おひさまの日記
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2010年03月31日(水) 人生の証明

ここには書かなかったんだけど、
以前、アバンダンティア・アバンダンス・レイ・アチューメントを受けた。
本当のところ、受けてどうなのさ?って気持ちもあったんだけど、
受けたいという強い衝動が湧いてきたので、勢いで受けた感じ。

豊穣の女神アバンダンティア。
そのアチューメントとは、簡単に言うと、自分の中の不要なブロックを外して、
金銭的・物質的サポートを受けるためのエネルギーを受け取るためのもの。

で、結果、どうだったか。
私個人は効果あると思う!

まず、受けて驚いたのは、お金の不安がなくなったこと。
お金がいきなり流れ込んできたんじゃなく、
状況はそれまでと同じなのに、不安な気持ちにならなくなった。

受けるまでは、今月あとこれだけだよ、これからどうなるんだろう、
いつもそんな不安にいつも追いかけられて、
どんよりとした気持ちで暮らしてたんだけど、
なぜだろう、ホント不安を感じなくなった。

一度は、残金が減っていって、収入のあてがなくて、ウチもう限界、
っていう状況にまで追いつめられたのに、
なんだか不安になれなくて(笑)ほのぼのと暮らしていた。
こんな脳天気でいていいワケ?と思うほど。

そうしているうちに、なんだかんだと仕事の話があって、
気づいたら食いつないでいる。
その現象は、私にだけでなく、abuにも訪れた。
なんでも、アバンダンティアのアチューメントを女性が受けると、
パートナーにもそのエネルギーが波及するそうだ。
それも、自分たちの状況を見て納得した。

セレブにはまだ果てしなく遠いけど、
今月も光熱費と税金が払えるわ、
ちょっとおやつも買っちゃおうか、外食しちゃおうか、
なんてことが言えるようになったんだもの、
どれだけ自分たちの生活が潤ってきたことか。

今だから言えるけど、毎日、食事がみじめでさ、
納豆だけ、とか、ふりかけだけ、とか、
ひとりの時は食べない、とか、
かなり追いつめられてたもんな。
時に、食事は芋とかね。

それを思えば、以前よりうんと受け取れるようになったと感じる。

パソコン2台、アドビのソフト4つを買った時も、
実は、赤貧のまっただ中だったのよ。
こんなの買ってる場合じゃねーよ!って時だった。
でも、アチューメントを受けた後だったので、
まったく不安を感じず、
豊かになるための選択をしようと考えた結果、
買うという答えが出たので、それに従ったというわけだ。
それまでの自分のパターンを打ち砕くためにも。

それまでなら買わないで卑屈になってたと思う。
やっぱり無理だよ、どうせこんな状況だもの、そうやって自虐的になって、
負の連鎖をどんどん大きくしていっていたと思う。

けれど、それを断ち切ろうと思ったの。

そして、面白いことに、
買ったものをみんな返すことになるかもしれない出来事も起こったんだよ。
返すか、返さないか、その選択は私達に任された。
まあ、つまり、ショップのミスで色々あって、その対応じゃ困ると伝えたら、
じゃあ全部返品してください、代金も全額返金します、って言われたんだ。

私達は揺れた。
今、ここで返品すれば、出費をおさえられる。
古いパソコンをだましだまし使って、
使いづらいのもガマンすれば、
今まで通りやれるっちゃーやれるし、どうしよう?って。

でも、そこで思った。
返品することで、出費は抑えられても、
使いづらい古いパソコンを不自由しながらだましだまし使って、
気分的にかなり落ちて、
そりゃそうさ、ニューマシンが来るはずだったのがキャンセルになり、
がっかりするんだもん、期待した分余計に気持ちも落ちる。
そして、そのパソコンもそのうち壊れて、またどうしよう、ってなる。
みじめになる、卑屈になる。
負の連鎖。
それが今までの私達。

でも?
変わりたいよね?
それなら、違う選択をしよう、って、私達は返品を断って、
きちんと対応してもらえるように頼んだ。

その後、問題は難なく解決し、
あれは何だったの?っていう感じだった。

まるで、古いパターンに戻りますか?って、念を押されたみたいだと感じだ。
私はこういう出来事を「おためし」と呼んでいる。
変わっていこうとする時、訪れることが多い。
戻る?進む?どっちを選ぶの?って。
私達は断固拒否した。
いいえ、古いパターンには戻りません、
新しく豊かな流れの中に入る新しい選択をします、と。

でもね、そんなふうに進みつつ、
これって現実逃避か?
これってついに精神が壊れたってことか?
って、自問自答してたんだけど、
うん、いいの、これで、って感覚が自分の中に満ちていて、
こわいけど、もうこれに従うしかないよな、って、腹がすわった。

そして、なんとかなり続けている。
なり続けて、私達は、毎日、好きなことを仕事にして暮らしている。
一般的に言う、安定や保証は全然ないけど、
でも、もっと違う、これまでに体験したことのない、
不思議で面白い感覚に満ちあふれている。
私はこの生活が気に入っている。
そして、この生活でさらに豊かさを受け取っていくことを選択している。

なんとか暮らせている毎日。
abuやアンナにお菓子を買ってあげられることが、
アンナを外に遊びに連れて行ってあげられることが、
雑誌を買えることが、
母の誕生日にプレゼントやケーキやごちそうの材料を買えることが、
うれしくて、うれしくて、うれしくて、
それまで当たり前だと思っていた生活が当たり前じゃなく、
どれほど恵まれて素敵なことだったのかを感じられて、
仕事も途切れることなくお話をいただけて、
ありがたくて、ありがたくて、ありがたくて。

感謝、ひたすら感謝です。

そして、これだけのことを感じさせてもらえているので、
そのうち、アバンダンティアのアチューメントは、
セッションのメニューに加えようと考えている。

疑い深い私なので、
自分で効果を実感できてからじゃないとやらないって決めていた。
でも、やろうって決めた。
笑顔でいられるようになった毎日に感謝し、
アバンダンティアのエネルギーをもう少し自分の中で感じて、
それからね、やろうと思うよ。

ああ、ちなみに、アチューメント受けてる時は何も感じなかった(笑)
人によっては色々感じるみたいだけど、私は何も。
だから、もしどこかで受ける人がいて何も感じなくても安心して(笑)
そして、現状を見てそれでもいいのよねって思えた。

仕事の話をくださるすべての方に感謝。
仕事に関わってくださるすべての方に感謝。
仕事の話を取ってきて稼いでくれるabuに感謝。
私は生かされてると実感。

痛いこともあって、イヤなこともあって、
そこから学ぶこともある。

そして、結果オーライ。

郵便局辞めてよかった。
好きなことして生きていっていいんだってこと、
自分の人生で証明したかった。
これからもし続けていきたい。
まだ、証明の途中かもしれないけど、
自分の選択、これでよかったのだと強く感じている。

私は、私が体験したことしかシェアできない。
だから、体験する。
体験して感じる、体験してつかむ。
それを伝えていく。
それが私の人生の証明。

これからもライブでお届けしていきます(笑)

そうそう、もうすぐメルマガを発行します。
メルマガのタイトルも「おひさまの日記」。
日記よりも、もちっと本音とか、もちっと実際あったこととか、
かなりカッコ悪いけどこんなことつかめたよ、みたいなこと、
書いていくつもりです。

ああ、もう寝よう。
明日はアンナの仲良しの友達がお泊まりで遊びに来るので、
みんなで阿見のアウトレットに行くのだーっ。
あさっては危険なそば屋でお昼を食べて牛久大仏に行くのだーっ。

おやすみなさーい。


2010年03月27日(土) 好きに生きなさい

ウチの実家の廊下は、田舎の家らしく、結構広い。
アンナとかけっこしてぐるぐる回れるくらい広い。

引っ越してきてから、不要になったソファーの置き場がなく、
とりあえず、と、廊下に置いたんだけど、
今、そのソファーが、私とアンナのお気に入りスポットになっている。

南を向いている廊下は、日中おひさまの光が入ってとてもあたたかい。
そこで、ぼーっと座ってたり、お昼寝したり、ふたりでおしゃべりしたり、
私達には特別な場所なのだ。

昨日、そこにアンナと座っていたら、彼女が言った。

「ねぇ、ママ、アンナも大きくなったらセラピストになりたい」

あらびっくり。

「ママみたいになりたい」

あら、あら、何をうれしいことを。
私が仕事してるところなんか見たことないのに。
それにこの間まで「絵描きになる」って言ってたよね。
しかも、画家じゃなくて、絵描き(笑)
子供の一時の気持ちかもしれないけど、すごくうれしかった。
私の何かを感じてくれているのかな。

「なったらいいさ、好きなものになったらいいさ」

そう言うと、アンナは、うん、と笑った。

「好きなことをしなよ。
 好きじゃないことをしてると苦しくなる。
 自分が自分じゃなくなっちゃう。
 誰が何と言おうと好きなことをしなよ」

アンナは、また、うん、と言った。

アンナさんよ、
ママはおっかない母ちゃんだけど、
そういうことだけは言ってやれるよ。

好きに生きなさい。
自分を生きなさい。
回り道もしなさい。
回った分だけつかむものがある。
はちゃめちゃやるならこっそりやりなさい。
心配しちゃうから。
つらいことがあったら帰ってきなさい。
黙ってうまいものでも出してやる。
大丈夫。
何があっても大丈夫なように産んであるから。
だから、好きに生きなさい。
キミは幸せになる。


2010年03月26日(金) SunGoddess再始動

SunGoddess(サンゴッデス)のホームページができました。
はぁぁぁ、長かったーっ。
いったいどれくらいかかったんだろう。
3週間くらいかかりきりだった。
これからも見直して手直ししていくかもしれませんが、
ひとまず、おひろめとなります。

SunGoddess再起動、いや、パソコンじゃないんだから、再始動。
えみやこと私、大関恵美、セラピストとして改めて動き出します。

新しいSunGoddessのサイトはこちらです。
みなさま、どうぞよろしくお願いします!




うぁぁ、今日の日記、短いのに、
タイプミスするわ、送信ミスするわ、
緊張してんのね(笑)


2010年03月24日(水) ニャーニャーホルガ

少し前、abuにカメラを買ってもらった。
「ニャーニャーホルガ」ってやつ。
わーい!

ホルガっていうトイカメラがあって、
それは、真四角の独特な風合いの写真が撮れる、ある意味マニアなカメラ。
よく6×6(ろくろく)って言われるブローニーってフィルムを使う。

「ニャーニャーホルガ」は、
そのカメラの35mm(普通のフィルムね)バージョンで、
ボディは白と黄色の2色がある。
私のは白。
で、表に猫の顔(しかもヴサイク)が描いてあって、
ボタンを押すと「ニャー」って鳴くのだ。
いや、厳密に言うと、鳴るのだ。
それがたまらない。

しかも安っぽい。
トイカメラだから、ただ押すだけ。
まあ、絞りもシャッタースピードも固定されているので、
フィルムを選んだり、撮る時の光を考えないと、
真っ白か真っ黒な写真になることもあるんだけど、
難しい話は抜きにして楽しめるカメラ。

私は、その猫のヴサイクさと「ニャー」と安っぽさに魅力を感じて、
おねだりしたのだった。

でも、そのちゃっちいカメラは、
あなどることなかれ、かなりいい味出してくれる。

明るくないと撮れないスペックなので、
お天気がイマイチなこの頃はまだ使ってないんだけど、
今度お天気になったらぜひ出動させたい!
今はボタン押して「ニャー」を聞いて楽しんでる。

abu、本当にありがとうね。

最近写真撮ってないのよー(涙)
何してるのかって?(誰も聞いてない)
ホームページ作ってるんだよ、SunGoddessの。
もう少しで完成だ!

あとはよくDVD観てる。
今日は「デトロイト・メタル・シティ」観たよ。
昨日は「ランボー」。
おとといは「20世紀少年」と「龍が如く」。
明日は「20世紀少年」の第二章観るんだ〜♪
旧作100円のレンタル、ゲオさま、ありがとうございます!

さ、さ、仕事しましょう;

と、言いながら、また「ニャーニャー」している。
電池なくなっちゃうね。


2010年03月23日(火) 深刻な悩み

私はクセ毛。
放っておくとうねうねしてまとまらずヘンな髪型になってしまう。
生え際は常におっ立ち、寝起きなんかドリフの高木ブーの鬼さん状態。
おっ、キマった!って思うのは、
美容室でカットしてブローしてもらった後だけ。
髪の毛一本一本も太くてごつくて、髪全体がごわごわ。

小さい頃からそれがイヤで、コンプレックスでもあった。

まっすぐなさらさらヘアーの子がいるとうらやましかった。
あれこそまさに女の子、風になびく髪、
もし神様がひとつだけ願いを叶えてくれるなら、
さらさらのまっすぐな髪の毛にしてほしいと思っていた。

ストレートパーマなるものが登場した時はまっさきに飛びついた。
でも、当時のストレートパーマは今のものより全然よろしくなく、
かけても不自然だし、1週間もするとクセが出てきてしまっていた。

そこで私は逆手に出た。

そう、ストレートをあきらめて、ボンバヘー路線に走ったのだ。
昔で言うソバージュにしたり、スパイラルにしたり、
とにかくきつくパーマをかけて、ボンバヘーのイメージを定着させた。
それに何よりボンバヘーはお手入れが楽。
半乾きの時にムースでじゅわーってして形を作っておけば、朝起きても無敵だ。
半年は美容室に行かなくてもなんとか形になるし。

ある時、いつも行っている美容室のオーナーが、
今のストレートはすごくいいんだよ、と教えてくれて、
またストレートパーマに挑戦した。
十数年の月日はストレートパーマを格段に向上させたようで、
なんとまあ、素晴らしい仕上がり。
そして、いつまでもさらさらつやつや。
それ以来、私は定期的にストレートパーマをかけ続けている。

だがしかし。

伸びてきた髪はやはりクセ毛、だんだんおかしなことになってくる。
生え際はうねうね、あとはまっすぐ。
どうもカッコよくない。
3ヶ月が限界ね、ストレートパーマかけずにいられるのは。
3ヶ月目にはかけないと、んがーっ、この頭イヤーッ!ってことになる。

最近、それがどうもめんどうくさくなってきた。
いや、ストレートではいたいのだ。
でも、めんどうくささが勝ち始めた。

そして、車で走っている時に見かけたどこぞの美容室の看板に、
ボンバヘーのおねーさんの写真が使われていて、
あら、カッコイイ、と思ったことで拍車がかかり、
ストレートからボンバヘーに戻そうという気持ちが出てきて、
どうするか真剣に考え始めた。

ボンバヘーにしてイヤだったらストレートに戻せばいいという簡単な問題ではない。
なぜなら、ウェーブパーマとストレートパーマの繰り返しは、
いちばん髪が傷むのだそうだ。
私の髪は、ずっとストレートパーマをかけ続けてきたので、
毛先に行けば行くほどストレート歴も長く痛んでいる。
それをこれ以上痛ませてしまったらヤバい。

それで悩んでいた。

やっぱりボンバヘーにしよう!と思った矢先、abuの撮影で被写体になった。
風起こして(by 扇風機)髪をなびかせる感じで。
その写真を見たら、あああ、子供の頃から憧れていた風になびく髪、
やっぱり捨てがたい!と思ってしまったのだ。

それでかなり深刻に悩んでいる。

ちなみにabuは、
ストレートもボンバヘーも好きだから、
自分の好きにすればいいよ、と言う。

あぁぁ、どうしよう…


2010年03月22日(月) 彼女を思い出した日

郵便局にいた時、周りの人にけむたがられている人がいた。
まあ、みんながみんなのことを何かしら言ってるんだけど(こわっ)、
特に、みんなの反感を買っていたのは、
機嫌が悪くなると態度が変わって、周りに当たりがきつくなる人で、
おつぼねとも言われていた。

でも、なぜだろう、私は彼女が結構が好きだった。
好きと言っても、プライベートでも仲良くできるような好きじゃないけど、
同じ職場で一緒に仕事する上では、決して嫌いじゃなかった。
彼女の機嫌の悪い時の言動はイヤだったけど、なぜか憎めなかった。
それはよくないな、って感じる彼女の言動はたくさんあったけど、
それでも。

彼女があらわにしていたのは、いつも怒りだった。
仕事への怒り、会社への怒り、同僚や上司への怒り、お客様への怒り、
烈火のような激しい怒りだった。
彼女が放つ暴言はそりゃひどいもんで、悪口も強烈、聞くに耐えない。
聞いてるとどよよーんとしてくる。
彼女にひどいことをされたと怒っている人も結構いた。

そんな彼女を見て、ふと、怒っているときの自分を感じた。
理不尽な人の責め方、感情的で支離滅裂な言い分、ひどいもんだけど、
でも、彼女は本当は悲しいんじゃないだろうか、って。
怒りながら胸が張り裂けそうな痛み持ってるんじゃないだろうか、って。
それで彼女はなんだか憎めない存在だったんだろう。
困ったちゃんだけど、でも、そうよね、つらいよね、って。

そんなふうに好意的に見ている空気みたいなものが伝わったのか、
私はそんなにひどいことをされたことがなかった(少しはあったけど・笑)。
どちらかと言うと、親切にしてもらっていると感じた。
彼女の機嫌が悪い時の話しかけるコツみたいなのがわかって接していたので、
そんなに当たられることもなかったんだと思う。
むしろ、話しかけてきてくれるようになり、冗談を言い合えるようにもなった。
仕事で困っていると助けてくれた。

私がもうすぐ郵便局を去ろうという頃、
彼女が話しかけてきた。

「えみやさん、残念ね。
 気持ちよく接してくれていい雰囲気作ってくれたよね。
 本当は私が辞めればいいんだよ。
 だって、私、必要とされてないんだもの」

「そんなことないですよ」

そう私が言うと、彼女は悲しそうな顔をして笑った。
私は泣きそうになった。
彼女を抱きしめたかった。
まさかそれはしなかったけど。
怒りをまき散らし、陰で猛烈に悲しくなる自分を感じていた。

数日後、私は郵便局を去った。

今日、ふと、彼女を思い出した。
ある瞬間、ちょっとしたことで悲しくなった時だった。

そんな時思い出した彼女。
私は今でも覚えてる、あの言葉。

「だって、私、必要とされてないんだもの」

その言葉に彼女の奥にある痛い痛いがみんな詰まっていた。
今日の私は彼女のその痛みにリンクしたのだろう。
だから、彼女を思い出したんだと思う。

ある時、暴れる彼女を見ていて思ったっけ。

「おおお〜、やってる、やってる。
 うらやましいな。
 あんなに感情的になれて、言いたいこと言えて。
 私だったらどんなに頭に来てても、
 後のこと考えたり、こわかったりして、何も言えないな」

って。
そんなふうに思ってるのが不思議でおかしかった。

私は聖人君子じゃないし、当然好き嫌いもある。
最後まで受け付けないほど嫌いなヤツもいたよ。

でも、彼女には認めて受け入れた自分を見たんだろう。
そりゃあひどいけど、でも、仕方ないね、
そうしてしまう痛みがあるね、って、受け入れられた自分の姿を。
善し悪しは別として、そうした自分がいることを。

決してほめられたもんじゃない彼女に好意を持てたことがうれしい。
彼女の奥にあるであろうものを感じられたことも。

ベランダで煙草を吸いながら、彼女が元気だといいと思った。


2010年03月21日(日) 印象のビフォア・アフター

昨日、初めて会った人がいて、
今日、メールをいただいた。

そこに、彼女から見た私の印象が書いてあった。
彼女は会う前も日記やブログを見ていてくれていて、
そこからの印象は、

「センシティブでとんがってて厳しい人かなー」

という感じだったのだそうだ。
そして、会ってみたら、

「「関西出身?」と思わせるような、おおらかな感じ」

だったそうだ。
これを読んで思わず大笑い。
やっぱりーっ!って。

いや、実は、私に対する印象のビフォアアフターが、
たいがいの人はそんな感じらしいからだ。

実際に会った後に言われることが多いのは

「関西出身?」
「おもしろい」
「ウェブでのイメージと違う(もっと堅苦しい人かと思った)」

って感じのこと。
そう言われると、いい意味で裏切ってるのかな、と思う。
思いたい(笑)
だから、うれしい。

人の印象っておもしろい。
自分が感じている誰かの印象も、
本当は本人の実際の姿とは全然違うのかもしれない。
第一印象をいい意味で裏切る人はいっぱいいる。

でも、現実世界では、
やっぱり人に与える第一印象って大切で、
無理をする必要はないけど、
お互いに心地よくなれるような第一印象を与えられるような努力が、
できる人であれたらいいなって思う。

起承転結のない内容、かつ、しまりのないおわり方だけど、今日はおわりぃ。


2010年03月18日(木) 「今日はいい日」

以前、知人から斉藤一人さんの冊子をもらった。

興味があったわけじゃないし、欲しいと思ったわけじゃないんだけど、
彼女が猛烈に読めとすすめるから、じゃあ…と、仕方なく(笑)受け取った。

帰ってもしばらく読まずに置いたままにしておいた。
でも、ある時、せっかくもらったんだから、
読まないのもなんだし、まあ、とりあえず目を通してみるか、と、
軽い気持ちで冊子をペラペラめくり始めた。

私の読書は斜め読み。
一冊を完全に読破するということはあまりない。
パッと開いたところを読んだり、目次で気になるところを読んだり。

昔は結構本好きでかなり読んだけど、今は活字離れしていて、
読みたいという強い衝動を感じるもの以外手を出さない。
厳密に言うと、読みたいという強い衝動をあまり感じなくなった。

そんな私なので、そうした衝動を感じないものを読めと言われても、
なかなか読む気になれなかったのだけど、なんか、読んだのだった。

やっぱり、斜め読み。
ペラペラめくって気になったところだけ。

でも、読んでよかった(笑)

自分がワクワクして選択したもの以外で、
いらねーよ、と思ってもやってくるものの中には、
自分に必要なものもあると、改めて感じるのだった。

その中で私の心に残ったことは「言霊」のこと。

言葉の力が大きいということはよーくわかってるつもり。
でも、人間だから、日々色々なことがあり、色々な気持ちになる。
だから、わかっていても忘れてしまうのだ。
忘れてしまって、言葉の力の間違った使い方をしてしまう。
何かをわかっていることと、
それを自分のものにして行動に移しているかどうかは別なのよね(汗)

自分を振り返って、ぞんざいに言葉を扱っていたことに気づく。

冊子の中で、

「今日はいい日」

という言葉を、1日最低40回以上言いましょう、というくだりがあった。
たとえ、その日がいい日だと感じられる日ではなくても、

「今日はいい日」

そう繰り返し言葉にすることで、
その日はいい日になる、と書いてあった。
イヤなことも起こらない、恐れていたことも起こらない、って。

だけど、たとえその言葉を繰り返しても、
全然いい日じゃねーよ、さんざんだよ、って思うこともあると思う。
ぶっちゃけあると思う。
私は、ある。

でもね、その日が、いいことなんてないよ、って思う日でも、
その日の出来事とか、その日の気持ちとか、
それが心地よくなかったり、つらかったりしても、
その日があるから辿り着ける日を予約できる言葉だと思う。

そして、いいことがないから、いい日じゃないのではなく、
本当はそんな日でも、それが起こらなかったからわからないだけで、
もっと大きな災難やつらいことを避けられているのかもしれない。
そう思った。

不思議なものでね、
つらい時、

「今日はいい日」

って繰り返していると、涙が出てくるの。
全然いい日じゃねーよ、うまくいかねーじゃんかよ、
そんなぐつぐつした気持ちじゃなく、
なんて言うんだろう…説明のつかない涙。
悲しい涙じゃないんだ。
恐らく、自分の奥の方の大切なものに触れて、ふっと素直になる感じ。

私で言えば、目の前のつらいことや問題、
それに直面して中心からブレてしまった自分が、はっと我に帰る感じ。
あれこれと頭に詰まった色々なことや、
言葉で脚色してしまったまっすぐな気持ち、
そんなものがそげ落ちて、
丸裸の自分が、ぽつん、とそこに現れるような感じ。
本当の自分に帰れるんだ。

スゴイ言葉だなって思った。

牙をむいて、よだれを飛び散らせながら、吠えまくる野良犬が、
本当はもとはそんなふうじゃなかった生まれた頃の子犬に戻るような。

だから思う。

「今日はいい日」

って言葉を口にして、そんな涙が流れる日は、
やっぱりいい日なんだ、って。

「今日はいい日」

って、言えないほどうちのめされてしまうことだってある。
そんな時、言えるか、んなもん、そういう言葉ってムカつく、って思う。
そういう日は言わない、言うもんか(笑)

「そんなこと考えちゃダメですよー。
 そういう思考が現実を作るんですよー。
 ポジティブになりましょうねー」

なんてよく言われたり、よく読んだりするような、
そんな正論を激しく無視、
謹んで、どっぷりネガティブな想いにひたらせていただく。
ダメって言われたって、湧いてくるものはしょーがねーよ、って。
大切なのは、それを感じた後なんだもん。
感じて、そのもっと奥にあるものに出会うことだもん。

そして、やさぐれて、あらくれて、
ほんの少しでも気持ちがやわらくなってきたら、
やっぱり言う。

「今日はいい日」

って。

あなたも「今日はいい日」。


2010年03月15日(月) 大人買い、もとい、先行投資

iMacを買った。

買うなんて思いもしなかったんだけど、
abuのパソコンのモニターが映らなくなって、
修理の見積もりを出してもらったら、
私達がずっと欲しいと思ってたiMacとほぼ同じ値段の修理代だった。
なら、買った方がいいと即決。

そして、調子が悪くなったのは1台なのに、なぜか買ったのは2台。
そう、私のも買ってしまいましたーっ。
ええ、それは「はずみ」というものよ。
abuはWindowsからの乗り換え。
ふふふ、マックユーザーがまたひとり増えた。

私が今まで3年使っていたのはノート型でまだ使えるんだけど、
写真の編集やウェブ制作などなど、色々やり始めたら、
モニターの大きさや、スペックの部分で、やっぱり物足りなかった。

だから、ずっと狙ってたんだよー、iMac。
21インチのモニター、ワイヤレスのキーボードとマウス、
本体はアルミで軽量&スリム&カッコイイ。
しかも、かなりのハイスペックで安い。

abuが言ったのだ。

「えみやが買うなら、俺買う」

えええっ!?
そ、そんな、私が欲しいの知ってて、なんて罪な言葉。
そう言われて買わない訳がないじゃないか。

って言うか、キミ、パソコン壊れて買わない訳にはいかないんだから、
私は関係ないんじゃないの?
もしかして、ショップに行く度、マックのコーナーで、
いつまでも潤んだ目でiMacをじぃ…っと見ていた私へのやさしさ!?

でもだよ?
キミはフォトショップがまず必要、
私はそれに加えて、イラストレーターも、ドリームウィーバーも必要だよ?
それ、ないと、iMac買っても意味ないよ?
なら、今までのノートで事足りちゃうんじゃ?
いや、厳密に言うと、今までノートでなんとかするしかないんじゃ?
(↑強制終了を繰り返す古いバージョンのGoLiveをだましだまし使用)
キミだけiMacとフォトショップ買えばいいんじゃ?
私が買ったら、フォトショップに加えて、
イラレとドリームウィーバーも買うことになっちゃうよ?
中古車買えちゃうんじゃないの?

で、結論。
iMac2台。
フォトショップを2台分、2つと、
イラレとドリームウィーバー、計4つのアドビのソフト。

お買い上げありがとうございましたー。

店内をつかつかと歩く私の後ろで、abuがぼそっとつぶやいた。

「大人買い…」

私は振り返って、にやっ…と笑った。

「うんと働いて稼いでもらうよ」

abuも、にやっ…と笑った。

自分が無駄遣いしてるんだか、
賢い選択をしたんだか、
よくわからなくなりながら、
11年で5台目のマックを迎え入れた。

データのインポートだの、設定だの、めんどうなことがあったり、
慣れないキーボードでなかなかタイプしづらかったり、
色々あるけれど、でも、いいね、ワクワクする。

故障で仕方なくて、そこにはずみも加わって、こんな流れになったけど、
これも、ありかな、と。
きっかけを与えられて、そこでどう動くかは自分次第。

ふたりともノートで妥協しながら仕方なく仕事をしていくか、
(abuはもう1台古いノートパソコンを持ってはいたのだった。
 普段仕事には使ってなかったけど)
気持ちよく快適に仕事をするために投資するか、選択を迫られた。

私達は、後者を選択した。
気持ちよく、心地よく、仕事しよう、って。
その状態から生まれるものはきっといいものだ、って。

その投資に見合う仕事、見合う豊かさを手に入れよう、私達はそう決めた。
今回の先行投資はそのための宣言みたいなものだ。
いや、みたいなものじゃなく、宣言(笑)

帰って箱を開けて出てきたiMacに言った。

「こんにちは。
 よく来てくれたね、うれしいよ。
 よろしくね」


2010年03月13日(土) じじい、お誕生日おめでとう

今日は父の誕生日。
家族全員で父のいる施設にお祝いに行った。

すっかり弱った父。
ガイコツに皮をかぶせたようにやせこけてしまった。
年末の入院からなんとか回復し、施設に戻ったけれど、
悲観するとか、そういうの抜きにして冷静に見ても、
以前よりだいぶ衰弱している。
口を閉じる力もないらしく、ずっとぽかんと口を開けている。

その現実から目をそらさず、しっかり受け止めようと思った。

何を言っても反応があまりないけれど、
でも、こっちが話したことはちゃんと聞いている感じがする。

私は、勇気を出し、父の手を握って言った。
今日、言わなければ、そう思った。

「お父さん、自分が親になって、
 お父さんがどれだけ苦労してつらい思いして
 私を育ててくれたかよくわかったよ。
 本当にありがとうね。
 感謝してるよ」

父は、

「ぉおか(そうか)…」

と、たどたどしく答えた。

「おかげで43歳になったよ。
 もう43歳だよ、早いねぇ。
 いくつになってもお父さんの娘だけどね」

そう言うと、父の口元がかすかに動き、小さくほほえんだ。
そして、私はさらに勇気をふりしぼって言った。

「お父さん、大好きだよ。
 私がお父さんのこと大好きなの覚えておいてね」

父は口をぽかんと開けたまま黙っていた。

おかしいねぇ、親子なのに。
ありがとう、って、
好き、って、
伝えるのにこんなに勇気がいるなんて。

でも、今日、父の78回目の誕生日に、私は必ず伝えたかった。
それを伝えずして…

いつか来る悲しい日を心のどこかに感じながら、
私は今日という日にありったけの勇気を使おうと決めていた。
ずっと言葉にすることのできなかったことを、
今日、やっとまっすぐに目を見て言えたよ。

ほとんど動けない父のベッドの上には、
私が撮った3枚のモノクロの写真が飾ってある。
父の写真が1枚と、父と母の写真が2枚。
施設で撮ったものだ。

写真が好きだったお父さんの娘は、
いつの間にか同じように写真を好きになったよ。
同じ血が流れてるんだね。

私は年齢を重ねていくのが好きだ。
なぜなら、昔にはわからなかったことがわかるようになるからだ。

今わかってるのはね、お父さん、これでいい、ってこと。
すべてがこれでいい、これでよかった、ってこと。
シンプルなことだけど、それがすべてだよねぇ。
そして、すべてに言えることだよねぇ。
生きるって素晴らしいね、そこで起こる出来事もすべて。
ねぇ、お父さん。

お父さんにひどいことされてきたから、
私、セラピストになれたんだよ(笑)
いやー、これだけはホント、何より感謝してる!

じじい、お誕生日おめでとう。
来年もお祝いさせてよ。
お願いだよ。


2010年03月12日(金) 好きなことしよう

久しぶりに成田のジムに行ってみた。

親友がイントラをやってて、彼女のエアロビクスのレッスンと、
レスミルズのボディコンバットのレッスンを、2本スタジオで。

家でも時々ビリーだの格闘技の型をベースにしたワークアウトだのやってるけど、
ひとりだと盛り上がりに欠ける (´・ω・`)チョットツマラナイ…

でも、ジムは、特にスタジオはいい!
テンション上がる、ぎゃーーーっ、楽しいっ!

それに、目の前で親友がイントラやってるのを見て、じぃ…んときた。
イントラは彼女の天職。
イキイキしてて、好きなんだな、楽しいんだな、って伝わってきて、輝いてるの。
そんな彼女を見ていてさらに幸せな気持ちになる。

好きなことしてイキイキするって、世界への貢献だ。
うれしくて楽しくて幸せでいると、自分が満たされるのはもちろんのこと、
周りの人にもやさしくできる。
何より、まず大切な家族にやさしくできる。
笑顔を見せられる。
それが、いちばん。
すべてはそこから。
自分が苦しいと人にやさしくできないんだ。

やっぱり、好きなことしなきゃ!って、思った。

好きなことが何だかわからなくて苦しい時だってある。
何をやったらいいのかわからなくて、自分って何なんだろうって思ったり。
ただ毎日を過ごして、時間に追われて、虚しかったり。

それでも、人の中には、必ずあるんだよね、好き!ってことが。
それが見えない時だってある。
それに、その好き!から遠ざかることだってある。
時には、もういい、もうイヤ、になっちゃうことだって。
そして、そういう時期も必要で、
その冷たくて暗い重たい時期に、大切なことを積み重ねてる。
私もセラピーから遠ざかってたからよくわかる。
自分に何もないって感じると、すごく悲しいけど、
でも、みんな本当は持ってるんだ、必ず。

みんなが好きなことできるといいなって、心から思う。

今日は好きなことして、楽しくなって、
そして、大切な友達のそんな姿を見て、そんなこと感じられて、
本当にいい1日だったな。

私はジムでそうやって運動するのがワクワクして大好きなんだけど、
運動神経抜群、ってワケじゃない。
どちらかと言うと、どんくさい。
だから、エアロビクスも初心者クラスしかやらない。
それ以上になると動きにが複雑になってついていけないから(笑)
でも、いいのだ、好きだから (  ̄∇ ̄)

得意じゃないなりにやってると、その中でも得意と言うか、
できるようになることも出てくるとわかったのは、
今までやったことがなかった運動を始めて学んだこと。

だから、どんな人も、得意不得意、うまい下手、技術がレベルが、なんて関係ない、
好きなら、やってなんぼ、やってそこで何かを見つければ、つかめばいい。

運動したことがない私が、体を鍛えるのが好きになったのは、
やればやっただけ結果が目に見えて出てくるってのが理由のひとつ。

心や人生の変化は目に見えない変化でしょ、じれったい時がある。
でも、筋肉は応えてくれる(笑)
正しい方法できちんと鍛えれば、結果が目に見えて現れる。
それが面白くてうれしくてね、気づいたらハマってた。
元はと言えば、マドンナみたいになりたかったから始めたんだよなぁ。
きっかけはそれだけ。

あ、今、イントラの彼女から、

「筋肉痛の余韻を楽しみながらゆっくり休んでね」

ってメールが来た(笑)

そう、大好きなの、筋肉痛。
痛いとうれしくなっちゃう。
ここがもっとカッコよくなるんだ、って思うとワクワクする。
もう本格的なトレーニングから離れてはしまってるけど…
また戻りたいね。

スタジオではじける私とは逆に、
abuは奥の方でひとり黙々と鍛えていた。
どこにいても、何をやっても、ひとり黙々とやるんだね(笑)

心地よい疲労感の中で今日は落ちまーす。


2010年03月11日(木) かわいいばあちゃん

母が私に言った。

「あんこの入ったあんぱん買ってきたから食べなー」

私は、ありがとう、と言って、あえて突っ込まなかったけど、
ばあちゃん、あんぱんってぇのはもともとあんこが入ってんだよ。

じゃあ、
ジャムの入ったあんぱん、とか、
クリームの入ったあんぱん、とか、
カレーの入ったあんぱん、とか、
やきそばの入ったあんぱん、とか、
はたまた、わざびの入ったあんぱん、とか、
応用がきいちゃうじゃないか。

もぉ、おかしくて、プルプルしながらabuに報告に行ったら、

「あ、俺のところにも来て言ってたよ。
 あんこのあんぱん買ってきたから食べな、って(笑)」

あああ、素なんだ、あの人は素でああなんだ、天然なんだ。
そうだよな、思えば私が子供の頃から天然だったよな。
まだ、「天然」なんて表現がなかった頃から天然だったよな。

父はその「天然さ」にイライラして母を怒鳴り散らしてたっけ。
記憶をたどっていってよくよく思い出すと、
母が天然さを発揮する度、父は怒ってたような気がする。
は?と思うようなとんちんかんな言動で、母はいつも怒鳴られてたけど、
あれは、母が天然ちゃんだったからなんだな。

そうかー。
そうだったのかー。
今気づいた。
そうかー。

そして、それを笑い飛ばすことを教えてくれたのはabuだった。
私が父のように天然な母にイラッとする度、abuは横で大爆笑していた。
そして言うのだ。

「親子だね、えみやも天然だもんね、そっくり」

え?
私天然なの?
私、あんなふうなわけ?

もしそうだとしたら、ああ、そうか…

天然でいる母を父はひどく非難し、攻撃し、怒鳴り、暴力をふるった。
ひどい仕打ちを受け続けてきた母を見ていたから、
そんな苦しい空気の中で育ったから、天然な母親が許せなかったのだろう。
そして、まさか自分が、父に仕打ちを受け続ける母と同じような、
そんな要素を持っているとは絶対に認めようとしなかったのだろう。

私は母をさげすんだ。
バカな母親、
しっかりしてない母親、
ダメな母親、って。

でも、それは私が自分に向けていた思いだったのね。
バカな私、
しっかりしてない私、
ダメな私、って。

人は鏡、目の前の誰かに怒りを感じる時、
それはその誰かと同じ姿をした自分に怒りを感じている。
自分はその誰かと同じだなんてこれっぽっちも思いもせずに。
本当は、その誰かと同じ自分がいるから、
そして、それを認めて受け入れていないから、
そういう姿であってはいけないと自分を罰しているから、
それと同じ姿をした人を見ると、怒りを感じるのだ。
『そんなんじゃダメーっ!!!』って。
そして、それは自分に言っていること。

これが投影。
相手に見る罰した自分の姿、シャドー。

20歳で家を出て、43歳でまた母と同居、そこで色々な衝突があった。
それは、きっと、新しい彼女とのコミュニケーションの始まりだったんだろう。
そして、その始まりは、私が認めていなかった自分に気づいて、
それを許して受け入れる、自分に統合していく、そんなプロセスの始まりなのだろう。

いくつになっても、こんな流れが押し寄せてくる。
押し寄せてきて、自分が自分の本当の姿に戻る道へとひっぱってゆく。
どんなにイヤなことがあっても、その後ろにそんな流れがあるってわかるから、
やっぱり人生は素晴らしいと思う。
そして、そんな流れがあるとわかるようになったこと、それが人生の財産。

生きるって素晴らしい。
落ちてる時はそう思えないけど、でも、心のどこかでそれを知ってる。

かわいいばあちゃん。
あり得ないほどおもしろい。
メチャクチャ笑いを振りまいてるじゃん。
サザエさんもびっくりだよ。

そうね、人はそれでもいいのよね。
そして、私もね。

張り詰めていたよね。
そんなほんわかーな自分を切り捨ててたんだものね。
シャープで強くて、キリッとした自分になりたかった。
そうなれるように振る舞ってきた、特に若い頃は。
その頃に培ったものと、昔に切り捨てて置いてきたほんわかーな自分、
両方くっつけて、私はこれからの私になろう。

abuと生きることで、私は、割れて砕けて飛び散った、
たくさんの自分のかけらを取り戻している。
ありがとうね。

私も、年を重ねていって、かわいいばあちゃんになろう。
あああ、でもカッコイイばあちゃんが理想なんだよな。
そうね、じゃあ欲張って、
一見カッコイイばあちゃん、実はかわいい、の路線で行こうかね。


2010年03月08日(月) みんな、みんな、ありがとう

セラピストに戻ってSunGoddessを復活させますと、
この日記でお知らせしてから、
おかえりメールや、おめでとうメール、
応援メールをくださる方がいらして、本当にありがたいです。

人のことなのに、なんてみんなあったかいんだよ、って、ホント、思う。
感じたこと、キーボードに向かって打って送信する、そのアクション、
そして、そのアクションを起こそうと思った気持ち、
それが、私を本当に力づけていること、どうか知っていてください。

中には、匿名でこの日記のメールフォームから連絡をくださって、
もぉ、お返事してありがとうも言えないじゃないのよぉう、ってことで、
この場を借りて、お礼を言いたくて。

メールをくれた、ひとりひとりに、ありがとうございます。
本当にありがとうございます。
うれしいよ、すごく、すごく、うれしい。

そして、この日記を読みに来てくれている、ひとりひとりに、ありがとうございます。
本当にありがとうございます。
Livedoorのあっちのブログ(emiyaism)の更新をやめて、
この「おひさまの日記」に戻った時は、アクセス数なんて一桁だったんですゼ。
6人とかね (´・ω・`)ショボーン…
それが、今じゃ多い時は三桁になる。
もうね、本当に、ただただありがたいです。
頭下がる思いです。
こういう時、ありがとうしか出てこないのね。
もっと気のきいたこと言えたらいいんだけど。
今も、これを読んでくれている、そう、そうです、あなた、
本当に、本当に、ありがとう。
ありがとうね。

今日は用事があって郵便局に行ってきたんだけど、
懐かしいねぇ、もう、すでに(笑)
過ぎてしまったからだろうけど、もういいことしか思い出さない。
楽しかったって思う。

そして、未来に行くのだ。
ぐるっと回った分、そこでしか見られない景色を見たし、
そこでつかんだものは近道したらつかめないものだった。





…って、書きながら、今、数分座ったまま落ちてた(爆)

最近寝るのが2時とか3時で毎日眠い。
ヨジラー?
え、それなんのこと?
おいしいの?
ええ、最近はムジラー(6時起き)です (  ̄∇ ̄)エヘン!
頑張っていいとこゴジラー(5時起き)。
ヨジラー、1ヶ月もたなかった、短命だったな…

ということで、仕切り直して。

改めて、この「おひさまの日記」を読んでくださっているみなさん、
ひとりひとり、本当に、本当に、ありがとうございます。
心から、ありがとう。

あらためて、ベッドで落ちることにします。


2010年03月06日(土) 野菜ジュース劇場

今日、夜ごはんを食べていたら、アンナが手元のコップを倒した。
入っていた野菜ジュースがだーっとテーブルに広がった。

ほんの一瞬、私の時間が止まった。

それは1秒にも満たいない時間だったけど、
私はその一瞬の間に、自分の心の奥にダイブして、
重要な選択をしていた。

そして、次の瞬間、アンナに言った。

「あーっ、こぼした!
 もったいない、すすっちゃえ、ずずずーっ、て」

アンナは戸惑っていた。

そりゃそうだろう。
だって、今までの私だったら、

「あーっ、なにやってんのよ、もぉ!
 早くふきなさいよ!」

って、言ってただろうから。
こぼした瞬間、反射的に「怒られる」そう思ったのだろう。

「どうせこぼすならパパのをこぼせばよかったのに。
 パパは野菜ジュース嫌いだから、こぼしたら喜んだよ。
 残念だったねぇ、パパ」

「ホントだよ、パパのをこぼしてくれよ」

私の言葉にabuが便乗する。

アンナの顔がほころんできた。
怒られなかったことで安堵が彼女の中に生まれたのだろう。

どうしよ、台フキンどこ!?
あーっ、広がってく!
そこ、そこ、お皿どかして!
ぎゃーっ!
やっぱり飲んじゃえ、すすっちゃえー!
私と、アンナと、abuと、母、4人、食卓で大騒ぎ&大笑い。

ようやくこぼれた野菜ジュースをふき終わると、
abuがアンナのコップに自分の野菜ジュースをつぎ始めた。

「パパは野菜ジュースが大好きなんだけど、
 アンナがかわいそうだからパパのを半分あげるね」

一同爆笑。

夜ごはんが済むと、それぞれが自分の部屋に戻っていった。
いつもの夜がやってきた。

私は、ひとり、静かに静かに、こみ上げてくるものを感じていた。

できた、できたよ、やりたかったこと。
なれた、なれたよ、なりたかったママに。
アンナが失敗しても怒らずに冗談言って笑い飛ばせたよ。
ずっとずっとこうしてみたかったんだ。
やった、やったよ、やっとできたんだ。

目の奥が熱くなった。

アンナがジュースをこぼして時間が止まったほんのわずかの間、私の中で葛藤があった。
いつも通り怒ろうとする自分と、アンナの心を守ろうとする自分、ふたりの自分の葛藤。
ふたりは、張り詰めた空気の中で「どっちが行く?」って、
見つめ合っていたような気がする、静かに。

そして、前に出たのは、いつもの怒る自分じゃない、
アンナの心を守ろうとする自分だった。
今日のふたりの自分は戦っていたわけじゃなかったみたいだ。
いつも通り怒ろうとする自分が、アンナの心を守ろうとする自分に、
「お願い、行って」
そう言ったような気がした。

いいじゃない、ジュースくらいこぼしたって。
そんなんで死にゃあしないんだから、気にしない、気にしない。
わははは!

私の中のいつも通り怒ろうとしていた自分は、怒っていなかった。
とても穏やかだった。
あたたかさとやさしさの中で泣いていた。

「本当はずっとこうしたかったんだ、やっとできたんだ」

それが、怒ろうとしていた自分の本当の気持ちだった。
でも、それができなくて、いつも苦しんでいたのだ。
何かが溶けていくのを感じた。

それは、私自身が許せないでいた自分の一部を許した瞬間でもあったのだと思う。

自分に何が起こってそうなったのかはわからない。

人生には、時々、こうしてさりげなく、
けれど、実は、それまで限りなく積み重ねた体験の集大成として、
こんな尊い瞬間を迎えることがある。

私は泣きたかった。
悲しいからじゃない。
溢れてくるんだ、あたたかくてやさしいものが。
うれしくて、うれしくて、私は泣きたかった。

私は愛になりたかった。
大切なものを大切にして、愛しているものを愛したかった。
けれど、それが上手にできなかった。
できなくて苦しんだ。

でも、今日、私は、アンナを大切にできた。
なりたいママになれた。
うれしい、うれしいよ。

アンナも笑ってる。
ママ、うれしいよ。

本当の自分の姿になった時、
魂が震えるからわかる、あたたかい涙が溢れるからわかる。
泣けてしまうほど自分はそこから遠ざかっていたのだということも。
人間本来の姿、愛という本質から。

ただいま、ただいま。
ここは居心地がいいよ。
ずっとここにいたいな。
ずっとこのままでいたいな。
私は本当の私でいたいな。

生きてきてよかったな。
こんな瞬間を体験できたんだもの。
今日の野菜ジュース劇場は最高だった。
本当に色々あったけど、生きてきて本当によかったな。


2010年03月04日(木) SunGoddess復活

すーはー、すーはー、と深呼吸して、
入力画面に向かっております。

ここしばらくの間、色々なことが起こり、
色々なことを感じ、考え、そこからまた色々なことが起こり、
また色々なこと感じ、考え、そこからまた色々なことが起こり、
静かに静かに私の中で何かがカチッとはまり、
ようやく決心したので、ここでみなさんにお知らせすることにしました。

私は、昨年の6月にセラピストを卒業しましたが、
また、セラピストに戻ることにしました。
「SunGoddess」を復活させます。

ぶっちゃけ言えば、
高らかに卒業宣言したのに、カッコ悪いなー、とか、色々考えましたよ。
コロコロと変わってあの人なんなんだー、信用できないなー、
とか思われないかなー、なー、なー、とか。
ああいうこと、こういうことが起こったらイヤだなー、とか。

そして考えたのです。
もし、私というクライアントがいて、私のところに来たら何て言うか。

「やったらいいよ、心が本当に望んでいることを」

それが答えでした。
ああ、そうか、だよね、って思ったら、力抜けた。
人には言えるのに、自分のこととなると(笑)

恐れも私の心のブレーキに過ぎなかったのでした。
やらない理由、やらない方がいい理由、やらなくてすむ理由。
The ひとり劇場。

本当は知っていたクセに。
恐れをもとに何かを選んで心が満たされることなどないと。

今、SunGoddessのホームページを作っています。
でき次第公開します。
そして、セッションをまた始めます。

昔の私とは違うかもしれません。
プーやパートタイマーをして過ごした時間、
私にとって本当に貴重な時間でした。
必要なものをチャージしました。

家族にも多くを与えてもらいました。
家族はみんな私の鏡、そして、セラピストです。
常に私に必要なものを痛いほどに見せつけてくれて、
気づきを与えてくれて、そして、導いてくれています。
特にabu、私の専属セラピストの彼には心から感謝しています。
突然現れた彼のインナーチャイルドも私の背中を押してくれました。

訪れる出会いを楽しみに、今、準備を進めています。

セッションルームにいてくれた、
炎のような赤と黄色とオレンジ色のドレスを着た、激しく強い、でも慈愛に満ちた女性と、
玄関にいてくれた、
流れる水のような白と水色のイメージの、静かで穏やかな言葉を発しない女性、
あのふたりも戻ってきました。
いや、本当はきっとずっとそばにいてくれたんだろうけど、
私が見るのをやめていたのね。

もう一度、太陽の女神の名のもとに歩き始めます。


2010年03月01日(月) イヤなのにどうしても巡ってくること

人間やってると、イヤなのにどうしても巡ってくることがある。

自分で進んで選択したわけじゃないのに、
義務としてやらなければならないこととか。

例えば、学校の役員とか。
私がまさにそうだった。

この3月で今年度のクラス役員の役目が終わる。
ウチの学校は、コンパルソリー制度で、
ひとりの子供につき一度は必ずなんらかの役員をやることになっていて、
これはもう逃れられない。
唯一選択肢が与えられているのは、
子供が何年の時に役員をやるか、ということくらい。
でも、その希望も叶わないことだってよくあるって聞く。

そんなこんなで、アンナが5年生の今年度、
私はクラス役員になったのだった。
前の学校で2年連続役員やったから、
小学校6年間のうち3年は役員やることになるじゃんかよ、と、
内心不満たらたら。

2年前に引っ越して来たので、
知ってるママはほとんどいないけど、
みんなは幼稚園や保育園から持ち上がって来てるから仲いいし、
集まれば顔見知り同士盛り上がってる。
私ひとりぽつーん。

それがイヤでねー。

それでも、なんだかんだ集まって話し合いをし、行事をこなし、1年が経った。
ようやくお勤め完了。
ほっとした。

そして、たくさんいいことがあったと感じた。
知らない人ばかりで、疎外感を感じてつまらないこともあったけど、
それでも、その中で自分なりにやることをやった。
結果、友達になれたママもいて、そのおかげで学校ライフが楽しくなったり、
行事の中でふとおしゃべりしたママのお誘いでフラを始めたり、
(そう、フラダンス始めたのよ〜、月に2回だけど)
自分の世界が広がった。
以前よりもママとして学校や地域に関わることが苦じゃなくなって、
すごく居心地がよくなった。
つながりができたことで色々な情報も入ってくるようになったし。

まあ、これはひとつの例え話なんだけど、
どんなこともそうだよね。

人生にはイヤなのにどうしても巡ってくることってあって、
チクショー!なんて思うこともあるんだけど、
そして、それをやってる時ってすごくイヤだし、苦痛なんだけど、
その中でもたくさんの拾いものをしてるんだなぁって思う。

私の役員の例はすごく軽い感じだけど、
もっとヘビーなことだっていっぱいあるだろう。

事の大小や内容に関わらず、
イヤなのにどうしても巡ってくることは、
後々自分にとって役に立つ素晴らしいものをたずさえているようだ。

イヤなものはイヤだから、思い切りイヤがっていいんだと思う。
でも、大切なのは、そんなものの中にも贈り物があるということを、
端っこの方でもいいから、意識していることだ。
イヤなものはイヤ、でも、こんなことを学んだ、こんなことをつかんだ、
そんな風なのがいいんだと思う。

どんなことにも終わりがある。
終わったものは出がらしのお茶っぱと同じ。
いくらお湯を注いでも、もうお茶は出ないと感じたら、
感謝してバイバイ。

嘆くことで終わってしまうと、
せっかくそこにある恩恵に目が向かない。
どうせイヤな思いするならタダじゃ終わらないわよー、と常々思うのだ。
と、言うか、ホント、どんなことの中にも必ずあるんだよね、
つかむこと、得ること、学ぶこと。
それを感じられたら、人生は常に大成功なのだ。


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