― ‐ ― 【私のいる風景】読売新聞のコラムよりパクって。― ‐ ―
〔文・泉田友紀〕
日本は「努力すれば何とかなる社会」から、「努力してもしかたない社会」に変化していた――。
2000年に刊行した『不平等社会日本』(中公新書)は、一億総中流という「平等神話」に疑問を投げかけ、論壇に「中流崩壊論争」を巻き起こした。
社会調査の解析から、エリートの階層相続が強まり、日本が「階級社会」化していると指摘した内容が、大きな衝撃を与えたのだ。
「あの当時は、『機会の平等』の実態が検証されないまま、自由競争礼賛が声高に叫ばれていた」という。しかし、現実に収入の多いエリートの子が有名大に進学し、エリートになっているのではないか。「『同じスタート地点からの差なのかどうか、はっきりさせようよ』。そう言いたかった」
人は都合の悪いものは見たがらない。これは世の常だが、「『平等』の実情に目をつぶることは危険だ」という思いが強くあった。
「■」
子供の頃から、大上段に振りかざす物言いは嫌いだった。そして、自分の思いを語るのも、他者に押し付けられるのも苦手だっつた。
だから、少年時代をすごした広島では、原爆の惨禍をひたすら訴える平和教育の中で、たまらない息苦しさを感じていた。 戦争は悲惨だ。どうしようもなく悲惨だ。ただ、その絶対的な悲惨をもってしても、戦争と平和の意味のすべてを覆い尽くすことはできないのではないか。「正義」の言説の外側にいる自分を感じ、沈黙するしかなかった。
そんな少年は、水を求めて犠牲者を弔う、元安川での灯籠流しを見るのがすきだった。
慰霊のためではなかった。安堵のため息をついていたのだ。これでようやく今年の八月六日が終わる、と。
元々、両親は広島県の東端、岡山県境にある福山で生まれ育った。だから、自分にも広島の新来者(ニューカマー)の意識がある。「内部」に溶け込めず、そこから逃れるかのように、地元の中高一貫校を卒業後に上京、東大で学生生活を始めた。そこで見た東京は、広島とは正反対の「川のない丘のまち」だった。
「住居がぺターッと丘を埋め尽くしている。その景色がどこまでも続く。『山か、平地か』というところで育ってきたから、すごく印象的だった」
しかし、そのなだらかに連続しているように見える同じ世界の中でも、微妙な色の違い、上と下がある。家のつくり、広さ、住環境……。ここに見えてくる社会の縮図みたいなものは何か。「階層」という言葉が思い浮かんだ。その後、大学院で社会学を専攻する上で、階層を研究するきっかけの一つだったかもしれない。
「■」
しかし、去年の秋、友人との待ち合わせで下町を訪れた時、初めて東京の別の顔を意識したことでまた新たな転機を自覚した。ふと、潮の香りがしたのだ。それは、子どものころから身の回りにあった海に近い川のにほいだった。
それまで東京で川を意識したことはなかった。川に象徴される広島の土地の記憶を拒否することで、知らず知らずののうちに、東京に「記憶をもたない場所」というイメージを押しつけていたのではないか。そう内省した時に、広島の内側も、外側も、前よりはよく見えるようになった。
広島の平和記念資料館を見れば、戦争は確かに悪い。しかし、自分にとっては山口・岩国基地から飛んでくるファントム戦闘機は美しかった。そう思っていた少年時代、何が息苦しくて、何を言いたかったか、今はわかる。
「戦争をすべきでないというのは正義である。しかし しかし、絶対的正義ですら、その外部はある」と。
「自分の感じ方を人に押し付けることはできない。だからといって自分の感覚をつぶして人の考えを受け入れることもできないでしょう。」
だとすれば――、と思う。私たちそれぞれは〈個である欲望を自らのうちに見出し、その上に、いかなる社会を築くかを考えるしかない。それが原点、ゼロ地点なのだ〉。
最新刊「00年代の格差ゲーム」(中央公論新社)のあとがきで、気鋭の学者は決意表明した。