おひさまの日記
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2004年10月23日(土) 最近

びろ〜んと伸びちゃったゴムヒモみたい。

思考の一部を切り取られ、
感覚の一部を切り取られ、
そして、空白の中にたゆたゆしてるみたいな、
そんな感じでもあり。

次は何が来る?


2004年10月21日(木) 私の中の私に出会う

最近、
辛い気持ちや悲しい気持ち、
不愉快な気持ちになる時、
ムカつく時、
こう考えてみる。

「私は小さい頃、こういう気持ちを味わってたんだな」

って。

私達が感じている感情は、
すでに過去に体験した感情であり、それを反復しているだけだ。
何かが引き金となり、過去に体験した感情を引き出す。
かつてその感情を体験した状況と同じような状況で、
もしくは、違う状況でも同じ感情を引き出される要素が揃う状況で、
無意識のうちに、過去の感情を再体験している。

つまり、心地よくない感情が訪れた時、
過去の自分、インナーチャイルドの痛みを再体験している。

もし、過去に傷も痛みもなかったら、私達は、
大概何が起こってもネガティブな感情を以て反応することはないだろう。
感情が生まれ、反応するということは、
その感情を以て反応する傷や痛みがあるということだ。

だから、
過去をうんとほじくって、いじって…、
そんな話じゃない。

ただ、自分を知ってゆく。

「私は小さい頃、こういう気持ちを味わってたんだな」

って。

それをしたからって劇的に変化するわけじゃない。
でも、確実に始まる何かがある。

インナーチャイルドは傷付いた子供。
私達が無意識の世界に閉じ込めてしまった子供。
その存在にさえ時に気付いていない子供。

その子供は私。
その声なき聞こえをただ聞く。
感じる。

だから、辛い気持ちが出てきたら、

「私は小さい頃、こういう気持ちを味わってたんだな」

って、思う。

そして、
怒ってたんだな、とか、
恐かったんだな、とか、
寂しかったんだな、とか、
悲しかったんだな、とか、
気付く。

自分の知らない自分が見えてくるんだ。
もっと抱きしめてあげたい自分が見えてくるんだ。
見えてきたら言ってあげるんだ。

「こんな気持ち感じてたなんて、辛かったねぇ」

って。

私の中の私に出会うんだ。


2004年10月20日(水) 嬉しかったこと

今日、スーパーで買い物をしたら、
合計がちょうど3,000円だった。
スゴイ!
こんなの初めて。
いつもは必ず端数が出るのに。

感動して「ぴったりなんてスゴイですねぇ!」って、
レジのおばさんに言ったら、

「1ヶ月にひとりいるかいないかなんですよ。
 スゴイですよ」

そう答えてくれた。
毎日レジ打ってるおばさんで月にひとりいるかいないかなんだから、
やっぱりものすごい確率なんだと思う。

それだけなんだけど、なんか嬉しかった。
へへへ〜。

でもって、そんなことが嬉しい自分がなんか嬉しかった。


2004年10月13日(水) 尻文字

最近、私とアンナの間でちょっとブームなのが、尻文字。

一度、私が、
 ♪アンナの「な」の字はどう書くの〜?
  こぉ〜して、こぉ〜して、こぉ〜書くの〜
と、やって見せたのが始まりだった。

それを見て覚えたアンナがむこうを向いて、
可愛いお尻で、くいっ、くいっ、と文字を書く。
それを当てる。

でも、大体書く文字は決まっていて、
「すき」とか「まま」とか「ぱぱ」だ。

本人は文字を当ててもらいたいらしいんだけど、
私はそれをやってるキミが見たい。

むこうを向いて、腰に手を当てて、
くねくねへんちくりんなダンスを踊ってるみたいな、
アンナを見るのが面白い。

あんまり笑うとやらなくなっちゃうので、
必死に笑いをこらえながら、
「今のは『すき』だね!」
とか、平静を装って回答すんの。

子供ってたまらない。

尻文字、すっごく癒される〜。


2004年10月12日(火) 自分の真実の中にいないと苦しくなる

人って自分の真実の中にいないと苦しくなるんだと思う。
なんでってよくわからないけれど、そういうもんなんだろうね。
偽った自分でいると、とにかく苦しくなる。
苦しくなったり、気分が沈んだり、イライラしたりする。

偽りの中にいるってのは、ものすごいエネルギーを消耗する。
身も心も擦り減る。
なんせ、作らなきゃいけないから、自分を。
真実の中にいれば、ありのままの自分でいいんだけど、
偽りの中にいたら、それに合わせた自分でいなきゃならない。
終始ピリピリして別の自分を演じるようなもんだ。
それはとても疲れる作業だ。

そして、それをやってるうちに、
今度はその偽りの自分が板について、
本当の自分だと思えてきてしまうんだからコワイ。

ありがちなのが、
自分が自分を偽ってることに気付いてないってパターンで、
そういう場合、無意識に自分を擦り減らしていることになる。
無意識に自分を擦り減らした上に、
無意識に偽りの自分が本当の自分だと信じ込むのだから、
そうなるとまるで迷路の中にいるみたいだ。

なにがどうなって、一体なぜ、今自分はこうなってるんだ!?
そんなことを感じるようになる。

よくわかんないけど、最近ブルーだぞ、
よくわかんないけど、最近イライラするぞ、
よくわかんないけど、最近なにもかもうまくいかないぞ、
よくわかんないけど、最近なんか滞ってるぞ、
よくわかんないけど、最近いやなことばっかり考えるぞ、

そんな時、私の場合、
大体が自分の真実の中にいない時だ。

自分の真実とは、
自分の気持ちや感情や希望、欲求だったり、
はたまた、バランスの取れた状態だったり(調和自体が宇宙の真実だし)、
そういう場所にしっかりいないで、そういうものを大切にしないで、
頭でばっかり考えたことの中や、
相手の言動に対する単なるこちらの反応の中にいて、
そういうものを優先していると、
必ず何かがおかしくなってくる。

感情が不快な方に揺れて、
現実は居心地の悪いものになる。

迷って、探して、見つけて、安堵して、
また迷って、探して、見つけて、安堵して、
またまた迷って、探して、見つけて、安堵して、
そんなことの繰り返し。
きっと私は一生やるだろう。
一生やるうちに、きっとうまくなるんだろう。
タオの陰陽マークみたいに、陰陽善悪表裏を裁くことなく、
すべてをあるがまま見つめていられる私に。


2004年10月11日(月) 視点を変えてみる

人の想いも、感情も、言葉も、態度も、すべてすべてがエネルギー。

オーリングテストなんかやってみるとよくわかる。

「馬鹿」「嫌い」「ムカつく」「憎い」のようなネガティブな言葉と、
「好き」「楽しい」「ありがとう」「愛」のようなポジティブな言葉を、
それぞれ言ってオーリングテストしてみると、
ネガティブな言葉を言った後はオーリングが開いてしまう。
ポジティブな言葉を言った後はオーリングが開かない。

オーリングは無意識の判断で、
対象となるものを筋肉が察知するとかしないとかで、
そういう結果が出るらしい。

つまり、どんな有形無形のものにもエネルギーがあるってことだ。
そして、人はいつもなんらかの形で、
なんらかのエネルギーを発し、また受け取っているということだ。

そして、自然界の絶対の法則で、発したものは自分に戻って来る。

エネルギーには波長がある。
よく、波動って言葉で表現もされる。
そして、エネルギーには同調の法則があって、
同じ物が引き合ってマッチしてくっつく。

テレビで考えると簡単だ。
NHKのチャンネルにするとNHKが映るし、
日テレのチャンネルにすると日テレが映る。
つまり、特定の電波を受信するために、
その電波に合わせてチャンネルにチューニングするね。
そして、チューニングされた場所にその電波が飛び込んでくるワケだ。

私達にもそれと同じことが起こっている。
「今」「ここ」で、自分が発したものと同じ波長のエネルギーが、
常に自分に飛び込んできている。
休みなく、絶え間なく、だ。
自分が発したものと同じエネルギーが。

だから、自分に訪れる状況を見ていると、
今の自分がどんな状態か、どんなものを発しているかがよくわかる。

私で例を言うと、
最近なんだかムカつく店員によく出くわす、なんて時、
自分もすごくトゲトゲしかったり、イライラしている場合が多い。
でも、そんな時、自分では、
自分はきわめて普通の状態、いや、いい状態だと信じていたりする。
そして、他人を見てハタと気付かされる。
あ、私、今なんかすごく荒れてるんだな、って。

周りの人や自分に訪れる出来事、状況を見ると、
自分がどんなエネルギーを発信しているかどうかがわかる。
無条件にわかる。
そして、それには例外がない。

だから、自分を知るには自分の周りを見るといいんだな。
自分の周りにはどんな人が多いのかを。
自分にはどんな出来事や状況が多く訪れるのかを。
それは、私達自身が発したものに同調して、
集まってきたものばかりだから。

また、エネルギーには「同調の法則」と一緒に、
「需要と供給の法則」もある。

例えば「周りには私を傷付ける人ばかり」、そんな時、
その人が人を傷付けてばかりだから傷付けられるのではなく、
「私を傷付けてください、私は傷付けられるべき人間です」
というエネルギーを発している。
その需要に応じて、その人を傷付けられる人が供給されるのだ。
これが「需要と供給の法則」だ。

そういう人は、時に無意識に、
自分を過小評価し、卑下し、責めている。
つまり、その部分に同調した自分を傷付ける人ばかりが寄ってくる。
最終的には同調の法則だ。

自分に訪れるすべてを観察することで、
私達は自分を知ることができる。
自分でも気付いていない自分さえも知ることができる。
そして、気付いていない自分こそが、私達の人生の鍵を握っている。

私達の周りのすべては私達の鏡。
鏡を使って視点を変えてみる。
その時に答えが見えるし、変化がある。




なんてねぇ、今日は、コレ、
自分に言い聞かせてるの。


2004年10月05日(火) あいさつ

あいさつって大切だな、って思う。
家族の中でも、仕事場でも、色々な人との間でも、
どんな時でも。

私の母は、よくあいさつをする人だった。
小さい頃一緒に歩いていると、
近所の人などに会う度、笑顔で声をかけていた。

私は無意識にそんな母を真似たのだろう、
聞くところによれば、しっかりあいさつをする子供だったそうだ。
「あいさつができて偉いわね」と、
大人にほめられていた記憶がある。
本人は何のこっちゃって感じだったけど。

昔、テレビで、在日中国人の方がこんな感じのことを話していた。

「日本に来て驚いたのは、
 暑いですね、寒いですね、天気がいいですね、雨ですね、
 とういうようなあいさつがあることです。
 最初私は『寒いですね』と言われて、
 『寒くないよ、中国はもっと寒いよ』と答え、
 相手に変な顔をされました。
 後で、そういう言葉はあいさつだと知ったのですが、
 会う人との和をもたらしてくれる素晴らしい習慣だと思います」

あいさつはコミュニケーションの第一歩。

気持ちよく、元気に、明るくあいさつすること、
事の始めに相手と言葉を交して心を通わせること、
それは、その場の心地よい空気を作り出す。
自分だけでなく、他人にも与えられる贈り物。

同調の法則がある。
自分が発したものと同じものが自分に返って来る。
言霊を通して発したエネルギーが、そのまま相手から与えられるの。
自分に同調するものが自分に寄って来る。
人と会っても無視したり、
あいさつをしたとしても目も見ず、暗い表情で小さな声なら、
相手もこちらにそれと同じものを投げてくる。
自分がすべてを呼び込む。

こちらが心を開いてあいさつしても、
必ずしも、同じようなあいさつが帰ってこないことがある。
相手がこちらを無視ってケースもある(爆)
そういう時ってすごくいや〜な気持ちになるし、
あれ?私何か悪いことしたっけ?なんて考えることもあるけれど、
それでも、あいさつは続けたいな、と思う。

相手がどうかじゃない。
ま、相手の反応がいいに越したことはないにしても、
最終的には自分がどうありたいのか、だ。

あいさつは、瞬間的なものだけど、
その1日、その場、その関係、
折々、そのすべてを決めてしまうくらい大きな力を持っている。

たった、ひとこと、ふたことで、
エネルギーが動いていくなんてマジックみたい。
そんな簡単なマジックなら、使ってみないテはない。

ちなみに、ものすごく落ちて、
元気で明るいあいさつができないような状態の時は、
「ごめん、今ちょっと気持ちがふさいでて暗くてゴメンね」と、
最初から伝えてしまおう。
もしくは、本当に人が苦手なら、
「私、引っ込み思案で人と話すのが苦手で、
 元気なさそうに見えちゃうんだ」
と、伝えてしまおう。

そうすると、相手も、どうしたのかな?とか、
私何かしちゃったかな?とか、嫌われちゃかな?とか、
気をもまなくて済む。

相手がこちらを攻撃したりするのは、
こちらの態度を見て感情が動くからだ。
「なによー、なんなのそれー、
 私に文句あるわけー?私が嫌いなわけー?
 感じわるぅ」
みたいに。
大体が怒りに似た感じで捉える感情だけど、
おおもとは不安とかであり、
それを「あなたのせいじゃないんですよ」と安心させてあげれば、
あちらも心置きなく放っておいてくれる。
安心して落ちていられるし、安心して人が苦手でいられる。

ひょっとしたら、そういう風に伝えることさえ、
ひとつのあいさつかもしれない。

お母さんに朝「おはよう」って言ってもらえなくて悲しいという記憶が、
セッションで出てきたクライアントさんがいらした。

大切な人に声を出して言ってみる。

おはよう、
こんにちは、
こんばんは、
いってきます、
ただいま、
おかえりなさい、
おつかれさま、
ありがとう、
ごめんなさい、
いただきます、
ごちそうさま、
お先に、
おやすみ、

そんな簡単な言葉達だけど、
きっと、何かを動かしていってくれるんじゃないかと思う。


2004年10月01日(金) 母を見ていて思うこと

以前の日記にも書いたことがあるが、
私の母は舌筆に尽くし難い辛い結婚生活を送っていた。
母の時代の女性には多いこともかもしれない。

父の言動の暴力と支配のもと過ごした40年近く、
最後の数年は、体が不自由になった父の介護で、
殴られながらも世話をし、
夜も思うように睡眠さえ取れず、疲労困憊の母だった。

父が老人福祉施設に入り、
ようやく平穏で自由な生活を手に入れた時、
母は怯えた。

あんなにも苦しかった地獄のような日々だったのに、
それが自分からなくなった時、母は喜ばなかった。
そして、取り戻そうとさえした。

私は母が不憫だった。
やっと自由になったのに、と。

母は言った。
「こんなふうに好きなことをしたり、
 ゆっくりしてたらいけないと思うんだよ」
と。

長い長い時間をかけて母にしみ込んだ苦しみばかりの生活は、
もちろん彼女を相当にひどく痛めつけてはいたのだけれど、
それは、いつしか、彼女の安心できる場所になっていた。
苦しい場所に存在する自分が本当の自分だと信じていた。
そして、それでいいのだと信じていた。
口ではイヤだイヤだと言っていたけれど、
そこに根を下ろすことで、自分の居場所や役割を確保していたのだ。

だから、突然自由になった時、母はすべてを失った。

父が施設に入ってから、
母はずいぶんと長いこと様子がおかしかった。
そわそわし、音がすれば「お父さんだ」と父を探す。
夜中に急に起きて「今お父さんが呼んだんだよ」と言う。
日中も我を忘れようと何かに没頭し続けた。
今自分が置かれた状態を認識したくないかのように。

何ヶ月か経つ頃、母はようやく自由な生活に慣れたらしく、
友達と出かけたり、買い物を楽しんだり、趣味を持つようになった。
そして、毎日がとても楽しいと言うようになった。
明日はアンナの運動会で、見学するのを楽しみにしている。

そんな母を見ていて思った。
とても辛い境遇に置かれ、口で、苦しい、イヤだ、と言っていても、
そして、本当にそう思っていても、
心のもっともっと深い部分で、
「このままでいい、このままがいい、このままでいたい」
そう思う部分が、人にはあるのだと。
辛い境遇の中で自分なりの在り方や居場所を確立し、
そこにそうしている自分なりの理由を持つのだ。
そして、いつしか、それが自分を支えていくようになる。
無意識レベルで。

だから、母も、あんなに望んだ自由を手に入れた時、ひどく怯えた。
元に戻りたがった。

人は変化を恐れる。
たとえ、どんなによい方向に変化するのだとしても、
新しいものは恐ろしい。
自分を脅かすものだ。
だから、同じ場所に留まりたいのだ。
無意識レベルで。

そして、無意識で望んだそんなことが、
自分の目の前の現実となっている。

今は楽しく暮らしている母を見ていて思った。
「な〜んだ、しばらくすると慣れるのか」
と(笑)

そうなのだ。
慣れるのだ。
恐れていた新しいものも、しばらくそこに身を置くことで慣れてしまい、
今度はそれが自分の新しい現実となる。
あたりまえの現実となる。
そして、新しい自分を確立していく。

それが変化だ。
変化のプロセスだ。

きっと母は、
心の深い深い部分で、苦しい場所にいたかったのだろうけれど、
さらに、もっともっと深い深い部分で、
「もうイヤだ!」と、はっきりと決断した瞬間があったのだろう。
ま、本人に自覚があるはずもないけれど。

安達育朗さんの「波動の法則」にもあったが、
「決断」した瞬間に現実が動く。
少しの迷いもなく決断した瞬間に、変化のための一連の流れが始まる。

母は自分では自覚ゼロだけど、
彼女の深い部分でそういうことが起こっていたのだと思う。
だから、父からひとりの人間として独立し、
自分の意志を持って生きる道が訪れたのだ。

かなり遅咲きだったけれど、
これからの人生を楽しんでほしいと心から願っている。

慣れって、大切だよねぇ、ホント。
何にでも言えるけど。

そして、慣れって、恐いよねぇ、ホント。
苦しみにさえ人は慣れていくのだから。


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