あたりまえに笑って怒っての下書き用スペース
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中間の無い(という病質) …リズム・流れ、具体的プロセスに欠けがち
…脳内にBADトリッパーとGOODトリッパー(リセット・リフレッシュ、労働力再生産)という両極しかなく中間=具体性に乏しくなりがちなオタク気質について。
日常性(メインストリーム)と非・日常(サブ、周縁)の、それぞれの100%の無さを活かし共存をはかる社会?
みうらじゅんさんか誰かだかが、ガロ誌上で、 「だからガロはピースな気○がい」 「気○がいといっても人に危害を加えるようなアブない人もいる」 みたいな発言をしてた。
その発言を思いだして「ピースなダメ人間」像なんてことを、ちょっと思った。
http://d.hatena.ne.jp/yoshimoe/
・感情表現のデザイン
・生きてるんだったら、ガラリと変えられないまでも、少しづつ考えかた感じかたのバランス感覚をよりイイほうへ更新していく。
・できうる限りのセルアウト(軌道修正)はしたい年頃。
・自分の気持ち(欲求・願望)のかたちづくり …世界には意味がなく無根拠だとしても、そこからゆかざるをえない。
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・内向・分裂的(自分の内向きの好み、願望にばかり頭をとられる)
・信念 ・評価 …「他人との相対性」
…その他人も100%完璧な存在ではないとしても (だったらそんなもん「大人」だと思わなければよろしい)
・「絶対に正当な人間(妄想)」なんているわけがない。 …プロセス、過程、時間、流れ、手間、面倒という回路が度外視されてしまっている発想では。
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・メモ=外部記憶装置 …余計なことを憶えておいてくれるものがあれば、そのぶん(脳)を別のことに使えるので。
2007年01月21日(日) |
読書メモ・アイデアメモ |
・だから「失恋」という事態は、人からは「べつにどうってことないのに」と思えるようなものなのに、耐えがたく、とんでもなくつらい。
・「恋」というものは、自分だけの特別
・自分の内の欲求は、自分には「切実」であっても、相手や第三者には「くだらない」ことであるケースが多々ありうる。
…そんなそれぞれの違いを認めたり諦めたりときに蔑み茶化したり
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・他人の存在、他人の基準 …スイッチの入る瞬間、気づき
・「自分の中にそういう自分もいるんだ」(病んでる自分、くすぶってる自分、舞いあがっている自分、他人の視点に思いを馳せる自分)
・自分の性質(性格)の悪さ
・他人の入り込むゆとり・スキマをつくる。(面倒、労力、プロセス、時間、流れ)(エディット、寸止め)
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・無頓着
・関心の方向、キャパシティー、アンテナのはり方
■ 考察のための知恵を語ることばというのは、完成型ではなく、 常に未熟でほころびが生じうるもの。 現実の個別の具体や場の流れそのものとのズレ=論破の機会が常に起こりうる 性 質のもの。
2007年01月17日(水) |
アイデアメモ・読書メモ |
時間の経過による変化 自分の欲・願望の形の形づき
引き算型の「捨てる」思考
■ 「気まずさ」や「さびしさ」というプロセス
わかってない未熟さゆえおこる失敗
警戒心、マイナス思考(分裂的)、トラウマ …対人間コミュニケーションの否定(非から反への移行)
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正しくもなく、間違ってもなく
・メインの道すじ(世の回転により浸透しうる)を踏み外し ・生き残り
オルタナティブなサロン・サークル
・(各々の)大きな不幸の存在 モチベーションの乏しさ、不適応を覚える
・自分の好み(視点)
他人の好み(視点)
(各々の相手の)されたくないこと(を視野に入れる想像力)…過剰にムダにガンバリすぎて自爆する、とか。
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・格差(個性・弱点・キャラ)を認め合う社会? (…「適材適所」?)
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・たんたんとした良い関係を紡ぐ …「時間をかけて」プロセス
・リラックス(できる自分の中の状態づくり) … ゆとりのつくりかた
・ネガティブさ(の位置付け・整理)
・音楽をはじめとするアート的な表現は、人のうちの過剰な感情を、そのまま過剰なものとして整理することなく表出し作品として提示しうる範疇の表現法でありうるといわれる。
でも、現実は、人のうちの過剰な感情が存在しても、それはそれとして認めつつも、実際の場面ではその過剰さを整理なり、なだめなりしつつ、淡々と関係を紡ぐプロセスとなる時間の流れで進む必要がある場面も多々ありうるわけで。
読書よる文章の断片をはじめとする、人の発する言葉は、そのプロセスを紡ぐゆとりの一端・きっかけとしても、本来は機能するべきではあるのでしょうけれども。
(むろん、言葉が意図せずして、相手の見えない視点での一人相撲の空回りに結びついてしまう逆機能してしまう可能性もありつつも)
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・センスの弱さ、スキルの弱さをおぎなう方策(意識)
時間の経過 自分の変化
経験の乏しさによる世間知らず=場の読めない自意識の空まわりっぷり
…臆病を直す、バカを直す?
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・書痴、オタクというジャンキー …病人に向かって病気だと「指摘するだけ」では事態は何ら変わらない。→「病質を認めた」上でのバランス観の整理、とか。
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相手が内に「いろんな側面」を持っていることを自分に見せてくれるならば、 自分も内に「いろんな側面」があることを出すことができる?
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・アニマ…自分の中の「相手の持ってるこういう要素が、自分は欲しいんだ」という欲求であり「願望」
2007年01月14日(日) |
ノイズミュージック・歌舞伎・アマチュアの手によるパーティーミュージック |
・ノイズミュージック 既存の型を崩す試みをポップサウンドに組み込む
ポップサウンド… リスナー=他者の暮らしの一部分(感性)の介在する間やスペースを含みうる上がりのもの
・歌舞伎 アンモラルの極みの創作も、見せ方の工夫によってはお茶の間になじみうる
・アマチュアの手によるパーティーミュージック セオリーより意欲が先行した営みが、場数(経験数?)の裏付けだかなにかで、 伝播力を持ちうる。
…創意工夫の欠けた単なる声は、伝播力の乏しさに甘んじうるをえない。
・自分の中の自分のいろんな側面が在ることを認知する機会
・世界の無根拠性、だからこそ甲斐を自由に見つけてゆこうかという在り方
■ ・TPO、空気を読む力・ゆとり
・自分の弱さ、クセ
・自分の弱点・長所を他者を比較し判断できうる材料をえるような場に身を置く機会の積み重ね、経験値。
■ たとえば、「恋のラブコメ妄想」は「恋のラブコメ」妄想としてありうるものだとしても、それと違う「現実の状態・ありよう」というものが、まずはあって、 ではお互いに(たしかに)存在してしまう「その類の妄想・願望」と「まずはある現実」との偏差をひも解こうとする。
「妄想・願望」の時間は時間として大切なものとして、 その反面の冷静さや淡々とした関係を築こうとするプロセスの時間づくりについて。
■ ・自分の弱点=個性の認識
・時間の経過、ゆとり、ふかん
・内向的なインプットぐせ
・外向への意識、スキルに気が回らない 引っ込み思案・不器用
・「したい、したい」から思考のプロセスをはじめ、自分の力・器の到らなさの認識へ
(そこから、お互いの長所を伸ばそうとする動機づけのほうへ)
・生活スケジュール法
・不要物(サブカル的)へのこだわり・・・時間による意識の変動(整理の方へ)
・意識の凝り〜身体の筋の凝りを伸ばすための意識づけ
■ 「ちゃんとしたオタクになる」「ちゃんとしてないオタクにとどまる」
そのいずれにしろ、大事なのは、その外のことをも考えに入れられる視野のクリアさであり、 その外側のことをこなせるスキル・能力・技能であるのならば、 それができていないという、臆病さ・不器用さ・引っ込み思案ぷりを、まずは認知して踏まえておくべきではと。
■ 学校教育やらプロパガンダやらコマーシャルやらが提示するタテマエ的な価値観
その価値観から、ある種の人はどれだけ距離を適度にとれるか、ある種の人はどれだけ過度にのめり込みがちになるか
2007年01月06日(土) |
(下書き)Snowflakeならこんな新年をどんなふうに歌うだろう |
2007年はラブソングの狂気と獣性と、それと同時に醒めた視点をも感じとろうとする年にしよう。
と、今日は思ったけど、3ヵ月後、半年後、359日後にどう思っているかは分かりませんなあ。
先日、松本亀吉さんのご好意によってmilk teensのCDRを頂きました。 ありがとうございます。
このmilk teensというユニットは、亀吉さんによる宅録実験ヒップホップユニットで、「好きなレコードの可愛いフレーズを記録して」編集製作したトラックの上にボソボソ呟くような亀吉さんのラップ・の・ようなものが乗るという構成。
一聴し私的にはキミドリやオーディオスポーツという日本のヒップホップ史に名を残すユニットが浮かんで消えたものの、ヒップホップというにはブロックパーティー感や4エレメンツやライミングというマナー=重力から完全に解き放たれている。
こんな僕でもときには友人の勧めなどで日本のアングラヒップホップに耳を通し、 「こういうのはカッコイイなあ」と感じることもあるのだが、 だからといって悪そうな香具師らは友達でもなんでもないし、 そういった文化の重力圏-黒いグルーブやらバトル=パーティー感からほぼ完全にぶっちぎれた私的で個的でちょい可愛ローファイソウルゆえにヒップホップじゃねえよと判定されても、ああオレB-BOYじゃなくて良かったという感じで、 これがヒップホップじゃないなら、それはそれで面白いじゃん! いや、このマナー=重力圏から逸脱まみれの私的で個的でレペゼンというには熱苦しくないフックを放つ世界観をも許容し生みだしえたヒップホップはやはり偉大なカルチャーなのだろうかしらん。。
さてこのCDRの感想を綴りたいのですが、 「1986」の叙情と客観と恨み節のトライアングルから義務教育の限界とそこからのオルタナティブな可能性に思いを馳せたり、 「カーネーション」の日常へのまなざし(複数解釈)の可能性の問いかけ(サビのフレーズはパラダイスガラージ豊田道倫氏も引用していた)から、(I LIVE FOR)CARS AND GIRLSならぬ「女の子(どんな娘が可愛いか、など)」と「怒り(陰口)」というテーマやら、「自分は男だとしった、君といてしった。君は女だと分かった、時間がたってわかった」というモチーフが従来の思想史には希薄だとしてもしようがないとしても、それがフォローできないのはそんな程度のものだと踏まえておいたほうがいいような気がしないでもないなどと、感想どころかとりとめのない独白になってしまいがちですが、このあたりのことは後日時間があれば書いてみたり公表したりしなかったりかもであります。
明日は18時半よりSnowflakeの新曲披露ライブがL@N赤坂にておこなわれるということで、ちょっと楽しみで行ければなあと思っています。
明日も仕事なので、夕方の職場を抜け出す機やその後の移動はちょい必死ぎみの行動になりそうですねん。
■ 14:34 性(恋)とは、個(自我)の崩壊であるという。
それはインテリ=ヲタク特有の「ものごと秩序だてて捉えたい願望(嘘パーフェクトな理論)」から反れるベクトルの感情だからだろう。
メジャーの意識を把握する健全な視野がなければ、とんでもないババを掴むことにもなりかえないというが、
それは「絶対に正当な人間が存在しうる」などという幼いイメージなどとは異なる、
日々の暮らしへの浸透力のあるセンスやスキルや基礎力を意識しつつも(標準・中庸・スタンダード)、
そこからズレている自分というオルタネイティブさを考えの立場にすえて、自と他の位置関連から意識のフォルダーの再構成をさぐるということだろうかなと思う。
■ 14:56 「自分は不幸になる途を自ら選んでいる確信犯のほうだから」と語るとある評論家氏が、
「戦後のある時期から‘平凡への強制′という教育方針がうすれてきた」という状況認識を出してたけど、
その問題は「センスやモチベーション(積極性)の弱き者…不器用さや引っ込み思案を抱えた者」が
どう意識のスタンスの幅を編んでゆくかというテーマの背景だろうかと思う。
たとえば、「自分は幸せにはなりたくないのか」「幸せをどう位置づけ捉えるか」という答えを一方に固定することなしに、日々バランスを考えてみるということだったり。
■ 15:02 慣例やマナーを支えるものは無根拠ではないかという価値相対論的考えがあるけど、
その無根拠さがリアリティー(浸透力)を保てるというのは、やはりなんらかのワケはあるのだろうから、
「センスやモチベーションの弱い自分」を我こそはポストモダンとばかりに、判断の基準に据えすぎるのはやはりいただけないかと。
■ 15:17 そうはいっても、モチベーションのスイッチがはいるきっかけとなる経験の重なり具合は、ある程度はまだしも、
やはり全世界の万人に100%共通して強制できる方策(ようは教育ですが)というのが存在しうるかといえば、かなり?で疑問である。
現行の教育的メソッドのベクトルからこぼれる人たち、たとえば世の浸透にかすり難い3流未満のアーティストやカリスマ的な人たちが、世の日常的な暮らしにおいてどこまでは許容できる(つまり自分の中に自分なりのスジというか折り合いをつけようというモチベーションを大なり小なり保てているか)どこからは問題となるか(前述のスジや折り合いという意識が希薄あるいは欠如している)というテーマを気にとめることは、呉智英氏の評論の本の処女作における管理社会(権力偏重)やファシズム・スターリニスム社会(愚情偏重社会)を回避するバランスをさぐるスタンスという命題にもリンクしうるように思う。
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