おひさまの日記
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2004年12月30日(木) 犠牲

昔の私にとても強い傾向としてあったものが、犠牲することだった。

相手に、その場に、受け入れられたい、喜んでもらいたい、
そんな一心で、夢中になって何かをしてしまうのだった。
それが成功し、受け入れられ、喜んでもらえると、本当に嬉しかった。
そして、それが、自分の存在価値の証明だった。
だから、一生懸命に何かをするのだった。

けれど、しばらくすると息切れしてくる。
無理が出てくる。
時には自分では無理していることに気付かず、
体に出て、体調を悪くしたり、病気をすることもあった。
それなのにやめられない。
やめてしまったら相手にとって自分の価値がなくなる、
やめてしまったらその場所にとって自分がいる意味がなくなる、
それが怖かったのだ。

無理が続く。
限界が来る。
とうとうしていたことをやめる。
ものすごい不安定になった。
人間関係が破綻したり、その場所にいられなくなることもあった。

時には、そんな不安定な自分を、相手やその場所のせいにした。
求められてもいないのに、自分から過剰に切り込んでいって、
あれやこれやとやっていただけなのに、
見返りを期待し、それを受け取れないと、相手を憎く思った。
「こんなにしてあげたのに」って。
相手はしてもらうことなどこれっぽっちも望んでなくて、
こっちが勝手にしてただけなのに。

今は、怖いけれど、できないことをできないと認めるようになった。
無理があれば断るようになった。
とても楽になった。
そして、そうやってまっすぐな自分でいても失うものはないのだと知った。
逆に、失うものはどんなことをしたって失うものだとも知った。

自分を犠牲にして何かを手に入れても、
それはいつか自分の手をすり抜けていってしまう。
自ら手放してしまうことだって多くあるだろう、苦しいから。

人は犠牲を愛や努力だと思うこともあるんだよな。


2004年12月28日(火) いつもプロセスの途中に

年末心の大掃除!?のために、今日、中島先生のセッションを受けてきた。
いっぱい泣いた。
無意識に閉じ込めていた自分に出会った。
そして、これから自分がそれにどう対峙してゆくかという道を見つけた。

誰にも言えないこと、言わないことを、
そっと打ち明けられる人がいるというのはなんと素晴らしいことだろう。
ある意味で、世界でたったひとつすべてを裸にできる場所。

パブロフの犬の条件反射みたいに、
中島先生の前で話し出すと涙がぽろぽろこぼれてくる。
まるで出られる時を待っていたみたいに。

自分では半ば問題とも思っていないようなこと、
厳密に言うと、問題視しないようにしていたこと、
でも、心のどこかにひっかかっている、そんなものが明確になる。

そして、それは、私が感じないようにごまかしてきた痛みであり、
改めて取り出して見つめてみると、人生を左右する重要なものだ。
ひとりでは決してそれに辿り着けないであろうそんな痛み、
心のどこかで輪郭なくくすぶっていて、鈍く胸のあたりをズンとさせるもの。
辛いのに、でも後回しにしてしまおう、そんな気持ちで放っておいたもの。
出会えてよかった。
辛いけれど、出会えてよかった。

セッションの予約をする時は、なんとなく先生に会いたいな、そんな気持ち。
そんなに悩みもないけれど、でも、お話してこよう、そんなノリ。
だけど、セッションの前日、
私が向かい合うべき問題が浮き彫りになるような出来事が起こった。
そして今日、私はそれに出会った。
不思議だね。

実はこういうことはよくある。
私のところに来てくださる方もよくおっしゃる。
セッションの予約をすると、
それに向けてのテーマがあらゆる形で見えてきたりするそうだ。
セッションの少し前にイヤなことがあったり、
何かの出来事で疑問が湧いてきたり。
本当にうまくできている。

勇気を出して幸せになることを選択していこうと思った。
幻想ではない確固たる幸せを。
それはとても怖い行為かもしれない。
けれど、見守り、そばで力を貸してくださる方がいる限り、
私は逃げずに向かい合いたいと思った。
そして、その体験を今度は私が多くの人に提供していきたいと思った。

来年はもっといい年にしよう。
もっと成長する年にしよう。
もっと幸せになろう。
自分の真実のために戦おう、たとえ辛くても。

私はいつもプロセスの途中にいる。
全ての人はいつもプロセスの途中にいる。

プロセスは人それぞれ。
立ち向かう時、休む時、何かすべき時、何もしなくていい時、人それぞれ。
プロセスはそれがどんなものであろうと、幸せに続く道だ。
それを信じている人は、必ず辿り着く安堵の場所がある。
あなたも。


2004年12月27日(月) 頑張れ、私

より高い場所へと行こうとする自分、
まだここにいてもいいじゃないかと引き止める自分、
マインドとボディが欲するあらゆるものが葛藤する。
そして、それに伴う感情の嵐。
痛み、悲しみ、不思議な高揚感。

「そのままで、ありのままで、いいんだよ」

その言葉は自分探しを始めたばかりの私には、
とてもやさしく嬉しい言葉だった。

けれど、いつかその言葉に甘えてばかりいてはいけない時が来ることを、
私はどこかでわかっていた。
そして、それが今なのだと感じる。

その言葉は人を救う。
自分を責め続け、自分の存在を否定してきた人を救う。
私も救われた。
救われたら、今度は立ち上がり、歩き出さなければならない。
そんな時、その言葉にいつまでも甘えていると、
今度は救われて許された居心地のいい場所に居続け、
歩みを止めることになる。

昔はその言葉を楯に、いつまでもぐずぐずと、
脱皮しなければならない自分のままでいることを許していた。
それさえも必要なプロセスではあったけれど。

無意識に生きることから、
意識的に生きることへとシフトし、
自分をより高い場所へと向かわせること、
その努力をすること、
失敗しても、失敗しても、何度失敗しても、
自分を責めず、あきらめず、その道を邁進すること、
それが今自分が本当にしたいことなのかもしれない。
とても困難ではあっても。

他の誰もわからない。
自分がどんなことを考え、どんなことをしているのか、
他の誰もわからない。
でも、自分が知っている。
自分が知っているからごまかせない。

このままでいい、ありのままでいい、
このまま、ありのままいたいから、私は前に進みたい。

頑張れ、私。


2004年12月22日(水) す〜な〜お〜

食事時、お腹がいっぱいになった様子のアンナ。
食べるスピードが極端に遅くなるのですぐわかる。
それでも目は食べたいらしく、お箸を持ったまま迷っている。

「アンナ、お腹いっぱいだったらごちそうさましなよ」

「う〜ん、もっと食べたいような…お腹いっぱいなような…」

「胃袋と相談して決めなさい」

するとアンナは下を向いて自分のお腹に話しかけた。

「もっと食べられる〜?」

私はブッと吹き出しそうになった。

なんて、す〜な〜お〜!

「胃袋と相談して」の言葉のまま受け取ったらしい。
比喩的な表現なんてまだアタマに存在してないんだろうけど、
それにしても、目の前のすべてに疑いなくまっすぐなので、
ついつい微笑んでしまうのだった。


2004年12月20日(月) だから私はあなたの声を聞こう

こんな仕事をしていると、
エイミーさんの子育てはさぞいい感じなんでしょうね、
みたいなことを言われることも多いけど、
プライベートではあれこれとくよくよし試行錯誤するひとりの母親。

先日も片付けをしないアンナに一発雷を落とした。

アンナは片付けが本当に苦手らしく、
家はいつも遊んだおもちゃだのが散乱している。
子供は多かれ少なかれそうだとは聞くけれど。

キーキー怒りながら、頭の片隅には、
「私何やってんだ?
 こんなことじゃ何の解決にもならないのに…」
なんて、冷静な自分がいる。

ふと、自分の小さい頃を思い出す。

いつもこうして怒られてたっけ。
アンナが泣いているみたいに、泣いていたっけ。
家に帰ると父に自分の部屋の物がみんな捨てられてなくなってたっけ。
恐かったなぁ…
悲しかったなぁ…
ひどかったなぁ…

そして、改めて思う。

父に罰されものすごい恐怖を与えられていた自分。
片付けない自分、そんな自分がいるからまた怒られる。
こんな自分でいちゃダメなんだ。
「お前はダメな子、悪い子、いけない子」
私は、意識の奥底で、今でもそんな自分を罰し続けているのだろう。
父に怒られる原因を作る自分を責め続けているのだろう。
私が私を責める。

だから、昔の私と同じ片付けをしないアンナを見る時、
そこに自分のインナーチャイルドを見ている。
自分が罰し続けているインナーチャイルドを。

そして、声を張り上げて責め、罰する。
私が罰しているのはアンナではない。
紛れもなく自分自身。

これが「投影」や「シャドー」と言われるもの。
相手の状態に自分の奥底にある気付かないものを映して見てしまうのだ。
無意識のうちに、自分に与えている反応と同じ反応を相手に与えてしまう。

自分の奥底に存在する気付かないものへの反応だけに、
なぜ自分が相手にこんなに反応してしまうのかわからないまま、
相手への怒濤のような感情に飲み込まれ、
その感情のままに振る舞ってしまう。
そこに残るのは憤りと悲しみの入り交じった複雑で不快な気持。

他人を見てもここまで感情がエスカレートすることはあまりない。
家族だからだ。
より近く鮮明に見える鏡だからだ。

ひとしきり怒った後、そんなことを冷静に考える自分を取り戻し、
私はアンナに謝った。

「恐く怒鳴ってごめんね。
 お片付けはした方がいいから、それはアンナが頑張った方がいいこと。
 だけど、それを伝えるために、ママは怒鳴る必要はないね。
 ちゃんと言葉でそれをアンナに言えばいいだけだったね。
 だから、怒鳴ったことに関してはママが悪かったよ。
 恐かったね、ごめんね」

恐れや圧力によって人をコントロールしようとしても、
つまり、言うことを聞かせようとしても、それはうまくいかない。

まるで「北風と太陽」だ。

一時うまくいったように見えても、
コントロールを受けた側の心は幾重にも屈折する。
なにかをする原動力が「自分の意志」ではなく「恐れの回避」だからだ。

私はよくわかっていた。
アンナが片付けがなかなかできないのは、
私が「恐れ」を与えることによって彼女を従わせようとしているから。
私が怒りをぶつけて言う通りにさせようとするのは、
彼女にとってはとても「恐い」ことであり、
こちらの意思のみによる「強制」であり、
そこに彼女の意思は存在しない。

そう、私も小さい頃そういうふうにされていた。
自分の中のインナーチャイルドの想いを感じた。

そして、すぅ…っと息を吸ってアンナに言った。

「ねえ、アンナ、
 今までママは片付けろってただ怒ってたけど、
 そんな怒られながらしていたら楽しくないよね。
 アンナはお絵描きが上手だけど、
 それは楽しくていつも描いてるからだよね。
 楽しいと色々なことを自分からしたくなるね。
 それなら、どうしたらお片づけが楽しくなるか、
 ママに教えてくれないかなぁ?」

すると、アンナが答えた。

「あのね、ママ、歌を歌いながらやったら楽しいと思うんだよ」
「歌?」
「うん、歌は楽しいから、楽しくできると思うんだよ」
「そうか、歌かぁ」

私は一瞬「ンな歌なんて歌ってもできないものはできないよ〜」と思った。
でも、アンナがそう言うのだから、そうさせてみようと思った。

それから私とアンナはふたりで「お片付けの歌」を作った。
作っているうちに楽しい気持になった。
ふたりで、うふふ、って笑いながら作った。

そして、アンナがルールを作った。
私は片付けをしてほしい時この歌を歌う。
アンナはこの歌を歌いながら片付ける。
それが、彼女の意思から生まれたお片付けのルール。

それから、アンナは自分が決めたせいか、自分から動くようになった。
そして、ふたりで作った歌を歌いながらキレイに片付けるようになった。
これには驚いた。

私はまた彼女から大きな贈り物をもらった。
自分の意志で生きることの素晴らしさ、その力強さ、
そんなものを見せてもらえた。
片付けみたいなちょっとしたことなんだけど。

ふと思った。
私も小さい頃こういうふうに親にしてもらいたかったなぁ…って。
そんなことをこれからもアンナにしたいなぁ…って。
自分の反応に負けずに、アンナを大切にしたいなぁ…って。

アンナ、あなたは小さな私。
だから私はあなたの声を聞こう。
それがあなたを救い、私を癒す道。
あなたの声を聞いて、あなたを救い、私を癒そう。
私はまだまだなママだけど、これからもあなたと一緒に成長していこう。
そして、小さな私の痛みをぬぐっていこう。

あなたがいるから私は小さな私に出会える。
小さな私はいつもあなたと一緒。
だから私はあなたの声を聞こう。
あなたと私のために。


2004年12月19日(日) 悲しかったことー 2

今日、部屋を掃除しようとしてコロコロカーペットを振り回してたら、
椅子の上においてあったリアルファーのマフラーに、ぺと。
密着。
見事にくっついた。

慌てて引きはがす。

見ると、コロコロカーペットには、
無惨にもマフラーのファーが抜けてべっとりとくっついていた。
しかもかなり大量に。
まるで猫をコロコロした後みたいにすんごいの、抜けちゃって。

あああああ、
もったいない〜、毛が減る〜、しかも二度と生えてこない〜!
奮発して買った初のリアルファーなのに…
なんかマフラーが薄っぺらくなったような気がする小市民なのだった。


2004年12月18日(土) だ・ら・りの法則

ある人からいい話を聞いた。
「だ・ら・りの法則」だ。

「だ・ら・りの法則」は、
『「ムダ」「ムラ」「ムリ」がある時はそれをしない』
とういものだ。
それぞれの語尾をくっつけると「だ・ら・り」ね。
有名な話なんだそうだけど、私は知らなかった。

なんかをしようとする時、
「ムダ」「ムラ」「ムリ」があるのにやってしまうと、
それは、うまくいかない、続かない、
だから、どこかにほんの少しでも、
「ムダ」「ムラ」「ムリ」のどれかひとつでもある時はそれをしない、
そんな法則。

うーん、納得。
本当だ、本当にその通りだ。

私にとってはものすごくタイムリーに聞けた話だった。

なんせ、私が揺れていたのは、
「やったらすごくいいし、やった方がいいんだけど、
 今自分がやるには負担が大きいから、今それはしない」
という選択だったからだ。
「ちょっと無理してでもやっちゃった方がいいんじゃない?」
みたいな自分への疑問もあったのだけど、
その「だ・ら・りの法則」の話を聞いて、
自分の選択は、今の時点の自分にとってはベストで、
決して間違ったものじゃなかったと確信が持てた。

ムダなことをしない、ムラがあることしない、ムリをしない、
それを実行すると、確かに「だ・ら・り」になる。
だらぁ〜ん、って。
でも、怠けるだらぁ〜んじゃないのね。
ゆとりのだらぁ〜ん、余裕を持つためのだらぁ〜ん。
あれこれセカセカすることがなくなるもの。
そして、それは自分を信じる作業でもあると思ったよ。

人は、
前に進みたい、うまくいきたい、成功したい、お金を稼ぎたい、
愛されたい、受け入れられたい、認められたい、
そんなことのために、時に無意識にでも必死になる生き物。

そして、その必死さ故に、
自分の大切なもの、つまり本来の自分、ありのままの自分、
それをなおざりにしてしまうことが多々ある。

その「なおざり」を漢字で書くと「等閑」だ。
「閑に等しい」と書く。
漢字って面白い。
「閑」とは「閑古鳥(かんこどり)」という言葉にも使われるように、
がら〜んとしてなにもないことみたいな、無みたいな、そんなニュアンス。それに等しいのだから、
自分の大切なもの、つまり本来の自分、ありのままの自分が、
「閑に等しい=無きに等しい」ことになってしまうってことだね。

「ムダ」「ムラ」「ムリ」をしていると「等閑」になっちゃうのね。

と、話はまた脱線しちゃったのだけど。

「ムダ」なことをするのは、焦点が定まっていないから。
焦りもあるからだろうし、また、あがくことも時に「ムリ」だよね。

「ムラ」になるのは、自分の本意での行為ではないから。
本当に望むこと、したいことなら、
あれこれ考えずとも人は十分衝動で動けるし力も発揮できる。

「ムリ」をするのは、
自分以上のことや、自分の意志以外のことをしようとする時。
自分以上のことを続けていたらいつか力尽きて倒れてしまう。
イヤになってしまう。

そんなふうに解釈した。

私は「だ・ら・りの法則」の話を聞いて、
改めて常に今の自分自身に忠実であろうと心に誓った。
一歩間違うと、それを怠惰になるための口実にも使えるので、
そうではなく、自分を信頼して成長するために、
「だ・ら・り」としていたいと思うのだった。


2004年12月14日(火) 帽子女の帽子の中はハゲなのか!?

私があまりに帽子ばかりかぶっているものだから、
人によっては私が「ハゲなのでは!?」と思っているらしい。
ハゲを隠すために人前では帽子を脱げないに違いないと推測するのだとか。

いや〜、ただ単に帽子が好きなんだよね。
帽子をかぶってる自分も好き。

だから、私はいっつも帽子をかぶっている。
かぶってない時の方が珍しい。

もちろん、かぶっちゃまずい場所ではわきまえるようにはしているけれど。
こういう時代になって、帽子も市民権を得て、
昔よりは、ずいぶん室内でも許されるようになったような気がする、
雰囲気的に。

帽子をかぶっていないと、
「あれっ、今日どうしたの?」
「後ろから見たら恵美ちゃんだってわかんなかった」
「そういう髪型してたんだね」
と言われる。

帽子好きだ〜。
かぶってると落ち着くんだよね。

あと、朝頭ボサボサですっぴんの時なんか、帽子とサングラスは必需品。
あっという間にお出かけ仕様。

これからも増え続けるであろう帽子。
帽子用のウォークインクローゼットを持つのが夢。


2004年12月12日(日) 素敵な人にくっつけ!

自分が自分の意志で誰かといる時、
どんなことを考え、どんなことを話し、どんな行動をするのか、
観察してみると面白い。

必ずと言っていいほど、相手と同じ場所にいることを感じると思う。

こんなことはないだろうか?
グチや悪口を言う時につるむ人、
楽しくてワクワクして前向きな時につるむ人、
なぜかメンツが違う、そんなことが。

逆に、こんなこともあると思う。
ある人といると、話の内容がグチや悪口、ネガティブな話題になる、
ある人といると、とても前向きであたたかい話ができる、そんなことが。

私もそういうことがよくある。

これは、無意識のうちに相手と同調しているのだ。

私達は多面体で、色々な側面を持っている。
ネガティブな側面、ポジティブな側面、両方ある。
それはとても自然なことで、誰もがそうだ。
そして、強い意志で自分を維持しようと思っていない限り、
自分が持っている要素と同じものを持つ相手といると、
その部分が突出して、相手のそれと同調し始める。
同じものは自然に引き合うから。

そんなことを感じながら最近思うのは、
自分が本当はどうありたいのかを感じて、
そんな自分を引き出してくれる人といることが大切だということ。

私で言えば、いつも心地よくいたい。
自分の心がほかほかしているのがいい。
だから、そういうふうになれる人と人生を共有することを選択したい。

ただ、それは、
相手からやさしさや自分が望むことをむさぼることとは違う。
あるがままの相手から何かをいただく、そんな感じだ。
そして、関係の中で何かが絡まれば、
正直で思いやりのあるコミュニケーションの上で自分の有り様を伝えて、
そこにあるわだかまりをほどいていくことが大切だと思う。

とは言え、私達は社会生活をしているのだから、
いつもいつも自分が望む人とだけ一緒にいるわけにはいかない。
ちょいと波長が荒いぞ、みたいな場所に、
えいっ!っと飛び込まなきゃならないことも結構ある。
そういう時には、意志を強く持って、
その場所にいても、同調せず、かと言って批判も攻撃も反発もせず、
ただそこに自分としていられるような人であれたらと思う。
そして、その場所さえ楽しめたらと思う。

私は、常々、素敵な人にくっつけ!、と人に言う。
それは、素敵が伝染するからだ。
素敵な人のそばにいると、ううん、そばにいなくても、
その人とどこかで接点を持ったり、関わったりしていると、
その人の素敵が自分にも自然に流れ込んでくる。
その人の高く心地よいバイブレーションが自分にも波及して、
自分がそれに感化され、同調し始める。

そして、それを続けていくと、色々な側面があっても、
自分の意志で、心地よくいる側面の自分を選択し始めるようになる。
いつもできなくても、思い出した時にそこに戻れるようになる。

これほど楽で、簡単な変化の方法はないかもしれない。

素敵な人にくっつく、
素敵な人と関わりを持つ、
その素敵な人と、その関係に、ふさわしい自分になる、
それはそれは、とても楽しい作業だ。
みんな恋をするとキレイになろうとしたりするけど、
それにも似ているかもしれない。
「この大好きで素敵な人に近づくために、
 もっと成長しよう、もっと素敵になろう」
そんな気持ち。

もうすぐ新しい年。
ひとつの節目に、素敵な人、素敵な場所を選んでみよう。
みんな、素敵な人にくっつけ!


2004年12月10日(金) 苦しみや困難の中にいたい意味

人と話していて「辛いんだ、大変なんだ」という話を聞くことがある。
そして、そう言う人達の何人かに共通することは、
今の辛くて大変な状況から抜け出せないと信じていることだ。
「楽になることなんかあり得ない」みたいな感じなのだ。

じゃあ、そう言う彼女達が楽になりたくないのかと言うと、
そうではなく、楽になりたいのだ。
でも、楽になどなれないと思っているみたいだ。

やりたいことがある、でも、それは無理なんだ、
夢がある、でも、今の状況じゃできないのは仕方ないんだ、
私こんなことしたいのに、○○だからできないんだ、大変でしょ?

そんな感じの言葉を何度聞いたことか。

そして、私はいつも言葉を飲み込むのだった。

そんな時、
「恵美ちゃんの人生は波瀾万丈、激動のドラマみたい」
と友達に言わせた私のドロドロの20代の頃を思い出す。

その頃は、私もそうだったなぁ。

苦しい時、思い通りに行かない時、必ずこう思った。
「絶対に上手くなんていきっこないんだ」
人に話すことは不幸自慢だった。
いかに自分がうまくいかないか、ひどいことばかりあるか、
そんなことばかり話していた。
今思えば、聞いてる方はたまったもんじゃない(笑)

おかしいよね。
幸せになりたいはずなのに、幸せになれないと信じてるなんて。

それは、もちろん、
何度も幸せを願って、何度もそれを打ち砕かれて、
繰り返し、繰り返し、絶望し、痛みに這うように生きてきて、
そうなってしまったのだとは、思うけれど。

それにしても、あの頃私はあきらかに矛盾していた。
幸せになりたいのに、願いを叶えたいのに、
幸せになれない!願いは叶わない!と思っていた。
人にどんなにいい話を聞こうと、それを断固否定して思った。
「でも私は無理なんだ」って。
幸せになれない!願いは叶わない!って思ってたんじゃなくて、
『思いたかった』ことに気付いた。
苦しみの中にいたかったんだな。

道は開けること、幸せになれること、願いは叶うこと、
それを断固信じたくなくて、
自分が堕ちてゆくことばかり望んでいたように思う、無意識のうちに。

幸せや成功を信じないことを貫くことで、
「私はこんなに辛い!私はこんなに大変!」、
きっとそう訴えたかったのだと思う。
誰かに向かって。
きっとその根源は親に向かって。

そして、それが私の、
苦しみや困難の中にいたい意味だったのだと思う。
だから、手放せなかった。
自ら苦しい場所に居続けるという行為を。
だって、もし、それをやめてしまったら、
「苦しいよ、大変だよ、助けてよ」って伝えられなくなるから。
自分がダメな人間だと信じ続けることも、同じ行為だった。
そうやってインナーチャイルドの叫びを、
無意識のうちに外に向けて発していた。

癒しを進めていくと、徐々にだけど、嘘のように人生がスムーズになる。
私の人生も、あの頃から考えると、嘘のように恵まれ、スムーズだ。
それは、いいことばかりあるという意味ではない。
あの頃と同じ、辛いことも、苦しいこともある。
けれど、同じ場所に居続けないのだ。
人生が流れる。
滞らずに流れる。
次の場所、次の場所へと、どんどん流れてゆく。
そして、人生の折々での出来事から学びを得られる。
人は幸せになれると信じているから。

苦しみや困難の中にいたい意味に出会って、
自分を痛みごと抱きしめた時、
私は、今の私になるべくして、流れ始めた。
そして、今の私は、未来の私になるべくして、流れ続けてゆく。


2004年12月09日(木) 言葉の力

想いが言葉になる。
自分の中にあるものが、言葉となって外に世界に出てゆく。

けれど、実は、その逆もあるのだ。
言葉が想いとなって自分の中に入ってくる。

最近、私はこれがすごくブームで、日々の生活の中に取り入れている。
面白いほど効果あるんだよねぇ。

簡単に言うと、自分によい言葉を与えるのだ。
たとえどんなに自分の中が荒れていようと、
そんなことにはお構いなしに、
心が入っていなくてもいいので、よい言葉をどんどん使う。
機械的にでもいいのだ。
私は腹立てながらでも言ったりしている。

特に、ムカついてる時、イライラしてる時、効果的なのは、
自分にプラスのストロークを与えること。
「私って最高だよねぇ」
と、バカっぽいんだけど、口先だけで自分を褒めちぎってみる。
言葉遊びだから、人が聞いたら呆れるくらい自分を褒めてみる。
心の中で抵抗があってもいい。
言ってしまう。
誰も聞いてやしない。
おおげさに褒めよう。
「私って宇宙で一番いい女だ!」
くらい、言ったっていいんだから。

そうすると、なんとなく気分が変わってくる。
気分が変わってくると、むかむかイライラしていた場所を離れる。
そりゃむかむかイライラは完全には消えないかもしれない。
けれど、客観的に自分の怒りを眺められる場所には行ける。

それでいい。
怒りが悪いではなく、
その怒りに支配され振り回されるのが人はしんどいのだ。
だから、支配されずに眺められる場所に行けば、怒りはあってもいい。

「私って最高だよねぇ」という言葉に馴染んでくると、
「最高な私」は、人を憎んでドロドロによどんでるヒマなどない。
もっと楽しい時間を体験することに余念がないのだ。

ちょっと話はそれたけど。

これは当然であり、簡単な原理。
言葉による波動のチューニングだ。

私達のすべてには波動があり、その波動が常に変化している。
嬉しくて、楽しくて、いい気持の時は、高く精妙な波動、
むかむかイライラ、妬み、憎しみの気分の時は、低く荒い波動。
そして、その時自分がチューニングしている波動と同じものを、
常に常に引き寄せている。

だから、言葉の持つ力を借りて、
それを使うことによって自分の中を変えていくこともできる。
つまり、自分の波動を上げる、そんな感じ。

「言霊」という言葉があるように、言葉にはとても強い力がある。
自分が使う言葉は、自分そのものになる。

自分にプラスのストロークを与えていくと、
その言葉の力で波動が高い場所にチューニングされ、
自分の中にある気持も、その高い場所にあるものへと変わってゆく。
波動が変わると、変わる前の波動の気持にはなれないものだ。

そんなことを繰り返しているうちに、
高い場所にいる心地よさを感じることと思う。
そうすると、自分はどうありたいのかを選択することもできるようになる。

「ありがとう」もメチャクチャ力のある言葉。
いっぱい使いたいもんだ。
それだけだって色々なことが変わるよ。

日常、自分が使っている言葉を見張ってみよう。
そして、その言葉がすべて自分になるとしたら、
使う言葉を選びたくなると思う。

できない理由を羅列している人は、いつまでたってもできないし、
嘆きの言葉を羅列している人は、そのままの現実をつかむだろう。

嘘だっていい、方法がわからなくたっていい、
言葉で遊ぶだけなら罪はないんだから、
夢や希望をうんとデカく語ってもいいじゃないかと、私は思う。
その方が楽しいよね。
「私はラッキーだ」
「私は恵まれている」
「私は金運がいい」
「私は○○になるんだ」
「私はいつも思い通りになる」
「私のやることはすべて順調に運ぶ」
「私の夢は全部叶う」
デカく、デカく、語ろう。

人に「最近どう?」と聞かれたら、
「すごく順調だよ」と答えよう、うまくいってなくてもね。
「嘘から出た真(まこと)」っていう言葉もあるじゃない?

想いを変えることはなかなか難しい。
けれど、言葉から想いや現実を動かしていくことができる。
それが言葉の力。

私は、日々、喜怒哀楽に揺れるからこそ、
それが苦しかったり、イヤだったりするからこそ、
そういうのをやってみたりしている。

うーんと落ち込んだら、それをとことん味わって、そして、やる。
落ち込みから目をそらしたら、それこそ自分を無視することになるし。

みなさんもやってみてくだされよ。
セッション受けるとお金がかかるけど、これはタダだし(笑)


2004年12月03日(金) やることをきちんとやる

相当な面倒くさがり屋の私だけど、
やることをきちんとやるって、当たり前だけど、すごく大切だと思う。
なぜって、やることやらないと、それだけで落ち込む。

私自身のことで例を挙げると、
例えば、家の中の掃除洗濯片付けがたまって、
今日やらないともういい加減家の中スゴイよ!って時、
それでもやっぱりやりたくないわけで、出かけちゃったりするわけだ。
楽しいこと優先なのね。

で、外に出ると自分がやるべきことについては考えなくなるんだけど、
意識の片隅では「ああ、家のことしなくちゃ」って思ってる。

そうすると、無意識にそっちにかなり意識が向いていて、
「やらなくちゃ、やらなくちゃ」と心ン中では繰り返されている。
でも、目をそらす自分がいて、今度は、
「こんなんじゃダメだ、こんなんじゃダメだ」と自分を責める。

だから、外で楽しくしてるはずなのに、なんだか心がどんよりしてくる。
しかも、頭ではすべきことについて考えるのをやめているから、
「私なんでこんなに重い気持なんだろう?」って、
ブルーな気持の理由がわからなくなる。

そして、帰ったら帰ったで、ぐちゃぐちゃな家の中を見て、
散らかってて気分は悪いわー、イライラするわー、
すべきことを放棄した自分が更にダメ人間に思えてくるわー、
かなり落ち込むわけだ。

意識ってのは、今ここで頭で考えていなくても、
何か心に引っかかりのあるものがあれば、それが潜在的なものであろうと、
引っかかりの数だけ、もれなく意識を注ぐ。
そうすると、自分の意識がそれだけ分散するのだ。
ひとつのものを多く分ければ分けるほど、その分けたひとつが小さくなる。
それと同じことが意識にも言えて、
気になることをそのままにしておいたりすると、
意識がそっちに分散したままになる。
今自分が目の前で一番意識を集中したものに対して注ぐ分が減るのだ。
そうすると現実が滞ったりする。

上の私の例もそうだけど、意識が分散している上に、
分散した片割れが罪悪感を感じていて、
知らんぷりしてる方の意識にまで罪悪感のバイブレーションを送っている。
一蓮托生、ひとつがどんよりすると、みんなどんよりしてしまう。

あの人にメールの返事してなかったな…
歯磨き粉がもうすぐなくなるから買わなきゃな…
換気扇のフードの掃除しなくちゃな…
部屋の中片付けなきゃな…
こういう生活習慣変えなきゃな…

そんな些細な引っかかりが、気付かない所で私達の意識を引っ張る。
そして、そういう想いは往々にしてどこか後ろめたいものだから、
気持もすっきりしない。
私等は慢性的に落ち込んでしまうのだ。

だから、基本中の基本だけど、やることをきちんとやる、これ大切。
やると、嘘っ!?ってくらいスッキリする。
本当だよ。
信じられないくらい気持が切り替わる。

私も今日は頑張った。
引っ越してきてから6年半の間にたまりにたまった、
ベランダに寄せて寄せて起きっぱなしにしたものを、
一気に片付けてトラックに積んで清掃工場まで行って捨ててきた。
ものすごい爽快感。
この勢いで、家の中のいらないもの一掃したくなった。

やることやるって気持いいな。
息抜きなしの頑張り過ぎはいけないけど、
頑張りなしのだらけ過ぎもいけない。

「やることをきちんとやる」、来年の目標にしようかな。


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