おひさまの日記
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2010年06月29日(火) 愛から生まれ、愛に帰る

子供の頃、周りの誰かが死んでも悲しくなかった。
泣くこともなかった。

「人が死ぬと悲しい」というのはなんとなくわかっていたのだけれど、
その「悲しい」というのはどんな感情なのかわからなかったんだろう。

じいちゃん、つまり、母の父親が亡くなった時、
まだ小学校に上がる前だった私は、
冷たくなったじいちゃんの前で泣き崩れる母を、ただじっと見ていた。
私には母の悲しみを感じることができなかった。
ただ察するだけだった。
察して黙っているのが、唯一できることだった。

小学生になり、同級生が病気で亡くなった。
死というものが実感できず、やっぱり私は悲しくなかった。
友達はわんわん泣いていた。
私も泣かなければいけないような気がして、一生懸命泣いてみた。
涙が少し出た。

同じく小学生の頃、親戚の子がふたり亡くなった。
よく一緒に遊んだ子だった。
ため池に落ちたお兄ちゃんを助けようと手を伸ばした妹も落ちて、
ふたりとも帰らぬ人となった。
とても悲しいことだとよくわかった。
けれど、その悲しいという気持ちを感じられなかった。
おばちゃんは我が子を失って泣き崩れていた。
私はただ見ていた。

十数年かわいがっていた犬が死んだ時、私は泣かなかった。
悲しいということがよくわからなかった。
犬はミッキーという名前だった。
何ヶ月か経った時、ミッキーの写真が出てきて、
それを見た時、突き上げるように何かがこみ上げてきて、
私は壊れたように泣いた。
泣きながら名前を何度も呼んだ。
どれほどミッキーが大好きだったか、
ミッキーがどれほど私を大好きだったか、よぉくわかった。
そして、もうミッキーはいないのだと。
でも、それから二度と泣かなかった。
その写真も二度と見なかった。

私はある程度の年齢になるまで、
悲しみをうっすらとしか感じることができなかった。
それに、感じないようにもしていたのだと、今はわかる。

幼さゆえに、純粋に感じられなかった。
そして、ある程度成長しても、
感じるのが苦しかったゆえに、感じないようにしていた。

月日が流れた。

今なら、大切な人を亡くした誰かを見た時、その悲しみを感じる。
大切な人が亡くなった時、悲しみ、そして、泣く。

たくさんのことがあった。
そこで知らなかった感情に出会った。
感じたものがみんな自分のものになった。
わからなかったことがわかるようになった。

愛がそこにあるから、悲しみが生まれる。
それもわかったから、私はもう安心して悲しめる。
痛みも悲しみもひっくるめて、人生は美しい。

人は愛から生まれ、愛に帰っていくんだ。
人が死ぬということ、やっと少しわかった気がする。


2010年06月27日(日) メーベで移動してください

abuはナウシカみたいだと思うことがよくある。
すごく不思議な人だ。

動物がよくなつく。
心を開く。
不思議なくらい。

今日もそんなことを感じる出来事があった。

友達のおうちでワンちゃんが赤ちゃんを産んだ。
記念に写真を撮ることになっていたので、
撮影のabuと、私とアンナは赤ちゃん見学で、そのお宅に伺った。

出産直後でお母さん犬は気が立っていた。
私達が部屋に入ると、ううう…と唸る。
ちょっとでも近寄ろうとすると激しく吠える。
そりゃそうだ、大切な赤ちゃんだものね。
お母さんだなぁ。

仕方なく私とアンナは部屋の入り口辺りに座った。

撮影のabuは近づかなければならない。
大丈夫かしら…と見ていると、
abuがゲージの真横に行っても、お母さんは全然吠えない。

あれ?

お母さんは飼い主さんにゲージから出され、
エサをもらいながらこちらで待機。
ナマで見るのは初めてのアメリカンコッカー、
かっ、か、かわいい…
思わず触ろうとしたら、うぅぅーっ、わんわんわんわん!!!!!!!

ハイ、すみまっしぇん…(´・ω・`)ショボーン…

でも、abuがお母さん犬の名前を呼ぶと、
ちょっと警戒しながらだけど、abuに寄っていった。
そして、ぺたんと伏せてabuになでなでされているのだ。

あうーっ、態度違うから!

飼い主さんが驚いた。

「普通、出産直後であの距離(ゲージの真横)にいたら、
 かなり怒って吠えますよ。
 しかもなでられてる、不思議!
 癒しのオーラかなんか出てるのかな(笑)」

ああ、またナウシカだ、と思った。

こんなことよくある。

この前は、この日記にも書いた野菜直売所でも同じようなことが。
そこにいるのは手乗りの白い文鳥の男の子。
そのコは、私とアンナになつかない。
と言うか、お客さんにはあまりなつかないそうだ。
手乗りしてほしくて手を出すと、
ものすごく怒ってピーッ!!!って鳴いて、
くちばしでつついて攻撃してくる。
いつか仲良くなってやろうと、
行く度に声をかけたり、遊ぼうとしたりするんだけど、いつも撃沈。

ある日、abuが一緒に行った時、
abuが手を出したら、自分からabuの手に乗った。
しかもだよ、手に乗ったと思ったら、
腕をぴょんぴょん伝って肩にのぼり、
そこでちゅんちゅん鳴きながら遊んでる。

私とアンナ、唖然。
なんなんだよー、パパー!

ホントに不思議な人だ。
自分は撃沈しても、
動物に好かれている彼を見ているとすごくうれしくなる。
今日も見ていてちょっと目頭が熱くなった。

やっぱりナウシカだ。

今度からキミに車のキーは渡さない。
メーベで移動してください。

あ、あれ、厳密に言うと「メーヴェ」らしいね。


2010年06月25日(金) 楽しい便座カバー

便座カバーって、洗濯するのはいいんだけど、
一度外すと、これがまた、なかなか元のようにつけられない。

あれ、確かこうやってついてたはずなんだけど、
これをこうして、こうすれば、つくはずなんだけど、
と、便座カバーと格闘する。

トイレのドアを開け放ち、便器の前にぺたんと座り、
ひたすら便座カバーをひっくり返したり、ひっぱったり。
前にもつけたはずなのに、なぜかつけられない。
いつもなのだ。
今日もそんなことをしばらくやっていた。
なぜか今日は難易度が高い(笑)
いつもと同じ便座カバーなのに。

どうにもこうにもならなくなって、abuを呼んだ。

どれどれ、仕方ないなー、ってな感じでトイレにやってきたabu。
すいっとつけてしまうのかと思いきや、
これまた私と同じく、ひっくり返したり、ひっぱったり。
いつまで経ってもつかない。

ふたりしてぺたんとトイレに座り込んで、
いつまでも、いつまでも、便座カバーをいじっていた。

そして、とうとうあきらめて、
便座カバーはアンナに託すことにした。
案外子供ってこういうの得意なんじゃない?ってことで。

あああ、なんかすっごく楽しい。
つけられないってのが、なんかすごく楽しい。
abuまでつけられなくていじってるのを見ていたら、さらに楽しい。
だって、便座カバーですぜ。

トイレで戦い疲れた戦士2名は、
よーく手を洗って3時のおやつを食べました。


2010年06月23日(水) 幸せでいちゃいけない

近所の人達と話していて思うことがある。
幸せでいちゃいけないのかなぁ、って。

ウチでは、朝と夕方、庭木に水をやる。
もっぱらabuの仕事なんだけど、
見ているのが面白くて、私はそばにいることが多い。

いつもの時間、いつもの近所の人達が通る。
引っ越してすぐは挨拶をする程度だったけど、
しょっちゅう顔を合わせるうちに、時には立ち話をするようになった。

少し前、その中のひとりに言われた。

「お宅はずいぶん夫婦仲がいいのね」

「ダンナに恵まれました」

と、私が答えると、

「ウチなんかダンナはひどいのよ」

と、ご主人の愚痴が始まった。
ひとしきり愚痴が終わると、彼女は立ち去った。

数日後、また夕方の同じ時間、彼女に会った。
その時、もうひとりの人も一緒になった。
そして、その彼女がもうひとりの人に言った。

「ねぇ、ねぇ、ここんちダンナさんと仲いいんだよ。
 この前なんて、ダンナに恵まれたとか言ってんの。
 聞いてらんないよね。
 ウチのダンナなんかひどいのに、
 おー、やだ、これから話聞かないんだ」

それを聞いたもうひとりの人が、

「えーっ、そうなの?
 やだーっ、そういう話は聞かないことにしてんのよ」

ふたりはこそこそと肩を寄せて、
冗談も混じってはいるのだろうけれど、
手で私を、しっし、とやった。

その様子を見聞きしていて、
私はなんだか自分がいけないことをしているような気がしてしまった。

ダンナに恵まれた自分、夫婦仲のいい自分、
それに感謝し喜びを感じる自分、幸せな自分が。

もちろんわかる。
自分がつらい時、いい環境の中にいない時、
周りの誰かが自分の持っていないものを持っていて、
恵まれて幸せだと、妬ましくなる。
さびしく悲しく悔しく腹立たしくなることもある。
泣けてしまうこともある。
だから、すごくわかる。
彼女達がそういうふうに言うこと。

そして、それがいいとか悪いとかじゃない。

思ったんだ。

私達は、そうした中にいて、
自分が幸せであり続ける選択を、
手放してしまうことがあるんじゃないだろうか、と。
幸せでいるとよくないことが起こる、
幸せでいちゃいけない、
不遇の中にいないと、周りと上手くやっていけないような、
そんな錯覚に陥ることがあるんじゃないだろうか、と。
無意識にそんな観念を持ってしまっているんじゃないだろうか、と。

もし、そうだとしたら、幸せになりたいのに、
幸せにならない現実を引き寄せてしまうよなぁ…って。

不平不満や、いかに自分に何かが足りないということによって、
誰かとつながるというのはよくあることだ。
同じような不平不満のある人と、
同じような何かが足りない人と、
愚痴や悪口を言ったり、いかに大変か、いかにつらいかを話したり、
そこでシンパシーを感じてたりして仲間意識を持つ。

そうしてできたコミュニティーの中では、
そこでの共通の状況や想い、そうしたものから外れることイコール、
仲間はずれの対象になるということだ。
もっとエスカレートすれば、攻撃の対象になる。
そこにはいられなくなるのだ。

人は常に変わり続けるものだし、
誰もが自分が今まで身を置いていた環境に違和感を感じた体験はあるだろう。
それまで仲間だった人達が、なんか違う、そう感じたことが。
私達は自分が持っているものと同じものを持つ人達とつながる。
だから、自分が変わって持っているものが変わると、
それまでいた場所にいづらくなることがよくある。

その時、潔く感謝を持ってそこから離れてゆけたらいちばんいい。
けれど、人間関係がしっくりこないという決して心地いいものではない状況の中、
たとえば、みんなとスムーズにやっていた自分でいることに執着してしまうことがある。

今日書いたことで言えば、
一緒になってダンナの愚痴や悪口を言ったり、
いかに自分が恵まれてないかということを話したり、
たとえそれが本心でなかったとしても、迎合してまったり。

それは、時に、無意識のうちに心の奥でしてしまうこと。

幸せを望みながら、幸せにならない場所に留まり続ける。
自分でもそれに気づいていないこと、実はみんなよくあるんじゃないだろうか、
そんなことを考えた。

そうそう、幸せでいちゃいけないなんてことない。
幸せになっていい。
幸せでいていい。

私達が無意識のうちに持ってしまう観念、
幸せになっちゃいけない…
自分だけ幸せになったら申し訳ない…
幸せになるとよくないことが起こる…
幸せになれるわけがない…

そんな呪縛、私も持ってた、無意識のうちに。
そんなものに振り回されてた、無意識のうちに。
でも、もう、卒業しよう、自分の意志で。


2010年06月10日(木) さよなら

アンナと散歩に行った。
いつものお寺に寄る。

足を踏み入れて、私達は言葉を失った。

そこにあった立派な2本の桜の木がなくなっていたのだ。
無惨な切り株が、切り倒されたであろう老木の名残りとしてそこにあった。
心ない切り方に見えた。
雑に切り倒したであろうことが切り口から伺えた。
いや、私が勝手にそう感じただけかもしれないけれど。
悲しかった。
ショックだった。
涙が出そうだった。

アンナは切り株に駆け寄り、まだ真新しい切り口をなでながらうつむいた。

「なんで切っちゃったの…?」

彼女は誰にともなく言った。

ふたつの切り株をなでると、彼女は境内に走っていった。
そして、お気に入りの木の下にうずくまり、木の幹をずっとなでていた。
泣いているようだった。
その木は彼女が友達みたいに仲良くしている木だった。

ねぇ、キミは木や草や花と話ができることを、ママは知ってるよ。
言葉で話すんじゃなく、心で通じ合うんだ。
切り倒されてなくなった桜の木も、キミの大切な友達だったね。

大好きな木のために涙を流せる、そんなアンナがママは大好き。
アンナの心、いなくなった桜の木にも伝わってるよ。
さびしがってくれてありがとう、って、きっと喜んでる。
ありがとう、さよなら、って、きっと言ってる。

なんて素敵な子。
あなたの輝きが私を照らすよ。


2010年06月08日(火) ツイッターのサブリミナル効果

ツイッターをやってみてすごくよかったと思う。
フォローしている人達のいいツイート(つぶやき)を読んで、
それがサブリミナル効果のように自分にしみこんで定着してるって感じる。

ホント、何の気なしに読んでるんだよ。
へぇ、いい言葉だな、
うーん、まさにその通り、
なぁんて思いながら、タイムラインを斜め読み、流し読み。

でも、そうやって読んだツイートの内容が、
いつの間にか自分にインプットされるんだよね。

それに気づいたのは最近のこと。

私は思った瞬間にそれが言葉になって出ちゃう人で、
「大変だ」
「難しい」
「あの人イヤな感じ」
「やんなっちゃう」
なんて、つい口にしちゃうのよね。

でも、最近、そういうこと言わなくなった自分に気づいた。

「大変だ」→「やりがいあるね」
「難しい」→「これ乗り越えたらもっとすごくなっちゃうね、たまんねー」
「あの人イヤな感じ」→「個性的な人だね」
「やんなっちゃう」→「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!」

ってな具合に、言葉を置き換えるようになっていた。

そうなると面白いもんで、そんなにひどく気が滅入らなくなる。
滅入っても立ち直りが早い。
大変なことに直面していても、よっしゃ、やったろか、って気分になる。
難しいことをやることになっても、なんかワクワクしてくる。
イヤな感じの人も腹立ちつつ軽く流せるようになる。
やんなっちゃうことも、仕方ないなー、受けて立つぜ、って気になる。

これ、マジで。
別にそう思おうと努力してるんじゃないのに、
フツーにそういう楽な気持ちになるんだよね。

それは、ツイッターで

「そういうふうにしてみましょう」
「そうするといいんですよ」

といった内容を何度も目にし、
また、目にする度に、うんうん、そうよね、と、しみじみ思い、
それが私の中にしみこんでいったのだろう。

いいツイートがそのまま自分のものになる。
しかも、気合いで熱心に読むんじゃなく、なんとなく斜め読み、流し読みで。
スゴイじゃないか、ツイッター、サブリミナル学習が可能だなんて(笑)

しかし、言葉の力って凄まじい。
もうスゴイを超えて、凄まじい。
発する言葉がこんなに自分に強い影響を与えるとは。
だもの、もちろん他人に与える影響だって凄まじい。

今までも頭ではそうだと分かってた。
でも、それをこんなにがっつり体感したのは初めてかも(遅ぇよ・笑)。
と言うか、イヤな方には体験してたんだと思うよ。
重い言葉使って重くなって後ろ向いて下向いて、ってのは。
いい方に体験できてるってのがうれしいじゃないか。

結局、潜在意識に届いて定着したものが自分のものになる。
つくづく感じた。

逆に言うと、重い言葉のタイムラインばかり読んでいたら、
それがしみこんで定着しちゃうんだろうな。

そう考えると、自分の環境をどういうものにするかってことは本当に大事だね。
その環境が自分に強い影響を与え、また、その環境と同化していくんだから。

自分が気持ちよくいられる環境を整えることがまず大事なのね。
そして、そこに身を置くこと、置き続けることが。
ツイッターはたまたまそんなツールのひとつというわけで。
と言うか、使い方によってはそういうツールになるというわけで。
友達や仲間、同僚、自分の周りの人間関係も環境のひとつだから、
選んで整えていいわけだし。

私が郵便局を辞めてとにかくよかったことのひとつは、
人の悪口を聞かなくなったことね。
悪口ジェットストリームの中にいたようなもんだったからね。
今はそういう意味でヒジョーに精神衛生上いい環境にいると思う。

ツイッターのサブリミナル効果で言葉の力を使えるようになったから、
さらに熟練してもっと言葉の魔法を使いこなせるようになろう。

アンナにも教えたのよ。
魔法使いになりたいならいいこと教えてあげる、って。
言葉の魔法のことを。


2010年06月06日(日) うつろいの中で思うこと

人は変わってゆくものなのだよね。

1年前の私と今の私は違うし、
ましてや、10年前の私と今の私はもっと違う。

今日、そんなことを、ふと考えた。

仮に、10年前の私に対して、
すごくたくさんの人がイエスと言ってくれて、
今の私にイエスと言ってくれる人がその半分だとしたら、
数で言えば、10年前の私の方が、
共感してもらえる、興味を持ってもらえる、支持してもらえる、
そういうことになるんだと思う。

人間だから、数で手応えを感じるのであれば、
やっぱり、多い方がいい。

でも、だからと言って、
じゃあ10年前の自分になって、
10年前と同じことをしたいかと言うと、そうじゃなく、
仮に、もし、10年前の自分になって同じことをすれば、
また同じ数のいい手応えを得られるとしても、
私はやっぱり今の自分がいいって思う。

私は変わってきたのだ。
そして、これからも変わってゆく。
いつも今の自分がいちばんいい。

外側から何かを得るために変わってきたんじゃなく、
人に受け入れてもらうために変わってきたんじゃなく、
生きる流れの中で自然に心地よい方に向かって変わってきたのだと思う。
その結果が外側からどういう評価を得るか、というだけであって、
評価はいつも自分の内側の動きの結果としてそこにある。

もちろん、素敵に変化した結果として、
いい評価、数多い人からの支持、
そうしたものがついてくることはよくあること。

けれど、そうじゃない時もあるんじゃないかなぁ、って思う。
そして、そうじゃない時に強い人間でありたいと思う。
受け入れてもらいたくて自分を曲げてしまわないように、
そのためだけに何かを選択してしてしまわないように、
ブレないものを持ち続ける強さを持っていたいと思う。

「今がベスト」って言うよりは、「今はこれがいい」って感じ。

誰のために生きてるって、自分のために生きてるんだもん。
自分がより心地よく豊かに生きるために。
その結果、そんな自分が誰かに何かを与えられる人になれれば、
最高だなって思う。

今の理想は、昨日の日記に登場した、
ほったて小屋の野菜直売所のおっちゃんとおばちゃんみたいに、
特別なことするわけでもなくフツーにそこにいて、
フツーにいつも通りにしてるだけなのに、
人の意識ぐいぐい変えちゃうような人だな。
自分はまったくそんな意図などなくとも。
カッコイイ。

私の大好きな言葉。

「人は絶えず変化するものだし、
 君が今の君自身であろうとする執着は君を制約し続ける」


2010年06月05日(土) 魔法の野菜

1週間くらい前かな。
今までと違う道を選んでウォーキングした日のこと。
初めて歩いて通る道の端に、ほったて小屋の野菜直売所を見つけた。

一旦は通り過ぎたんだけど、どうしても気になって、
ムーンウォークみたいにずりずりと後戻りすると、
たくさんの野菜と、店番のおっちゃんがひとり。

あいさつをしてのぞきこむ。

トマト、レタス、キャベツ、きゅうり、エンドウ豆、
じゃがいも、たらの芽、小松菜…
不格好だけど、なんて瑞々しいんだろう。
赤が赤で、緑が緑で、土の匂いがする。

「おいしそう!」

おっちゃんはにこにこしながら言った。

「おいしいよ!
 毎朝新鮮なのを穫って並べてんだ」

値段を聞いてみると安い!
全部100円、レタスはでかいのに50円。

「こんな値段でいいの?
 安い!」

「いいんだよ。
 野菜は自分ちで穫れるし、俺とおっかあが食べるくらいの、
 肉や魚が買えればいいんだから」

うまく言えないけど、なんて言うか、その言葉は、
私の深いところに入った。

虫に食われて葉っぱにまるい穴のあいた小松菜、レタス、キャベツ、
じゃがいもの袋の中をちょろちょろするありんこ、
ああ、農薬使ってないんだな、そう思った。

「レタスなんかは雨の次の日はなめぐじが入っちゃあんだよな。
 なるべく入らないように工夫はしてんだけど、どうしてもな。
 この前は、なめくじ入ってて、
 こんなもん食えないって持ってきた人いたから金返したけど、
 農薬使ってないとどうしても虫はついちゃあんだよな。
 それがイヤな人もいるのはしょうがねぇ」

それを聞いて、ハッとした。
私もそういうクチだったからだ。

昔、サニーレタスを手で割っていたら芋虫が出てきて、
そのサニーレタスをそのまま捨てた。

虫のついた野菜はキライ、気持ち悪いから。
そういう考えだった。

ちょっと胸が痛んだ。

おっちゃんと色々話をした。
楽しかった。
おっちゃんはおしゃべりが好きみたいだ。

私は10分以上そこにいただろうか。

野菜を買って帰りたいけど、
ウォーキングの途中でおさいふを持っていなかった。
困っていると、おっちゃんが言った。

「金は後でいいよ。
 野菜持っていきなよ。
 そのうち持ってきてくれればいいから」

私が二度と来なかったらどうするんだろう。

「ダメだよ。
 いったん帰ってお金持ってくる。
 それから野菜もらうから」

「いいって、いいって、持っていきなよ。
 また来た時でいいんだよ」

おっちゃんは私を疑いもしなかった。
もし私が二度と来なかったら…なんてことは、
ちっとも頭にないみたいだ。

私は、野菜を持って帰る代わりに、
じゃがいもときゅうりとトマトとたらの芽を予約した。
野菜売り場を後にしてウォーキングを済ませると、
おさいふを持って、またおっちゃんの店に行った。

「あぁ、来てくれたんだ、ありがとねぇ」

渡された袋をのぞいてみると、たらの芽の袋がふたつ多く入っている。

「あれ?
 多いよ」

「サービス」

おっちゃんが笑った。

そして、夜。
食卓にはおっちゃんとこの野菜。

おいしい!
トマトなんて、なんじゃこりゃの甘さ。
そして、じゃがいもひっくり返りそうなほどのおいしさ。
自然の甘みいっぱいのしっかりとした、でも、やさしい味。

野菜ってこんなにおいしいんだと猛烈に感動。
私だけじゃなく、abuもアンナもばあちゃんも。
食卓は一種興奮状態だった。

その日以来、我が家はその店の大ファンになった。
野菜だけを買いに片道10分ちょっと歩く。
私のぜいたくな時間。

その店は、普段はおばちゃんが店番していることが多い。
おっちゃんのおっかあ。
おばちゃんはタイの人だけど、日本語ぺらぺら。
いつも肩にルビーという名前の白い文鳥を乗せている。

この前は、野菜を物色してる私におばちゃんがこう言った。

「あんまりいっぱい買わないで」

びっくり。

「なんで?」

「毎日食べる分だけちょっとずつ買って。
 そうするといつも新鮮でおいしい野菜を食べられるから。
 毎朝穫って用意しておくよ。
 どんどん作るから、どんどん食べて」

たまんない、たまんないよ、おばちゃん!

そして、おばちゃんは私にレタスを渡してこう言った。

「サービス」

虫食いの穴のいっぱいある、でもシャキッとした瑞々しいレタスだった。

帰ってそのレタスを水洗いしていると、なめくじが出てきた。
昔の私ならそのまま放り投げていただろう。
でも、その日は違った。
なめくじを庭に逃がすと、レタスを洗ってちぎってサラダにした。

甘いレタス、みんな何もつけないで食べるんだもの、びっくり。
ドレッシングやマヨネーズも出しておいたのに。
いらないんだって。

あの夫婦が一生懸命作った野菜。
不思議と私はなめくじが気持ち悪くなかった。
あのふたりが作った野菜をありがたくおいしく食べたい、
ただそんな気持ちでいっぱいで、虫はどうでもよくなっていた。

あの野菜直売所に通ううちに、私は魔法にかかったみたい。
おいしい野菜、そして、まっすぐで気持ちのいいおっちゃんとおばちゃん。
私に大切な何かを教えてくれた。

そこの野菜を食べると、本当の野菜の味はこれなんだ、って感じる。
大地が育んだ味なんだ、って。
作り手の顔が見える、思いが伝わる、そんな食材の力を感じた。

この世界は美しい。
地球という土壌の恵みをいっぱいに受けたものがそこらかしこにある。
それは人の心をこんなにも豊かにする。
その店の野菜もそうだ。

その店の野菜を料理している時、
それをおいしいと食べる家族を見る時、
私はうれしくて幸せで泣きそうになる。
今この瞬間、欠けているものなど何ひとつないと感じる。
最高に恵まれていると。

なんでだろね、なんでだかわからないけど。
わかってるけど、わからない。
わからないけど、わかってる。
いいんだ、理由なんて。

最近、ウチの食卓は、たくさんの野菜と、
そして、必要なタンパク質を摂るための豆腐とか、納豆とか、魚とか。
食費としての出費が減った。
でも、すごくぜいたくな食事をしている気がした。

この時代、たとえば野菜にしても、生産性や見た目の美しさを考えて、
それはそれで仕方のない作り方をしているのだと思う。
農薬を使って虫がつかない形の美しい野菜を作る。
もちろん、それもひとつ、それもあり。
そして、それになじんできた。

けれど、あの野菜直売所に出会ってから、
私の中の食に対する価値観が大きく変わった。
欲しいものも買うものも自然に変わった。

もちろん、ジャンクフードも食べるし、お菓子も食べる。
でも、本当の味、本当の贅沢を知った気がして、
それは、まるで自分がちゃんとした場所に帰ったような感覚で、
そこから離れたいとは思わなくなったと言うか。

あのほったて小屋の野菜直売所には、
たまらなくあったかいおっちゃんとおばちゃんと、
ふたりが作るおいしい野菜がある。
私はほぼ1日おきに通う。

なんとなくウォーキングの道を変えてみたくなって、
気が向く道へと進んで行ったら出会った野菜直売所。
衝動ってやっぱり自分を導いてくれる。

私はおっちゃんとおばちゃんの店で、
おいしい野菜と一緒に幸せを買っている。

その店に買いに行くためにとことこ歩くことも、
その道すがら道端の花を見たり、空を眺めたり、
いつもつながれてる犬に挨拶したり、
そこでおっちゃんやおばちゃんと話すことも、
私にとってはみんなイベントなのだ。

生きてるっていいなぁ、
なんだかそんなふうには思わずにいられなくなる。
あの店の野菜は魔法の野菜だ。
おっちゃんとおばちゃんは魔法使い。

私、おかしい。
あの野菜直売所に出会ってから、毎日ミョーに幸せなんだ、わけもなく。
すごいなぁ、すごいよ。
人をこんな風にしてしまうなんて。
しかも、きっと本人達はそんなことなーんも意図してない。
ああ、私もそんな人になりたい。

今日はおばちゃんが作ったタイカレーを売る日。
予約しておいたグリーンカレーを買って帰ってきた。
手作りの味噌も一緒に(この味噌がまた絶品!)。

帰ろうとした私とabuに、おっちゃんがレタスを差し出して言った。

「サービス」


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