おひさまの日記
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自分らしくあることについて考えていた。
自分と全然違うタイプの人がいて、
同じものに向かって同じことをしようとしている時、
アプローチの仕方、やり方、色々なこと、全然違うんだよね。
最近、そういうことがあって、それを肌で感じた。
そんな時、なんだか自分がすっごくダメなような気がした。
あの人みたいなのが、きっと、いいんだ、
あの人がきっとうまくいくんだ、
私じゃダメなんだ、って。
で、ミョーに引いちゃったり、いじけちゃったり。
そんな中に数日いて、思ったのは、
じゃあ、もし、自分が、
別のタイプの人と同じことをしたらどうよ?ってこと。
そんなに羨んで、自分を貶めるなら、相手を真似るのか?ってこと。
そこで出た結論は、
自分は自分らしく、相手とはやり方が違ってもいいじゃないか、
というものだった。
自分のスタイルでやってみて、ダメでもそれでいい。
もし、人真似してうまくいっても、それは自分じゃなくて、
すっごく無理すると思うのね、私のそのケースの場合。
で、それが続いたらつぶれちまうよ、と。
自分のありのままでぶつかっていって、
うまくいこうが、ダメだろうが、どっちだっていいじゃないか、
そう思ったんだよね。
私は私にしかなれない。
自分を高める努力は惜しまないにしても、
人のいい部分を自分に合うようにして取り入れたとしても、
自分を自分じゃない方向に無理して持ってくことは必要なくて、
自分が持ってるものを愛して活かせばいいと思った。
それでダメなら、それは、それ。
ダメになって失敗したり、何かを失うよりも、
自分を失うことの方が、ずっと、ずっと、恐ろしく、本当の意味で苦しい。
誰かの何かのすべてにはなれなくても、その一部にはなれる。
そして、その一部は求められるからそこにあるのであり、
その一部として最高に輝けばいいんだと思った。
ひとつの歯車がいっぱい集まって大きなものを動かしていくように、
すべてではなく、小さなひとつひとつ、一部一部が大切。
だから、その一部になればいい、そう思った。
歯車ひとつ欠けたって、大きなものは動かないんだから。
自分らしくあること。
自分を信じること。
自分を許すこと。
自分を愛すること。
自分らしくあろうと思った。
私は私でいいじゃないか。
肩の力が抜けて、スーッと楽になる自分がいた。
外出先から帰る車の中、アンナは眠ってしまった。
駐車場に着き、アンナは起きたものの、
あまりの眠気にゆらゆらしているので、おんぶして部屋まで戻った。
家に入り、ベッドにそぉっと下ろしてやると、アンナは言った。
「ママ、おぶってくれてありがとう」
私は当たり前のことをしただけなのに、
アンナがくれた言葉、「ありがとう」。
私の中に、なんだかよくわからないけれど、ものすごい衝撃が走った。
そして、目頭が熱くなった。
それは、私の魂の奥にまで届いたかのような、
心が震える不思議な感覚だった。
ふっくらしたほっぺにちゅーして、
彼女が眠りに落ちるのを見ていた。
ありがとうって、スゴイ言葉だな…って思った。
そんなこと言われるなんて思ってもおらず、
ましてや、言われるためにしたのでもなく、
そこに飛び込んできた「ありがとう」。
子供の心は純粋だな。
「ありがとう」、
人を幸せな気持ちにする言葉。
いっぱい使いたいと思った。
2004年08月27日(金) |
意図的に気付くということ |
ある友達とやりとりをして、私は内心おもしろくなかった。
それは、くだらないっちゃくだらないことなんだけど、
彼女に見下されたように感じたのだった。
ま、勝手にね、そう思ったんだけど。
何言ってんの!?みたいに扱われたように感じたのね。
私はだんだんイライラしてきた。
そして、彼女がにくらしく思えてきた。
でも、それと同時に、自分の言動が彼女をそうさせたのかと思うと、
それなら、そういうことを言ってしまってごめんね、と、
伝えたい気持ちになった。
怒りを感じている私と、謝りたい私。
ふたりの私。
私は自分を感じてみた。
怒りの下には必ず悲しみや寂しさがある。
これはもう法則みたいなもんで間違いない。
私の怒りの下には、
「見下された(ように感じた)、バカにされた(ように感じた)、
お前はダメだと言われた(ように感じた)、
お前はしょせんその程度と言われた(ように感じた)」
そんな想いが潜んでいることに気付いた。
それは悲しみだった。
そして、そう思われている(と感じている)自分への罪悪感。
そう思われるようなことをしてしまう自分への蔑み。
だから私は否定されるんだ、という痛み。
自分の言動のよしあしにかかわらず、
謝って許してもらおう、受け入れてもらおうという悲痛な衝動。
そんなものに気付いた。
私の場合、これは意図的な気付きだ。
ただ感情に浸っているだけでは気付けなかったと思う。
感じることが大切、とは言うけれど、
こういう時、私は頭で考える。
人の心や意識はこうなってこう動く、
感情はこうなってこういうふうに表れる、
だから私は今こういう気持ちなんだな、って結論に辿り着く。
学んできたそういう知識を総動員するのだ。
そして、辿り着いた結論を自分に当てはめてみると、
「そうだよ、そうなんだよ」と、
ちゃんと心が納得してくれるので、
もっと具体的に言うと、怒りの中にが悲しみが出てくる。
そして、ああ、悲しいよぅ、寂しいよぅ、
そんなこと言わないでよぅ、そんなふうに扱わないでよぅ、
そんな心の叫びを感じることができる。
頭で考えること、心で感じること、それを組み合わせてやっていく。
それが意図的に気付くということだ。
私は、怒りも、自虐的な気持ちも、
どちらも真実ではなく、
ただ単に、友達にそういう態度をされたと感じて悲しかったのだと気付いた。
インナーチャイルドの嘆きだ。
小さい頃、おとたまとおかたまとの間で起こった痛い出来事の再現だ。
だから、そういう痛みの観点でコミュニケーションしようと決めた。
癒しを進めながら、現実の生活で機能していくために、
それはとても必要なことだ。
だから、ただただ受動的に癒されるだけでなく、
やがては知恵になっていく知識を持つべく学ぶことも大切なのだ。
それも、学校に行ったり、難しい本を読むのではなく、
精神的に成熟している人の話を聞いたりするだけだっていい。
明らかに勉強という形を取らなくても、
興味のあることは自然に自分の中に入っていくものだし。
どんな形にせよ、理論で構築されたものを得ていくのは重要だと思う。
意図的な気付き、それが自発的にできるようになると、
実生活の中での人間関係がスムーズになる。
人間だから感情は動くけれど、
その感情の本質を知って言動を決めていくことができるようになる。
それだけだって生きるのはかなり楽になる。
人としての成長も起こる。
で、私と友達はどうなったかと言うと、
「なんか私ヘンなこと言ったかな?
自分で後から○○と○○がいけなかったと感じちゃったんだ」
と、自分から伝えてみた。
すると、彼女はまったくそういうつもりはなく、
私が言ったことはまったくその通りだと思っていて、
冷たく感じた態度は、眠かったから、というのが結論だった(笑)
彼女は返ってすまないと私に謝った。
私の怒り自虐的な気持ちは消え、
彼女への申し訳なさでいっぱいになった。
心の中で「ゴメン」って彼女に謝った。
意図的な気付きをしなかったら、
心の中にしこりを残したまま、友達と距離を置いていたと思う。
しかも「あの子ってさ、結構キツいんだよねぇ」なんて全くの主観で、
ひょっとしたら誰かに噂してしまっていたかもしれない。
あ〜、自分の真実に戻れてよかったっす、
と、しみじみ思ったのだった。
こういうある種のワザを身につけられたのは、
やはり、心理学やセラピーを学んだからなんだと思う。
そして、これは、セラピストだけじゃなく、誰だってできることなのだ。
堅苦しいことは言わない。
誰かに怒りを感じたら、嫌いだと思ったら、
自分はその人に傷付けられないように防御をしているのだと思ってほしい。
そして、その怒りや嫌悪の下には、悲しみや寂しさが渦巻いているのだ。
それらが過剰に反応して、
悪くない相手まで悪者にしてしまうこともあるのだ。
だからこそ、そんな自分に気付いてあげて、
そんな自分のために、実生活で動いてあげるのだ。
自分にとっての大切なものを失わないためにも、
そして、何より、自分の心の健康のためにも、
意図的な気付きを習慣にしてみると、結構、人生楽しい。
苦しい気持ちも乗り越えやすい。
眠いので文章がしっちゃかめっちゃかかも…
2004年08月21日(土) |
「ママ、どうしてあの子はお指がないの?」 |
昨日行った近所のお風呂屋さんでアンナにお友達ができた。
子供っていいね。
すぐ友達になっちゃう。
アンナと年も一緒の人懐っこい可愛い子だった。
ふたりは相当ウマが合うらしく、ずっと楽しそうに遊んでいた。
その子は、ママとおばあちゃんと一緒だったので、
私はママとおばあちゃんと色々話していた。
その子は生まれつき左手の指が2本しかないのだそうだ。
気付かなかったけれど、言われて見て見ると、親指と小指しかない。
その子のママは、それでずっと苦しんできたと話す。
来年小学校に上がることで、間違いなくあるであろう、
周囲からの心ない中傷をとても心配していた。
保育園でもそんなことがあり、やめさせてしまったと彼女は言った。
私はただ黙って聞いていた。
お風呂上がりにみんなでかき氷を食べようということになって、
脱衣所に戻った時、
アンナは初めてその子に指がないことに気付いた。
「どうしたの?
おてて、どうしたの?」
その子はにっこり答えた。
「指ないんだよ」
アンナは涙ぐんで私のところに走ってきた。
「ママ、どうしてあの子はお指がないの?」
私はアンナにこう言った。
「あの子は生まれたときからお指がないんだよ。
そういう子も世の中にはいっぱいいるんだよ。
お指がなかったり、おててや足がない子もいるんだよ。
おめめが見えない子もいるんだよ」
アンナは今にも泣き出しそうだった。
「かわいそう…」
「アンナはかわいそうだと思うんだね。
あの子は生まれた時からお指がないから、
それが自分だと思っているんだよ。
もし、アンナにお指がなかったらアンナじゃなくなっちゃう?」
「ううん、なくならない」
「でしょう?
あの子もそうなんだよ。
お指があってもなくても、あの子なんだよ。
アンナはあの子が好き?」
「うん、好き」
「じゃあ、お指のない、ありのままのあの子を好きでいてね」
「うん!」
アンナは力強くうなずくと、その子の方へ走って行った。
子供達は、さっきまでのように楽しそうに遊んだ。
私は、自分の説明がそれでよかったのかどうかわからない。
けれど、アンナは、ひとつ新しい世界を見たのだ。
これから、もっともっと、未知の世界を見ていくのだろう。
そうして心揺さぶり、成長していくのだろう。
その時私はよき母であれますように…そう願うのだった。
ふたりは、同じイチゴ味のかき氷をおいしそうに食べていた。
頭では、何が正しいのか、何をすべきなのか、
すべてわかってるのに、それとは裏腹に、
身動きが取れなくなるほど落ちて、
大切なものさえも大切にできなくなる時、
私はスイッチを探す。
アンナにお小言を言って、私も彼女も、ふたりどよーんとしていたのだ。
ふたりで、なんか今日はすごく悲しい気持ちだよね、って話してた。
怒った方と、怒られた方、どっちもどんよりだ。
だから一緒に楽しくなれること探そうよ、って話し合って、
ふたりで今したら楽しくなれることを言いっこした。
でも、ふたりのしたいことは一致しなかった。
そこで、またふたりでどよーんとした。
しばらく、同じ家の中で、ふたりとも喋らず、
あっちとこっちでボケーッとしていた。
で、なんとなく思い立ち、お風呂屋さんに行った。
このまま家にいちゃいかんなぁ、と思って。
体洗って、隣の人と喋ったりなんかして、
アンナはよその子と友達になって遊んで、
私はウチとは比べモノにならないくらい広いお風呂に入って、
ボケーッとして、気持ちイイな…なんて考えて。
気がついたら、私はちょっと元気になっていた。
アンナにも笑顔が戻った。
リセット。
今日のスイッチはお風呂屋さん。
自分がハマってしまっている世界を切り替えていくスイッチ。
時にはそれが、ジムだったり、散歩だったり、
クロスワードバズルだったり、昼寝だったり、
おいしいものを食べに行くことだったり、色々。
自分を突き落とすものは依然としてそこにあっても、
心の居場所を変えることはできる。
逃げるんじゃなく、
感情に振り回されてフリーズしてしまうところからそっと離れて、
それをちゃんと見るために、
そんな時、私はいつもスイッチを探す。
ありきたりな、どこにでもあるような、
でも、自分を切り替えてくれるものを。
昔、本で読んだなぁ。
どうにも苦しくなった時には、マラソンでもしてください、って。
そう言われたときは「へ?」って思ったけど、
今はその意味がスゴくよくわかる。
私がセッションをしている時以外は、
家事か、寝てるか、Macをいじってるかのいずれかだ。
仕事も兼ねているので、Macにかじりついている時間はかなり長い。
今日、セッションを終えてリビングに戻ると、
ころんと床に転がって、すやすや眠っているアンナを見つけた。
仕事する私を待ちくたびれて、眠ってしまったようだ。
そんなアンナを見て、なんだか不憫になってしまった。
私は仕事とか家事とか、そういう大義名分の元、
アンナとの時間を放棄してるんじゃないかと思った。
本当は、空き時間を、アンナと過ごす時間に充てられるはずなのに、
ついつい自分のことばかり優先しているのではないかと思った。
今日、アンナは、朝から一歩も外に出ていなかった。
出不精な私のせいでインドア派に育ってしまい、
おうちで遊ぶのが好きだと言うのだ。
でも、私はわかっている。
アンナは本当は外で遊ぶのが大好きなのだ。
けれど、私があまり率先して外に連れ出さないものだから、
家で遊ぶことが必然的に多くなってしまい、
アンナ自身もそういうものだと思ってしまっているのかもしれない。
これじゃいけないと感じた。
今、私にできることはなんだろう、って考えた。
そして、思った。
一緒に楽しんでできる何かを見つけよう、って。
私がアンナと何かを一緒にしないのは、
自分があまり楽しくないからなのだ。
やりたくなかったり、楽しめなかったりすることをずっと続けるのは辛い。
お絵描きや人形遊びを一緒にやっても、あまり楽しめない私は持久力がない。
5分もするとこちらが飽きてしまう。
だから、私も楽しければ一緒にずっと何かできるなぁ、って、
そういうものを見つけようって、思った。
そんな時ふと浮かんだのが、インラインスケートだった。
私が小さい頃はローラースケートだったな〜。
大好きでよく道で滑ってたっけ。
だから、インラインスケートなら一緒にできそうだな、って思って、
寝ているアンナを起こすと、トイザラスに走った。
そして、子供用のインラインスケートとヘルメット、プロテクターを買い、
その足で公園に行った。
アンナは大喜びだった。
決して機敏な方じゃないんだけど、私につかまり、
よろよろしながら飽きずにずっと滑っている。
ね。
やっぱり外で遊ぶのは楽しんだよね。
ただ単に、ママが外に連れ出さなかったから、
自分でもおうちがいいと思い込んでたんだよね。
自分から友達を誘って遊ぶタイプでもないのは、
ひとりっこなことと、そういう所からも来てるのかもしれない。
しばらく滑った後、自動販売機でジュースを買って一緒に飲んだ。
薄暗くなり始めた公園で、
汗をかいた私達にひんやりしたジュースがおいしかった。
また一緒にスケートやろうね、って約束した。
私はとっても楽しかったし嬉しかった。
ほんのちょっとは親らしいことしてやれたろうかと考えた。
一緒に楽しく過ごす、たったそれだけのことなんだけど、
大切なことなのだと思う。
なんとなく思い出す。
親と一緒に何かしてすごく楽しかった時、私はとっても嬉しかった。
昔は親とのいい思い出なんてないと思ってたんだけど、
癒しを進めるうちに、そういう思い出もいっぱい出てきた。
凧あげとか、あやとりとか、したっけなぁ。
親が一緒になって楽しそうに何かしてくれると、
私もとっても嬉しかったけなぁ。
そういうことはほとんどなかったけど、
記憶のかけらにあるわずかなそんな楽しい時間の思い出は、
私の宝物だなぁ。
なんだか生き急いでいる大人達。
慌ただしく過ごす大人達。
忙しいと言って何かを置き去りにする大人達。
立ち止まって、手を止めて、しゃがんでみると、
そこには私達が昔欲しかったものがいっぱい転がっていて、
それを自分の子供に与える時、受け取った子供の笑顔が、私達に、
昔欲しくて手に入らなかったものを与えてくれる。
今、私にできること。
それは、今しかないこの時間を大切にすること。
愛する子供に二度と巡って来ない時間、
そこにできる限り楽しい思い出を詰め込んでいくこと。
それは、時に、仕事よりも、家事よりも、何よりも、
大切な、大切な、ことなんだと思う。
それに心を砕いていこうと、改めて思うのだった。
次は竹馬を買って一緒にやる予定。
ちなみにアンナは「竹馬」を「竹やぶ」と呼んでいる。
2004年08月12日(木) |
本当の目的、本来の場所 |
近所の霊堂のお祭りが近い。
毎年、近所の子供達が山車を引く。
アンナも参加したことがある。
今年もそのお祭りが近づいてきた。
アンナに今年も山車を引くか聞いてみた。
すると、「やりたくない」と答えた。
私は内心焦った。
近所の子供達みんながやるのに、
ウチだけやらないのもどうだろう?
近所のお母さん達とのいいコミュニケーションの場でもあるのに、
参加しなかったら出遅れちゃうかも…
そんな、不安だの、恐れだの、心を揺らすものが、
自分の中に吹き出していることに気付く。
そして気付いた。
私は、アンナのために山車を引かせるんじゃなく、
自分のメンツや、アンナのこれからの人間関係のために、
山車を引かせたいと思ってたんだって。
なんか違うと思った。
そして、そういうんじゃなく、純粋に、
暑くて辛いけど頑張った後の充実感とか、
そういうのを体験してほしいなぁって思い直した。
アンナには、
昔、暑くて辛い中頑張って引いて気持ちよかったこと、
そんなことを交えながら、
ママとしては、人として、沢山のお友達の中でこういう体験をして、
色々なことを感じていってほしいと思ってる、
そう伝えて、その上で彼女に決めさせようと思う。
うっかり本当の目的を見失うところだった。
私が身を置きたいのは、不安や恐れに満ちた場所じゃない。
私達人間の体験の本当の目的は、
その場その場での学びであり、自己成長そのものだ。
そして、私の心ひとつで、
その成長の機会をアンナから奪ってしまうところだった。
冒頭の私のように、何かのコントロールや操作、
つまり、近所のお母さん達への体裁、
今度小学校に上がるアンナの人間関係への杞憂、
そんな不安や恐れに思っていることを回避するための策略、
そんなものが目的になっているのは、何かが違う。
歪みが生じる。
よくよく考えると、人はきっと度々本当の目的を見失う生き物だと思う。
不安や恐れを持つ限り。
けれど、道を過った時、軌道修正できるのも人間だ。
不安や恐れは真実の眼を曇らす。
私達は、元々神と同じ真実の眼を持っている。
心の一番奥にあるその眼をしっかりと見開いていたい。
自分達が生きる本当の目的を見失わないでいたい。
弱いから、時に見失っても、
また、本当の目的、本来の場所に戻れる自分でありたい。
2004年08月08日(日) |
ある意味デジタルな人生 |
私は時々昔を振り返る。
昔を振り返って思う。
人生って、綿密に計算されたかのように、
ある意味、デジタルな感じなんだなぁ、って。
それはどんな感じなのかと言うと、
プログラミングされているものが、
しっかりとその通りに動いている感じとでも言おうか。
生まれてから今この瞬間まで、
その時、その時、起こった何かはそれだけのものでしかなくて、
辛かったり、悲惨だったり、楽しかったり、幸せだったり色々だけど、
とにかくそれだけでしかなくて、
でも、遠い未来へ届くタイムカプセルみたいで、
後になって、たくさんの出来事や体験が生み出すものだったりする。
そして、もうひとつ言えば、
それらは完璧なタイミングで訪れる。
コンピューターで言えば、
決められた時に決められたプログラムが起動するような、そんな感じ。
そして、その決められた時というのも、
マシン<つまり私達>の状況によって、ちゃんと前後したりする。
前後して、完璧なタイミングで起動し、
そのプログラムで実行されるべきことが行われる。
そしてね、プログラムと言っても、
寸分の狂いもなくすべてが決められたものかと言うと、そうでもない。
インタラクティブムービーみたいに、いくつもの展開や結末があって、
折々の選択により人生の流れが変わっていく。
私自身のことで話してみるとこうなる。
小さい頃、父親の暴力がひどくて、
母親はそのストレスでうまく私を愛せなくて、
(今思えば、2人とも私を深く深く愛してくれていたし、
ただ不器用で、心の底では彼等こそが苦しんでいたとわかるけれど)
まず、トラウマのベースができ上がる。
で、そのトラウマ作用で人生に苦しいパターンが押し寄せる。
それが20代後半まで怒濤のごとく続き、やがてセラピーに出会う。
そして、失ってしまった自分探しと、癒しが始まる。
そこで初めて魂の作業として人生を見つめることを知り、
生きるということに対して大きく視点が変わる。
自らもセラピストとなる。
これ、子供の頃のトラウマがなかったら、絶対にあり得なかったことだ。
流れ的に、すっごくつながってるのを感じる。
今じゃ、セラピストという仕事がとても好きでやりがいを感じている私は、
父ちゃん、母ちゃん、トラウマをありがとう!って気持ちだもん。
トラウマからの辛さはそれはそれだし、今もとっても苦しいし、
でも、それはそれ、別モンで、
やっぱり、トラウマをありがとう!って思う。
しつこいが、苦しいのはイヤだけど。
癒しが始まったら、これまた巧妙。
最初のテーマ、父親との関係に向かい合う。
それをセラピーしていくうちに、
あんなに慕って大好きだった母親としっくりいかない何かを感じ始める。
やがて、父がホームに入所し、父と何のいさかいもなくなると、
今度は一気に母親とのテーマが浮上する。
ちゃーんと段階があるのだ。
最初これやって、次これね、みたいな。
準備されていたかのように、ひとつ終わったら、また次って感じで。
大枠で書いたけど、
人生折々のもっと細かいことすべてにそういうことを感じるよ。
出会った人達、折々の出来事、やってきた仕事、
もっと細かく言えば、日々の体験すべて、そのものに。
時々、これ、絶対誰かが後ろで糸引いてる!って思うもん。
そう思うくらい巧妙でうまくできてる。
まさにデジタルな感じ。
カチカチとプログラムが正しく作動しているかのように。
で、じゃあ、その後ろで糸を引く誰かってのは誰かって言うと、
私達の魂なのだ。
そして、私達を愛してやまない大きな存在や宇宙の摂理なのだと思う。
なのだ、なんて断言してるけど、
魂や大きな存在ってのは見たことないんだけどね。
でも、生きてることで魂や大きな存在が間違いなくあると感じられるので、
そう表現してみた。
宇宙っていう神様のホストコンピューターがあって、
その端末に人生っていう私達のコンピューターがあって、
ウイルスみたいに気付かないうちに色々なデータが入ってきて、
絶対に駆除できない、そんな感じなのね(笑)
そのデータにサポートされた魂は、
生まれる場所を選んで生まれ落ち、
正々堂々と傷付き、苦しみ、人生を構築し始める。
自動的に入り込んで来るデータは、
一瞬悪質なウイルスみたいだけど、実はとても大切なデータだし、
ホストコンピューターからの指示は絶対なのね。
そして、それは、長いプロセスをかけないと解明できない、
なんともじれったいプログラムなのだ。
だから上にも書いたように、
生まれてから今この瞬間まで、
その時、その時、起こった何かはそれだけのものでしかない。
それをつなぎ合わせて振り返るくらいの長さになってからじゃないと、
全貌が見えてこないし、見ちゃいけない、そんな感じ。
だから、人は長く生きれば生きるほど面白いんだと思う。
あまりにデジタルなものとは懸け離れているような人の人生が、
実は、巧みに仕組まれているものなのかもしれない。
魂という操り手の元、私達は地球で人生というダンスを踊るのかもしれない。
ボケーッと自分の人生振り返ると、そんなことを思う。
大人になった私達には、
やり残したことがあるのだと思う。
子供の頃、やらなかったこと、やれなかったこと、
それがとても心残りなこと、
そんなことがあるのだと思う。
私は、小さい頃、だだをこねなかった。
それが私のやり残したことだったみたい。
そして、だだをこねられなかったことさえ覚えていなかった。
だだのこね方もわからなかった。
中島先生のセッションを受けて、
そんなものがわぁーって出てきて。
けれど、無意識の奥の方では、
それが心残りで、満たされなくて、心が痛んで、
私は、それを、別の形に変換し、
大人になって表現していた。
それは、母に対しての怒りだった。
言い様のない怒り。
本当はどうでもいいことに難癖をつけて怒りたくなるのだ。
そして、母に向く怒りと同じ怒りを、
アンナにも投影して向けていたのだと思う。
私のやり残し。
だだこね。
暴力的な父と、その父に疲れ果てていた母との間で、
私は自分の声を届けることをするのをやめてしまっていた。
本当の気持ちを表現するということを知らずに育ってしまった。
いつも親から見たいい子だった。
だから、やってこられなかった。
だだこねを。
私はそのやり残しを、いつまでも、いつまでも、
それがなんだかよくわからないまま、
大人になってもやり続けてきた。
感情の暴走という形で、やり続けてきた。
だから、好きで大切なのに、時に、憎くて、腹が立って、
近づきたいのに、近づくと、なんだか不快になってみたり。
そんな感覚を持っていた。
本当は、だだをこねたかったんだ。
イヤだ、イヤだ、って、
お母さんなんか嫌い、って、
だだこねしたかったんだ。
うるさいだの、くそばばぁだの、バカ野郎だの、
頭おかしいだの、ダサイだの、トロいだの、
本当はどうでもいいことに、いちいち反応して腹を立てて、
悪態ついて、暴れて、すねて、ひねて、じたばたして…
そういうことをしたかったんだ。
子供のひとつの表現方法として。
きっと、私だけじゃない。
みんなにあると思うんだ、やり残しが。
子供の頃したかったこと、言いたかったこと、
でも、できなかった、言えなかったこと、
だから満たされない心を埋めたくて、
きっと、私達は、大人になってもそれを繰り返すんだ。
大人になったなりの、色々な形にして。
みんなのやり残しは何?
どんなことしたかったの?
それができなくて満たされてこなかったそれを、
今、何をすることで、埋めようとしてるの?
今からでも、それを見つけてられるといいね。
それを見つけることが、自分自身のひとつの鍵でもある。
そして、辿り着ける。
その下にある、色々な感情のいちばん奥底にある、本当の気持ちに。
アンナが絵を描いて色を塗った。
ある部分を差し、
「ここは『おうどん色』なんだよ」
と言う。
「うどん?」
「うん、おうどん」
うどん!?
うどんってことは白!?
でも、指差した先は、なんだか黄色いような、薄茶色いような…
母はそれが黄土(おうど)色だったことに、
すぐさま気付いた。
ひーっ、今日も腹痛ぇ。
追記:子供と話す時、ついつい何にでも「お」を付けてしまう親が多いと聞く。
私もそのひとりで、おうどんをはじめ、
おそうめん、おなす、おなっとう、おのり、
おゆび、おくび(しかも最後に「ちゃん」が付く)、おまた、おわき。
ポイントは、つけなくてもいいものに、
あえて「お」を付けてしまうことだな。