9月30日 朝からぐずついたお天気だ。 今日は、父はデイケアの日。 本人は、子どものようなことを時々させられるのでいやなときがある、というが、まあしかたない。 8時半過ぎに、車が来て、二人の担当の人が父の手を取って車に乗せてくれる。 至れり尽くせり。 以前、母が爪が伸びているので切ったらと爪切りを渡したら、父がデイケアで爪を切ってもらうからいいといったとか。 「切ってもらっている人がいる」 それも、若いきれいな福祉士の女性に。 母は、それは、自分で切れない人だけで切れる人は自分でしなければいけないと、いったらしいが・・・・私が車に乗る様子を見る限りでは、すごくご丁寧。もう少し時間をかけたら、手を添えなくてもできるはずなんだが・・・・ もちろん、自分の親へ乱暴に対されるよりありがたいが、複雑である。
私が老人になったとき、こんなふうにしてもらえるかな・・・・・たぶんだめだね。 介護保険、だって破綻の日がきそうだもん。(わたしは国を信じない人なんだよね)とにかく、元気で死ぬ日まで生きたいモノだ。
夕方、食事の支度をして帰宅。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7月28日の旅日記アップ。 (インデックスから2002年7月をクリックしてくださいね)
昨日から「頭を洗って欲しい」というので病院へ行った。 同じ病室の人が2人退院。 お向かいのすごく気があったらしい人も4日には退院。 自分も早くしたい、じきだろうという。 まさか。まだ、足は2倍以上に腫れているんだよ。 痛みもあるんだし。 指のリハビリもしないとまがらんだろうし。 そりゃ無理だ、今の状態でうちに帰っても困るばかりだよ、まだ病院がいいよと言ったら怒って口もきかない。 気持ちは分かるが・・・ねえ。 要するに事故で壊れた身体は絶対に元通りにはならない。何か不具合があるだろうし、痛みもあるだろうし、それが退院して身にしみてわかったら落ち込みも激しいだろうと思うとそれも心配だ。 手足が動かないぶん、口が動いて、ぼやんと平和に暮らしている父のストレスになりそうでもあるし・・・・(口の矛先はどうしても父に向かう・・だろう)
帰りがけ、何かとお世話になっていた向かいの方にもうお目にかからないと思うのですが、お世話になりました、ありがとうございましたと挨拶したら、ううん、なおったらお宅に遊びに行くから、といわれた。 どうやら、母じゃはお友達をつくってしもうたらしい。
昼はカレーを作った。 タマネギをしこしこ40分炒めたら、なかなかいい味になった。 夜は姪が教育実習で帰宅したのでおすし。 うちにくると、どうも食べ過ぎる。 すこしダイエットしないと、また肥満度アップだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7月27日の旅日記、アップ。
2002年09月28日(土) |
新潟平野は野原になっていた |
7時半、目をこじ開けて起きた。 9時に友人mさんと駅待ち合わせで、お参り。(友だちのご主人の御霊前) 12時には新幹線で新潟へ。 外は雨だ。
友人に駅待ち合わせの確認、家にも今日に帰ることを再確認だ。 昨日まで、なんといって友だちを慰めていいのかと思うと、本当に気が重たかったのだが、昨日の電話で少し、気持ち的に正面から行けるかな、という感じになった。 mさんのご主人が送ってくださる。 密葬(遺志)だったし、彼の遺志だからなにも持ってこないで、ということだったがお花は、お受けします・・・・(彼も好きだった)ということだったのでお花を用意した。
手を合わさせていただいた後にいろいろとお話を聞く。 心臓に問題がったのに医師が疲労、肝臓を不調の原因とみて薬の投与。薬への過剰反応の問題などがあって手遅れになってしまったとのこと。 無念なことであったろうと思う。 「ありがとう」が最後の言葉だったという。 私が最後にお電話で話したのは、もう1年以上前だろうか。吉井勇の話だった。 御霊前のそばに吉井勇の資料があったのでお借りしてきた。
10時半過ぎに辞して、12時の新幹線で新潟へ。 1週間ぶりの母、顔や体の腫れがやや引いた。その分、少し楽になった感じ。しかし、足はまだ腫れ上がっている。 しのじんさんにいただいたケーキを切って持っていき、ネットお遍路のみなさんが心配してくださっているんだよ、お寺にいくたびにお祈りしてくださっている人も・・とはなしたら、おやまあ、ありがたい、と喜んでいた。 みなさん、ありがとう。 しのじんさん、ケーキおいしかったですよ。ごちそうさまでした。 この前は金色に波打っていた稲がきれいに刈り取られていた。 こうなると、もう雪の季節を待つばかりって感じだよねえ。
雨のぐずついたお天気。 でも、静かな晩、コオロギの音と地虫の声が聞こえてくる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9月7日旅日記アップ。 バルトは、これで終わりです。 次回からは、7月27日のアラスカ旅日記に入ります。
2002年09月27日(金) |
いちおう掃除は終わったが・・ |
朝からまたしても掃除。 もう疲れた。 ゴミ袋6つ捨てた。まだ捨てたいが、もう次回だ。 とりあえず、出ているモノを所定の位置に入れる(隠す)ということで終わり。 まあ、挫折だね。
昨夜は7日のご主人を亡くした友人と電話で話した。 なんと声をかけていいかわからなくて・・いたがいろいろと話して・・なんか、ほっとした。でも、たくさんやりたいことがある方だったからご本人が無念だったと思う。まだ59歳だった。
9/6日の旅日記アップ。
今日はこれから、愚さまとしのじんさんにお会いします。 嬉しいな。
ああいやんなるよ。 今日も掃除だ。 昨日も、出てきたモノを読み老けったり、ヨーカ堂にboxを買いに走ったりしているので進まない。本当に掃除ムキの人間じゃないと思う。 ヨーカ堂には、もう来年のカレンダーが並んでた。おいおい。もうそんな時期 なのかい。 これ書いたら、PC、OFF。休憩、終わりです。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9月5日の旅日記アップ。
昨日は夜友人と、すごく久しぶりにインドカレー屋でお食事。ビールうまし。 話もたくさんした。
その前に鍼灸の先生のとこに旅土産を届けてその中に「リトアニア名産 琥珀」のかけらをいれて置いて「かの国では琥珀は身体を癒すといわれています」といったら「そうだね、松の気が出るんだろうね」。 おお!!!そうか。迷信じゃないんだ!!!確かに松の気は身体に優しい、私は大好き。私が琥珀に惹かれるわけがわかったよ。 さすが、我が鍼灸の師よ。 長いネックレスを2連買ってそれをばらして少しずつみなさんにおみやげとしてあげているのだが、ぜひこの話をしよう。
大掃除続行、しかし進まず、出てくる新聞雑誌、本、片っ端から読んでいるんじゃねえ。 さすがに飲み会は自粛だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
9/4日の旅日記アップ。「ブリギッタ先生と大聖堂のオルガンを聞く」 読んでみてくださいね。
さっき日記(9/3日)をアップ。 これから大掃除だ。 夕方は、昨日電話のあったお友達と会う。 これから、毎日夕方に人と会う日続きそう。 そんなことで、朝からがんばるそう。
今日の日記はこれでおしまい。 9月3日の「ブリギッタ先生にあう」はおもしろいですよ、なんてね。
今日は、お彼岸で亡き大伯母の命日で、お参りだ、と朝からスタンバッテいた。 10時半すぎに出発。 大伯母のお墓は六本木にあるので、乗り換え・乗り換えで1時間あまりかかる。 六本木の坂を下っていたら、「ほら、曼珠沙華ですよ、きれいですね、秋ですよ」と見知らぬ男性から声をかけられた。 その方は、手にカメラとスーパーの袋を持って公園の土手に咲く花の前におられた。 一瞬面食らったが「そうですね、きれいですね、曼珠沙華、白い花もあるようですよ、」といったら、「そうですか、知りませんでした」とにっこり。私もにっこりで、じゃ失礼しますーす。なんかいい感じだった。
お墓には、一足さきにだれか来たようでお花、線香がけむっていた。 お参りをして、お寺できくと「したのお嬢さんが、ホンのさっき見えました」。 ノンちゃんだ。もう少し早かったら、会えたのに、だ。 次は、川崎の家の方へお参り。おばあちゃんとよんでいた大伯母の住んでいた家だ。私もしばらく住まわせてもらっていて、ママとパパと呼ぶ人がおるのだ。 しばらくぶりである。 母の事故のことを話したら、ママとパパはびっくりしていた。
帰りがけに近所の川崎大師にお参りした。
東急・ヨーカ堂で買い物、外に出たら5時過ぎ。薄暗かった。陽が短くなった。 秋だよね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9/2日の旅日記アップの予定。
朝8時26分の新幹線帰宅。 車中、駅売りの新潟日報を買ったので読む。 新潟は、過去の「神隠しのような」行方不明者の洗い出しにてんやわんや。 北朝鮮がらみ、で。 新穂村の行方不明男性のお兄さんは「ずっとどこかで自殺したと思っていた、でも自殺の原因がわからなくて・・・」 こういうのはつらいだろう。
自宅着、11時半過ぎ。 メールチェック。 雨がふりだして、こういう日の極楽で少しひるね。 弟から、とりたて野菜をいろいろともらったので今日はそれで夕食だ。
何故か、日記サイトのアップがおかしいのでまた書き直した今日の日記、である。
しのじんさんよりの穴禅定の写真、むむむ、なるほど。 だって、メガネを取るとなにも見えないので、見ずじまいだったものを拝見した。 ありがとうございました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9/1日の旅日記アップ。
2002年09月21日(土) |
おいなりさんとお団子 |
今日は中秋の名月。 お彼岸だし、仏壇のそうじをして、おいなりさんとお団子を作る。 母がいると、おはぎを作るはずなのだが、ちょっと、私には自信がない。 新米こしひかりを使ったおいなりさんだったらうまいはずだし、まあ、ご先祖さんにはそれでかんべんしてもらおう。 弟夫婦は、昨日からの晴天で、アルバイトさんとともに、コシヒカリの刈り入れにに忙しい。 甥は、全農主催の稲刈り体験ツアーのお世話とかでお休み出勤していったし。 なんか、100人近くの子どもが来るとか。
昼御飯は、おいなりさんがメイン、、おやつはお団子と、とれたばかりの蒸しサツマイモ。 もちろん、仏さんと、窓辺に出したお月さん用にも供えた。 近所から、ススキもとってきたし。
夕方、母のとこにススキとおいなりさん、お団子、お芋と持って出かけた。同室の方・5人にも一口ずつおすそ分け。 帰りの切符が連休のせいで、朝早い高速バスがとれない。帰りも新幹線にした。 外の景色が楽しめない新幹線、嫌いなんだけど。
夜は焼きそば。 甥が喜んだ。 コシヒカリの刈り入れはもう少しで終わりになるらしい。 10町ほどあるので、とにかく大変。 弟は、この10日ほど母の病院にいってない。 ビールの後に久保田の万寿を飲んだ。うまかったねえ。 で、またビデオ、見ることできず。いやはや。
2002年09月20日(金) |
あれ、また忘れものだよ! |
またまた大失敗だ。なんと、携帯とシグマリオンをつなぐケーブルがはいっていない。ということで、日記のアップできず。 トホホござる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 朝6時半おき。アルツand パーキンソンの父に身支度をさせ、8時過ぎには病院へ。予約が8時半から9時なのだ。 8時でも十分早いのにすでにずいぶんたくさんの人が待っていた。 世の中は不景気なのに、病院は繁盛しとるのお。
夕方は母の病院へ。 前ほど、痛いといわなくなったが、冬にけがをして完全に治りきっていなかった腰から背中もずいぶん痛いと嘆く。 事故はねえ、後からどんどんに痛くなるんだよね。
夜、よっくんせんせいの祐子おばあちゃんからいただいたビデオを見ようと思っていたのに寝ていた。 肌寒くて、夜中蒲団をかけた。秋だ。
2002年09月19日(木) |
捜し物に疲れた・・・ |
朝から、写真さがし・・数日前にメール添付で送った現物がみつからぬ。 30分もかけてほかの写真の間に埋もれているのを発見。やれやれ。 紙類の整理ができていないので、まったく!!の非効率に我ながらいやになる。
今日は午後から郷里だ。帰ってきたら、まずは大掃除の日程をくんでで3日くらい徹底的にやりたい。バリバリ、捨てる!!
まず母の病院に行くので、持っていく肉じゃが制作中だ。 北海道のYさんから美味しいじゃがいもをもらったのでそれが素材だ。 いい天気だけど、日差しは完全に秋だね。
晴れました、洗濯。 以前友人から頂いた本(「通りすぎた風景」)を読んだ。 彼女が書いたもの、、だが、「昨今女之不機嫌」的内容。 なかなか、おもしろかった。
昼のテレビで北朝鮮の拉致事件の続報を見た。 ムムム・・だ。やはり、「殺された」んだろうな。「死亡」ではなくて。
夕方、5時半7月のお遍路で知り合ったKさんと会う。 飲み会です。 行ってきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8月31日の旅日記「キフヌへ」アップ。ご覧下さいね。
2002年09月17日(火) |
やっと時差ボケから開放? |
昨夜は夜中にパッと目が覚めることがなくて朝になった。 やっと時差ボケから開放か? それにしてもパッとしない天気だ。
仕事、メール少々。 8月30日の旅日記アップ。
午後からお出かけ。 8時半帰宅。 たっぷりと寝たら、耳と目の調子は少しよくなった。
という感じで中身のない一日。
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8月30日「エストニア野外博物館」の日記をアップしたのでご覧下さい。
徳島よりの夜行バスは予定より早く、6時10分着。 4号車に乗ってきたしのじんさんやきょんさんと品川駅へ。 きょんさんは京浜急行で横浜へ。しのじんさんと私は山手線へ、渋谷でお別れした。ホントに楽しい1日をありがとうございました。 本当に夢のような時間だったと思う。 帰りの電車で、「旅行人」を読みふけっていたら、思わず夢中になり、駅を乗り過ごしてしまった。子どもの頃、歩きながら本を読んでいてよく電柱にぶつかったけど、あれ版の乗り過ごしは時々やる、が。トホホではある。うちに帰って寝たいのにね。
帰宅後、ネットの書き込みなどをして、お布団へ。バスの中で寝たのではあるが、身体を横にするのは心地よい。 ということでなんと2時半まで寝てしまった。 それからご飯、ネット。 なにげにテレビをつけたら、花火大会ドキュメント。おもしろくて思わず引き込まれた。このところ、夏の長岡の花火大会の時に帰らないので、あの大花火大会を見ることができないのだ。やっぱり花火はいいわ。美学だよね。 左目にモノモライできてるようでかゆい。 右耳もなにか痛いし。 少しゆっくり休養してなおらんかったらお医者さんだわね、旅から帰って身体が安心した気がする。 雨。今日みたいな日の雨は好き。のんびりできる。涼しいのもいい。
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8月28日の日記完了、29日までアップする予定。
これから少しお仕事。
2002年09月15日(日) |
たまちゃん遍路で〜す |
徳島着6時40分、予定よりはやい。まずはトイレと、車中、席が斜め前で、今日の遍路にもご一緒するきょんちゃんちゃんと徳島駅に走ったら、なんとたまちゃんとお母さんに早速遭遇。「わああ!!!」「げんきだった?!」というかんじで。 きょんちゃんは、8月23日箸蔵合宿に行かなかったので、たまちゃんとお父さんお母さんには「お初」だ。 でも、ネットで知っているので、ね。 たまちゃんは少しスリムになっていた。 もちろん「笑顔」はやせていなかった。
お父さんの車で、先に徳島入りしておられたしのじんさんと合流。 合流地の19番恩山寺へ向かった。 車中、ミッチー先生に会えるとたまちゃん、すごくうれしそうだ。 三宅のオッちゃんにお願いしてミッチー先生の隣りの席を確保したら、という提案で「そうする!」と断固といってに〜こにこ。
恩山寺で、なつかしいみなさんと再会。 三宅のオッちゃん、明応さん、瑠璃さんは初お目見えだ。 でもネットの書き込みで知っているのでなんかやっぱり初めてって感じはしないんだよね。 大急ぎで(失礼)お参りをすませて朱印をいただく。 みなさん、その間にこにこと待っていて下さった。 こういう「ゆっくり感」がすごく好き、このたまちゃんお遍路ご一行のよいところのひとつだ。
次は、今日のメイン「慈眼寺」の穴禅定だ。 私は春にくぐっているので失礼した。 お遍路あこがれの穴禅定を1年に2回するのがラッキーすぎて恐いし、あそこへはいるのはなにより心の準備が必要だ。入るの?ああじゃ行く・・という感じではこれまた恐い。 まあ理由はそういうわけ。 たまちゃんと、三宅のオッちゃん、たまちゃんのおとうさんと4人が残り組でのんびりとしていた。お不動様のお堂にいたら、来年醍醐寺で修行するというお坊さんが来てひとしきりお話しした。たまちゃんは、お坊さんについて、本堂でもお参り、いろいろとお話をしていた。 しばらくして、阿波公方さんが戻った。 夏に切った膝わきの靱帯が痛いとのこと。 それで、入り口からしばらく行ってリタイヤ。 来年・・ということだった。 話題は穴禅定のお大師さん像をどうやっていれたか、だった。 やっとであそこにたどり着くとあって当然だったので「どうやって入れたか」なんて疑問は浮かばないのだが、阿波公方さんに「そんなん、どうやって入れたんですう?」といわれて、そういえば・・といろいろと議論したがわからず。 ほんとに、どうしたんでしょううね? シバちゃんから、どこで合流しようかの電話。 鶴林寺の駐車場となった。
11時半過ぎ、もうでてきてもいいはず、と気になったので、穴禅定の方に歩く。しばらくいったら、法螺貝のね。明応さんが吹いている。ああ!!オオ!!みんな出た。よかった。法螺貝の ね が 嬉しそうに響いているのがいい。私も嬉しい。 大急ぎで戻って「法螺貝が聞こえたでしょ、みんなでたよ」 エエ聞こえないよ。 意外や意外、慈眼寺の境内にはあの音が聞こえないらしい。
ばたばたはしってきたよっくんせんせい、足まくりして気合い十分のきょんさん、明応さんご夫婦、くれーてさん、るりさん、よっさん、ミッチー先生、祐子おばあちゃん、しのじんさん、たまちゃんママ、そして、つぐちゃんとじゅんちゃん。 みんな、すごく晴れ晴れとしたいい顔で、見ていても気持ちよかった。 わたしは、じゅんちゃんが少しお体が不自由なので心配だったのだが、よかった!!思わず抱き合ったよ。これは彼女のすごい自信になると思う。つぐちゃんも、よかった!! 私も、また、心の準備をしっかりとして入れていただきたいと思っている。
鶴林寺は車の渋滞。 あの狭い道を琴電の団体バスがあがっているためだ。 シバちゃんが赤い車で待っていた。 なんとかうって、太龍寺下で昼食。 楽しい時間。
太龍寺ロープウエイ、登りは初めてだ。この春は、下りで乗ったからね。 今日は、はれているのであちこちがよく見える。 南の舎心のお大師様も今回見えた。 その手前の山頂の狼像には笑ったけど・・
太龍寺の長い石段、三宅のオッちゃんが一生懸命にあがられた。もちろんたまちゃんもだけど。 エライよね。
この後不動霊場の正光寺をお参りして5時。 なんと、それまでかろうじて持っていた空から5時を合図のように雨が降り出した。すごい、まっていてくれたんだ。 みなさんにお礼を言ってお別れ、次回は私がわがままをいって17日となった。 ありがとうございました。 ホントにこのお遍路は気持ちいい。 たまちゃんのおかげだね。 ありがとう。
徳島駅までシバちゃんに送ってもらった。 その後夕食。 そしたら、シバちゃんより電話。 徳島に泊まって、明日は休みなので徳島の霊場を巡るという。 そういうことで、ご飯に合流。 きょんさんやしのじんさんよりすごい話を聞く。 あの穴禅定の中でオシッコがしたくなったよっくんせんせい、みんな困った!しかし、なんとよっくんせんせいの為のようにビニール袋が落ちていたのだという。そこにして、こと足りて・・・奇跡のような、偶然の必然・・もうびっくりのありがたいお話であった。 入った人はわかるだろうがあそこにビニール袋が落ちていること自体、普通はありえんことなのだ。
徳島駅前で、倒れた自転車の上で意識不明になっている男性発見。 声をかけても起きない。 駅前交番から電話。 すぐにお巡りさんが3人来た。 「電話したのは私です」 と名のる。 電話の時に出たポリスに、住所や氏名電話を教えろ・・とかっていわれて、名のるほどのものではない、が、あのままだったら、あの人はものを盗られる(ウエストポーチをしていた)、もし病気だったらこまるのでしらせた・・・で切ったのだ。
見ていたら、おじさんはさんざん声かけられて、揺すぶられて、やっと正気。 やっぱりしこたま酔っぱらっていたようだ。 どこから、といわれて「大阪」の答えにびっくり。 よくよく聞けば、駅前の第一ホテルに泊まっているらしい。 シバちゃんの解説「大阪で、飲みに行くときにいつも自転車に乗っていて、酔っぱらって徳島ってことを忘れて、つい、習慣で駅前で自転車に乗って・・倒れてしまって意識不明ってことじゃないの、あの自転車自分のものじゃないよ」 そうだね。正しいと思う。 やれやれ。
シバちゃんが送ってくれて、しのじんさんときょんさんは4号車へ。私は1号車へ。 ホントにいい1日でした。
久しぶりに寝坊した。 起床11時30分、7時の目覚ましで一応目はあいたんだけど、何かいい夢をみていて(トホホ、覚えとらん)また寝てしまったのだ。 昼近くまで眠るって1年に数回しかないんだけどな。 少々お疲れ? 年ですなあ。
メールや仕事少々。 ホッ散らかっているものをかたずけたら、4時過ぎた。 今日は、品川午後9時半発の徳島行き夜行バスに乗る。明日は一日たまちゃん遍路だ。楽しみ。 出かける前に、手紙を書いたりすることがいろいろとある。
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ラッキーにも時間ができたら、8月28日「エストニアの首都 タリンへ」をアップしよう、と思っているが・・・どないになりますことやら。
めっきりと涼しくなった横浜へ帰ってきた。 高速バスで帰ってきたのだが、新潟県境のいわゆる魚沼産コシヒカリの産地は今黄金の波。晩稲なので、稲刈りを待っているところだ。 いい景色、なつかしい景色、イネの匂いをかぎたい。そういえば、今回は、外に行かなかったので「田園の匂い」をかいでいない。さびしいことである。 しかし、まだしばらくは「母入院中」だし、また帰るし、そのときだね。 沖縄出身の友人が、この夏は「沖縄再発見」の旅をしたとハガキをくれたけど、私も帰るたびに、昔は何気なく見ていた自分の故郷の美しさを見つける。
昼下がり、仕事少々。 オランダから送った荷物が11日に届いていた。 それを在宅で受け取る。
去年は、チーズがかびていて、大変だったが、今年は丸いヤツと真空密封のヤツを選んだので大丈夫だった。早速、むいて食べる。うまいよねえ。 チーズとビールはよくない組み合わせなのだが、思わずビールを飲んだ。 ホントはワインがよい。 友人によると、ビールはお腹の中でチーズを固くするが、ワインは柔らかくするので消化がいいらしい。 でもワインは、封が切ってないんだよね。
家の中がおくった荷物をひろげたら、ぐしゃぐしゃだ。 なんか、かたずかない。あちこち汚い。 涼しくなったし、思い切って大掃除にかかるか。
駅雨のミスドーがつぶれた。便利な場所だったのに残念。ケンタとマックに負けたのか、な。
パーキンソンで、少しボケが入っている父は、母がいないと結構困る。涼しくなって来あので袖の長いモノを出す。出しておけば、弟たち夫婦がやってくれるので・・・ついでに掃除も・・母は掃除より、飛び歩くのが好きな人なので・・ね。
夕方、病院で洗髪。 私の体験からいうと、お風呂と、シャンプーは入院患者のお楽しみのひとつだ。だって気持ちいいもん。 母も「ああいい気持ちだあ」と素直に喜んだ。(ふだんは決してこんなに素直じゃない)よかった。
新潟、今日はすごい雨。 おまえが帰ってくると雨が降るなあ、今までずっと晴天だったのに。 と弟にいわれた。 このうちでは私は雨おんな」になっている。 でも、しかし、私が行っても、2ヶ月も雨のないラトビアはあめふらんかったぞい。
2002年09月11日(水) |
新潟へ・・でも、モバイル、忘れたよ |
事故にあって入院中の母の見舞いに新潟へ。 しかし、シグマリオンをテーブルの上に置いて荷物に入れなかった。 オオドジ!!
母は、まあ自分が悪いのだが、バイクに乗っていて自動車とケンカ。あちこち骨折。私が行ってときも、ヒビといわれていた左足に骨折がまた見つかりエエ?!状態。多分入院は一ヶ月は固いだろう。 まあ、生きていてくれてよかった。 わたしが旅中に「あっち」に行かれたらたまらんかったわい。 口は元気で、同じ部屋の人と楽しそうにやっていたのでこれも一安心だ。
夜、弟と、バルト3国の伝統酒を飲んだ。品評会だ。 エストニア・・木の実ワイン(クロスグリワイン) ラトビア・・・薬草種(ハーブ・木の実・はちみつ入り) リトアニア・・・はちみつ酒(はちみつの酒)
薬草酒は、まるで西洋養命酒、一番お酒っぽかったのは、木の実ワインでした。
涼しい。 昨日の雷と雨のせいかな。虫の声が聞こえる。秋っぽい。 松山の久子さんより彼女の同人誌に書いた「ルクソールの怪しい男たち」の校正が届く。自分の原稿読んで自分で笑ってしまった、いいのか、おい、大丈夫か?
夕方、明日の新幹線のチケットと14/15日の徳島往復のチケットを取りに東急観光へ行く。 おばさん、おばあさんたちが温泉に行く相談に訪れている。 聞くともなしに聞いていると、「一泊1万2千円ね、あら夕ご飯が着いてないの、近くにあるのよね」とさりげなく。 「バスの乗り継ぎ?大変ねえ、タクシーで行こうか、1時間でしょ、みんなで割ればネ」 私、ため息が出る。 1万2千円て、海外だと100ドル近くのホテルでしょ。これ高級、バルトだと、一番高級ホテルのお値段だ。 タクシーで???1時間のるる・・・バスを乗りつぐ、待つ時間も楽しんだぞう・・おばさん。 日本人の旅って豪華だわ。 と安い旅から帰った私はため息ものでした。 それから、びっくりしたのは、代金をカードで支払おうとしたら、承諾番号をつけますがいいですか、と聞かれた。 「なんですか、それ」 「回数券をカードで勝ってすぐに回数券は売り飛ばす、カード破産するって人がいるんですよ、ですから一応承諾番号をつけることになってしまったんです」 へエエ。 これも不景気の影響だろうなあ。
うれしかったこと。 アラスカから旅行人の読者欄に出したハガキが載ってたよ。
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今日は8月27日 アップの予定。
2002年09月09日(月) |
洗濯・・昼寝・・ま、いいか |
やることは、たーくさんあるのに ぼやぼやしていた。 洗濯、お昼寝、電話、メール、・・掃除はついにせずじまい・・困ったもんだ。 時差ボケなるものはあんまり感じない私だが、やっぱり昨夜はもう一つ眠れなかった。夜中三時に起き出してご飯食べてしまったモンね。あちらの、夕ご飯? 「−7時間」だからな。 でもいかん・・こんなことでは。 と反省。すぐにブタになるよ。 でも夜中の納豆ご飯をのりに包んで食べての、美味しかったわ。
みんな涼しいときに帰ってきてよかったねというが・・・。そうなのか・・・。
郵便局から手紙が届いた。 それぞれのお便りがありがたかったが、一番うれしかったのは、塾に来ていた一ちゃんからのハガキ。5年生だった彼が、大学受験なんて年取った。 「自分の好きなことをできるのは本当によいことだと思います。だから、一所懸命楽しんで下さい」 一ちゃんがくれたハガキにあった。アイツも大人になったのね。しみじみとうれしい。
明日からまたガンバロっと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8月26日 日記 アップ。
朝9時半、成田着。雨。台風後のせいか? とにもかくにも「オオ着いた」であった。 きのうリトアニアのホテルで見たBBCワールドニュースのウエザー情報では、日本から台湾あたりにでっかい台風がいた。 成田、大丈夫か、と思っていたのでホッ。 そもそも、しっかりふっている雨を見るのは、大雨のザルツブルブ以来で、いかに天気に恵まれたか、というより、ヨーロッパも雨が偏向しているかということで・・・やっぱり世界的にお天気はおかしいのだ。
むっとする空気感はなつかしいが、眠気と疲れを引き出してくれる。 ボヤンとした頭で帰宅。 メールチェック。返事はあと。掲示板の書き込み。
植木に水やり。部屋のシャコバは瀕死、小判の木は元気、山椒のさんちゃんは葉を落としてこれまた瀕死、以前フジコさんからもらった、ハーブ系のお花もほぼ枯れ死に状態、でもこのお方も復活するから水さえやれば何とかなるかも。そんなわけで我が家で生き残っているのはものすごく強い植木ばかりだ。 種の変化が起きそうなくらいに、達者な私の植木たちである。
メシだ・・昨日は、ホテルの朝食、機内食3回、計4回食べたけど、お腹はすいている。どうも、愛のない食事は腹持ちがよくない。
ヨーカ堂に買い出しだ。 まずは寿司だ。機内食でお寿司が二切れ出たが「ゲ、米が違う」だったもんね。いつもなら、お寿司は東急だが、今日はヨーカ堂で十分幸せだ。 お寿司のほかに大きな美しい梨、納豆、冷や奴豆腐、ぬるぬるめカブ、根菜のごまあえ、豆乳。 とりあえず、食べたいものをかごに。うきうき・・・なんでも食える私ではあるが、やっぱり日本のスーパーの豊かな和食材や、美しい果物を見ると心が弾む。 果物に「美しい」という形容詞はおかしいかも知れないが、ヨーロッパ庶民的な店やスーパーには、日本のスーパーにあるようなでっかいリンゴや梨、粒ぞろいのブドウはない。買わなかったけど、大きな実の付いた巨峰のフォルム(こういう表現が日本の果物には似合う)に感動したモンね。 これはもう技術だよね。デモ、では、それが諸手をあげていいのかというと疑問だが・・・。
海のものから山のもの、畑のもの、日本のスーパーはホントに豊か。 アムステルダムでは、魚や大豆系は中国人の店とか、果物はトルコ人の店とか、店を変えないといけないモン。 バルトの国では、スーパーに魚はあったが・・ただし、たいてい薫製だ。ビールのつまみにはいいけど。
お大師さんにお茶をあげてお参りして、ヨーカ堂の寿司とビールで乾杯。 地球3回り、達成だ。おめでとーううう!! ビールは、バルトのビールの方がうまい。麦の香りがあってアルコール度は高いし。ああ、バルトのビール・・ビール・・・何しろ、昼から、カフェで、0.5リットルのビアジョッキ抱えていてもいい国々(エストニア、ラトビア、リトアニア)って好きよ。
日本は匂いがしない、道がきれい、人の顔がのんびり、服がきれい・・・・女性の身体が薄ぺらい・・・ でも、まあ我が祖国よ。 と、愛国者になって爆睡してしまったのでした。
夜になって起き出して、メールにお返事。また始まりました、私の日本。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明日から、ボチボチと、まずはバルト3国の様子から、旅日記をアップする予定、お楽しみに。
飛行機は12時45分だし、ホテルは2時間前チェックインだとしてもホテルは10時過ぎに出たらいい。 部屋でのんびりと日記やノートの整理をした。 レセプションでタクシーを頼んで飛行場へ。 20リタスで行くのか?と聞いたら、受付のおばさんロシア語で運転手に「20 リタスで行け」といったらしい。 ドライバーはメーターを動かさない。 するすると行って着いてしまったし、私が思うに、たぶん15,6ってとこじゃないか? なんかそんしたなあ。 しかし、行くときはもう少し町中だったけど22リタスだったし、まあよいとするか。 きっちり45分チェックイン。のはずだったのに、カウンターのpcが不調。 何だ、かんだと15分以上もかかって何とか発券。私は、成田までスル−だし、心配になってほんとに大丈夫?と荷物のタグのチェックまでさせてもらった。 カウンターも、悪びれもせずにほれみろってかんじで。田舎だわね、やっぱり。 ちなみに、空港もすごく小さい。 高松空港のほうが大きいよ。 待合室のショップで、リトアニアの蜂蜜酒、ラトビアの薬草酒をおみやげで求める。(弟へ) まだ、6リタスあったのでそれでチョコを買ってお金はきれいさっぱり使い果たした。
飛行機待ちの時に、もうびっくりする女性を見た。 銀色のロングドレス、首から胸にかけてシースルー、スリットが膝の上まではいって、ぎらぎらのすごいハイヒール・・・目のあたり真っ黒、夜化粧状態・・それに目つきが悪い・・。どこ行くの、これから怪しいパーティ?という感じのいでたち。飛行機に乗る身支度ではない。異様だった。 どう見ても、娼婦上がりのロシアのマフィアの女房だ。性格悪そうで、親父と息子2人といたんだけど、彼らはかなりふつうなのに、(親父は小マフィアだね)彼女だけは、あたりを睥睨・値踏みという感じの無遠慮な視線をぎろぎろと周囲に向けている。 あんなに毒気を放っている人、そういないよ。
飛行機はぜったいに遅れる・・ということは承知だったが、さすがにビリュニスを30分以上も遅れて出たときは困った。 何しろ、コペンののりかえ、1時間くらいしかないんだもん。 通りかかった、スチワードのおじさんに「わたしは成田へ乗り継ぐのだが、可能か?」と尋ねた。 そしたらスチワードのおじさん大丈夫だ、降りたら、10分もかからずに行ける、あなたはうちに帰れるよ。 さらにしばらくして、ゲートは33と教えてくれて,デパチャータイムの用紙を持ってきてくれた。なんと、出発が10分遅れているでないか。うん、大丈夫そう。
コペンハーゲン午後3時50分発。久しぶりに大量の日本人を見た。 ゲートの待合室に日本語の新聞(朝日)があったのでうれしく読んだ。 乗ってみたら、私のシート、ビジネスエコノミーだった。 エコノミーよりシートがひろくて座席にゆとりがある。ありがたや。 たぶん、団体さんが入っていたのでこういうことになったのだろう。 しかし、しかし、お隣がねえ・・大変なお人でした。 スエーデン人のおじさん。 飲む、飲む、飲む。ビール、ワイン、ワイン、ジン、ジン、ウイスキー。またワイン。 そして、やたらにトイレに行く。(彼窓側だから私、そのたびに立つのだ) さらに、でかい声で話すんだよね。 日本が好きで。貿易の仕事で、もう数十回も来日。いとこの奥さんが日本人。名古屋の近く。彼女はドイツで勉強していたからドイツ語がうまい。 彼女の兄が東京にいるので会う。 自分の日本人の友だち自慢。 なんてことから始まって、私にどこに行ってきたのか。 どうして私たちは英語で話さねばらないのか? 世界言語は英語ではないだろう? (あたしは話したくないよ、旅英語以外はさ、日本で英語なんて絶対使いたくないもん、そりゃ、道聞かれてあんた英語しかいえないの?ってきいてそうだといわれたら渋々話すけど) ついに前の日本人から、静かに・・と声がかかった。(おっさんのこえ、でかいのだ) 「ナイトフライトですから、静かにしましょう」 スッチーさんも来てくれて、注意をしてくれた。 そんで、かれは素直にうしろの席に酔い冷ましに行った。 「すみません、スエーデン人て、飲むんですよ、特にジンが好きなんですよね。でも、もうリクエストされてもお酒は出しません、ので」 日本人すっちーさん、そう説明に来た。 やれやれだ。 その後、しばらくしてまた戻ってきて彼爆睡。 悪い人ではないと思う、が・・ねえ。 今まで私があったスエーデン人ていい人ばっかりだったし、私もスエーデン人、好きだけどねえ。 今度は、大いびきだもんね。
こんなことをして、ご飯を2回食べたら、成田でした。 SASは、早い。
1年オープンの飛行機だし、また来年は放浪のオバさんトラベラー、アムスへ。 楽しみだい。
昨日スーパーで買ってきたパンとヨーグルトで朝食を済まして、9時にホテルをでた。荷物を預けて、海岸へ行く。 昨日より寒くなっていると思うけど、やっぱり泳ぐ姿あり。 さらには子どもたちが先生ときて泳いでいる。 元気やのう。 だけど、昨日はこの海岸で車サウナを見かけたし、まあ寒くなったらサウナにいこうのノリで泳ぐんだろうねえ。(信じられんが・・) 浜茶屋みたいなとこで、コーヒーを頼んだら、カップにコーヒーの粉(インスタントではないよ}を入れてお湯を注いでいる。 おお!!そうか、コーヒーの謎が解けた。いつもカップの底にどろんとかすが沈んでいるのでなんで、どうやって入れているんだあ?と思っていたのだが。 ところ変われば品変わる・・で、こういうのもありか、とはおもうがすごいね。 まあ、中国も、カップの中に茶を入れて、湯をそそぎ、茶葉が上がってきたら、吹いて飛ばして飲むから、入れ方としては似ている。 ネスカフェより、この底にコーヒーかすが溜まっていても、こっちの方がましだ。
コーヒーを飲みながら、日記を書く。 風がすずしすぎる・・寒い。
それにしても、ロシアからリトアニアへ・・・10年が過ぎて、いつもいつも、夏にはこうやって朝がきて店を出し、掃除をして、時間が過ぎて・・・かわりなくつづいていたんだろうな・・と思うと、政治の幻想、暮らしのしたたかさを思う。 うまく表現できないけど、ふっと海を見ながら思ったこと。 リトアニアの歴史を思うと、この平和がいつまでも、と思う。 この国を好きになった私がいる。
11時30分、1リタスの有料トイレ、昼代わりに甘いポップコーンを口に放り込みながらバスステーションに行く。 バスは予定通りだが、またまた、席問題。 ロシア人のおばちゃんおじちゃんがわたしの席にすわっているんだよ。 6人の団体様。 私がバスチケットを見せてここはわたしの席だと、英語でいったら、ほかに行け、という身ぶりロシア語。 私は思った。 このバスはエキスプレスである。 席を曖昧にすると、後になって席がないとかいうことがしょうじるのではないかと・・・それに、バルトの人もね、指定の席があるときはそこに座る、ということを学んだ方がよい。 私は「ここはわたしの席だ」と言い張った。英語で・・・ おじちゃん、おばちゃんグループ、ほかへ行けとがんばったが、私もしつこくあんたら行けと言い張った・・・勝った。 彼らはしぶしぶまだ空席だった後ろの席に動いた。(自分のとこに座れよな、数字が読めるんだったら)しばらくして、その席にまた、指定の人がきて、悶着。結局、彼らもおとなしく自分らの席に行った。あほ。 お隣はおばさん。英語は話せる人、どこいってきたのとか聞かれた。
バスは5時過ぎにビリュニス着。 延々と、森と牧場地帯を走った。 豊かな国だと思う。
首都はやっぱり都会だ。
この町を出る日(8/28日)に予約していた駅前のミコテルというホテルに行く。新しいきれいなホテル。今までで一番よいホテル?かな。 友人の名前のようで、気に入って決めたんだけど、当たりだったよ。
旧市街へ行って虫入りの小さい琥珀を値切って買った。 その後、ピザレストランでビールとピザ、アップルパイのデザート、コーヒー。 ビールもうまいけど、この国のアップルパイもどこで食べても絶品。
こうしてバルト最後の夜は終わった。
2002年09月05日(木) |
リトアニアのパランガへ |
朝8時15分のバスで、リトアニアの保養地パランガへ。 ソビエトロシア時代から海のきれいな夏の保養地だったらしくて、ブリギッタ先生に明日はパランガにいきますといったら、ああしろい砂、美しい海・・・いいですね・・といわれた。 私の目的は、しかし、海ではない。琥珀博物館を見ることだ。それと、リトアニアの地方都市を見ること。どこの国でもそうだが、首都は特別、地方に行くとその国の素顔をちらっと見ることができるのだ。 もう一日あったら、クライペダの先にあるニダという砂州の町に行きたいのだが、残縁ながら時間がない。明日はビリュウニスに戻りあさっては帰国だ。
7時50分にはバスステーションについてバス待ちをしていたら、付近に男どもが例によってじろじろ見る。慣れたけど、気持ちのいいものではない。 バスはきっちりの時間にきたが、荷物を預けて乗り込んだら、私の指定席の4番シートには年輩のご婦人が座って窓の外に娘らしき女性にってを振っている。 私が行っても、勿論平然、自分の席と認識している感じだ。ヤレヤレ、バルトの国では指定はなきも同然、だいたいそのあたりに座っていたらいいっていう感じなんだな。では指定の番号なんて振らないで全部自由にしたらいいのにと思うがのう。 私は彼女の隣り3番に座った。 バスは田舎の町のバスストップに止まる。 見ていると、そばには必ず、市があって近郷近在の農家の人が野菜だの果物だのはちみつを売りに来ている。
国境近くの町で、隣りのご婦人が私に後ろの席にいけと、合図する。はあ?何で?いろいろとラトビア語でいっているようだが、ワカラン。 少し腹がたったので 「オタクこそ、私の番号の席に座っているのに、どうしてそういう要求ができるんですかね」 と、日本語でいってやった。 そうしたら、ご婦人は、なんかしらんけどうなずいて今度はわたしの席と自分の席を替われという。 ええ??私のいった日本語が分かったわけ??? 一応替わったが、気持ちはよくない。 そうしたら、彼女は次の町で乗ってきた赤い服を着てお花を持った太ったおばさんと抱き合って挨拶をしている。そのお太りおばさんは通路を隔てて彼女の隣りの席に座った。 そうか・・・わかった。 姉妹なのか親戚なのかはしらんが、とにかく自分の知り合いが乗ってくるので私に席を動け、かわれといっていたのだ。 私は隣をつんつんして、「替わりますよ」(日本語)といった。 そして、後ろのあいてた席に移動してやった。 彼女よその連れは喜んでくれた。 ヤレヤレ、こういうとき、現地の言葉がわかるといいな、と思う。
リトアニア国境、またまたパスポートの儀式。 ラトビアとリトアニアをスルーする道が何本あるかはしらんがいちいちこういう儀式するのって大変よね。いずれ、省略になるんだろうな、でもそれはまだまだ先だと思う。だって、やっとビザ無しになったとこだから。
パランガ着1時15分。すごい田舎町。 ホテル、ということでバスステーション近くにあるツーリストインフォにいたら、「ただいまランチ中。少しお待ち下さい」の看板、で、ドアはクローズ。まて、しばしだ。 荷物のそばでボヤンとすること15分、太ったイタリア人か、という感じのケバいみなりのおばはんがきて「アンタホテルがいるの?」と聞く。 「そう、それにいくつかの情報も欲しい、あなたがインフォメーションの人?」 と聞いたら、そうだという。 私「あなた、昼ご飯食べたの?」 ケバおばさん「イイエ、なんとか会議があってまだ食べていない」 なんて話をしながら中にはいると、彼女はすばやく電話をとってホテルに連絡を入れた。 「あなたのホテルはメグバァ、40リタス、10ドルくらいよ、いいでしょ」 「部屋にバスルームはあるの?朝食は?、近い?」 「バスルームはある、朝食はついてない、近い、ここから数分」 決まりだ。1泊だし。 「まだ何か聞きたい?」 「明日はビリュウニスに帰るの、何時間かかりますか」 「エキスプレスで4、5時間」 OK。明日のホテルは駅前に予約してある。その時「夕方に来る」といってあるし、ちょうどいい。エキスプレスバスは12時半発なのだ。
パランガ、まん中に教会があってその前の通りが町の中心だ。 教会の前には、物乞いが3人もいた。。 その教会のすぐ裏手がホテル。 1階なので少し暗いが、シャワーもトイレもテレビもあるもん、文句なしだ。10ドルだもんね。 荷物を置いて、近くのカフェでビールと軽食。ビールがホントにうまい。 その後、琥珀博物館へ。 全体に落ち着いた雰囲気の町。
旧貴族の夏の別荘を使ったような建物。でかい、ため息の出るよう琥珀の数々。 その他、なりたちや産地の位置を記したものもあった。しかし残念なのはほとんどの説明がリトアニア語とロシア語だったこと。英語はごく一部だけだった。
ぶらぶら松林を抜けて海岸へ。 ハイシーズンは終わったようだが、まだ泳ぐ人の姿、多数あり。 でもTシャツを着ている私には、衣服を着ていてちょうどいい温度だ。とても泳ごうという暑さではない。皮膚感覚がすごく違うよねえ。 子どもが、お父さんと海の砂をすくい上げては何かをさがしている。 もしかして、琥珀? この、パランガは琥珀の産地なのだ。 だいたい、海から琥珀は現れる。 特に嵐の後など、打ち上げられているらしい。
ハワイなどに比べれば(まあ比べる方がアホ)あまりにひなびた(新潟の寺泊海岸みたいだ)だが、去りゆく夏を心から楽しんでいる気配がある。 いいよね。 私も、サンダルをぬいで、ズボンをまくり上げてびちゃびちゃ渚を歩いた。 結構冷たい。
夕方まで昼寝をしてパランガ名物の夕日を見にいたが、残念ながら、雲が多くてもう一つだった。 夕日はなんといってもエストニアのキフヌですごいのを見たし・・・ 夕食は「肉を食べるべきだ」という身体の要求があってそうした。(魚の町なんだけど、まあお昼にニシン食べたし) 一度、オーストリーでもこういう衝動があったが、すごく疲れているときだ。 昨日から集中力が落ちている気がするし、それなりに疲れているのかも知れない。 今日は早く寝よう。
8時、あたりは暗くなり始めている。 町の人出は多くなった。 夏が去る・・・ 私の旅も終わりに近い・・
2002年09月04日(水) |
先生と大聖堂のオルガンを聞く |
「リーガ大聖堂のオルガンを聞かないとリーガに来たことにならない」なんてことが地球の歩き方に書いてある。こういうことを書かれると、すぐにその気になるミーハーな私なのだ。 ということで、今日の予定。 午前・・・ラトビア野外博物館へ行く 午後・・・ブリギッタ先生に会う 夜・・・・先生とオルガンコンサート
博物館へはNO1のバス。20センティ(約40円)で30分もバスに乗った。 リーガは人口が多いだけに郊外も広い。 「ラトビア野外博物館」とラトビア語で書いた紙を見せてバスの車掌に頼んでおいたら、「ネクスト」と教えてくれた。さらに、降りるときにあっちへ歩けとも。親切である。 野外博物館は立派な松の大森林の中にあった。 砂地の道をずんずん歩く。誰もおらんのだ・・・・エストニアの博物館にあったような木製のおうちが時々あるが残念ながら大方しまっている。 ところでここを歩きながら気がついたんだけど、松って砂が好きなのね。
森の中央付近で子どもの声がした。 いってみると、どうやら学校の授業できた小学生、中学生らしき子達がいる。 絵を描いているのだ。 独立以来、バルト三国ではソビエトによって踏みつけにされてきた自国文化を学ばせるのにことのほか熱心だというが、こういう光景を見ると、なるほどだ。 このあたりの家はあいていたので、入って見学だ。 入ると、かすかにハーブの香りがする。 匂いの元はクリスマスリースのような形の枯れ草の輪飾り。 内部は、だいたいエストニアとににたような感じだが、こういう輪飾りはなかったよな、エストニアには。 1軒のおうちの軒先では伝統衣装をつけた女性が民芸品を売っていた。 その人がまあ、流ちょうな英語で、つかいかた、どうやってつくるかを説明してくれる。 黙って聞きているときりがないので「私は必要ない、もう行かねばならない」とことわったら、にっこりとわらって黙ってくれた。 ありがとう。
帰り道で大ハプニング。 なんと、バスを間違えた。 よくも見ずに1番の時間に来たバスに乗ったらそれは9番。 とーんでもないところにつれて行かれて「あれれえええ」 「セントラルに行きたい」とあちこちに人に訊く。 おばさんたちは困った顔をして遠巻きだし、中年男達は逃げるしで、こまった。 そこへ、バスのドライバーが33番を指して、あれに乗れ。 承知いたしましたでござるが、はたして、本当に行くのか? バスのわきに書かれた字は読めないし・・・ホンマ困りましたわ。 隣りに座った子が若い女の子だったので、「このバスはセントラルにいきますか」と英語で聞いてみた。 かのじょ「イエス」と初々しく答えてくれて・・ホッ。
午後1時半、ブリギッタ先生と市場であった。 この話をしたら、9番、一番よくないバスに乗りましたね、といわれてしまった。 ブリギッタ先生も今朝は大失敗だったらしい。 先生は昨年から大学にまた通っている。(若い頃にモスクワの映画の大学を卒業) 教育学の学位が取りたいのでまた勉強をしているのだという。 その初日だと思っていたのにそれは明日だったという。 59歳にしてまた大学生。その意欲、すごい。学びたい。 「まだ、若いですからね」 これが先生の口癖だ。 ところでリーガの市場はかつて飛行船ツェッペリン号の作業所だった4つのドームをつかって開かれている。でかい。野菜、果物から肉、チーズ、ハム、魚・・・あらゆるものがある。 先生が「これ、美味しいです」といって小さいうなぎの煮たヤツを手渡して下さった。立ち食いした。ホント、すごくうまかった。こういうとき悲しいのはご飯がないこと、コシヒカリだよ、やっぱり。 以前ポルトガルで、イワシの炭焼きがうまかったときも飯!!飯もってこいと叫びたかったもん。 「先生、ご飯が食べたいです」といったら、ブリギッタ先生は笑ってうなずいて下さった。 彼女は、数年前に浦和に数カ月滞在している。(あの丸紅の方のおうち)
市場の後は、旧街にいって先生がいちいち案内をして下さった。 時々子どもの物乞いが来るのだが「ロシアの時はいなかった、教育は無償だったから。でも今は新学期に本代だけで40ラッツいる、子どもがたくさんいて貧しかったら学校にはやれない」。 先生はお嬢さんがモスクワにいるのだが「もうロシアは外国です、たずねるにはビザがいります、とてもたくさんのお金がいります、もう行けませんね」 そんな話をいろいろとした。 途中、今日の私の2度目の失敗。ガイドブックを忘れたのだ、どこかに。 しかたないです、あきらめます、といったのだが、先生は行ったところ全部に電話して下さった。そしたらあったのですね。感謝。
夕方、ちょっと、おしゃれなお店でビールと軽食をとってリーガ大聖堂へ。 私は先生に私は明日立つし、後、19ラッツしかない。勿論両替すればいいのだができればこのお金で今日のすべてをやりたい、と話してあった。(先生と私の分)先生は大丈夫といわれたのだが、リーガ大聖堂の安チケットは2ラッツ。それがない。3ラッツは?と聞いたらそれもない。4ラッツとなると予定が狂うんだよね。 先生が「どうして2も3もないのか?」と強行に窓口の女性にいったら、なんと3ラッツが出てきた。 しかし見るとそれは、8月の切符だ。勿論それで入れたのだが、先生は「私はここの館長と知り合いだ、この切符はおかしい、明日いう、2ラッツがないのもおかしい、年金生活者が来ても4ラッツでは高すぎてはいれない」 先生がいうのには、あの切符売りの女性は不正をしている。 8月の切符(売れ残り?)を売ってそれは自分のぽっぽに入れているのだろうということだ。ありそうな話だ。 先生はコンサートが終わった後彼女にあって、「どうして8月の切符なのか、このことを館長にいう」と宣言したようだ。 まあ、フェアだよね。
ところで、コンサート。 よかった。響きが重厚で荘厳。 疲れている身体に、ものすごく気持ちよかった。 大聖堂のパイプオルガンは1883年製、6718本のパイプと10メートルにも達するパイプの長さなど、当時は並ぶものがなかったらしい。 外側の重厚な装飾は16世紀のものだし。 パイプオルガンはワタシ的には教会できくものだとおもう。 だって、そもそも神様に捧げるためにこの楽器は作られたんだし。 その音色を聞いて人も癒されたんだし。 オオと思ったこと。 「ソビエトの頃はこうやって聞きました」 先生はそういうとひょいと板のイスの向きを変えた。そうすると、教会の正面に向いていたイスがパイプオルガンの方に向いたんですね。キリスト像のある教会正面に人は尻を向けることになるのだ。ソビエトロシア時代、信仰は許されなかったから、だ。 3ラッツの席はまん中席ではなかった、はしっこ。しかし、先生によると「このイスが16世紀のものでこの教会で一番古い、だからここがいいのだ」と。
8時過ぎ、すっかり薄暗くなった町を先生と共に先生おすすめの「民族料理店」に行った。 2人それぞれにサラダ、グラタン、デザート、ビール。これで、5ラッツにもならない。お金が余った、すごい。 「先生、お金、余りましたよ」お財布を見せたら、先生、ニコニコ。 10時くらいまでお話ししてバスに乗せてもらってさよならした。 「ありがとう、楽しかった、また来なさい、今度は私のところにおとまりなさい!!」 そういって先生、手をふって下さった。 こちらこそ、楽しい時間、ありがとうございました。 名残惜しかった。。
そうそ、先生のはなしでクリスマスリースのようなものの正体が分かった。 あれは夏至の時の「白夜祭」の時の冠。 お日様が一番長い日、国を挙げて華やかな歌の祭典があるのだが、そのときに頭にかぶるという。 香草で作りそれこそクリスマスまでベッドのわきに置いて香りを楽しむのだという。 考えて見れば、私がバルトの国に興味を持ったのは、アイスランドであったラトビアの女の子のせいだった。 彼女は「私の国はすばらしいのよ、美しいし、歌の祭典がすばらしい、」という話をたくさん聞かされたからだ。彼女はすごく気がいい子だった。 そんなことを考えながら、ぼんやりしていたら、バスを一駅降り損ねた。 さらに私が歩き出した方向が違っていて・・そうしたら、若い女の子が追いかけてきて「駅の方に行くんでしょ?こっちよ、気をつけて」と教えてくれた。 もう10時半だし、確かに気をつけないと。ありがとう。 3日間のリーガだったがすごくいい時間を持った。 先生のおかげ。 絶対会いに行くぞ、と決めた自分の根性を褒めたい。(よく自分を褒めるヤツだとあきれないでおくんなさい) 駅の電話コーナーでアムスのミエコの所に「もうかけないよ、次は日本からメール」と電話した。 「でも、このラトビアのテレカ、まだあるよ、次に来たときも使えそう」と冗談を言ったら、じゃまたいけば、と笑われた。(10ラッツなどという大金で買ったんだもんな、これしかないのだ国際電話用は)
明日は朝8時15分、リトアニアのパランガに行く。
2002年09月03日(火) |
ブリギッタ先生に会う |
地球の歩き方に「ラトビアの小さな日本」というコラムがある。 国立の日本語学校があるというのだ。ラトビアは国民総人口200万ほどの国だ。どうしてそんな国で日本語?極東の小さな国の言葉を? その熱意の中心になっているのがブリギッタ先生。
ちなみに北欧なんかだと日本は「極東」という表現の中に中国台湾、韓国といっしょにされることが多い。 この頃、日本人は大団体で旅をしていない。大団体のうるさい・行儀の悪いツアーグループの人たちは中国人か、韓国人である。しかし「日本人」と認知されていることが多い。言い訳のチャンスがあると、日本人はあんなにうるさくないよ、あれは中国人、とか韓国から、とか言っている、だってみればわかるモン。しかし、欧米の人にはわからんのだね。顔や気配以外の見分け方として、靴がよかったら日本人とか、白い服が真っ白だったら、日本人とかあるんだけど、まあそこまでいうとナニだし、いわないが。 中国に1ヶ月いると白いTシャツが黄色くなる。(洗濯すると)理由は、水質だ。 これは体験である。 オッと、話が横道だ。
とにかく本日の予定は「日本学校に行く」なのだ。 決めているのだ。行き着くぞ。 昨日、インフォのお兄さんにだいたいの場所をきいていたのだが、地球の歩き方にある電話にかけたら、○×△ツーリスト? ガッコじゃない。 あれ、へん??? しかたないのでもう一つのブリギッタ先生の塾「スタジオ 言語」に電話にかけた。 「日本語で話せるか」と英語でいったら、いいですよ、と日本語の返事。 おお!! 聞けば、日本語学校はもうないのだという。(2000年の秋にはあったんだよ!!) とにかく興味があるのだったら来なさい、というので行くことにした。 場所の説明がどうも・・いまいち・・・ワカラン。昨日来たばかりだから。 あきらめて、ホテルの受付にって受付のおばさんに無理を言って電話をかけて今一度聞いてもらう。おばさん、「モバイル・・」とブツブツ言っていたが、私の勢いに負けてかけてくれた。(後でわかったことだが、ブリギッタ先生の電話はモバイルでモバイルの電話は送受信とも日本同様高い、すごく高い) それで、その後俄然親切になって、私といっしょに所在地をさがしてくれた。 結構わかりやすい場所。 歩くと20分くらいだとおばさんはいうのでボチボチと行く。
伺うと塾は半地下の場所、大人二人が日本語をやっていた。ひとりはオスカルさんといって、12月から日本に陶芸の研修に行く人、もう一人は日本で日本音楽を学びたいというお嬢さん、彼女はこの国では有名なシンガーだという、きれいな子だった。ウィーンで勉強していたのでドイツ語ができるという。ドイツ語できる?ときかれたけど、すみません・・だった。 ブリギッタ先生は、59歳。大柄な眼のよく動くエネルギッシュな人だった。 「何故日本語を?」と聞いたら「運命でした」 モスクワで映画を勉強していた彼女は、夏休みにリーガに帰ってきて海(ユールマラ)に行った。そこでひとりの日本人の男性と会った。彼は丸紅の人で、文通が始まり・・・彼女は日本語の、特に漢字に興味を覚えて独学で日本語をマスターしたのだ。ちなみに彼女はわたしはカメラマンで漢字研究家だと言った。ラトビアでは、有名人らしい。 私は「鸛」という漢字の読み方を教えてもらった。(コウノトリ・・ですよ、読めましたか?) まさに民間の、ひとりの人と人の出会いから始まった日本語なのだ。 国立の学校は簡単にいうと「こんな小さな国に日本語の国立学校はいらない」という大臣の鶴の一言からなくなって今は教会学校に併合されている状態だという。 ラトビア大学に「日本語科」はあるらしいが。 それでも、ブリギッタ先生の努力はすごくて「ラトビア・日本語辞典」まで作られていた。 今はこの塾で大人から子どもまで日本語を学びたいという人に教えているのだという。数十人の生徒がいるという。 夕方のクラスには子どもも来るというのでまたおじゃますることにした。
ロシアのマフィアにラトビア語を教えに行く(家庭教師だ、彼女は英語も堪能だ)のだという先生と、途中までいった。 この国で金持ちはたいていロシア人、そしてマフィアに関係する人が多いとか。 「でも、彼はバカじゃない、それにラトビア語をやろうというのは立派だ」 たいていのロシアマフィアはラトビア語なんてバカにしてやらんらしい。(アメリカ人みたいだのう) そうそう、彼女の話でおもしろかったこと「縦書きで書くことは体にいい」
お昼は町の中心のベジタリアンカフェ。 セルフで好きなものをとって、はかりに乗せて重さ分だけ課金されるシステムだ。なんと、昆布のサラダがあった。もちろん食べた。うまかったよ。
ホテルで昼寝をしてまた先生の塾へ。 6人ほどの子どもたちのクラスでひらがな学習を見学した。 かく、かく、かく・・・・その後、発音。その後が独特だった。 壁に貼り付けてある墨書のひらがな表で、今かいた文字を見つけるのだ。 古風な学習法だ。 それでも、子どもはすごい、ちゃんと見つける。 先生の説明だと、ひとりの男の子は自分の弟が目の前で池に落ちて死んだ、その心のケアのためにここに来るのだという。 日本語と心のケア、よくわからんが、その子、一生懸命にやっていた・・不憫だ。
授業が終わったあとで、グナさんにあいに行った。 グナさんは、日本の俳句をラトビアに紹介した人で俳句の研究者だ。 犬がいる庭のある古い木造の家。 そこにグナさんはおネエさんと一緒に住んでいらした。 優しい、すごく感じのよい人だ。 岡崎に1ヶ月いたことがあるという。 「日本語の日常会話は難しいです、あなたはゆっくり話してくれるからよくわかりますが」 そう、私は、できるだけ、正しい日本語をゆっくりと話す努力をしている、だって私も英語をそうしてもらったらわかるもん。 お庭でキャンドルをつけて、庭先で採れたブドウ、手作りのスグリのジャムを入れた紅茶、などをごちそうになった。 グナさんは英語も教えているのだという。
ブリギッタ先生も、グナさんも本来なら年金で悠々自適の生活だったはずなのだが、でもロシアが崩壊して国が独立した。老後の生活が大狂いである。 「教える」は不足の年金補充のアルバイトなのだ。 そして、そういう特技のない人は街角に立たねばならない。
ブリギッタ先生から聞いたお話でフーンと思ったこと
「日本は今経済が悪いのでしょ。でも日本大使のフラット(住まい)はラトビアで一番高いところにある」 そうなんだ、外務省・・もっとたたけばありそうな。
グナさんが出して下さったジャムは、生ジャム。煮るのではなくて、スグリに砂糖を入れて何時間も棒でつくのだという。確か煮たものとちがう味、フレッシュだった。
明日も午後から先生に会うことになった。
2002年09月02日(月) |
ラトビアの首都、リーガへ |
7時発の船でキフヌを出た。 トリーのオヤジさんもパルヌに行くというので同じ船に乗った。 今日から新学期だ。船には学校に戻る若い女の子もいる。彼女たちのカッコウは、ジーンズとTシャツ、おばさんたちはさすがにあのスカートは穿いていないが、ロシアのおばさんのような風情だ、頭にスカーフを巻いてさ。 早朝の海風は冷たい。まだ、夏の我が国の暑さが恋しくなった。
8時15分のパルヌまでのバスの車窓から、新学期で正装した若い子、の姿が見える。白いスーツ、先生にあげるのだろう赤いバラを持った男の子のとてもい笑顔。 まるで、恋人に逢いに行くような。 バスにも、絵本から抜け出したような水玉の可愛いワンピースを着た女の子が菊のような花を持って乗ってきた。こんなにも新学期が嬉しいのか・・と日本の子どものことを考える・・この子たちのような顔、、、、せんな。 バスステーションで、リーガ行きのバスチケットをゲットして目抜き通りにあるカフェで朝食。ニシンの酢漬けが美味しかった。
リーガ行きのバスで日本人の女の子を二人発見した。 このバス、一応予約席なのに、そこに行ったら他の人が座っている。そしたら、後ろから声がかかった。好きなところにすわっていい・・・なんなんだよ、それじゃ予約の意味がないじゃないか。
松の大森林地帯を抜けて国境へ。 またまた、ラトビア入国に当たってのパスポートの儀式だ。 リーガ着4時。時計を1時間遅らした。 リーガは大都会。50万人ほどの人口を有す。そんな気配は人の顔つきや、がさがさした駅前の感じから伝わってくる。 駅雨のサウリーテホテル着。駅前安ホテルの典型。シャワー付きの部屋16ラッツ(3200円ほど)。まあ、キフヌではゴットントイレだったし、たまには部屋にあるのもいいかということで。ちなみにシャワートイレなし(外)だと、6ラッツだ。 バスでいっしょだった若い子たちも来た。 彼女たちは「なし」の部屋だ。 よかったら、シャワー入りにおいで、と声をかけた。
駅で国際電話カードを買ってアムステルダムに電話。 「メールが来ていて、お母さん事故にあったみたいだよ」 とミエコの声。 ドヒャー!!71歳にもなってバイクを足代わりにしているので心配していたのだが・・・やっぱり。 すぐにうちに電話。 弟が出た。 「命には別状ない」 ほおおっと。よかった。 「じゃ、予定通りに帰国するから」
オールドタウンへ。 ここのオールドタウンはタリンに似ているが、タリンほど完成度は高くない。 ツーリストインフォがまだあいていたので、大聖堂のコンサートの時間や、クライペダに行くバスのルートなどききたかったことを確かめた。 インフォ、ネット検索などもしてくれて、親切であったぞ。評価5。タリンより、ダントツによい。 夕食はセルフのピザレストラン。 美味しかった。
夜。声をかけた女の子2人がシャワーに来た。 彼女たち、各々ひとりの旅だったのだが、とりあえず部屋シェアということで連合したみたい。 お礼に、と、ミネラルウオーターをもってきたりして可愛かった。 彼女たちとタリンの私が泊まった安ホテル「ホステル」の悪口を言い合った。 きけば、最近盗難があったばかりだという。 「とりあえず「地球の歩き方」のよい宿りストからは、はずしてほしいよね。」 3人の結論。
夜中、新学期のお祝いで騒ぐ学生の声でうるさかった。
2002年09月01日(日) |
キフヌ一日 ウロウロ記 |
隣りのお部屋にいた日本人女性2人は、朝の船で「本土」へ。6時半に起きて見送った。朝日がすばらしく美しかった。 出る前に、お金を支払っていたが、サウナ、自転車いろいろと請求が細かくて「オオ!」だった。 ここもまた、アラスカ同様、夏の稼ぎで冬も暮らす、の典型みたい。
朝ご飯を食べてから、島の探訪に出た。 森が面積の大半を占める島。森の中に農家が点在する。 人影は日曜のせいもあって少ない。牛が草を食むのみ。村のインフォはしまっているし、1軒だけのカフェは開いていたが、なんかにぎやかな音楽が聞こえるが、それ以外、静かだった。 港からずっと続く道が島のメインルートだが、5キロほど。これを縦とすると、横は3キロ足らず。これがキフヌのサイズだ。マジにちっこい島である。 しかし、、家と家をつなぐ小道が森や草原の中に相当数あるのだ。適当に(島の小ささをなめていた)歩いていたら、見事に迷った。森の中に迷い込んだ。 延々と松林が続く。エストニア本土もそうだったが、立派な松の林がこの地方の特色。迷ったとはいえ、晴天だし、気持ちよい。迷ったままにさまよった。 さすがに、昼食の時間(2時)をやくそくしていたし、このままじゃいけないと気持ちを入れ直して、人家を探してウロウロ。森から出てきた夫婦連れに、民宿の名前をいって、絵と手ぶり身ぶりで帰り方を教えてもらった。 2時15分前に戻った。
お昼は、ブタの塩漬け肉と、人参、ジャガイモ、ハーブなどを入れた伝統スープ 、発酵黒パン、酸っぱいような(後で聞いたらヨーグルトが入っていた)どろりとした茶色の飲み物、粉末をといたようなオレンジジュース。 この島の当たり前のお昼。パルヌのインフォで、魚が食えるときいたが、魚をとっている気配はないし、昨日の夕食も、この発酵のパンと豚肉といもだった。 別のテーブルで昼食を摂っていたエストニア人のひとりが「スープはどう?」と聞きに来た。民宿の女主人がきいてきてといっているらしい。 「美味しいよ」 そう、酸っぱい飲み物も、ジュースも、美味しくない、はっきり言って。 美味しいのは自家製らしいバターとこのスープだけだ。 私の返事を聞いて手織りの伝統スカートをはいた彼女は喜んでいた。
昼からは自転車を借りて、島の北端の灯台へ。 誰もいない松林、砂の道を飛ばしてお尻が痛くなった頃についた。 もちろん、またまた無人。 バルトの海が輝いて、あの独特の波の音がするのみ。 この島はエストニアの生きた博物館、というが実になんにもない。家が古い(確かに博物館行きになりそうな家がたくさん)、島の女性が自分で織った独特のスカートをはいている・・・くらい。 まあ、ぼんやりしたい人ムキの「観光地」。 そんなの日本の離島でもできる、という人は行かなくてもよろしい。 地球の歩き方は少し美化して書いている。 私は小笠原の母島の方が好き・・だね。
夕方、帰ったら、エストニア人団体は帰ったあとだった。 今晩の客はどうやら私ひとりらしい。 またまた、いもと豚肉の夕食だ。 いやはや。別のものが食べたい。魚、なんていう期待を持たせくれた地球の歩き方とパルヌのツーリストインフォはいけないよ。 夕食後、片言の親父から、パルヌの女性のスカートの話を聞いた。 縦縞にいろいろな色がつかってあって、模様が三種。 ピンクや赤が中心のものは未婚者やだんなアリの既婚者。黒を主体とした縞は未亡人ということらしい。うん、確かに森で見たご老人は黒だったな。 つまりだ、この島の男どもはあの子はまだ未婚、とか、アイツはかわゆいが旦那持ちとか、未亡人だったら、望みアリ、とかってスカートで判断できたという訳なんだな。博物館で見たスカートがまだ織られて、穿かれているという点では「生きた博物館」ではあるのだ。 ちなみに自分のものは自分でおりのは基本。
夕食後、シャワー、すごいほどの夕焼けをリンゴをかじりながら見た。 このリンゴは庭になっているものを勝手にもいで食べる。しかし、落ちてるものの方がうまい。 どこの家も広い菜園兼用の庭に6,7本のリンゴの木がある。
今夜は私ひとり。(オヤジたちは別の家に帰るのだ) それも、カギ無しの部屋にさ。 田舎で平和ではあるんだけど、・・・少々恐いよな。 夜、全くの無音。またしても19世紀の闇と静寂。
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