る道のきつかったこと。さらには怖かった事よ・・・ホントに手や足を滑らしたらやばい。 あの行者さんのいうとおりであった。 (しかし、ここなんてチョロかったことが後で五大尊岳への登りでわかった、さらに大森山への道はさらに恐いモノだったのだ)
10時15分、大黒天神岳に到着。 お腹が空いたので、おにぎりをひとつ食べた。 食べないと、力が出ないのだ。 水だって、思い切り飲みたいけど、今日の分は1リットル。 考えながら、飲まないといけない。 予定としては、2時大森山、遅くとも3時までにはつきたいのだがどうなることか・・・10時半にして、まだ行程の1/3弱しか進んでいない。 さて、地図で見ても、今日の一番ハードなコースに入る。 五大尊岳まで、ルートは等高線を垂直に、だ。 とり合えずはくだり。おりた「金剛多和」には、役行者さんが祭ってあった。 荷を置いて経を読んでお参り。
その後、見上げるようなお山を岩や木につかまってやっと越す、下りの急坂。やせた道?(平地ではこれは道といわないだろう)で、少しでも気を許すと転げ落ちそうなのだ。そうなのだ、ではなくて、マジに落ちる。それで、落ちたら終わりだ。だって、すごい崖なのだから。 高所恐怖症の私としては、身がすくむ。身体がこわばる。
一体、いくつ崖を登って下って、をしただろうか。 登りの先に空が見えると、ついたかな、と思う、でも着かない、がっかり・・のくりかえしだった。 大黒天神岳578メートル、五大尊岳825メートルの標高差を考えると当たり前なのだが。 そして、大変なことが起きた。 「キャア、大変、靴が壊れた!!!」 先行していたKさんが急坂にしゃがみ込んで叫んでいる。 「エエ、どうしたの」 急いでそばに行くと、なんとKさんの右登山靴の先からべろんとラバーがはがれているではないか。 靴パッカン、状態なのである。 あれええ!!どうする・・・・ とりあえず、ヒモでしばる。
ようようと五大尊岳の頂上、一時半着。 狭い岩の上が頂上であった。 そこには、お不動さんが祭られていた。 地図上、5センチにも満たない長さを3時間悪戦苦闘したわけだ。 お不動さんをご真言でお参りした後、どうするか、話し合った。 景色はよいし、シャクナゲはきれいだが、それどころではない。 雨はそこそこに上がった。 kさん「だいじょぶ。歩けるよ」 「でも、それでは、明日とか進めないよ」 「しばっていけるし、でも、行くな、言うことかとも思うけど」 そう、私もそんな気がするんだよね。 想像以上にすごい道だ。 壊れた靴では無理だと思う・・・が。 「Kさん、靴、どうやってしまって置いたの?」 「使ったら、そのまま」 「だめだよ、しっかり拭いて外で干して、防水したり、脂をつけて磨いたりしてからしまわないと」 そうしていると、靴のラバーの状態とかがわかるのだが。 しかし、今さらだ。 kさんは「ごめんね」と靴をなでてはいるが・・・。 気をつけて進もう、ということで、いよいよ、大森山へのルートにかかった。 崖を下っていると、人の声がする。 どうやら登山グループ。 おばさんを中心とした高年グループで、「あんたら、これから、大森山、玉置へ、きついで、大丈夫かいな? 懐中電灯もっている?」と偉そうにいいながらさっさと登っていった。 北の奥駆けは行ったけど、南ははじめてらしい。 こちらも、この先大変ですよと言いたいが、あまりに自信たっぷりなグループだったので言葉を飲み込んだ。 3000メートル級のお山で「中高年遭難」の新聞記事の元になるグループの「過信」を見た気がしたことだった。 あの人達にいわれなくても、大森山3時も絶望、最悪、終わりの方は懐中電灯で歩くことになりそうだ、うまくいって日没ぎりぎりで、着くかな、だとは私にも分かっている。 篠尾辻から、またすごい登りにかかった。 岩つかまり、木の根っこつかまり、石が浮いているとひやりとする。 落ちたらおしまい・・・ Kさんが「あの方、帰って見えたわ」 振り向くとあの行者さんがいた。 「この山はどうかね」 「いやですね、疲労死しそう」 と、わたしが言うと、笑われた。 それで、靴が壊れたこと、老行者さんの荷物があること、等々をお話しすると「その行者はあんたらおいて困ったもんだね」 「私たち、多分、7時くらいししか、玉置に着けないと思います。そういうこと、お知らせ下さいませんか」 「分かったけど、自分でも電話がつながるようだったらしてよ」 そして、真剣な顔をして「明日は、はっきり言ってもっと大変だよ、その靴ではいけないよ」 「そんなに大変なんですか」 「つかまるところがないよ、吉野から熊野本宮を行ったり来たりしているのでよく分かっている。大変だよ」 聞けば、この方、100日行で大峰の奥駆け道を吉野から熊野を行ったり来たりしているらしい。 驚くべき話だ。 そんな行者さんが今どきいるのだなあ・・・ なのに、しんどそうな顔ひとつせずに、あくまでも爽やかで目は優しい、澄んでいる。 やがて行者さんは、わっしわっし、まるで平地を歩くように私たちがふうふう言っている崖を踏み越えて見えなくなってしまった。 すごいよ、すごすぎる。 「お若いときのお大師さん、あんな感じでご修行なさったんやろね」 「そうだね、そう思うよ」 必死の私たちに、必要な情報を下さって明日のことを心配してくださる・・・お大師さんもそうだったに違いない。
さて、登るほどにますます急となった道?はついに踏み後さえもわからなくなっ た。「これでいいの?」「赤いテープがみつからんのよねえ」 時々、ささやかに奥駆け道を示す道標と共にあかテープがついていた。 「尾根、尾根、行者さんも言っていたし」 とにかく尾根を目指した。 「あった、ある、しるしが・・・あ、ここでな亡くなっている人がおるよ」 と先に尾根に出たKさん。 kさん、靴パックンにもかかわらず、健脚である。 (老行者師に預けられた「ご本尊」、Kさんがずっと持ってくれている、高所恐怖症の私が持つのを見てる方が怖いと言って・・感謝)
確かに、道はあったが、そのそばに2リットルのペットボトルに水が入って「交通安全」と書かれた木札が入ってういていた。 下には名前も書いてるようだが、読みとれなかった。 「ここで亡くなる気持ち、分かるわ。だって、一人だったら、疲れて立ち上がる気しない、二人だから、行こかといえるけど」 「そうやねえ」 などと話ながら、手を合わせた。 ホント、このとき私も「疲労死」しそうなほど、疲れていた。 ここでやはり靴が壊れたということは「行くな」という天からのサインだろう、止めて明日帰ろうという話を二人でして確認した。 宅急便で替えを送ってもらうとか、接着剤を借りて貼り付けるとかいろいろと考えたけど、天の声に従おうと。 勇気ある撤退。 撤退は時として、進むより難しい。 何しろ、荷が重いのは明日からの無人の山小屋泊まりのことを考えて、なのでくやしい、正直言って。 しかし、高所恐怖症としては、つかまるところのないやせ尾根では恐怖で気絶するんじゃないかとも。
やがて大森山の三角点、1044メートル。 しかし、ここは頂上ではない。 さらに登ることしばし1078メートル、ここだ。 休憩。時計は4時10分前。4時前に着いたことを褒めよう。 Kさんの携帯はJホン。山中まったく入らず、役立たず。 で、私のドコモで玉置神社に電話をした。 そしたらなんと私たちの宿泊予約がキャンセルになっているという。 何か手違いらしい。 「そんなあ・・・行者さんが電話して下さっているはずなので安心していたのですが。いずれにしても行きますし、食べ物がなければ素泊まりでもいいですから泊めて下さい、行者さんも行かれますし」 おばちゃんは、いい人のようで気持ちよく「わかったよ、ご飯の用意して待っている、気をつけておいで、」といってくれた。 ああ、よかった。 聞いていたKさんが「よかったねえ、携帯が通じて」 ここは、見通しがきかないし、ドコモだって、柱が立たなくなったりするのだが、 、お大師さんのような行者さんに言われたし、柱がたっている時を見計らってしたのがよかった。 「携帯が通じるか通じないか、命にかかわるね」 「そうだよね、値段も通話料も高いけど、ドコモだね」 なんて話をして10分休憩。 ここからは道がよくなると、お大師行者さんからきいていたので少しほっとした。 しかし、まだ、玉置まで、2時間から3時間は歩かねばならない。
下り始めたら、法螺貝が聞こえた。 オオ老行者師だ。 携帯がなった。 老行者師からだった。 「靴壊れとるんやて、どないや」 「大丈夫です、今のところ歩けています」 「儂、下でまっとるしな、気をつけておいで」 そして、切って直ぐにまた法螺貝。 いい音だ。 旧篠尾辻でついに老行者師の姿が見えた。 氏は、Kさんの靴をしっかりつひもで結びなおしてくれて先頭に立って歩き出した。 荷は玉置の辻に置いてきたという。 速い。スタスタと曲がった腰で進む。 「足元注意」「落ち葉注意」とか言いながら。 「お速いですね、追いつけませんでした」 「儂、5時にでてあんたらでるのを隠れてみておってんじゃ。あの時間なら、玉置に着くな、と安心して折立からあがって(ええ、じゃ、本宮から十津川までバス移動じゃないのよ!!)来るのを待っていたんやけどやな、あの子(100日行者さん)が靴が壊れたいうし、びっくりしてとんできたんじゃ」 老行者師、ズルして(すみません)、バスで移動して玉置までの最短ルートでいったんだ。追いつけないわけだわ。
この後、玉置までは命に関わるところはないふつうの山道なので、スタスタと歩くのみ。 「ドコモがやはりよくはいる」という話になったら、老行者師「ドコモかしこもはいるんやったら、ドコモにせないかんな」 「アハハ、座布団とりたい」 「そうか、そうか、みんな、わたしが悪いんです」と老行者師。 さすが河内長野のお方、明るい、駄洒落が好きである。 まあ、こんな感じで、7時前に玉置着。 玉置神社周辺は、原始のままの杉の自然林、薄暗くなりかけていた。 神社の手水のところに出たので、思いっきり水を飲んだ。 うまかった。 そして、ご飯もお風呂も、極楽だった。 白衣は土や汗でどろどろとなっていた。 雨具のズボンも同様であった。
靴が壊れたことは、進むなということ、と老行者師にも言われた。 こんな事になるとは思いもしなかった・・・。 それにしても、奥駆け道は私がこれまで歩いたどの道よりも厳しいというか、質がちがうと言うべきか。 時間をかけたら、だれでも歩ける遍路道とはまったくちがう。 奥駆け道では時間をかけたら死ぬ。 やはり「駆ける」は必然なのだ。 プロの、命がけの行者さんの道だと悟った。 「貝ズリ」「アリの戸渡り」といわれる難所、ガイドブックに書かれているモノは読んではいたのだが、歩いてみて「こういう道のことなのね」と実感した。 なに事も経験なり、か。(私がおバカさんなだけか?) 登山経験がかなりないと、大峰奥駆けの道、命取りになりそうだ。 1日で、この先7日分の体験をした気がした。
2003年05月19日(月) |
熊野古道 小口から熊野本宮まで・・大峰奥駆け行(2) |
私たちは7時過ぎに出るといったら、行者さんは先に行かれた。本宮で合流しましょうということで。 昨日よりお元気で荷が軽くなったせいか、足取りも軽い。 またまた、本宮では寝るところ(もちろん野宿)があるというので、本宮瑞鳳殿をキャンセルした。
昨夜、宿直のおじさんに「ここには、青岸渡寺の山伏さん達、お泊まりになるんですか」とお聞きしたら、「ここにお寺の方が泊まったいうんはきかんな」とのこと。 つまり、青岸渡寺の峰入りはもっと早い時間(夜明けと共に)に出て、ここは風のように駆け抜けて、多分一日で本宮に行ってしまうのだろう。 す、すごいよ。 だって、あの胴切坂を降りて、小雲取の500メートル登りにまたかかるのだから。体力もさることながら、そのとぎれない気力に脱帽する。 歩行は、結局のところ、気力と根性だから。
ということで、今日は小雲取を越えて本宮まで。 昨日にくらべたら、楽である。 特に、最初の桜茶屋跡休憩所に着くともうすごく長い登りはない。 アップダウンを繰り返しながら、請川に着く。 おかげさまで、今日も降り出しそうもない感じで曇り、昨年は暑くてつらかった桜茶屋への登りがとても楽だった。 しかし問題は、下り。どうしても固い靴皮に指先があったって痛い。 この固い皮って、柔らかくできないのだろうか・・・ ホントは行者さんのように、「行者地下足袋」を履くのが一番いいのだとは思うが、あれでは今度はいろいろなモノに当たって痛すぎる。 でも、まあ、早くもないが、遅くもなく石堂茶屋10時半、途中でお昼をとり、1時半請川着。 なんとか、行者さんに追いついて自然の家で作ってもらったお昼の弁当を渡そうと思ったのだが、追いつけなかった。今日は早いよ、行者さん。
昨年もそうだったが、請川の国道沿いで自販機を見ると「文明の地に戻ったなあ」 自販機から、冷たい飲み物を買ってしみじみと飲んだ。 請川のバス停近くで、前からひょんひょんと歩いてくる外国人の男の子に道を訊かれた。 聞けば、湯の峯から大日越えをしてきたようだ。 今日は、小口泊まりだという。 で「あなた、小口、宿の予約をしたの」「した」 「この時間では遅いか」と、彼は聞く。 私、少し考えた。 若いし、荷は少ないし、まあ、5時か6時までには着くだろう。 「ジャストタイムよ、」と答えてあげたら、ニッカと笑ってまた歩き始めた。 この坊や、英語以外は「こんにちは」くらいしか日本語が話せない感じだ。 少しいって、右に曲がると教えたのだが、心配で、じっと見ていたら、時々振り返っては、こっちね、という手つき。 ウイヤツじゃ。多分、ドイツ人だ。 そうして、無事に中辺路への道を登って行った。 私は、彼に、外国での自分の姿を見るようでハラハラ、ヤレヤレであった。 古道が世界文化遺産に正式登録されたら、外人の観光客はもっと増えるであろう。 そのためには、英語表記の道しるべも、歩き用パンフレットも必要だろねえ。 中辺路は実によく整備されているが、英語表記はない。 昨夜、小口自然の家でS氏にこの話をしたのだが・・・。
2時15分、熊野本宮旧社地着。 私は、今の本宮より、ここのほうが好きである。 ここにあった拝殿は、明治22年の洪水で流された。 今は小さな祠が建っているのみ。爽やかですがすがしい空間となっている。 地の気が強いし気持ちいいので、いつまでもいたくなる。 お参りして座っていたら、ちょうど草刈りをしていたお兄さんも休憩した。 行者さんのことを聞いたら、さっき30分か、40分ほど前にここにいたよということであった。 お兄さんは、この町育ちで、新宮で働いていたのだが帰ってきて今は本宮の職員なのだという。 「ここ、昔、10年以上前だけど、草ぼうぼうで、こんなにきれいじゃなかったよね」 私がここに初めてきたのはそれくらい昔。 「そうやったかな、そうかもしれん、我らはここで野球したりいろいろと遊んだもんじゃが」 中上健次の追悼祭や熊野大学講座がここであったとかいう時代の話だ、たしか。 そんなことを話したら「中上が、おばさんになりますいうたあとの都はるみをここに連れてきたんや、また歌うようになったんはそのあとなんやで」 フーン。 それにしてもゴージャスではないか。熊野参りの、その歴史ある地で野球だの、鬼ごっことは。 どこに泊まるんや、と聞かれたので、瑞鳳殿、と答えたら「儂らの宿舎もあるが、きれいやないで」「別に、寝られたら」 などと話すうち、「温泉、連れていってやろか」となった。 オオ!!やった。 このMさんと夕方5時半、待ち合わせで、川治温泉の公衆浴場行きが決まった。 温泉に行けるとなると、元気が出て郵便局にいく用を済ませて、本宮お参り、食事をだして下さる珍宝庵のおネエさんとも話をして、宿着。 神官の人に案内してもらって部屋に着いたら、行者さんも名物の「お餅」を持って見えられた。 行者さんは、まじめな若い神官さん相手に憂国論や神社はどうあるべきか、という激論をぶつけていた。 「あの、行者さん、私たち、ここの職員の方に川湯温泉に連れていってもらうんですが、いきましょうよ」 「温泉か・・あんたらな・・・」とあきれ顔。(ハイキングやないで、といいたいのであろう) でも、一緒に行くことになった。 びっくりしたのは、玄関にあった行者さんの荷物だ。 なんと、リュックになっていた。 「どうしたんですか」 「アンタがリュックが軽くていいうたやろ、そんで本宮について直ぐに買いに行ったんじゃ」 恐るべし、老行者師。 頭が柔らかい、すばやい。 「それで、あの手製の背負子は?」 「ああ、悪いけど、処分してや、いうて、リュックこうたとこにおいてきたわ」 それもすごい。ずっと使ってきた愛着とかなかったんだろうか。 変わり身の早いこと、だだモノではない。決断の早さがすごい。
川湯は気持ちのよい温泉であった。 連れていって下さったMさんに感謝、だった。
帰って来て、老行者師のお話を拝聴した。 今や世界中が金、金で動いている、日本も滅びる寸前だ。(この認識は正しい) それは、日本の背骨である奥駆け行が「逆」しか行われないからや。「順」を行じたのちに「逆」にならないとすべてが狂う。 天皇は、京都に戻るべきや。 日本が世界の中心や、日本がおかしくなったら世界がおかしくなる・・・ 「大和」(世界が和するという意味)を忘れてはいかん(これは、ホントにそう思う) しかし、戦後教育を受けた者としては、ついていけない独特の歴史観もありで。。
またまた、野宿はやめた方が・・とお止めして、ここに部屋を作ってもらった。 「今日は、温泉に入ったし、野宿は止めとく方がええな」と素直にいわれた。
ところで、「伊勢には7度、熊野3度、お多賀さんには月参り」というらしいが、私は昨年の今頃から、3回熊野参りをした。 1度目は去年5月の中辺路歩き、12月の小辺路歩き、そして今回。 「私、3回、お参りしましたよ、本宮の神さまによくお話しておいて下さいね、ご褒美下さいって」 と、若い神官の人にいったら、自分でお願いして下さい、と困ったようにいわれた。((^^))
明日はきつい。 未知のコースだ。
2003年05月18日(日) |
熊野古道中辺路 青岸渡寺から小口まで・・・奥駆け順峰(1) |
朝5時。 お勤めにでようと外に出たら、な、なんと老行者師が純正山伏姿で本堂そばにおられた。 「こんなに早く・・どうやって・・・」 「昨日終電で、那智について、そこから歩いてきた。そんで、本堂の下で寝とったんや」 おお!!すばらしき78歳!!! 同行のKさんにさっそく紹介する。 「直ぐいこか」といわれるが、私たちはお勤めと朝食が・・ それに、小口泊まりだから、そんなに急ぐ必要はない。 といったら「そうか・・修行ちゅうもんは早出なんやけどな」 何だか、歯車が合わない。
お勤め後、那智大社にお参りして朝食。 7時出発、で、出ようとしたところ、宿の人が、老行者師に「NHKの人が、法螺貝の音とりたい、いうんやけど、吹いてくれんか」 といわれて、那智の滝がみえる本堂脇で、老行者師のすばらしい法螺貝をお聞きした。 NHKの人も、よい音がとれた、と喜んでいた。 六月一週土曜の朝6時45分からのラジオでの紹介になるとか。 小雨が来るかとおもったが、曇りで晴れている。ありがたい。 昨年、歩いたしんどい大雲取の古道、また歩くことになろうとは。だが、歩きはやっぱり気持ちよい。 だが・・・老行者師、「儂、あんたらの食料も背負ってきたし、それが重い、渡しとくわ」 「え、私たち、自分で用意するといいましたよ」 「だったら、下の人にやってきてくれ、荷を軽うにせんと」 手製の背負子はホントに重そうで、開けたら、確かにラーメンとか、煎餅のようなお菓子とか、小魚アーモンドとかがたくさんはいっている。 老行者師、優しい。これを背負って、昨夜、那智か歩いてみえたんだねえ・・ Kさんと顔を見合わせた。 お菓子のいくつかをいただいて、後は下の人(青岸渡寺境内で掃除をなさっていた人)にKさんが持って走った。 「これ、重いですよ、これだけで。リュックがいいですよ」 私は手製の木の背負子を持って思わず言ってしまった。 「ほうか、リュックか、そやな・・・」 法螺貝もでかくて重そうだし・・お年に余るのではないだろうか。 お、おまけに、「ご本尊」なる長い包みまで持っておられるのだ。 Kさんが帰ってきたので、また歩き出した。 しかし、私たちのペースが速いので、なかなか・・「あんたら、先に行け、儂につきあっとったらかえって疲れる、ゆっくりもつらいもんや」 その通りだ。お言葉に甘えて、お先、することにした。 しかし、その際、鍋代わりのオイルポット、なんとご本尊さままで持たされた。(いえ、持たして、いただきました ^^;) 身を削るように荷を少なくしたのに、これで「もとの黙阿弥」である。 Kさん「荷を少なくしたんは、このためやッたんやね」 はい、その通り。 またまた、前途多難である。 携帯をかけても、あんた、でんなあ・・と、老師。 それはこっちの台詞。 昨日、私がなんとか連絡を取りたいと、かけ続けていたことを話し、携帯を見せてもらったら、なんと電源がはいっとらん。 やっぱりね。 「これ、かけても通じないわけですよ、電源はいっていません、」 「ほうか、そりゃ しもたことや、あちこちぶつかって、切れたんやな」 電源を入れて、私の番号をもう一度やってください、といったら、私の携帯がなった。 「ほうか!!」と手を打つ老行者なり。 (トホトホ・・やっぱり確かに前途多難だ) 老行者師、アンタの電話が直ぐにかかるようにしろ、というも、機種も会社もちがうので設定がようわからん。 なんてことを道ばたでしていたらたちまち時計は8時となった。 「儂、いつも4時出やで、ここ。それでも小口夕方6時やっとや。今夜は、山で野宿やな。もっとはようにでんといかんのや」 「でも、昨年私は5時前に着きました」 「ハイキングとはちがうんや」 そりゃそうだろうけど・・だったら、昨夜、4時に行くで、と連絡が欲しかったね。 「まあ、エエわ、とにかく先にいってや、儂はどこででも寝られる、宿はあんたらだけと泊まったらいいで」 なるほど。 宿の予約をしましょうか、といったとき、そんなんせんでよいといわれたわけだ。まあ、私はします、ということでしたんだけど。 「でも、行者さんの分も予約してますよ」 「だったら、断ってや。儂は小口では寝るとこ、決まっている」 はい・・・やっぱりかみあわん。
たちまち後ろに小さくなっていく老行者師を振り返り、振り返り・・・私とKさんは話した。 「ホンマの行者さんやね」 「そうだね、筋金入りの古いタイプの行者さん」 登立茶屋ルートにはいったら、法螺貝が聞こえた。 那智高原へあがったところにある路傍のお地蔵さんの前で吹いておられるのだろう。すばらしい音だった。聞き惚れた。 「あのお年で法螺貝を吹けるんはね、大変なことなんよ、歯が悪いとよう吹かんのよ。音がようでんのやて。呼吸も大変やし」 とKさんはいう。 そうだろうね。 私、昨年の夏遍路のおり、高知の石土神社の火渡りの後、ちょこっと吹かせてもらったけど、音が出なかったものね。 きっと、山伏さんは、法螺貝が吹けなくなったとき「行者引退」を決めるのではないだろうか。体力の目安になる。 それにしても熊野のお山には、ホントに法螺貝がよく似合う。
舟見茶屋まではアップダウンはあるが、登り。 10時10分着。今年のほうが荷が重いので、きつい。 道は雨がよく降ったせいだろう、苔が実に美しい。 そういえば、那智の滝も今年の水量、去年より多かった。 滝は水量が多い方が滝らしくて美しい、と思ったことだった。 その後、なんと、色川の辻で道を間違って(うっかり、林道を逆走した、道標をよく見ずなにげにす進んでこうなった。反省。確か、色川の辻って、亡者の集まるとこだよね、やられたか?) 30分のロスタイム。 地蔵茶屋、12時30分過ぎ着。 足が痛くなっている。 新しい靴の皮が固くて私の赤ん坊のように柔らかい足指に当たっていたいのだ。 やはりこの靴もダメか、というところ。 高かったのに。 柔らかい靴、に私はこだわったのだが、石井スポーツの口上手の兄さんに勧められ押し切られたのが間違いの元。 この後、下りで、あの胴切坂で泣きそうだ・・・
今日は日曜でさすがに歩いている人が多い。 白衣を着ているので目立つらしくて、ビデオをまわす人までいる。 地蔵茶屋脇の川では、おじさんがアマゴ釣りをしていた。 昨年と同じく、この川の水をいただいてでた。 地蔵堂で般若心経をよんでお勤めをして山に向かう。(何しろ、行者見習い)
魔の胴切り坂まで石倉峠、越前峠と越えていく。 石倉峠への登りで外国人グループにあった。 昨年はカラカラに乾いていた道だったが、今年は滑る。苔が緑で鮮やかだ。しっとりしている。昨年の古道の表情とはずいぶんちがう。 ふうふういいながら、越前峠着。本日のピーク886メートル。 山中で腰を下ろすと、ウグイスと風の音のみ。後は深閑。 これが好き。これがよくて山に来る、という気がする。
いよいよ、下るのみ800メートルの胴切坂である。 今年はここも苔が美しい。 同行のkさんは、息が切れないし、いい道よ、とにこやかだが私は、つま先が靴の固い皮に当たっていたい。つらい。 途中で休んで行者さんへ試しに電話を入れた。 「はい、儂やで、儂も、6時くらいには小口着きそうや」 よかった。 Kさんと喜んだ。 多分、私たちが持った分で、荷が少なくなってピッチがあがったんだと思う。
その後小口自然の家の方から電話があって「何時に着くか」と。 どうして・・途中で一人キャンセル電話を入れてから2回目の電話だ。 女ふたりになったからか。 そして、ついになんと、途中までお迎えにみえられた。 まだ、4時半過ぎよ。明るいのよ。 私は5時半までには入るといっているのに。 「何度もお電話してご迷惑だったかも知れませんが・・」 「はい、ご迷惑でした。私、去年の今頃も歩いているので道はわかっているので、お迎えも必要ありませんでした」 不愉快な顔していってやった。 「いや、新宮まで葬式にいかんといけなくなって・・・それで勝手ですが、お迎えにあがらせてもらいました」 そうだったのか・・・「だったら、お電話下さったときに、そういって下されば、私たち、もっとがんばって歩きましたのに」 ということで、車道においてあった車に乗せていただいた。 「車、のって下さいますか?」 とおそるおそる聞かれてしまったが。 もちろん、である。 実際のところ、ここまで山道を歩いてきて、車道はイヤだ。 歩けば、15分、車だとアッという間に小口自然の家に着く。 ここは、中学の廃校舎利用の宿。 お迎えに来て下さった責任者のS氏はここの卒業生なのだという。 新宮でずっと勤めておられて、退職後ここ熊野川町に戻ってここでお仕事をしておられるらしい。 「食事とお風呂どっちになさいますか」と聞かれたので、「どっちを先にしたら、ご都合がよいのですか」と逆にお聞きして食事ということなので食事とした。 同宿は、東京からの古道歩きの方。 四国を歩かれた方だった。 いろいろとお話した。 食後、宿帳を書きながら、去年も今頃ここに泊まった、といったら調べて「ありました」と、どういう訳か嬉しそうだった。それで「今度は、ここに是非泊まって下さい、無料ですから」と写真を見せながらいわれる。 S氏は、ご自分で山小屋のようなモノを建てておられて、そこに次回は招待する、といって下さっているのだ。 ありがたや。 3回目があるとしたら(逆コース、滝尻から歩きたい、あのにっくき胴切坂800メートルを登ることになるのだが)お世話になろう。
お風呂に入って、でたら、なんと廊下のイスに老行者師が座っていた。 時計は7時前。 おお!!! 「すみません、先にお風呂でした。ああ、よかった、お着きになって」 「携帯に電話したらでんしな・・きたんや、そしたら風呂や、いうんで待っておったわ」 その後、近くのトンネルに寝るという行者さんを説得してここに素泊まりで泊まっていただくことにした。 S氏に事情を話して用意してもらってあったのだ。 ヤレヤレでした。 ちゃんとつじつまが合いましたわ。
2003年05月17日(土) |
速玉から青岸渡寺へ・・大峰奥駆け行前夜 |
速玉大社12時の約束だった老行者師がついに現れず。 電話も通じず。携帯、切っているようだ。 前途多難ある。 「多分、自分の時間で生きておられるんよ、で、今日が何日か忘れられたんとちがうの?私も歳とったらそうなりそうやな」 とは同行のKさんの弁。 あり得る。 いつか、私がうかがったときも、明日や、おもとった、といわれたしな。 ご自宅の方になんとか連絡がとれたので、今日の約束の旨を話して伝言をお願いした。 その後、同行のKさんと1時半まで待ったが、あきらめて出発。聞いていたとおりに山道を通って神倉神社へ向かう。 歩きながら、今後のことを話す。 「二人でも、予定通りにいこう」ということになった。 神倉への道は、速玉社横手の山道を通った。 きつい山道である。 境内にすとんと出たので、なにげに下っていたら、ちょうど登ってきた人に、「こっちやない、あっちよ」と教えられて登りへ向かう。 小雨が降り出してきたが、神倉・・・ことびき岩周辺はすごいエネルギーだ。 老行者師が「ことびき岩で力をもろて、それで奥駆け道、行くんや」 といわれたのがよく分かる。
私たちに道を教えて下さった人はとても信心深い人で、座って五体倒地のように拝しておられた。 「すごいエネルギーの所ですね」 と話したら、毎日お参りされているとか。 「私は、水商売やっているんやけど、今晩どこ行くの。よかったら、女一人やし、うちに泊らへん?夜は店で遊んでもろて、な」 と、お誘いを受けてしまった。 今晩は、尊勝院なので、とお断りしたが。 ことびき岩という巨石信仰、そこで2月にあるお燈祭りの採火場。 沖縄のセーファーウタキ(斎藤御獄)を思い出した。 とても古い、ほとんど原始に近い信仰の形を感じた。
宿に着いたら、老行者師から伝言が入っていた。明日追いつくとのこと。
夜、観音さんの日なので本堂で勤行と西国のご詠歌の会があった。 参加した。ご詠歌を詠いながら、昨年徒歩巡礼した西国の寺を思い出していた。 NHKラジオの人が音取りをしていた。 終わった後、お菓子やらミカンをいただいた。 こういうのも、昔っぽくていい。 で、この青岸渡寺から、順峰の峰入りを毎年行じておられる高木副住職さんに奥駆け道のことをお聞きした。 「気をつけんと死ぬで、くれぐれも無理せんようにな。この前も、ハッセンで一人疲労で動けんようになって死んだ」 ハッセンとはどこですか、とお聞きしたら、「北(奥駆け道)やけど」とのことだったが、ひゃー、だった。 老行者師のことは、高木福住職さんもご存じで「あの人と一緒やったら安心や、道、よう分かっているし」とのこと。よかった。
2003年05月16日(金) |
ああ、疲れたベトナム日記、一気に完結 |
明日からまたいないし、帰ってベトナム日記書くのはしないだろうし、ということで朝からしこしこと一気にアップした。 ああ、疲れた。 ご興味のある方、読んで下されや。 ただ、再読とうがよくできていないのでトンデモ変換があるでしょう。 お許しを。
昨日、大峰行きの荷物をつくって背負ったら重い。 いやはや。行けるのかい。 これからもう一度吟味して減らさねば。 例えば、大きなお寺の講などだと、山小屋の人があがって食事の準備などをして下さる、見たい(本で読んだ)だから食料のしたくはいらない。 しかし、私たちは3人。食料も自分で持たねばならぬ。 これがきつい。
これから靴の履きならしもかねて、買い残しのモノを買いに。 明日からのお天気も心配だ。 関東は温度が低いし。
シグマリオンは持っていかないので、日記の更新は明日からしばらくありません。
お遍路の時、マメに泣いたので、大峰奥駆け(多分奥歩きになると思うが)では、靴に細心の注意をということで、ほかの用もあったので新大久保の「石井スポーツ」にトレッキングシューズをみにいった。 で、お口のうまい店員さんに勧められたのが、消費税を入れると3万円を出てしまうモノ。確かに履くと、実にフィットする。 いい感じである。 清水の舞台から・・で決めた。 険しい道を考えると、やはり納得のいく靴をはかないと、だ。
ほかに、アルファ米や防水スプレー等々・・けっこうたくさんお金を石井スポーツに落としてきた。 しばらく倹約だあ。
先日来、地図を見ていてやはり腹が立つというか、情けないのは、行者還岳の向こう、大ふげん岳を越えると出てくる「女人結界」だ。 情けないことにここから、女性は車道におりる。何時間もかけて・・それで、結界を避けて、また登山する・・・ひどいよね。 幸せなことに今まで生きてきて女だから甚だしく損した、ひどい目にあったということはなかった。先生という仕事は、男女差別なくできたし、されたら堂々と抗議して改めるように要請した。 社会のシステムとしては未だに差別は厳然とあると思うが、私自身は奥駆け道で初めて「差別」にリアリティを感じて、ひどいよと憤っている次第だ。 歴史的には、女にはきつい道だから、ここを結界としたとか都合のいい話を聞いている。そうだったのかも知れない。でも、現代、道は整備され、女性も体力的に男性に伍する人もいる。(オリンピックを見よ)やはり、結界はとくべきではないか。この道は、土俵とは、ちがうように感じるが。 吉野からだと、迂回路から途中参加すればいい、しかし、熊野からだと、この道を歩けないと仕上げが出来ないというか・・マジに情けないよなあ。 まあ、ここまで歩ければ、の話だが。 自信は・・ない。 実は、見知らぬ国にひとり旅するより気分的には心配だ。
有事法案が通りそうだ。 いいのかな。 戦争に巻き込まれる不幸の道を日本が突き進んでいる気がして怖い。 「教え子を戦場に送るな」 日教組のスローガンを思い出す。
今日もベトナム日記の更新できず。 スマヌです。 アタマは「大峰状態」で。
2003年05月14日(水) |
少し、ぼんやりんの日 |
天気もはっきりしないし、私も身体も疲れている感じで。 お金の振り込みが4件もあったのでそれをすませて、手紙を5通ほど処理して、後は少し休養と決め込んだ。 大峰の本を読むも、すぐにお昼寝モードに入ってしまった。 ベトナム日記の更新・・と思ったのだが、できず。
けっこう「無為の日」状態だったが、こういう日もないとねえ。
明日こそ、ベトナム日記更新します、です。
朝7時33分の新幹線で東京へ。 渋谷でFDSのメンバーと会う。 2,3、4月とでなかったからホントにお久しぶり。
午後、帰って少しお昼寝。 その後、愚さまの新居お祝いへ。 ベトナムで、猫、男の子、女の子2人が描き込まれた小さな絵を偶然見つけて「これ、まさに愚さんのお宅」ということで。
きょんちゃんが「母」というコテツちゃん可愛い。 猫好きとしては、もっと近寄って欲しかったけど、好奇心一杯に見つめられるが、あんまり至近距離には来てもらえなかった。 お不動さんが「ご成長」されていてびっくりした。
ダイエット食ということで、山菜や甘エビ、タケノコご飯などカロリーが少な目のご配慮をいただいてありがたかった。 大峰奥駆けの道を目指している私としては今一番の問題は自分の体重だ。 きょんちゃんやそうぞうくんと「吉野川」を「たしなむ」 美味しくて、楽しい時間だった。 ありがとうございました。
食事中、倉敷のおじさんや、敷きちゃん、たまちゃんと話した。 これまた、たのしや。 たまちゃんは、お父さんが帰るまで夕食を待っていた。 えらいなあ。
帰宅12時を回った。 この頃は、何かと物騒なので、バックは家側に持つとか気を使ってけっこう緊張してしまった。
2003年05月12日(月) |
田舎でショートトリップ |
お昼ご飯の用意をしてから、十時半バスに乗って長岡駅へ。そこから11時25分発「蓬平」にのった。 行き先は、山古志村。 今時珍しい一郡一村の村。 錦鯉産地で牛の角突き行事が残る山また山の中にある過疎の村だ。 昨今の棚田ブームで、時々残したい日本の風景などにも登場する。
バスが駅を出て30分、のりかえ口に着く。 ココ、濁沢村も谷あいの地。ちょうど花盛りの藤の花と萌え出た新緑滴るような色がまぶしい。 人家はあるが、人気はない。 それで、山菜取りの入山禁止の看板のみが目立つ。 根こそぎ持っていく、いのししのように畑のものまで盗んでいくということで、町場からの山菜取りの人に対する田舎の人の姿勢はこのところ厳しい。 それは、ウチの近辺でも同じだが、少々さびしいことではある。
待つこと15分、山古志村行きのバスがつく。 長岡に行く人が降りて、村行きのバスの乗客は私一人だ。 谷あいの狭い道をバスがぐんぐんと走り、高度を上げていく。あっという間に峠の上だ。 棚田風景が美しいが・・・農作業は厳しいだろう。 自分の生まれた町から1時間も行かないのに、こんな景色があることに実はビックリしている私だ。 やがて12時50分、山古志村役場の前に着いた。 バスのドライバー氏によると、にぎやかなのは、バスの終点「種苧原」(たねすわら)らしいが、私はとりあえず役所で情報を手に入れたいのだ。 役所は立派な建物。錦鯉の村らしく役所のいり口に立派な鯉が何匹も泳いでいた。 入ってビックリ、なんと役所職員が入り口のいすに横になり、(スーツ姿よ)手枕でそばに灰皿を置いて喫煙中。いいのか?? しかし、手近な人はその人なので、バスで来たんだが、歩いていけるところはどこか・・・それから資料館が見たい、出来たら、昔の写真なんかが・・・と聞いたら、不審者を見るような目つきで「資料館ねえ、いまやっていないよ」 「でもインターネットではしっかり紹介されているではありませんか」 「ジャ、上の産業課で頼んでみてくださいよ」 ありゃ、こんな小さな役所なのにたらいまわしか。 上に入ったら産業課には人気がない。 一人だけいた建築課の人が探しにいってくれた。 出てきたが、大方さっきの下のお方と同じくどっかで手枕でお昼ねだったか。 資料館・・といったら、整理が出来ていないのだが、もしどうしてもというのだったら、教育委員会に行って鍵を開けてもらってみてください、電話しますから。 で、すぐに隣の棟の体育館の脇に教育委員会があるから行って「Oさん」といってくださいね。 いかつい顔だったがまあ優しい応対だった。 体育館、これまた立派。 で、その中にちっこい部屋、それが教育委員会だった。 で、Oさん、すぐに車で資料館へ。私と同年輩の女性だ。 資料館は車で数分走ったところ。廃校舎を利用したものだった。 中には、懐かしい農耕道具、生活用品、わら製品・・・それから木の感触が優しい、老校舎の気配がとてもよかった。 oさん、地元の人らしくいろいろと説明したり懐かしんだり。私にも懐かしい道具が沢山あった。 その後、越後連山が見える校舎跡地、池津闘牛場、牛舎にいる闘牛、中山隧道、天池、スミレ群生地、雪のときにだけ雪崩を避けるために使った雪中隧道、錦鯉センター、都合2時間、車で案内してくださった。 「お仕事はいいんですか」 と私は気をもんだのだが、「今日はじかん、ありますから」とかって。のんびりと春が長けつつある村の案内・・・たった一人のおかしな観光客のために。 「また来ていただくために」って。 おかげで、私は、車がないといけないところまで行けてマジにラッキーだったが。今の時期の教育委員会って、都会は忙しいよ、山古志村は不登校児、引きこもり、居ないんだね。 案内してもらったところで、感動したのは、村の人が手掘りで826メートルのトンネルを貫通させたことだ。昭和5年から16年かけて。 陸の孤島となると、助かる病人も助からない、冬場峠でなだれで人が死ぬ・・コレは何とかせねば、ということだったらしい。 それにしても800メートルよ。 一致団結したその力、凄い根性だ。 このドキュメントは、今村昌平監督のメガホンで映画になったばかりらしい。 改めて、こんなに近いところにこんなドラマがあったことに感動した。
役場にもどって、お茶をいただいた。 あの手枕役所職員、産業課さん、なんと、みんな教育委員会室に集まってお茶しているではないか。 「いや、仲間なんだよ」 でも、まだ勤務時間でしょ。 とはいいながら、錦鯉、牛の角突きの話など話が弾んだ。 私が、入ったら手枕タバコには仰天した、といったら「だって、休み時間だねかね」彼、笑っていた。 教育委員長とは、資料館の話を少し。 周防大島の宮本常一さんの収集された資料館の立派なこと、資料の質的には似ているし、もう少し、農耕具中心に整理されたら凄くいい雪国生活資料館になるのでは・・と。 教育委員長は、周防大島のこと、メモにとっていた。 結局、また来てくださいね、来たらまたよってくださいね、といわれてさよならした。 なんだか、思いがけず楽しい一日になってしまった。 ちなみにこの山古志村。NHK 「こころ」のお父さん(寺尾聡)の故郷という設定なので、近々TVにもしっかりと出るようです。 そういう垂れ幕が役場にでかでかとたれていました。
牛の角突きが見たかったのだが、コレは、5月は4日と22日しかない。 今度、是非行きたい。
★4・17日のベトナム日記アップ★
ちょうど田植えの時期。 アルバイトさんが3人も来ているので、一家総出。 で、私は食事当番だ。 2人のアルバイトさんは、うちにごはんを食べに帰るが、甥の友達は我が家でたべる。 ベトナム米をおいしく食べようと、ネットで、ピラフを検索。 牛肉ピラフがおいしそうなので決定。 牛肉をしょうがや白ネギ、ゴマ油たれにつけ、といであったお米をごま油で透き通るまでいため、漬け込んだ牛肉と、切った白菜キムチ(汁は軽く絞る、そして後で入れる)をいれて固形スープで炊き込むというもの。 なかなか、好評であった。
夕方、教会帰りの三枝子がお姉さんと来た。 昨夕、待ち合わせ場所の打ち合わせが不十分で合流しそこなって、まあ私の携帯ボケ。 と言うのも、あんまり詳しく打ちあわせなくても、周囲の人がみんな携帯を持っているので会えない、と言うことが無いのだ。 で、今回もそんなつもりで居たら、三枝子は携帯なしの人なのでした。 彼女はホーム、私は新幹線中央乗換え口で待っていて・・・・まあ笑い話でしたわ。
今日は、母の日。 ワインをあけ、甥が母の日ケーキをきり・・・とりあえずお祝いをしたのでした。
★4・16日、ベトナム日記アップ★
今日は、ミエコが明日の母の日に合わせて帰るというので、私もおつき合いで帰ることにした。 彼女は、まだ時差解消できずで、昨夜も遅くまでしゃべっていた。 で、今日は、10時前に起床。 私が、買い物にでている間にたまちゃんから電話があったらしい。 今日はよい天気だし、どこのお遍路だろうか。
ブランチ、で彼女を送り出して、私は日記のアップ、掃除洗濯。 夕がた合流予定。
★ 4/15日ベトナム日記アップ★
早起きして美容院へ、髪を切った。 その後、渋谷へ。 YHのカードの更新やら、諸々の用事で。 大峰関係のロードマップやらガイドブックを3冊も購入。 午前の渋谷はすいているなあ。 という印象。
4/14日のベトナム日記アップ。 これ、すごく長くて疲れた。
ミエコ、昨夜、10頃に現れる。 暑い暑い・・毛穴が日本化していない。 急行が混んでいて、死ぬかと思った・・・などなど。 はい、よく分かりますよ。
2時過ぎまでしゃべって寝た。
今日も蒸し暑く、風強し。 彼女は昼新百合のお友達のうちへ。
わたしは ★4/12・13日のベトナム日記アップ★
2003年05月07日(水) |
お掃除、見た目完了、アハハ |
ただいま、8時半過ぎ。 三枝子が来るのは、9時過ぎになる。 一応、見た目的にはお掃除完了。 要するに、ホットカーぺットを片づけて、あちこちに目立った埃をふき取って、山積みだった紙類を捨てて、洋服を少々捨てて、でさっぱりしたというわけ。 5月はいいなあ。 としみじみ、水(ビールでないのが悲しい)を飲みながら目を細めていた夕方。
新聞によると、毎日新聞の社長様もどうやらヨルダンに到着の模様。 謝罪をしっかりして、遺族に許してもらえると刑が軽くなるそうだから、な。やっぱりトップのわびは必要、と踏んだのだろう。
それにしても、毎日のあの事件、平和ボケした日本人の象徴のような恥ずかしい事件だと・・・ 同情の声もありますが、わたしは同情しません。 馬鹿、の一言。日本の大手マスコミのおごり? そもそも、セキュリティチェックをなんと考えているのか・・と思った。 あの機械、なんでも写るのよ。 爆弾が通ると思ったんでしょうかね。 ハサミ1本だって、ダメだ、このごろ。 車椅子の方がハサミ(化粧用よ)を捨てられていましたよ、オランダでは。 (わたしも工作ばさみ、捨てられた) きついようですが、しっかり、人一人殺した償いをしてきたらいいと思う。 機内で爆発が起きたら、もっとたくさんの人が死んだのだ・・。
亡くなったヨルダンの曹長さん、妹の学費を援助していたのだそうな。 ホントにかわいそうなことだった。
4/11日のベトナム日記、アップ。
2003年05月06日(火) |
いそがしや・・でも眠い |
朝、ミエコから電話で、明日夜に来ると言うことになった。 さてさて掃除せねば、に火がついたぞ。
午前中は、郵便で送るモノ、手紙類の整理などをして、午後はセーターの洗濯・大掃除だ。 収納場所に問題があってどうも思うように進まない。 やはり、もう少し、モノを捨てないといけなかったようだ。 それがどうも・・・・ ほんの少しで生活できる、というのが歩き遍路のご教訓だけど、もっと捨てる思い切りが必要だ。
夕方、7時過ぎたら、やたらに眠い。 で、8時頃から眠ってしまった。 今頃、疲れがでてきたんだろうか・・・ ベトナム日記のアップできず。 ごめんあそばせ。
昨日はさすがに疲れていたようで、洗濯をしたら、お昼寝で爆睡した。 で、掃除ははかどらず、本日決行。 ゴミ袋4個がでて、少し減ったかにみえるがまだまだ。
それと、お遍路中、自分の体が重たいと感じたので、体重計にのったら、愕然状態。ベトナムで、昼ビールお昼寝つき、夜ビール、うまい飯状態で毎日が過ぎたので「ビール太り」をしてしまった・・・みたい。 その前からかも・・ここんとこ体重計に乗っていなかったからな。反省。 急遽、ダイエット突入。 つらい。
★4月10日のベトナム日記をアップしました。★
2003年05月04日(日) |
恒例 新緑おおそうじ |
今日は寝坊。 足は少々痛し。 たまっていたメールを書いたりいろいろしていたら昼。 これから、大掃除計画を立てて突入。 この時期の大そうじがわたしの恒例だ。 アムステルダムからの友人は、仙台の友人宅に直行することになったし、私のところにはまだ来ない、で、それまでにきれいにしないと・・・ 数日かけて、がんばります。
姫路の定宿に、Dさんが来てくださった。 Kさんを書写山へ。 Dさんによると、新緑祭りで、ふだん閉じているところが開扉するのだという。 足が痛いのでどうしょうかと思ったがとりあえずは、歩けそうなので山を登って歩いてお参りすることにした。観音様はやはり山を登らないと・・ネエ。 Dさんが楽な靴を持ってきてくださったが、何とか自分の靴で行けそうだ。 毎度のことながらご親切に感謝。マメパッドなんていうモノまでいただいてしまった。次のお遍路に役立ちそうである。
今日は、新緑がまぶしい。ホントに美しい日だ。 書写山の紅葉の若緑は息をのむ美しさ。 Kさんは、書写山の舞台つくりのすごさにびっくりしていた。 いつもはしまっている、本堂や常行堂、性空上人堂、などが開扉していて、平安時代の見事な仏様にお会いできた。 Kさんは、ラッキーだった。 書写山開基の性空上人さんのお像は、お優しそうで印象的だった。 なんと、98歳の長寿を保たれたという。そして、亡くなられてから、この奥の院の灯明は消えることないという。 何時きても、書写山はいいな、好きだなと思う。 帰りはロープウエイーで降りた。 12時、破磐神社月参り。 タケノコのシーズンだが、今年は去年の小雨のせいで出なくてこまっているのだという話だ。 太市のタケノコはおいしかった。 境内の緑が美しくて木々が喜んでいるように見えた。
3時過ぎに姫路市内に戻って、次はいつになるかというKさんを姫路城へお連れした。今日の姫路城は大混雑。去年私が来たときは閑散として、外人観光客だけがめだったのだが。 今日は、お城の張り出し窓に子どもを乗せて写メールしている若い母親、お城の石垣を登ろうとする我が子を眺めている親・・おいおいという大人が気になった。 特に、写メールしている間に子どもが落ちたらどうするんだ??と私がつぶやいたら、Kさんの隣にいた年輩の女性がそうそう、うなずかれた。石垣登りは目の前でやってくれたので「崩れるよ、これ江戸時代だよ」といって注意できたけど、写メールの方ははるかむこうでできなかった。張り出し窓の柱の間に頭が通るのだから、、あっとう間に落下・・・そういうことがないことをいのりたい。
ただいま、新幹線の中、夜10時までにには帰宅できそうである。 Kさんごくろうさまでした。 ベトナム帰り、10日がすぎてどうやらSARSにもかかっていなかったようで 我が身も慶賀であった。
6時50分、岡田のおじちゃんにおにぎりのお接待をいただいて出発。 8人の泊まり客だったので、おじちゃん、16個のおにぎりをお作りになったことになる。「おじちゃん、おばちゃんがやっていたんと同じことをしているんのは偉いなあ」といったら、そりゃそうや、とおじちゃん。 ありがとうございました。 お名残惜しいが、しっかりとお送りくださる中でた。 はやい人は6時15分には出ている。 快晴。 それにしても、高速道が遍路道を引き裂いて登り口あたりの様子がすっかりと変わってしまった。 これまたびっくりだ。 昨日の足裏のでかいマメが痛いのでひーひーいいながら、休みながらのぼる。 改めて、はきならしもせずに新品の靴を履いてきた自分の雑ぱくさを反省した。 それでも、山道は気持ちいいし、2時間10分ほどで着いた。 雲辺寺の水堂のお水はうまかった。 ここもまた大師堂が新しくなって、すっかり変わっていた。
本番の方向ではなくて別格の萩原寺ほうに道を取るはずなのにうっかり、電波塔の下までいってしまい、また戻る。大どじ。昨日からあちこちご一緒して、岡田が満員でかんぽの宿にいらした男性の方に戻り道でまた再会してお気をつけてといって別れた。 先に岡田を出た人たちはすでに寺を出発してしまっている。
萩原寺への道ははっきり言って悪路。石がごろつき、道がえぐれていて登りよりもむしろ時間がかかった。 ゴミがまるで落ちていない。いいことだが、つまりは人があんまり歩いていないということ。顔に道に張っていた蜘蛛の巣が張り付いて困った。 おまけに、H200メートルあたり、車道と合流する付近、工事がなにやら始まっていて、遍路道の入り口が完全に破壊されていて、わからなくなってしかたなしに車道へ。ショートカットしようと、農道には行ったら行き止まり、登りを延々と戻ることになって、時間ロス。 結局、12寺過ぎには萩原寺につきたいと思っていたのに、1時すぎ。 あつくなってくるし、道しるべはないし、足は痛いし、やれやれだ。 本番をはずれるとやっぱり苦労する。 萩原寺は大寺。 萩の木は2000株もあるという。
またまた印のないところを大興寺へ。 1ぽん道ではあるのだが、新道ができていて、距離が出た。 昼からのぎらぎらの日差しのなか、4時すぎ着。 姫路に行くことを考えると観音寺駅までの7,8キロを歩き通すのは難しい。 足も痛いし、スピートアップできないところがつらい・・・・ で、ここからはタクシーとすることにした。 お参りを終え、26歳の歩き遍路のきれいな女の子と話す。 通しだという。ここまで32日。 もう食べないから・・・とザックにあった抹茶キャンデーをあげたら、喜んでくれた。 がんばって・・とわかれる。
5時タクシーに乗って、観音寺駅へ。 遍路の白装束を脱いで、電車に乗りビール。甘露じゃ! 運転手さんが、このごろ、若いお遍路さんが増えたねえ・・といっていた。 姫路着8時。
2003年05月01日(木) |
土居町から民宿岡田まで |
今日はよい天気だ。 しかし、きのうできた親指の下のマメが痛い。非常にいたい。 しっかし、歩かないことには・・だ。 6時半過ぎ、あるき遍路ご一同さま出発だ。 昨日はしなかったが、今日は瓶缶拾いをしながら行く予定。 すたすた進む人たちを見送りつつ、ゴミ袋に道ばたに落ちているモノを拾う。 あっという間、1時間半あまりで家庭用の袋がいっぱいになった。 今日は幸い、土居町の缶瓶収集日、決められたところに出した。 途中、なんと同行のKさんが道ばたで1000円札を拾った。 その少し、前に「おへんどさん」にあったので、これ、あの人に会う前だったら、彼にあげたのにね・・と話し合ったが警察には行かずに「お賽銭」となった。 私たちの前に歩いていた人もいるのに、ホントに不思議だった。
三角寺までの道は随分変わった。 高速道ができて、バイパスができて、新しい家ができて・・またしても道に迷ったかな状態だった。 途中の「石床大師」さん(新しい)にお参りしていたら、その隣のおうちの方がお賽銭にと二人に500円くださった。 「今日はお大師さんに、ひとり750円ずつお給料いただいたから、しっかりゴミ拾わないとね」と同行のkさん。 はい。 次の袋も、三角寺登り口まででいっぱい。 で、ぶらぶらさせてあるいていたら、突如声をかけてくださったおじちゃんが「三角寺いくのんにそれはじゃまやろ、きつい、、おいていき、ワシが捨てておくわ」 西山興隆寺の登り口前でも、通りにいたおばさんがかわそうや、と引き取ってくださったし、あの方この方、お大師さんである。 今回もありがたく甘えた。 三角寺着11時45分。 松屋で同宿したお遍路さんたちはすでに着いてお昼の最中だった。 三角寺は、シャガの花の盛り。 12時35分、三角寺発。 本日3枚目のゴミ袋を取り出した。 拾いながらいくと歩きがはかどらないが・・・・何しろ今日はお大師さんが「お給料」くださっているから・・・・ ゴミを拾う目で見ると、なんとたくさんのゴミが道ばたにあることか、とため息は出た。もちろん、これは四国に限らない、今や日本全国がそうであろう。 またしても1時間半あまりでいっぱい。 今度は、途中の「脇建設休憩所」でお茶をいただいたとき、引き取ってくださった。ありがとう。
椿堂3時前着。 大師堂の新築の真っ最中。 お参りをしていたら、お菓子、冷たいお茶、ジュースをお接待いただいた。 それでいろいろとお話をした。 ネットでよく知っているお名前がたくさん出てきた。 岡田が連日満員、泊まれなくて困っている人もいるという話をしたら「早く通夜堂を再開せないかんのだが・・だけど、大師堂ができんことには・・・」いわれていた。「お寺さんの鏡」のような言葉だ。 お遍路が少し騒いだからといって、作ってあった通夜堂を取り壊したり、挨拶もようせん本番札所の住職さんとは大違いだ。
さて3時半、岡田への道、境目トンネルまでは登り、つらい。そもそも今日はマメがすでに十分腫れ上がって、一歩踏み出すごとにいたいのだ。 この国道沿い、ずいぶん道がよくなった。歩道ができた。 岡田着5時10分。 岡田のおじちゃんに「最後やで」といわれてしまった。 「マメができた」といったら「歩きのプロやのに」といわれて・・・はい、はずかしゅうございます、です。 岡田での食事はおじちゃんが作っている。おいしかった。 仙遊寺から一緒の方々が何人もいて楽しい夕食時間だった。
掃除やかたずけはお手伝いが来るらしいが・・・おじちゃん、ホントにがんばっている。 食事後、おばちゃんの仏前にお参りさせていただいた。 とにかく今もまめが痛い、すごくいたい、明日歩けるか心配だ。 天気はよいようだが・・・。
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