おひさまの日記
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2004年11月30日(火) 自由な発想

ウチには猫が2匹いる。
1匹は三毛猫のめい。
もう1匹は黒白の八割れおかめ猫のはな。

で、どっちか選ぶとしたらどっちの猫を選ぶか、って話になったら、
アンナはこう言った。
「アンナはどっちも選ばないよ。
 どっちも好きだもの。
 ふたりともがいい」(←アンナは猫を人称で呼んでるのサ)

私はハッ!とした。

子供の発想って自由だなぁ。

大人は「どっちがいい?」と聞かれると、
どちらか選ばなければならないと思ってしまうけれど、
どっちも選ばない、どっちも選ぶ、そんな選択肢も、実はあるのだ。
けれど、頭が固くなってるから、一生懸命どっちか選ぼうとしちゃう。
その傾向ってあると思う。

これって人生においても言えること。

「恋愛と仕事、どっちを取る?」なんて質問もよくあるけど、
みんなどっちにするか考えるじゃない?
でも、両方取っていいんだよね。
どっちも自分のものにしていい。
それなのに、どっちかにしたら、もうひとつはあっちゃいけないような、
そんな既成概念が私達大人の意識には張り付いてるような気がする。

アンナが答えたことを聞いて、そんなことを思った。

私も自由な発想をする人でいたいな。
それは人生をとても豊かなものにしてくれる。
子供に教わることは本当に多い。

そして、少し前、母がアンナを見て言ったことを思い出した。
「子供には教わることが多いよ、私もそうだった」って。
私も小さい頃、母にそんな贈り物をしていたのかな。
そう思ったら嬉しくなった。


2004年11月24日(水) 衝動の中にある真実

『もし私がエイミーさんのセッションに悩みも相談も何にもなく
 「ただ会いたくて来ました。話したくて来ました。」
 と言ったらやっぱり不愉快だったり迷惑じゃないですか?』

今日、そんなメールを、あるクライアントさんからいただいた。

私は彼女に返事を送った。
それがいちばん嬉しいのだと。
それが何よりも嬉しいのだと。
そして、理由のない衝動の中にこそ真実があることを体験してほしいと。


2004年11月23日(火) 恐い料理

文字をたくさん覚えたアンナと、言葉で遊ぶことが多い。

今日は、車に乗って目につく看板等の文字に、
濁点を付けて遊んでいた。

近所にトンカツ屋があって「とんQ」って店なんだけど、
そこには大きな看板の他に、のぼりがいっぱいあるのね。
「とんQ」→「どんQ」
「トンカツ」→「ドンカツ」
ってな具合に変換して遊んでいた。
のぼりのひとつに「カキフライ」ってのがあって、
それをアンナは「ガキフライ」と変換した。

「ガキフライ」ですよ。

ガキのフライ!?
それ、ものすごく恐い料理だよ。

笑っちゃーいけねーと思いつつ、
今日も、くっくっくっく…と。


2004年11月21日(日) アタシってスゴイなって思うこと

アタシってスゴイなって思うこと。

それは、ご飯を炊く時に、
といだお米に対して、入れる水の量を、
計らず目分量で入れても、
ぴったりの量に入れられること。

これスゴイね。
毎日の鍛錬(?)のたまものだよ。

主婦は偉大だ。






洗い物と掃除と片付けと整理整頓と洗濯は大キライだけどね。
それなのにキレイ好きなコマッタチャンさ。

小人がいっぱいいて、夜のうちにわいわい出てきて、
家の中のことみーんなやってくれたらいいのに。


2004年11月17日(水) 愛を受け取ろうと決めた日

週末の2日、中島先生のワークショップがあった。
そこに参加するために、私はアンナを母に預けることにしている。
ワークショップの前日実家に泊まり、
翌朝そこから都内へ向かうといういつものパターン。

今回も、金曜の夜に実家へ向かった。

母とアンナと私。
過ぎて行く時間があたたかくて、やさしくて、
私はどれほど愛され、見守られ、必要とされているのかを感じ、
与える愛、受け取る愛、愛する喜び、愛される喜びを体感していた。

が、幸せを感じると共に、なんだろう、悲しい気持が湧き上がってきた。

ベッドに入っても寝付けない。
胸が押しつぶされそうな悲しみが襲って来る。
不安も入り交じり、それはどんどん激しくなる。
恐くなってうずくまり、布団の中で丸くなった。
得体の知れない感情。

こんなに愛されているのに、愛せる人がいるのに、
それを深く感じた途端に、私はなぜこんなに悲しくて苦しい?
自問自答を繰り返しても答えは出ず、
ただ襲って来る不安と悲しみを持て余した。

すると、ある瞬間、私の口から不意に言葉が飛び出した。

「ひとりにしないで」

その言葉と同時に、堰を切ったように涙がどっと溢れ出した。
「ひとりにしないで、置いていかないで」と繰り返し、
私はずいぶん長いこと泣いていた。

11時過ぎにベッドに入り、すでに時計は2時を過ぎていた。
5時前には起きなければならない。
ひとしきり泣いた私は、数えきれないほどの寝返りを打ってやっと眠った。

そして、朝い眠りのまま迎えた翌朝、
会場のある駅に着いて、スターバックスでコーヒーを飲んでいる時、
ふっ…と、本当に、ふっ…と、私の中に浮かんだ。

「失うのが恐いんだ」

お母さんを、アンナを、失うのが恐いんだ。
私に愛を注ぐ人が私からいなくなるのが恐いんだ。
お母さんは私より先に死ぬ、アンナは独立して私から離れてゆく。
愛は手に入れるとなくなるんだ。
だから、愛があると恐いんだ。
恐くて悲しいんだ。

私の中をそんな想いが駆け巡った。

私は、幼い頃から、何度も愛を失ってきた。
それは親の愛だった。
本当は失ってなどいなかった。
けれど、無条件に受け入れてもらえる幼少期を過ぎ、
激しい父の暴力の中、失ったと感じるしかなかった。
そして、それ以上失わないために、
失うものを手に入れることをやめてしまった。
本当に欲しいものだからこそ、失わないために、
最初から自分にはないものにしてしまった。
失ってあんなに苦しいなら、ない方がいい、って、
そう思っていた自分に気付いた。

深いつながりを持つ友達が、時々ウザくなることもあった。
会うことも、話すことも、イヤになり、
放っておいてほしくなることがあった。
誰かの私への深い想いは、私をやがて傷付けるものなのだと、
どこかで信じていたからに違いない。
どうせ私のことなんかわからないでしょう?って。

たくさんのプロセスの中で、気付きや癒しを体験し、
昔よりも素直にたくさんの愛を受け取れるようになった時、
私は、その愛を受け取る恐れに直面したのだった。

愛が欲しいから、愛が何よりも大切なものだから、
それを失うくらいなら求めない方がいい、
私の傷はそんなことを小さな私に決意させていたに違いない。

そう気付いた時、私の中のもやもやが晴れていった。
自分の中の真実に辿り着いた時のいつもの感覚だ。

愛を失うのは恐いよね、自分に何度もそう言った。

奇しくも、今回のワークショップのテーマは「受け取る」。
2日間のワークショップを経て、私は、
痛みを越えて愛を受け取るということを、理屈抜きに感じたように思う。
ワークショップを終えた私の中には、もう、あの悲しみはなかった。
いや、厳密に言うと、
愛しい人達がいつか私から去ってゆく悲しみは、依然としてそこにある。
けれど、その悲しみさえも受け取って、
愛も受け取ることを、私は無条件に体感したように思う。

誰かを愛おしいと思う時、切なさがそこに存在するのは、
失う悲しみさえもひっくるめて愛するからではないかと、ふと、思った。

人は、愛ゆえに傷付き、愛ゆえに癒えてゆく。
そして、そのプロセスに、魂の成長がある。
それが生きるということなのかもしれない。

私は思った。
受け取ろうと。
本当に欲しかった愛を受け取ろうと。
そこに喪失の悲しみがあったとしても、愛を受け取ろうと。
すべてを受け取ろうと思った。
覚悟が決まった。
愛を受け取ろう。

すべての瞬間に存在する愛を受け取ろう。
そこに痛みがあっても、それを凌駕する喜びがそこにある限り。
人は愛そのものだから、愛からは決して離れることはできない。





その決意に至った大切な2日間を与えてくださった中島先生に、
この場で心からの感謝を伝えたい。
中島先生、本当にありがとうございます。





しかし、ワークショップだの、セッションだのの前は、
必ずテーマであるものが前もって出てきたりする。
昔からそう。
その前に自分の癒されていない感情が出てきたりする。
それで辛くなったり、イヤなことが起こって悩んだりする。
そして、ワークショップやセッションで「あ!」と、
その癒しや気付きや流れを手に入れたりする。
色々な人の話を聞いていると、私だけじゃなくそういう人が多い。
不思議だね。
面白いね。

私達は大きな流れにすでに乗ってるんだと感じる。


2004年11月15日(月) 一文字違い

アンナはしまじろうのビデオに出てきた虫、

「ふんころがし」



「うんころがし」

だと思っていたそうだ。
見たまんま「うん○を転がすうんころがし」だと思ったのだそうだ。
確かに。
「うん○ころがし」略して「うんころがし」ってとこかね。

「うん○」は「ふん」とも言うんだということを教えた。
主に動物のそれを「ふん」と言うことが多いんだよ、と。

一文字違いなんだけど「うんころがし」ってなんかおかしい。
心の中でプッ!と吹き出す私、口角がムズムズする。

でも、母は今日もぎゃははとは笑わず、
精一杯静かな微笑みをたたえ、小鼻をひくひくさせ、

「今日もひとつ覚えたねぇ!
 またおねぇちゃんになっちゃうねぇ!」

と、押し殺す笑いに声を裏返しながらアンナを讃えた。

それに「うんっ!」誇らしげにぐぃーんと胸を張るアンナが、
愛おしくもこれまたおかしくて、ムチャクチャ楽しいのだった。






個人的なツボのネタですな。


2004年11月11日(木) 「おしりの穴、こわい」

アンナがお風呂に入っている時に言った。
「ママ、おしりの穴、こわい」

私は訳が分からず「なんで?」と聞き返すと、
「うめぼしみたいだから」という答え。

「鏡で見たらうめぼしみたいでこわかった」
と言うのだ。

なるほど〜。
うめぼしか〜。
上手いこと言うな〜。

「なんであんなこわい形なんだろう」
しかめっ面のアンナ。

「よし、お風呂出たら、
 ママがどうしてあんなにこわい形なのか教えてあげるよ」
と私。

風呂上がり、ふたりでソファーに座った。
私が持ってきたのはキンチャク袋。
その口のひもをきゅーっとひっぱって絞り、アンナに見せた。

「ほら、おしりの穴みたいでしょ?」

「あ、本当だ!おしりの穴だ!」

「この袋の口はどうしてお尻の穴みたいになってるかわかる?」

「???」

「袋の中のものが外に出ないようにするためなんだよ。
 こうやってキュッと絞ってあれば、逆さにしても中身が出ないでしょ?」

「そっか〜」

「おしりもおんなじ。
 この袋みたいにきゅっとしまってるからうんちが飛び出さないんだよ。
 もし、こわくない形だったら、うんちがいつでも出ちゃうんだよ。
 うんちがいつも出っぱなしだったら困るじゃない?
 あのこわい形は、おしりが頑張ってる形なんだ」

「そっか〜、そっか〜」

果たして、そんな説明でいいのかどうかは別として、
アンナはおしりの穴のことがなんとなくわかったらしい。
でも、おしりの穴がこわくなくなったかと言うと、そうでもなく、
やっぱりこわいらしい。


2004年11月10日(水) ワンダーチャイルド

今朝、保育園にアンナを送っていくと、あるママから声をかけられた。
「アンナちゃんにお礼が言いたいんだ」
って。

彼女はこう言った。

「みんなでよーいドン!で走った時、
 ウチの子が転んで泣いちゃって、
 その場で怒り出して走れなくなっちゃったのね。
 他の子はみんな走って行っちゃったのに、
 アンナちゃんは戻ってきてくれて、
 『一緒に走ってあげる』って言ってウチの子と手をつないで、
 一緒に走ってくれたんだ。
 おかげでウチの子は最後まで走れたんだよ。
 ありがとうね」

私はアンナに「素敵なことしたね!」と言った。

アンナは保育園の廊下の柱の陰に隠れて、
半分だけ顔を出して恥ずかしそうに笑いながらうなずいた。

朝の慌ただしい時間、そのママにバイバイして自分の車に向かった。
保育園の門を出る頃には、私の顔は涙でくしゃくしゃになっていた。

なんなんだ、この衝撃は!?

自分の娘が人にやさしくできると知って嬉しかった。
自分の娘が人にほめられて嬉しかった。

でも、そんなんじゃない。

なんなんだ、この衝撃は!?

私は泣きながら考えた。

そして、これは絶対的な慈愛に触れた時の涙なのだと思った。
心が震えた。
涙が止まらなかった。

時々、無条件に与えられる慈愛に触れた時、
それを目の当たりにした時、
激しい衝撃を受けることがある。
その時の感覚と同じだった。

私のすすけた醜い心のそばに、こんなに美しくあたたかい心がある。
私の汚れた言葉にも、愛の言葉を返そうとする清らかな心がある。
私は彼女の慈愛を日々受け取っていたのだ。
それに改めて気付いた。
胸が痛いくらいの感謝と感動が湧き上がってきた。

その傍らで、アンナのやさしい心のそばで、
毎日の垢にまみれてひねることもある自分の心を振り返る時、
自分がとても小さな存在だとも思った。
疲れてすさんでいる自分に気付いた。
悲しかった。
もっと、アンナのようになりたいと思った。

すると私の中で、愛の部分がそれに応えたような気がした。
アンナのようであっていいんだよ、と。
私にも愛があり、やさしさがあり、慈愛があるんだよ、と。

アンナは私のワンダーチャイルドだ。
私の中にあって、
愛をいっぱい持って輝いている内なる子供そのものなのだ。
私だけじゃない、誰の中にもワンダーチャイルドは存在する。
痛みの中で震えるインナーチャイルドの陰に身をひそめてはいるけれど、
必ず存在しているのだ。

インナーチャイルドと一緒に、
遠い過去へと置き去りにしてしまったけれど、
必ずワンダーチャイルドは存在しているのだ。

私は取り戻したいと思った。
心から思った。
ワンダーチャイルドを取り戻したいと。

空の青が嬉しくて、木々の緑が嬉しくて、
泣けちゃうくらい世界がきらきらしていて、
妖精が魔法の杖をひとふりして愛と喜びの粉をいっぱいまくように、
自分を愛しながら人に愛を与えていく、
そんなワンダーチャイルドを。

誰もが真実に帰りたい。
真実との出会いは無条件に私達の心を突き動かす。

どうしていいかわからないけれど、
ワンダーチャイルドを本当に取り戻したいと思った。
それを見つけて、受け止めて、受け入れたいと思った。
私のそばにいるアンナという小さな天使と一緒に。


2004年11月04日(木) 甘えさせてもらってるの

忙しかったり、落ちていたりする時、
人とコミュニケーションするのさえおっくうになることがある。
けれど、社会に生きているので、それを避けることはできない。
だから、必要最低限のコミュニケーションをしていく。
いっぱいいっぱいになりながら頑張る。
話さないと成り立たないようなこと、
つまり、保育園の行事のこととか、仕事の打ち合わせとか、
近所の人とのちょっとした会話とか、そういうこと。
それ以外は、もぉ放っておいてくで〜!!!という状態になる。

そうなると、まず不義理をするのが、
自分の大切な人達だったする。
本当に親しい人とか、親とか。
なぜかと言うと、不義理を許してくれるからだ。
音沙汰なしになっても、
「失礼ね!」とか「ひどい!」とか言われないからだ。
私の生活サイクルや状況を理解してくれていたり。
また、私の行動パターンを理解してくれていたり。

だから、そういう時、大切な人ほど自分から遠くなる。

私はそうした大切な人達に甘えて、
忙殺されそうな時も、底の底まで落ちている時も、
社会的な顔ではしゃんとしつつ、
裏ではでろ〜んとしていることを許してもらっている。
ある意味、息を抜くポイントを与えられている感じ。

そして、時間ができた時、元気になった時、
私は真っ先にそんな大切な人達に、
メールしたり、電話したり、会いに行ったりする。
そして、その人達がいかに自分にとって大切なのかを、
再確認し、あたたかい気持ちになる。

彼女達がいなかったら、
ずぅっとピリピリと張りつめたままでいるしかない。
もしそうだとしたら、極限まで張りつめた時、
プツンとその糸が切れてしまうに違いない。

でも、私は、大切な人達に、
無言のうちに「ゆるんでていいよ」と伝えてもらえて、
安心して忙殺されたり、落ちていたりすることができる。
彼女達は私を放っておいてくれる人達だ。
私もそれに甘えて、心置きなく遠ざかる。

甘えさせてもらって、本当にありがたいなぁ、って、心から思う。

だから、私は彼女達にいつも大切で大好きだと伝えている。


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