みょうの日記
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2006年10月31日(火) 教育ってむずかしい

いじめ自殺問題が連鎖反応のようにあちこちで起こっている。

そのたびに判で押したように「謝罪→前言撤回→知らぬ存ぜぬ」を繰り返す学校側の対応。
あれだけ批難ごうごうであるにもかかわらず、また批難を浴びるとわかっていても、まるでそれが仕様ですとばかりにオウムのように繰り返している。
まさかと思うが「決して認めてはいけない」ことが学校側の常識であり、普通に認めてしまうことはおかしなことという認識でもあるんだろうか。
だとすれば、学校社会と一般社会のなんとかけ離れた感覚だろう。

必須科目であるはずの社会科未履修問題も、そう考えると生暖かい笑みが浮かんでしまうほど、いろいろ暗示してるようだ。
未履修ではないものの、たしかに私の時代も歴史はけっこうおざなりな授業ではあったけれど。

受験科目が大事というのは・・・、まあわからんでもないが、自国の歴史をないがしろにするほど大事かというと疑問を感じないだろうか。国際的に通用する人間を育てようとするならば、外国人にきちんと自分の国のことを論ぜられる人間を育てることこそ大切だと思うんだけどね。

今の教育ってさ。なんていうか……、根本的に間違ってる気がする。
みんな忘れているかもしれないけど、大学に行くために勉強するんじゃなくて勉強するために大学に行くのが本当なんだよね。
つまり。
私見だけど、勉強する気のない人間が大学なんか行ってほしくないのよ。
そもそも高校だって義務教育じゃないんだから、本来は別に行きたくないなら行かなくたっていいんじゃないの?
どうして「就職」っていう選択肢を大人側は排除してしまったんだろう。

行くのが当たり前な風潮が本来の就学意欲を奪ってる気がしてならない。


2006年10月17日(火) すごいなぁ・・・

子供を取り巻くまく教育環境が・・・最悪だね。

親の躾がなってない。
教師の倫理もなってない。
教育委員会が機能していない。
文部科学省が無能すぎ。

さて。これはいったいどうしたらいいんだろうか。

親もね、よく「まだ小さい(幼い)んだから」と子供を甘やかすのがいるけど、じゃあ、いつになったら教えるんじゃってのがあるわけよ。学校に行くようになってからじゃ、基本的な善悪を教えるのは遅いんだっての。そのくせ、なんかあったら過剰にかばうのも止めだ止め。その過干渉が子供をだめにするんだよ。

教師ね、言わずもがなだ。子供に教育する気持ちがないなら教師なんか辞めてしまえ。「先生」と言われる以上、それなりに襟を正せ。人間的成長が足りなさすぎる。

教育委員会ね、なんのためにあるんだか。教育関係の評価では「いじめを出したら教育者失格」「最低のレッテルを貼られる」? だから「いじめ」問題が起こっていることを肯定しない? 世間はね、起きたときの対処の仕方を評価するんだよ。
「いじめ」のまったくない社会なんてのはありえない。それは誰だってわかってる。それをなかったことにするなんてことぐらい、最低と言われることはないんだよ。

文科省、おいおい、毎年いじめによる子供の自殺者が0だって? よくそんなあからさまにうそ臭い報告を鵜呑みにして、厚顔無恥にも発表するね。意味のない統計なんかする必要もないんじゃない?


なるほど、日本の国は子供を大人に育てようって意思が薄弱なんだね。


2006年10月16日(月) こんなんばっか・・・

今度は教師か〜。
なんというか・・・。あきれてものも言えんわ。まぁね、昔の教師はすばらしかったとは言わんよ。教師だって人間さ。全ての生徒を可愛いとは思わないだろうし、生理的に受けつけないなんて思うこともあるだろう。
だけどね、言っていいことと悪いことの区別ぐらいはつくだろう。
しかも難しい年頃の子供を相手にする職業なんだから。

私事だけど、5,6年の頃の教師が実は嫌いだ。
彼はどういう大人の事情が働いたものか、新卒のくせにいきなり5,6年生の担任になった。大学的なやり方を導入し、席は自分の好きな位置に置いていいなんて言うものだから教室の中はいつもぐちゃぐちゃだった。テストはまったくしない代わりにレポートを大量に提出させ、いずれ習うからと中学高校の問題までいきなり出題し、できない子供は居残りさせられた。元から算数も好きじゃなかった私は数学が大嫌いになった。授業の中に勝手に【自由】なんて科目を作って勉強しない授業さえあった。というか、遊びの時間の記憶の方が多かった気がする。

プールがあった次の授業のときのことだ。
濡れた髪がまだ気持ち悪かったから、無意識のうちに何度も手で梳きながら授業を聞いていると、「気に障るからそういうのやめてもらえませんか」と吐き出すように言われた。授業中友人から手紙が回ってきたとき、手に取った瞬間「授業中に何してるんですか、●●さん」と名指しで言われた。
普段、彼は生徒に対して「だろ?」「だよな〜」と言った口調なので、嫌味含めての言葉なのは確かだろう。
今となっては自分がどう対応したのかも覚えてないし、細かいことを思い返せば、もしかしたら自分は担任に嫌われていたのかもなぁなんて思うぐらいだが、言われた記憶は実際いつまでも残っている。
もちろん、単に彼の虫の居所が悪かっただけかもしれないが。

子供の世界は非常に狭い。普段から接する大人といえば親・親族・教師ぐらいだ(ご近所さんは最近親の交流自体少ないみたいだしね)。それだけに、対応次第で子供によっては全否定されたに等しいと感じることもあるだろう。
教師は、自覚しなければならない。
子供が初めて親のおまけではなく直接向き合う【あかの他人】の大人が自分たちだということを。
つまり、きちんと大人でなければならないのだ。
子供と同じ目線でモノを見る力も必要だが、子供と同じ思考ではいけないのだ。それだけ教育する立場の人間は覚悟を持って臨まなければならない。
本来なら、学校社会でしか生きたことのない人間が子供を導くのはおかしい。社会を知らない人間が、社会に出て行く人間を指導することなんてできない。

教育制度改革は、まず教師。
ついでに絵本や漫画や写真集みたいな教科書をなんとかすることからはじめてほしい。機会があったら今の教科書を見てほしい。あんな幼児向けのような教科書に慣れた子供が本なんか読むわけはない。
ま、教科書に関してはまた別の機会に・・・。

ちなみに、私の担任は私のクラスが卒業してすぐに「自分は学校教師には向かない」と言って学校を辞めた。つまり、2年で教師に見切りをつけたようだ。
もっと早く気づいてくれればよかったのに・・・。


2006年10月06日(金) イライラしてくる

民主の質問はいつ聞いてもイライラしてくる。
「またやってる・・・」
本当にこの言葉しか出てこない。
攻撃できる点がそこしかないってことなんだろうか。

歴史認識問題って、あの人たちは日本の国に何を言わせたいんだろう。
「ごめんなさい、もうしません。これからは毎年必ず謝罪と賠償をし、総理が代わったら謝罪と賠償をし、戦後なぜか出てくる新たな大罪を、真摯な気持ちで受け止め償い、なんかちょっと記録がおかしいんじゃないなんて疑問は欠片も持ちません。すべてワタクシが悪いのです。存在自体が悪いのです。未来永劫日本が存在する罪を背負って謝罪と賠償を続けていきます」
とでも言わせたいんだろうか。

そもそも。
過ぎたことを今の倫理観に照らし合わせて非難するなら誰だってできる。誰にだってできることなのだ。言おうと思えば私にだってできる。
だってそれは過ぎたことだから。
結果がわかっていることだから。

そりゃ戦争なんていいことじゃない。
けれど正義がないという事とも違う。皮肉だけど互いの正義と正義がぶつかったときに戦争になるのだ。つまり「正義」なんてものはあくまで自分本位なものであって、万人が共通する認識のものではない。
そしてそうである限り戦争がなくなることも決してないのだ。

それぞれの時代にはそれぞれの背景があって、倫理観があって、信念がある。
それは一部の人間が先導していったということも確かにあるかもしれないが、では、あの時代に別の誰かが指導者だったら戦争にはならなかったのか。
たとえば、ここぞとばかりに批判している者の血縁者が指導者だったら戦争は起きなかったのか。
私は答えは否だと思う。
時代の流れというものは、そんな些細なことで変わっていくようには思えない。
それが大きな流れであればあるほど。
もちろん、IFなんてことは考えるだけ無駄だが。

私たちがしなければならないことは、過去の戦争を糾弾し続けることではない。
過去の戦争から戦争回避の糸口を見出すことだ。どうすればかつての惨劇をなるべく繰り返さないようにしていけるかと模索していくことだ。

「間違った戦争」という言葉をよく耳にする。
では正しい戦争というものが果たしてこの世界のどこにあるのだろうか。


2006年10月04日(水) 過ぎたるは及ばざるが如し

・・・まぁ、昔の人はよく言ったもので。

どこかの国の人たちには、この言葉を教えてあげたいね。
過度の脅しや要求や請求は、かえってカードにはならないよ。

それにしても、北朝鮮は気づいているんだろうか。

自分たちがもっとも毛嫌いしているはずの日本と、いや大日本帝国と同じ道を歩もうとしているということに。

世界から孤立した国が戦争へひた走る歴史は、日本に限らずたくさん前例があるっていうのにねぇ。

まぁ、こんなことは仮想敵国の人間に言われたかぁないかもしれないけどね。


2006年10月03日(火) 目をつぶるにもほどがある

子供が自ら命を絶つというのは痛ましい。

考えてみれば、自分が小さい頃も確かに「いじめ」は存在した。けれど、周りを見回してみれば、世の中のあらゆる事象は昔とは考えられないくらい進化を遂げ、情報媒体も飛躍的に増えた。
つまり、子供の感性ばかりが昔と変わらないものであると考えるのはおかしいのである。
子供は吸収が早い。
大量の情報を貪欲に取り込み、時に大人もたじろぐほどの賢しい知恵を身につけている。もしかしたら本人さえもそうと気づかないうちに。
他人に対する気配りもまだ未熟な子供たちは、その分攻撃の手もえげつない。

頭の固い大人ばかりがその感覚についていけないのだ。

子供は無邪気な存在などという覆いを取り除いてみてはどうだろうか。実は驚くほど、したたかな存在がそこにいる。
大人は、子供に負けないようにしたたかに強く導く存在でなくてはならないと思う。
実はそれほど大した存在ではないのだと気づかせるのは、子供たちが大人になった時でいい。

遺書を残して亡くなってしまった子供。
その子の、血を吐くような思いが伝わるその遺書を、あくまで手紙と言い放ち「いじめ」とはっきり言葉に書かれていないから「いじめ」があったかどうかは確認できない、などというような頭の悪い受け答えしかできない者が教育委員の人間だとは、これはもう子供たちに「大人を馬鹿にしてください」と言っているようなものだ。
まさか本気で言っているわけではあるまいが、本気で言っているとしたらたちが悪すぎる。
7通もの遺書の、あの内容が彼らの脳に理解できないとは・・・。

あの頭の中にはオガクズしか入っていないのだろうか。


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