2003年04月30日(水) |
香園寺から土居町まで |
雨予報だった。 夜、かなり強く降っていたので気になったが、さほどでもなくてよかった。 それでも、雨具をつけて6時半過ぎに出た。 国道11号、宝寿寺、吉祥寺と打つ。 宝寿寺では、7時5分前に、呼び鈴を押して待った。でも、7時過ぎに始まって、「おはようございます」と言っても、「ありがとうございます」と言っても無言の行で返された。「7時前にチャイム押したんでご機嫌斜めだね」とKさんとこそこそ話をした。 前神寺で、本堂上の石鎚大権現をお参りして降りたら下で掃除をしていたおばあちゃんが、上まで石段ご苦労さん、これなめていってな、と飴をくださった。 今日は土居まで総計35キロほど。Kさんは、外反母趾で足が痛くなるので、ショートカットで国道を行った。 国道の歩道整備ぶりに驚いた。 95年とずいぶんと変わった。 とにかく、国領橋まで1時前に着いたら、ご褒美で喫茶店でごはんしましょうということを励みに歩いた。 きっちりと1時着。 びっくりしたことに橋のたもとにあの泰峰堂さん(四国メーリングリストの)を見つけた。 45分休み。 ランチを頼んで、サラダをお接待していただいた上に50円負けていただいた。 ありがとう。
その後、土居までのだらだら坂。 いやはや。今日は雨がちの曇りでよかった。あつかったら、大変だった。 途中でいただいたハッサク6個のお接待がずっしりとくる。 今日は、お賽銭に・・・と10円やら、1円やらをいただいたので、道中のお地蔵さんにお参りしながらあげて進んだ。
4時30分、別格15番延命寺着。 思ったより早かった。 今日は空き缶拾いしなかったし・・・ ただ、拾う目で見ていると、今日もすごくたくさん落ちていた。 宿の松屋さんには、歩き遍路が私たちも入れて8人。 話が弾んだ。 みんな元気、そしていい顔だ。 四国ではみんな仏になる・・とKさんと話した。
7時、松下氏に見送られて出た。 途中、昨夜来てくださったIさんのお宅によって、ご挨拶。リポビタンとかをお接待でいただいた。用意しておいてくださったのだ、ありがたいこと。 今日も晴れ。 横峰さんの日なので晴れはありがたい。 しかし、あついのだよね。 道々、お昼のおにぎりを買おうとお店を探すも、コンビニなし。道はよくなったのにコンビニはできていない。湯浪への道の食品店で、パンを見つけて買おうとしたら店番のおじいさん、「持っていってください。」 お接待でいただいてしまった。 ありがとうございます。
道々、カン、ペットボトル、ビンを拾いながら行く。たちまち袋半分、重くなった。 大変だったのはその後、横峰への登りをその数キロのゴミ袋をつけてあがったら、重いこと、重いこと。 2回も休みながら到着した。 着いたら、横峰さんのお坊さんが「ありがとうございました。おいていってください」と言っていただいて、お言葉に甘えておかせていただいた。おまけに、お接待でお菓子と冷たいジュースをいただいて、ホントにうれしかった。
横峰さんは、サクラ、シャクナゲ、チュウリップ・・美しい盛りだった。 お参りを済ませて、星が森へ。なんと、見事に、石鎚山が遙拝できた。 その後食事。本当にゆっくりやすんだ。 12時前について、出たのは1時半。横峰寺は気持ちいい寺だし長くいてよかった。 帰り、途中から新道にはいって、延々と歩いてしまった。 途中から、高速道が見えたので、まあ方角的にはまちがっていないとおもったが 沢が一つ違っていたのよね。 見事に新しくできた道路にたぶらかされた・・・と思いきや、里で出会ったおじさんが「ホントは、子安さん、昔はここにあったんよ」と裏の竹林を指し「今の場所に出たのは江戸になってから。だからあんたらが来たのはむかし道やわな」といわれた。 ほおおお・・である。 その前にあったおじさんは、ワシここで仕事していてお遍路さんがこことおったのははじめてやといわれてとほほと思ったが。 里に出たらすとんと子安大師、61番の前に着いたのだから私のカンもそれなりに・・だった。 しかし、たぶん、数キロ余分に歩いている。 私はいいが、同行のKさんにはかわいそうなことをした。 でも、4寺45分宿坊にはいって、一番風呂が極楽だった。
朝、6時のおつとめ。 住職さんのお話はふつうの言葉で夢や理想を語られ、わかりやすく共感を覚えたが、少々長かった。 7時朝食。 精進、玄米粥がとてもおいしかった。 今日の道を知りたい女性(千葉の人で、通し打ち)と少しお話ししてから7時45分発。 朝からむあんとして暑い。 9時15分、国分寺着。 門前のタオルやさんは相変わらずお接待でタオルをくださる。 変わらず、立派なことである。 仙遊寺からは、5人の人が歩き遍路で出たが、みんな相次いで着いた。一人の人が体調がよくないので帰るという。「昨日一昨日の暑さで、調子が狂った。出直します」とのこと。 今日の道は県道国道歩きで、あんまりおもしろくない道だ。 差くらいのあたりから県道にでてびっくりした。 道が広くなった。 私は一瞬間違えたかと思った。 湯浦温泉道の駅などというモノまでできて、トイレが助かるのでありがたいが・・・国が滅びそうな気配な日本なのにこんなに道だけよくしてどないするんじゃ、と思うなあ。 今治から東予へはいる道で、空き缶、ペットボトルの投げ捨てひどし。 拾う。 臼井の水でお昼。きれいなおうちになって(前は四阿)変わっていた。 ごみ袋を持って歩いていたら、通りの商店のおばさんが、歩くのにじゃまやろ、捨ててあげるしおいていきといっていただいた。 お言葉に甘えた。
その後通りで、かわいいフクロウのマスコットをお接待でいただいた。
西山興隆寺までの道、きつし。 最後の石段も長かった。 が、すばらしいお寺であった。 その後、生木地蔵さんから丹原の栄家旅館さんへ。 生木さんへ、去年の熊野古道仲間の、宗報さんや久子さんが来て(午後から突然決まった)宿には、同じくメンバーの松下さんが来て、さらには、同行のKさんが松下さんらとともにお遍路したときの仲間であるIさん(丹原のかた)もおいでになってにぎにぎしくおしゃべりした。 楽しかった。 いただいたフクロウのマスコット、ちょうど、みんなの人数分あって、なんだかびっくりした。まるで、今日のことが決まっていたような・・・・
今朝は、朝からYHの近所のおうちが火事でほぼ全焼。朝からすごい騒ぎだった。 火事場の野次馬よろしく様子を見に行って、白衣をしっかりと汚してしまった。 漁師さんおうちで、ちょうど家は留守で、人に怪我がなかったのが幸い。 おいしい朝食をいただいて、7時半過ぎに出て、杖大師へお寄りして、お参り。 杖大師のMさんとともに、鎌大師までの2キロあまりを歩いた。 風は少し冷たいが、とてもいい天気だ。 愛媛は一昨日あたりに大いに雨が降ったようで、しばらくはいいのではないか、と地元の人はいう。
今日のメインは鎌大師の妙絹さんの引退・新しい門出をお祝いする会への参加だ。 そのために急遽決めたお遍路だ。 着いたのは、9時半過ぎ。ひっそりとするとのことだったが、すでに地元の人・私のようにあいたくてきた人・南海放送などで境内はにぎやかだ。 早速にお参りして、御朱印をお願いする。 私は重ねの印だが、同行のKさんは新しい納経帳。 その手つき・手跡のサラサラ度は、とても94歳になられる方とは思えず。感動した。 気持ちばかり、二人の連盟でお祝いを差し上げたら、ああ、本をお書きになった・・・と私の名前を見てすぐにいわれたのにもびっくり。 ぼけのぼの字もない頭の回転だ。 その後、南海放送の人からインタビューを受けてしまった。
10時開始。 友人で今回の会の世話役の一人であるKMさんがあいさつする。 まずは、地元の女性合唱団による合唱の披露・奉納。 その後、KMさんの奉納の舞・ウベ・ワルタ氏という、ドイツ人の尺八演奏家の奉納演奏だ。大師堂へ、妙絹さんも入られた。 開け放たれた大師堂に風が吹き込み、尺八の音が流れる。 そのすがすがしいこと。 1曲終わるごとに妙絹さんは手を合わせておられた。 最後「70歳の時に、ここに来て足かけ25年過ごしました、本当はみなさんに一人ずつお礼に行かねばならないのですが・・・足腰が・・この場でお許しくださいね」といったご挨拶があった。 はっきりとはりのあるお声だった。
このとき、境内・大師堂の中には併せて100人ほどもあられただろうか。 とにかく、あたたかくて、名残が尽きない盛況な会だった。
午後、車お接待をいただき、延命寺から、仙遊寺まで打つ。 5時から、同じくウベ・ワルタ氏のコンサートは仙遊寺のホールであるので、仙遊寺までの道は、ちょうど通りかかった今治の知人にまたしても車お接待をいただく。ありがとう・・おかげでコンサート、間に合いました。 楽しいコンサートだった。
また、仙遊寺のお料理はタケノコ精進。おいしかった。 眺めも特A。 立地を最高にいかした作り。バリアフリーも考慮してあるし、たまちゃんパパが行きたい、泊まってみたいといわれるのがよくわかった。 たまちゃんから夕方電話をもらった。仙遊寺大師堂の前、兄ちゃんと一緒のお遍路楽しそうだった。
2003年04月26日(土) |
石手寺から北条水軍YHまで |
10時に石手寺を出たかったのだが、飛行機の遅れなどで11時になってしまった。 遅い。暑い。 太山寺までの道は、宮崎さんにお会いしたいので、三津浜ルートをとる。 お顔を拝見して玄関先ですぐに失礼するはずだったのだが、思わず2,30分もお話をしてしまった。 大山寺で、松山の友人Hさんが待っていてくれて共に歩いた。 彼女は息子さんが、地元の会社に就職できたら・・といいながらお参りしていたのだが、なんと円明寺の本堂の前で、息子さんより電話。 見事第一希望の内定ゲット。 「お大師さん、ずいぶん早くお願い事をきいてくださったね」と、同行のKさんと3人で喜びながら、びっくりした。
その後、おめでたい息子さんが車でお母さんをお迎えに見えたついでに、私たち2人も、北条のYHまで送っていただく。 YHのご飯は豪華。 夕食後、温泉ツアーで権現温泉までつれていっていただいた。 温泉前で、公方さまイン倉敷グループから楽しそうなお電話をいただいた。 もりあがっていた。
YH泊まり客も、なかなかよい人たちでグッド。 今日もいい一日でした。
2003年04月25日(金) |
寒いよ・・日本、ともう一度 |
2週間いて、やっと朝から27度、昼からは38度のべトナム気温になれたと思ったのにこの寒さ・・身体がちぢこまっている。 で、なんだか、いろいろとあるのにやる気もせずにごろごろ。 明日からお遍路大丈夫か?の状態だ。 仕度もまだ不十分。 困ったね。
ちなみに、ベトナムは4月が一番暑い。 5月になると雨期になって、少ししのげる。 でも、この雨期の蚊は怖い。マラリア媒介はこの時期が多い。
SARSについて言えば、列車で中国人の北京から来た人と一緒だったし、ハノイからの観光客と一緒にツアーバスにも乗った。外人旅行者はハノイや中国を経由してくるし、移らないようにする、というのは行ってしまえば無理な話。 伝染病に関しては今や世界はひとつ、まさに運命共同体である。 皮肉な話ではある。 ところで、SARSは、は新型生物兵器が不用意に漏れたという噂があるようだがどうなんだろうか??? 出所が中国だけに、あり得るかもと思ってしまう。 で、隠したりするし疑いに輪がかかり・・・ でも、今や、鰻登りに患者の数を増やしているのは、正直に申告してますよ、だから北京オリンピックのペンデイングなんてしないで・・というところだろうか。
なんてことを書いていないで、お遍路最終チェックに入らないと。 明日は5時おきだよ、大丈夫かね・・・・。
ベトナムの旅は「ツウ イージー」であった。 が、最後の最後に、ANAがトラブルで飛ばず。 で、急遽、JALとなって、台風の雲にもかかったりして、7時前着が、8時過ぎ着となりました。 飛行機は、JALは、ベトナムエアラインとアメリカンエアラインの共同運行便で、本来なら混んでいるはずなのに、ANAの客を乗せても、席をつなげてねっころがってこれるほど。これ、大変なことだ。 ANAの客だって、数十人だもんね。
わたしは、機内で、朝日を読んで「ハリーポッターとひみつの部屋」を見て、すこし席に寝て睡眠。けっこう快適なフライトだった。途中台風雲にかなり揺られてしまったが。 わたしは ANAのマイレージなんで、JALにはよほどわけがないと乗らない。 まず、スッチーがANAより高齢、サービスがおしゃれ、飯はもしかして、JALの方がうまい??以前、ハワイの人気便リゾッチャに乗ったときにそう感じたが今回もそう思った。でも、マイレージをためることから言うと、スターアライアンスメンバーのANAがいいのだよね。
ところで 我が町の駅に着いたら寒い。 わたし、向こうで買った1ドルTシャツ一枚に、夏の薄いおずぼん、やっぱり向こうで買ったハンドメイドのチョッキのみ・・何しろすべて真夏仕様だ。
昨日まで、昼になったらランチでビール飲んで、2時から4時くらいまで涼しい部屋でお昼寝状態だったのが信じられない。あ、でも、昨日は、がんばってツアーに参加しましたよ。カオダイ教という、ベトナムの新興宗教の総本山を見学してきました。(昼時間帯、だいたい35度から38度くらいでる。朝から一気に27度、日本の夏です) 風邪ひかないようにしないと・・と本気に思う。 何しろ、26日からまた、歩かせて頂くので。
心配して下さった方々、ありがとうございました。 おかげさまで元気に帰りました。
2003年04月23日(水) |
カオダイツアー、そして帰国へ |
今日は、夜11時半過ぎのフライトまでカオダイツアーである。
★カオダイ教について★ ホーチミンから100キロ。国境沿いの町タイニンに本部のある新興宗教である。 1919年、ゴ・ミン・チェンによって唱えられた。教えの内容は、キリスト教、仏教、イスラム教、儒教、道教をいいとこ取りしたモノだとかで、何とビクトルユーゴーや李白まで聖人として祭られている。 シンボルは「天眼」。巨大な目玉。これは宇宙の至上神カオダイの象徴で、カオダイは地球上の宗教の統一を目指していて、それで地球を救おうとしている、のだとか。 信者数は全土に数百万人といわれている。
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ラッシュの中をマイクロバスは曲芸のように飛ばす。 本日のツアー客は、私を入れて8人。うち、ハノイからのおばさん2人。 例のごとく、朝からうとうと。 カオダイ教本部駐車場11時過ぎに着。 自由に内部を見てから12時から行われるお昼の礼拝を見学する。 仰天したのは、本部建物のケバケバしさである。 見たところは、左右対称で、西洋風の建物なのだが、周囲の回廊には「天眼」がリアルに描かれて、蓮の花や龍も描かれている。 中はもっとすごかった。ピンク水色、緑、黄色、とにかく華やかな色の洪水、柱には緑の龍が巻き付いて・・・度肝抜かれるってこのことだ。 それで、正面には、地球と天眼。それは礼拝の対象?? 12時がちかずくと、信者以外は、二回のギャラリーにあげられる。 そこから礼拝の様子を見学できるのだ。 白いアオザイが信者のシルシ。 男女別の入り口から入って、床に座り、音楽に合わせて歌のようなお祈りの言葉をいう。 その数、3,4百人もいようか。 12時15分にはでてきたが、ガイド氏に訊くと祈りは1時間くらい続くようだ。 どっちかというと高齢者が多かったが、夕方や朝はまたちがうのだろうか。
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夕方、TNKトラベルにお金を取りにいった。 伝票にあったという話で、再度謝られた。 「この本(地球の歩き方)は、怖い、今回のようなミスを投書することできている本だ、もしあなた達が同じミスをすると日本人はこの本に書く、そうすると誰もここには来なくなる、いい仕事がよい評判をつくる、あなたの会社の発展を祈る」 みたいなお説教をいったら、いやな顔もせずにいちいちうなずいて私のへたくそな英語を聞いていた。 がんばれよ、TNKトラベル。 隣りのシンカフェで、ビール、蓮ご飯、ココナツアイスが私の最後の晩餐であった。 9時、ホテルに戻って、5ドル払ってタクシーを呼んでもらい空港へ。 しかし、ANAが急にエンジントラブルで飛ばず・・とういう事になったのだが、やはりがらがらのJALで帰国。となりました。 特に見るべきモノはない感じのベトナムだが、食い物・ビールよし、人よし・おもしろし、自然よし、すごし。 物価安し、極楽でありました。 次回は、ハノイに入って、サパ(山岳少数民族の市が立つ)などに行きたしや。 そして、中国のクンミンあたりに抜けたしや。
6時40分、朝食をたべて7時過ぎにはチェックアウト。 レセプションにいた日本語が少しできる男、請求額を間違えた。 54ドルの計算を55ドルとかくんだわ。 で、私がちがうというと、計算機で計算してんの。 この辺はやっぱり中国人と日本人が早い。
ダナン空港までタクシー1時間近くかかる。(6ドル) 途中、バイクと車の交通事故を見た。 すごい人だかり。 そりゃ、この国の交通事情だったら事故も起きるだろう。
空港で6番カウンターといわれて待っていたら後ろからどんどん割り込まれる。 昔の中国だ。 で、私は切れた。 「順番守れ、私の後ろだ」と私の後ろから割り込もうとしていた若い子に、どなったら、その子、へらへら笑って後ろについた。 割り込んで・・というの、この国に来て見てはいたんだけど、残念ながら公徳心はないよう、だ。 中国はすくなくとも北京では割り込もうとする人を注意する中国人がいるし、ずいぶん変った。 機内では、SARSのせいか、マスクが目立った。 久しぶりに「そうだ」と思い出した次第。 でも、まあ、ミッチー先生にいただいたお薬や「ビタミンc」「風除けサポート」というファンケルの薬はずっと飲んでいる。
ホーチミンはすごいスピードで動いている。 飛行場からタクシーに乗ってそう思った。 フエもホイアンも田舎でしたわ。 車をよけるタイミングがほかの町とちがいます。 予約していたデタムストリートの211ホテルへ。 ここ、清潔の固まりのようなホテル。 そこで、お昼寝。 その後、キムカフェで、明日のカオダイ寺院の行きツアーバスを予約してお土産を買いに。 私がはまったココナツキャンデーをたくさんかいこんだら重いわ。 田舎土産に「ベトナム米2キロ」これも重い。
夜、TNKトラベルに行って、ファーストクラスがセカンドだった、お金を返して欲しい、と話した。 若い、「ベトナムが大学院」くんが信頼しているオーナーは真剣に話を聞いて「お金を返す」といった。 私は「あなたが伝票を調べて私にファーストクラスを売った、と確認してからでいい」などといっていたら「ベトナムが大学院」くんが来て「確かにこの人にはファーストクラスを売った」と証言。 でも、ま私は明日また来るからそれまでに確認したらいいということで。 隣りのシンカフェでご飯を食べながら「ベトナムが大学院」くんと話す。 彼の生い立ちなどいろいろ。 私は彼にボランテアもいいけど、ベトナムの語学学校をでておくのもいいよ、学歴で人は評価されがちだしね、と助言した。
デタムストリートは、居心地のいい通りだ。 好きだな。 今度ホーチミンに来るときは、このあたりのホテルに直行だわ。
2003年04月21日(月) |
洋服をつくる、日本人の墓・・・atホイアン |
昨日の夕方、洋服をオーダーしていた店に取りに行った。 その時に従業員の女性達たちと話した。 まず、教育費のこと 私が、なぜ学校に行かないで通りでものを売っている子がいるのかと訊いたのだ。 子どもを小学校にやるのに一月9ドル、食費等々を入れると18ドルはかかる・・・。これは、かなり厳しい額らしい。 その後、若い子がこっそりとわたしの耳にささやいた。 「私の給料は、月に20ドルよ、朝9時からおる9時まで働いて」 彼女、公休日はないとか。 「でも、私の世代では、私は恵まれていると思う」 要するにベトナムの地方都市のお給料はその当たり。 (後できいたのだが、ホーチミンあたりでは100ドルはもらえるらしい。だからみんな都会で職を得たがると) 私、スーツを2着、パンツを1着、ブラウスを1枚つくって100ドルほどを払ったとだったので彼女の20ドルのお給料というのが申し訳ないような・・・。
彼女の母さんに「日本人はみんなアオザイをつくって帰る、アンタは何でつくらない」と訊かれた。 「日本人はふだん、アオザイを着ない、それで私は太っているので似合わない」 私はルーズな服が好きだ、タイトなのはきらいだ。 「あんたは後5キロ体重をへらしたら、アオザイが似合う、そうしたらまたホイアンに来なさい」 ハイよ。 何もないホイアン、ただ古めかしいショボイ町と車が通らない通りを笠かぶった物売りおばさんがあるいている・・そんな町だけど、また来てもいい。なぜか・・不思議。
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何しろ、朝も8時になったら27度だ。勝負は早朝にあり。 で、6時にご飯を食べて(6時から始まる)7時前には、ホテルを出た。 日本人の墓を見物に。 市街地を過ぎて田んぼの中にそれはあった。 途中で分からなくなって自転車をこいできたおじさんに訊いたら、わざわざ遠回りして案内してくれた。 お墓のそばではちょうど稲刈りの真っ最中。 「シンチャオ」と挨拶をしたら親父、ニコニコと手招きして、手伝えという仕草。 あはっは。 この暑さでお手伝い、死にますわ、。ゴメン。 「鎖国政策によって日本に帰国することになった日本人がホイアンの恋人に別れを告げるために来たがここに死す、で墓のムキは日本に向いている」 といったコメントがついていた。 ほおう、悲恋かい。 意外と、ここで死んだことにして恋人とホイアンの町で幸せに暮らして死んだかもしれんぞい。 ということを妄想する私って根性曲がりか。
暑い。またたんぼ道を歩いて、今度は「チュックタイン寺」 ホイアンで一番古い寺。 小学生見たいな子が二人ついてきていらんというのに、案内してくれた。 もちろんモノねだりである。 あげんかった・・・頼んだわけじゃないしなあ。悪い癖はつけたくない。 外人に案内の押し売りしたら1ドルくれるっていうの、覚えたらろくなモノにならんよ。 あがって久しぶりにお経を読んでいたら和尚さんがでてきて、ベトナム式の三拝を教えてくれた。 ちなみにベトナムでは、お賽銭を木魚の中に入れる。 お賽銭箱はない。(観光化されているところはあるが)
外に出たら正面に観音さま。 あ、観音様だ、と日本語でいったら寺女みたいな人が「シバブッダ」といった。 シバブッダ・・観音様のことをこういうのだ。 なるほどねえ。 ここまで11時過ぎ。 いやあっつい。 昼寝だ。ビールだ、になってきた。
午後、かろうじて、日本橋や古い建物訪問をした。 で、シエスタ。 ホイアンでは、昼の1時2時にお店に行っても、人がでてこない。 みんなお昼寝かごろんとしてテレビを見ている。 まあ、お昼寝大好きな私、この国では思い切りシエスタしても、怠けている感がしない。ホントに居心地いいわ。 日本橋は、旧市街まん中に架かっている橋だが、屋根がある眼鏡橋。橋のまん中にお寺が付属しているユニーク設計。おもしろし。 この橋を境に日本人町と中国人町が分かれていたようだ。
夜、晩ご飯の後、散歩した。 川べりのベンチに座って、夜空の星を見ていたら、おじさんに話しかけられた。 「ベトナムははじめてか、どうであるか、日本は今頃どんな気候であるのか・・」 みたいな世間話。 はじめ、話しかけられたとき、この人は私に何を売りつけるつもりかな、何の勧誘かな、と心の底で思ったりもしたのだが、単に世間話だった。 下心なし。 しみじみいいなあ、ホイアン。 なぜか、何もないけど、また来るぞい。
明日は、ダナンから飛行機でホーチミンに帰る。
2003年04月20日(日) |
ホイアン、そしてミーソン遺跡へ |
★ホイアンについて★ トウボン川が南シナ海に流れ出る三角州にできた町で、4cころからベトナムに成立したチャンパ王国の時には中国とインド、アラブを結ぶ交易都市、その後、グエン朝の時にもやはり交易の中心として栄えた。 まあ、海のシルクロードの中継地点といっていい。 16,7cには日本人町もあって最盛期、1000人ほどの日本人が住んでいたといわれている。しかし、鎖国政策で衰退した。 市内には日本人がつくった「日本橋」が残り、「日本人の墓」がある。 かわらぶきの屋根が並び、通りは狭い。木造の古い家は、中国風、日本風、ベトナム風とそれぞれよいところを取り入れてつくってある。 この、交易都市の面影を濃厚に残す古くてなつかしい家並みが、99年に世界文化遺産に登録された。 要するに今や「ちっこい田舎町」である。だから、ベトナム戦争の空襲にもやられずに町並みが凍ったように残ったのだ。
★ミーソン遺跡ミニ知識★ ホイアンの北45キロにある。 チャンパ王国の聖地。 チャンパは、192年にフエ地方(ベトナム中部)に興り、延々続いて1471年、ベトナム軍に滅ぼされた。 チャンパ王は、中国風を取り入れたり、ヒンズー教屋仏教の影響を受けたり、まあいってみれば雑煮状態。 しかし、国自体は交易の利を得ておおいに盛んだったという。
★★★★
昨夜19日は土曜で、町の公園では大道芸人が劇をやっていて、満員の人だかり。 まるで祭りの夜だった。 暑い夜、ふつうの家にはクーラーはないし、そとにでて涼を取り、楽しんでいるのがよく分かる。 通りの提灯屋の店先には、明かりが入り幻想的な美しさ。 何より、旧市街、通りが狭いので車が来ない。それがいい。 狭い小路を歩いていると、日本のどっかの田舎町にタイムスリップしたような気分ちになる。 我がホテルも、入り口の提灯に明かりが入り、よい感じだった。
★★★★
朝、8時、ミーソンツアーに出発。 バスが少し走ると、水田が続く田園風景、これまたやっぱり日本の農村だ。 ちがうのは、ときどき牛農耕をしていること、国道にモミが干してあることくらいかな。
バスには、昨日見かけた日本人の女の子と男の子がいた。 おりてから訊くと女の子は北海道から3週間の旅、男の子はやはり横浜の子でミュウージシャンだといっていた。 バスの中はクーラーが利いているが外に出たとたん、熱気が襲ってくる。暑い。 それなのに、ミーソンの遺跡を2時間は歩き回るというわけ。 早くもくじけている。 バスから、遺跡行きのジープに乗り換える。 ミーソンの面白いところは、平原の中にあって、この地だけ山に囲まれているということ(高野山??)900年に渡って、ここに聖堂がつくられてチャンパの聖地であり続けたことだろう。 れんがを積んだヒンズー系の寺院や聖堂があちこちに点在する。 中にはいると、シバ神が祭ってあったり、何と天女までいる。 残念なのは、ベトナム戦争によって大半が破壊か半壊状態で、健全なのがないことだ。 それは、ひどい。 銃弾の跡がくっきりのこっている。 この状態で、ホイアンと共に世界遺産になったわけだが、これでいいのかと感じた。 900年の神秘よりも、ベトナム戦争の惨禍を改めて感じてしまった。 フエの王宮もだが、大半が破壊されているにもかかわらず世界遺産というのは、もしかして「アメリカの贖罪意識」の反映か。 そういう雑念は別としても大半が大昔、インド見た遺跡と似ていてまたしてもあんまり興奮せずじまいであった。 バックパッカーがアンコールワットを見たらミーソンはパスしていい、といっていたの、分かるねえ。 とにかくやったら暑いのに参った。 思うのは、ベトナムも日本と似ている、ということ。 日本も、極東文化が流れ着いてミックスされて・・という土地柄。 ベトナムも、春かインドパキスタンあたりから東進してきた文化のドンヅマリ。 勢い、まねっこ、やミックスにならざるを得ない。
★ ★ ★ ★
町に帰ってミュージシャンという男の子と川に浮かぶレストランで食事、ビール。 ついでに町を散歩して、ケーキにコーヒーというおしゃれなティータイムもした。 その後、例のごとくシエスタ。 ホイアンは田舎めいていますが都会です。 ビールは冷え冷え、ケーキもコーヒーもよかったっす。 ランコー村に滞在した後ではそれが身にしみます。
私がフエをでるとき予約したバスは10時にくるとか。 しかし、多分早めに来るだろうと踏んで、荷物をつくってでた。 チェックアウト・・・英語ができる南洋美人のような女の子に20ドルを渡すとそれをヒラリンと持って奥に行き代わりに我がパスポートを返してきた。 「お泊まりくださり、ありがとうございました」なんていわんもんね、ベトナムリゾートは。 日本語習得に熱心な土産物屋のオッさんに日本語を教えていたら南洋美人がアンタのバスが来ているよ、と呼びに来てくれた。 「ジャ、さよなら」 タインタム、次回来ることがあれば、もう泊まらないけど、のぞきに来てもいいねえ。
今日は、ハイバン峠を越えて、ダナンに行き、マーブルマウンテンによってホイアンに行く。 ホイアンに3泊予定。 ハイバン峠は、海抜600メートル。眼下には美しい海が広がる。 バスはグイングインと高度を上げる。 ベトナムでは、この峠を境に気候も気質も代わるといわれているらしい。 峠の上には19cの砦が立っていた。 第二次世界大戦時、日本軍、ベトナム戦争時、米軍と使われたもの。 峠には、まさに峠の茶屋があって客引きに忙しかった。 面白かったのは、サングラスをかけた???人(多分米人)にベトナム人の兄さんが日本語で客引きをしていてサングラス???人が友だちに「日本人と思割れた」と文句をいっていたこと。 確か似てはいるけどね。 バスの隣りの子はドイツ人女の子の一人旅。 (ひとり旅している2大人種は日本人とドイツ人、34なくてアメリカ人かな) 香港からハノイに入って、南下する予定だったんだけど、SARSが心配で、ホーチミンに入った。ハノイにはいかない、という話をしていた。 同じだねえ。
マーブルマウンテンは、一山全部大理石のお山。 野戦病院にもなった洞窟に入って、洞前の土産物屋で大理石の象を買った。 2頭1ドルを、3頭1ドルで。 ホンマ、値切りをかける楽しさよ。
午後、ホイアン着。 面白いのは、町に着いたとたんにバスにホテルの客引きアオザイお姉さんが乗ってきてお客を引いていくことだ。 今、シーズンオフということもあって、かなりのデスカウントだ。 私もしつこくいわれたが、私は、世界文化遺産地区にあるホテルに泊まるつもりでいたのでそこのなまえをあげて断固として断った。 断ると、にっこり笑ってそれ以上はいわない。 この辺が「ベトナム初級」のゆえんか。 バックパッカーにとって、騙す手口や値切りの難易度で 「ベトナム初級、インド中級、モロッコ上級」というらしいのだ。 モロッコ上級ねえ。 いくのが楽しみなような・・・(^^;)
文化遺産の市内の通りは車が入れない。 バスを降りてオレが案内する、というしつこい男の子に参ったが、とりあえず 旧市内のビィフンホテル着。 このホテルは、150年前の中国人家屋を改装したホテル。 外観はまさに中国のお金持ちの住まい・・という感じだ。 部屋は、天蓋付きのベット。 テレビは衛星が入るし、冷たいビールの入った冷蔵庫あるし。 ただし、湯のではよくない。 バスタブに湯をためるのは大変そう。 窓からは、レンガ色の瓦屋根のホイアンの屋根が見えるし。 いいじゃん。決めた。 で、1泊18ドル。(朝ご飯付き) 例のごとく「私は一人だし、安くしてよ、今オフシーズンでしょ」とねぎりをかける。。 受付にいたアオザイを来た美しいオネエさんはあきれていたが男の方はしっかり話を聞いてから「あなたが泊まりたい部屋はホントは25ドルの部屋だ、すでに割引しているからできない」と。 このホテル、地球の歩き方によると20ドルから、と書いてあるし、すでに割引というのはあながちウソではないのだろう。 で納得して、お泊まりすることにした。
ホイアンについては明日に説明します、です。
2003年04月18日(金) |
ランコービーチ10ドルリゾートのわっはは |
★ランコー村★ ベトナムのフエとダナンという都市の間にある無名の、砂州にある村。 砂州にあるので、ビーチが美しい。 で、ランコー村、というとみんな、海に行くのか、泳ぐのか、ということになる。 しかし、近くまで、ジャングルの山も迫っていて、ガイド付きで山にはいると「エレファント」にまで会えるとか? 私が滞在した10ドルリゾートホテルの土産物売りの兄さんがいってはいたが。。。ホントかどうかはしらない。
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◎ホテル状況 私が2泊滞在したのは「タインタム」という、ベトナム人も休みになるとやってくるホテルである。 1泊10ドル・クーラー付き。平屋棟が並んでいる一見きれいではある。 BUT、ベトナムの安ホテルにはによくあるようなのだが、バスルームは水シャワー(瞬間湯沸かしがあるので湯と思っていたのだが、配線ミスか、つながっていない・・・洗面蛇口からは湯はでるのに)水シャワー、大昔(20年以上前)インドで入ったきりだ。 でも、バスタブはあるのだ。で、そのバスタブの上に青黒いような細いしみ。しみの跡をたどると、細いクダ。何だ?と考えた・・それはクーラーの排水管。そう、バスルームに穴を開けてクーラーをつけたのだな。はじめはクラーのない部屋だったのだ。ベトナム人の賢さ、だ。 海が見える部屋にこだわって、この部屋を選んだんだけど、部屋を見せてくれた女の子がはじめに見せてくれた奥にある部屋(海見えず)が新しいし、いいとしきりにいっていた、そのわけが分かった。その部屋はきっとはじめからクーラーがつくように設計されていてバスルームに穴をほじくってということはないのだろう。それで、お湯もでると・・・ テレビは骨董品なみのモノがあるが、写りが悪くて時々色は白黒する。 リゾートのホテルなのに冷蔵庫なし。 壁にベトナムのあちこちにウジャウジャいる蚊食いトカゲ2匹、はいずっていた。 は虫類嫌いだが、これがいるのはあきらめている。「蚊を取ってくれる良虫?」 窓には優雅な唐草模様の鉄格子。 ベットにひっくり返っていると、その向こうに限りなく美しい海がヤシの木の向こうに見える。(この辺り、しっかりリゾート)
◎ビーチ これはマジに美しい。 白い砂浜が延々と続いている。 ホントに砂は鳴く。 ぎゅっと、踏みつけると、キュとかグムとかキュキュキュとかっていうのだ。 海は波が高いので泳ぐには適さない。 一応、南シナ海に身体をつけようと水着で入ってみましたがつまらんもんでした。 砂には、アサリのちっこいにがけっこういました。 ヒトデもたくさん落ちてます。 波の高さ的にいうと、将来このビーチは「ウインドサーフィン」のメッカとなるべきでしょう。
問題は、ビーチにうろつく村の女・子どもたち。 ホテルのビーチ前なのに、寝椅子レンタル1万ドン。 人相の悪そうなおばさんが貸していた。泊まり客は私、ベトナム人カップル、ドイツ人夫婦、かりた人はドイツ人たち。それ以外いない。 女の子たちは、かごに、腕輪だの、小さい置物だのを入れて商売。 というのも、このタインタムはオープンツアーバス(主として外人旅行者用の都市間を結ぶバス)の休憩地で時々たくさんの外人の旅人がこの浜におりてくるのだ。 彼らをねらってモノを売る。 (私にもけっこうしつこかった) 学校はいっていないようだな・・でも、商売に必要な英語はうまい。 バスが去ると、後は終日日陰で編み物だ。 あんでるのは、毛糸のカーデガンなど。 「ベトナムは暑い、どうして長袖がいるの」と訊いてみた。 「色が黒くならないために」 ベトナムの子、こればっかり。 みんな色白くして、玉の輿に乗ること、ねらっている感じだね。 彼ら、夕方になると、商売道具屋をかたづけ、去る。 その時間になると、正真正銘、村の子どもが遊びに来る。 サッカーしたり、走ったり・・・平和っていいよね、と思う。 夕暮れ時、浜は美しい色に変わる。 それは、本当、すばらしかった。
◎食事状況 レストランがある、海が見える外のテーブル、風が通る中のテーブル。 外がアヒルが散歩しているし、中ははえがいる。どっちも一見優雅そうに見えるが、「田舎リゾート」の面目躍如。 朝、日が高くなるとたちまち27度は行くのだが、あせたらして「あさりのお粥」これがうまい。その後、ベトナムティー。 昼。日陰を見つけて、アヒルの糞を踏まぬように外テーブル。 ビール、やきめしかやきそば・・・でクラー付きでひるね。 夕方・・シーフード系のおかず、かにやエビがうまかったご飯、ビール。 問題はビールだ。 何と、ぬるっこいことがおおい。 夕ご飯の時は特にそう。 どうやら、外人旅行者が来るときは電気をいれているようなのだが、夕方、もうこないとなると、そうそうに切るみたい。 ぬるい、といったら、おエエチャンは困った顔してグラスに氷を入れてきた。 ビール、氷入りでのめってっか。 ほおおーーー 料理はうまかった。合格。 しかし、ビールが冷えていないリゾート・・ネエ。
ここで働くおネエさんたちは陽気で、けっこう仲良しになった。
村中にもレストラン(食堂)はあるにはあるが・・・ 村中を散歩しているといろいろと声をかけられる。 この付近(フエや次のホイアンも含めて)多いのが、コインコレクションをしているので日本のコインを頂戴、というヤツ。 子どもが100円頂戴、というおねだりをする。 コレクションが問題で、一度、少年に100円玉を見せられて「これはドルにすると、いくらか」と訊かれた。 「1ドルくらい」といったら「ジャ、1ドルと替えて」とこれまたおねだりされた。 こういうおねだりの材料に使われると思うと、絶対にやるまいぞと思う。 もちろん、私の場合、日本の財布は、「ザックの隠し場所」に隠してあるのでやりたくても持ち歩かないのだが。 夜遅くまで、カラオケが響く村。 カラオケは、今やどこに行ってもある。
ベトナムには、「ベトナムリゾート」といわれるインターナショナルな(ベトナムの現実からかけ離れているということ)リゾート地がたくさんある。 ランコー村にも「ランコーリゾートホテル」という、村の人が「あそこは高い」ヲ顔をしかめるハワイにありそうな場違いホテルが1軒ある。 行ってみた。 確かに、「タインタム」とエライちがいだ。 「租界」地である。 ・・・やがて「タインタム」もこれ、になりそうな気がする。
ビールが冷えていないリゾートはもう2度とは行かないとは思うが面白い体験でござった。 ランコー村リゾートで私がした事、昼寝、浜散歩、村散歩、レストランや、物売りのお姉ちゃん達と、カタコト話をすること。
2003年04月17日(木) |
フエからランコー村ビーチへ |
午後、1時過ぎのバスでランコー村ビーチに行くので午前は、タクシーチャーター(15ドル)で、トウドウイック廟とカイデン廟へ。 トウドウイック廟に行く途中、昨日のお線香村を通った。 あの子達、やっぱりお線香つくりをしていた。 タクシーが通ることが珍しいのかもしれない、こちらに目を向けて私を認めると手を振ってくれた、もちろん私も。 この廟は、規模もでかくて池の釣り殿などが配置してあって、なかなか。 お墓の前には、碑があったが漢字である。 今のベトナム語は横文字。中国で言えば、発音のためのピンイン記号のごときものになっている。誰でも読めるようにということで改正されたものらしいが、コレは大改革だったと思う。 トルコも、モスレム圏では唯一アラビア語を公用語とするのを止め、、アルファベットを採用したが(健康の父、ケマルアタチュルクの先見)それと同じくらいに大胆な改正であったろう、中国衛星国といってもよかったこの国にとっては。 碑文は、漢字なので読めるが、文は正に中国。改めてミニチュア中国だと感じた次第。
次は、20世紀になって立てられたカイデン廟。 西欧の影響か、廟室にはステンドグラスなどがはめ込まれてきれいだ。 お棺は、どちらかというと、スペインやポルトガルの教会にあるような形で、結構西洋かぶれの皇帝だ。
その後、お寺を二つ回った。 二つ目、ホンアン寺は、ちょうど尼さんが読経をしておられた。
午後、ランコー村へ。 バスドライバーの後ろの席に座ったら、そのあまりに大胆な運転に気持ち悪くなりそうだった、あるいはまた心臓が止まりそうにも。 ぶつかりそうになるたびに私がぎゃ、うわーとかいうのでドライバー氏は笑っていたが。 怖かった。 ランコー村は砂洲にある鳴き砂浜のビーチとか。 ベトナム人(中部)はしっているローカルリゾートである。 確かにきれいだが・・・・ 明日は、このランコー村10ドルリゾートのワハハ、をレポートしますので。
★今日のさびしい★ 3泊もして近所をウロウロしていると、バイクタクのおじさんも、リクシャのおじさんも「乗らんか」といわなくなる。 タダ、やあ・・という感じ。 一度いったインターネット屋のおじさんは、今日やらんの?ッて感じだったけどね。 あと、3日も居たら、もっとなじみそうで怖い?気がした。
2003年04月16日(水) |
ボートトリップ atフエ |
★フエからのボートトリップ★
フォーン川沿いには、グエン朝歴代皇帝のお墓(廟)がある。でかい。それなりの工夫を凝らして美しい、ということでフエに来たら、とりあえず参加するのがこのボートトリップ。ボートに乗ること自体は安い。2ドル。しかし、拝観料が高い。5万5千ドン。ベトナム人は例のごとく安い。5万5千ドンはドルに直すと4ドル弱。で、ドル払いだと、5ドルといわれるこの矛盾。外人さんがそれでけんかをしていた・・・・、何しろ、つい最近(1945)まで続いていた王朝なので、そんなに古い廟は無い。 まあ、ボートトリップは、お墓見学ツアーなのである。 結果を先に書いて悪いが、中国あちこちを見ている私にはやっぱりちっとも興奮することなく・・・だったのでした。 改めて、中国文化の力を見た思いがしたのでありました。 ★ ★ ★ ★ ★ ★
ホテルピックアップ、川のほとりより、ドラゴンボートに乗る。 客は、ハノイからの5人を入れて20人ほど。 のったとたんに、女船頭さん(親子三人で仕切っている)はみやげものをなら買えとアピールする. 客たちは冷淡である。 40分乗車で、フエのシンボルといわれる美しい塔をもつティエンムー寺。 ベトナムは大乗仏教の国である。 90%以上が仏教徒だという。 寺は観光地にはなっているが、今も祈りの場だからだろう、入場料は要らない。ただし、心ばかりのお布施はいるが。
塔は、大昔西安で見た大雁塔(たしか登った)に似ていた。 その後ろの本堂にいったらお釈迦さまがおられたので、靴を脱いで上がり 中国風の五体倒置で拝むと、見ていた坊さんが、鐘を鳴らしてくれた。 「ジャパニー?」と聞かれたので、はい。 少々喜捨。 ベトナムせんそうのときに、サイゴンまで抗議に行って焼身自殺をしたこの寺の住職さんが乗った車が展示してあった。 10時過ぎ、トウドイック廟にいく岸についた。岸から歩いて20分以上ということなので、歩くのは良いが、見学時間がなくなるので、ここは明日に車で行くことにしている。 基本的にはバイクタクシーで行くところなので、岸を上がると、バイクタクシーがよってくる。 いらない、明日車で行くから、と訳を言って断り、岸辺の村に向かった。 てくてく歩くこと5分。 村のいり口、祠に「神」と書いてあった。 ちょこっと、村の鎮守風だ。 村の道では子供が虫取りをして人懐こそうに寄ってくる。 村はお線香つくりの村。 あちこちの干してあった。 私を見ると、買えと線香の束を持って追いかけてくる子もいる。 オイ、学校は?と聞きたくなるが・・・彼らははだしだった。
やがて家の前で線香を作っている二人の女の子が居た。 みていると、やってみろと一人の子が席を空けてくれる・・えええ・・まあでは.意外と難しい。 もちもちとやわらかい線香の元(木っ端で作った粘土みたい)を板で伸ばし、そこに線香の芯になる竹の棒を入れる。それでまた板で上からこねる。しかし、均等に線香の元が付かないのだ。 むずかしーと、私が言うと、席を空けてくれた子がニコニコ笑った。 なんだか、ベトナム人好き、よい笑顔だ。 廟なんか見るより、こういうほうが楽しい。 彼女は、24歳、もう一人の子は16歳。この子、学校は終わったといってはいたが。 どちらの子も、年よりうんと若い。 30分がたちまちすぎて、そろそろ船に戻る時間だ。 さよならを言ってまた田舎道を歩き出す。 ローラーにのって道路を固めていたおじさんが、自分の隣をさしてまたしても笑顔で【乗るか?】と合図してくる。 ノウ、といいなが手を振る。 なんだか楽しいよね。
11時40分、船の中でご飯。 おかず2品に、焼きそば、ご飯。 それに席のそばに冷たい飲み物。(コレは有料) みんな、暑すぎてぎて食がすすまず(衛生状態を気にしているお方もいるようだったが・・・私は食べましたよ)飲み物だけを飲んでる人もいた。 その料金、1万ドン。高い・・町中で買ったらその半分。外人(私含む)は高すぎよ、という表情で請求された料金を払ったがハノイの人たちはけんかしてどうやら半分に負けたようだ。 外人組、マジに呆れ顔。 ねぎり勝ち、適正価格の無い国の面目躍如。
午後、ただ暑い、眠い。状態。 それでも、船が岸に着いたら、散歩や見学。 トイレに行きたいといったら、岸で飲み物を売っていた女の子に【オープンエアトイレ】に連れて行かれた。この辺の人たちの公衆トイレは、川のそばの大きな木のそばでした。 最後の見学場所はミンマン廟。 岸からジャングルの中を歩いて7分、幾重にもなった門をくぐり庭を眺め、お墓は、小高い丘の上。古墳状態である。 暑くて、せみの声だけが身にしみる。眠い。 ベトナム睡眠薬である空気は午後になると眠気を引き出す。 早くホテルに帰って、涼しい部屋でシエスタしたい、それのみが欲求となる。 3時半すぎ着。 みんなが上げるんだったらチップをと、ぽっけに用意していたんだが、誰もあげないので私もやめた。 やっぱり、飲み物1万ドンはぼりすぎ。それでハノイから来たベトナム人には言い負かされて半額というのも・・・みんながチップを出さないのはわかるなあ・・説明などもしないしね。 舟をこぎ、物を売りつけようとし、それだけの女船頭さんたちでした。 途中、スーパーによって、ビール、ヨーグルト、フエ名物のゴマ菓子を買って帰る。 ちょうど学校の下校時。 片や親のバイクに乗って買える子供、道路の向こう側には、物乞いをする子供・・・・
即、昼ね 夕方、郵便局まで行ってはがきを出して、これまたフエ名物のブンフォーフエ、という辛くて太いめんを食べに行った。
フエは、見物より、村中・街中をうろついていたほうが面白いかも、と感じた一日であった。
2003年04月15日(火) |
フエ第一日目 グエン朝王宮へ |
★フエについて★ ベトナム中央部に位置する。 ベトナム最後の王朝(1802年から1945年)の王都であった。 王宮、郊外に点在する寺院やフォーン川沿いにあるいくつかの皇帝廟が1993年に世界文化遺産に指定された町である。 お料理、お菓子に「フエ料理」「フエ味」があって、歴と伝統を感じさせる町ではあるが、もちろん、今は田舎の都市。時間の流れや人の暮らしぶりはサイゴンなどとはくらべもにならない「のんびり感」
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私が宿泊したビンズオン、というホテル、オーナー、奥さんは日本人とかで日本語がメチャウマらしい。また、ストリートチルドレンのための施設などもやっているんだとか。 オーナーには会えなかったが、受付にいるアルバイトの若者達がみな感じよい。 フエ大学の学生らしいが、英語はもちろん、日本語がすごくうまい女の子(昨日部屋に案内してくれた子、可愛い、横浜に恋人がいると照れていた)、もう一人、物静かだが、かなりうまい男の子がいる。 朝、その子がいたので訊かれるままに、私の予定を話した。 今日・・・王宮や町中見学(一人で) 明日・・・ボートトリップ(皇帝廟見学)参加 あさって・・・バイクタクシーに乗らないと行けない皇帝廟を一人でタクシーチャーターで回る(ホントは、ボートに乗って接岸したところで待っているバイクタクシーに乗れば行けるのだが、私はバイクタクシーには乗らないと決めているのでこういうメンドなことになる) その後ランコー村、ホイアンと移動する、その後、サイゴンに帰るが、そのエアの予約だけは今日しようとと思っていると話したら、その子(フスくん)が「ここでみんな予約できますよ」という。例のごとく、安ツアーはそんなに値段は違わないし、飛行機も、2ドル手数料で払ったら、やるという。 全部お願いすることにした。 エアは買いに行くので、お金が今いるが、後は、チェックアウトの時でいいとか。 へエー、こういうの初めて。たいてい先払いなのに。 すべて終わってフスくんがいう。 「あなたの日本語はわかりやすい、それで、敬語を使いますね、ここに来る日本人で敬語を使う人はめずらしいです」 褒められたあ? 私は自分も英語で苦戦するので、どんな風に話したら、その人がわかりやすいか考えて話しているだけだ。 「文を書くように、ゆっくりと正しい日本語を話す」 これが、日本語学習中という外国人と話すときの私の基本。 敬語は、ふだんでも、あんまりよくしらん人と話すときには使うし、これは私にとっては、めずらしいことではない。 「私は、大学を卒業したら、ベトナムにある日本の会社に勤めたいです。でも、敬語が使えないし、やばいかも知れません、ここにいても敬語の勉強にはなりません」 オオ、やばいなんて、日本語使うのかよ。 でも、若い人は、そもそも敬語はそう使わないし、、ましてやベトナムのホテルのバイトの子には、使わないだろう。 敬語は使えないと日本の企業では働くのは苦戦するかも、という見識はもしかして日本の若者よりすごい?かな。
大通り筋にある食堂で、バケット、オムレツと野菜少々、フルーツ、ドリンク付きの朝食を摂って(1万5千ドン・・約1ドル)、、次にまずはベトコムでお金つくり。 銀行を探していたらバイクタクシーの兄さんが寄ってきて乗れという。 乗らない、だけど、銀行を探している、といったら、笑いながら教えてくれて、 何と、私がでてくるまで待っていて、またまた勧誘。 乗らない!と私も、笑いながら頑固に繰り返すと仕方ないな、と笑いながら去っていった。(この辺が素直なベトナム人、エジプト人あたりだったら、怒ってののしるね) 銀行は、きれいなアオザイのおネエさんが両替の仕事をしていて、クーラーがガンガンきいていた。町中、後は高級ホテルのみがクーラー付きだ。 (私の部屋は、1泊10ドルでエアコン、付いているが) 銀行だけが立派な国というのは、だいたい問題(甚だしい貧富の差)を抱えている。ヨーロッパでは、ポルトガルとか、スペインがそうだった。
何回もバイクタクシーのおじさんや兄さんに声をかけられながら、その都度、立ち止まって笑いながら「歩くのが好きなんだよ」といって断り、フォーン川を渡り王宮へ。 フォーン川の上で、水質調査をしているおじさん二人にあった。 ヤクルトの空きビンみたいなヤツに水を汲み上げていた。 訊くとこの川も汚れている、と。 「汚れ」の意味がダイオキシンとかそういうことなのか、それとも生活汚水やゴミ(これ、けっこうすごい・・ゴミ収集のシステムができていないのに大量の石油系のゴミ・・ペットボトルがいい例だが・・が出ている)がすごいのかは不明だった。 王宮入場料外国人5万5千ドン。高いよね。 ベトナム人5千5百ドン。安いよね。
入り口となっている「午門」はすごく立派であった。 しかし、すべて内部は中国風。 故宮、ミニチュア版である。それも、すごくちっこい。 北京の故宮や天安門を見てしまっている私には、興奮しない世界遺産ではある。 何より、大和殿の裏、本来、美しい種物や庭があったと思われるあたりはベトナム戦争時に完全破壊されていて、荒れ地となっていて、はあ・・だった。 イラクでも、たくさんの世界遺産級の遺跡や遺物が破壊されたり略奪されたりしたが、そもそも米軍はそういう野蛮な人たちなのだ。日本の京都や奈良が破壊を免れたというのは、運がよかったとしかいいようがない。 栄枯盛衰、「荒城の月」の世界だった。 フエも午後になると暑い。昨夜からすずしくなったというが、むっとする。 市場見学後、川辺のオープンエアカフェでアイスのホワイトコーヒーを飲んだ。 ホテルに帰って昼寝。 夕方ご飯を食べにでてもどったら、入り口のソファに日本人のバックパッカーの集団が談笑している。 仲間に入った。 来たばかりというのは私だけで、みんなもう1ヶ月とか2ヶ月、3週間みたいな人ばかり。 男性ばかり、のーんびりしてほどけた感じの人ばかり。 ベトナムの睡眠薬入りの空気を吸い続けているとこうなるのかも知れない。
ベトナムのアイドル(フエ近辺)の、可愛い男性シンガーが、ファンの女子付きでかえってきたので、彼とファンの子たちとお写真撮影。(笑)
部屋のTVで、NHK衛星が入るので、ふだんは見ないTVをしっかり見てしまった夜。
★今日のすごい!★ フエ料理のレストランに行って、私は一人なんだし、量は少なくてよい、その代わり、料金を負けろ、と、ねぎりをかけてみた。 何と、値切れた、1万ドン。明日の朝食分。 ビール1本、牛肉と薬草春巻き、フエ風焼きめし・・4万2千ドンなり。 レストランで、値切ったのって初めてだ。 おばさん強し。
★ベトナムコーヒー・ベトナムティについて★ コーヒー原産国なのでコーヒーはよく飲まれている。 ホワイトコーヒー・・・カップやグラスにコンデンスミルクを2センチくらいしぼり入れてそこにベトナム独特の茶こしのようなコーヒー濃しで落とす。 アイスを頼むと、ガラスにコンデンスミルクとアイスロックを入れてきてそこにホットコーヒーを落とす。
ブラックコーヒー・・・これがふつうのコーヒー。アメリカンの対極にあるような濃いコーヒー。
コーヒー以上に経済的でよく飲まれるのは、ベトナムティーといわれるフラワーティ。ウーロン茶、ジャスミンティー系の味だが、ブレンドが店やうちごとに違うらしく飲む場所によって微妙に異なる。 料理を頼むトベトナムティは無料という店もある。 これ、うまかった。 5000ドンから6000ドンくらい、単品で頼むと。
2003年04月14日(月) |
列車で、古都フエへ 大怒り!! |
「ベトナムが大学院」くんが、5、6ドルしか違わないし、ファーストクラスがいいですよ、というもんで、そのように頼んでいたら、指定のコンパートメントにいて見ると、そこはセカンドクラス。 私、怒ったね。 ファーストクラスのお金を取って、くれたのが、セカンドって言うわけ?? 拙い英語で目の前にいた男女2人組に話す。 男は「自分は松山にいたことがある、日本人の知り合いはたくさんいる、あなたに申し訳ない」実に流ちょうな英語で申し訳なさそうに言った。 松山・・・おおお、だった。 聞けば、彼は、ハノイに行く妹を送りに来たんだとか。 そうか、カップルではなくて、兄妹だったのか。 車掌に話せと言うが、もちろんラチは開かない。 だって、正規のセカンドクラスのチケットなんだから。
★★ベトナムの列車セカンドクラス寝台とファーストクラス寝台のちがい★★ それは簡単、ファーストは寝台は2段で、1コンパートメント4人定員。ベットふかふか、シルクのブランケット、乗客はハイソ系。 セカンドは、3段寝台、ベッドは固くはないがふかふかではない。シーツなどはふつうの綿製。 「ベトナムが大学院」くんはさらに食事がつくというとったが、それはセカンドもついた。朝はなんとカップ麺だった、昼は2菜一汁、ご飯。デザートは一緒のコンパートメントのおばさんがライチをくれた。 でも、ま、ファーストは食事内容がもっといいのやも知れぬ。 ベトナムタイムがありそうな感じだが、列車は実に正確に運行されている。 車両の前後にかたや西洋式、かたや和式(いやベトナム式といいべきか)のトイレが付く。シベリア鉄道のようにサモワール(湯沸かし)もついている。 料金は、外国人料金がある。(昔、中国にもあったし、エジプトでは今もある) ベトナム人の10倍近いのではないか。(これはチェックしなかった) しかし、入館料などはちょうど10倍だし、そうまちがった目安でないと思う。
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切符は乗ると車掌に預け、おりるときに回収される。証拠がない。私がセカンドクラスに乗っていた、ということを書いてサインをしろと車掌に迫ったが、私のチケットにあった切符の値段は彼が自筆で渋々と書いてくれたが、いくらしつこく迫ってもついにサインはしなかった。 曰く「それは自分の仕事ではない」 どこも同じや役人根性。 でも、それじゃ、サイゴンに帰ってお金が取り返せない、私がごねているとでてきたのが同じコンパートメントのお兄さん。 彼に、アンタは私と同じコンパートメントなんだから、私のチケットの値段、わたしはここにいたことを書いてサインしろとまた迫った。 彼、さんざんいやがっていたが、渋々、ついに値段と今日の日付を書いて、自分の名前をサインした。 やった。 ベトナムの男は優しいね。 これで、サイゴンに帰ったときに「闘う」準備ができたというモノだ。 たった5ドル、6ドルとはいえ、ベトナムでは3回ご飯が食べられる、ビール付きで。それと、私は世界各地の現地旅行社で切符やチケットを手配するが、ここまで悲惨なことをやってくれたのはベトナムはホーチミンのTNKトラベルだけだ。 きぶんがよくないのだ、きぶんよくなるために「闘う」 私の怒りが終わって(気分は良くないが)次は、車掌氏隣りのコンパートメントの中国人に「冷房がきかない」とどなられていた。 そのオッさん、通路で私がふくれ面で車掌を待っていると「おまえんとこも冷房が効かないのか」といったお人。 冷房じゃない、騙されたんだ、私は1等のお金を払ったのだ、といったらさすが中国人、興味を示して来た。で、私は、チョーへたくそな中国語を少しだけ交えながら話したら、受けてしまって「ヨシ、いよいよ困ったら、助けてやる」とかいったオッさん。しかし、私が下手な英語で苦戦している間、彼はでてこなかった。 君子危うきに近寄らず?? しかし、北京から来たと言っていたし、あんまりお近づきにはならない方がよいかも。 彼らも、なにしろ中国人、しつこい、車両を変えろ、とか空いてるところに変えろ、とかかなり粘っていた・・が、私はその後すぐに寝てしまって知らない。 ・・次の日、同じコンパートメントから出てきたし、彼が折れたのか?・・・
朝。 コンパートメントのメンバーは、優しいお兄さん、おじさん、おばあさんに近いおばさん、ハノイに行く「妹」さん、おネエさん系のおばさん、私。 何しろ、乗ったそうそう、ケンカをやらかしたので、同じコンパートメントの人は、ジトジトという感じで私を眺めていた感じ。 しかし、カップ麺をつくってくれたり、お茶を分けてくれたり、デザートのライチを恵んでくれたりと右も左も分からぬ日本人に何かとご親切ではあった。
窓の外は、延々と田園地帯。水田、あるいはまた森である。 ホーチミンの大都会ぶりからは想像できない、のどやかな景色である。 そんな景色を見ながら「事件」が起こった。 私の前に座っていたおばあさんに近いおばさんが、バックから封筒を取り出してなにやら訴えてオエンオエン泣きながら話し始めたのだ。 私以外のみんなはフムフムと聞く。おじさんだけが、時々口を挟んでちょこっとあきれたように笑うが後の人たちは真剣だ。 どうしたんだあ?? 私は兄ちゃんが英語は流ちょうだったし、「妹」に聞いたが彼女ただ首を傾げるだけ。(後で判明、彼女の英語力は日本の中1くらい。何だか、複雑なわけのあるおばさんの事情を説明できるわけがない、上の兄さんもこの事情が説明できるほど達者ではないらしく沈黙) しかし、あんまり悲しそうなので、私は前のおばさんの膝に手を伸ばして、なだめるように、慰めるようにたたいた。 おばさん、しきりにうなずいて、ありがとう、という感じで眼をぬぐう。 でもなかなか泣きやまないので、私はついに、そばにいって背中をなでて、肩もみをしてやった。おばさんは、はにかみながらも、嬉しそうで、私もよかったよかった、という気分になったのだった。 (ベトナム人も肩もみ、手もみ好きである・・これ、数日の観察で判明したいたこと) 私はついに最後までおばさん何で泣いているのか理解できなかったが、これを境におばさんをはじめとした同じコンパートメントの人たちがやたらにさらに親切になった。 ダナンでは、停車が20分近くあったのだが、おばさんと「妹」に連れられておりて、「妹」にゆでとうもろこしをごちそうになり、ダナン名物の大理石置物までいただいてしまった。 「マイ・メモリアル」という言葉ともに。 (これ、今、うちのストーンコレクションにはいっている)
フエ着、16時44分。 私がおりるとき、みんな手をふってくれた。 「妹」はおりるときまで、私の手をしっかり握りしめていてくれた。 そんで、おりる前、4時過ぎに「夕ご飯」が来たんだけど、おじさんが「こいつの分はないのか」と配膳員に訊いてくれた。もちろん、すぐにおりるヤツに夕食は支給されない。 荷物を背負っておばさんの肩を抱きしめて「どんなわけがあるかシランけど、もう泣いちゃいけませんよ」と、日本語で言うと上にいたお兄さんが英語で「彼女はもう泣かないよ」といってくれた。 一期一会。名残惜しい、よい別れだった。 瓢箪から駒、二等寝台もよかったぞ、と思ったことだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ フエの宿は、日本人ご用足しのような「ビンズオン」。 しかし、またまた、タクシートラブル。 知っていると言ったのに、同じところをぐるぐる回ってくれたもんだ。 おりるときにケンカして、同じ所を3回回ったから6000ドンは払わない、といってやった。 で、3万ドンだけ、おいておりてやった。金額の過多ではなく、やり方が気にくわない。だって、ほかのホテルの客引きにわざと声をかけてそいつ、うちの方がいいよ、と危うくそっちに行きそうになったんだから・・まったく。 トルコなんかじゃ「ノウ」がいえない日本人がこれで、拉致されるように予約とは違うホテルにつれて行かれる。 わたしは予約はないけど「ベトナムが大学院」くんがここはみんないいと言ってますよ、というので決めたホテル、妥協なんてできない。
ヤレヤレ、いろいろとありましたが、17時間近くかけてフエへ。 町の風情ものどかに田舎っぽくなった。
★メモ 1ドル=約1万5000ドン★
2003年04月13日(日) |
メコンデルタ 2日目 |
ベトナムの朝は早い。 7時半発。 7時前に下におりて朝ご飯。 昨夜はファンのみの部屋、暑かった、風もあったが・・・ お金を追加すればACつきの部屋もありだったのだが、誰もリクエストしないし、日本人が一人で・・なんて思われるのがいやで、おとなしく2人シェア、ファン付きにしたがったのだが、メコンデルタの暑さを実感した感じ。 アリスンとも仲良くなれたし、よかった。
今日は朝早くから開かれているカントーの水上マーケット見学。 昨夜の宴会のおかげでみんなけっこう仲良くなってバスの中はいい感じだ。 今日は、きのうよりさらに小さい細い舟に乗った。 朝の川風が爽やかだ。 水上で作物を満載した舟が集まる。 舟には、長いさおに、タマネギやキャベツなど、自分の舟が取り引きできる野菜を、掲げて目印としている。そこに仲買の舟が近づいていって、売り買いをする。 以前タイの水上マーケットにもいったが全然雰囲気が違う。 ここで取り引きされるモノが、サイゴン(ホーチミン)の市場にも並ぶという話だ。 それにしても、大きな舟の間を小さな手こぎ舟で、食べ物や飲み物を商う舟が行きかう。こんな所にも、バケットを売る舟がある。 横道だが、かつて仏領だったベトナム、バケットは朝ご飯だ。 しかし、日本のフランパンを想像して欲しくない。 空気を焼きこめた感じで、グッとつぶすと3/1ほどの量になる。 トルコバケットとよく似ている。 見物しながらも日差しが強くなり、川風は気持ちよく、睡眠薬の混じったベトナムの空気は濃厚になり・・・・目を開けながら眠ったように過ぎてしまった午前の時間だったのだ。
昼、カントーのレストランへ。 好きなモノを頼み各自で精算なので名物の「カインチュア」を頼んだ。実だくさんのブラックタイガーの入ったスープ。(これ、蛇入りもある) 台所につれて行かれて、生きている蛇、雷魚のような魚、エビ、どれがいいか選べ、といわれた。 暑くて、からくて甘酸っぱい不思議な味。 メコンをスープにするとこんな味、みたいな感じで美味しかった。
帰り、大ドジを踏んだ。 よそ見していてつまずいて転んだ。 手に傷。 汚いベトナム、一瞬「どんなばい菌が入った?」と真っ青になった。 参加していたベトナム人のおばさんが薬(タイガーバームの水薬)を下さって、ホッ。 最後、ドイツ人の女性2人が幹事となって、ガイド氏にチップを一人1万ドンずつ集めて、贈呈した。 彼女達とは、少し話した。 経済のこと。 「自分たちの国もよくないが日本もよくない、でも、休暇は取れる。自分たちには、日本から留学してきていたミチコという友だちがいて、ベトナムを一緒に旅しないか、とさそったが休暇が取れないと断られた。彼女はいつも忙しくしているのに・・・」 「日本は、休みすぎると職をうしなう、職を失うことでたくさんの男性が自殺している」 などという話。 ドイツ人二人、職を失うことで「自殺」するという話にただただびっくりしていた。
メコンデルタの旅、そこで暮らす人たちの素顔のたくましさ、その悠々たる暮らしぶりじっくりと拝見した。 アメリカは大変な人たちを相手に戦争をしたのである。 昨日書き忘れたが、昨日のガイド氏、カンさんは「イラク戦争は第2にベトナム戦争だよ」といってはばからなかった。
夜、フエ行きのナイト トレインに乗る。
今日は、ホテルをチェックアウトしてメコンデルタ1泊のショートトリップだ。ツアー費用、15ドル。バス、ガイド料、ホテル1泊付き、朝ご飯、1回、昼ご飯1回付きだ。 今日は、7時45分約束のバスが来たのが8時半。 なにやら手違いがあった(ポリスに止められた、とかれらは言うが・・どうだか)ガイドのテンさん、言い訳をして謝るが。 バスは、はっきり言ってけっこうボロイ。それで、お客はメコンデルタ日帰りも入れて25人ほど。日本人はいない。 テン氏の英語は昨日より聞き易し。 面白かった話は「ベトナム人は色が白い人がお好き」というヤツ。 女の子は、絶対に素肌がでない、手袋、例のベトナム笠か帽子をかぶっている。色のシロイは七難隠す、らしい。男も同様で色が白いとデスクワークをしている人、で収入もよい、ということになるらしい。といでの、ホンダのモーターバイクを持っていると、女の子もデートに誘いやすい、もてるんだとか。 (でも、このバイクはホンダチャイナで製造しているしているヤツ、200ドルから300ドルで買えるらしい、ホーチミンで働く人の給料は100ドルくらいと漏れ聞いたし、月給の数ヶ月分である)
★メコンデルタ ミニ知識 ★ 中国山岳に源流を発し、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムととうとうと流れ下るメコン川。河口にあるベトナムには、メコンデルタといわれる、広大なデルタ地帯、豊饒な土地が広がる。あらゆる作物がとれ、魚が捕れる。 この地域の人々はメコン川と共に暮らす。メコンはまさにサイゴンをはじめとしたベトナム大都市の台所でもある。 名物は、メコンクルーズ。水上市場見学。
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1時間ほど走ったバスが着いたのは、メコン川の支流のボート乗り場だ。 茶色く濁った川に子どもたちが飛び込んで無邪気に遊んで、観光客に手を振る。 住血吸虫がいるはずだが、生まれたときからこの川で遊んでいるに等しい子どもたちは大丈夫なのだろうか。(この後も、泳いだり、している子どもをたくさん見た) 10数人も乗ればいっぱいの「柳葉舟」に、体重のバランスを取りながら乗り込む。2台に分乗だ。かろうじて、エンジンは着いているが手で舵を取る。 支流から広い流れにでると、川風が気持ちよい。 生活の道具をすべてのでたさまざまな舟が行き交う。 細くて小柄な女性が巧みに舵を取り、野菜を満載して舟をこいでいたりする。 興味は尽きない。 両はじは、ヤシや巨大ヨシ風葉がしげるジャングル。しかし、中に人家がある。というのも、テレビのアンテナがジャングルの上に大きなトンボが飛ぶように突き出ているからだ。 やがてミトーのマーケットへ。 マーケットはすごい量の果物、野菜、肉、魚・・・・ 暑いので芳香、異臭、腐臭、食べ物からあらゆる匂いが放たれている。 売る人たちはしかし、何だかのんびりしていて、顔を見ると人なつこい。 要らない?とい顔をするが笑顔がいい感じだ。 魚マーケットで、おばさんが見ている前で、生きているカエルをさばいて見せてくれた。すごい早業・・アッと言う間にアカムケ食用カエル肉となっていった。
12時、またボートで、クイ島という、メコン川の島のひとつに上陸。 農村レストランという感じの屋外でやきそばと果物のランチ。 木陰なのだがとにかく暑い。汗だらだら。 クーラー・・・もちろん ありませぬ。 みんな、げんなりしている。 午後、今度はジャングルの中のはちみつ園へ。 はちみつティを飲むも、ここには巨大にしき蛇がいて、蛇嫌いとしては、一番遠くにつってあったハンモックで昼寝のふり、死んだふりしていた。 しかし、外人どもは首に巻いたり、だっこしたりして遊んでいた。(ゲエー)
次は、ココナツキャンデーファクトリー。 といっても、素朴な道具で、しこしこと家族で造っている工場だ。 この工場、ベトコンの兵器手作業製造の世界だね。 キャンデーなかなかうまし。 ひとつ食べるとくせになる味だ。 帰るのが近かったら、お土産にするのだが、まあ、ホーチミンに帰って、帰る前にどっかにあるだろうし探してみよう。 おかしいのは、包装紙につくっている可愛い女の子の写真が印刷してあることだ。 製造者の顔が分かるしくみなんだわ。 ちなみに、ココナツキャンデーファクトリーはジャングルのあちこちにあって、少しずつ味が異なるらしい。
夜。 カントーという、メコンデルタ沿いの都市で宿泊。 2部屋シェア、ということでわたしはアリスンというオーストラリア人と同室。 「彼女は、OKだけど、彼女はスモーカーだ、わたしはノンスモカーだ、それが問題だ」と、ガイド氏にいったら、最初意味が分からないと言う顔をした。 すかさずアリスンが「わたし、部屋では吸わないわ」 で、決着。 夕食は、アリスンをはじめとした、やはりオーストラリアから来た夫婦、ドイツ人女性2人、中国人男性などと一緒に食べにでて楽しかった。 こういう、外人だらけのツアーもたのしい。
部屋で、蚊帳がベッドの後ろにセットしてあって、それを出してベッドに張るとまるでキャンプをしているよう。おもろい。 これは、暑いが初めて体験、フーンであった。
アリスンは気を遣うよい人であった。 ホーチミンで、英語教師をしているのだということだった。 「ホイアンにいったら、是非お洋服をオーダーしなさいね、2着つくって78ドルだった」 というアリスンの話は、ホイアンに行く予定のわたしは情報としてインプット。
2003年04月11日(金) |
クチトンネルと戦争ミュージアム |
昨夜遅く、クチトンネルとカオダイツアーが、クチだけになったと(カオダイに行きたい人がいない)電話が来た。同じ4ドルのツアーなのに、そりゃないよと思った仕方なし。それだったら、ほかのカフェのツアーっていうのもあったのよね、などと独り言。 で、ピックアップタイムはホテル8時15分、8時過ぎに部屋を出て待つも、来ない、来たのは、8時半。 「遅い」と文句を言ったら、ガイドのおじさん、「10分だろ」。 そうか、ベトナム時間があるのね。 TNKトラベルは、日本人客に今後力を入れたいらしいが、この時間感覚だとダメだね。と、あの「ベトナムが大学院」の子に言っておこうではないか。
★★ ここで クチトンネルとカオダイの説明を少々 ★★
クチトンネル ホーチミン市から70キロに地下トンネルがある。ベトナム戦争当時、この辺りにベトコンの基地が置かれ「鐵の三角地帯」と言われていた。 米軍は、空爆と枯れ葉剤の投下を繰り返したが、ベトコンは地下に潜ってゲリラ戦を展開した。 総計250キロに渡る手掘りのトンネルや作戦本部は今も残っていて、それが観光名所となっているのである。
カオダイ カオダイ教という、ベトナム独特の新興宗教がある。 タイニンという、ほとんど国境近くにある町に本部がある。 シンボルマークは強大な眼。仏教、キリスト教、イスラム教、儒教等々のいいとこどりをした宗教で、昼の礼拝を見学できるのだ。 今回は行かなかった。(ベトナム最終日に訪ねたので、その時にまたくわしく)
★ ★ ★ ★ ★ ★
ツアーバスのメンバーは、スイス人夫婦、オーストラリアとイギリスからの女の子各一人。そしてわたし。 ガイドは、かなり年配のカンさんという男性。 彼の英語は何だか、フランスなまりっぽくて、聞きずらい。 要するに、3,6,8メートルの地下に3層構造でトンネルがあってそれは脱出路としてサイゴン川にもつながっている。 初めて地下トンネルができたのは、1940年代、抗仏戦争のとき。それが上のフロア。 200キロから250キロはあった。とても狭くてすべて手で掘った。 集中して聞いて、アタマで翻訳しているとすごく疲れる・・後ろでは、イギリス人の女の子が、気持ちよさげに寝ている。 ベトナムの空気は集中を妨げる・・で、外を眺める。 そうすると、カンさんの口から流れる英語は、ぜーんぜんわかんなくなる。
外の様子もこれまたすごい。 ちょうど通勤タイム。バイクの波がとうとうと流れてくる。 もちろん、その流れに、なん彼らを追い越そうとする車も入っていて。車から見ていると、バイクの波の右折・左折はまるで曲芸のようである。
10時過ぎについたが、スモーカーがおおかったので途中で休憩。 周囲の林は漆の栽培林。カンさんによると、すべて戦争後の木だという。 それは、そうだろう。 枯れ葉剤で裸になったのだから。 それにしても、ベトナムの空気は眠い。 イギリス人の女の子は、タバコを1本吸うと、またイスにねっころがって寝入っている。 空気に、睡眠薬が混じっているんじゃないかと思うが・・・・
クチトンネル入場料5ドル。ドンの持ち合わせが少なかったのでドルで払った。 ホテルなどでは、ドル払いのみだし、なんでも、ドル換算で支払うことができる。 戦争にゃかったが、ドルに経済は支配されているのは皮肉な話ではある。 クチトンネルは、ジャングルに残っているトンエルや施設を見る前にビデオを見せられた。なんと、1967年製。トンネルを掘ったり武器をつくりながらベトコンさん達はドキュメンタリービデオもつくっていたのである。びっくり。 ビデオを見ると、実に楽しそうに武器つくりの仕事をしている。
次にいよいよ森(ジャングル)にはいる。 カンさんによると、この辺は、枯れ葉剤で裸になったので、その後に大きくなった木だという。大人なの太ももほどの太さの木もあって、成長ぶりというか、戦争からの時間を感じた。(べトナム戦争・・米軍の本格介入60年から75年) 最初に枯れ葉に隠された秘密の通路を見た。すごく狭くて細い人が一人とおるだけの感じ。爆弾が落ちたクレーターもあちこちに残る。 わなのしかけを見た。 実に単純。踏むとくるりとひっくりかえって、竹やりがぐさり。こんな発想のモノが多かった。 近代武器を粋を集めて進軍した米軍がこんなあっけない獣をねらうようなしかけに悩まされたというのがおかしいが、事実、それらによって彼らは負けたのだ。 「彼ら(ベトコン)は土から、泥の中からでてくる」 という米兵の台詞をどっかで読んだ記憶があるが、ここを見ているとそれがうなずける。 最後は、ほんとにせまいトンネルをくぐっておしまい。 狭いし天井がひくくて、まるで穴禅定のような・・・トンネルの中でそんなことをかんがえた。 クレーターのそばにあった、木にカシュウナッツがなっていた。 ピーマンのような実がなってそのさきに実が付いている。
午後から町に帰って、戦争ミュージアムに行った。 沢田教一さんの写真もあった。 米軍がのこしていったでかい戦車や爆弾を見ると改めてベトコンの手作り爆弾や鉄砲で勝ったということに、しみじみする。 ベトナム戦争は、全土で、400万人の人が死んだという、それもまた記録を見るとうなずける。 悲しいのは、枯れ葉剤の影響で今の奇形児の子がたくさん産まれているという事実。ダイオキシンの恐怖は何時までも尾を引いている。 それから、拷問道具のすごさよ。 わたしは行こうと思っていた、フーコック島はかつての拷問島、今はリゾートアイランドだけれど・・・行くのを止めた。 米軍の罪は深い。 そして、米軍は「あやちはくりかえしません」ではなくて「次は負けません」という反省で、軍費をつぎ込んだのだ。 それは、その後の湾岸や今回のイラク戦争を見るとよく分かる。 マジにいやな国だ。 中庭のイスで休もうと外に出たら日当たりばかり。 そうしたら、日陰に座っていた女学生のグループが手招きして、席を空けてくれた。行くと英語でいろいろと質問された。 どこから、何時来たのか、。ここの感想は?・・・等々。 経済大学の社会学の実習なんだという。 女の子たち感じがよかった。 その後、日本語を勉強してます、の女の子が話しかけてきて、「練習台」になってしまった。この子もまた、奥ゆかしげなよい子だった。 ベトナムの女の子、なかなかよいぞ。
とりあえずはベトナム戦争は避けて通れないと思っていたのだが、疲れた一日だった。そしていろいろ考えさせられた日だった。
2003年04月10日(木) |
ベトナム atホーチミンシティ |
昨夜は、十時半過ぎについて、ホテルまでのタクシーが心配だったが、「メーターで行け」「メーターで行くのに乗る」と叫び散らして、行くという男の人相をしっかりと観察して成功。ぼられませんでしたね。よかった、よかった。 ベトナムのタクシードライバーは、アンタのには乗らないと言うと、意外とあっさりと引き下がるのである・・これってわたしがしたたかになったってことかい? 空港や駅をでると、タクシードライバーが回りを囲むという国をいくつ通過したかの問題かな・・・・
今日はそんなわけで二日目。8時には起きて朝食へ。 1泊3000円ほどのホテルだが、一応、ホーチミンシティの高級ホテル街にあり、室内の整備や備品も、日本のビジネスホテルよりずっといい。 朝食も、お粥からホーといわれるベトナムメンまであるバイキング。 お粥がうまかったわいさ。 9時、ボチボチと出発。 ホテルのレセプションで一緒になったお客は中国人。どうやら、北京から見たい、だって同行者と中国語、それも北京人独特の巻き舌系で話していたし、一瞬SARSを思い出して、緊張した。 昨日の飛行機の中じゃ、スッチーさんがにこやかに恭しくお盆にマスクを乗せて「マスクはいかがですか」とやっていたもんね。不気味だった。 成田発の北京行きは乗客20人ほどであった。 もちろん、わたしが乗ったベトナム行きも50人ほどのお客さまで、ねっころがっていたが。
外は暑い、おまけに、でたとたんにシクロタクシーやバイクタクシーのおっさんたちがどやどやと寄ってきて声をかけてくる。 「いらない、あるく」 と追い散らしながらも、道を彼らに聞くと正直に教えてくれる。 タイみたい、手強くないなあ。 地図をみいみい、進む。 バイクタクシーはベトナム独特のタクシーだ。 バイクの後ろに人を乗せていくら、というヤツである。 事故が怖いし絶対乗らないつもりである。 シクロは、自転車タクシー。値段でもめることは分かり切っているのでこれまた乗らない。昔インドに行ったときに、大変だった。 地図を見る限りでは、わたしの目指す、デタムストリート(安宿街で旅行社が並んでいる)はあちこち町中を見学しながら徒歩でいけそうなのだ。 とりあえず、外国の町の第一日目は歩き倒すに限る。
道は時々信号があるが、とにかくすごい勢いで車が走りたくさんのバイクが洪水のように走り、自転車も間を縫い、その間を泳ぐように人が渡り・・で、信号慣れしている日本人には怖い道だ。 で、わたし、できるだけ、ベトナム人が渡るのと一緒に渡る。 中国でも、同じような状況で、中国人を「楯」にして横断していたのを思い出して、ここではベトナム人に「楯」になっていただきましたわ。 それにしても、すさまじいエネルギーだ。 排気ガスがすごいので、マスクをしている人が目立つ。 女性は、長い手袋もしている。 あれはお遍路に役立ちそうだ・・なんて見ているわたしって・・なんなんでしょうか。 途中の市場で、「サイゴン」と書いたTシャツを値切り倒して1ドル半ほどで買って(明日から着るのだ) ちなみにサイゴンは、ホーチミンシティのもう一つの名前だ。 昔はサイゴンだった、この町は。 ベトナム戦争後、解放・建国の父「ホーチミン」の名を残すために改名したのだ。 11時少し前にデタムストリートに着いた。 外人(白人系)旅行者が目立つ。 小さな旅行社も目立つ。
で、★今日の予定
・クチトンエル・カオダイツアーの申し込み ・メコンデルタツアーの申し込み ・フエまでの夜行列車を取る
これらをして、町の方向や様子を知ったら「本日クリア」だ。 安い旅行社としては大手のシンカフェに行こうとしていたら、TNKトラベルという旅行社のオフィスに日本人の男の子がいたので、「こんにちは」と寄っていってしままった。 彼は、タイからカンボジア経由できた子、はなしていたら、感じいい。 「カンボジアって、そんなにちかいの」 「近いですよ、今ボートでもプノンペンに入れますよ」 「ボートで?」 で、受付にいた女の子にいろいろと聞いたら、飛行機だと325ドルほどで2泊3日のカンボジア・アンコールワットツアーが可能だという。ついでに戻るビザも取ってくれるとか。 旅程を変えようかな、と思ってしまった。 考える、と窓口の子に言ってイスに戻ってきたら、さっきの男の子が「よかったらカンボジアのガイドブックみますか」といってくれるではないか。 「ありがとう、見たい」 もちろん、カンボジアのお目当てはアンコールワットである。それと、メコンのピンクカワイルカ。 研究した結果、いくとなれば両方可能だと判明した。 ウーン、どうしょうか。 ベトナム戦争の遺跡は行くとして、あとはメコンデルタ、フエとかホイアンといった、世界文化遺産を回ろうかな・・とおぼろげながらの計画はあるにはあるのだが・・・ 30分ばかりガイドブックを見てやっぱりやめにした。 今回はやはりベトナムのみ。 もっとゆとりを持って、行く前に十分楽しんでからアンコールワットは行きたいという結論に達したのだ。 急に行くとなると、「行く前の楽しみ」がふいになる、それがくやしい。 「やはり、カンボジアは次回、ジャングルクルーズで国境越えがいいよね」といってガイドブックを男の子にお返しした。 「ここ、夕方になると、日本人の子がいるんですよ、なんか国営のツーリストに務めているんだけど、夕方から夜はここでボランティアしているんだという話です」 などといっていたら、そこにその子が来た。 kクンという子。 目にややケンがあるがはきはきしたよい子である。 「ぼくはベトナムを大学院にすることにしたんです」 ほお・・・ 「ここは、2000年に始めたばかりの会社で、みんなでもうけてみんなで幸せになろうというオーナーの考えがぼくは好きなんで、手伝っているんです」 ほうほう。 「じゃ、ここでわたしのツアーを頼もうか」と言うことで。決まった。 予約の後、カンボジアのガイドブックを見せてくれた男の子にお礼よと、ベトナムが大学院という男の子ご推薦のベジタリアン食堂でお昼ご飯をごちそうした。 といっても、二人で2万5千ドン(2ドル弱)である。これで、コーヒーとベトナムティー、春巻き、チャーハン、フー(ベトナム麺)のメニュー。お腹は一杯だ。 カンボジアガイドブックの子は、昼の列車でハノイに行く。 手持ちのマスクをあげた。
昼3時過ぎに、違う道をぶらぶらと帰る。 ホテルの近くでビールとコーラ、冷たいお水を買い込む。 シャワーを浴びて、ビールを飲んでお昼寝。 夕方、目が覚めたら空にコウモリがたくさん飛んでいた。 都会なのに「鳥度」が高いなあ・・・不思議。
2003年04月09日(水) |
Go!Go! ベトナム |
朝、4時おきをして荷物準備完璧化。 しかし、衣類の袋と、病気対策の袋の大きさがほぼ同じ。これはやはり異常事態ではある。 手荷物のみで入れるように、ザックひとつに詰めたが・・・
昼過ぎにでてうちをでて、成田夕6時発ベトナムには夜10時半頃着。 時差−2時間。 帰国予定、24日早朝成田着。 ほんの2週間である。 1都市に時には3泊はしてしまう私、あんまりいろいろといけんのう。 ま、いいか。 ただいま、朝8時半。 出かける前の残務へ戻る。
では、みなさん、しばらくは更新ありません。 ご心配して下さったみなさんに心から感謝して出発します。 ほどほどの宿に泊まり、ほどほどのモノを食べて、事故にも注意を払い・・・気をつけて旅しますね。
2003年04月08日(火) |
いろいろ準備はしたが・・・ |
昨夜遅くなって、以下のようなメールが来た。 びっくり仰天!! なんで、私がアダルトサイトにアクセスなのよ???? ざけんじゃない!!!! すぐに、所轄の警察に電話した。 そうしたら、 「以前はダイレクトメールのような形で来ることが多かった」のだという。 今は、メールで来るのだとか。 もちろん、払う必要なし、無視して下さいとのことだった。 家族でPCを共有している場合、もしかして(息子あるいは夫)が見たのかしら・・と振り込む人もいるらしい、それがねらいなのだとか。 「正式の抗議しても、その電話やfaxが使われているかどうかは分からないし、間違えましたといわれればおしまいなのだという。 さらに 自宅まで来るとかって、書いてあるけど・・・怖いと言ったら「今までその手のヤツでそう書いてあって実際に来た話は聞いたことがないですよ、だからまずは大丈夫です、もし来たら、即110番して下さい」 明日からいないので不安だし、以前ピッキング盗にはいられているのでさらに心配と言ったら「では巡回パトロールを強化してもらいましょう、最寄り交番に行って頼んで下さい」 で、嵐の中、今日の午後たのみにいった。 丁度、うちの地区担当のポリスがいて、はいでは時々行きましょうと、爽やかに答えてくれた。 みなさん、そういうことです。 おかしなメールに引っかからないようにしましょうね。 半年ほど前、メールアドレスをネットサイトから収集するソフトを買いませんかのDMがよく来ていた。値段は5000円ほど。多分そういうのを使って集められたのだと思う、くやしい。 メルアドを変える方がよいのかどうか思案してしまう。
いよいよ、明日出かける。 今日「キレイ キレイ」の除菌ぬれテッシュ、薬用石けん、うがい薬、目薬、ファンケルのビタミンC、風よけサポート(免疫力を高める)、葛根湯など考えられる限りを買い集めてきた。 これくらいしか、出来ないけど、まあ行ってみてやばそうだったら、南のリゾートアイランドで、極楽時間を決めこもうと思う。 そうそう、ミッチー先生からもいろいろと心強そうなお薬頂いているし・・お祈りして下さると言うし・・
でもま、ホーチミン3泊以外、なあんにも予定入れてないからなんでもできる状態だ。 これから、本格的に荷物つくり。(なんにもしてない) でも、2週間ほどの旅は、機内持ち込み程度でいい。 欧州を旅していると、私の荷物の少なさに感動されることがよくある。 Tシャツとかは、向こうで少し買って着るという感じで、そういう楽しみ方をしたい。
・・・・・・これが困ったメール・・・・・・・・・・・・・・・・・ 《大至急御連絡致します》
この度は当時あなた様が使用されたプロバイダー及び 電話回線から接続されたアダルトサイト利用料金について 運営業者より未納利用料金に関する債権譲渡を受けました。
あなた様の個人情報に基づき 私共がアダルトサイト未納利用料金の回収作業を 代行させて頂く事になりましたので御連絡させて頂きます。 現在は上記に記載のアダルトサイト利用料金が 未納となってますので遅延損害金及び回収代行手数料も含めて 4月9日(水)午後3時までの振り込みを 御支払い期限として下記に記載の指定口座まで 御入金して頂くよう御願い申し上げます。
合計お支払い金額:25670円 運営業者: Pink−Com 未納利用料金:15800円 遅延損害金: 3950円 回収代行手数料: 5920円
【振込先口座】========================= 三井住友銀行:新宿西口支店 口座番号:普)8534785 口座名義:アオヤマ ミドリ ===================================== コンビニからでも振り込み可能です。 振り込みの際には必ず回収整理番号を 名前の前に御入力して下さい。
速やかに御入金して頂けない場合は あなた様の登録情報および個人情報を含めて 私共から各地域の債権関連業者及び 最寄りの関連事務所へ債権譲渡を致しますので 最終的に集金専門担当員を御自宅などに 訪問をさせて頂きます。 その際には上記の合計支払額に 交通費と人件費を加算して 約10倍の請求させて頂く場合が御座いますので お忘れなく必ず御入金して下さい。 ................................................ (株)DATA.OFFICE 東京都新宿区 歌舞伎町3−16−8−5F 代表:青山 みどり 債権DATA管理部 TEL:03-3911-0392 FAX:03-3911-0791 担当:近藤 祐二
2003年04月07日(月) |
ふつうの日常に涙が出そう・・・ |
猫が、駅前のビルの下に2匹丸くなっている。 それを世話する若い女性。 勤め帰りのおばさんがふっと戻って、ポストに葉書を落とす。 電車から降りて、ヤレヤレとタバコに火をつける男性。 みんな何気げな光景だけど、イラクのことを考えると、貴重な涙が出るような、ふつうの景色だ。 民間人が今やたくさん死んでいる。 戦争が終わっても、世界は不安定になるだろう。 イラクでは、もっと、大変なことになるかもしれない。 戦争が始まったばかりの頃、オランダのミエコが「終わりの始まり」かも知れないと書いてきたけど、惨状を見るにつけ、そんな気がしてくる。
うちに帰って、新聞をしっかり読んだり、ネットの記事を読むと、どうにも明るくなれないなあ。。。 ベトナム行き、今日もひきつづき、いろいろな方から心配を頂いている。 ありがとうです。 でも、いまんところ、心境変化はありません。 行きます。
昨日のシンポは、串間さんからは有意義なお話が、黒田・早坂先生からは興味深いお話が聞けたと思う。 ただ、黒田先生の「移動者(旅人・遍路)と定住者の関係がしっかりとできてからいろいろと見えるようになった」という言葉をヒントとして「「お四国お接待文化」についてもっと触れられたのに時間切れとなってしまったことが残念だだった。
夜は、学生時代の友人宅へ。 友人夫婦と大きくなったお子さん2りを交えて夜中3時近くまでおしゃべりしていた。 これは、チョー楽しかった。
そして今日は、姫路のdさん、iさんとともに石倉の山中にある「鶏足寺」の観音祭りへ行った。 斑鳩寺のご住職さんの勤行のあと、地元の方々と青空の下、ござをしいて手作りのごちそうを頂いた。 すてきな観音日和であった。 これまた、とても楽しかった。 いつの間にか姫路にたくさんのお知り合いができた。 幸せである。
10時半過ぎに帰着。 新幹線が少し遅れた。
ホントにベトナム行くのメールや電話をいただいている。 心配して下さっている方々ありがとうございます。 とりあえず、行くつもりでいます。 気をつけたいと思っています。 感染者がでているハノイには行かないです。
2003年04月04日(金) |
いそがしい・・みたい |
シンポが終わって、その後のことやらねばならぬことを書き出したらぎょうさんあった。 ベトナムのホテルがとれて、ビザもできて、行く気満々なのはいいけどねえ。 やばいよ、これ。 5日の夜に訪ねる友人も忙しいらしくて「何時に来る? 夕食は?」とかって2行のメールが来た。 忙しいみたい、と自覚したわりには、あんまり身体が動いていない私なのだ。
先日自殺した古尾谷雅人さんの自殺についてヤフーで「何となく不安、という抑鬱感」がずっとあったのではないか・・と書いてあった。 これって、あのレスリーチャンも同様だったのではないか。 戦争、怪しい病気の蔓延、不景気などが底でみんなつながっているという気がする。そして「何となく不安の抑鬱感」を生み出している。
晴れたし、用事諸々で、外出。桜は満開だ。帰ってきたら眼がかゆい。 やられたね、桜花粉。 今日はついに、ベトナムのホテル3泊を取った。 3泊でも、日本のホテル1泊くらいのお値段(それでも中級)、あんまりやばそうなところは今回は避けたいので。 ホントはメールで予約なんだけど、期日があんまりないので電話した。 「例の肺炎のせいで、キャンセルって はいってます?」 「エエ、ありますね。特にハノイで・・・」 「なるほどねえ、私はフエくらいまでは行きたいんですが、フエでというのは知りません?」 「そういう情報はつかんでいませんが・・・」 ビザが安いので頼んだ旅行社なのだが、なかなかしごとが丁寧で、対応もいいので、この回答も正直なところなのだろう。 一気に世界中にはやっちまったもんなあ「ナゾの肺炎」・・中国から流行りだしたというのがどうもねえ・・・もしかして、なんかのキンが漏れた???とかって疑りだしたらきりのない限りなくグレーの国だからなあ。 しかし、中東の戦争と時期を同じくしていることを考えると戦争による負のエネルギーが生み出した病気と言うこともいえはしないか? アメリカでは昨日救出されたジェシカ何とかさんという19歳の可愛い女の上等兵 さんがほとんど「英雄」扱いだとか。あの馬鹿ブッシュも「グレート」といったとか。 ざけんな、だ。 一人の女性上等兵の命をそこまで思うなら、イラクのたくさんの女性や子どもの命をどう考えているんだろうか・・・同じ命だ、彼らにも家族や、心配し嘆く親族がいるのだ、と、どうして想像できないのか。 あのブッシュにも娘が2人いたはずだけど。 と、今日は腹を立てておりました。
ホテルの予約金を払い込んで帰宅し、ガイドブックを手にするも、ホント、眼がかゆいのよね。 左目なんて、ふくれた気がする・・・ごろごろするし。 5日、眼帯とかって・・・困った。
雨。 でも、とりあえず、昨日のシーツやパジャマの洗濯。 その後終日読書。 「俳句、始めませんか」(黒田杏子さん) 句会のシステムがおもしろかった。 「ベトナムの歩き方」 依頼していた旅行社よりビザを送ったとのメールが入った。 早かった。 もう後にはよほどのことがない限り引けないな・・・ でも、旅の予定は定まらず、せめてついた晩のホテルくらいは取りたいものだ。 何しろ、夜11時過ぎにつくんだから。
昨日、午前中に北朝鮮がミサイル実験をしたとのニュース。 結局、あれはがせネタ、でもニュースになった。 扇千景くんのフライング。 でも、もしかしてあれってエープリルフールだったの?? ちなみにヒイキの東京新聞は2面に渡って「東京湾に油田が眠っていて」という発想から今の状況を皮肉ったエープリールフール記事をつくっていた。 笑った。
東急の創業者五島慶太が好きだったとかで 私が利用する東急沿線には桜並木が線路沿いや町並みに続く。 私の駅も、今の時期は駅前通りがさくらの谷と化す。 それが、今日はほぼ、満開だ。 なかなかな景色で、これを見に来る人もいるくらい。 しかし、私にはつらい。 というのも「さくら花粉アレルギー」 ずっと前(確か1997年春かな)にさくら公園で有名である川崎市の枡形山公園で、友人と3時間余り散歩したら、夕方一気に鼻水と涙と発熱。 かぜか、とびっくりして、かかりつけのお医者さんに行ったら「さくら花粉症」だといわれた。日本人にあるまじきことだが・・・事実である。 以来、この時期は眼がかゆかったり、アタマボヤン状態だったり、苦手だ。 さくらは好きなんだけど・・・ 本夕も、桜の下を帰ってやっぱり眼がかゆかった。 「桜の下には死体が埋まっている」とは、坂口安吾有名な文句(ちがった?)だが、事実さくら花粉には毒素があるとも、防腐の力があるとも聞いたことがある。 あの美しいさくらさん、実はけっこう不気味な花だと私は思う。 私が、近年好きなのは、ヤナギの若緑だ。 あの色は何ともいえない、うれしくなる。
母と姪を川崎の親せきから川崎大師、東京駅と送ってうちに帰って疲れて夕方から爆睡。 夜中にお腹が空いて起きだした。
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