おひさまの日記
日記インデックス前の日の日記を読む次の日の日記を読む


2005年05月31日(火) 素敵な裏切りができるように

職業のイメージと実際の自分。
常識的なイメージと実際の自分。
作られたイメージと実際の自分。

前者は人々の観念に固定されているもの。
○○とは○○である、
○○とは○○に違いない、
○○とは○○であってほしい、
そんなもの。

後者は私自身、私そのもの。

前者がその人の中での私としてひとり歩きし、
実際の私がそれとは違っていて困惑される時、
私は勝手にちょっと傷つくこともある。

どうせ前者と実際の私が違うなら、
いい形で裏切りたいものだ。
そして、そうあれるよう努力したいと心から思う。

気付いて傷ついて、
そして成長したいと思う。

素敵な裏切りができるように。


2005年05月30日(月) 親業

小学校に上がり、アンナにも自立心が芽生え始めた。
自分専用のベッドが欲しいと言う。
ひとりで寝たいのだそうだ。

先日家族で家具やに行き、アンナのベッドを買った。
あと数日で納品。
アンナはウキウキしている。
早くひとりで寝たいなぁ、って。

仕事を終えベッドに入ろうとすると、いつもそこには小さなアンナがいた。
小さいとは言え、赤ちゃんの頃に比べたら3倍近く大きくなっている。
でも、私にとってはいつまでも小さい自分の娘。
口をぽっかり開けた寝顔を眺め、ほっぺや手や足やおしりをむにむに触り、
ちゅーして大好き!って毎日のように話しかけてきた。

その娘が私の側から離れようとしている。
まだまだママにべったりではあるものの、自立の一歩を踏み出している。
赤ちゃんの頃から当たり前のように隣で眠り、その体温と一緒でない日はなかった。
それが、あと数日で私からなくなるのだ。

ゆうべ、私は、眠るアンナの隣に滑り込むと、
後ろから包むように同じ姿勢で横たわった。
そして、赤ちゃんの頃からずっと一緒だったその当たり前の感覚を、
改めて感じてみた。
なんと愛おしく、なんと大切で、なんと美しい感覚だろう。
愛そのものだと思った。
私は娘を愛して世話しているようなつもりで過ごしてきたけれど、
実は、愛されケアされてきたのは私だった。

別に永遠の別れでもないし、
同じ部屋で別のベッドに寝るだけなのに、
私はぽろぽろ泣いた。

バカな親だと思った。
でも、涙が止まらなかった。
ずっとずっとそばで抱きしめて一緒に眠りたい、そう思った。

これは彼女の親離れのほんの一歩で、
これからはもっともっと私と主人から離れていくだろう。
やがては家を出て自分の暮らしをするだろう。

この子のいない生活?

そう考えると、私は頭がおかしくなりそうになった。
悲しみに押しつぶされそうだった。
それは愛の喪失にも似た感覚だった。

そして、これを越えていくのが親業(おやぎょう)なのだと思った。

自分の悲しみや執着などをみじんも見せず、
飛び立つ子供をその意思のままに羽ばたかせること、
時には疎ましがられ、届けようとする愛が空回りしようと、
その痛みと共にありながら愛し続けること、
それが親の役目だと。
時に、逆に身を寄せようとする子供を必要であれば突き放すことさえも。

私の従姉妹の娘が飛行機で東北に嫁いだ。
関東に住む従姉妹はそうやすやすとは娘には会えなくなったと言っていた。
そして、娘もそうやすやすとは里帰りできないだろうと。

人のことなのに、私は泣きそうになった。
もしもアンナが遠方に嫁いで、年に1度会えるか会えないかになったら、
しかも、会えてもほんの数日、短時間、
私は寂しくて気が狂ってしまうのではないかしら?
そんなことまで考えた。

それでも子供が望んでしたことを、
痛みと共にあるがまま受け入れるのが親。

なんと崇高な行為なのだろうと思った。

私の父は、今は施設でおとなしくなったものの、
かつてはものすごい暴言暴力の人だった。
それでも、これと同じ想いは持っていただろうし、持っているのだろう。
私の母は、愛情表現の下手な人だ。
それでも、これと同じ想いは持っていただろうし、持っているのだろう。

共に過ごした時間がトラウマ作成マシンみたいな過酷なものであったとしても、
この親としての身を切り裂かれるような想いを、彼等は持っていたのだろう。

眠るアンナを見て涙を流しながら、
私は、かつて自分のその涙と同じ涙を流したであろう、
もしくは、流さずともその涙を飲み込んだであろう両親に想いを馳せた。

彼等はそれだけでもものすごい親業を成し遂げたのだ。

私は彼等に対して深い敬意と感謝を感じた。
どんな形であれ愛されていたことを、今だからこそ感じる。
そして、今も愛され続けていることを。

なにはできなくとも、私はアンナにそんな親業をしていきたい。
私の両親がしてくれたように。
愛する子供と離れていく痛みを正面から受け止めながらも、
握っていた手を離すことで、
彼女自身が選択し創造していく人生へと、
送り出すという作業をしていくのだろう。
「あなたは何があっても大丈夫」という絶対の信頼という贈り物と共に。

とても悲しく辛い作業だと思う。
けれど、それが親から子へと見えない愛を伝えていく道ならば、
そして、その愛こそが子供の人生を豊かにするのならば、
私はその道を選ぼうと思う。
私に愛を思い出させてくれたそのお礼に。

すやすや寝息を立てる小さな宝物の隣で、
私はひとりただただ涙を流していた。

今までもそうだったように、
これからのこの子との一瞬一瞬が、
とどめることのできない、輝きに満ちた、
美しいものであることをかみしめながら、
記憶に刻んでいこうと思う。

たかが別々のベッドで寝るというそれだけのことなんだけど、
私はそんなことを感じ考えていた。

ひとりで寝たはいいものの、
「ママぁ、やっぱり寂しい」と言って、
彼女が私のベッドにもぐり込んでくることを期待しながら。


2005年05月27日(金) 自分の在り方を振り返る

私の敬愛するやすらぎの部屋のコオさんが、
ノンフィクション作家の柳原和子さんのガン患者を介した出来事をテーマにした記事を、
「霊性について」のページにアップなさっている。

自分への警鐘として、医師ばかりでなく、
人の心にたずさわる者としての在り方と考えさせられた。

私が個人的に感銘を受けた記事なのでご紹介します。






母を招いて今日の夜は外食。
インドカレーを食べた。
チキンサグだよ。
ほうれん草の緑色がいっぱい頑張ってるカレー。
カレーの相方はナン。
生まれて初めてインドのカレーを食べた母は「ハマりそう」と言ってた。
心置きなくハマってくれ。

こんなウマイもんがあるなんて、
父の介護と暴力にがんじがらめにされていて軟禁状態だった彼女は、
知る由もなかったんだろう。

なんせ、サイゼリヤに連れて行っただけで、
「世の中にこんなおいしいものがあるんだね、この店は高いんだろうね」
と感激していた人なんだから(笑)
ドリンクバーのシステムを教えたら、
「好きなだけ飲んでいいなんて…!」
と感激アゲインだった。

そんな母に、明日の夜は、娘のリクエストもあり、
幸楽苑」のラーメンを食べさせる予定。

外食ばっかりして、家事やれよ、って感じです。


2005年05月26日(木) 私の大切な気持ち

テレビに出演させていただいてからメールを多くいただきます。
とてもありがたいことです。

その中には色々な声があります。

「○○な性格や行動を直してください」
「○○な気持ちを取り除いてください」
「○○(クセや習慣等)をやめさせてください」

このような声もいただきます。

魔法使いみたいに「えいっ!」となんとかできればよいのですが、
結論から言うと、私がそれをなんとかすることはできないのです。

確かに、催眠を用いての行動修正という手法もあります。
望んでいる結果を直接暗示として入れていったりします。

でも、私はあまり行いません。

まったく効果がないわけではありません。
行動修正を得意とするセラピストの方もいらっしゃるでしょう。
それをしないのは、あくまで私の得手不得手や好みの問題です。

私は、どちらかと言うと、
表面に現れているクセや思考パターン、行動パターン、辛い感情や状況、
そんなものを引き起こしている深層心理にアプローチするのが好きです。

表面に現象として現れているものには、
深層心理からのメッセージが込められています。
そのメッセージが何を言おうとしているのかを、
クライアントさんと一緒に探していくのです。

表面に現れている現象には目的があります。
なんらかの目的を遂げるために、その現象を起こしています。
その目的は何なのか、そして、なぜその目的を持ったのか、
そこが最も大切な部分となります。

そして、そこにはトラウマなどによる心の痛みが絡んでいることが多いのです。

深層心理は「深層」と言うくらいだから、
すごく深い場所にあって自分では気付いていないものです。
気付いていないから、そこにどんな自分の気持ちがあるかわからないので、
「なんだかよくわからないけどこうなっちゃう」
ということも起こります。
その「なんだかよくわからないけど」の部分を、
私はクライアントさんと一緒に見つめていくんです。

そして、メッセージが伝えようとしていること、
目的、そしてなぜその目的を持つようになったのか、
時間をかけてそんなものに辿り着いていって、
トラウマなどによる心の痛みが癒されていって、
(私が癒すのではないのです。
 癒しはその人の内側から自然に訪れます)

その結果、

「○○な性格や行動を治してください」
「○○な気持ちを取り除いてください」
「○○(クセや習慣等)をやめさせてください」

というリクエストが、自然に叶う場合があります。

自分が、やめたい、変えたい、消したい、そう思っていたものが、
いつの間にか自然にやめられていたり、変わっていたり、消えていたり、
はたまた、それらはそのままなのに、それが全然気にならなくなったり、
そんなことが起こってきます。

セッション中に、クライアントさんが体験なさることを、
私が意識的にコントロールすることはありません。
その方の無意識が体験したいことを体験なさっていきます。
そういう意味でも、私はあくまで脇役で、
流れに逆らわずそこにそっといる、そんな感じです。

私が目指すこと、それは、
私がお会いした方をなんとかするのではなく、
その方がご自分の力でご自分の問題だと感じているものを解決していけるように、
色々な形でお手伝いさせていただくことです。

私はそんなふうにセッションをしています。

とてもお辛い気持ち、とてもお苦しい気持ち、
なんとかしたいという願い、そして愛、
そんなものがご要望の根底にはあるのですよね。

時間はかかるかもしれない。
けれど、それに私なりの形で寄り添わせていただける方と、
それでもいいなぁって感じてくださる方と、
お会いしていけたらとっても嬉しいです。

そして、それは、私自身が、
そうやって苦しい場所から這い上がってきたからかもしれません。
そうやって楽になってきたから、それと同じものをご提供したいのだと思うんです。
私が体験してきた癒しは夢物語ではなく実際に起こったことです。
そのために自分が「これが本当によかった」と思うことを、
希望を持ってご提供していきたいんです。

それが、私の大切な気持ちです。

もし、その気持ちに添わないことをしたら、私は私でなくなるし、
私が持っている力も発揮できないと思うんです。

心からの感謝を込めて。


2005年05月25日(水) 気付きは傷つく

今日のひとことにも書いたことがあるけど、
ここ最近、これほど腑に落ちた言葉はない。

「気付きは傷つく」

気付きは大きな成長の一歩。
とても素晴らしいこと。
でも、気付くと傷つく。
痛い。

もちろん、そうじゃない気付きもある。
けれど、その多くは、やっぱり傷つく。

己を知ることは、とても勇気の要ること。
受け入れることは、もっと勇気の要ること。
そして必要なこと。

でも、傷つく。

気付いて傷つく部分っていっぱいある。
共通して言えることは「私ダメじゃんっ!」って思う部分だってことだ。

何らかのきっかけでそんな自分を思い知った時、私は泣きたくなる。
消えてしまいたくなる。

そして、そんな自分が、
誰かに不快感を与えたり、辛い状況を招いたり、
誰に否定されたり、攻撃されたり、怪訝な顔をされたり、
そんなことになると、もう立ち上がれなくなるほど落ちる。

激しく痛い。
心が痛い。

痛いから、受け入れるのがあまりに苦痛だから、
それらを怒りに変換して感じることをやめ、
気付かせた出来事や人を悪く言って、
気付きから逃れることもできる。
でも、それは逃げれば逃げるほどどこまでも追いかけてくる。
何度でも形を変えてやってくる。

わかってる。
わかってるってば。
この気付きはとてもいい体験。
もっといい自分になれるきっかけ、素晴らしいプロセス。
感謝してる。
でも、でも、とっても悲しいんだ、苦しいんだ。

イヤな自分に気付く度、私は心の中でそんなことを思う。
しんどい。

そんなしんどさと共存できる人でありたいと、
私は今日もめそめそするのだった。

罪悪感からは何も生まれない。
思い切り落ちたら、明日はきっといい感じの私。


2005年05月24日(火) 自分に嘘をつくから辛いんだ

自分に嘘をつくから辛いんだ。
自分に嘘をついているなんて、これっぽっちも思っていない人でも、
自分に嘘をついていることはあるかもしれない。

自分を偽らなくても、自分を隠さなくても、
本当は案外うまくいくんだ。

でもそうやって痛い目にあってきたから、
それをやめてしまったんだ。

やめてしまって本当にあきらめがついたなら、苦しまない。
苦しいのは、本当の自分でいたいから。
それが自分の真実だから。


2005年05月22日(日) 子供がえり

今日は久々の週末のオフ。
アンナと公園で遊んだ。

鉄棒でアンナ逆上がりの練習を始めた。
高さが3段階あって、一番高い鉄棒なら大人もできるので、
おもしろ半分で私もいっちょ逆上がりをしてみようと思い、挑戦した。

で、で、できない…。

子供の頃は逆上がりどころか空中連続逆上がりまでこなしていたのに、
できないじゃないかーっ!!!

愕然…。

悔しくて、何度も何度もやるうちに、やっとの思いで1回できた。
でも、その後はまだダメ。
手にマメができるほどムキになって繰り返すうちに、
なんとか3回に2回程度はできるようになった。

大の大人が狂ったように逆上がりをしていた光景は、
一種異様だったかもしれない。

でも、楽しかったな。

実家のそばの公園だったので、公園までの行き帰り、
私が小さい頃通った道を娘と歩いた。
不思議な気持ちだった。
小さな自分が歩いた道を、今自分の小さな娘が歩いている。
昔は広く感じていた道路がとっても狭く思える。

実家と公園までの間に、今となっては珍しい広い草原がある。
私はそこを広場と呼んでいた。
そこは私のお気に入りの遊び場だった。
広場を囲ってあるブロック塀の上を歩く
「世界一周」と勝手に名付けた遊びが好きだった。
ただブロック塀の上を歩いていただけなんだけど、
夢中になって何周もしてたっけ。

帰り道、逆上がりで子供がえりしていた私は、
そのブロック塀によじ上った。
そして、アンナに
「昔ママはこの上を歩いて遊ぶのが好きだったんだ」
と言うと、子供の頃のようにブロック塀の上を歩いてみた。

傍らで見ていた母は、
「恵美がこんな遊びしてたなんて知らなかった。
 こんな危ないことして落ちなかったの?」
と笑いながら言う。
母は小さなそば屋をやっていて、
私と遊ぶことはほとんどなかったけなぁ。

私は「落ちたことなんかないよ」と答えた。
アンナも加勢して「子供はバランス感覚がいいんだよ」と言ってくれた。

本当は1回だけ落ちたことがあるんだよね。
そして、狭いドブにハマったんだけどさ。
落ちたドブにおしりからスッポリハマってしまったの。
でも、そこにちょうど段ボール箱が捨ててあって、
そこに落下したおかげで、
痛い思いすることも濡れることも汚れることもなかったけ。
その時の偶然のラッキーをとても嬉しく思い、
なんだかとても素晴らしい体験をしたような気がして、
ワクワクしたことまで思い出した。

思い出しながら、私はその時の気持ちを再体験していた。

そういう瞬間瞬間、私達は無意識のうちに幼児期退行してるんだな。

子供の頃の楽しい記憶を辿るようになったのは、
たくさんのセラピーを受けて、閉じ込めてきた痛みに出会い、
それを感じるようになれた頃からだった。

辛いことを感じないように感情を閉ざすと、
同じ感情のカテゴリーの中にあるポジティブなものまで閉ざされてしまう。

私がおばあさんになって、子供の頃を思い出しても、
きっと今日のように、鮮明にその時のことを思い出すのだろう。
そこでの出来事や光景、匂い、感覚、感情、あらゆるものを。
そして、ただ、ひとりほほえんでいるのだろう。

そうした出来事を思い出すとき、なぜだろう、涙が込み上げてくる。
悲しい涙じゃない。
懐かしく、胸が熱くなる愛おしい記憶。
それは、私が、辛い幼児期を過ごしたにしても、
そこにはそれとは懸け離れたきらきらした時間もあったことを教えてくれる。

今日は私のワンダーチャイルドに出会った素敵な日となった。

時々、また子供がえりしに行こうと思う。


2005年05月20日(金) やー

今日のフジテレビ19時からの「Dのゲキジョー」で、
初の「メンタルエステ」が放送になりました。

やー。

メディアの力とは凄まじいもので、
放送中からサイトへのアクセスが一気に増えました。
お問い合わせのメールも多数いただいています。
みなさん、ありがとうございます。

番組を見ていて、
現場での緊張感や張りつめた気持ち、
何時間もかけた収録時の想い、
そんなものが甦ってきて、
色々なことを考えていました。
色々、本当に色々。

少しの間、メールへのお返事にお時間をいただくことになると思います。
なるべく早くお返事できるように心がけますが、
メールをくださった方は、
もしすぐに返事が来なくても待っていてくださいね。

自分がテレビに映るって本当に不思議…


2005年05月18日(水) ひとまず翻弄されたい

不快に思う人がいたり、
カチンときたり、
誰かの何かを受けてどどーんと気分が滅入ったり、
そんなことがある度…

ああ、これはシャドー(投影)で、
自分の内面を見せられてるんだ、とか、
そんなことを考えると、
頭がおかしくなりそうになる時がある。
キーッ!って。

   *シャドー、それは、前の日記にも書いたことがあるけど、
    自分の中にあって、自分では認めていない自分の姿。
    自分が否定している自分の姿。
    それを相手に見る時、人は激しく反応する。
    自分で罰している自分の部分を見るので、
    相手や、相手のその部分を非難したり攻撃したくなる。

今日もそんなことがあった。
こうして自分に人の毒気がかかったように感じる時は、
そんなの屁だよっ!って思う私もいる。
ホント、イヤ。
こういう時シャドーについて考えるのって。
イヤなもんはイヤ。
腹が立つもんは立つ。
わずらわしいものはわずらわしい。

そして、思った。

あたしゃー人間だ。
そんなこと考えず、ひとまず感情に翻弄されたっていいじゃないか!
って。

そんな時、自分の反応ゆえに感情が動くとわかりながらも、
そして、相手もこちらがそれをわかっていると知ってくれていながら、
ぐだぐだ言うのを聞いてくれる友達がいるっていいなぁ…って思った。
幸い私にはそんな友達がいる。
ホッとする。

ひとしきり感情に翻弄されて、
ホッとして落ち着いてたら、考えてみてもいいかなって思えたりする。
自分のシャドーについて。

感情を持って、そして、それを感じるって、人間の特権だよなぁ。
そして、それでぐたぐたできるって、本当は素敵なことなのかも、って思った。

理路整然とキレイな心の世界のお話でまとめようとしたら、
私はきっとおかしくなってしまう。
どんな感情であれ、やっぱりひとまず翻弄されたいと思うのだった。

すべてはそれからだよな、そこからだよな、って。


2005年05月17日(火) シグナル

私達は、
自分が本当にしたいこと以外のことをしたり、
自分が本当に伝えたいこと以外のことを伝えたり、
自分が真の意味で表現したいものを、
歪ませたり、隠したり、果てしなく湾曲的にしてしまったり、
まったくないものとしたりしてしまう。
時には、そういうことを無意識のうちにやっている。

そういう時、人は心が苦しくなる。

なんだか違和感を感じる。
なんだか重苦しくなる。
なんだかブルーになる。
なんだか滅入る。
なんだかイライラする。
なんだか悲しくなる。
自分の中で何かが完結していない感覚。
どうにもならない得体の知れない不快なものが自分の中にある感覚。

それはシグナル。
深い深い場所にある、本当の心からのシグナル。
本当の自分が軽んじられ、時に無視されている痛みの叫び。

自分が自分の思った通りに、言ったり、したり、したのに、
なんだか心がざわざわする時、感じてみよう。
それを通して、本当は自分は何を言いたかったのか、何を伝えたかったのかを。
そうやって表現したものの奥には何があるのだろうかを。

もしわからなくてもそれでいい。
そんな時は答えを求めよう。
私の真実はなんですか?教えてください、と。
求めた者にはそれを知る道が与えられるから。

本当の心からのシグナルをキャッチしてみよう。
そこには自分でもまだ知らない自分がいるということを、
知るだけで始まる何かがある。


2005年05月15日(日) エゴのフィルターが作り出す現実

私達が現実だと思っているものは、
私達が現実を見る時に通したフィルターそのものだ。

エゴのフィルター。
エゴ、と言うとヘンなイメージもあるけれど、
つまり、自我、自分自身の想念や観念。

恐れや不安のフィルターを以て現実を見る時、
それは、恐れや不安に満ちたものとなり、自分を脅かす。

 この不安や恐れは、過去の体験に基づき生まれるもので、
 過去に起こったなんらかの不快な体験が、
 また未来にも起こるのではないかという恐れだ。

慈悲や慈愛のフィルターを以て現実を見る時、
それは、愛に満ちたものとなり、もはや自分を脅かすことはない。

 この慈悲や慈愛は、癒しやなんらかのプロセスで自分の痛みを知り、
 それを受け入れ肯定し、それらを体験することで、
 人にもそのような痛みがあることを理解して生まれることもある
 私達人間が本来持っている感情だ。

同じものを見ていても、
通すフィルターによって現実はまったく別のものになる。

例えば、だ。

誰かの悪口を言い、激しく攻撃している人がいるとする。
自分も攻撃されたらどうしようという恐れと不安の気持ちで見る時と、
この人は本当にイヤな思いをしたのだなと理解という慈愛の気持ちで見る時と、
同じ人を見ていても、前者と後者では自分が受けるダメージが違う。

想像してみよう。

自分の現実が違ってくる。
同じひとりの人間を見るという行為だけど、
見る時にはさむフィルターの種類によって現実の感じ方が変わるのだ。

仮に、慈愛の気持ちで相手を見たとしても、不安は残るかもしれない。
けれど、精一杯の慈愛を相手に送った後に、
もし、自分が攻撃され、傷ついてショックを受けこそしても、
自分が慈愛の人であることを選択したことによって、
私達は真の意味では傷つかない。

私達は、自分が多くに傷つき、多くを恐れ、多くを攻撃するように、
他人もまたそうであると知ることができる。
衝動的に湧き上がるネガティブな恐れや不安を越えて、
意志の力によってそうであると認識することができる。
そして、その認識を自分の視点として相手に与えることができる。
それを本当の痛みを知った者が心から行う時、
愛が時空を超えて相手にも必ず伝わる。

その時、私達は、
他人に与える愛に満ちた視点にもまさる、
安堵と心地よさという自分への贈り物に気付くだろう。

それもエゴによる現実の創造なのだ。

私達は自分にとってよきもののためにクリエイティブであることで、
自分達の周りにいるすべての存在に、
愛と思いやりを持って接することができるようになる。


2005年05月13日(金) 最近私がハマりまくってるブログ

最近私がハマりまくってるブログがある。
それは「やすらぎの部屋」の美保さんのブログ

読んでいて「まいりました!」と叫びたくなる。
なんでまいるのかよくわからないけど、まいりました、なのだ。
当たり前の毎日の中に、こんなに輝きが溢れてるなんて。

ご主人のコオさんといい、奥さんの美保さんといい、
なんて愛の人なんだろう。
私はこのおふたりから、いつも多くを学んでいる。


2005年05月08日(日) 母の日の贈り物

今日私はアンナから素敵な贈り物を受け取った。

アンナを寝かせようと一緒にベッドに横になっていると、
アンナが言った。

「ママ、いつもおいしいごはん作ってくれたり、
 お洗濯してくれたり、
 色々教えてくれてありがとうね」

突然の言葉に驚いたけど、本当に嬉しかった。
そして、戸惑いもあった。

忙しい朝はコーンフレークに牛乳どばどばかけて食べさせたり、
バナナを刻んだヨーグルトを食べさせたりすることもある。
寝坊したりすると、バナナだけの日だってある。
夜だって納豆で済ませてしまうこともある。
洗濯だってマメじゃない。
ためて一気に洗うことが多い。
確かに、セッションでするような心のお話をすることもあるけれど、
カリカリしてイヤな母ちゃんになることだってある。

それなのに。
私がしている以上に、なんて多くを受け取ってくれているのだろう。
自分では、まだまだだなぁ…なんて思ってるのに。

私は片付けが苦手で家の中はぐっちゃぐちゃだ。
アンナもそんな私を見ているので、私から片付けを学ぶことはなく、
親子そろって片付けが大の苦手、家の中は時にスゴいことになっている。
それなのに、片付けろ〜!なんて怒って、
怒りながら自分もこっそり片付けてたり(←ズルい)。

私は、ごめんよ、って、アンナに思うことがいっぱいあるのに。

ありがとうをいっぱい言って、
可愛いふっくらほっぺにちゅっちゅした。

そして、ママお仕事しちゃうね、と、戻ろうとすると、
アンナが私に言った。

「ママ、おいで」

アンナは両手を差し出している。
そして、また隣に横になった私をぎゅうっと抱きしめた。

「ママ、えらいね」

その言葉を聞くと、私はまるで魔法にかかったようにふにゃ〜っとなった。
えらい?私が?
小さな腕に抱かれ、小さな胸に顔をうずめていると、
自分が幼い子供になったような感覚を覚える。
そして、しばらくの間その感覚に身をゆだね、
アンナの胸に抱かれていた。
小さな手が私の背中をぎゅうっとする。
お母さんに抱っこされてるみたい、そう思った。
とても気持ちいい。
心地よい海の中をたゆたゆとしているような感じで、
すべてが許され、大きな愛に包まれ、安堵感だけがあった。
私は胎児のように身体を丸めた。
気持ちいい、本当に気持ちいい、ただただ気持ちいい。

しばらくそうしていると、スー,スー、と寝息が聞こえてきた。
アンナが眠った。
私はそっと彼女から離れた。

こんなに小さいのに、この絶大なる母性はどこから溢れてくるのだろう、
そう思いながらぽっかり口を開けた可愛い寝顔を見ていた。

私は母の日に幼い自分に帰った。
大人になった今、母親に抱かれることなどなくなったけれど、
自分の娘が私を抱きしめてくれた時、
母に抱かれる感覚はきっとこんな感覚なんだと確信した。
私は母に抱かれた時のことを無意識の中で覚えているから、
きっと、そんなことを感じたに違いない。
母親の抱擁とはこんなにも心地よいものなのか。

娘のハグ。
娘が母になり、私に愛をくれた。
これほどの贈り物があるだろうか。
素敵な素敵な母の日の贈り物。


2005年05月06日(金) 今日の笑点

今日車で走っているとアンナが言った。

「アンナね、小学校では『ぐんて』が得意なんだ」

私はきょとんとした。

「へ?『ぐんて』?」

「うん、『ぐんて』」

「『ぐんて』ってどんなの?」

「ほら、ぶらさがって手でこうしてこうして前に行くやつ」

そう言ってやっている動作を見ると、どうやらそれは『うんてい』らしい。

私はてっきり『軍手』かと…

必死に笑いをこらえると、
ハンドルを握る手が震え、目が涙で潤んだ。
腹筋がひくひくした。




子供は笑いの宝庫ざます。


2005年05月05日(木) 言葉の裏にある本当の気持ちを感じてみる

最近、私は自分が放った言葉についてよく考える。

恐れから放った言葉、
不安から放った言葉、
苛立から放った言葉、
痛みから放った言葉、
傲慢さから放った言葉、
たくさんの言葉。

そして、それらを放つと、私はあとでとても不愉快になる。

昔誰かが言っていた。
自分が言ったことは、まず最初に自分に届く、と。
それは、相手により、最も自分に影響を及ぼす、と。



その昔、こんなことがあった。

仕事の流れでそんなに親しくない人達と席を同じくした。
そこでは、その場にいない人の噂や悪口が飛び交っていた。
私はそこそこ話題についていきながらその場に合わせ、
自分もかつて体験したイヤなことを思い出して、
それをおもしろおかしく悪口にして話したりした。

帰って別の友達にそれを愚痴った。
私の気持ちは落ち着かずになんだかどんよりしていた。

そして、ふと気付いた。
自分こそ彼女達のことを、
悪口言ってるなんて、悪く言ってるじゃないか、って。

そして、どうしてそういうふうに彼女達を悪く言うのかと言えば、
それは私に「恐れ」と「不安」があるからだと気付いた。

私はその席で思っていた。
私がもしここにいなかったら、私が悪く言われるのかもしれない、と。
陰で攻撃されるかもしれない、と。
そんな「恐れ」と「不安」があった。

そして、その「恐れ」と「不安」を持った瞬間から、
自分も言われるかもしれないという幻想から身を守るために、
まず彼女達を悪者にし、自己正当化し、
無意識に言葉で攻撃を始めていたのだ。
そんな裏の心理に気付いた。

私の場合は、だけどね。

私は彼女達を悪く言うことで、その言葉を自分が受け取っていた。
自分の言葉の裏にある「恐れ」と「不安」が私にしっかりと届き、
私の気持ちは落ちずかずどんよりとしたものになっていた。

それに気付き、自分の「恐れ」と「不安」抜きで、
改めて彼女達を思い出し眺めてみた。
すると、今まで自分の悪口をいつか言われるのでは…と思った彼女達が、
たまに集まってわいわいおしゃべりして、
日頃の憂さを晴らしている可愛い女の子達に思えた。

それが彼女達の本来の姿であり、
私だって時々イライラがつのって悪口を言うことあるし、
それなのに、自分がいつか悪く言われるかもしれないと言う恐れから、
自分の中でその事実を曲げてしまっていた。

その夜、お風呂につかり、天井を眺めながら、
彼女達に「悪く言ってごめんなさい」と伝えた。

しっかりと自分の言葉(彼女達への批判)の
裏にある自分の想い(彼女達への恐れ)に気付いた時、
自分の中から落ち着かないどんよりとしたものが消えていったのを、
今でも覚えている。



そんな昔のことをふと思い出して、私は、
自分が放つ言葉の中、そして、その裏には、
自分でも気付いていない想いがたくさん込められていると改めて思う。

それは、日常茶飯事に私達が行っていることでもある。

そして、それはクセとなって自分にしみついているものであり、
よほど意識して言葉の裏を感じようとしない限り、感じられるものではない。
けれど、自分が放った言葉で、何か違和感や不快感を感じた時、
そこで、意識して自分から飛び出した言葉の裏にある
自分の本当の気持ちを感じてみるといいかもしれない。
そこに潜んでいる自分の痛い気持ちに出会える。

出会ったらただ抱きしめる。
抱きしめると、そこにある相手や自分の真実が見えてくる。

それができると、
今度は相手の気持ちがわかるようにもなる。
わからないまでも、察することができるようになる。
相手の言葉の裏にある相手の本当の気持ちを。

そして、その行為は、自分を救う。
生きるのを楽にしてくれる。

難しいことでもあるかもしれないけれど、
自分が放とうとする言葉を常に意識し、
衝動で放ちたいと感じる言葉の裏にある自分の本当の気持ちに気付けるような、
そんな人でありたいと思うのだった。


2005年05月04日(水) 自分を受け入れる

最近、自分について色々考える。

たとえば、若さを失っていくこと。

目の下や鼻溝口のシワとか、顔中にうっすら出ているシミとか、
夕方のメイクの崩れ方を見て、愕然とすることがある。
最大限の努力をして、加齢を遅くすることはできても、
それを完全に止めることはできないだろう。

1年後、5年後、10年後、私はその年齢なりの自分と付き合っていくのだ。

今までは、いかに若くいるか、若く見えるか、
そういうことにとてもこだわっていた。

けれど、最近、38歳という年齢と正面から向き合うようになった。
体力や筋力の低下や、身体のライン、肌などの外見的なものも含め、
自分の身体のあらゆる衰えを認めるようになった。
今までは、それを感じてはいたものの、
あがきながらどこかで否定していたと思う。

今年の暮れには39歳、来年には40歳。
少し悲しい気持ちになりながらも、
そろそろ受け入れなきゃなぁ…ある瞬間そう思った。

私の周りには素敵な40代の方がいっぱいいらっしゃる。
だから、決して絶望的な気持ちではない。
そんな素敵な方を見て、ああいう40代になりたい!って思う。

それでもうすら悲しいこの気持ちは、きっと、
夏が終わって秋にさしかかり、日が短くなって、夜には虫が鳴く、
あの、どこか切ないような、そんな気持ちに似ているのかもしれない。

四季はまるで人生のようだと思ったことがある。
春は命の芽吹く季節、芽吹いた命が育つ季節、
夏は命が力一杯元気に輝く季節、
秋は命が穏やかさを知って静かな美しさを放つ季節、
冬はすべてを味わった命が寒さの中ですべてを達観し受け入れる季節。

最近、仕事で都内に行くことが多く、その度に電車を使う。
電車には色々な人が乗っていて、私は人間ウォッチングを楽しむ。
そこには、まさに人生の四季折々の人達がいる。

先日は、歳の頃で言えば、70歳後半くらいに見える女性がいた。
顔はしわくちゃで、頭は真っ白、背中が少し丸まっていた。
手もしわくちゃで、シミがいっぱいあった。
ふらふらして、足取りはおぼつかず、
電車を降りる時も手を貸したくなるほどだった。

私はその女性をとても愛おしく感じた。
とても長い時間を生きてきて、そのすべてを内に秘め、
今こうして体現しているのだと思うと、なんだろう、心の奥が熱くなった。
感じた気持ちは敬意にも似ていた。
人生でのあらゆる出来事に心揺らし、自分の身体で生き抜き、
彼女がそこに存在しているということが、ものすごいことに思えたのだ。

昔、私は、年寄りはヤだなぁ、と思っていた。
けれど、今は違う。
お年寄りを見ると、うまく言えないけれど、
悲しみとは違う涙が出てきてしまうような、そんな気持ちを感じることがある。
その人の重ねてきた歴史の重みと言うか、生き抜いてきたことのすごさと言うか、
その背後にある悲喜こもごもすべてにふと想いが行って、胸が熱くなる。

そんなことを感じるのは、私も年齢を重ねてきたからなのだろう。
若い頃には決して感じることのないことだった。

だから、私は、今、ゆっくりと自分を受け入れ始めている。
38歳の自分、10年後には48歳の自分、やがては老人になる自分を。
身体を少しでも若く維持できるように努力はしていきたいと思う。
でも、そこに異常な執着を持つことは、もうないだろう。
いい意味でのあきらめみたいなものが生まれたかもしれない。
もちろん、外見が衰えてゆく自分は悲しい。
それでも、そんな悲しみと一緒に、
年齢を重ねていく自分を受け入れていきたいと思った。
私は生きているのだから。

そして、それと同時に、自分を大切にしたいとも思った。
心はもちろんのこと、身体を、だ。
たとえば、食べ物。
最近は忙しさにかまけてすっかり食生活がぞんざいなものになっていた。
それも見直したいと思った。

胃もたれが激しい私は、
「寝る前3時間は何も食べず、ほうじ茶に大根おろしと醤油を入れて寝る前に飲む」
というのを、ついさっきやってみた。
胃腸にいいそうだ。
消化を促して口臭などもなくなるんだって。

お湯を沸かして、急須にお茶っ葉を入れる。
お茶が出るのを待つ間に大根をおろし、
湯のみに注いだお茶にその大根おろしと醤油を入れる。
何事も面倒は嫌いで、お茶も飲まず、もっぱらインスタントコーヒー、
何かを作るにしてもそそくさと済ませたい私にとっては、
そんなことでもなかなか手間をかけた作業だ。

パソコンを離れ、座ってそれをゆっくりと飲んでみた。
とってもおいしい。
それにおながが満足する。
今までは、夜更かしでお腹がすくとつまみ食いしていた私も、
そのお茶ならものすごく満たされる。
気持ちも、満たされる。

そして思った。
ああ、これが身体をいたわる、大切にするってことか、って。
身体がとっても喜んでいるのがわかった。
心もなんだかほくほくした。
私はずっととても大切なことを忘れていたと思ったよ。
身体のことを考えて、ちょっとした手間をかけることを。

自分の年齢を受け入れる気持ちになってきて、
自分の身体のことも真剣に考え、いたわりたいという気持ちがわいてきている。
それが健全な心を作ることにもなるのだと感じる。

若い、美しい、そう見られたいというすべての女性の願い、
それを私も持っていはいるし、
願い空しくそこから離れてゆくのはとても悲しいこと。

でも、そんな中でも、楽しみながら努力して、
生きてきたすべてを存在で醸し出すような、そんな人になれたらいいなって、
自分の年齢を愛せるような、そんな人になれたらいいなって、心から思った。
そのためにも、心豊かになることに努力を惜しまずに。

そんなことを感じた時、ちょっと力が抜けてゆく自分を感じた。


2005年05月03日(火) 放送日、変更だ!

今日、フジテレビのスタッフの方からメールが来た。

わわわ、
ここでご案内した私の出演する「Dのゲキジョー」の放送日、変更だ!

5月6日(金)とご案内していたけれど、
それが、5月20日(金)になったよ。
それも予定であって、また変更になる可能性もあるとか。

このままお蔵入りか!?
いやいや(ぶんぶん)

とにもかくにも、
出演とその日時をご案内した途端に、
上記の用に変更になりますが、
よろしくお願いします。


2005年05月01日(日) 偶然の産物

心の世界を追求していると「偶然の産物」によく出会う。
いや、本当は生まれた時から私達は「偶然の産物」に出会っている。
けれど、そういうものがあるのだということに、気付くようになる。

よく私達は「偶然」という言葉を使う。
そして、それを「ラッキー」とか「たまたま」だと考える。

けれど、本当にそうだろうかと私は思う。

この世界には偶然を装った必然がどれほど転がっていることか。

よく日々の中の出来事を観察してみよう。
よく日々の中のひらめきを感じてみよう。
それは偶然ではないのかもしれない。

だとしたら?

私達はただ訪れるものに左右されて
生きているのではないことに気付けるのではないだろうか。

何かが偶然ではなく起こり、何かが偶然ではなく訪れ、
それが私達に働きかけているとしたら?

そこからメッセージをまっすぐキャッチしていく時、
私達の人生は動き出す。
新しい世界に向かって。


エイミー |MailHomePage
今日も読んでくれてありがと♪すごくうれしい!
My追加
エンピツユニオン