さして広くないこの国には大小合わせて1500あまりの島があるとか。 エストニアのよさは島にあるという。 この国の島々は、旧ソビエトロシア時代はいわば西側とのボーダーで、「アンタッチャブル」状態。かつての暮らしがよく残っているらしい。
そのうちのひとつに行きたかった。 それがキフヌ。ちっこい島、離島だ。 地球の歩き方には「生きた野外博物館」とある。 タリンのインフォで、キフヌに行きたいと言ったら、それは難しい、あなたはパルヌから50キロも先の港からボートに乗らねばならない、だからパルヌに言って訊けと言われた。 自分のテリトリー以外の情報はびっくりするほど知らない。知ろうともしないし、提供しようともしない。この辺はロシア的。ロシアがそうだったもん。 ということで、パルヌへ。 朝7時40分のバスで、町には9時半過ぎ着。 すぐに町の中心にあるツーリストインフォへ。 中心といっても、メインストリートが1本走っているだけ。 この町のメインは海岸。マッドバス。 (この説明は後で)
「島に行きたい」 「キフヌ?」 「そう」 「9時の船が出たから、今日はもうないかも知れない」 「え、一日一本しか船がないの?」 「今日は土曜だから、でも今聞くからまって」 田舎のインフォおばさんは親切だ。 「○×△・・・・・」 あった。夕方6時の船とそれに接続する船が・・よかったね。 冬になると、場合によってはないときもあるという。 宿のことを聞いたら、10クローネ出したら、その予約までしてくれるという。 もちろん出します。 彼女、電話をかけ始めた。電話の中でしきりと「ヤーパン」といっている。 「取れたよ」という彼女に「あなたはどうして私が日本人だとわかったの?」と聞いてみた。 「日本人は英語がうまくない、あなたの英語も上手ではない、でもコミュニケーションはできる、こちらの言うことを理解している」 と笑った。私も笑った。そしていった。 「日本語は英語や他の国の言語と大いに違う」 「わかっているよ」 と彼女。 よくいわれるんだよね。「コミュニケーションができるからいいじゃない」と。 その後、彼女と島の話、彼女のところに泊まった日本人の女の子の話、などをした。日本人はこのインフォによく来るらしい。 そしてひとつの質問を受けた。 「何故日本人はひとりで旅をするの?恐くないの、さびしくないの?」 これもまた時々される定番的質問だ。 なんでだろう?「リラックスできる」といってはみたが、わたしもわかんないよ。 インフォのおばさんに島を楽しんできてといわれて出た。
夕方まで、パルヌ見学だ。 まずはバルト海の海岸へ。ここはこの国の夏の観光地。女性専用海岸まであるという。(もちろん、トップレスになるためさ) ずんずん海を目指すと途中にどう見てもギリシャかとルコの宮殿みたいな建物がある。マッドバスだ。どういうとこかと言えば、泥を温めて、それに身体を入れて・・まあ泥温浴。神経痛を治したりで、お年寄りが各地から来るところだという。各地から来る、にしてはしんと静かだったが、指宿なんかの砂風呂なんかと似ている? バルトの海はすでに海水浴のハイシーズンは終わったようで、さすがに寒い風の中でトップレスの人はいなかったがそれでもまだ泳ぐ姿があった。 風の気配、空気の透明感、など私にすれば完全に秋だが、冬に日差しが少ないこの国の人は、まだまだ太陽の恩恵にあずかりたいようだ。 バルトの海の音は独特 「ザ、ザザザッザ」 私が思う海の音「ザーンザッブンザザザーー」とは全然違うのだよね。
3時45分、バスステーションから港へ。重い荷物を乗客の男性が運びあげてわたしの席まで持ってきてくれた。ありがとう。 欧米を旅するとこういう親切にたびたび出会って、アタシは女なんだわ、か弱い・・・?(笑)と思うことしばしば。 それで、日本へ帰ると、男たちは絶対そんなことはしてくれないし、のりものでも「どうぞ」と道を空けてくれたりもしないし・・・腹が立つのだ。(慣れは恐い) 彼は、バスをおりる時私の方に振り向いて、手を挙げてにっこり笑ってくれた。私も頭を下げて、にっこり「アイタ」(ありがとう)
6時、船はまだ日の高いバルト海をダダダと進む。 週末を島で過ごす客を乗せている。東洋人なんてもちろんいない。 まあ、瀬戸内海の小さい島にガイジンが行くって感じだからいないの当然だが。 約一時間、島へ。 民宿「トリー」のおじさんがむかえに来ていてくれた。 おじさんのチョーカタコト英語では、どうやら日本人が二人、彼の宿に泊まっているらしいのだ。 (おじさんより、息子の11歳の方が英語がよく通じる。おじさん、時々息子に聞いていた、えらいぞ、おじさん) 私がついてしばらくすると確かに日本人の女性二人が自転車で帰ってきた。 そりゃ「地球の歩き方」に「離島」と書いてるので来る人がいるのはわかる。が、ねえ。 客はほかに若いエストニア人グループ、8人ほど。 後で、彼らのひとりから「タリンで生まれたぼくでさえ、初めてこの島に来たのにどうして日本人がこんなに来るのだ?」と聞かれた。 「ガイドブックに載っているから」と答えたが、我が民族(含む私)は、ホントに野次馬的好奇心強いねえと思う。
夜はサウナ体験。 暖かかった。気持ちよかった。槙で石を温めてのサウナは70度以上でも肌に優しい。日本の温泉などによくあるサウナのようにカアとしない。 暑くなってきたら、シラカバの若枝で水をばしばし。香気が立つ。
私が選んだお部屋はエストニア野外博物館にあったような木作りの、なんとカギもない部屋だ。 電気を消すと窓のない部屋は真っ暗。19世紀の闇だ。 体がサウナで温まったおかげでよく眠れた。
エストニア人たちは深夜までサウナで騒いでいたようだ。
2002年08月30日(金) |
エストニア野外博物館へ |
今日の予定 エストニア野外博物館
まずは昨日街角で買って書いたハガキを、ハガキ売りの可愛いお嬢さんに渡しに行った。 胸に名札をつけて爽やかな笑顔の娘さんたちがオールドタウンのあちこちで、ハガキはいりませんかって、立っている。昨日買ったところには別のお嬢さんがいたが「昨日ここで買ったんだけど、出してくれる?」と頼んだら快く引き受けてくれた。ついでに立ち話。彼女に日本語の「ありがとう」と「さようなら」を教えて私も教えてもらった。 ありがとうは「アイタ」さようなら「ヘイアドアッガ」
次はバスステーション。21番のバスだ。 21のバスが見えたので大慌てで走ったら、前を歩いていたおじさんが振り返って「あそこで乗るんだよ、大丈夫」と乗り場を教えてくれた。どうやらとまっていたところは降車場だったらしい。
乗り場に行ったら、バスの時間は10時16分、たっぷり20分はある。ベンチに座ってひなたぼっこをしながら待つ。朝は涼しくてお日様の光が気持ちいいタリンなのだ。 通る人は例のごとく、じろじろと見るが、もう気にならない。 周囲をウオッチングしていると、ロマ(ジプシー)の女が二人、押し売りをしながら来る。 ビニルの袋にセーター(中国製・字が見えた)を入れてバス町の人に買わんか?とやっているのだ。 となりとなりのおばさんは本当に汚らわしそうな顔をして断固拒否。 ロマおばさん、私の方もちらりと見たが、こいつに売りつけるのもなあ?と思ったのかどうかは知らないがパスして、隣りの隣りのおばさんの手提げにそのセーターをつっこんで交渉を始めた。 おばさん、手提げからだしてニエット(ロシア語だ)ロマおばさんは、またそれをつっこんで「○××△」とあわれっぽい声で言う。おばさん、困った顔をして聞いているが、またセーターをロマおばさんの膝の方に押しやって「ニエット」何度かこのやりとりがあった。ついに近くにいた男が「もうやめろ」みたいのことをロマおばさんに言った。 ロマおばさん、恨めしそうな顔をしてそいつを見ると渋々セーターを自分の袋に納めて、のそのそ、鉄道駅の方へ行った。
日本人はジプシーと言うが、ヨーロッパでは「ロマ」という方がわかりいい。 以前に友人と「ロマ」について調べたのだが、彼ら、その源流はインドなんですな。3,400年ほど前にインド方面から渡ってきた旅芸人たちがヨーロッパでジプシーとなったということらしい。私たちは肌色(褐色)からして北アフリカか?中近東?と思っていたのだが、インド?とびっくりだった。 まあ、ヨーロッパでは嫌われ者である。 かっぱらいの代名詞にみたいにいわれている・・・
ロマおばさんたちがいなくなってすぐに、足の不自由なおじいさんがバス停にやってきた。時刻表を眺めている。 私、すぐに席を立って、どうぞ。さっきロマに断固拒否をしたおばさんも私と同時くらいに席を立った。 おじいさん、手をふってなにやらムニュアムニャ。 そしたら、隣りのおばさんが私の袖を引っぱる、座れと。 どうやらおじいさん、ここのバス停ではないらしい。 おじいさん、またよれよれと立ち去る。 その後、隣と隣りのおばさんが急に親切になった。 隣りのおばさん自分のバスに乗る前に「ミュゼオ?」私「ヤ」おばさん「○×△」 要するに21番のバスに乗れと言っているのだ。 21番が来ると、ロマを断固拒否したおばさんがまたも「ミュゼオ?」といって自分も行く、と指などを使いながら言う。そして安心しろ、とこれまた手で。 そして、バスの乗ったら、自分の隣りにすわれ、と合図。 むちゃ親切。 要するにだ、訳のワカラン東洋人だと思っていたら、一応お体の不自由な人に席を譲ることくらいの公徳心はあるようだ、と評価していただいた結果のストレートな親切みたいなのだ。 バスに乗ると、いつも降りるときが大変なのだが、今回はそういうわけで一安心、ぼんやりと外の景色を眺められるというわけ。 「情けは人のためならず」・・の一幕でした。
野外博物館は、広大な林にエストニアの伝統的なおうち、生活のしかたを再現してあった。 木の家、サウナ、家の回りや中でで家畜を飼う(まるで遠野の曲がり家だ)、夏の家・・などのライフスタイルがわかる展示はは自然と仲良くしながら暮らしていたかつての人の生活ぶりが実感できる。何しろ、実際にブタまで飼っていたよ。 ここで半日あまり遊んで、オールドタウンへ戻った。 町の中心のカフェでビールと軽食。 リトアニアもそうだったが、ビールがうまい。 味が濃い。麦の香りが生きている。 お腹が少し空いているし、なんか食べるものと言って頼んだら、ウエイトレスのおネエさん「ポークのなんとかこうとかがいい」という。 じゃそれって言って出てきたモノにびっくり。 ガーリックと脂?きいた黒パントースト(美味)キュウリのピクルス、未熟青トマトのピクルス(北の工夫と感心)問題は、白いチーズのような切れっ端。チーズか?と口に入れたら、なんとそれはブタの脂の白身。ブタの脂を塩漬けにして薄く切ってあったのだった・・・とりあえず口に入れたのは食べたが・・ウーム。 すべて窓は二重だから、冬の寒さは相当のものだから脂肪と直接とって身体を温めるということがわかる料理ではあった。わたしは、身体の一部にまさに「ブタ脂肪」がそのままつくという気がしてどうも2枚目には手がつかなかったが・・・冬だったらおいしいのかも知れない。
夕方、ストリートシアターを見た。 おもしろかった・・しかしフィンランドからのコメディは英語。この国の小学生が座っていたがげたげた笑っていた。この国では英語、何年生からやるのだあ? 金曜の夜だけあってにぎやか。怪しいお店のライトもつき始めた。 8時、私は路地の中に見つけたチャイニーズ「北京」でご飯を食べて帰った。
明日は早朝出発、中世の町タリンにさようならだ。
2002年08月29日(木) |
時差1時間とは・・タリン着 |
夜中、まず、リトアニアの出国のハンコをパスポートにもらって、ハスが走るとまた停止。お隣の国ラトビアのパスポートコントロール官が乗ってきた。 朝方、今度は、ラトビア国境。ラトビアのハンコをもらってエストニアへ。エストニアのパスポートコントロール。と一晩に2回パスポートチェックをしてエストニア入国だった。 2回目の時、私が寝ぼけていたら、隣りのエストニア人男性が「パスポートチェックだよ」とツンツンと起こして教えてくれた。
そしてタリン着。 お隣さん、今度は時差が1時間あるとお教え下された。 それは、地球の歩き方にも書いてない。びっくり。こんな狭い地域なのにねえ。
タリンのオールドタウンはバスステーションから遠い。トラムに乗らないと、なのだ。キオスクでトラムのチケットを買った。そして乗ったのはいいけど、今度はそのチケットのパンチのしかたがわからぬ。とらむに設置してあるキカイに切符を入れてパンチするとガイドに書いてあったのでキカイにれたのだが自動でパンチになるのかと思ったのだが・・あせっていたら、近くの女の子がにっこりと笑ってチケットのわきにあったレバーをぎっこんとひいた。 チケットを取り出すと、確かに紙に穴が開いていた。 なーるほど。 自動じゃなくて手動なのね。 こんな簡単なことも、初めての国じゃわからんのよ。 こういうとき、いかにもガイジンの東洋人の姿形は助けてもらうのに大いに役立つ。ありがたや。
次は、オールドタウンへの入り口がわからず血迷う。 お年寄りに聞いても、英語がわからないと思うので若者に聞いた。 「あのビムホテルの後ろだよ、500メートルくらい」 軽やかに答えてくれた。 それでも迷っていたら、今度は中年気味の男性が「メイ アイ ヘルプ ユー」 彼にさらに案内されて無事に旧街入り。 それにしても、と思う。 日本の若者はあんなに軽やかにガイジンに教えられるか? 日本の中年はあんなに紳士的に「メイ アイ ヘルプ ユー」がいえるか? ガイドブックには、エストニアが一番北欧的でクールと書かれていたが、クールではあるけれど、北欧的な親切心もまたある。2年前、私、フィンランドやノルウェーで似たような親切にたくさんあったからなあ。
町中のホテルは満員。 しかたないので、旧街のはずれに投宿。 典型的な安ホテルだが、意外に高い。 500クローネ(4000円ほど)で、バストイレ共同、コーヒーと少し何かがつく軽食(朝)。 ベッドカバー、カーテンは青、それがいかにも安宿の雰囲気を高めている。 戸棚を開けたらゴミがはいっているしさ。 地球の歩き方おすすめの宿だけど、だめだね。 あの本に書かれてダメになった宿が世界にはたくさんある。
私は思うんだけど、安宿はせめて、きれいなクリーム色か、薄ピンクでまとめてほしいんだよね。 青は、私のもっとも好きな色だがこういうときはイヤだ。 でも、まあ旧街の中心まで5分というロケーションを考えると2晩だし、ここでよしとしようなのだ。荷物を引きずっての宿さがしも疲れるし。
荷物をおいて、シャワーを浴びて外に行く。 暑いが、しかし日陰にはいると涼しい。湿度は低そうだ。 石畳はビリュウニスと同じだが、お城、城塞、600年前そのままの町並み。それが高い、とがっている。たくさんの教会の尖塔。ゴシックが美しく固まった町なのだ。 完成度は高し、だ。 ドイツ人がこの町に来ると「昔のドイツがここにある」と感動するらしいが、十字軍のころからこの地方に進出したドイツ人によってつくられた町のひとつなんだ。 圧巻なのは、「聖オレフ教会」高さ124メートルのとがった塔が町の北にそびえ立っている。
ひとつの伝説がある。
タリンが小さい町だったころ、船をこの町に惹きつけるためにどこからでも見える高い塔を持った教会を町の人はつくろうとした。 しかし、それを引き受ける建築家がおらずに町の人たちがあきらめかけたころ、ひとりの巨人が現れてそれをするといった、とてつもなく高い報酬と引き替えに。 それにはひとつのおかしな条件がついていた「もし、私の名前がわかったなら、お金は1ペニーでいい」 町の人たちはその条件を聞いてOKした。 ところが仕事はどんどん進むが、彼の名前の手がかりはない。 困った・・そこで、彼の名前を知るために町の人はスパイを送った。 スパイは彼の家を突き止めて見張った。 ある日彼の妻が唄った。 「おやすみなさい、わたしのあかちゃん、 じきにオレフが月を買えるくらいのお金を持って 帰ってくる」 彼の名前はオレフ!! 教会がほぼ完成したとき、町の人は遙かかなたの教会の尖塔をみながながら、さけんだ。「オレフ、十字架が曲がっているぞ」 びっくりしたオレフは落ちた。 オレフの口からはひきがえると蛇が飛び出して、彼は石になった・・・・ これが聖オレフ教会の塔伝説だ。 13世紀に作られた塔は人間ワザではとても、ということで生まれた伝説なのかも知れない。
町を見晴るかす展望台で塔を眺めていたら、若い女の子が、英語でその話をアメリカからの観光客にしていた。景色を楽しみながら聞いた。 (私はガイドブックで読んでだいたいのストーリーは知っていたけどね) 町の広場では、ストリートシアターコンクール。 カフェに座って梨ワインを飲みながらハガキを書いていたら、若いよっぱらい男に「日本人?」とかいわれて「ひとつ聞きたいことがある」と絡まれた。 「今私はハガキを書いていて忙しい、」といやがっていたら、カフェの女の子がすごくこわい顔をしてその男になんかガンガンいって。男はいなくなった。 ありがとう。
ものすごく眠いので、夕食はすばやい おてがる マックのお世話になった。 飲み物、ビックバーガーポテトのセット40クローネ。やすいのか、たかいのか? 9時前から爆睡。 ベッドに横になると、まどから聖ミカエル教会の尖塔が見えた。
この国のトイレ記号 M・・・・男性 N・・・女性
2002年08月28日(水) |
ショック KGB博物館 タリンへ |
今日の予定は、KGB博物館、ユダヤ博物館、独立バリケード記念碑。 ソビエトからの独立にあたって一番血を流したのがバルト3国の中ではこのリトアニアだ。事情的には、このリトアニア、他の2国に比べ圧倒的にロシア人が少ない。リトアニア人が国民人口(約370万人)81%を占めることにある。
今日は、こんなところを中心に見て回る。
まず、国会議事堂前にある「バリケード」 これは、1991年1月、ソ連政府が送った武装部隊に首都が囲まれたときに数万人の市民が国会を守るために立てこもった記念だ。 同じ時期に、テレビ局前では、11人の犠牲者が出た。「血の日曜日事件」といわれている。その人たちの肖像写真が十字架に記されてバリケート前に立っていた。 誰も見物人はいない。私だけ。時々、忙しそうにエリートという感じのスーツ姿の人たちが国会の建物に入っていく。バリケード前にたたずむ私にちっらと視線を送るが無表情だ。バリケートは大きなコンクリートブロックが積まれているのだが、そこには鳥がフンをしてそこから芽を出した木や草が茂り始めていた。10年という月日、その間の平和を感じた。
KGB博物館。 入り口がよくわからず通りすがりの女性にガイドブックを見せて聞いたら、いそいそと案内してくれた。 重い扉を押してはいると、すごく暗い。 ここは、以前、KGBが逮捕したパルチザンのメンバーや彼らを援助した人を連れてきて取り調べたり、ときには秘密に殺した建物。そこがそのまま博物館として公開されているのだ。 そんなビルの歴史がどんよりした気配に感じられてすでに薄気味わるいが、しかし、旅行者としてとして少しでも訪れた国の素顔にふれるためには見なければ、なのだ。美しいところだけでいいとは私は思っていないから。 地下に降りると、薄暗い部屋。まず連れてこられた人がすべての衣服を脱がされるところ、その後、写真がとられる。後に続く部屋は、部屋中にクッションがはられて悲鳴や叫びが聞こえないようにした拷問クッション部屋(血がこびりついていた)や、水ぜめ部屋、眠らせない部屋・・・もうため息が出る。その後には、囚人(?)たちの部屋がいくつも並ぶのだ。 あらためて、KGBのすごさ、ソビエト時代の怖さを思った。 ここに入れられたのは、独立運動のリーダーたち、パルチザンだ。写真を見ると、若い。それから、カトリックの国らしく、神父さんたちが運動のリーダーとなって逮捕され、無惨に殺されている。 射殺の場所となったところがガラス張りで保存されている。 そこの部屋に入ったら、年取った男性が一人いて、優しげな感じでビデオを見るか、と聞く。ハイといったら、つけてくれた。 地球の歩き方によるとここでこういう風にガイドする人は、かつてここに入れられて生援してきた人だというが・・この人もそうなんだろうか。
外の明るいところに出てほっとした。 表通りを歩いてふっと見たら今私が出てきたKGB博物館の建物の外壁にびっしりと犠牲になった人の名前が刻まれていた。合掌
ユダヤ博物館。 はっきりいって、ぼろかった。 しかし、この町にはかつて北ヨーロッパ最大といわれる(5万人)ユダヤ人街があった。しかし、それがナチスドイツの侵攻でほとんど壊滅した。生き残った人たちも、ソビエトの、スターリン時代にシベリアに送られた。 今は5000人ほどのユダヤ人が残るのみだという。 日本のシンドラーといわれる杉原千畝さんが彼らのためにビザを書き続けたのは、かつてのこの国の首都カウナス(行かなかった)だ。
時間があったので、国立博物館へ。 リトアニアは、十字架の国といわれる。トラカイに行く車窓からも時々草原のマンナカに唐突に十字架が立っていて「ほう」だった。 博物館で年月で木目が浮き出た十字架をたくさん見た。歴史を知ると「十字架の国」にうなずける。
夕方荷物を持ってバスステーションへ。 8時45分のナイトバスで一番北の国エストニアの首都タリンへ 隣はエストニア人、タリンから北という若い男性。 クールだったけど、何かと親切だった。
北から下って、最終日にまたこの町に帰る。
トラカイなんておもしろい名前だが、お城の中に虎を飼っていたわけじゃない。 中世の由緒正しきお城である。 ビリュニスからバスで、30分あまり。14世紀に、キェストゥテェス公とビィタウタス大公という舌をかみそうなお殿様によって造られたお城である。 茶色のれんがで作られた帽子型の城が森に囲まれ、湖の中に浮かぶ・・とホントに絵にかいたような風景なのだ。ヨーロッパ中世の絵によく出てくるまさにその風景ってヤツだ。もう気持ち悪いくらい。 しかし、この景色はずっと残っていたわけじゃない。この十年ほどで大幅に修復されたものだ。それまでは廃墟だったらしい。
入ろうとはね橋を渡っていたら、前から日本人の男2人。 「こんにちは」から話が始まる。 彼らは大阪の大学生、シベリア鉄道から、ベラルーシ経由でここまで来たらしい。 「ベラルーシ、どうだった」 「いや、トランジットVIZAでしたら、寄ってないんですよ」 「それは残念、ところでこの国ロシアのにおいしない?」 「ああ、しますよ、ロシアの感じありますね」 やっぱりね。 ロシアから昨日来た人たちがいうんだから、私の印象のそうまちがってはいなかったわけだ。
お城の中は、中は博物館やお店になっていた。 おもしろかったのは、パイプのコレクションだった。 立派なお城ではあるが、ウィーンであのシェーンブルン宮殿を見た後では、やっぱり田舎のお城である・・・・。
トラカイ城の道には、リトアリア名物の琥珀の露店が軒を連ねている。 アジアやエジプト、トルコなんかだったら、通行人の呼び込みに必死になるところだが彼らはしない。 音楽を聴いたり、編み物をしたり、昼寝をしたり、となりの店のお人と話したり・・商売やる気あるの?の風情である。 しつこく見ていても、うるさいことを言わないのをいいことに、私は念入りに値段と品質くらべをすることができた。一番安くてよさげな店に女の子に「2個買うけど、デスカウントしない?」と持ちかけてみたら、「OK」とあっさり。値切り大好き人間の私はがっかりである。もう少し、値切り合戦で遊ぼうよといいたい。 ヤッパり値切りで遊ぶんだったら、タイか、トルコか、エジプトか。
夕方、日本料理屋にご飯を食べに行った。 この町では高級レストランである。 私の注文「ビール、みそ汁、野菜天ぷらのご飯付き」 イメージとしては、「野菜てんぷら定食」のつもりだった。 BUT、BUT 最初にビールがきたはいいが、その次は「スープ」であるおみそ汁だった。それもしずしずと・・・つまり、スープコースのみそ汁が終わったら、次はメインの天ぷらが来るというわけ。 ああ、わかっちゃねえなあ。一緒にもってきてよね。 一応日本人が経営者だというので期待していたのだが。(でも日本語メニューはない、英語とリトアニア語) ところで野菜天ぷらの味は、45点でしたな。 あげ方はよいのだが、残念ながらこっちの大味な野菜では「なんか違う」って感じ。ご飯もどう見ても、トルコ米みたいだし。
リトアニア語でありがとうは「アチュッ」 美味しいは「スカノー」でした。
2002年08月26日(月) |
リトアニアの首都 ビリュニスへ そんなに見ないで! |
****バルト3国基礎知識*****
位置は、バルト海に面した旧ロシア領。スエーデンやフィンランドが近い。 10年ほど前にロシアからの独立を果たした新しい国々。キタから、エストニア、ラトビア、リトアニア。人口、170万人から200万人の小国ではある。しかし、それぞれの首都は、「凍れる中世都市」として世界文化遺産にと登録されていて、13世紀から15世紀の中世の町並み、ゴシック建築がよく残っている。 きれいな町が見られるというわけ。 つい最近ビザなしで入国できるようになって旅しやすくなった。 日本人旅行者はまだ少ない。
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でっかいコペンハーゲン空港から飛んでくると、首都の空港とはいえビリュニスは田舎って感じ。なにより、「暗くて、すすけたかんじ、そのくせ、えらそうな建物の気配・・・ロシアみたい」というのが第一印象だ。 まあ、10年ほど前にロシアから独立したんだし、この印象はそう、見当違いではないと思うが・・・。でもまあ、リトアニア人がきいたらいやがるだろね。
空港の外に出たとたん、タクシーは?と迫ってくる強面顔のドライバーの列だ。ドヒャ!!アジアか、ここは。ヨーロッパだろ一応。 そいつらをよけて、一応タクシースタンドにとまっている一台に向かう。乗る前に住所を見せて、だいたいいくらで行く?と聞いてみる。 にこりともせず「22りタス」。そうか、空港内のツーリストインフォの子は30くらいといったし、地球の歩き方には15とあるし、まあ22はいいセンだろう。 (後からわかったが、タクシー会社によって基本料金が違うのだ) 市内のメールの返事が来なかった民宿紹介所に直行。 ツインのシングルユース100リタス(2600円くらい)をゲットした。 ヤレヤレ、これでこの町の2晩の宿確保だ。
緯度が高いので、夕方6時、まだ日は高い。 町に出たら、目が見る、みる、みる・・・・ なんだよお・・アラスカ、カナダ、オーストリ−、アムステルダム、どこも東洋人だからってじろじろと見る人はいなかった。だってめずらしくも何ともないモン。 でも、ここビリュニスではめずらしいんだね。 ホント、「白」の人しかいないのだ。 白、黒、黄色、茶色、ととりどりの肌色の人が行き交うアムステルダムから来ると、じろじろ光線も、白しかいないというのもなんか異様な気がするのだが。 いやはや、とにかく参ったわ。 この国の流行は黒らしくて、若い子には黒ずくめの子が多い。髪をおっ立てて黒い洋服の若い男にギロリと見られると、ちょっとひくよね。でも負けない・・のだ、見返してやるモンね。祖するとあっちがはずすモンね、へん。 とまあ、町に出たとたん、視線の音がばしばしするという感じのウオークであった。
すり減った石畳の道、狭い路地を歩いていると、ほんとに「中世」だ。 といっても、そう圧迫感はない。それは、建物の高さがせいぜい5階くらいだからだろう。 旧市街の中心にある大聖堂の前には、何人かのお乞食さんがいる。 老人が多い。 2年前に行ったロシアもそうだったが、年金制度の破綻で(国が変わった)老人の生活が窮地に立たされているのだ。 ため息が出る・・・
日暮れドキ、名物の「ツェベナイ」(あの飛行船のツェッペリン号に形が似ている)を食べた。イモの粉をこねて、中に挽肉を入れてゆでたもの、そこにかなりしょっぱいスープがかけてある。 まずくはないけど、イマイチだよね。私はジャガイモあんまり好きじゃないからな。
ちなみにこの町の若い子(接客系)はたいてい英語を話すようだ。 レストランの子は笑顔がよかった。
今日はいい天気になった. 向かいの家はペンキぬりの準備を始めた.上半身はだかで、古いペンキを落としている. 「去年は、あのとなりの窓のペンキを塗っていたし、今年はあそこか…良くやるよね」 「もう趣味みたいなもんだよ、オランダ人の。だから、この前行ったような、ペンキや家の改造をするものを売るお店が流行るんじゃないよ」 そうなんだけどね… 休みの日、ペンキ塗りが趣味っていいのか悪いのか..日本人にはあまりいないよね.
今朝は、明日から行くリトアニアのホームページを見ていたら、東洋人バッシングがあるというのが出ていてびっくりした.殴られ、けられで、肋骨をおった人もいるらしい。おまけに私が着いたら、宿探しに行こうと思っていたビリニュス(リトアニア)の駅近辺は柄が良くないのだとか. おお慌てで、そこから遠い宿のHPにはいって、三枝子に頼んで宿予約のメールを書いてもらった.私が書くと30分はかかる英文メール、彼女のだと5分足らず.さすがにフランス語、オランダ語、英語に通じているお人は違う…とそばに立ってただ感心. (しかし、夕方の今、まだメールの返事とどかず。。どうなってんだあ?) しかし、なんか、やっと行く気になったが、宿を探して、荷物ひっぱってというのが、オランダでリラックスしすぎてウザクなっている..出たらそれなりに楽しむんだろうが. とにかく明日の朝、5時起き、六時にはスキポール空港に行って、8時には飛んでいるのだわ.
午後からは教会へ。 アムステルダム日本人教会. アムステルフェーンという日本人が多く住んでいる町の教会を借りて祈りの時間が持たれている. 牧師様は、パーク師というアメリカ国籍の韓国人のかたである.日本語も良く話される. バロックの音楽を学びに来ている人が多い教会で、1年とか2年で帰国する人がいるが、今日も、一人声楽をやりに来ていた方が時期に帰られるとか。 最後に、ささやかなお別れ会があった。 私は、昨年も教会に来ているので、ああ..今年も旅ですか.と覚えていてくださっている人も多くうれしく、懐かしかった.
夕方、荷物をまとめて出る準備をした。 8日間いたんだけど、あっという間だった。 またらいねんこれるだろうか?
友人の家族、教会の知人、みんな優しく、温かかった. ありがとう.
明日からまた、放浪のトラベラーです. 日記の更新は、9月8日に無事に帰国できたらします. また暫くお休みします.
2002年08月24日(土) |
★六ヶ国語多元中継のおうち★ |
わたしが居候をしている友人宅は、友人夫婦に子供4人である. 子供達はオランダ語が日常言語、友人夫婦はフランス留学時代に知り合っているので、フランス語.(もちろん、オランダ語も話すが)友人の夫はエリトリア(93年にエチオピアから独立した国)人なので、お国の言葉であるテグリニア、エチオピアの言葉であるアマリニアを話す。私と友人、子供たちは日本語、彼女の夫と私は、彼の片言日本語と私のチョ-片言英語、訪問者があると、食卓では英語も話される. 友人が子供達に日本語で言うと、子供達はオランダ語で返事をする.また、私が日本語しか話さないので、子供達、特に下の男三人は、私と話すときは仕方なく日本語で話す。上のナオミチャンは、日本語の文庫本を読むし、英語、ドイツ語、フランス語が堪能。日本語も含めて、彼女はオランダ語が母国語として除くとしても、4ヶ国語を話す. 一年アメリカに留学しているので、英語は殆ど母国語のように話す。なにしろ、オランダの大学の教科書はほとんど英語なのだ。 ということで、うちの中で、6カ国語が飛び交う。 ここまで読むと、家族としてのまとまりや意志疎通は?心配される向きもあるだろうが、私の見るところ、クリスチャンとしての信仰や倫理を支えとして、子供達は実に素直に優しく育っている。家族の絆も強い. テレビが無いこのうちでは夜は、本を読むかおしゃべりをするしかないので、子供達は実に良く本や新聞を読むし、もちろん塾なんてないのでゆっくりと過ごしている. 私は、このうちの子供達に「子供はこんな風に時間を過ごすといいよ」、みたいな理想を見る気がする.
さて今日は、コンサート。すごい大雨、雷もなる中で.出かけた. プログラムは、ベートーベンの田園と運命. チケットが一枚しか残っていないわけである. 特に「田園」は、ウィーンで、ベートーベンが田園の曲想を練ったというハイリゲンシュタットに、地酒(ワイン)を飲みにいって『ベートーベン小道』なるところを歩いた後なのでイマージが湧いて、趣が増した. とても良かった. コセルトヘボウは、やっぱりいいホール.ザルツブルグやウィーンのきらきらしさ花井が、おおらかに音が響く. コンセルトヘボウに行くと、モスレムの人は全く見ないし、ブラックの人もとてもすくない.人種の坩堝のようなアムスで、オランダ人が見たかったら、クラシックのコンサート、って感じ.だ。
今日はほぼ一日寒い雨. 夏は終わった. 昼は、新しくできた中かレストランへ飲茶.美味しかった. 明日一日で、バルトへ出る. なごりおしいねえ。
2002年08月23日(金) |
★オランダの新聞より★ |
今日はいい天気だったので、近所の市場にいって、さばの燻製を買ってきた。あっためて、生姜としょうゆとレモンをかけてご飯のおかずにすると絶品.。 ウィーンから買ってきたワインがビンに半分残っていたのだが、しっかりと平らげてしまった。
毎夜時間があると、文盲状態の私のために、友人がオランダの新聞の読んでくれる。今日は金曜で明日は休みだし、彼女もリラックスしている. 本日はそれを紹介しよう.。 まず、オランダの新聞事情。 基本的には、地方紙を読む傾向にあるという. 「こんなにちっこい国なのにそんなに地方紙が強いの」 「一応全国紙みたいなのも数紙あるよ」 友人宅の新聞は、本人曰く、クリスチャンなので「がちがちのカルビン派のキリスと教系の新聞』」といことだ。 名前は、「レフョルマトーリッシュダッハブラッド」(改革派毎日新聞)発行部数はかなり少ないらしい. 一昨年、この新聞でびっくりしたのは、記事が無いところが白紙状態になっていたことだ.確か株式関係のところだったと思うが、記事が無くて空欄、真っ白。友人に『この新聞、欠陥だよ』といったら、あるよ、書くことが無かったりすると・・・・もうびっくりだ.日本では考えられないことだ.
さて、ここで今日の新聞をごしょうかい。
何時も王室関係の記事が載っているのだが、この国の女王様、先のユリアナさんのときから人気だが、今のベアットリックスさんもそう。日本の皇室などとは大違い、王室がすごく国民に近い。 今日の話題はウイリアム皇太子さまだ。 この春結婚したばかりの彼は、カリブ海にあるオランダ領のアンテル諸島に訪問して、結婚披露。帰国の飛行機だが、オランダでは、特別機は使わずにKLMを使うのだという.そのKLMに搭乗を拒否された人が99人もいるのだ. 何故かといえば「ボールスワロー」の疑いがあるからだという. ボールスワローとはなにか. ずばり麻薬、コカインの白い粉をビニルに詰めて飲みこんで飲んでくる人達のことだ。 麻薬密輸人なのである. ここで私の疑問「ねえ、うんちといっしょにでてくるの?」 友人「おなか、きるんじゃないの?」 私「うそ…痛いじゃん、だったらやたらにできないよ」 友人「そうだね、やっぱりうんちか」 わたし「子どもがプラスチックのモノを飲みこむとでてくるとか言うし、あれと同じ原理だよ」 三枝子が言うには、途中でお腹の中で袋が破れて死ぬ人もいるんだとか。 コワイ話である、悲しい話である.
昔の結婚式の写真特集というのもある。 三枝子によるとオランダの、5、60十代の結婚衣裳は、大抵黒の衣装なんだという. 「今まで、白は一人だった、あとは黒なんだよ」 ヘええ、である.
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今日は、荷物を少し日本に送るために、ガムテープを買いに行ってきた. いわゆる、日曜大工屋である. 何と、トイレからお風呂、ドア… オランダ人はうちをきれいにするのに、とことん自分でするのだ. ペンキPCを使って、色を混ぜて独自の色までつくってくれるのはにびっくりした。
2002年08月22日(木) |
★アムステルダムの犬の糞★ |
オランダ人は動物が好きである. でかい犬を2頭も3頭つれているいている人も多い. 日本のようにビニールの袋を持って散歩している人はなく(しかし、ごくたまにいるようだ..今そばでナオミチャンが「みたよ、昨日」といった)、通りは犬の糞だらけ。 一昨年に来たときは、場所によってはステップを踏まないといけないような惨状で、三枝子とホントにきったない町だよね、あきれてていたものだ。 昨年は少し、きれいになっていたが、今年はまた少しきれいになって・・・・・どうしたのだ、オランダ人が犬をしつけるようになったのか?と三枝子に質問したら「みんなバカンスに犬を連れていっていて、街の中に犬の数が少なくなっているだけなんじゃない?あんたが帰ったら、またあちこち糞だらけになるよ」 そうなのかな? たしかに、アムステルダムに『犬の糞を始末しよう』という隣組ができたという話は聞かないし、まあよく観察すればいまだにあることはあるのだし、三枝子の言うように9月になったら、またステップを踏むように犬の糞が散らばるのかな?なぞだ.
オーストリーにいたときに、ザルツブルグやウィーンも犬を連れている人はかなりいるし糞は如何に、と観察していた. 街中は、しかし、とてもきれいなのだ.糞の袋を持っているようには見えないが、街の通りにはさせていない. アムスの町の惨状と全く違う. しつけなんだろうな..アムスの犬のお尻がだらしなくてウィーン犬のお尻が堅いなんてありえんもんナ、と考えていたりした. アムスの犬の糞は、自分のうちはなめるほどきれいにするオランダ人のにどうして?窓辺に花を飾り、人の家を訪問するとき花を持っていくという優雅な習慣があるのにどうして?という疑問につながる。 ホント.どうして?
ちなみにオランダでは、ボランィアで動物の救急車がある・・・・・・・ こんな国、ほかにあるかいな? 子どものしつけは結構厳しいお国柄だけど、犬がしつけられないオランダ人なのである. BUT,BUT….三枝子によれば、バカンスシーズンになるとアムステルダムでも捨て犬が増えるのだという. そうのってボーダーレスなのね.だ。
2002年08月21日(水) |
★ヨーロッパの新通貨のユーロの使い心地★ |
午前中は9月のPC原稿をもう1本、といわれたりして書きものをしたが、やっぱり、普段一太郎を使っている私にはワードは使いづらい。
午後から遅くなって、夕ご飯の買い物にいった。 ということで、今回は、今年から流通しているヨーロッパ(EC)の新通貨、ユーロについて書きたい。
オランダは昨年までギルダーを使っていた。だいたい、1ギルダー50円くらいだったが、ユーロになって、1ユーロは100円くらいと思っていたのだが、異様に強くて(要するに円が弱いのだが)、何と120円もする。 先ず私がヨーロッパに入ってこれに困った、怒った。何でこんなにユーロが強いのさ…?、と。 おまけにユーロになって便乗値上げも含めて物価は高くなっていると友人は言う. それは、オランダだけではなくて、西国を歩いているときに、一乗寺であったドイツ人に尋ねたら同じことを言っていたのでヨーロッパ全体にいえることなんだろう.
とはいえ、買い物に行くと、食品の物価は日本より安い、と感じる。 近所のスーパーでの本日の買い物。 *ハムのパック2個(子供の弁当であるサンドイッチを作る必需品) *チョコクッキー *カレー用の豚肉 *ブロッコリー…で、7.30ユーロ 昨日は*オレンジジュース *アプルジュース *ハム *牛ひき肉 *ベーコン細切れ…で、7.58ユーロ ちなみに、家族6人(友人宅の人数..私も入れると7人)が1日食べられるほどのパンが高くても2ユーロほどで買える。アップルジュースは1リットル、0.79ユーロで100円しない。 トルコ屋(トルコ人の店)では、きゅうり1キロほど、トマト2キロほど、たまねぎ1パック、ぶどうを1キロほど、で、5ユーロ。トルコ屋では、店先に山とつまれた野菜や果物を自分がほしいだけとってレジに並び、買うときにはかりに載せて重さをはかって課金される。 イメージとしては、昔の日本の八百屋だ。
トルコ屋では、薄いビニールの袋をくれるが、スーパーはくれない。自分で入れ物を持参する。ほしいときは、買わねばならない。日本で、スーパーは袋をくれる、になれているので何時もつい手ぶらででかけて失敗してたのだが、今年は持って出るのが身についた. 日本でもそうしたら、少しゴミが減ると思うのだが、日本に帰ると忘れる.
結論:ユーロは一言でいうとツーリストのわたしには使いやすい。強いのは腹が立つけど… だって、オーストリーからオランダに来ても換金する必要がないというのが、貨幣の単位が変わらないというのがありがたい.換金による無駄も出ないし. 頭の良くない私の苦手なクオーターとかいうコインがなくなったのも計算しやすくなったし…..(友人にいわせるとそれがなくなったので、物価が上がった、みんな切り上げするから怒るが、)
ユーロと私達はいうが、オーストリーでは「オイロ」といった.スペイン語やポルトガル語ではどうるのかな. いろいろな言語に通じている友人のダンナ、テクラブ氏に聞いてみた. スペイン、イタリア.ポルトガルはアウロ、フランス語ではエーロ…ということであった。発音(言語)が違うのに同じ貨幣を使う不思議かな、である.
私はユーロについて書くと友人三枝子にいったら「あたしはさ、この正月、じっとうちに閉じこもって街に出なかったよ、だって、ユーロが怖かったからね」ということであった。 おかしいが、笑えない。 ツーリストとして、新しい国へ行くとやっぱり『お金がコワイ』もんね。 日本でもひところ盛んに言われていた『デノミ』とかが行われていたら、同じであろう。
2002年08月20日(火) |
★アムステルダムのコーヒーショップは..★ |
午前中は家の中の掃除をして午後から出かけた. 今日の天気は雨のち曇り.こんな天気だと,アムステルダムは秋の終りのような気配を見せるのだが、今年は、むしっとしてTシャツ1枚でも歩けるのだ.
まずは、3番の路面電車に乗ってコセルトヘボウへ。今回は当地に10日もいないのだが、一度はあそこのホールで音楽を聞きたい.あそこの音の響き、おおらかに美しくて、スキなのだ. 予定表を見たら、なんかこの夏はベートーベン特集のようで、おやまあだったが一応金曜の夜のチケットを頼んだ.そしたら、一枚だけある、ということでゲット. 私の前の前の人は、9月に来るヨーヨーマのチケットを頼んでいたようだが、満席. 友人の話によると、コンセルトヘボウ交響楽団の指揮者さんが「50肩」とかで、先回公演が中止になったばかりだというが。。。
またまた5番の路面電車で、街の中心へ.チャイナでラーメンを買って、ムントプレーンにあるエコシューズへ靴を買いに行く。 ザルツブルグで買ったサンダルはどうも足に合わなくて、やっぱりアラスカに合わせてはいていた登山靴が私の唯一のお靴。三枝子に「あんた、くつ、それしかないの?昨日、買い物に行ったら、モロッコの子供が不思議そうな顔してあんたの靴、見てたよ」といわれたし、で、買い出しとなった. 結構モノの高いオランダだが、エコシューズは、日本よりすこおしばかり安い.しかし、今年は、ユーロがすごく強くて、円が悲しくなるほど安いのであんまりお得ではないかも。。。。。。だったが、そうだった. でも、普通の靴ひものをかって、待つ間に、近くにあったサンダルをはいたら、足にぴったり。。。。。。サンダルは『私を買って』とささやいてるようだし、足は、「これはあんたの足にぴったしよ、」とむずむずする。 靴屋のおネエサンは私の気持ちを透かしたように「これ、ウオーキングにすごくいいよ」というし。 ついに浪費だ、と承知で2足も買ってしまった。 まるでイメルダ、ね.
靴屋に行くまで、電車を折り損ねて終点のセントラルステーションまで行ったので、街中を観光客の顔して、ぽろぽろと歩いた。 見知らぬ狭い通りや、広いとところに出たと思ったら、アムステルダム名物の運河。 怪しげなコーヒーショップがあったり。。。。。。。 ちなみにオランダにコーヒーショップは、たくさんあるが、ここは日本でいう単なるコーヒー屋ではない. 「ドラッグ(ヤク)」も「飲める」ところだ。勿論、コーヒーも飲めるが、そばのテーブルで、ドラッグをやっていたら、自分もそれを吸うことになる. オランダでは、「ドラッグは自由」と思っている人が多いが、実は合法ではない.取引をしているところ見られたら、やっぱり違法でつかまる.合法と非合法の灰色のところにコーヒーショップはあるのだ. 「ご教訓 アムステルダムに行って、コーヒーを飲みたいと思ったら、カフェとか、カフェテリアとかいてあるところに入りましょう.ここには、ドラッグはありません」
帰りには、雨は大ぶりになった. 街中の観光客は傘を持っていない人が多い. あちこちで雨宿りの光景だ. 運河を行く遊覧船は雨でなにも見えないようだし・・・・・
2002年08月19日(月) |
★アムステルダムのチャイナタウンへ★ |
滞在している間に納豆を作ろうということで,アムステルダムの一角にあるチャイナタウンの中国人ス-パーへ大豆だの,豆腐だの,大好きな空芯菜などを買いに行った。 大豆はオランダのスーパーにはない。チャイナになる。豆腐はこの頃見かけるが,オランダスーパーにある奴は信じられないくらいまずいらしい,友人が言うには。 チャイナの店は,らーめん,おせんべい,インスタント味噌汁,等など何でもある。 ながねぎは,チャイナとトルコ人の店。果物はすいか、桃,みかん,りんご,ぶどう,アフリカから来るサボテンの実,等など。トルコ人の店が断然豊富だ。 エジプト人街に行くと,これまた少し変わったものが手にはいる。 多くの移民や亡命者を受けいれてきたアムスの街は食べ物の種類やお店も様々だ。
とだな作りをしている友人の夫,テクラブ氏に行ってくるよと出かけたのはいいが,いつも私がお金を下ろしていた「INGBANK」がない。ど、どうしたんだ?仕方ないので,もう一つ先にあるAMROBANKまで。 いつも行く本屋にストリッペンカルテという,市内の乗り物に共通する回数券を求めに行ったら,これまた定休日。仕方なく郵便局に。混んでいた。15分近く待たされた。路面電車に乗ろうとしたら,今度は乗る位置が変わっていて…。ということで,昨年との違いにおたおたしながら,駅近くにあるチャイナの店に行ったのは,11時を過ぎていた。
お店があるニュウマルクトは,夜になると怪しい町になる・・・そう、あの有名な飾り窓が近い。しかし,昼は,シナゴーグがあるし,観光客がうろうろする普通の顔をしている。 でもまあ,アムスの町の中でも,危ないところなので警官がパトロールをして入るが……。 友人によれば,この頃アムスで問題になっている犯罪は,偽警官なんだという. 東洋人の観光客(中国,勧告,日本など)に「ユーロのチェックだ」といってバックの中を調べて、金を持ち去るというものらしい.(ユーロは2月導入のヨーロッパの新通貨) 私「そんなんで引っかかるの?IDカードを見せろ,とか,大使館に行ってから開くとかっていわないのかねえ」 友人「制服を見たら,ハハッ-って国から来ると信じるんじゃないの?」 なんて会話をしたばかりだし,ご用心ご用心ではある.
もち論,偽警官の服は偽モノだがそれらしくしているらしい.
買い物……豆腐、空芯菜、大豆,小豆、肺骨ジャンという中国の味付けの元,ラーメンとか,冷凍のごま菓子をかいたかったが,かさばるのでやめた。 この後,クリエイツブツアーへ、来週からのエアチケットを取りにいかないといけないのだ. アムスダムの中心、ダム広場に出て電車に乗る. いつも観光客がびっしりと座っている広場の戦没者慰霊塔周辺は意外と寛さんとしていて,夏のバケーションが終わったんだという感じ.
中心とはいえ,ウィーンに比べると建物の高さが低くて威圧感がない。「宮殿疲れ」も癒される気がする.
クリエイツブツアーはJAL系の会社でホテルオオクラの近くにある. 電車に乗って移動. 何時もチケットの手配をしてくださる池谷さんとはほぼ一年ぶりに再会.7月の一番忙しい時期にメールを出して,色々とお願いした.昨年は戦争さなかにエジプトやトルコにいくので,チケットの発券をギリギリまで待って頂いた。 「1年ぶりですねえ」なんて,旅や洪水のことを話していたら,一時間があっという間に過ぎた. また来年お願いしますね,といってきた.(またきたいよね) 池谷さんによれば、チェコのこうずいは、9mも水位があがって、プラハのヒルトンやコンチネンタルといったホテルは営業を見合わせだという.また,観光客は5万が避難して,4万が帰ったが,まだ1万人が帰れないらしい. 100年ぶりの大洪水,大変なことになっている。
帰り,暑くて、ぼとぼととあるいていたら,前から知った顔が…. 「ア・・?」(本人の希望により伏せ字とします)とおもっていたら、彼が手を振りながら私の名前を呼ぶ. 「どうして,あんたとこんなとこであうんだろうね・・・・げんきなの?」 友人のところに時々くる,お父さん日本人,お母さんアメリカ人の若者である. 「元気ですよ,ずっとプラハに行っていてまた金曜から行くんです,」 洪水でしょ。 でも大丈夫ですよ,もう… 私,今回は1週間しかいないからね,来るんだったら今週中よ, なんて会話をしてわかれた。 彼は,ぶらぶらしていたのだが,今はあの「サッカーの小野」関係の仕事をしている.
帰宅して,暑い暑すぎる.…へこたれてゴロゴロ状態. 夜は少し元気を盛り返してよなかまでおしゃべりをした。
2002年08月18日(日) |
★暑いよ,アムスも★ |
日曜だ。 雲一つない青空,今日も暑くなりそうだ。 ヨエルによると「今年のオランダはここ最近ないくらいに暑い」ということだ。 オーストリーやハンガリー,ドイツは大水で大変だし…世界中が異常気象だ。
三枝子と朝早くから田中真紀子が辞職したなんていうおしゃべりして,彼女は教会へ。 子供達も夫々の教会へ(オランダ語の) テクラブはエチオピア教会だし。 私も,大抵三枝子の行く日本人教会にお供をするのだが今日はなんか疲れているしお休み。
このpcが置いてあるキッチンの窓から,向こうのアパートメントのオランダ人が洗濯物を干しているのが見えている。 上半身はだか。おっぱいはもろ見え,というか平気で好んで出してるというか。 時により,すっぽんぽんのときもあるし,下はつけているからいいか……だ。
ハイ,ここはたしかにオランダです。
そういうことで,今日は一日寝ている予定。
2002年08月17日(土) |
★ただいま、アムステルダム★ |
アムステルダムへ発つ日。 飛行機は夕方5時20分なので,それまで市内歩き。 ウィーンの安ホテルの食堂の窓から見える景色も今日で見納めだ. 赤茶色のレンガの屋根、白い壁,教会の尖塔、石畳のせまい通り…いくつかの映画の舞台となった世界だ。 今日はシェンブルン宮殿に行く. なんか,「宮殿疲れ」(ヨーロッパで大きな建物を見続けるとかかる疲労?)なので、宮殿はパスと思っていたのだが、ウィーンでは「シェンブルンとシュテファン寺院を見ないとウィーンを見たことにならない」というらしいので、行くことにした。一応,世界文化遺産だというしね.…. ウィーン市内乗り放題のパスは今日の1時20分で切れるしそれまでに活動しないといけないのだ。やっと,地下鉄や路面電車に慣れたと思ったら,去る日だ.
地下鉄を待っていたら,昨日から隣の部屋にいた大阪からの女性と一緒になった. 大阪の私立の高校の先生らしい. 彼女はもう2日,この町にいるようだ. お盆休みのせいもあるのか、この数日街中で見かける日本人はすごく多い. 彼女は一人旅で,ハンガリーからこちらに来たようだが..若い。多分20代後半か… エジプトが専門とかで話していると中々に面白い.
シェンブルンは,8時半開館だが,8時35分すでに人の列. 入るとガイドフォンを借りて,公開されている40ほどの絢爛豪華なお部屋を見ることになる. しかし,部屋は1400ほどもあるんだよね.すげえ御殿なんだよね。 ハプスブルグ家の夏の宮殿,というがマリーアントワネットはここで育っているし,ナポレオンとハプスブルグ家のお姫さんが政略結婚してできた王子が21歳で亡くなるまで、ひっそりと住んでいる.
しかしこの宮殿の主人公は,ハプスブルグの偉大なる女帝、マリアテレジア。 最初のコーナーは、フランツ.ヨーゼフ一世の執務室, もちろん、豪華であるが,質実剛健風。彼は勤勉なお人で,朝は5時には起きて仕事を始めていたという。 「倒れるまで働く」というのが彼のモットーだったとか。 角を曲がると,彼の王妃だった絶世の美女,エリザベートのお部屋,ぜいを尽くした美しい部屋だが,印象的なのは,体重計と運動具。 身長172センチ,ウエスト58センチを維持するために並大抵ではない努力をしていたらしい。 ヨーゼフさんは彼女を愛していたが彼女は?。なにしろ一人で旅をするのがスキでスイスで暗殺されたのだ。
マリアテレジアは16人の子持ちだったが、11人が生き延びた。女の子は夫々政略結婚だ。 マリーアントワネットの部屋は余り大きくなく、かわいかった。
すごいのは,大ホール,きんきら、きらきら。 だから私,つかれるのんだよん。 東洋の漆塗りのお部屋,純ヨーロッパのごてごて部屋。。。。。。 ハイ,疲れました,やっぱり。
外には広大な左右対称の庭園。真中に大きな噴水。そのむこうにはマリアテレジアが国のためになくなったたくさんの兵士の事をわすれないようにするために作ったというグロリエッテ。そこまで歩いて,お茶。最後の「ヴィエナ.メランジェ」(ウインナコーヒー) 世紀末ジャポニズムのときに作られたという日本庭園を見て出た. 外はすごい列,観光バスがどんどんと着く. 早起き,早出をして良かったよ. トイレが長蛇の列. 目立たないところにあった有料のところにいった。やれやれ。
最後の最後に、スペインのガウディに刺激されて作ったというというアパートメントフンダートザッハーハウスを見にいった。 ガウディほどではないが,ウィーンの古い町並みにあって異色。 さすがに個々では日本人に会わなかった。 昨日見た」金色のキャベツを載せたウィーン分離派会館と共に面白かった。 気持ち的には,庭園も宮殿も予定調和的に左右対称だ。そして非人間的にでかい。 ガウディのように不対象で曲線の建物を作りたくなるよね。 ウィーン的フラストレーション…極私的意見ですが。
BIPAという,ウイーンのマツキヨで、フィルムとか,洗剤をかってにもつを預けてあったホテルへ。 飛行場にバスで20分ほどで市内から行けるウィーンはイイ街ではあるが,暑い。 ガス入りの冷えたミネラルウオーターをビール代わりに飲んだ…が、しかし、荷物をひっぱっていると汗だらだらだ。
よていどおりのフライト。 ビールを飲んで爆睡。 隣のモロッコ人の女性が夫と席を変わってくれというので替わってやったが…。飛行機の中は,モロッコ,トルコの人が俄然多くなる。
7時5分、10分も早く着いたのに荷物が出てこない。 35分も待った。 どうしたんだ?オランダ?
荷物を拾って外に出ると1年ぶりの友人三枝子の顔。 抱き合って…でした。 子どもたちも男の3人がそろってきていた。 大きくなったのでびっくりだ。 特に一番上のヨエルなんか,180センチはありそうだもん,15歳だというのに。
夕食は巻きすし。 彼女の夫テクラブ氏は不在。 pcの不調を直しに来ていた梅澤さんとも1年ぶりの再会。 バイトから帰ってきた1番上の直美ちゃんもいた。 懐かしいねえ。 なんか,アムステルダムに帰ってきたという感じだ。
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明日から,すこしずつ旅日記をアップしますのでお楽しみに。
フィッシュキャンプの裏のがけを登ると、そこはツンドラの大平原が広がっている。 今日は、ラバーンさんがそこを横切ってルーンレークへ連れていってくれるという。ルーンは渡り鳥、鴨のような鳥だ。 ツンドラは私、本当に大好き。かぐわしい、という日本語がぴったりの香りがするのだ。息をするだけで、なんか・・・ああ幸せ。 空は雲一つない青空、光が強くて暑いくらいだ。足下には、昨日も摘んだワイルドブルーベリー、ブラックベリー、クランベリー、真っ盛り。何より、昨日は少なかった、サーモンベリーがたくさんある。サーモンベリーは色が鮭の身に似ている。ねっとりと甘くてうまい。歩きながら摘んで、食べてで・・で、ちっとも進まない。ラバーンさんはツンドラの案内人としてはスペシャリストのようで、すごく小さい鳥の動き・名前をしっかりと教えてくれる。 ルーンレイクには、ルーンはいなかったが、ファイアーウィードに縁取られた池は美しかった。
帰り、ラバーンさんが、ツンドラにある薬草を教えてくれた。
帰ったら、ビュ−ラーさんが、エスキモーの医療について話してくれた。全部聞き取れたわけではないが、要するに漢方系だ。 中国の伝統医療ににている、といったら、中国人の研究者も来たという。そして、セイウチのペニスの話になったとき、「セックスのために使うのか」といわれてビクリしたと笑っていた。 ビューラーさんは若い頃、ライフルの選手で大会のために全米を旅したという。 故郷は私が飛行機から眺めて不毛の大地と思っていた山の中。ジェイドマウンテンのそばだという。ジェイドマウンテンとは、まさに1山がジェイド、晴れると山がかがやき、降ると山は暗く沈むのだという。近くにアンバーマウンテンもあったという。すごい、アラスカの山は宝の御山だわ・・・
午後4時半、町のエスキモーセンターで、彼らの踊りを見た。でも、いつもここでやっている子どもたちが、夏休みを利用してカナダに公演旅行に行っているとかであまりうまくなかった。残念。 飛行場で、もうひとりのお客(ラバーンさん夫妻の古い友だちみたい)ヲピックアップして帰る。 夕方、ビューラーさんが、洋服(エスキモードレス)ができたからと声をかけてくれた。 ホントすてき、だ。早速着てみた。よい感じ。ビューラーさんと記念撮影。 「黄色いのは初めて作ったけど、すごくいい」とはビューラーさんの言葉。 ラバーンさんも、ヘンリさんも、ケリーも、みんないいねえ、と褒めてくれた。 夕食はチキン。でも、私にだけは、鯨肉とカリブーステーキがでた。(明日帰るから)カリブーが固い。野生の牛って感じ。 イクラも、オードブルとしてクラッカーにのせた。 私がイクラの生臭さを消すのに醤油とワインをすこし加えたら、ラバーンさんは感激。サワークリームをクラッカーにぬって、その上にイクラを乗せて。白と赤、何か緑が欲しい・・と私はエスキモーティーの小さい葉をむしって上にのせたら、何かみんな感動?している。「すばらしい、美しい」「繊細だ」とかって。果てには「やっぱり日本人だ」って。 お世辞か?と思ったら、結構マジ顔で私がびっくりした。 ワインを飲みながらラバーンさんと夕食の支度をしたんだけど、男性方はお安いワイン。私とラバーンさんは「トップシークレットよ」なんていいながら高いヤツをグビグビ。うまかった。 ビューラーさんは、ビールの人だし。
夕食後、みんなで、浜辺に転がっていたセイウチにオイルをかけて、流木などを拾ってきて燃やした。 何しろ、でかいから燃え尽きるまで時間がかかった。 11時近くまで、浜でその火を燃やしたり、火を見つめたり、ぼやぼやと話したり、波の音を聞いて・・で過ごした。 なにをするわけでもないが、至福の時間。 黄金色の夕焼けが沈みはじめて私はお休みをいって部屋に帰った。 ケリーが「バイバイ、いい旅をしなさい」といてくれた。 彼は、いつも私が起きる頃には仕事でいないし、明日も私は出発する朝にはいない。ありがとう、さようなら。カヤック、するよ、私も。
明日はアンカレジに帰る。 本当に楽しい3泊4日だった。
2002年08月01日(木) |
初体験!カヤックに乗った |
昨夜は夜、さすがに冷えた。 すばらしい天気だ。 朝から、ジョージが鮭が盗まれた、と騒いでいる。 昨夜、さばきれなかった鮭を箱に入れて置いたらしい。それがなくなっているのだという。こんな人気のないキャンプで泥棒?びっくりした。 しかし、警察に電話してからジョージの友だちを自称するヤツが勝手に持っていった、ということが判明した。ラバーンさんは「どんな友だち?」だって。
昨日の網は私が来る、ということもあってかけたものなのか? 今日は網はかけてない。ヤレヤレ、だ。 でもサーモンは時々静かな海ではねているし、うじゃといるのは確かだ。
「クジラが見たい」と私が沖を見ていたらラバーンさんの夫でヘンリーさんが、この前ベルーガが沖を通っていったよ」 ベルーガ!!白イルカである。エスキモーたちはあれも食うんだったよねえ、確か。 見たい!! といったら、いつくるかはわからない、と。もちろんそうですよね。
午前中は、海辺を散歩したり、石拾いをしたり、のーんびりした。 ピチャ、ピチャというかすかな波の音以外には聞こえない。後は静寂。時々ダートを走る車が通る。 浜辺にはセイウチの死体が転がっている。 ビューラーさんによると、春の頃に(氷が溶け出す頃)に流れ着いたものだという。頭がない。セイウチに牙を狙った密漁だ。
12時近くになって、昨日、生地を買った店に忘れたジャケットを取りにジョージの車でラバーンさんとともに行った。 いろいろなお店によって、お昼をホテルのレストランで食べた。 それから、私は郵便局に行って切手をかってをハガキを出す。昔の造形塾の子どもたちへ、だ。
帰りがけ、ツンドラによって2時間近くベリー摘みをした。 ワイルドブルーベリー、クランベリー、ブラックベリー、サーモンベリー・・そして松の香りのするエスキモーティ。 紅茶に入れて飲むと香りがしていい、身体にもいいと、ラバーンさんが説明してくれた。 摘みながら食べる。うまいのは、サーモンベリーだ。ねっとりとした濃厚な甘さがある。 何とっても、ツンドラのこけのかぐわしい香り・・・胸一杯に空気を吸い込むとそれだけで、口から自然と「ああ、いい匂い、ああいい気持ち」と言葉が出る。 ベリーは至る所にある。「この辺は7月の中旬まで雪だったの、それが解けたからいっせいにベリーが実をつけたのよ」とラバーンさんはいう。 ということは、雪の下でもう花をつけていたのか。でなければ、たったの2週間で実になるなんて不可能だ。短い夏を必死に生きる植物のしたたかな力、知恵を感じる。 「ブッシュのそばの実はでかい」とラバーンさんはいうが、その通りなので、できるだけ、ツンドラに這うようにある木々のそばをさがした。 帰ってすぐにワイルドブルーベリージャムをつくった。 昨日から、ラバーンさんに「イクラをたくさんおみやげに日本に持ってかえりなさい」といわれている。「でも、私はアムステルダムの友だちの所に行く」といったら、「じゃ、ジャムを作ってお友達の所に持って行きなさい」となったのだ。 ワイルドブルイベリーのジャムなってすごく豪華だよね。
夕ご飯の後、キャンプにあった鯨の骨(ホッキョククジラ)をもらって、ケリーにカットしてもらった。 ケリーはこの夏、キャンプにすんでいる男性で、カヤックのパドルを作っている。職人だ。アラスカのジュノーとフロリダのバハマに仕事場を持っている人だという。この夏はこの町での仕事らしい。 パドルだけ作るなんてかっこいいと思う。 ヒゲズラだけど、眼が優しくて私は好きだった。 このクジラ骨を磨いて「これはツンドラのイメ−ジ」といったらラバーンさんをはじめとしてみんなに褒められた。 鯨の骨には細かい穴があるのだ。それが無数の池を持つツンドラの姿に重なるのだ。
日が沈むまでは長い。 みんなで外の椅子に座ってのんびりした。 北極地リスという、モルモットのような大きさのリスが近くにいっぱいいるのだ。 そいつにエサをやったり、からかったり・・・ 何度もつかまえようとした私はすっかり嫌われてしまったが・・・ ケリーがカヤックに乗って戻ってきた。 「ケリー、私も乗ってみたい」 といったら、「OK」ということで、初カヤック。 時間は夜の9時半を回って10時に近いというのに、黄金色の光の中を海にこぎ出した。 私は前、ケリーは後ろ。 静かな海をカヤックはすいすいと進む。時々ケリーが左、とか右とか、櫂をボートにぶつけないで離して・・とか簡単な英語で指示をくれる。 ヘエ・・・・カヤックてこんなに簡単だったの? もうびっくりした。そして、風を切って夕方の陽の光で橙金色に染まった海を進むのは何と気持ちいいことか。 日本に帰ったら、小笠原で本格的にカヤックするぞ、と心に誓った。 「ケリー、ありがとう!!とても楽しかった、気持ちよかった」
*後日談 2人乗りカヤックは、後ろがしっかりした腕だったら、前ははじめてでも初心者でも支障なく動くのだという・・・改めてケリーありがとう、でした。
ベリー摘み、カヤック・・夕暮れ時ののんびりした心から夏を楽しむだんらんの時間。よい一日でした。
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