おひさまの日記
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2004年09月29日(水) 共存

極寒の地に暮らす人は、
「どうやったらここが寒くなくなるだろう」などと考えない。
考えるのは、
「どうやったらこの寒さに適応して生活できるだろう」ということだ。

熱帯の地に暮らす人は、
「どうやったらここが暑くなくなるだろう」などと考えない。
考えるのは、
「どうやったらこの暑さに適応して生活できるだろう」ということだ。

そして、それぞれが試行錯誤の末、それぞれの場所で、
いかに自然と共存できるか、その方法を見出していく。
それは生活の知恵となり、子々孫々に伝えられる。

本当にイヤならその土地を離れるしかないけれど、
人はふるさとを愛してやまないものだ。

同じように、私達が自分の人生を生きる時、
どうしようもないものとの共存が、とても大切なことがある。
調和。
バランスを取るということ。

私の仕事で言えば、トラウマとの共存。
カウンセリングやセラピーはトラウマをなくす作業なのではなく、
時にそれらと共存するための作業とも言える。

「北風と太陽」の話は有名だ。
旅人のコーを脱がせたのは、
強風で吹き付けた北風ではなく、
ただ照らし続けた太陽だということは言う間でもない。

なんでもそうだけど、
対象になるものを敵視して力でなんとかしようとする時、
大体うまくいかない。
対象となるもの、相手も必死だからだ。
反発するのだ、なにクソやられてたまるか、と。

それでもねじ伏せてなんとかなったとしよう。
でも、それは本当の意味でうまくいったとは言えない。
それは支配だ。
調和ではない。
そこには、相手側の抑圧されたエネルギーが生じる。
必ずバランスが崩れる。

心の痛みもそうだ。
よくないものだと決めつけ、
ないほうがいいものだと決めつけ、
それをないものとすることにばかり力を注ぐと、
それは増長して襲って来る。

時には、抑圧され、押し込められ、
屈折した痛みのエネルギーが膨らみマグマのように奥の方で猛り狂い、
深い部分に留まりきれなくなった瞬間、爆発し、
今までねじ伏せてきたはずのそれが、牙をむいて私達を襲ってくる。
人生がコントロール不可能になっていく瞬間だ。

けれど、そこにある普遍的なものを認め、受け入れ、
調和していくことを目的とする時、そこには新しいものが生まれる。
寒い土地に暮らす人が、暑い土地に暮らす人が、
そこに生きるからこそ生まれた知恵を持っているように、
調和を成すための「何か」が生まれる。

私達も、生きて、そんな「何か」をつかむために、
生かされてるんじゃないかと思う。
痛みと共存し、調和していこうとする時、
今まで自分を脅かしていたものが途端におとなしくなっていくことを、
きっと誰もが体験するだろう。

私も体験している。

誰だって無視されたり、敵視されたり、攻撃されたりしたやイヤだよね。
心の痛みもそう。
そんな扱いをされるのがイヤ。
やさしくしてほしい。
ありのままを受け入れてほしい。
私達がそうであるように。
やさしくされた時、心を開いてくれる。
「痛み」にも心があるのだから。

そして、そうすれば、きっと何かが変わってゆく。


2004年09月27日(月) 本当の気持ちに出会う瞬間

自分の本当の気持ちに出会う瞬間というのを、
きっと、誰もが無意識に体験していると思う。
そして、無意識だから忘れてしまっているかもしれないけれど、
それは、それは、ものすごい瞬間なのだ。

不愉快だったり、腹立たしかったり、
ちっ、なんか面白くないなー、そんな気持ちの時、
人はきっとひたすら不機嫌なんだと思う。

イライラしてみたり、無気力になってみたり、どんよりしてみたり、
なんか、なんだかなー、みたいな、そんな感じになるんじゃないだろうか。

そして、何かのきっかけで、そんな気持ちや感覚の、
もっともっと奥にある本当の気持ちに出会う瞬間、
なにかがほどけていくような感覚になるのだと思う。

炭酸の泡がシュワー…って表面に上がっていくみたいな。

さらさらと何かが自分の中で流れ出し、
「よく見つけてくれたね」とでも言われたような感覚。
腑に落ちたような、なんか、とってもスッキリした感じ。

人の気持ちのスイッチってのは人それぞれで無数あるけれど、
そのスイッチ押されてポコンって生まれちゃう気持ちって、
実は誰でもほとんど同じ。

自分を無視されたように感じたり、
自分をないがしろにされたように感じたり、
自分を否定されたように感じたり、
自分を見下されたように感じたり、
自分を拒否されたように感じたり、
自分をコントロールされたように感じたり、
そういうことがきっかけで生まれてくるのは、
まず怒りとかそんな感情で、
その結果、イライラしたり、無気力になったり、どんよりしてみたり。
そして、更にその下にあるのは、悲しみや寂しさ、満たされなさだ。
絶対と言っていいほど、私達の痛みの根源はその感情だ。

それは、生まれ出ることができないから、
ずっと私達につきまとい、影を落とし続ける。

一番奥にある、悲しみや寂しさ、満たされなさに気付けた時、
本当の気持ちに出会う瞬間、
私達はもう暗い感情の終焉を迎えている。

そんな体験が誰にもあると思う。

誰かに思いがけないあたたかさや理解、共鳴を与えられた時、
自分を守るために張り巡らされていた壁が崩れ、
そんな瞬間がやって来たこと、なかっただろうか?


2004年09月24日(金) 思考という魔物

私達はあれこれと頭でものを考える生き物だ。
思考は連鎖する。
見事な連想ゲームが頭の中で展開されているのだ。

そして、私達は、その思考が自分の真実だと思いがち。

例えば、



○○さんに挨拶したら、機嫌悪そうに低い声であいさつ返されたな。
   ↓
なんか感じ悪いな。
   ↓
私、気を悪くするようなことしちゃたかな。
   ↓
どうしよう、嫌われたのかな。
   ↓
そうだ、なんかしちゃったんだ、どうしよう、何したんだろう?
   ↓
仲間はずれにされたらイヤだな。
   ↓
そういうことするから○○さんって苦手なんだよな。
   ↓
そう言えば、昔から合わないと思ってたんだよ。
   ↓
これからは仲良くするのやめよう。
   ↓
ああ、私は孤独なんだ。



こんな感じで、最初にパッと浮かんだ考えが、ドンドン発展していく。
脈絡のないこともどんどんつなげていく。
そして、考えているうちに、
あくまで憶測に過ぎなかったはずのものが、
いつの間にか自分にとっての事実になってしまい、
その作り上げた事実に基づいて行動を始めてしまうのが私達。
そして、この連鎖には、その思考に伴う感情も発生する。

この思考とは、実は「心理反応」だ。
そして、この心理反応が起こるのは、
過去の体験等からできあがったデータベースがあるから。
すべてをそのデータベースに基づいて判断し、
無意識のうちに出てくるのが心理反応。

そして、この思考、つまり心理反応は「自分」ではなく、
あくまで、9/21の日記にも書いた「お客様」なのだ。
このお客様を自分だと思い込んでしまうと、
人生どろんどろんになってゆく。

ある本に書いてあった。
「人はなぜ苦しくなるのか。
 それは、苦しくなることを考えるからだ」
私は唸った。
確かに。

人の癒しには多くの過程を必要とする。
そのひとつとして、
自分(心)と自分の思考(心理反応)は、まったく別のもの、
という理論的なことを認識していくことも必要だったりする。

それを認識したからと言って、人生が激変するということはないだろう。
けれど、横暴なお客様に家を乗っ取られて言いなりの主が、
自分がそこの主であることを思い出し、
毅然とした態度を取り始めることができるようになる。

そして、そこから始まるものが,間違いなくあるのだ。

よく「自分の本当の気持ちがわからないんです」とおっしゃる方がいる。
「自分の感情がわからない」と。
自分(心)と自分の思考(心理反応)が一緒になってしまっているのだ。

テロリストにハイジャックされた飛行機は、
どこに飛んでいくかわからない。
もちろん、テロリストの目指す場所に連れて行かれてしまうだろう。

私達も同じ。
思考、つまり、心理反応を自分そのものだと思い込んでいると、
心が行きたい場所ではなく、
心理反応が行きたい場所に連れて行かれてしまう。
そして、そこは、大体がひどい場所だったりする。
なぜなら、人間は物事を悪い方へ考える達人だからだ。

そんな時、主たる自分が、
「私の客人である思考(心理反応)はこんなことを考えているのか。
 そうか、そういうことを考えているのはわかったよ」
そう眺めてみる。

そうすると、自分(心)と自分の思考(心理反応)の間に、
明確な距離ができて、一緒に連れて行かれてしまうことは格段に減る。
純粋に「今」「ここ」での自分の反応を味わうことだけに集中できる。
そして、それは、終わると勝手に去っていく。
それを繰り返していくうちに、私達は大切な「何か」を発見する。

お遊びのつもりで試してみるといい。
どうせ同じ感情を味わうなら、
悔しいから、その中であれこれ試してみてもいいじゃないかと思う。


2004年09月22日(水) 小さな鼓笛隊

ウチのマンションの隣は保育園だ。
アンナはそこに通っている。

今日の日中、ドンドンと太鼓の音が響いてくる。
耳を澄ませてみると、それはどうやら、
アンナの話に聞いていた保育園の運動会の鼓笛隊の練習らしい。

私は仕事の手を止めて外に出た。
(セッションぢゃないよ!(笑))

マンションの端まで行くと、フェンス越しに保育園が見える。
マンションは保育園より少し高い場所にあって見下せるため、
その様子がよーく見えるのだ。
子供達に気付かれないように、笹薮の陰に隠れながら見ることにした。

年長の子供達が鼓笛隊の練習をしている。
演目は「ミッキーマウスのマーチ」と「おもちゃのチャチャチャ」らしい。

旗を持つんだよ、と話していたアンナを探した。
いた、いたいたーっ!おーっ、可愛いのぉ!
でっかい旗持ってるじゃないかーっ!いいぞ、いいぞーっ!
と親バカ全開。

太鼓下手なのかな〜、
それともしっかりしてて旗に抜擢されたのかな〜、
などと考えながらハラハラと見ていた。

子供達から生まれる時々バラバラな太鼓の音、
そして、揃っていない足並みで作る列、
でも、なんだかとっても胸が熱くなる。

遠くに見えるアンナは、
座布団でも十分に足りるくらい小さかったあの頃のアンナじゃなかった。
自分よりうんと大きな旗を、上げたり、下げたり、回したり。
すっごく上手だよ。
立派だよ。
おねえさんになったなぁ…

私は目頭が熱くなった。
「神様、ありがとう」って、
なんだかよくわからないけど、言いたい気持ちだった。

曲が終わった時、
私は思わずフェンスのこちらからパチパチと拍手をしてしまった。

…はっ!しまった!と思い、
さっと笹薮に身を隠し、こっそり家に戻ったのだった。

ママになってよかった。
なんでもない毎日がこんなに心揺さぶられるものだなんて、
小さな感動、小さな喜びの連続だなんて、
私はあなたを生むまで知らなかったんだよ。
ありがとう、アンナ。


2004年09月21日(火) お客様

辛いとか、悲しいとか、むかつくとか、
腹立つとか、憎いとか、恐いとか、
そういう感情を、みんないけない感情だと思ってる人が多い。

でも、いけなくないんだな。
それはただそこにあるだけ。

私達が悲しい時、自分がそれそのもののような気がするけど、
自分はただ自分であり、悲しみが訪れているだけ。
何かを恐れている時は、恐れが訪れているだけ。

感情はお客様。
それがどんなものであろうと、
「お、来たね、いらっしゃい」という部分を持っていれば、
もてなされたお客様はいつか去ってゆいく。

感情を「もてなす」というのは、
つまり、ただ感じてあげるということ。
それについて裁かず、
ただ「辛いな」とか、「寂しいな」とか、「恐いな」とか、
ひたすら感じていくこと。

その「もてなす」ということは、
決してガマンしていい顔をしていることではなく、
ありのままの気持ちをまっすぐに感じること。
そうしている間は、訪れている感情を体験するわけだから、
怒ったり、泣いたり、落ち込んだりするけれど、
それはそれでいい。

それは、まるで、朝になると明るくなること、
春になると花が咲くことくらい、
ごくごく自然なこと、当たり前のことだ。
自然なこと、当たり前のことを、操作しようとすると、
必ず何かが狂ってくるのは、
地球の環境問題を見ていても一目瞭然だろう。
それと同じ。

そして、お客様をもてなす、つまり、感情を感じることは、
とても恐ろしい行為に感じるかもしれない。

でも、実は、感情は私達を殺したりしない。
感じることをやめたり、それを否定したり、
「もてなさない」でいると、私達を脅かすものになる。
心で感じることをやめたり、否定したりしてしまうと、
感情は流れていくことができず、滞り、ずっと私達の中に居座る。
もてなされないもんだから、すねちゃうようなもんだ。
感情自体も流れていきたいのに、
こちらがそれを止めることになる。

感情はすごくリキッドな感じなのかもしれない。
水は流れている限り澄んで美しい。
けれど、淀むと濁り、やがては腐り、悪臭がしてくる。
それと同じだ。
感情も流れれば別段私達を真の意味で苦しめたりしない。
感情を感じず、その流れを滞らせるから、
私達はそれによって真に苦しくなるのだ。

わんわん泣いたらやたらスッキリすることがあると思うけど、
それはまさに感情が流れていくから。

訪れた悲しみという感情が、
私達に「感じる」という「もてなし」を受けて、
流れて去っていくから。
それを、泣くのをガマンし、強くならなくちゃ、
こんなことでくじけちゃいけないんだ、と、
悲しみという感情のお客様を否定してしまうと、
一見その克服に成功したように見えるけれど、
実は、流れずその場に滞った感情が積もり始める。
積もって、腐って悪臭を放つように、どんどん大きくなり、
やがてものすごいフラストレーションになる。
自覚のない不安や恐れ、悲しみみたいになって襲ってくる。

弱さを受け入れる強さ、
あらゆるお客様、つまり感情を直視する勇気、
それが、真の意味で、
私達をとても楽な場所へと連れていってくれる。

私達は感情を持つことはできても、
感情そのものになることはできない。
それを、感情が自分自身だという錯覚に陥る時、
身動きが取れなくなってしまうのだ。

私達は「感じる」という五感を与えられた、
自分という場所の主であり、
堂々とお客様を迎え入れ、送り出せばいい。

辛い気持ちに教われた時、
「こんにちわ、苦しいのはわかったよ」と、
心の中でその気持ちに言ってあげよう。
辛いままでいい、苦しいままでいい、
それをするだけで、主である自分とお客様である感情を、
別のものとして認識することが始まり、
だんだん今までとは違ったものが育ってくる。

それを始める時、私達は真の癒しに出会うと確信している。
そして、そこからしか始まることができないものがあるのだ。


2004年09月18日(土) ひとつのセオリー

好意を感じている人に、
怒りや嫌悪を感じるのは、離れていきたくなるのは、
相手が自分を見ていてくれないと感じて、
相手が自分の想い通りになってくれない、してくれないと感じて、
傷付くのが怖いから。

そばにいて、心を開いていると、
そのやわらかいところが傷付いて痛むから。

寂しくて、悲しくて、辛いから。

嫌って憎んでしまえば、心を開いている時より、
ずっとずっと楽だから。

人はそうやって自分を守る。
そして、自分を見失う。


2004年09月15日(水) 想念を見張る

私達は、ポジティブ、ネガティブ、両方の感情や思考を持っている。
そして、それは、とても普通なことであり、当たり前のことだ。

だから、想念を見張る。
自分が今どんな想念であるかを知り続ける。

そして、それがどんなものであろうと裁く必要はない。

ただ、自分がどんな想念を持つ人でありたいかを選ぶだけでいい。
無理矢理ポジティブになろうとせず、
ネガティブなものを十分に感じた後、ただ選べばいい。
自分の中にある、ポジティブ、ネガティブ、数多の感情と思考の中から、
最終的に自分はどれを自分のものとして選ぶのかを決めるのだ。

ネガティブになる自分を責める人がいる。
でも、責めなくてもいい。
人のネガティブな感情や思考は、
よほどの聖人でない限り、生きていればついて回る。
そして、それが悪いのではない。
陰陽表裏一体、ネガとポジは常に相反する要素として同時に存在し、
どちらか片方だけということがないように、
私達人間が持つ感情や思考にはネガとポジのどちらもあるのだ。

だから、その中のどれを自分のものとして選択するかが問題なのだ。
どれを選択し、どれを自分として表現するか、なのだ。
そして、選んで、選んだものになった自分が、自分になるのだ。

心地よいと感じ、選びたいと思うのは、
往々にして、怒りや悲しみの裏にある、学びや気付きへの感謝だ。
そして、自分の不安と恐れからの反応を越えて真実を見た時の喜びだ。
ネガティブの裏にあるポジティブだ。

だから、私は自分の想念を見張る。
それは苦行ではない。
むしろ楽しいものだ。
ネガティブな自分を発見し、そのネガティブの根源に出会い、
痛む部分に共鳴し、抱きしめ、
ネガティブがポジティブに変換される瞬間がたまらない。

だから、私は自分の想念を見張る。
自分の中心に帰るために。




書き終わって読み返し、
思った。

なんか、わかりにくい文章になっちまったよ。


2004年09月13日(月) 子の寝顔を見て

眠るアンナを見ていたら泣けてきた。
ものすごく愛おしくて泣けてきた。

小さな手。
こんな小さな手で、一生懸命色々なことをする。
ねんどをこねたり、絵を描いたり、お人形で遊んだりする。
私が疲れたら背中をさすり、私が泣いたら背中をとんとんする。
小さいんだ、本当に小さいんだ、子供の手って。
それでも、大人以上に、そんな手で何かをして、
一生懸命に毎日を生きてる。

代わりにこの身を削っても、たとえ死んでもいいと、
嘘偽りなく思ったのは、アンナを産んでからだ。

こんな想いが自分の中にあることを教えてくれたアンナ。

寝顔を見ていて涙が出るのは、悲しいからじゃない。
きっと私は愛を感じているのだと思う。
私がアンナを愛していると言うよりも、
アンナが私を無条件に愛してくれているのを感じて、
愛を教わっている、そんな感覚を覚える。

子供は常に多くを親に与えてくれる。
命の尊さや愛を教えてくれる小さな天使のような先生が、
空から舞い降りてきたみたいだ。

アンナと親子になれて、私は生まれてきてよかったと思った。
そして、生まれてきてくれてありがとう、って、アンナに伝えている。

アンナが成長して親が必要なくなる日まで、
私はずっとあなたのそばにいるよ。
そして、離れても、ずっとあなたを想っているよ。


2004年09月10日(金) 「戦わなければ恐怖は消えぬ」

「北斗の拳」は名セリフがいっぱい。
私が特に好きなのは、ラオウの、

「戦え、戦わなければ恐怖は消えぬ」

というセリフだ。

深いなー。

あれは世紀末の乱世という架空の物語だけど、
現実の私達にだって戦わなきゃならないことはある。

戦いと言っても人と傷付け合うことじゃない。
自分との戦いだ。
逃げてきたこと、妥協してきたこと、
あきらめたこと、臆してたこと、
そんなものに向かい合うという戦いかもしれない。

どんなものであれ、そこにある混沌としたものは、
向かい合い、挑み、取り組まない限り、そこに存在し続ける。
「戦わなければ恐怖は消えぬ」
自分を脅かすもの、蝕むものへの恐怖は、
それに向かい合い、なんらかのアクションを起こさない限り、
そのままそこに半永久的にあり続けるのだから。

けれど、戦っても、戦わなくても、いいんだと思う。
どちらを選ぶかは自由だ。
自分がどういうふうでありたいかで、決めればいい。

私なら輪郭のない不安や恐れに呑まれていくのはイヤだな。
呑まれて人を嫌いになったり憎み続けるのはイヤだな。
呑まれて自分の状況を最悪だとしか思えなくなるのはイヤだな。
それをぬぐい去るためになら、勇気振り絞って向かい合うよ。
そして、真実を探すよ。
とても怖いけれど。
じっと怖がっているより、そういう怖さの方がまだいい。

そうすれば、ラオウが言ったみたいに、
最終的に恐怖は消える。


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