あたりまえに笑って怒っての下書き用スペース
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草食系キャラ-打たれ弱さ、コンプレックス、内向・自閉・分裂症的、躁鬱・へこみ
センス・スキル-日々の状況需要力・情動表出力(日常的なインプット・アウトプット)の鈍さ、弱さ
なにかに夢中になる感情・経験
理想的人間(原罪)論-世界の(相手の自分自身の)欲や情や愚かさを無いものとしたがり目を逸らしたがる性向に基づく価値観
劣位にあるものは、別の価値観を自律させるほか、先行するものと並ぶ途はないのである それはストックなき人々がマイペースで別のそれなりの豊さへ至る道である 状況ね不条理に制約され、出発点から不平等ながら、それなりの前進は確かに試みうる人間観に基づく道である。
2006年12月28日(木) |
アイデアメモ・読書メモ |
自分の中で内向きに溜まりがちな余暇の意識や時間をちょっとずつであれ、外に向けたり置いたりと幅を広げてみることも気にとめておく。
自分の内で、一見無為かもしれないささいな営みであったとしても、なにかにハリキリ過ぎて肩をトガらせるでもなしに、他人に軽々しく自慢するようなイタさに陥るでもなしに、「しっかりきちんと」「ささやかに」ハマってみるというのはそのためのバランス感覚。
たとえば村上龍も「13歳のハローワーク」で、何もしないで寝ていることしか興味がないという子どもにむけて、もう眠れないというぐらいまずは充分に寝たあとで、自分の好奇心のベクトルやそのきっかけづかみのありかたを考えてみて欲しいという旨のことを説く。
そういえば、キワどいサブカル本「危ない1号」の元スタッフ吉永嘉明氏は、 身近な人に3人も自殺で先立たれてしまった経緯と心境を綴った本「自殺されちゃった僕」で
今の僕は「危ない1号」ではなく、「ポンコツ1号」だ。 そうだ。やりたいのはポンコツだ。 ダメ人間な僕が、いかにして生きるかってことを、こつこつ作ってゆくしかない。 それができたら、そのあと「ごきげん1号」なんていう本を作ればいい。 老後は身も蓋もなく楽しくいこうよ、という本だ。
と語り、 余裕ができたら基礎的なエクササイズをして、自然や温泉で楽しんでみたい。 ノン・ドラッグでハイになるのが大人なんだと思う。 法は守るが、いくつになっても不良でいたい。 そういう発想のほうがいまどき前向きなのではという旨のプランを提示していた。
それぞれの場でやっていくための体力・気力・基礎力づくり。
失敗も間違いも行きづまりもみな、自分により適した場を見つけるまでの試行錯誤の一コマであり、生きているかぎり、 やり直しの機会は幾度もやってくる、のか、というよりもいざそうなってしまったらそうなったならで、そうせざるをえないということなんだろうけど。
2006年12月27日(水) |
読書メモ・アイデアメモ |
自分のうちにわきあがるごく特殊な感情(一方的な恋愛感情など)にのめりこんで飛躍しすぎることをとどめつつ、相手の視点をも意識にとめておく
たとえば異性の友だちと仲良くする方策、状態 ふつうの関係をつくり保つということ (あるいはせめて、そういう立場もありうるものなのだと気にとめておくこと)
やましい感情と敬愛(仲良くしたいとか、そこからいちゃいちゃしたいとやや飛躍したり)
自意識過剰と言葉数 会話…おつきあい(各々・個別の相手)がいる言葉数。あるいは知恵。 阿部謹也氏の教養論…相手との出会いの機会無くして、人はきっかけは持てない。
過度に禁欲的にすぎる思考 ときに奔放な文学・自意識
情報の濾過・忘却力
石原壮一郎氏の就職活動論 温泉にゆくぐらいのゆとり・余裕をもって、自分の根源的なモチベーション(これがしたい)と相手(企業など)の本質的なところのニーズ(ぶっちゃけこういう業務を務めうる人間が欲しい)を見定めようとするスタンス 頭と身体のコリをほぐす意識の持ち方
ガラクタ・オモチャ・サブカルをひろい集める行為 一人の楽しみ・自己満足。そこが出発点である、としても、そこだけに留まり良しとするでもなしに。
弱さ・不器用さ オブセッシブ(内輪うけ、自分うけ、自己満足に寄りぎみ)な逃避の場・美学 一人の時間・場 オルタナティブな場、選択肢 自意識のバランスの持ち方・安定性 それの負の面としてのマニアくささ。閉じた論理。社会的常識のもろさに自覚的になりにくく、酷いケースとしてはその常識のズレぶりをなんらかの勲章であると思い込みたがる性向。
女性誌(総合的・多角的、相手との場・時間・もしくは楽しみのための情報商品。知恵)と サブカル誌(一人の場・時間・楽しみのための情報商品。知識)
■ 21:23 つきつめるとわがままなキモヲタ=エゴイストであるという出発点
ダメ人間主体論=ヒューマニスト
愚人礼賛者(愚かしさやら怠惰やらエゴに人間性の本質をおいたうえで、愛し称える)
その出発点からそれることなしに、その上でいかによりよくいけるかというスタンス
時間をかけて、自他を変えるゆるやかな覚悟
■ 21:49 重心の低さ=自意識の過剰さ、デフォルトで前かがみになりがちな意識の持ちようになってしまっている人
インテリ=ヲタク
バランス…背筋を伸ばしシャンとするための意識の持ちなおしかた。微調整・微修正。
過剰気味になってしまっている自意識を癒しなだめ落ちつかせ安定させる方向
■ たとえば、 ロック・パンク信仰 恋愛信仰 先端・トンガリ信仰 近代的理想的人間論 そういった思案のハマりがちな穴(コンプレックスとその裏返しの傲慢さ)を意識してみる
恥じず、それとともに偉ぶらず…少数者のスタンスとして
近代的理想的人間論が幻想だって一向にかまわないけど、だからって自分がチャンとしてなくたっていいって訳じゃないだろうし。
■ 15:16 自分という器(スキル・体力・センス・意識)のありよう
マニュアル的各一思想の粉砕→それぞれの個別・具体性
どこまでいっても自分の意識のうち=自意識で考える範疇にとどまるという限界があるならば(超越錯覚など)、
逆にその限界を前提に、いかに十分、十二分、もしくはできうるならばより上に活用してゆくかという発想。
■ 20:57 多少のキャリアのキズ(ダサさ・サムさ・イタさ)をいとわない。
人間はどこかで間違いをやらかす。
ノイズ(意図せぬ出会い、あるいは間違い)が自分を作ってきた。
インターネットというメディアの特性というものをふまえて、それに見合ったことをすればよいにしても、
やはりネットは好きなものしか見えなくなりがちなので、もうちょっと関係ないものも目に入るようにしようとする試み。
(ラジオや雑誌には、比較的それがあったり)
■ 21:03 仕事であれ趣味であれ、それをする体力・気力・時間・意識のバランスがあって成立する。
そのための労働力再生産過程=余暇・休暇
人の性=サボりたいとき、休みたいとき、それができるときには、そうしてみる。
■ 21:06 なにかを自分が見て聞いて手にして受けたというだけで、その自分が大したものだと思いこんでしまう錯覚。
2006年12月16日(土) |
下書き・アイデアメモ |
ヲタク特有の理屈っぽさは自信のなさの裏返しだという。
(人とうまく話せない、みんなが一緒に盛りあがっていても自分だけ笑えない) (大学に残りたがる人種の特徴 自閉的・分裂症的・憂鬱症的…インテリあるいはヲタクたる人のヲタっぷりの特徴 ベテランあるいはプロのヲタクとは自分の病質との折り合いをつけてバランスをとれる者のこと?)
(気心の知れた相手以外とうまくキャッチボールができない)
外の相手の動きや姿やしぐさや表情を見て感じとり吸収するセンスの弱さ
・姿勢を良くするための思想
・価値相対論 個別の具体のもろもろのケースがあるということ、おのおのの自分と他者と場にしょーもないところとそこそこはイケてるじゃないちょっと輝いてるかもというところで、経験から、自分はこーゆうことはできるがここでは弱い、自分はこーゆうとこで新鮮さ楽しさを感じるが、これに関してはどーかと思うということを、時間の流れによる変化も含め感じとること。
■ 13:46 最近、ぼくは、こういったメモ的な更新をわりとおこなっているけど、
ふと、なんのためにやっているんだろうと考えると「自分のためにやってるんだなあ」と思う。
(ものごとを筋みちつけてはっきり区切りたがるインテリ=ヲタク気質。)
みなといっしょに横ならびの貧乏あるいは凸凹のない平坦になりたがる状況?=イデオロギーの需要の終演
思想(教養)はエンターテイメントであり、エンターテイメントは思想(教養)である。
…カタルシス(なぐさめ・ガス抜き)あるいは明日を照らす場所
■ 13:19 ブログというのが、4・5行でのレスをはさみたくなるようなツッコミどころの供給だったり、「こうみせたい自分」の演出ぶりがさらされる内輪むけのメディアだとするなら、そうと自覚して用いれば良いかと思う。
■ 13:28 時間の流れをふまえる
…なぜそれが新鮮だったのか面白かったのか。
そして、これからもそれを楽しめるのか楽しめないのか。
現在の自分にとっての認識や判断をかためる。
経験や時間の流れの中で、自分としてはこう思いなおすことでやっていけるかもしれない、ということ。
とあるテクノDJクルーがかつて「クラブを居酒屋やカラオケのようにぶらりと足を運びやすい場にしてゆきたい」と発言していて、そう思うのはたしかに人情だけど、その文化のもちうる相手への浸透力と限界もやはり頭の片隅にあっても良いと思う。
自分のココロの居場所を自覚しつつ、しかし、それを(不特定、あるいは特定の)他人に全面的に共有してもらおうとは思わないこと。(どんな相手も他人は他人、なので)
■ 常盤さんは、2〜3人にしか通用しないものでもエンターテイメントとして成立していればそれで良いと思う、たとえ自己満足であれ人に見られても良い自己満足をしろという。
岸野さんは自分を突き詰めればそれがポピュラリティーに繋がる、繋がらないならばそれは自分の突き詰め方(おもてなし)が足りないのだという。
「人気」というものが「人」の「気」=ニーズの受容できる器とすれば、
「人」の「気」を集めるものは人前にそういった要素を受けつける間と要素を共に持つものを見せているということになるのかと。
・「自己認識」が内なるニーズとして生じうるケースについて(ダメなヘンな自分、悩む自分、ビョーキな自分)
同席性←→ディスコミュニケーション(ニセ学生マニュアル赤版6章) ↓ 「認識」の内なるニーズへ?
「個別」の「もろもろの具体ケース」における自己
■
・程度の多少はあれども、引っ込み思案・情報依存タイプな人にとって…パチンコやタバコのようなものとして機能してしまいがちな文字や文章 (パチンコ…9割がたはハズれ台)
・文字や文章と現実(世のもろもろの場・場面)との齟齬・乖離 →たとえば、それは五感のよって、チョイス・判断し切り刻んで世をとらえるスタンス(センス)も、繰り込めている思念なのか、とか。
文字や言葉は、世のもろもろの場で齟齬・乖離の生じうる性質を多分に含むものだと踏まえて接してゆくしかない、のでは。 (それがある上での、測りとしての文字や言葉の効用であり、再考なのでは)
インテリ(ヲタク)のプライド・ナルシズム←→日常や実務の些事・詳細・ディティール
■ 娯楽や表現(音楽など)のジャーナリズム・批評の立ち位置の再考。
…アーティスティック神話・メジャー神話などの検証や解体。
「正義」と「幸福」必ずしも同居するとはかぎらないともいわれるが、
娯楽としての効用とメッセージとしての機能(有効性・実行性・浸透性)も、必ずも同一ではないのだろう。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/sexy/interview061212.html
■
ファンとヲタの違いについて思案したところ、 ファンは「出し物の娯楽としての効用を享受している立場」で ヲタは「萌えやガッツキなど、脳内・ロビーを問わず、演者との何らかの 関わり(憧れ・美化)を望む立場」という定義になった。
おおかたのアイドル好き(というか僕自身)は、バランスの大小の違いはあれ、ヲタとファンの両方の要素が存在していると思うけど、 ひいてはポップスター=ショウビズって、ファンとヲタの双方のニーズを 宛て込むことで成立している営みなのかもなとも感じる。
で、ほぼファンとしての立場のみというのはありえるし、 また珍しくないかもしれないが、 ほぼヲタとしての立場のみというのはあったらスゴいwですねん。
■ メジャーな「魅力」…同席性、なじみやすさ、入れ込みやすさ、共感しやすさ
2006年12月12日(火) |
アイデアメモ・読書メモ |
デザインや相手の動態etcを視覚などの感覚(センス)でとらえる姿勢
家政学・軍事学・医学・工学・園芸学
…芸(アルス)と術(テクネ)
・まわりと自分の様子や姿や動きを、目で見て、体で判断し、チョイスしデザインしてゆくセンスをともなう手や足の作業
ミエってやっぱり重要…洗ってみっともなくなるような服は買いたくない
つまり洗濯物を干すってことは、人間の生活の部分を全部丸だしにしちゃうってこと。
・体力- 「人力エネルギーで‘快適′生活を」(橋本治89下巻)
精神の高揚してるときは、むしろ‘肉体の衝動'にものっとり身体もともに動かし高揚させることでテンションを安定させる。
争いを回避する知恵とエネルギーもさることならが、いざという場面に直面したときには、その状況の3倍ぐらい過激になれる態勢をつくっておくべき?
■背中(身体のすじ)を伸ばすための思案の調律(のばす・ほぐす こり)
「引き算的思考」…これまで好奇心と興味(楽しみ・背伸び・見栄・同質化・不安etc)でストックしてきた情報を現在の自分のニーズに照らして「取捨て選択」する思考
岸野さんによると、「(自分の「縁」を意識する直感を)自分は間違えてきたから、残っているものよりも、もっと多い捨てたとか売り払ったものが、自分を創っているから」
でも、下限の裾野も広げないと、上限の高まり広がりが意識されない。
その縁を大切にする。 そのポイントが、自分から動くことによって見えてくる。 それが面白い。
捨てる=選択・調律? (「オタクVSサブカル」17ページ。岸野氏発言)
「自分は風景の中の一要素にすぎない。ただし自分がその風景へ何らかの働きかけかけができる可能性もまたありうる」 …ならばその「風景の中を含んだ自分の姿」や「その風景のさまざまな要素」へもろもろの興味のアンテナを向けようと心がけるアプローチもありうる。
■
世の場に公然と存在するものを、批判を飛び越え無いものとしてトゥーマッチに否定的になるよりも、まずはその存在と姿を捉え、確認するほうが、より現実的な対応であると思う。
■
教養・音楽‐身ぶり・ファッション・虚栄など ↓ まずはその機能を肯定し、そこからはみでる効用も押さえる
呉智英氏の変人論によると、ビョーキがかった変な人も、まず自分が変な側の人だということを自覚し、その上で力をつけれれば大丈夫だという。 だけど、誰もがそこまで強くなれるだろうか。 そこに、妥協や挫折の程度の調整を含んだ論であってもいいのかもしれないです。
■ 「人格改造」というのは書物のキャッチコピーとしてはアリだが、より実質的には人格調律(チューニング)のほうが適切?
たとえば薬物で劇的なテンションの変化を起こしたとしても、それは一時的なもので、それよりも元の性格の(フォーム)を踏まえて発展、といったほうが長期的には良かもしれない。
■ 演出(タテマエ)と真心
…情報・煽動・構造 警戒心(ガードの方向の想像力) 岸野さんの論
(思春期・青春期の外に開きたいという欲求 ニセ学生マニュアル赤版)
こだわり・こり スキル・センスの弱さ、不器用さ
■ 集団、弱者 圧迫・差別 (大月氏の「イジメ」へのコメント)
2006年12月11日(月) |
読書メモ・アイデアメモ |
頭文化が過剰なヲタク
宮崎(89下巻) 古泉さん発言@AX ちょっとずつそのことに慣れるようにする。 ちょっとずつ練習をする。
自分固め
共有されてるニーズの交通整理役
あれもこれも良いことづくめの状況なんてないのでは? メリットデメリット
世界は下らないクソのようなものであり、かつそれと同時に世界はきらめきに出会えうるものでもある。
ときにはその極の一端が、ときにはその対極端の感性が浮かんで現われる自分の内にある精神の回路のしくみ。
二村ヒトシ氏の恋愛指南本は、「自分で自分の欲求や欲望のかたちをつかむ(どういう形でどういう種類のことをしたいのか)」を論旨の出発点におき、 それはおのずと関わりにおける相手のありようと自分の力量・容量をみつめる営みへとなるけども、 そのプロセスの一端としてのキャバクラやフーゾクの接しかたの位置付けを試みている。
ここで乱暴な飛躍をすると、いー年こいたオトナがアイドルにハマってうんぬんみたいな発言は正当だけど、 いー年こいたヲタクが、ヲタク市場のターゲットになる構図が成立している世界って、 その世界なりの教養(=ある程度の層に共有されている価値認識)しかない世界なのではと問い掛けたものの、 そんな器のヲタク状況になんざ興味はありません! というのはこれまたふつうのことなんだろうから、 その状況を照らし出すのはヲタク自身の仕事なのだろう。
なんか凄いのっぺりしてて、質感がどれも一緒なのは人間としてセクシーじゃないというか もうちょっとスケベな気持ち、人間であって欲しいというか、 人間に触るっていうのは、緊張するでしょう。そういうもんを音楽にも感じたいけど というようなことを言っていたのは豊田道倫だけど、 それは岸野さんいうとこの想定してないノイズ的な出会いに目がいったときの直観や判断力だったり、 ライブにおいて、お客さんの盛り上がりや音楽的なだけではない日常的な発見が欠けていたパズルのようにハマったりするために作っておく 少しだけの余白というウッドマンの意見や、 橋本治いうところの「自分の部屋に薔薇の花を持ってきてくれる人間の存在」だったりするのでしょう。
精神的にマジヲタめいてるというのは、自分の感情や理性めいたもの(要は自意識)に過剰ぎみにおぼれているという状態で、 それを癒すのは感情や自意識の過剰ぎみな存在を認めた上で双方のマッチングを目指す路線だろうけど、 岸野さんならバイトで海外のビッグスターにインタビュアーとしてバンバンあってごく日常的な話題ばかりしていた経験を踏まえて 「もっと毎日でも会って慣れたほうがいいって気がするね」と発言し、 ならば「会いにいけるアイドル」以上に距離の近いアイドルでしょっ(ビシィ ということで、 ロビータイム命なDDガッツキ厨なスタンスも自覚的に回数を重ねて、つき詰めてゆけば、 産業としてのアイドルシーンをフラットに照射しうる、というのは自己正当化の言い訳であり、 ひいてみれば葱を背負った鴨を目指すようなものではある。
でも、やるんだよ!(爆)
ソーシャルネットワーキングって、繋がるための皆との同席性の感覚であり、ひらたくいえば「馴れ合い」なのだろうかと、 捻れ気味の感性のフィルターを通せばソフトファシズムだ!と鼻息も荒くもなるが、 ならば佐藤伸治ばりに「みんなが夢中になって暮らしていれば、別になんでもいいのさ」とアナーキーなスタンスの一つでもとろうかというとこだけど、 楽しい居心地の良さが恋しく無いと切り捨てるのはムリが生ずるし、 なんだかんだも詰めれば結局は、良いかたちでいちゃいちゃしたいですよ、とあまりに子どもっぽすぎる意見であると承知しつつ そこに着地するけど、 個人主義なんてものが実在してるか知らないけど、それが実在しうるのは紆余曲折の生じうる平坦でありえない凸凹な状況での、 自分を持ってるどうでもよき趣味嗜好という気持ちの支柱がある景色のスケッチ作業であり、 どうでもいいからなんでもいいからはごくありきたりな価値相対論におさまる予感もよぎりつつも、 これだけは我慢できないなにかの確認の機会とそんな自分も興味を向けられる場面の更新と、 どうでもなんでもよきに追いやられうる各々の違いという大原点の確認の、 せざるをえないリロード作業なのかもですねん。
ブログ(ネット日記の演出機能) 金さえもらえればいくらでもいいことかけるって
暗いロック叫び(橋本治の89の文庫の下巻39ページ目)
常盤グラビア
湯浅ロック
分裂症的メタ内省
モチベーション不足 芯がぐらついてる 逃避欲
これは大いにワガママだと思っているが、気のあうかたちでのバカ話やしょうもない話とかができればと思っている。
■
二村ヒトシ氏の恋愛指南本の記述の核は、自分の中のイタさをふて腐れるでなく、傲慢かつ露悪的に開き直るでもなしに、それを肯定し的確な距離感で接っせられれば、現実の他人に接するときに、必要以上に臆病になったりエラソーになったりせずにすむという部分かもしれない。 114ページ
自分の内のもの欲しげな欲望目線もまたしかり。 そんな自分はバカなんだなあー、とふまえてそれを否定することなしに ときに表に出す試行錯誤を重ね、コミュニケーションの距離感を図るしかないだとうと。
その一方で一人合点のカラ回りの自爆、になるパターンはどんなものなのかとも考えつつ。
(黙って気味悪げなオトコより、なにを考えているのか分かりやすい男のほうが それは好感触であろうと)
■
極限状態・ネガティブさ(怠惰など)・中庸etcの精神的な位置づけ
中庸…暴論エンターテイメント的な極端な世界認識とは異なる
持ち場・場所 逃げ場
男は実用性
駄盤…ものごとの視点や味わい方の勉強?限度あり?
限界
感情(異議申し立て的な世界への反感など)に溺れる ↑ ↓ 外向きのモチベーション
「現状」からの出発 活字狂想曲的な構図 こだわり 振り切れない 揺らぎ
半端もの 世間知らず 未成熟 経験量足らず
こりをほぐす
片寄りぐあい(自分の)
それぞれの(相手)(自分)の短所(限界) ムカつきモヤモヤポイント(カチーンとついきてしまう)
自分の中のそういったネガティブな「感情」さえも、きちんとベターな形での固 めてゆく作業も時に必要。 そういったものが欠けてると、自分の内はフラフラぐらつきベターではないだろうかなと。
リエディット リチェック 文化 カルチャー 再チェック 再構成
迷惑・異なる立場 それぞれの不幸(軋轢 ジレンマ ハンディー・差 限界)
良いか悪いかはさておき(あるいは良くも悪くも
現実順応のため、ある種の極端な感じかたをボケさせる面もあり
サイケ・ファンタジー・ロックンロール←→中庸(世界認識観)
自分はどこまで妥協できるか(幅を広げられるか) あるいはどこから妥協できないかという自分のカタチの認識作業
■
ついなにか、ものを考えてしまう自分がいるのならば、 それを自分のために考えるという方向に向けたいもので。
「自分」と「その周囲」という環境の存在について。
ストレス・ジレンマ・プレッシャー… そして自分自身のスペック。
そういったものをベースに考えてみる思考方が気になっている。
■
カリキュラム・ノルマという外側によって設定されたハードルの存在。
あるいは、なんとなしに多数派の雰囲気で回るような世間であったり。
■ その齟齬からの焦りゆえのネガティブな思念 (自己へ否定的になりがちな自動的な思考(自動思考)のパターン(形)の分析と、その浮かびがちな思念をそれと気づくことで多少ゆとりが生じうるとの「人格改造マニュアル」(鶴見済)の記述
自分自身のモチベーションの認識=形づけがあいまいにもなりがち
経験
かつて自分が知人から受けたアドバイス 「広がり過ぎた思考を収束させる核は、経験によって養っていけると思いますので、若いうちはどんどん興味を広げてみて下さい。」
■ それらと自分のスペックの齟齬が生ずるケースも多々あろう。
読書、一人身のサブカル趣味による時間の消費
自己陶酔あるいは自閉的な 擬似恋愛やある種カルトな信仰めいた思念 自己完結型
橋本治「ナインテーズ」での女性がお酒を飲むことの意義づけ 「成長のためには時間は必要なので、お酒でも飲んでちょっと忘れて、 それをのんびりやりすごす方法」
■ 思念を言葉として文字として表現したのが文章だけど、 それはしばし、主観を情緒的に強調し、受け手の感傷をゆすり煽る形態で現われているのだと思う。
センチメンタリスムの強調も芸としてはアリとしても、 「芸としての高さ」と「実行性の普遍性」は必ずしもイコールじゃないと肝に銘じたいものだと思う。
趣味の輪での話題性と高さが、趣味の輪の外ではとるにたるものなんかじゃなかったと言われそうだけど。
趣味の輪の外の感性や実務へ費やされるべきでもあろう時間を気に留めつつ過ごせれば、と思う。
新鮮さ
(不器用すぎて自分の中だけの時間をためこみがちな貴方が、自分の外での恥をかくことの経験を過去形として見なおしたり、自分に欠けがちな皆と話せてわいわいいって楽しんでる様子を「新鮮だな」と見れるなら、今の自分の身の丈の器とその先の行動パターンがわずかであれ見えてくるのでは。 橋本治「青空人生相談所」)
■ 呉智英氏の「イジメ自殺」についての文章。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/breview/29130/
人間のあいだの軋轢から生ずる感情を、過度なタテマエごとで縛りつけ自己をネガティブに位置ずける思念を防ぎ、 感情を怒りや知恵やコミュニケーションやレトリックへとまっとうに転換する、 自己のエモーションと環境のより的確な認識への意思の復権ではと僕は感じた。
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