初日 最新 目次


Trash Box
オオカミ

My追加

2004年03月31日(水)
停止〜再生

心音は鳴っている
リズム良く

心臓は動いている

でも心は
心は止まっているよ
凍り付いているよ


ピピッピピッ・・・・

ドクンドクン

体は動いてるよ
頭も回っているよ

でも、心は
石みたいだよ


桜を見てもきれいだと思わない
何かを見てもきれいだと思わない

すべて灰色なきがする



たまにこんな日がある
抑揚がない

感情の起伏がない


すべて停止

感情が死んでるよ


なあどうしたんだよ
自分

どうしたいんだよ



こんな時は
思いっきり感動できる

何かを見よう聴こう

花がだめなら映画とか音楽とか
何かで熱い何かで
心を溶かそう


それでも、心が死んでるのなら
思いっきり自分を愛してあげよう

体一杯で抱いてあげよう



今日の一口<凍って動けないなら溶かせ 落ち込んだら這い上がれ>


My追加



2004年03月30日(火)
希薄

目が覚めたばかりの時は
感情が希薄で
頭だけ異様に冴えている

そんな時

自分は

妙に冷たい人間に見える

頭だけが回っていて

何か怖いような
痛々しいような

ガラスで出来た刃物の様な


人間に見える

これが本質…?


これが自分の本来のものなのだろうか


そんな風に考えに沈む時は
音楽を聞こう


心をあらわれるような
調べを聴こう


そうしたら
暖かな感情が

ふわっ…


と浮かぶはずだ


今日の一口<感情を殺さないで機械と同じにならないで>


My追加



2004年03月29日(月)
否定をしないで

何かにつけて否定したがる人たち
そんな人たちは結構どこにでもいる


まあ、興味のないものに関しては
否定的になるのかもしれないが


何も知らないのに否定をしないで欲しい
せっかく自分が好きなんだから


別に自分が好きなものを
好きになって欲しいなんていわない


もちろん同じものを好きになってくれたら
嬉しいけれど


人が好きだといってる横で
どうでもいいなんていわないで

手をつける前から嫌わないで

自分の意思と違うからって
否定しないでくれ


たとえ違うと思えどおかしいと思えど
それはその人の意思


否定してばかりだと
損しかしない

きっとそれしかない


だから…


受け入れていこう
尊重していこう

もっともっと

大きな自分であろう
広い器で深い心で

…そう
大海のように


今日の一口<海のような心をもとう>



My追加



2004年03月28日(日)
作る

昨晩構えるということに関して
ここに綴った
嘘はついてるつもりはない

だが、何か引っかかったのだ



もう一度良く見て考えて見ると

気が付いた




構えることは悪いことではないのだろう
自分はそうここに書いた


だが、作るということは
決していいことでは無いのかもしれない

自分にとって損しか生まれないだろう



「構える」というのは自分の内側に踏んでほしくない一線を
引くだけのことだが

「作る」というのは自分の外側に
大きな壁を張るということだ


自分に一切近づけさせない用にするために


「作る」ということは相手に嘘をつくということだ
そして、それをやり続けるということだ



まあ、自分に好感を持ってほしいからと
「自分を作る」ということをするのも
一つの方法だろう。

だけれども、それは手前勝手なやり方だ


上手い具合に自分の良いところををさらけ出すわけではなく
いい人だという虚像を相手に植え付けるだけなのだから

付け焼刃のキャラなんて不自然な上に脆い。
後々歪みが生じること間違いない。


何故そういい切るかというと
自分がそれで失敗をしているからなのだけれど



相手の性格に合わせてに自分も作るだなんて
結局傷つくのは自分だ
なりたい自分にもなれず相手に
迷惑をかけてしまうだけだった



だけれども、この方法を一概に悪いというつもりもない



自分が他人と良い仲になりたく無い

親愛の情も思慕の情も

友情も

邪魔なだけだ


そう思う人はやったらいい。
それで後から、後悔しないのならば
そういう人たちにとっては
これはいい方法なのだから



↑エンピツ投票ボタン押すと文章の続きが見れます


一生を一人で過ごすのかと



今日の一口<嘘をつくことそれ自体が礼儀にかなっていないのではないか>


My追加





2004年03月27日(土)
構える

ある方とメッセンジャーでこんな会話をした
メッセで会うときと実際に会うときの感じが少し違う人なのだ

その相手の人が
「そんなに普段会うとき構えてるかなあ?」
と聞いてきたので
「いやあ、自分もその辺は人の事いえへんからなあ」

と答えた

その後上手い逃げ方やなと言われたのだけれど←バレたかと苦笑した




実際自分はそうなのだ

人と話をするとき構えてしまう
構えるだけなら、まだいいのだけれど

会う時に相手に合わせた自分を作ってしまう

だがそれも、又自分なのだ






自分は基本的に人が好きな人間だ
だけれども一人が好きな人間だ

だから急に親しくなろうとしてくる人間や
急にため口を聞いてくる人間はまず、はねつける

時にそれで傷つける

それも構えることの一つだ





昔、自分は
意識をしていなかったのだが
波長の合わない人には特にそういわれていたのだが
初対面の人に

自分は「怖い」といわれた


雰囲気などがそうだったのだろう



だが、それは違う
少し線を引いていただけだ


これ以上入ってくるなと



今ももちろん引いているが
少し見えにくくしたせいか
怖いとは言われなくなった


線を引くとか構えるとか言うことは
悪いことではないと思う


自分は線を引くことで
守りに入ってしまっているだけだ


普通は警戒するだろう

初対面の人に自分の一番大事な秘密を教えたりはしないはずだ


だから、決して構えるということは
悪いことではない


それもその人の一部だし考え方だ


その構えていると意識されるかどうかは問題かもしれない


上手い人はそう思わせない
それどころか自分から踏み込んでいく

相手の心に入っていき

相手の構えている線を見極め
その線は踏まないで会話をする


そして自分は構えを崩さない


そうありたいと自分が思うやり方だ

構える線を上手に選び
消極的にいるだけでなく積極的に前に進もう


それこそが人付き合いで大事なことの一つなのだろう



↑エンピツ投票ボタン押すと文章の続きが見れます


違和感を感じられたのならば
構え方を変えればいい



自分がおかしいと思ったのならば
変えたらいい


そのままでいいと思ったのならば
そのままでやっていけばいい



自分が思ったとおりにすればいいのだ


今日の一口<いい人付き合い求めるなら距離を見極めることが大切だろう>


My追加



2004年03月26日(金)
日記を変えてみよう

先日この日記に
心を残せてないのではと綴った

それは間違いなのだろう
自分という人間が文章を書く以上
自分の心は入っている


けれども人は二面性ががある生き物だ

人によったらそれ以上多いかもしれない


そして自分はそのうちの一部しか
出せてないのではないかと思うのだ


脆い弱い部分を



↑エンピツ投票ボタン押すと文章の続きが見れます


他人が見るから


弱い自分を出せずにいる




そんな気がした




もちろん多少は出してきているのだけれど
見られることを意識して綴ってしまっていた


だが、当初自分がここで書こうと思っていたものは
自分と向き合い素直な自分や弱い自分を出して


強くなることではなかったか


弱さも痛みも吐き出して


強くなることだったはずだ




そう思い返し、自分は日記を変えてみようと思う


今日限りで


理屈も事柄も抜きにして
誰かが見るとかなんて気にしないで

心を書いていこう




もちろん多少の説明は入るだろうし

急には変えられないかもしれない

文章自体もものすごく短くなるかもしれない


でも

そうして行きたいと今願うんだ




今日の一口<どこまでも壁 そろそろ砕こうよ>


My追加




2004年03月25日(木)
絵の好き≠歌の好き

先日HPに絵を上げた


自分で書いた絵の中でもかなり
気合の入った物のつもりだ

優しさとほんの少しの寂しさを
表せてたらいいのだけれど
どうだろうか




絵はいつの間にか
物心ついた時から描いていた


「一番得意なのは絵を描くこと」
「好きなものは歌」
「なりたい職業は詩人」


小学校の卒業文集にもそんなことが書いてある


それ位、絵を描くことが好きなのだ
そうしたら歌はどうなのか


この間友達に歌と絵はどっちが好きなの?

と聞かれた



自分は歌だと即答した


以前からここの日記にも書いている通り
一番好きなのは歌なのだ






そうしたら、自分にとって絵とは何なのだろう
ふっと考えてしまった



何なのだろう


とても好きなわけでもない
でもたまに無性に描きたくなる

書き上げるととても満足するし
自分の中の何かが落ち着く


幼い頃からやり続けてきたことを特にあげるなら絵なのだ。
歌ももちろん幼いときからやってきてはいるが

本当に物心ついたときにやっていたものをあげるなら


絵を描くということなのだ


うまく説明できないけれど


自分自身の一部のように
自分という「固体」の中に
浸透しているものが絵なのかもしれない


歌は浅く浸透しているが
もっと外向きのものだ

仕事としてもしやれるなら歌
仕事にしたくないのが絵


そんな感じで分かれている


なんというか


まるで、この日記に似ている
自分と向き合うような感覚


外側へ投げかけるのが歌だとしたら
内側へ語りかける力を持っているのが

絵なのだ


もちろん、絵を見てほしいという顕示欲はある
でも、それは、歌の方がはるかに大きい


きっと、自分自身が描きたいから描いている
それだけなんだと思う


それがまるで当然のようになってるだけで



書き上げたときの満足感は他のものではない
何かがある



↑エンピツ投票ボタン押すと文章の続きが見れます


そんなものを味わえるのだ
自分にとって歌の好きと
絵の好きは違うのだろう


そんなことに気がついて
少しおかしな気がした

やっぱり一番見えてないのは
自分なのだ


今日の一口<色々な好きがあっていい 色々な思いがあっていい>


My追加





2004年03月24日(水)
思いふけて

今日久しぶりに関東のとある人と連絡がついた

約1年半位前に、連絡を良く取っていた人だ

彼とはいわゆるチャット仲間だった
チャットで出会い、色々な話をした

他愛の無い雑談から、真剣な話まで。



あの頃の自分は、
メールやチャットをよくする人間で

チャットで、特別仲良くなった人とは
メッセンジャーで話をして
画像の交換などもたまにはしていた

それが不自然なこととは気が付かずに
お互いに虚像を作ってしまうだけだとは考えずに

いや。気が付いていたのかもしれない

ただ自分は寂しかっただけなのかもしれない






ある時
その人に好きだと言われた


でも、自分は答えることが出来なかった

友達を増やしたいという思いはあっても、恋人を作ろうとは
思っていなかったから

怖かったのだ。写真を交換しているとはいえ
会ったことがないのだから



お互いに虚像を作りあってるだけで


寂しさを埋めるための幻想でよかった
そうなのかもしれない


元から、一人のほうが好きなのだろう


だから、相手の気持ちに答えないだけではなく
相手を思いっきり突き放した


そして、連絡は途絶えていった


同じように会ったことが無い人に
告白されると今でも突き離すだろう



だが、もう少しやりかたを考えるべき
だったのかもしれない
自分は彼を傷つけてしまった


ひどく横暴なやり方で

その相手に「殺すぞ」
とまで言われた

愛が憎しみに変わる

それを実感した台詞だった

自分は驚いたのを覚えている
その感情のあまりの激しさに








その後彼とは仲直りしたのだけれど
あまりお互いに忙しくなり連絡を取らなくなって
自然消滅した

相手のアドレスだけ残った




その彼から今日メッセージが来たのだ

「サインインお互いして顔を合わせたからちょっと挨拶でも」


その後は長々とした会話

その時に謝ったのだ
横暴なやり方だったと

そうしたら


彼は何も悪いことをされていないといった
自分が悪かったと視野が狭くなってしまってたと



その会話をした時に、自分は胸の中を
何か暖かいものが漂っているようなきがした


しこりが取れたというわけでもない
元々自分が正しいと思ってやったことなのだから
やり方は違えども結果は自分が求めてやったことなのだから


認めてくれてうれしい…
それとも又違う
元々そんなことを望んでいないはずだ


ただ、どうしようもなく暖かな気持ちになって
微笑んでしまったのだ


ふっ…と


それが何なのか自分にはわからない



↑エンピツ投票ボタン押すと文章の続きが見れます






昔自分のやった行動を思い返して
あの頃の自分を思い返して

懐かしさなような
それでいて新しいような


暖かな気持ちに

なったのだ



今日の一口<表せない気持ちを表すために言葉はあるのではないか>


My追加



2004年03月23日(火)
自分は・・・

ある文書を見た
とある方の日記だった

その人の日記は至極純粋で

壊れやすく見えて…

とても心が入っていて


自分と向き合えていた

少なくとも自分にはそう見えた





その人の日記はとても短い


何かが、あった日で無い限り


とても短い


でも、見てる自分にも
思いは伝わる


そこには思いを載せているから




・・・自分はどうなのだろう

ちゃんと心と向き合えているだろうか
ちゃんと何かを残せているだろうか


Diary<心と向き合う自分>





↑エンピツ投票ボタンエンピツ投票ボタン押すと文章の続きが見れます


理屈ばっかり残して心を残せていない
思いを残せていない


そんな気がする



短くてもいいから
思いを残すべきではないのかなあ



一行でもいいから
心を



残すべきでは…

ないのかなあ




今日の一言<事柄よりその思いを大切にしたい>


My追加



2004年03月22日(月)
お茶会

我が家はお茶が好きで
よく、お茶会をする


こう知人に話をすると誤解されるのだけれど


お茶会といっても不思議の国のアリスのようなものや
貴族達が良くするあれとは違う


一概に違うと言い切ってしまうものではないのだけれど
格式ばった物をやっているわけではないと言いたいのだ


ちゃぶ台を囲んでお爺さんとお婆さんが、お茶をすすっているようなものを
想像してくれたらいい



家にいる家族で集まり菓子を食し、お茶を飲む
時間帯は主に夕方と食後二時間後くらい
緑茶だけではなくて紅茶も良く飲む
いや。むしろ紅茶のほうが多いかもしれない


このお茶会はいつから続いていたのだろう
いや。いつから自分は参加していただろうか


明確には思い出せない


だが今日ふと思ったのだ

このお茶のおかげで家族はどれだけ交流できているだろう



温かい飲み物を飲みながら落ち着き会話ができる
こんな環境は他の家では無いかもしれない


確かに自分が反抗期のときはその時間をうっとおしいと思った事はある

だが、考えてもみよう


家族と一緒にいることができない子供達もいるのだ
会話どころか、丸一日顔を合わせない家族もいるのだ



そんな人たちの中には気楽でいいよと言う人達もたまにはいるけれども


確かに気楽かもしれない
反抗期のときはそれこそうらやんだりしていたのだけれど

今の自分にはうらやましいとは思えない




自分なら嫌だ
幼い頃に広い家で一人だなんて

想像もできない


この歳になると、自立したいとか経済力を持ちたい等の
そういう思いはもちろんあるのだけれど


親がずっと生きているわけではないのだ
家族がずっと一緒なわけが無いのだ

だから

自立したい思いなどとは別にこのお茶会のような
家族と共に過ごす時間を大切にしたいと思う



↑エンピツ投票ボタン押すと文章の続きが見れます


ゆったりした空間の中でたあいの無い話をしよう


今日の一口<今当たり前のことはこれからも当たり前とは限らない>



My追加



2004年03月21日(日)
悲しむ

自分は教科書が好きだ

高校時代に現代文の教科書などを新学期に配られると説明も
聞かないで、その時限目のうちに全て読んだりしていました


そんな高校時代の教科書が出てきて
読みふけっていたのですが

そんな中に共感できる文章があったので
ここに乗せようと思います



悲しむ                          五木 寛之



僕らは顔をあわせると
「きみ悲しいではないか」と昔の青年達のように
自分の心を素直に訴えようとしなくなってしまいました。
何故かといえば悲しそうな顔、憂鬱そうな顔、そんな表情をしていると
たちまち例の<暗い>と言う批判の対象にされてしまうからです。
いま、<暗い>と言う表現は、単なる明暗の状態を表す言葉ではありません。
それは明らかに勝ちの優劣を表す言葉として使われています。
暗さより明るさを、涙より笑いを、悲しみより饒舌を、そして愚にもつかないギャグや
ユーモアともいえない冗談などが、テレビや雑誌や様々なところに氾濫しています。
みんなが<暗い>と言われることを恐れている。
そして明るく軽快で楽しげであることを求めている。
これはひとつの病気ではないかと、僕には思えるのです。

中略

「悲しいではないか」
と顔をあわせるやいなや、思わず発せられずにいられなかった昔の青年達のほうが
暗さを恐れる現代の若者達よりもはるかにいきいきと頼もしく感じられるのです。

昔はよかった、と言ってるわけではありません。ジョークやかろやかさをつまらない
といってるわけでもない。
ただ、私達は悲しむべきときに悲しまない人間にだけはなってはいけないと思うのです。
暗いものを暗いと感じ、悲惨なものを悲惨と見、そして、怒るときは怒り
その気持ちを率直に友人や家族達にぶちまえて悲憤慷慨するような、
そんな人間のあり方のほうが、魅力的に感じられるだけです。
僕は深く悲しむものこそ本当の喜びに出会うものだと思います。
暗さのどん底におりていく人間こそ、明るい希望と出会えるのではないか。
親しい友達や家族と顔を合わせたときに
「なんて悲しいことかしら!」
と率直に言えるような、そんな感性こそ、
今の私達にとてもだいじなもののような気がしてならないのです。



この文書は、高校の3年のときに学んだもので。
当時の自分が見てもなるほどなあと、感慨にふけることのできたものなのですが
今見ても、同じようなことを思えます。

自分自身も深く共感できる部分の文書がここです。


僕は深く悲しむものこそ本当の喜びに出会うものだと思います。
暗さのどん底におりていく人間こそ、明るい希望と出会えるのではないか。


というこの部分

ここは自分も深く認めているところであり
自分自身の考えであり意思なのだ


心の大きさとか偉大さというものはどれだけ
苦しむかによるのだろう
どれだけ苦しむかによって周りの苦しみがわかるし苦しまないと
本当の意味での優しさなんていうものは持てない

楽しさや自己満足やおせっかいでは本当の意味での優しさは
手に入らないんだろう

自分の中に優しさというものを持てないのだろう


それは自分の好きな歌の歌詞にも見受けられるものだ

贈る言葉の

「悲しみこらえて微笑むよりも涙かれるまで泣くほうがいい
人は悲しみを背負うほど人にはやさしくできるのだから」


という部分や


あ〜よかったの

「もしもの話が嫌いなあなたに一つだけさせてほしいお話
もしもうつむいて倒れかけたら泣き虫な私のそばで泣いたら良いよ」


という部分などにも上げられているとおり

泣きたいときには泣いたら良いのだ
悲しいときには悲しんだらいいのだ


それを、笑う力に変えればいい


今日の一口<ユーモアの源泉は哀愁である>


My追加



2004年03月20日(土)
小さな幸せの積み重なり

今日自分はすごく美味しいパンを食べて幸せだと感じた
とても優しい満足感

思わず

「幸せ」

そう口に出してしまったほどだ


口に出した瞬間ふと考えてしまったのだが


そもそも幸せとはなんだろうか

まるで人生の命題そのもののような
話だけれどふと疑問に思ったのだ

恋人と一緒にいることが幸せなのか
食べ物を腹いっぱい食べれることが幸せなのか


そもそもいままでに幸せだと感じたことがあるだろうか



嬉しいとか楽しいとか感じたことがあっても
幸せと感じたことがあるだろうか



自分は今日確かに幸せと感じたけれども
それは本当の意味で幸せなのだろうか



自分にとっての本当の幸せとは何なのだろう




考えたところでこればかりは答えられないだろう



だが、こういう風に考えるのはどうだろうか
幸せに大小とか、強弱、優劣と言った物があるのかと考えた場合
自分は無いと思うのだ


幸せとはそれを感じることが全てではないのか

もちろん刹那的な幸せ、ずっと幸せといった時間的な区別はできる


しかし、本当の幸せなんていうものは確かなものとしてないように思うのだ

それならば感じることが全てではないか



人が生きぬくということは

小さな幸せの一つ一つを大事に心の宝石箱に入れているからこそ

できるのだろう




だから、自分はこう思う


そんなちっぽけな幸せとか

否定的に考えないで



本当の幸せが何かとか

探索したりしないで



もっとめいいっぱい

自由に感じてみたらどうだろうか


幸せを




今日の一口<小さな幸せの積み重なりを大きな力に変えて>


My追加



2004年03月19日(金)
旧友達との間に見る人付き合いの理想形

人付き合いというのは
難しい

お互いのことがわからないし
どこまで踏み込んだらいいのかもわからない

あまりに踏み込みすぎると相手は気分を害す

逆に踏み込みが浅いと引っ込み思案に見られてしまう




自分には何人か親しい友人がいるのだが、
その中でもとりわけ親しい友人である病み刃や
陸名とはもう5年近い付き合いになる

陸名は至って純粋で、感情表現が豊かな人間だ。

その一方で友達思いで素直で明るいといった
性格の持ち主で自分とは正反対の一面をたくさん持っている


病み刃は少し理屈屋で頑固なのだが根が優しい人間だ

その一方で趣味の話になると急に良く話し出したり
ネタがあがっていると深くまで話ができるような所もある



全く性格が違う彼らといると
仲が悪そうに思えるかもしれないが
決して居心地は悪くなく
むしろとても良い

色々なところで刺激がもらえるのだ



思うにここまで仲良くなれた理由と言うのは
お互いの距離感からではないだろうか

適度にお互い踏み込みあえた関係

裏を返せば決して依存しあわず
物事をするときには一緒になってできる

妙な一体感

空気の協調


そんなものを持てる



そんな空気を持てるのはお互いが
腹を割って話をしてきているからだろう

色々な相談や
共にしてきた行動



それらをしてきているから
彼らといるときは心地よく

自分らしくいれるのではないかという風に思うのだ



もちろん相談をするのがいいと言いたいわけではない

自分なんぞは彼らに相談はほとんどしてきてないのだ



ほぼ全て自分で解決してきた


相談することが大事なわけではない



お互いが困ったときに支えてあげるわけではなく
話に乗ってあげれる


それが大切なことなのだろう







そんな彼らとの関係を思い返して思うことは
結局人付き合いとは

お互いの距離感を図ることなのだ

そのためには焦っても仕方が無い

ゆっくりと距離を測っていく


お互いに礼儀をわきまえ
少しずつ
近づいていけばいい



そうしていけばいい



付かず離れずそれでも
お互いのことがある程度はわかる

そんな彼らとの関係を自分は人付き合いの理想形として
自分は考えるのだ




今日の一口<礼儀を重んじる人には人が寄ってくる>


My追加



2004年03月18日(木)
一番大切なもの

自分にとって一番大切なものはなんだろう

親だろうか
友達だろうか

お金だろうか

それとも自分自身だろうか




昔の自分だったなら確実に

友達だ

とここでいっているだろう




確かに友達は大切だ
共にいて楽しい


一生の友達になりうる人達は
最高に大事だと言える



だけれどもその他にも
最高に大事なものが親だ

自分を育ててくれた
生かしてくれた
その恩や、その思いは
絶対忘れることなどできない





ここで、気がつくことができるのが
自分という視点で事柄を見ているということ



結局は自分自身が一番大事なのだ


「自分にとって」


なんて表現をする時点で
一番大事なものは自分自身だということ
を表してしまっているだろう


なんて、理屈を述べた場合そういうことになるのだけれど


別に何が一番大事かなんて
決めなくてもいいとも思うのだ


親にしても友達にしても
お金にしても権力にしても

恋人にしても


大切なのは同じではないか


それぞれに役割があって
皆が大切だ


どれかに絞る必要なんて無い

こういう所は欲張りでいい


それでいいのではないだろうか




今日の一口<大切なのは自分自身のその思い>


My追加



2004年03月17日(水)
好きな歌とその心情と

歌が好きだ

自分は歌が好きだ

その歌を友達と一緒に歌ったら

好きが二倍になる


とても心地よく


嬉しい





今日は久しぶりに旧友とカラオケに行った
数ヶ月前から自分は歌い方を変えてみている

その効果があってか旧友にうまくなったと言われた
とても嬉しい


やはり、自分の趣味をほめてもらえると嬉しいものだ



もともとその旧友が良くカラオケで歌っていた歌なので
余計に嬉しかったのかもしれない





旧友と歌の趣味がひっくり返ったのだ

自分が昔好きで良く歌っていた歌を旧友が歌いだす



なんとも不思議なものだ


そういえば以前本か何かで
読んだのですが


音楽の趣味と人の心理状態は反映しあうもので


心理的に安定を求めているときや悩んでいるとき
要は心が内側に出てる場合には
バラード等の静かな曲を好み



前向きに何か物事に取り組むときというのは
心が外側に出ているときには
ポップスなどのリズムの良い曲を好む傾向にあるらしい


自分は元々バラードが好きで
最近はポップスなども聴く

旧友は元々ポップスしか聴かず
今日はじめて知ったがこのごろ急に
バラードなどが良いなあと思い始めたらしい


そう考えると悩みが急に増えたと言うことなのだろう
無理をしないことを祈るばかりである



趣味が重なったことでいいことが一つ

同じ歌を二人で歌えるようになったということ


もともと、自分はハモるのとかが好きなのだ


一緒に歌うと思いが重なるような気もする

すごくそれが素敵で
楽しい


こういうところにも自分の人好きなところが
顔を見せているのかもしれない




今日の一口<思いは重なり空間は音で飽和する まるで魔法だ>


My追加



2004年03月16日(火)
誕生日=自分が生まれた日

今日はバイト先の知人が誕生日だった


そんな中で聞こえるのは
よくあるこんな会話



「また歳食ってしまったなあ。いややわあ」
「又一つおっちゃんになったね」
「どんどん年食っていけばいいねん」


だが、自分はそんな会話の中には混ざらない
いや。混ざりたくないのが本音だ






自分は歳をとる事が悪いことだとは思わない


歳をとった分経験も知識も増えているはずだし
一歩成長できてるはずなのだから


まあ、もちろん毎日をそして、毎日を何もせずにすごしている人は
除いてだけれども。




それは自分が若いからや。と言う人もいるけれど
この考えはずっと変わらないと思う



それに、元々誕生日とは
例えば21歳なのならば21年前のその日に
自分が生まれたことを祝う日なのだから


今まで生きてこれたことを祝う日なのだから


そういう風に考えて、周りの人に祝ってもらうだけじゃなくて
自分自身も祝ってあげようよ



せっかくの誕生日


もっと気を明るく持ってさ
おめでとうって言ってあげたいじゃないか



今日の一口<考え方しだいでどんなものでも力になる>


My追加



2004年03月15日(月)
ショックが少ない自分

自分は精神的に動揺することが少ない
いわゆるショックを受けるというやつだ

明日には自分はバイトを辞める

その時に感慨というかそういうものもあまり感じない


自分の心に相手を入れてないからだろうか


とある人に

あなたは精神的に強いね

と言われた


嘘だ そんなこと


さすがに、自分も傷つくことはある

今、旧友などに絶縁されたら動揺はするだろう
だが、そのまま傷ついてしおらしくしていてもしかたがないだろう

ああ。そんなものかと、認めるしかないじゃあないか

現実からは逃げられないのだから

傷ついても人より少し復帰が早いだけ

ただ、それだけなのだ




それに、自分は壁を張ってしまう

人と付き合うとき等に大きな壁を張ってしまう


自分はきっと、人を心に入れるのに時間がかかるのだろう

入れてしまうと、それを失った時に心に大きな穴ができる


それを人はショックを受けると言うのだろう


その穴ができないように壁を張ってしまうのだ


それに穴ができても浅かったら
自分にとって傷にはならない

麻痺しているのだろうか

昔受けた精神的外傷がきつすぎてか
あまり、動揺しない



また、自分は相手の行動をうのみにしないで
その話や態度から
相手の考えてることを読み取る癖がある

相手が言ったことの反対の事柄
少し視点を変えた事柄
連想できる事柄


そのおかげで、先を見ることが少しだけできる
先を見て対抗策をねる
そんなことばかりしてるから
驚かなくなってしまってるところもあるのだろう




これら点から自分はショックを受けることは確かにあまり無い

だが、決して受けないわけではないのだ

自分だって人間だ


改造人間じゃない

心が無いわけではないんだ



だから、強いだなんていわないでほしい



大人だねなんていわないでほしい

自分はまだまだ子供だ



今日の一口<大人と子供の境界線なんて無いのではないか>


My追加



2004年03月14日(日)
優しさといたわりを描こう

今日コンテンツをUPした
Messeageというものだ


いわゆる短い詩なのだけれど
四種類に切り分けをすることにした



「歩」志 生き方

「慈」やさしさ いたわり

「我」疑問 解釈 空想

「痛」痛み 悲しみ

の四種類だ




それぞれ、自分が詩にしたいものであり
思いでもあるのだけれど


その中で一つだけ表しがたいものがあった


「慈」だ


優しさとは何だろう


すごく大事なものなのに
言葉にしがたい


相手が困っているときに助けてあげるのが
優しさなのか


それは偽善だといわれたら終わりだ
自己満足と思われるかもしれない



だが、そうしたら放っておいたらいいのか

それはあまりに冷たいだろう



優しくしてあげたいなんて言葉は駄目だ
結局自分がいい気分になりたいだけなのだから




優しさというのは
結局自分が与えるものではなく

相手が、そして自分が感じるものなのだろう




それを、表現するのは自分にとってすごく難しい

だから、結局それとは違うものになるかもしれない





しかし、自分が一番表現したいものもまた

優しさというものなのだ



心を救うということをやっていきたいのだから
大事なものを感じてほしいのだから



自分はただ素直に
詩を書いていこうと思う



文字を捻るとかそういうことをすると
型にはめてしまいそうな気がする



だから、自分がやさしさやいたわりだと感じるものをのせていこう


ただ、真っすぐに



今日の一口<優しさが偽善だというなら自分は偽善者になりたい>


My追加



2004年03月13日(土)
憤りと焦りと

人と待ち合わせをした

その人は時間に来なかった


そんな時他の人はどうするのだろうか


自分はただ、待ってしまう

確かに自分も最初は憤りを感じる

しかし、次第に不安になってしまう

時間とか場所を間違えたかなあ


時間が一時間ずれてるかもしれない
自分か相手が勘違いしているかもしれない



そうおもって待ってしまう。

とりあえず、その時は相手に連絡をしてみるのだけれど
つながらなかった場合は、やっぱり待つのだ。


一時間たってさっきの不安がなくなると次は

事故にでもあったのかなあ

急な用事でも入ったのかなあ

という風なあせりが浮かぶ


結局一時間半たっても、相手は来なかったのだけれど。
我ながら、お人よしだ。


そのしばらく後に相手が連絡をくれた。

そして相手と会った。
どうやら、悪気は全く無く忘れられていたらしい


「ごめん」


謝罪の言葉を言われた


自分は

「いいよ」

そういうしかなかった


悪気が無かった相手を攻めれるはずも無い

会って謝ってくれただけで嬉しかったし

「終わったことは仕方ない」

そう思えた。



我ながら冷めていると思う。


でも、ここで相手を罵ってなんになろう。

自分の気は晴れるどころか真っ黒な雲に覆われてしまうだろうし

相手の方もひどく傷つく


せっかく仲がいい相手といざこざを起こすべきでもない

もう二度と相手がやらなかったらそれでいい


何より謝罪の一言に自分自身救われたのだ


憤りから優しさへ

思いを変えられたのだ



今日の一口<過ちは誰もが犯すもの一度くらい許してみよう>



My追加



2004年03月12日(金)
がらんどう

たまにとてつもなく空虚に
自分がなるときがある

嬉しいのか楽しいのか

不安なのか焦りなのか

それすらも
何もわからない

とてつもなく自分ががらんどうに
なるのだ



なんなのだろう、これは



ただ、空虚で

ただ、静かで



感情の無い人形のような自分



そこには何も無くて

ただ、何かが波紋のように広がる



真っ暗だ


いや。真っ白かもしれない



何もかにもが不確かで



感情も

思いも


何も無い



今日の一口<ただそこにいる ただ生きている>


My追加



2004年03月11日(木)
剣と魔法と

先日ファンタジーが好きだと自分は綴ったのだけれど
その魅力としては、自分の場合
「魔法」
というものがあげられる。

自分は魔法とか超能力とかいうものが好きで
使えたらいいなあとは思わないけれども
あこがれるのだ。


だから、自分がRPGをするときは必ずといっていいほど
魔法使いを選んでいた。


だが最近、自分はRPGでいうところの戦士とか格闘家が好きだ。


唐突にではない。
ゆっくり…いつの間にか好きになっていたのだと思う。


結局自分は、自分のもっていない「力」に憧れていたのではないだろうか

幼いときは魔法という漠然とした。
でも、インパクトの強いものが好きだったのだが。


今日この頃になり、実際自分が身につけられる力が、好きになったのだとおもう。


そしてそれはたぶん、憧れるだけで、終わっていた「魔法」とは違い。
そうなりたいと思ったからこそ

その思いが強くなったからこそ

変わっていったのだろう。



今日の一口<強くなりたい体も心も>


My追加



2004年03月10日(水)
相談

今日は久しぶりに旧友と会った

そんな中でまあ、相談みたいなものをされたのだけれど

恋人について将来について友達関係について
いろいろ悩んでるみたいだ。

その内容については本人のプライバシーもあるので
ここでは深くは語らないけれども。


そんな中で、友達関係の悩みの話の中で、彼らしさが出てた言葉に
自分は妙な共感と、反発を覚えた。


その言葉とは

「自分は誰も嫌いたくないし切りたくは無い」

という言葉。


友達数人が嫌いあっていて

どうやら板ばさみにあってるらしいのだ。


その中には彼自身に悪い影響しか与えてないだろう人もいるのだけど

それでも、きりたくは無いという。

確かに自分も、人を嫌いたくは無い。
どちらかというと好きでいたい。

でも、それは、お互いに心理的に得があるからこそ
「一緒にいて楽しい」と感じるからこそ
そう思えるだけで。

損しかないのにいやいや付き合うことは自分はしないし
よっぽどひどいと切るのだが
彼はそれができないでいるようなのだ。

もちろん、彼の友達一人一人と仲がいい彼自身からしたら
できないのも当然かもしれないのだけれど。


それでも、友達に順位を持ち出せるくらい
自分にとっての必要さ加減がわかっているのであれば

切ることもしないといけないだろう。


彼は本当に優しい人なので
彼自身そんなことを1度もされたことやしたことがないのだろうけど


自分が傷つくのがいやだから
切らないのであれば

それは優しさじゃあないだろう。


逆に相手を騙しているようなものなのだから。



↑エンピツ投票ボタン押すと文章の続きがみれます



彼はそれに気がついてないのだ。

だから、自分は 
あえて聞くだけにした。

一応それなりの意見は言ったけれど
なるべく聞くだけにした。


自分が意見をいっても、理屈でわかっても感情でわかれないだろうから
聞くだけにとどめた。

話をするだけで少しは楽にはなるし。

気持ちの整理も少しはつくだろうから。


答えは結局彼の中にあって、彼自身がそれに気がつくまで
自分はそれくらいしかできないのだから。



今日の一口<優しさも強さも持った大きな人間へなろう>


My追加



2004年03月09日(火)
ファンタジー小説

先ほどとある方とメッセをしていたのだが
その人と小説の話題が出た。

先日、日記に小説を書いてると綴ったのだが
そこからから、どんな小説が好きかという話や、
小説を書いてみたいという話になったのだ

以外かもしれないけれども、
実は自分はファンタジー小説が好きだ

何故かと聞かれても困るけれども
自分は元々空想家で、物語が昔から好きだったのだ


ナルニア国物語りやとぶ船
川辺にそよ風などなど。

さまざまな本を読んできた。


どれも、自分にとったらとても面白く、楽しんで読んでいたと思う。
今、読んでも楽しんで読むだろう。







何故好きになったかときかれると
いつの間にか好きになっていたと答えるのだけれど


何故、ファンタジー小説なのかときかれると

何故、「非現実」なのかときかれると


ふと、思い当たることがある。


自分は昔は決して現実と向き合う人間ではなかったし
どちらかというと遊びまわって、友達と一緒にいるのが好きな人間だった

将来について考えることを怠っていた

自分の殻に閉じこもり無茶ばかりして親にも迷惑をかけた。

そんな中で、現実逃避の手段として
ファンタジー小説を読んでいたのではないだろうか。

もちろんそれは小説だけに当てはまるものではない。
漫画とかゲームとか、娯楽の物全てだ。


昔の自分は自分でも気がつかずに、「仮想世界」に逃げていた気がする。

親によく昔言われた。
地に足が着いてないぞと。

そうなのだ。自分は逃げていたのだ。

だけれども、娯楽のものが悪いわけではない。
それは過去の自分が悪かったのだろう。

視野が狭く、逃げている自分にも気がついてなかった。
今、思い返すと恥ずかしいことをしていたと思う。



現実と向き合うことを心がけている今の自分もファンタジーは好きだ。
そもそも、逃げるということも悪いことではないのだ。
使う場所を間違えなければ。


例えば友達と喧嘩をしたその日に
小説を読んで、終えたときにはうつな気分が無くなっていた。
次の日にはおはよう。ごめん。といえるだけの力ができた。


逃げるというより、心を休めると考えたほうがいいかもしれない。


そういうことはしてもいい。



そんな風なことはしてもいい。







今日の一口<逃げるではなく休む事。力を蓄えて進もう>


My追加



2004年03月08日(月)
自分の甘さ

自分はこの、半年間
休学をしている

その理由は大学生活をする上での
自分の考えの甘さからだ。

自分は大学に進学する際、
やりたいことを探す時間を得るために
大学に行こうと思っていた。

だが、実際行ってみると
何をしたいのかわからない自分は
何にも執着して物事を出来ず
講義も楽しめなかった。

やりたいことを探すという名目で
現実から逃げていたのだ。


そして、ついには学校に行かなくなった。

講義が
分からない。

大学の友達とも縁がきれた。

それは自分のせいなのに
目を向けれずにいたのだ。

自分は甘かった。
考えも理念も志も何もかも。


そして自分は
休学することにした
自分の気持ちを整理するために

そして結果は上々だと思う。

ここで深くは語らないが。

やりたいことを探す述を見つけた。

自分の視野が広がり
気持ちが高揚することの
意味を知った。

本当の意味で自分と向き合えた


人間関係について自分と向き合えても
将来について向き合えてなかった。

そんな、自分の甘さを知れた。


だから

今自分は休学してよかったと思える。


今日に一口<自分と向き合えてる所もあれば、逃げている所もあるだろう>


My追加



2004年03月07日(日)
音の飽和した空間とその中で涙を流す自分と

今日、コンサートに行ってきた。

楽器で埋め尽くされた舞台をを目の前にして
自分は思わず微笑んだ

本当に久しぶりなのだ。

昔は、よく音楽を聞きに来たものだけれど
ここの所は来ていなかったものだから

嬉しさからか微笑んでしまったのだ。



ブザーが鳴り
演奏が始まる

自分は、音に飲み込まれる

この音に飲み込まれる感覚というのは

生のコンサートでなければ
味わえないのではないだろうか。

なんともいえない感覚。

言葉に出来ない感覚。


自分は感覚がとても好きで。
音楽によっては、涙を流してしまった。


自分の中の何かが昇華されて
新しいものに変わっていく。

そんな感覚。

感動という言葉では表せない何か。

それを今日コンサートで貰えた気がする。

ここに綴るには
自分は余りに表現力が不足していて

筆舌に表しがたいのだけれど

本当にそんな気がするんだ。


そんな中こう思った
自分も作りたいと

やっぱり自分も何か呼びかけたいと



…何か伝えたいと。


今日の一口<何かを見て涙を流すのは悲しいからだけではない>


My追加



2004年03月06日(土)
かまわれているのか。好かれているのか。

自分は人にかまわれるのが嫌いだ。


ベタベタされるのや、甘えられると
げんなりしてしまう。

こちらに寂しいという気持ちや
かまって欲しいという雰囲気をかもし出してくる人。
それにこちらに何かをしてあげたいと明らかに伝えてくる人
これらの場合は突き放してしまう。

やってもらわなくてもいい。
放っておいてくれと
思うわけだ。


でも、人に好かれるのは好きだ。
人に触れていたいとも思う。



ここで、ふと思ったことなのだけれど
自分は何処でこの境界線を作っているのだろうか

好かれていると感じる線と
かまわれていると感じる線の
境目は何処にあるのだろうか。



たぶんそれは
自分にとって、得かどうかではなく
自分の心の領域を
相手が踏み越えて来ているかどうか
という風に見ているのではないだろうか


例えば、自分がいくら
お金に困ったとしても
奢ってあげると言われると
自分は要らないというだろう


いくら寂しいと思うときでも
こちらが好きでない相手に
甘えられると
徹底して突き放すだろう


自分で解決するから
放っておいてくれと思うわけだ


解決できなくなった時には素直に誰かに頼るからと


だが、自分が嫌いな人種というのは
自分が助けを求める前に
大して困ってない時に
かまってくる

そして、一番助けが欲しい時に
本当に助けが欲しい時に
逃げ出す。


あの人たちは分かっていないのだろう

相手をを助けることで
自己満足を得ようとしているだけだということを

結局自分のためだということを。


それも分からずに

こちらの気持ちを考えずに
相手は気持ちを押し付けてくる

そういう風な人たちに

自分は「かまわれている」と
感じるのだ。


だから、逆にいうなら
礼儀をわきまえている人や
丁寧な人は
自分はとても好きだし。
好かれると嬉しい。


結局そういうことなのだ。
境界線を心の扉と考えるなら

心の扉を開く前にノックもせずに踏み込んでくる人か
心の扉をノックして、こちらが開けるのを待ってくれる人か


その差で

かまわれているか
好かれているか


自分は

区別しているのだ。


その差は自分にとって
とても大きくて
大事な所なのだ。


だから

間違えてとかならともかくとして

そういったことも分からずに



この扉を
踏み込んで
踏みにじってきた人とは
自分はまともには付き合えないと
おもう。



今日の一口<当たり前と思っていることほど怖いものは無い>


My追加



2004年03月05日(金)
素直な自分を出していきたい

ここの所自分は

素直な自分を出せてない気がする

ありたい自分では

無い気がする


ここでは確かに

素直な自分の
考えや感想はでているのだけど。

思いというか…

本心が出せてないような
気がするのだ。







例えば

自分は先日

自分のエゴだと、分かっていて
相手の行動が本当に正しくないと思った場合
俺は物凄く攻撃的に相手に接するようにするのだ。


と、ここの日記に綴った。


それも自分の考えの一つだろう。

だけれども。

自分が正しいと思うことは
必ずしも相手にとって
正しいことではないのだ。


だから、先の日記に綴った内容は
押し付けだということも解っている。

解っていても、ああいう行動を
自分はとってきているのだ。

相手が好きなほど腹が立つから
解ってもらえないことが悔しいから



でも本当は自分は
あう人全てのありのままの
考えを受け止めて

そういう考えもあって良いんじゃあないかと
いいたい。

その考えに同調するわけではないけど
自分の考えはきちんと持ったまま
相手の考えを受け止めるようになりたい


決して、それを流す訳ではなく
受け止めれる人間になりたい





こんな風に
自分の中には凄く相反した自分がいる。

まるでよくある

悪魔の心と天使の心のように

考えを現状のまま貫こうとする自分と
考え方を広げようとする自分

エゴが出てしまうのが
前者で

ありたい自分が
後者だ


自分はこの
二つともを
普段は出さないようにしている。


そしてこの日記で
綴るようにしているのだけれど。


最近ありたい自分を
ここで綴れているのか
解らなくなった。

身勝手な前者ばかりが出ている気がする。

だから、これからは
今までの日記を見直して
ありたい自分を
なるべく出していこうと思う。


でも、自分のことだ
また前者の内容を綴ってしまうかもしれない

いや。そうするだろう

そのときはまた
心と向き合って

後者の考えを出していけばいい

そうしていけばいい


今日の一口<人間関係は一生の勉強だろう>


My追加



2004年03月04日(木)
反省はしても後悔はしない

ここに詳しくは綴れないけれど。

自分は先日ある人に
ひどい事をやってしまった。


だけれども
返上することを
諦めたくは無かった。


馬鹿な自分をさらしてしまったら反省を

相手を傷つけたのなら償いを

相手に嫌悪を抱かせたなら謝罪を


いち早く。

伝えた。




そのおかげかは解からないけれど

自分は今日

やってしまったその人に

許しをもらうことができた。

本当に嬉しい。



もちろん。自分のやった事が
無くなるというわけではないのだけれども。


やってしまったことを後悔しても
何もでないだろう。

だから

反省して
もう二度と同じ事をしない。
と誓うことしか。

自分には出来ない。



本当に嬉しい。


ありがとう。


今日の一口<言葉にすると嘘になりそうで それでも綴らずにはいられない>


My追加



2004年03月03日(水)
ドッペルゲンガーと出会ったら

自分とまったく同じ性格の人に出会ったら
自分はその人のことを嫌うだろう。

だが、ここで誤解して欲しくないのが
自分の性格が嫌いなわけではないということ。
俺は自分が好きだ。

だけれども、自分の悪い所を
見せ付けられた場合

自分はその相手のことを間違いなく嫌悪するだろう。



だけれども、会いたいとは思う。
それは何故か。


自分は今までに自分の性格と似通った人に
幾人か会っている。

特に、自分の悪い所が似かよると
最悪だ。

嫌いになるというよりもう
疲れてしまう。


まさに千日手になるのだ

似たところがお互いに譲らない場合は特に。





だが、そういう人達に会うと
自分はその人達を反面教師にして
悪い所を直してこれたような気がする。

他人の振り見て我が振り直せというではないか。





だから、もし
中身も容姿も、全て同じ

ドッペルゲンガーが居るのなら

自分は是非あってみたい。



他人もそうだが、それよりも
一番分からないのは自分だから。

少しでも分かるために。




もし出会ったら
すぐに喧嘩をしたいのだ。

ガンガンぶつかり合って
喧嘩をして

悪い所を直せたら良い。

そして、最後に笑って

友達になれたらいい。

今日の一口<一生かかって理解していこう 自分自身を>


My追加



2004年03月02日(火)
自分が年齢を載せていない訳

突然だけれど
何故自分がProfileに年齢を
載せていないか。

疑問に思う人も多いと思うので
ここに綴ろうと思う。

というのも
自分の年齢を知っている知人に
何故かと聞かれたり
知りたいという人が
いたからだ。




簡単にまとめると理由は二つ。



一つは自分は見た目がどうも実年齢と
当てはまらないらしいということ。
容姿や態度といったものがね。

だから初めて会う人間に
実年齢を当てられたことがめったと無い。

それなら、初めから教えれば良いじゃないか
と思った人もいるかもしれない。

だけど、それは逃げたことになるような気がして
この辺は自分は馬鹿だなあと思うところなのだが。
こだわってしまうのだ。
あたらなければあたらないほど。

だから、当ててくれたときは凄く嬉しかったりするのだ。






もう一つは自分は年齢に対する
周りの視点が嫌なのだ。

年齢という枠にはめて自分を見て欲しくない。

特にネット上では年齢で
判別をつける人が多いだろう。

そういった先入観をもたれるよりも先に
自分の中身を見て欲しい。
そういう風に思う。


特にHPという形で自分を少しでも
表せているのだから。


中身を見てそれから容姿をみて
その後で、年齢を聞いて欲しい。


だから、自分は実際会うまでは
年齢は教えないようにしているし
教える気は無い。


だがもし、自分がこのこだわりを
捨てられるようになったら
その時は。

自分は堂々と、年齢を発表するだろう。



今日の一口<こだわりを捨てられないのは子供だということかもしれない>


My追加



2004年03月01日(月)
又 やってしまったのだ

昔から変わらなかった

人付き合いの下手の所

少しは治ったと思っていたのに

又やってしまった




明るい相手にはなるべく明るく

誠実な相手にはなるべく誠実に

砕けた相手にはなるべく砕けて



それが出来ぬなら我を攻撃的に出して




そんな風に、相手によって自分の出し方を

無理にかえてしまうのは

逆に、相手に嫌な思いをさせてしまう


そんなことは分かっているのに





又やってしまった





相手に好かれたいがゆえに

自分の出し方を変える


自分に自信が無いがゆえに

相手の視線を気にする



そんな事ばかりして

空回りばかりだ



素直な自分で、生きていこうとしていたのに

もっと、ありのままでいこうと思ったのに


又、やってしまった




そして、やった後でいつも思うのだ
もう二度とやらないと


そして、いつもしばらくして気が抜けた頃に

又やってしまうのだ



だから今度こそ二度とやらないように
ここに綴ろう


今のこの思いを


俺の大馬鹿野郎



今日の一口<回顧と反省との後には前に進もう>



My追加