おひさまの日記
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近所のある女の子とすれ違った時、
その子は私の顔を見てにっこりわらって手を振った。
すごく嬉しかった。
笑顔っていいなって思った。
嬉しくなる。
あったかくなる。
幸せになる。
私もその子みたいになりたいと思った。
単純なことだ。
でもなかなかできないことだ。
努力する価値があると思った。
今日受け取った小さな贈り物。
お気に入りのトレインカフェに着いて車から降りると、
その子はひとりで道の向こうの方からまっすぐこちらに向かって歩いてきた。
私のそばまで来た時、おいで、と手を伸ばすと、
人懐っこいその子は私のそばに寄ってきた。
首には赤いチロリアンテープみたいな首輪をしていて、
そこからちぎれた鎖がぶらさがっている。
真っ黒なラブラドールレトリバーの男の子。
しっぽをぶんぶん振って道端にごろんと寝転がると、お腹を見せて甘える。
君の飼い主はとてもいい人なんだね。
だってこんなに人が大好きなんだもの。
うんと可愛がられているのがよくわかる。
家につながれていた時に鎖が切れて、
そのまま冒険に出てしまったのだろうね。
子供と言ってもラブラドール、なかなか大きい。
アンナは初めて近くで見る大きな犬にちょっとおびえながらも、
気になってしょうがない様子だ。
今でこそ猫を飼っているものの、元来の犬好き、
突然現れた君としばし一緒に遊ぶ。
そして、ふと思う。
この子をこのまま放置するわけにもいかないと。
幸い、首輪には、
市役所に飼い犬登録されている番号の札がついていた。
アンナをトレインカフェに向かわせ、
オーナーのナオミちゃんに応援を頼み、
市役所に電話をしてもらい、飼い主を捜してもらった。
私とアンナと君は一緒にカフェの庭先に上がる。
市役所は飼い主を捜して連絡をくれるということで、
しばしやんちゃなわんこのお守りをすることになった。
いや、お守りと称してもっと君と遊びたかった。
私とアンナは君に夢中だったのだから。
ぐるぐると庭中を歩き回り、水たまりに入り、ごろごろして体中びしょぬれ。
庭先に転がっていた野球のボールを見つけると、くわえて大はしゃぎ。
そんな黒ラブと一緒に、私とアンナもきゃっきゃとはしゃいだ。
元気で好奇心の強い君は、やがてカフェの中にまで入っていってしまった。
そこで美人な女性客にやたらとからむ。
やっぱり男の子だな(笑)
彼女に飛びついて服を汚してしまった。
私は首輪を持って君を外に引っ張っていった。
「すみません、服汚れちゃいましたね」
飼い主気取り。
君があまりにもあちこち動くので、とうとうちぎれた鎖の先を柵に結んだ。
小さなバケツに水を入れてもらえば、よっぽど喉が渇いていたのだろう、
がぶがぶと飲み干してしまう。
飲み飽きると、バケツを前足で倒して遊ぶ。
ナオミちゃんにロールパンをひとつもらい、君に「待て」と言ってみた。
口からよだれをだらーんとたらしながらもきちんと待っている。
「おすわり」で座り、「お手」でお手をする。
ちゃんとしつけられてるみたいだった。
君はあげたパンを一気に食べた。
カフェの外にあるテーブルにオーダーしたアイスショコラオレを運んでもらい、
私はそれを飲みながらタバコを吸った。
煙が面白いのか、君は座ってきょとんとこっちを見ていた。
見上げるとたくさんの木の枝がちょっと曇った空を背景に伸びている。
風が枝をそよそよさせる。
とっても静か。
一瞬時間が止まったみたい。
隣にはまだあどけない黒ラブの男の子。
なんか幸せだなぁ…って思った。
アンナもそばで君を見ていた。
アンナは持ってきたお絵描き帳に、
君と自分と私とナオミちゃんの絵を描いた。
みんなでお水をあげている絵だった。
やがてお別れの時間がやってきた。
市役所の係の人ふたりが君を迎えにきたのだ。
飼い主がわかり、家に送り届けられる。
アンナは悲しそうな顔になった。
「わんちゃん、帰っちゃうの?」
私はうなずいた。
「おうちに帰るんだよ」
市役所の人が言った。
「この子はまだ子供ですね。
名前はルナっていうみたいです」
市役所の係の人達はとってもいい人達で、
「よしよし、いい子だ」そう言って君と少し遊んだ後、
カフェの下に停めてある搬送用の車に連れて行く。
私とアンナがついていく。
その車には檻が積んであった。
ルナ、君はここに入るんだよ。
市役所の人が檻に君を入れようとすると、ものすごくいやがったね。
でも、おうちで飼い主が待ってるんだ。
ルナは暴れながらも檻に入れられ、あっという間に車に積まれた。
お世話になりました、と挨拶をして市役所の人達が車に乗り込む。
私の胸がとくん…とした。
バイバイだ。
車が走り去っていく。
「ルナ、楽しかったよ、ありがとう!
会えてよかったよ!」
私とアンナはずっと手を振っていた。
ルナを乗せた車はやがて見えなくなった。
私とアンナはとぼとぼカフェに戻った。
アンナは黙って座り込むと、お絵描き帳にまた絵を書き出した。
ルナが檻に入って泣いている絵だった。
「ルナ、行っちゃって悲しいね。
せっかくお友達になったのにね」
私がそう言うと、アンナは下を向いたまま小さな声で、うん、と答えた。
私もとっても悲しかった。
ルナと一緒にいたのは恐らくたった1時間程度。
だけど、なんて楽しくて無邪気で素敵な時間だったことか。
あの時、車を降りた私の目の前に、突然現れたルナ。
トレインカフェに来る前に、ちょっと寄り道したんだけど、
それをしなかったら会えなかったルナ。
君に会えたことはご縁なんだね。
そして、小さな奇跡なんだね。
後には悲しい気持ちが残ったけれど、
それは、ルナ、君との時間がそれだけ素敵だったってことなんだ。
君がどこの子かも知らないし、もう二度と会えないだろう。
だけど、今日のことは、きっと忘れない。
今日の君との楽しかった時間、きっと忘れない。
悲しくて幸せな気持ちと一緒に。
ルナ、ありがとう。
君は私達親子への宇宙からのギフトだった。
元気でね。
2005年07月19日(火) |
「与える」という行為の罠 |
日記でも触れてきた「与える」という行為。
「与える」ことは、ひとつ間違えると「犠牲になる」ことでもある。
嫌われないように、怒られないように、
そばに置いてもらえるように、恐れていることが起こらないように、
周りの誰かの要求に添うように生きてきてしまった人は、
もう自分を与え尽くして乾き切ってしまっている。
そんな人がまたさらに人に与えようとしても、それは犠牲の延長でしかない。
「与える」という行為は、
犠牲であったり、恐れや不安の回避ではない。
「与える」という行為の罠がそこにある。
私達は、時に、自分を生け贄のように差し出し、
どうかこれで許してくださいと言わんばかりにその行為にふける。
小さい頃から自分を押し殺して誰かの要求や問題回避のためにしてきたことがそれでもある。
そして、それを続けていくと、本当の自分の欲求とはかけ離れていくために苦しくなる。
それでも苦しさを麻痺させて続けていくと、
今度は体に病気やなんらかの症状として出ることもあるだろう。
自分のしたいこと、言いたいこと、それを押さえ込まなければ生きてこられなかった、
人形のように言いなりになるしかなかった、
自分という存在とその思考や感情を切り離さざるを得なかった、
私達は苦しい環境や状況の中にいると、無意識のうちにそういったことをしてしまう。
それ自体が相手に自分を差し出し与える行為かもしれない。
あなたが望む私を差し出し与えますので、どうかよくしてください、そんな悲願のもとに。
私達はそんな「与える」という行為の罠の中にいることに気づいていくことも大切なのだ。
じゃあ、「与える」って一体なによ!?ってなるけど、
日記では書き切れないな…
って言うか、もうすぐ朝になっちゃうんだよな。
だから、今日はここまで。
最近の私は「与える」ということについて、
本当に色々考え、感じ、また体験する機会を得ている。
「与える」行為は、
何かをしたり言ったりすることでもあり、
実際に物を与えることでもあり、
時に、逆に、何もしなかったり言わなかったりすることでもあり。
また時に、あえて与えないことで、別の何かを与えたりすることでもあり。
人からなにかを受け取っていることを、
私達は後になって気づくことも多い。
場合によっては何年も後になることだってあるかもしれない。
私もそうだ。
本当に大切なものほど、受け取っている時にはそれと気づけない。
後になって、ある瞬間、気づく。
そして、その与えられたものの神々しさに心が震える。
そうして与えられた魂の贈り物を心に刻み、
次は自分がそれを誰かに与えていきたいと、そう思うのだった。
偉大なる先人のごとく。
最近はブログが流行ってきた。
人にもエイミーさんはブログにしないんですか?と聞かれることがある。
ブログにした方がいいですよ!と言われることもある。
でも、私は日記派。
なぜか日記派。
キレイなレイアウトのブログに画像とか入れたら、
さぞ見栄えがして素敵だろうと思う。
カッチョイイと思う。
じゃあ、なぜブログにしないのか。
それはめんどくさいからだ。
あと、私は今時ナロバンなので、
どのブログを開くにも重くて時間がかかる。
それもイヤ。
気が短いもんで、重くて開かないだけでそこを立ち去ってしまう私だから、
仮に自分がブログにしても、そこを開くだけでイライラしてしまいそう。
あと過去のデータの移行もめんどくさいな。
膨大だもんな。
……
ああっ…!
なんか、あれこれ書いたけど、
そんな理由は実は後から取ってつけたようなもんだな。
実は日記が大好きなんだって、今書いてて思ったよ。
好きだからこのままでいいから、ブログがイヤな理由ばかり出てくるんだ。
ブログ自体は本当に素晴らしい。
私の気持ちが向いてないだけなんだ。
本当にブログにしたいなら、なにがなんでもやるもんな。
そうなんだよ。
人は本当にそれがしたかったら、なにがなんでもやるし、するんだよ。
これは何にでも言えるな。
しない、できない理由、列挙してるうちは、
それはもうとにかくやりたくないんだ、無条件に。
本当にしたかったら何をおいてもやるさ。
知人で、何かにに誘う時、
事細かにそれができない理由をあれこれ説明する人がいる。
お金ないからさ、とか、行きたいんだけどまた別の機会にする、とか、
ああ、ちょうどその日○○が入ってて、残念だな、とか、
でも、あきらかに挙動不審なので、その気がないのはミエミエなのね。
人って嘘をつくとボディランゲージとして出るし。
聞いててなんだかゲッ!と思う。
そりゃそうだ。
したくないのに「したいんですけど、できないんです、残念!」みたいに、
延々と話してるから、その違和感あるエネルギーにやられた感じ。
それならスパッと、
「今はそれをしたい気持ちじゃない」
「今日は(今回は)やめとく」
って言われた方が気持ちいいわ。
かなり個人的な主観なんだけど。
日記のことを書いてたのに、なんかまた面白いところにつながったな。
書くって行為は本当に面白い。
書くことで自分が今頭で考えてること以外のものが、
連想ゲームみたいにどんどん出てきて、それがまたいいモンだったりする。
と、その人のことを思い出し、話もそれたたところで、私もスパッと。
これからもこれ(自分の真実をまっすぐ見て表現する)は意識しようと思ったっス。
そう、私は日記派なんです。
なんか大好きなんだもん。
それだけ。
シンプル。
明日から1日遅れて中島先生のワークショップ H・E・A・R・T に合流。
翌日はスタッフ用のワークショップ。
来週末は成田で同じく中島先生のワークショップ。
2週続けて中島温泉につかるとは、なんとゴージャスな!
振り返れば去年の7月、
初めて中島先生を成田にお招きしてワークショップを開催、
その直後に激しい胃痛で数日入院。
どこにも異常はなく原因不明のまま退院。
もう明らか。
体じゃない。
私の心の問題。
その胃痛は押し殺している感情がそこにあることをまざまざと見せてくれた。
思えば、私の根っこの痛い部分があの頃からどんどん出て始めていた。
それからはもうジェットコースターよ。
癒しのジェットコースター。
速いけどキツい。
いや、速いからキツい。
私がセラピーにたずさわって6年くらいだけど、
もうイヤだと思ったのは始めてだったよ。
もういいって思った。
こんなキッツいならやめるって思った。
それくらいキツかった。
でも抜けるとそれはそれは素晴らしい世界が待っている(笑)
あのスコーンと抜ける感じ、クセになる。
だからやめられない。
プロセスそのものが変化であるなら、
私達は常に変化しているし、変化への道のりのさなかにいる。
迷い立ち止まることさえ変化だ。
逆行しているような時でさえも変化し続けているのだ。
たくさんの人間が生きているこの世界。
すべての人が自分の作り出した想念の中に生きている。
自分が見たいように現実を見る。
自分が解釈したいように出来事を解釈する。
それだけだ。
責任を外に求めている限り、そこに解決はない。
私も繰り返しハマる罠。
宇宙は形を変えて何度も何度も同じ問題を突きつけてくる。
お前の内側を見ろ、お前の中にあるものを見ろ、と。
制限の中で越えられないと思い込んでいる自分自身を越えろ、と。
癒されたい、楽になりたい、成長したい、
人はそう願いながら、その逆の行為をする。
すべての人が、だ。
もちろん私もだ。
そして、それもよし。
そんな寄り道にもどうせいつか飽きるし、
飽きてくると突然目の前が開けるもんだ。
「こっちだよ!」といざなう何かが訪れたりするもんだ。
そうしたら前を向いて、さあ進もう!そんな気持ちになれれば、
きっとそれでいいのかもな。
だから私も行くよ。
まだまだ前に。
たくさんのものを受け取っているのに、
与えられれば与えられるほど、
受け取れば受け取るほど、
もっともっと欲しくなって、
なぜもっとくれないの!?そう相手を責めたくなる。
あなたがくれないからこんなに苦しいのよ!と。
与えられれば与えられるほど、
受け取れば受け取るほど、
それが当たり前になって、
初めて与えられた受け取った日の喜びを忘れてしまう。
常に今以上のより多くのものを受け取らないと満足できなくなる。
これは果てしない地獄だ。
与えられ続ける限り、それを相手の義務と定め、
それをさらに強く欲し、枯渇することが続くから。
そこから抜け出す道はただひとつ。
その苦しさの中にいて、苦しさの対象である相手に与えること。
自分に害を与えていると感じる相手や状況に与えること。
これは自己犠牲とは別のもの。
自己犠牲は自分を抑圧し相手に屈すること。
この与える行為はそうであってはならない。
それは、地獄から抜けていくための、いわば「みそぎ」のようなもの。
与えるという行為にはたくさんの道がある。
なにも華々しくそれとわかる愛の行為をするだけが与えることではない。
相手や状況を理解しようとする意思を持つことがそのひとつでもあり、
その始まりかもしれない。
「理解しようとする気持ち」ではない。
「理解しようとする意思」だ。
なぜなら「気持ち」は自然に湧いてくるものなので、コントロールして作るものではない。
けれど、「意思」は自我によってコントロールできる。
その意思を強く持ちコミットすることによって、感情を凌駕していくことができる。
意思と気持ち(感情)は別のもの。
心の世界に身を置くと、頭で考えることよりも感情を重視するところから始まるが、
そこにばかりフォーカスしていくことは時に危険でもある。
人間だからこそもつ力「意思」を、感情と共に駆使していくことも、
癒しと共にある成長の過程には必要になってくる。
そして、それは上級者編だ。
傷つきぼろぼろになり今日という日を生きることで精一杯の人に、
「与えるんですよ」と言っても、それは無理だ。
自分が枯渇しているから、人に与えることなどできない。
ここに書いてきた「ちょうだいちょうだいの罠」にハマっている時は、
ヒーリングプロセスが進んで、ひとつの節目を迎えている時だ。
そして、この場所には誰もが必ずハマる。
それはいけないことや未熟なことではなく、必然なのだ。
そこを通らないと次に進めないのだ。
だから、そこにさしかかった時、それに気づき、
意思をもって求めることから与えることへと自分の在り方をシフトさせる時、
人は飛躍的に成長する。
ここで立ち止まる人も多いからこそ、この難関を突破すると贈り物は大きい。
私達の魂は知っている。
どんな状態が私達の本来の状態かを。
そして、そこからズレていった時、
「本質からズレているよ」「本当のあなたはそれを望んでいないよ」と、
魂は「感覚」でメッセージを送ってくる。
それは、心地よくない感覚。
悲しかったり、ざわざわしたり、重苦しかったり。
感情のおもむくまま、気のすむようにしているはずなのに、
どこかに重苦しい感覚が残るのは、魂が嘆いているからだ。
ヒーリングプロセスの中で、
この魂の声に心を開き、意思を以て感情を凌駕し、
自分の在り方をシフトさせようとしなければならない時が、
私達には訪れるようだ。
しかし、別に無理にそれをすることはない。
とても困難な作業だし。
ただ、しないでいるとちょうだい地獄から抜けることはなく、
自分に与えようとしてくれる人ほど自分を苦しめる存在となり、
受け取っている沢山のものが見えなくなるという本当に悲しい体験の中に身を置くことになる。
自分が愛し、また自分を愛してくれる人ほど憎い人になる。
これほどの悲劇があるだろうか。
そこに愛があればあるほど枯渇していくのだ。
それは飽食地獄のようでもある。
砂漠で口にするひとすくいの水の恩恵など忘れ去ってしまう。
言葉には限界がある。
体験するしかない。
「与える」という体験を。
それを勇気をもって体験した時、心があたたかく広がっていくような感覚を覚えるだろう。
満ち足りて穏やかで静かな幸せがそこにある感覚を。
それは魂からのメッセージなのだ。
「これがあなたの本当に望んでいることですよ」
私達は思い出すだろう。
いつのまにか受け取ることから奪うことへと目的を変えてしまった地獄から抜け出し、
初めて受容された日の喜びを、
初めて愛を受け取った日の喜びを。
砂漠でのひとすくいの水の恩恵を、ふたたび思い出すだろう。
そして、知るのだ。
自分は愛され生まれ落ち、その自分の中に愛があることを。
誰からも奪うことなく愛に満ちていられることを。
自分が完全な存在であることを。
私達は愛を知っているから、
それを失ったと感じ、それがないと感じ、愛を求めて苦しむ。
自分以外のものから愛を得ようとする。
けれど、愛を知っている私達は、愛そのものだ。
私達は本能で愛に帰りたがっている。
ヒーリングプロセスを経て、私達はそこへ向かっている。
自らへの戒めも込めて。
2005年07月10日(日) |
裸ん坊になろうと思った |
絶対にこれだけは手放せない、
そんなものを手放してみると、
意外に心地よい景色が見えてくるのかもしれない。
人とか、環境とか、仕事とか、こだわっているものとか、色々、色々。
私も今ひとつの「絶対に手放したくない」と思っていたものを、
手放して他にゆだねてみようと思ってる。
絶対に手放せないものって、
それがなくなると、
悲しくなったり、苦しくなったり、さびしくなったり、
自分の価値がなくなるように感じたり、
自分の居場所がなくなるように感じたり、
しちゃうよね。
本当に自分が必要なものって、さらさらと自分のものにしていられる。
いつもそれが自分と共にあって、とっても穏やかで自然。
でも、そういった絶対に手放せないものって、
これがなかったら私は…!って悲壮感が漂う。
絶対に渡すものか、絶対に手放すものか、って、ムキになってしまう。
まるで必死にしがみついているかのように。
そういうものこそ、手放してみると、
きっとものすごくいい体験ができると思う。
勇気がいるけどね。
私が手放して他にゆだねようとしていることは、
今までそれを自分のものにしておくことで、
自分のステイタスや立場を確立するものだった。
でも、もうやめた。
そして、それを手放してゆだねると決めた時点で、
それは私のものではなくなっていく。
するとどうだろう。
それに関してはなーんにもない裸ん坊の自分がいるけれど、なんと軽やかなことか。
私の存在している意味とか価値とかを、
それを通して表現することはもうできなくなるけど、
でも、なんだか、私はとにかくただ私としてここにいればいいや、
そんな気持ちになった。
心地よい。
まだ私は私を私以外のもので計ったり表現しようとしていた。
それは別に悪いことじゃないし、必要でもあるけれど、
それが執着にまでなってしまったら、
それはもう自分にとってあまりいいものではないのかもしれない。
手放す。
ゆだねる。
自分のものにしておきたいものほど、そうしてみると、
実は今まで自分がいた世界がどれほど窮屈で追い詰められたものなのか、
よく見えてくる気がした。
その裏にある自己の存在価値を問うていた叫びまで聞こえる気がした。
みんな、そこにいるだけで、価値がある。
そうだよなぁ、そうなんだよなぁ。
みんな誰かの大切な人なんだ。
それだけでもすごいじゃないか。
勇気出して、手放して、ゆだねて、裸ん坊になろうと思った。
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| わすれんぼめんきょ |
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| アンナ |
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| なにかをやりわすれることがあってもいいですよ |
| きらくにたのしくいきましょう! |
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| おこりんぼママぼくめついいんかい |
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明日あなたがこのめんきょを見つけてにっこりしますように。
あなたの心がやわらかくなりますように。
おうちがもっと楽しくなりますように。
愛するアンナへ、おこりんぼママより。
私が今かなりハマリ中のアニメ、攻殻機動隊 S.A.C.2nd GIGの中に、
「人は低きに流れる」というセリフがある。
そのセリフを話す男性は、
「人は低い方へ、低い方へと流れてゆき、
自分で思考し感じることなく、多数のそれに巻かれて、
あたかもそれが自分のものであるがごとく流れていく」
そんな感じのことを話していた。
なんだこのアニメは!と驚いたね。
とにかく全編通してそんなセリフいっぱいあるし、
ストーリーも緻密だし。
ま、それはいいとして話を戻して。
私もそうだ。
油断していればすぐにそうなっていく。
いくら表面で正義漢ぶっても、きれいな言葉を並べても、
時に、巻かれ流れてだたの作り上げられた集合意識の中で、
カッコつけて泳いでいるだけになってしまう。
また、痛みを回避するために自分を偽って何かになろうとしてしまう。
痛みの原因を自分以外のものに求め、
そこで生まれる怒りや攻撃性をもとに人とつながってゆく。
だからこそ、自分の思考、自分の感覚、
そしてなにより自分の真実、
痛みから歪んでシャウトする自分ではなく、真実の自分、
それを意識化することを心がけるよう努める人でありたいと、心から思う。
無意識に生きるのではなく、意識的に生きる人でありたいと。
ゆうべもDVD観てたよ〜!
攻殻機動隊、メッチャおすすめでっす!
今日、アンナからある免許をもらった。
それは「あしかぎめんきょ」だ。
そこにはこう書いてある。
「あしかぎめんきょ
すきなときにあしをかいでいいです
おやすみのひはだめ!」
私はアンナの体中をくんくんするのが大好き。
子供の匂いがかわいくてかわいくてたまらなくて、
抱きしめてあちこちくんくんしてしまう。
顔、ほっぺ、耳、髪、首、おかな、背中、手、足、とにかく全身。
自分って、へ、変態!?…と思って周りのママに聞いてみたら、
みんな子供の匂いが大好きで全身くんくんするって聞いて一安心(笑)
そして今日もらった「あしかぎめんきょ」。
その意図を聞いてみた。
するとこう答えた。
「おやすみの日はうんと遊んで足がくさいから」
くぅーっ、かわいいぜ!
そしてこう付け足した。
「でもどうしてもかぎたくなったら言ってね。
かがせてあげるから」
なんか母は幸せだなぁって思うのだった。
そう言えば先日、私の母にアンナがある免許をあげていた。
それは「ごはんめんきょ」だった。
そこにはこう書いてあった。
「ばあさんはすきなときにごはんをつくていいですよ」
どうやら免許は彼女のブームらしい。
発端は私がアンナに作ってやった「うんてんめんきょ」。
そこにこう書いてやった。
凝り性なので、写真も切り抜いて貼ってやった。
「ママといっしょのときに、
ハンドルをもってうんてんしていいですよ」
それがとっても気に入ったらしい。
これからどんな免許をくれるんだろ。
明日起きたらびっくりするように、
私もまたなにか免許を作って枕元に置いておいてやろう。
子供と遊んでいると自分も素直に子供になれる。
そして、その時間が純粋に楽しいのだ。
私が本当にアンナからもらった免許は、見えないけど、
「こどもにもどっていいですよ」
と書いてある「こどもめんきょ」なのだ。
ある友達から電話があった。
人ともめてすごくイヤなことがあったそうだ。
最初は淡々と話していたけれど、
そのうち烈火の如く怒り出し、
しまいにはおいおいと子供みたいに泣き出した。
彼女はとても分別のある人だ。
彼女がそんなに激しくキレたりぶっこわれたりするのを。
私は見たのは初めてだった。
聞いてみると事情は本当に複雑だった。
普段分別がある分、ずいぶんガマンしてたみたいだ。
そして、最後の堤防がぶっこわれた、そんな感じのように思えた。
確かにケンカ両成敗だ。
彼女の事情にもそんな部分はある。
でも、私は愛する友人の味方で、彼女は悪くないと思ったし、そう伝えた。
彼女は言った。
「私だって言い過ぎたことはわかってる。
それは悪かったって思う。
だからって、じゃあ、ずっと黙ってろってか!?
ガマンしてろってか!?」
現実で起こるトラブルのあらゆることは、
自分の心の中の問題で、自分に向かい合わない限り何も変わらない、
自分の感じることは相手の言動への自己責任における心理反応
こんな仕事してて、それは正論としていやというほどわかってるけど、
人は時々こうしてぶっ壊れるんだなぁって思う。
私もだし。
そして、正論からは程遠いことをしてしまう。
まさにそうしてぶっこわれている彼女が、私は愛おしかった。
ぶっこわれて彼女は大切な人や大切な環境を失うかもしれない。
でも、ぶっこわれなくちゃ彼女の心がぶっこわれてた。
人は正論など必要としない時がある。
正論に辿り着くために、正論などクソ食らえって時がある。
だからこそ行くべき場所に行けるのだ。
彼女は電話を切る時に言った。
「ごめん、プロにこんなこと相談しちゃって。
今度セッション料払わなくちゃね」
私は答えた。
「んじゃ、1億円ね」
彼女は笑った。
彼女のぶっこわれぶりには1億円の値打ちがあり、
私はそれをもうすでに受け取っていたのだ。
私ねぇ、人の笑顔が好きなんだ。
人の笑顔を見ているとホッとする。
嬉しくなる。
小さい頃から人が笑ってると幸せな気持ちになった。
笑ってない人を見ると、
自分のことよく思ってないのかな、とか、
私なにかいけないことしちゃったかな、とか、
そんなことを感じる。
本当は、ただ、笑ってないだけなのに、
自分には関係のないところでなにかあったりして、
その人自身の心が満たされてなくて笑ってないだけなのに、
それでも、人が笑っていないことって、
とても苦しいことに思えてしまう。
私は父と母の笑顔が欲しかった。
それは「今日は怒ってないよ」というサインだったからだ。
笑顔のない日はこわい日だった。
だから、私はいっぱい笑っていたい。
もちろん、そういう気持ちになれない時に無理に笑うのは違うけど、
自然に顔がほころぶ時はいっぱい笑っていたい。
笑顔でいたい。
落ちる時は奈落の底まで落ちてすごいイヤな顔してるんだから、
そうでない時は笑顔の人でいたいよなぁ。
自分が笑顔になると、みんなも笑顔になる。
その笑顔を見て私にあったかい気持ちが返ってくる。
そんな見返りが欲しくてやってるって言えばそうかもしれない。
私は人の笑顔が欲しいもん、ずっと小さい頃から。
心があったかくなれるから。
自分が欲しいものは人も欲しい、
だからにーっとしてしまえ、それでいいじゃん、そう思う。
子育てだってそうだ。
アンナが不安そうな顔をしている時、私はにーっと笑うようにしている。
朝ちょっとお小言を言った後に送り出すときは、
くしゃくしゃな顔で笑うようにしている。
そうすると、アンナの顔がいっぺんにぱーっと明るくなる。
その笑顔が私の心にあったかな気持ちをくれる。
子供の笑顔は一日の力になる。
近所の子供にもにーっと笑うと、笑顔が返ってくる。
それを繰り返していると、その子に会うといつも笑顔をくれるようになる。
おー、こいつらかわいいじゃん!そんなふうに感じる。
人が笑ってる顔っていいなぁって、本当に思うんだよ。
ほっとするし、あったかくなるし、幸せになる。
色々な笑顔が私を包む。
好き好きが溢れる愛らしい笑顔、
嬉しさが溢れる元気な笑顔、
はにかんでいるほんのり笑顔、
ありがとうが伝わってくる心震える笑顔、
悲しみに共感してくれる泣きそうなやさしい笑顔、
苦しみから這い上がって遠くを見るような強い笑顔、
いっぱい、いっぱいの笑顔。
笑顔ってどんな言葉よりも雄弁だ。
思うんだよ。
みんなが心から笑顔になったら、それだけで世界は平和になるのかも、って。
私に笑顔をくれるたくさんの人、本当にありがとうね。
みんな私に安心と幸せをくれてるんだよ。