おひさまの日記
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2010年04月29日(木) 今日しみじみ思ったんだ

好きなことをするのが大事。
がまんしたり、イヤイヤ何かをするのではなく、
心が欲することをしていくのが大事。

と、本当によく言われてる。
そして、私もそう思う。

某所のつぶやきで、

「好きなこと以外絶対やっちゃダメだ」

ってのがあった。

でもね。
時にはそうじゃないこともあると思う。

人生の巡りの中には、色々なことがある。
時に苦労することだって、
望まないことをすることだって、
やはり、ある。
そういう流れに入らざるを得ない時がある。

そこでそういう体験をすることで、
あらためて「好きなことをする」という選択に辿り着けたり、
その価値や、そこから生まれるあらゆる素晴らしいもの、
そんなものを感じることができたり。

ホントに大切なこと。
好きなことをするということは。
心が躍ることをするということは。
それに尽きる。
けれど、そうでない時もある、そう思うんだ。
そうでない時に、それにとらわれ過ぎていると苦しくなる。

物事にはバランスがある。
色々でいいと思う。
どっちもあっていいと思う。
結果、好きなことをして、自分を生きられるようになれば。
そこに向かっていけば。
人はそこに導かれているんだし。

こんなに短く簡単に語れることじゃない。
でもね、うん、思ったんだ。
今日しみじみ思ったんだ。


2010年04月28日(水) 家庭訪問の日に

今日は家庭訪問だった。

小学校最終学年、6年生のアンナ。
その最後の学年で、初めて担任が男の先生になった。
先生のクラスになってから、アンナはなんだか変わった。

帰ってから学校の話をするようになった。
自発的に色々することが出てきたし、学校が楽しいと言う。

今日、先生に会ってみてわかった。
そか、この先生だからか、と。
この先生のことはアンナの様子が物語っていたのか、と。

茨城弁で田舎の先生って感じで、
話し方もほわんほわんってしてるんだけど、
話には芯が通ってて、そして心にしみる。
アンナに話していることを聞いて、私も深くうなずいてしまった。

心に残ったの話のひとつは、
ドリルは回数を多くやるのがいいんじゃない、
(学校では多くやるとエライという風潮がある)
周り(先生や親)を喜ばせるためにたくさんやるんじゃなく、
覚えるため、力を伸ばすためにやるもの、自分のためにやるもの、
答えを写したり、前に書いたものをそのまま写したり、
そんなふうにしても自分のためにならない、
だから、少なくても自分のためにしっかりやる方がいい、
そんな話。

子供にとって大切なことだし、大人にとってもそうだなぁ。

ドリルのことに限らず、すべてに言えるなぁ。
自分が自分の人生に責任を持つことから逃げないで向き合う意識、
そして、向き合って必要な行動を起こす勇気、大切…

他にもいい話いっぱいしていった先生。
家庭訪問って言うと、形だけ話して帰る先生ばっかりだったのに、
こういう先生もいるのかー、と驚いた。

アンナはキラキラしながら先生の話を聞いていた。
そのあまりのキラキラぶりに、おおお…!って思った。
すっごくやる気がみなぎってて、
なんか今までと違う、この子変わる…そんな予感さえした。

そして、今日の宿題、終わったよーっ!って見せにきたアンナ。
abuがチェックすると、
ドリルの最後のページの答えを写したのがバレバレな回答だった。

「答えを写したでしょう?」

と尋ねるabuに、

「えぇ?う、うぅーん、写した…」

だって(爆)
ついさっきああいう話聞いて感動してたのに!
子供らしくてイイッ(笑)
そういうアンナを見てくすっと笑えた自分が、
なんだか好きだった。

少しずつ成長していきな、アンナ。

ママだってまだ成長途中。
キミはもっと成長途中。
大人ほど自分がちゃんとやってると思い込もうとするし、
ずるい自分から、目の前の現実から逃げるのがうまい分、
もっとやっかいなんだよ。
だから、そういう意味ではママはもっともっと成長途中。

一緒に頑張っていこうね。


2010年04月26日(月) 言霊【コトダマ】

言葉には力がある。
私達はその力を自由に使うことを許されている。
それならば、その力を正しく使うことを学ぶことが必要だ。

大体の物事は、ひとつのことを両極で表現することができる。
陰の表現をするのか、陽の表現をするのかは、言葉の使い手にゆだねられている。

親や社会から言われ続けてきたことが、
まるで自分の意志のように言葉となって飛び出してくるということに、
常に気づいていなければならない。
それは、言われ続けたことを自分が繰り返して言っているだけで、
言われ続けた言い方が、自分の言い方になってしまっているだけで、
恐らく、誰もが、それが自分のものかそうでないかということを、
また、望ましいものかどうかということを、あまり考えないだろう。

言葉という力を自由に使うことを許されているからこそ、
その言葉の力を知り、言葉のよりよい使い方を知っていく時、
自分の、そして、自分の大切な人の、世界がよりよく変わってゆくことを、
私達は必ず体験するだろう。

口にする言葉をいちばん最初に聞くのは誰か?
自分だ。
たとえその言葉が他の誰かに向けたものだったとしても、
それを最初に耳にするのは自分なのだ。
言葉は全て自分に向かって言うこと。
自分の言葉は、自分の世界を作り、自分の現実を作り、自分の未来を作る。

だから、美しい、あたたかい、やさしい、希望に満ちた、言葉の使い手になりたい。
そうなれるよう意識して実際に行動していくことは、価値のある努力だと思う。


2010年04月25日(日) 危険なそば屋

私がハマってるそば屋がある。
ブログ、emiyaism PHOTO の方では度々取り上げてきたけれど、
こっちにも書いちゃう。

そのそば屋は、茨城県稲敷郡阿見町にある「手打ち蕎麦処・梶の葉」。
私はその蕎麦屋を「危険なそば屋」と呼ぶ。
なぜ危険かって、危険なほどハマるからなのだ。

そのそば屋との出会いの経緯を書くと長くなるので、
よかったらこちらを読んでいただきたいです。
いや、ぜひ読んでくだされ!
お、お、お願いひます〜〜〜!!!
感動と興奮が写真付きでふがふがと綴ってあります。

以前は千葉県成田市にあったんだけど、昨年の暮れ阿見町に店舗を移転。
茨城県民の私達にとっては舞い上がるほどうれしいことだった。
成田にあった頃も遠くたって通ってたもんね。
禁断症状が出ちゃうんだもん、それが近くなったとあれば、もう(笑)

梶の葉は、そばがうまいだけじゃなく、
店主の勝山さん、まだ20代の若い蕎麦職人なんだけど、
彼がとにかくいいキャラでいい味出してる。
ぼくとつな好青年なんだよ。
でも、一本筋の通った職人気質なのがたまらないね。

そして、今の店舗はそうでもないんだけど、
ブログで写真も見られる成田の店舗は、もうギャグ
あの店はネタの域。
あまりにも驚かせる店構えだったので「これは戦略なのか…?」と思ったほどだった。
移転しても、予算押さえるために、と、店を手作りしたそうで、
手作り感が漂ってるのが、成田の名残をいくらか感じさせてくれるかな。
個人的に言えば、あの不思議な店であり続けてほしかったんだけど(笑)

なんなんだよ、この店は!?というような店構えに、
危険なほどのうまさのそば、
そのギャップにやられたことから始まった梶の葉フリーク。
梶の葉に芸能リポーターが来ないのが不思議です!
芸能人がお忍びで通わないのが不思議です!

阿見にはアウトレットモールもできて、
そこからそんなに遠くないの。
アウトレットに行きながら、そば、ってコースで、
そんなに何もない茨城を(笑)ぜひ堪能してみてください。

危険なそば屋こと、手打ち蕎麦処・梶の葉、

「自分はインターネットとか苦手なんで」

と言い続けた店主、
でも、最近やっとできた梶の葉のウェブサイトものぞいてみてねーっ。
梶の葉のウェブサイトは → こちら

私達にとって、梶の葉でそばをいただくことは、
最高の気分転換であり、癒しであり、喜びであり、活力であり、
なんか、こんな店初めて!って感じのそば屋であります。
店ってのは、つくづく、その店の商品と、そして人なんだと感じる。

宣伝してるのか?
ええ、そうです(きっぱり・笑)

ひとりでも多くの人に食べてほしいそば。
私がそば屋の娘でそば好きでってこともあるんだけど、
それだけじゃなく、なんかね、梶の葉のそばを食べると笑顔になる。
おいしいだけじゃない、うれしくなっちゃうそばなんだ。
不思議なそばだよ。


2010年04月24日(土) インナートリップ

今日は不思議な場所に行った。

なんだかウツウツした気分だったのでベッドにうずくまっていた時だった。

私の中に浮かんできたのは、
一面草花がいっぱいの場所で、地平線の果てまで緑。
その中に誰かが歩いて草が踏まれてできたであろう道がくねりながら伸びている。
左の向こうの方には、またこれも緑でいっぱいの、丘のように高い場所。
そのふもとには小さな小屋。

私は、その草原にいて、小さな小屋に向かった。
その小屋には、異国の女性、おばあさんがいた。
彼女は喜んで私を招き入れた。
なにやらしゃべっているけれど、どこの言葉なのか私には理解できない。
でも、満面の笑みを浮かべて、私をもてなす。
彼女は私をとても愛している。

少しして、彼女は私を2階の部屋に通した。
そこは私のために用意された部屋だった。

その部屋の窓から見えるのは果てしない草原。
吹き込んでくる風で髪がなびく。
私はそこでいつまでも泣いた。
悲しいんじゃない、ただただ涙があふれてきた。

なにもない。
なぁんにもない。
ただ草原に風が吹いてる。
心が洗われるようだった。
胸の中のわだかまりが解けて外に流れ出していくように、
私の涙は流れ続けた。

私は外に出てみたくて下に降りた。
おばあさんは行っておいでと言うように、
私の背中に手を添えてそっと押した。

私はどこまでも続く草原を歩いた。
ただ歩いた。
少し行くと大きな木があって、私はその木の下で休んだ。
木漏れ日がきらきらして美しい。
風に葉っぱが揺れてさらさらと音がした。
私はそこでも泣いた。
とても心地よくて、ただただ泣いた。

しばらくして小屋に戻ると、おばあさんはにっこりして迎えてくれた。
私をやさしく抱きしめて、またなにやら言っていた。
でも、やっぱり私のわからない言葉だった。
それでも彼女の愛が伝わってきて、とても安らかだった。

また2階に上がり、窓からずっと外を見ていた。

帰らなくちゃ…そんな気がして下に降りていくと、
おばあさんが私に手渡したものがあった。
サンドイッチだった。
オリーブオイルを塗ったパンに、
バジルの葉をはさんで塩をふっただけのシンプルなサンドイッチだった。
でも、とてもおいしそうだった。
うれしかった。

私達は言葉なく互いに手を振った。
またいつでもここに来ていいんだとわかった。
ここは、私のためだけに用意された特別な場所だということも。
私は愛されていた。
存在する全てのものに愛されていた。
なにもないのにすべてがあった。
また来よう、そう思った。

私は帰ってきた。
ベッドの中にいたけれど、その不思議な場所に行って、
そして、帰ってきた。

すべてはイメージの中で起こったこと。
けれど、間違いなく私に起こったこと。
かたくなな心が少しほぐれて、私はやっとベッドからはい出した。

現実は容赦なくそこにある。
何ひとつ変わりなく。
でも、それも私の中にあるものすべてを見せているだけの世界。
私の中は今すさんでいるのだろう。
愛を見失っているのだろう。
自分への愛を。

自分を愛したいので助けてくださいと、天使に願った。

うまく言えないけれど、
私はなんて愛されているんだろうと感じた。
いつもいつも大きな愛に包まれているんだと。
自分で自分を愛せない時も、
その絶対的な愛はいつも自分を包んでいるんだと。
その中でころころと転がりながら生きているんだと。

今はそれでよかった。
それを感じられるだけで。

あたたかくてやさしい、不思議なインナートリップだった。
また疲れたら行こう、あの場所へ。
あのおばあさんのところへ。


2010年04月22日(木) やってもーたーっ!!!

そう、そうなのよ、やってもーたのよ!!!

新規の方から全然連絡ないし、
どちたのかちら、うーん…と、思い、
メールフォームから自分宛にメールでもしてみるか、と、
なにげにやってみたら…

ガーーーーーΣ( ̄□ ̄ )ーーーーーン!!!

メールフォーム動きおかしくてメール送信できないし。
abuにも試してもらったけど、やっぱりおかしい。

SunGoddessを再開して1ヶ月近くこの状態だったとは…
ふはははは…

思えば、連絡をくださっているのは、
これまでもずっと連絡を取り合っていたクライアントさん。
彼女達は私のアドレス知ってるもんね。

早く気づけよ、おれ。

ま、だから新規の方から連絡がなかったんだとは、
思わないようにはしてる。

これもまた何かのタイミングで、
私の奥で準備できてなかったのかもしれないし。
心当たりあるし(笑)

サイトのメッセージとか内容を書き換えて、
うん、この方がしっくりすっきり、自分の方向性も明確、
これがいいや、そう思った。
自分の中でだけの出来事だったんだけど。
そんな矢先のことだった。

きっとうまくできてるんだろう。

メールフォームも一度チェックして、
ちゃんと送信できてたんだけどなぁ…
その後いじってどこかおかしくしちゃったのかもしれない。

でも、もしも、連絡をくださろうとして、
できなかった方がいらしたとしたら、
この場をお借りしてお詫びします。
本当に申し訳ありませんでした!

またこれから新しい出会いがありますように…



今日はロコモコ丼作ろうと思って、
ぶくぶくあっためるだけのハンバーグを鍋でぐつぐつして、
さあ、盛りつけ♪と思って鍋からハンバーグ出したら、
ミートボールだった…orz

ハンバーグとミートボール、両方買ってあったから、
間違って鍋に入れたんだな。
ま、決してまずくはないから、いいだろう、いいさ、ははは…

やってもーただらけの今日。



そして、頭深々下げつつ退場。


2010年04月21日(水) ヘンカオアンナをほめちぎった夜

アンナは子供らしく、
いかに宿題をさぼるかとか、
いかにやるべきことからうまく逃げるか、
そういうのを考え実行する達人だ(笑)

で、かーちゃんに怒られていた。

すると、急にもわぁぁぁ…みたいなヘンカオをした。
そう、あくびを必死にかみ殺していたのだ。

私はそれを見て

「我が子ながらなんて立派なんだ!」

と思った。

それまでお説教モードだったのに、
そこから、私はアンナをほめちぎった。

「今、あくび出そうだったでしょ。
 でもぐっとガマンしてたでしょ」

その私の問いに、彼女はびくついた。
怒られると思ったのだろう。

「エライ!
 エライぞ、アンナ!
 ママが話してる最中だったからガマンしたんだね。
 なかなかできるもんじゃないよ。
 スゴイ!」

アンナは「へ?」って感じの顔だった。
あくびをかみ殺したことは無意識の行動だったみたいで、
言われて初めて、あ、うん、そう、やったよ、って感じだった。

人が話をしていても、平気であくびをする人がいる。
失礼だなぁ、と思う。
退屈でわざとそれを示そうとする人も中にはいるだろうけど、
そういう人の多くは無意識でやってるみたいだ。
大人でも結構いるもん、そういう人。

私が子供の頃そんなことしたら、
次の瞬間親父の怒鳴り声が飛んできたんだけどな。

アンナはいつの間にそんなこと覚えたんだろう。
エライなぁと思った。

ほめられて急にゴキゲンになり、ノリノリではしゃぎ出したんだけど、
また宿題の話でへしょんとなった(笑)

でも、最後に言った。

「勉強も大切だけど、それよりもっと大切なことがあって、
 アンナはそれができるんだ。
 それは本当にスゴイことなんだよ。
 だから、そういういいところをうんと伸ばして、
 で、宿題もやんな」

最後のひとことを聞いたんだか聞かないんだかわからないけど、
その後アンナはテンションが高かった(笑)

子供から学ぶことは多いなぁ。
私はそういうところ、きちんとできてるかしら。
ひとつ前の日記の、意識と無意識の話じゃないけど、
自分がしていることのひとつひとつを意識するってのはとても大事。

こんな話がある。

あれー、誰だったかな、恐らくマスター、
マスターがいる茶室に弟子が呼ばれて入っていった。
マスターは弟子に聞いた。

「今お前が入ってきた時、
 傘は左側にあったか、右側にあったか?」

弟子は答えられなかった。
傘の位置など気に留めていなかったからだ。
マスターは言った。

「あと7年修行しなさい」

弟子は反論した。

「たったそれだけのことで7年もですか?」

マスターは諭した。

「たったそれだけのことではない。
 常に意識をしてすべてを見ていることが重要だ。
 それができるようになるためにあと7年修行しなさい」

そして弟子を帰した。

そんなお話。
深いデス。

意識をして物事を見るということ、
無意識にしていることに流されて大切なことを見落とさないということ、
その重要さを教えてくれるお話。

昔この話を読んだ時は、厳しすぎ!って思ったんだけど、
ひとつの逸話として、今はなんとなくわかる。

アンナ先生、貴重な時間をあざしたーっ!


2010年04月19日(月) ばあちゃんから学ぶ意識と無意識

うちは料理にゴマをよく使う。
特にすりゴマ。

母はいつもつぶしていない粒ゴマを買ってきて、
それをすり鉢とすりこぎ棒でゴリゴリすってすりゴマを作る。

ある時、

「お母さん、手間かけてないですりゴマ買えばいいじゃん」

そう言って、私は買ってきたすりゴマを見せた。
母は黙ってじーっとすりゴマを見つめた後、

「そうだよねぇ、その方が全然いいよねぇ!」

と、大発見、といった感じで驚いていた。
いや、すりゴマを売っているのは知っていたらしいのだ。
でも、粒のゴマを買ってするのが習慣になっていたので、
無意識のうちに粒ゴマを選んで買い、
すりゴマが目に入っても買おうという頭が働かなかったらしい。

それ以来、母はすりゴマを買うようになった。
ばあちゃん、かわいい(笑)

それを見て思った。
無意識ってこういうもんだよね、と。

習慣として身に付いていることは、
誰でも無意識のうちにしていると思う。
習慣とは、意識せずにできること、とも言えるだろう。

たとえ、習慣でしていることが、
ばあちゃんのすりゴマみたいにすごく不便だったとしても、
もっと便利なものがあるんじゃないかということは考えない。
ただ、自分にインプットされた行動パターンを無意識に繰り返していく。

昔「不幸に慣れるな」という言葉を聞いた。
その時は、誰も不幸になんて慣れるわけがないじゃないか、と思った。
でも、今はその言葉の意味がわかる。

自分を苦しくしてしまう言動、人を傷つける言動を含め、
そうしたものは少なからず誰にでもあるんじゃないかと思う。
それは、ばあちゃんのゴマで言うなら、粒ゴマだ。
無意識の言動で苦しくなる状況を作り出してしまう。
自然に出てくるものだ。
素敵なものならいいんだけど、そうでない場合はやっかい。
それが不幸に慣れるということだと思う。

けれど、自分の言動が無意識に行われている習慣であると気づき、
それがもし苦しいことや問題を作ってしまうのだと認識できたら、
ばあちゃんが売っているすりゴマを見た瞬間と同じなのだ。
あら、私何やってたのかしら、って。
もっといいものがあるのね、って。

そうしたら、次に、今度は意識してすりゴマを取り入れる。
いや、すりゴマじゃなく、いいもの(笑)
無意識にやっている習慣を、意識してやる何かに置き換える。

言葉で言うのは簡単だけど、
実際、習慣ってーのはかなりしっくり自分になじんでて、
瞬時に変えるのはそうそう簡単じゃないかもしれない。
でも、意識してやることを続けることによって、
それはいつしか自分にしみこみ、無意識にできる新しい習慣になる。

以前、叶恭子さんがテレビで言っていた。

「よくそんな疲れそうなポーズで長い時間座ってられますね」

と、司会者に言われた時のことだった。
かなりキツイだろ、その体勢みたいなカッコだった。
つまり、美しく見えるために研究し尽くしたポーズ。

「最初は意識してやるんです。
 それを続けます。
 そのうちそれが無意識でできるようになるんです。
 そうなるまでは努力が必要です。
 あたくしたちは30分でも1時間でもこうして座っていられますわ」

それを聞いて、さすが恭子ねーさん!と思った。
ただキレイなだけなら、あそこまで名を馳せることがなかったであろう叶姉妹。
成功していく人達は共通する意識を持っていて、
また、それをもれなく実行し形にしている。
彼女達もそう。

素敵な習慣はそのままに、
苦しいことや問題を作ってしまうような習慣は、
まず、自分がそうしたものを持っているのだと認識した後、
意識してそれをもっと心地よくなれるような新しいものに置き換えていく。
けれど、無意識の習慣は強いので、
意思を越えて飛び出してくるだろう。
そこで、ぐぐっとふんばって、続ける。
何度失敗したっていい、続けていくうちに習慣になるし、
何より、その新しいことを取り入れたことによって、
自分や自分の大切な人達がより心地よくなっていくのを感じて、
さらに新しいものは加速して身に付いていくだろう。

そして、ばあちゃんはすりゴマを買っている(笑)

私にも無意識の言動というものはたくさんある。
いいものもあるんだろうけど、そうでないものもある。
そうでないものは、やはり、
意識して新しいものに置き換えていくべきだと思っている。

私は「べき」とか「ねばならない」という言葉はあまり好きじゃない。
でも、この場合はあえて「べき」と書く。
なぜなら、人生には乗り越えなきゃならないことがあるかだら。
そんな時、できないー、とか、無理ー、とか言っていたら、
それこそ「不幸に慣れる」ことになってしまうからだ。

私はそんなのイヤだ。
だから、努力したい。
最近も強くそう感じることがあったし。
洗礼受けたよ(爆)
みんな色々あんのさ、毎日、ねーっ。

ゴマは体にいい。
ゴマ和えはもちろん、納豆にも入れるし、みそ汁にも入れるし、
野菜炒めにも入れるし、なんにでも入れちゃう。
その勢いで、いいもの人生に増やしていこうと思う(笑)




話はガラッと変わるけど、
友達が山川紘矢さん・山川亜希子さんご夫妻の講演会にたずさわり、
今、参加者を募集してます。
説明するまでもない有名なご夫婦、かの「前世療法」シリーズを始め、
精神世界の名作を数多く翻訳していらっしゃる。
その他でも活躍していらっしゃることは言う間でもない。

その山川さんご夫妻の後援会ご案内は「こちら」にあります。
スマイルナビゲーター麻日(あさひ)さんのブログです。
よかったら参加してみてね。

ちなみに、麻日さんは私の友達で、
アロマテラピー、リーディング、カウンセリングを提供してくださり、
私が唯一体を許した(笑)アロマセラピストでもあります。
「癒しだけでは先に進めない時代」と、癒しだけにとどまらず、
自分の力で未来を作り出すためのセッションをしてくださいます。
でも、ほわぁんとしたあったかい人。

「癒しだけでは先に進めない時代」というのは私も強く感じること。
心の傷と向き合い、感じ、受け止め、癒しを体験した先は、
今度はどうやって生きてゆくか、がすごく大切。
いつまでも痛い場所を見る作業にとどまってしまうと、
傷は癒えているのに、もっともっと…と、
その作業にハマってしまうこともある。
ええ、私がハマってましたから(爆)
だからこそ、今は、癒しも大切だけど、その先も大切、そう思う。

同じ考え方を共有できる友達というのは、
本当にありがたく大切なんだなー。

おうおう、話がぐぐっとそれた。




すりゴマで行こうね。


2010年04月14日(水) 天使のハナシ

今日は美容室に行って髪を切った。
10センチ以上切ったぞー。
ああ、さっぱり♪

ストレートパーマかけて、カラーやって、カット、大体5時間半。
その間、1冊と1冊の1/3の本を読んだ。

1冊はドリーン・バーチューの「スピリチュアル・ガイド2」。
朝家を出る時に、ずらっと並んだ本を眺めて、
なんとなく目についたので手にした本だった。

でも、読んでて、ああ、今日読む本だった、と実感。
中でも心に残ったのは、

「天使との交流は誰でもできます。
 それが不可能な人など存在しません。
 神から選ばれた人だけ天使と交信できるとか、
 特殊能力を持っていなければだめだとか、
 そういうのは通説に過ぎません」

という一説だった。

私も日頃から感じていることだけど、
あらためて、それを確信に変えてくれる言葉だった。

セッションをしていて、時々すらすら言葉が出てきて、
それが自分が思っても考えてもいない言葉で、
ああっ、今自分なんかすごくいいこと言った(笑)
っていう時がある。
変な表現だけど、自分がしゃべってるんじゃないのだ。
言葉が飛び出してくるって感じで。

そして、それが相手の方にとって必要なことだったり。
その度、なんとも不思議な感覚を覚えるのだった。
いつもどっかから言葉が降ってくる、と思っていた。

そういうのも、天使やそうした存在からのサポートだと思う。

ご存知の方も多いように、
私はスピリチュアルな世界を生き方の基盤にしているんだけど、
スピリチュアルに傾倒してしまうのがイヤで、
基本、現実ありき、地に足つけましょう、と考えるタイプ。

だから、そいういうことばかり言うのはイヤだった。
でも、頭の中では、そういうことはよく考えている。

と、言うか、現実の現象の中で、
明らかにそうした存在とつながって、
情報やメッセージを受け取っていると感じるので、
考えざるを得ない。

けれど、それさえも日々の中さりげなく訪れること。
だから、今日は卵の特売日だ、と考えるのと同じレベルで、
そういうことも考えているように思う。

スピリチュアルなことは特別なことじゃなく、
むしろ日々のすべてがそうだと思う。
だから、今夜は餃子にしよう、と考えることと、
このことは天使にお願いしよう、とか、今助けてもらったな、
と考えることは全く同じで、生活全般に浸透しているように感じる。

そんな時、冒頭のドリーンの言葉を読んだから、
ああ、やっぱりそうだよね、と思ったわけだ。

朝、その本が目について手に取りたくなったのも、
感覚を通じて天使から、

「これ読んでー」

と言われたのを受け取ったわけで。

私達人間は言葉を使ってコミュニケーションすることが普通で、
それに慣れているし、それ以外を信頼するのがなかなか難しい。
感覚で何かを受け取っても、
偶然だと思ってしまったり、
ひらめいて行動したことさえも無意識で気にも留めなかったり、
するんだと思う。
でも、言葉以外の五感をフルに使って、
私達はそうした存在と、実はやりとりしてるんだよね。
私は感覚とか感情を通して受け取ることが多いかな。
他の誰かが話していることを通して受け取ったり。

逆に、なんでもかんでもそういうものと関連づけてしまって、
いや、実際はすべてが関連してるんだけど、
頭だけが宇宙に行っちゃってるようになってしまうことだってあるだろう。
それは避けたいことで(笑)

そうなることも、そう思われることもイヤで、
今まであまりそうしたことに関しては多くを語らなかったけど、
(いや、語ってたか?)
今日のドリーンの本を読んだことで、
なんか、ふと、書いてみたくなったんだよね。

以前、abuが実際天使を目で見た体験があって、
それは私にとっても大きな体験だった。
何が大きかったかって、
天使を目で見ても、別に何も変わらないや、ってことが、
とにかく大きな学びだった。
特別なことじゃないんだ、って思えたことが。

昔は、天使を見たら何かが変わるんじゃないかとか思ってたし、
そういうのができる人がスゴイとか思ってたし、
そういう体験がない自分にちょっとだけコンプレックスも持っていた。
でも、いちばん近い人のひとりがそういう体験をしたのを間近で見て、
しかも、その場所に一緒にいて、
あれ、なんかすごくフツーだぞ、と思った。
それから、私のスピリチュアルな世界への見方が、
より心地よく自然なものになっていった。

それからだな、色々な、あれ、これって…っていう、
不思議なことを、特別意識を持たないで受け容れられるようになったのは。
自分が特別な体験をしているというような、
ある意味甘美な考えはしなくなったし。

みんなフツーに毎日体験してるんだな、
それと気づいてないだけで、
そう思うようになったことは、私にとってはすごく大きなことだった。

だから、今日のドリーンの言葉がなんだかすごくうれしかったのだ。

もう一冊途中まで読んだのは「アルケミスト」。
今まで一度も読破したことはないんだけど、
いつもいつも気になってた本。
今まで何度読んでも途中で読むのをやめてしまって、
放置しちゃってたんだけど、
今日はなんだかぐいぐい読めた。
そして、話もスゴく入ってきた。
今まで何度か読んだ中で、いちばんまっすぐに自分に入ってくる感じ。
続きも読んでみようと思ってる。

ストーリーも結末も知ってるんだけど、
物語の中の言葉ひとつひとつ感じて読むのは、
ストーリーを知っているのとは全く違って、
より多くの大切なものを受け止めながらの作業だと感じた。

今日は何かが自分の中でシフトした日だったなぁ。

私のガーディアンエンジェルの名前は、
「アレックス」というらしい。

今日、本の中で、名前を尋ねると答えてくれる、と書いてあったので、
心の中で訪ねてみたら、

「アレックス」

と、言葉が強く浮かんだ。

気のせいじゃん?と思ったんだけど、
次の瞬間、不意に泣きそうになった。

なぜなら、その「アレックス」という名前は、
私がもう10年以上前、天使の夢を見た時に伝えられた名前だったのだ。

あなたはいつか馬に出会うでしょう、
その馬とは本当の名前で呼び合ってください、その名前は…
と、いくつかのアルファベットがなぜかスケッチブックに書かれていて、
その文字の羅列を見た時に、私が「アレックス」と読み取ったのだ。
なぜかその夢のことは鮮明に覚えている。
あまりに不思議な夢だったので、
私はノートにその夢のことを書き残しておいたのだ。
その馬ってのが比喩的で、一体なんだったんだろうって思ったんだけど、
眠る前に「天使に会いたい」と念じてエンジェルカードを引いて、
出たのが「期待」というカードだったので、
半分起きていて、半分寝ているような状態の中で、
ああ、これは天使が夢に現れてる、そう考えていたのを覚えてる。
ふたつ名前が読み取れて、もうひとつは「アニー」だった。
呼び合うって、なんだ?

ま、それはいいや(笑)

その夢のことさえすっかり忘れていたのに、
今日「アレックス」という名前が強く浮かんだ時、思い出した。

そんな長い時間をかけて、
私達は受け取る準備をしてもらえていて、
ずっとずっと愛され続けていて…

すげー!と素直に思った。
今まで以上にそうしたことを認めて、
そして、言葉にしてもいいかな、とも思った。

と、いうわけで(全然、というわけで、じゃないし・笑)
寝不足続きなので、今日はもう寝るとする。


2010年04月10日(土) 桜咲く日に

今日はあったかかったなぁ。
桜の写真を撮りに行ったの。

春になると桜が咲く。
誰かに咲いちゃダメなんだと言われても、
誰かに咲くのが気に入らないんだという態度をされても、
桜はそんなこと関係なく咲く。
桜だから。
桜としてそこにあるから。
バラがきれいだからって、バラになろうとしない。
ただ桜として生きてる。

あぁ、すごいなぁ。

私はどれだけたくさん自分のものを歪めてるんだろう。
自分の何をも裏切らないで生きられたらいいなぁ。
自分の何かを別の何かの代償にはしたくないなぁ。

自分でいるって、時に勇気がいる。
でも、勇気ってそういうもののために使うんだと思う。

桜、きれいだなぁ。
私も凛と生きてあんなふうになりたいなぁ。


2010年04月09日(金) 大丈夫、大丈夫

好きなことをしよう、
やりたいことをしよう、
ワクワクすることをしよう、
それ、もう定説になりつつある感じ。

そして、私もそれがいいと思うし、
自分でもそうしてる。
それによって、えええっ!?って体験もいっぱいする(いい意味で)。

でも、人生には暗黒の時代(勝手に命名・笑)ってのがある。

そういう時は、
やることなすことうまくいかなかったり、
自分からなーんにもなくなっちゃったり、
何が好きで、何がやりたくて、何がワクワクするか、全然わからない。
でも、目の前には日々の生活があるから、
仕方なくルーティンワークをこなす。

ふと、立ち止まると、
あれ、私何やってるんだ?
私ってなんなんだ?
なぁんて思うこともある。

そんな時もある。

好きなこと、やりたいこと、ワクワクすること、
わからないことほどある意味しんどいことはない。
そういうものは自分の源で、それを見失っている時は、
自分が誰で、何のためにここにいるのか、
わからなくなってしまうことだってある。

死ぬほどつらいわけじゃないけど、
なんだか空しいと言うか。

生きてるうちにはそんな時もある。

でも、私は言うよ。
大丈夫だって。
そんな場所から抜け出す日が必ず来るって。
いつまで続くかわからないようなそんな毎日にも必ず終わりがある。
その渦中にいる時はそう思えないけど(笑)

そして、後でわかる。
その地を這うような時間の中で積み重ねていたものが、
トンネルを抜けた時、自分をいざなっていくってことが。

だって。

私がそんな暗い中で2年以上さまよっていたんだから(笑)
静かに重たく空しく、自分という存在を見失っていた。
何もかも空回りで、持ってたものみんな失って。
でも、抜けたんだから。
抜けた出口は新しい場所への入り口だった。

やがて見えてくる、感じられる。
好きなこと、やりたいこと、ワクワクすること。

大丈夫。
必ず抜ける。
だから、頑張って。

でも…頑張ってばかりだと倒れちゃうから、
時々、休んでね(笑)

応援してます。





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2010年04月08日(木) 人間天使

えみやさんは天使とか見えるんですか?
と、聞かれることがある。

見えません。
きっぱり(笑)
いや、見られるなら見たいんだけどね、見えないだけ。

でも、人間天使なら時々見る。

この前も、出かけようとした時、人間天使に会ったよ。

アンナのお迎えに行こうと、
家のカーポートで車のエンジンをかけた時のこと。

ウチは通り沿いにあって、しかも交差点から2軒目、
いっつも車がぶんぶん走ってるからすごく出づらい。

その日も信号待ちの車がずらっと並んでいた。
そして、ちょうどウチの出口に、
バイクに乗った茶髪でロン毛のおにーちゃんふたりがいて、
ブンブンブンブン、ブブン、ブーン、ブブブーン!!!
って、エンジンふかしてるわけだ。
しかも、バイクはチャラチャラした感じのカスタム仕様。
彼等が目の前にいていい感じにふさいでるので、
車の鼻っつらも出せない。

あーあ、もうちょっと気をきかせて、
少しだけずれてくれればいいのに、
ったく、ブンブン言わせてうるさいし、
チャラチャラして感じ悪い…

と、冷たい目でおにーちゃん達を見てた。

次の瞬間。

ひとりのおにーちゃんが私を見てにこーっと笑うと、
もうひとりのおにーちゃんをつついて合図し、
ふたりして下がって道をあけてくれた。
そして、何度も頭を下げて、
手で、どうぞ、どうぞ、って、やるの。

ハッとした。
私、何見てたんだろう、って。

おにーちゃん達は、
道をあけてくれたお礼に私が鳴らしたクラクションに、
また、笑顔とぺこりでこたえてくれた。

目頭がじい…んと熱くなった。
それは、彼らに感動した涙でもなく、
彼らをそういう目で見てしまった自分を悔いて責める涙でもなく、
そういうのを通り越して、崇高なものに出会った時に出てくる涙。

私はそういう人達を人間天使と呼ぶ。
いいこと、素敵なことをするから、そう呼ぶんじゃなく、
ある時、何かの出来事の中で目の前に現れて、
カチッとスイッチを切り替えるから。

一瞬で、自分の中のいちばん素敵で美しい場所に、
戻してくれるから。

バイクのおにーちゃん達もそう。
私の中にある色々なぐだぐだを、
スコールで洗い流すように一瞬でキレイにして、
なんて言うんだろう、こう、元の場所に戻してくれる。
そう、ここだよ、ここ、って場所に。

人間天使は、普通のその辺の人、おそらく(笑)
そして、自分が私にそんな瞬間を与えてるなんて知りもしない。
その人はごくごく普通にただその時その人のままそうしているだけで。

この世界にはそんな人間天使がいっぱいいる。

あれ、知らなかった?
これ読んでるあなたも人間天使だってこと。
私は特になんにもしてないし、と思うかもしれない。
いや、してるんです。
自分じゃしてないつもりでも、素のままで何かしてる。

私ってダメだな…と思うことがまったくない人なんて、
きっといないんじゃないかと思う。
たとえ、自分がそういう状態の時でも、きっと誰かの人間天使。

救われたことがある分、必ず誰かを救ってる。


2010年04月07日(水) 形から入って自分を整える

新しいホームページをアップした。
アップして2週間ちょっとでリニューアル。
やっと、納得。
よかったら見てやってくださいましよ、
(また)新しい SunGoddess

力尽きた。

ちょっとゆっくりしようっと。




今日、アンナが髪を切ったの。
新しい髪型がすごく気に入ったみたいで、ずっとゴキゲン。
いい笑顔してる。

それを見て思った。

自分の何かが好きでいられたり、
納得できていたり、気持ちよくいられたり、
どんな形であれ自分にオッケーが出せる時って、
すごくハッピーなんだよな、って。

そういう意味で、自分を整えるって大切だな。

内側を整えていくこともそうだけど、
今すぐ、はい!って整うことばかりじゃない。

そういう時、簡単にまずできることをやってみる。

髪型を変えることや、
お気に入りの服をやバッグを見つけることや、
ネイルケアをすることとや、
穴があいちゃった靴下を新しくすることや、
ちょっと高いけど欲しかったシャンプーを使うことや、
机の上をひとまず片付けること、色々、色々、
形から入れること、簡単にできることをちょっとするだけで、
気分が違うんだよね。
それだけでもいいんだよね。
それだけだけど、それが大切なんだよね。

なぁんて思ったのだった。
そんな小さいことでも自分のためにしてあげることが、
大きいものも引き寄せてくれるんだろうな。

形から入って自分を整える、これ、簡単だし、効果ある。
自分をいたわれる。
ボロボロでうまくいかないことばかりの時こそ、
自分にやさしくしてあげる。

すべては連鎖。
つながっている。
引き寄せ合っている。

私は今度は何しようかな、自分のために。
小さくてもうれしくなれること。


2010年04月06日(火) 日々の処方箋

腹が立つときの自分を観察してみた。
最近はウェブの仕事が多く家にこもっているので、主に家族に対して。

私がカチンと来て、ぐだぐだ言いたくなるのは、
どうも、相手の態度が好ましくない時のようだ。
冷たかったり、そっけなかったり、スルーされたと感じる時、
はぁ?って思ってしまう。

そして、よくよく感じていくと、
ああ、さびしいんだな、って、思う。

だから、怒っても怒っても、責めても責めても、
感じるままにぎゃーぎゃー言ってるはずなのに、
ちーっとも楽にならない。
逆に余計苦しくなる。

そりゃそうだ。
だって、本当は怒りたいんじゃないんだもの。
ただ、仲良くしたいだけなんだもの。

正攻法であれば、相手の気持ちや状態を理解し、
やさしく思いやりのある態度で接するべきだろう。

でも、湧いて出る衝動にも似た感情が暴れている時は、
正攻法なんてくそくらえだ。
だから、私は、私なりの方法を取る。

「どうしたの?
 笑顔がないし、気になっちゃうよ。
 何かあった?」

と、聞いてしまう。
そして、付け足す。

「さびしいから聞いちゃった。
 仲良くしたいだけなんだ」

と。

責めるんじゃなく、
私から見るとあなたはこう見えて、
私はこう感じてる、こうしたいと思ってる、
どうしたの?
って、コミュニケーションしていく。

責めると相手は心閉ざしてゆく。
そぉっと近寄っていくと相手は心開いてゆく。
そこで、たとえ相手が自分にとって好ましい反応をしなくても、
責めずに近寄ったことで気持ちが楽になる。
流れが進展することもある。

私のコミュニケーションは、ひょっとしたらいつもそんな応急処置。
最初から聖人君子のようには振る舞えない。

でも、そんな「北風と太陽」のお話みたいに、
力づくで相手をコントロールするより、
ほわぁんとあたためて相手をほぐしていくような、
そんなやり方ができた時は、
何かが溶けて相手との距離がぐんと縮まるのを感じる。
たとえ状況が変わらなくても。

相手にそうやって近づけた自分がうれしいのと、
相手がなぜそんな笑顔のない冷たい態度でいるのかが、
そうしたことで理解できてほっとするのとで、
同じ状況の中にいても、自分の状態が変わる。

もちろん、あまりに感情的になってる時はできないけど(笑)

できることを、できる時に。
できなかった時は、あとで「ごめんね」を。
そんなふうにして毎日を過ごしてる。

日々、怒ったり泣いたり笑ったり、落ちたりて上がったり、
はたまた淡々としていたりして、過ごしている。
そのすべてが自分にあって、そして、それでよくて、
その上でどう過ごすか、それを考えている。

悪いところをなくそうとすることばかり考えると、自分を責めてしまう。
自分はダメなんだ、って思うことほど苦しいことはない。
だから、こんな自分でできることはなんだろう、って考える。
そして、それを実行する。
ちょっとカッコ悪いけど、でも、結果オーライならいいや、って。

いきなり本に書いてあるような立派な自分になろうとすると、
なれなかったりしてつらいことがある。
それはそれ、いい情報として受け取りながら、
今の自分のままどうベストな状態に持っていくか、それを考える。
それを繰り返しているうちに、自分なりの、
人との関わり方の正攻法ができるのかも。
それもベースに取り入れた情報があるからこそなのだし。

だから、私の応急処置も、本当は正攻法になっているのかも。

私はよくいいことが書いてある本やメルマガを読むと落ち込むのですよ。
わかる、書いてあることはすごくわかる、
でも、私とはほど遠くて、今の自分にはできてないや、って。
それをやろうとしているのになかなか追いつかない時なんか、
自分はダメなんだと悲しくなって、すねて、もういい、ってなる。
どうせ私は…って卑屈モードになる。

そんな時、それはそれ、ひとつのいいものとして胸にしまっておいて、
上級編はさておき、初級編から行くか、と、
自分なりにできることからしてみるわけだ。
もちろん、すねながら(笑)

それが私の日々の処方箋みたいなもんだ。

そんなことを繰り返しているうちに、
いつかどこかで読んだようなことをしている自分がいるかもしれないよ。

人には段階がある。
その段階に合った情報や方法がある。
それを選べばいい。
そういう意味で情報を選ぶということはすごく大切だ。
情報取り入れながら自分の中で料理するということも。
情報とどう付き合うかって、すごく大事。
うまく選択して取り入れられると、情報は宝物になる。
それに飲み込まれ振り回されると、情報は魔物になる。

あらあら、今日も感じるまま書いていたら、
話が連想ゲームみたいに展開していってるわよ(笑)
でも、日記だから許してー。





余談だけど。

今日はアンナの始業式。
いよいよ6年生…の、はずだった。
でも、私はなぜかあさってが始業式だと思い込んでいた。

のんきに朝ご飯食べていたら、前の担任から電話があり、

「今日始業式ですが、アンナちゃん来てなくて…
 どうしましたかぁ?」

数秒無言ののち、

「すいません…勘違いしてました!
 すぐ登校させます!」

ってことで、アンナを叩き起こし、
バナナを一本食べさせると車に乗せて学校に向かった。

学区外通学なので登校班もないし、気づかなかったよぅ…
ごめん、ごめんよ、アンナ、母ちゃんやっちまった。


2010年04月05日(月) 移り気なのか、なんなのか

日記書くインターバルが長くなってるなぁ。
ネタは浮かびつつ、過ぎ去る日々。
そして、ネタは消えてゆく。
いや、潜在意識にしみこんでるはずなので、
必要な時出てきてくれるさ、きっと(笑)

実は、今、SunGoddessのホームページを作り直している。

私のリニューアル好きは前のSunGoddess時代からおなじみだけど、
今回のは早過ぎると自分でも思いつつ、
でも、違うと感じ始めたものを公開しておく方が気持ち悪いので、
今、またMacにひたすらかじりついて作業する日々。

おそらく、あと2、3日でなんとかなるのでは…と。

移り気なのか、なんなのか、それはさておき、
いい感じにクールダウンしたので、ちょっとさっぱりさせたいな、と。
しつこかったからな、今のサイトは(笑)

最低限公開できる状態にしてアップして、
少しずつ手直し、という形にしたいデス。

そして、フェードアウト。
サイト作りに励みます。

またね〜。


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今日も読んでくれてありがと♪すごくうれしい!
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