てらさき雄介の日記
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2005年09月30日(金) 一体何の行列か

堺6日目です。今日の朝立は、泉北高速鉄道の「泉ヶ丘」駅です。

駅が28もある堺市では(相模原は15)、選挙期間中にその一部しか候補者は立てません。乗降客数の多い順に計画しています。

6時前に到着すると、二十人ほどの行列が出来ています。朝早くから一体何事でしょうか。更に数分たつうちに、列は五十人くらいに膨れ上がります。

行列の先頭は何と駅の売店。この現象が何であるか、人に聞いてしまうのもつまらないので、ビラを配りながら少し考えてみました。

すると閃きました。そしてそれが正解だったのです。行列は・・・何と。

阪神タイガースの優勝記事が載っている新聞を、全紙買いたくて並んでいたのです。

個々で配達される新聞は大体一紙から二紙でしょうし、コンビニ売ってるのも数紙に限られています。

だから駅までわざわざ買いに来るのです、売店がまだ開店してなかったため行列になっていたのです。

売店もしっかり準備していたようで、「阪神優勝記念」のビニール袋も一緒にお客に渡しています。行列の整理係も配置しています。

プロ野球球団が地域に密着していることと、ファンが熱烈なことに改めて感心しました。

いよいよ明日が堺市長選最終日です。あさって日曜日に帰相します。


2005年09月29日(木) 関西弁「さかいひがし」

堺5日目です。顔見知りの地方議員も全国から応援に来るなか、Tシャツ姿で運動しています。

朝立ちは、南海鉄道「堺東駅」です。「堺東駅ご利用の皆様!」というフレーズの「さかいひがし」の発音が、どうもご当地と私では違うようです。

「発音違うやん!」と突っ込みを受けてしまいました。

早速候補者をまねて練習した結果、何とか周りに理解頂ける発音になりました。

関東の「さかいひがし」について説明する必要もありませんが、関西の「さかい」は関東で言うところの「境」と同じ発音です。

「さかいひがし」も「境東」と読む感じです。

もうひとつ発見です。応援に来ている関西の地方議員などの演説を聞くと、マイクを通すと関西弁でなくなる方が多いです。

逆に関西弁の演説は、キツく聞こえます。今回はチャレンジャーなので、その方がしっくりもきます。

今日34歳になりました。相模原で政治活動を始めて9年になります。初心を忘れず、これからも頑張ります。


2005年09月28日(水) 仁徳天皇陵の横で街宣

堺市4日目です。朝立ちは始発から行っています。今朝は南海鉄道「三国ヶ丘駅」でした。駅前に広がる“森”は、なんと仁徳天皇陵です。

航空写真は見たことがありますが、実物は初めてです。

世界最大の墳墓であり、堺市では他の古墳群とあわせて、世界遺産への申請を考えている人もいます。

日中再びこの近辺に戻り、街宣車で近隣を流しました。近くには少し小さい(と言っても大きい)天皇陵が2つあります。すべて前方後円墳です。

いくらお金を出しても買えない財産があることは、羨ましい限りです。

世界遺産と選挙運動・・・、少しギャップを感じました。しかしそれは、異邦人である私の感傷ですね。






2005年09月27日(火) 堺市の現状

堺市3日目ですが、改めて堺市の現状を確認してみます。

人口83万5千人、面積150平方kmです。ちなみに相模原は人口63万人、面積90平方kmです。

二十数年前から政令指定都市を目指し、総務省から突きつけられた最後の条件「合併」も、隣の美原町と完了しております。

そして来年4月に、ついに政令指定都市となることが決まっています。今回選ばれた市長は、政令市初代の市長となります。

行政区は7つできる予定で、既に数年前から機能の移管は進んでいたようです。

私が市議をしていた時代、少なくとも3つのテーマについて、堺市に来て担当者の話を聞きました。

ひとつが、保健所設置について。ふたつが、中核市の指定について。みっつめが、政令指定都市を目指していることについてです。

都市化の進行をはじめとした、自治体を取り巻く状況は、相模原と似通っていると言えます。

相模原と明らかに違うのは、過去市長が常に「天下り」であったことです。前の市長は旧自治省から、今の市長は大阪府から、オール与党で引っ張ってきたそうです。

どこもそうですが、この街も新旧入り乱れているようです。





2005年09月26日(月) 堺は広い

堺市長選挙2日目です。堺はとても広いです。日本で一番人口が多い一般市だけに、面積も相模原市のだいたい1.5倍くらいあります。

選挙事務所は市の真ん中にありますが、宿泊している候補者宅まで深夜でも30分以上かかります。

前回の投票率が34%ということもあり、市長選挙についての関心は正直低いと感じました。まあ1月の相模原市長選挙も33%なので、他市のことは言えませんが。

オール与党対共産党という、ありがちの構図と対決しているので、関心ある方々の注目は伝わってきます。

しかし低投票率であっても、10万票を争う選挙。浮動層に支持を頂かなくては当選できません。

とにかく例え薄く広くでも、できるだけ多くの方に接触するのが目標です。

与えられた役割は、候補者街宣車(他に団体車というのもまわせます)のカラス兼弁士です。駅立ちも始発から候補者と一緒にやってます。

昨日も書きましたが、出来るだけ多くのことを経験し、相模原に持ち帰れるよう頑張ります。


2005年09月25日(日) 一路堺へ

午後友人の結婚披露宴に出席した後、大阪の堺へ向かい、先ほど到着いたしました。目的は堺市長選挙に立候補している友人の支援です。

衆議院選挙もそうでしたが、ネット上での選挙運動は基本的に禁止されています。

既に期間中なので、候補者名などが記載できませんが、せっかくの機会なので日記で報告をしたいと思います。

候補者は明大雄弁部の後輩で、堺市議・大阪府議をつとめた後、今日から始まった市長選挙に挑戦しました。

今回の堺行きは、友人の支援とともに、もうひとつ別の目的があります。

それは来年4月に政令指定都市になることが内定している大都市で、果たしてどういう市長選挙が行われるのか見てみたかったのです。

「堺・熊本・岡山・相模原」とは日本の一般市で大きい順番です。私も相模原の説明をするときに、何度となく堺市の名前を使いました。

また相模原市行政も議会も、中核市指定や保健所設置などで堺市に研究に来ており、非常に身近な自治体といえます。

現職市長との対決、しかも政党相乗り状態です。日本の地方自治を歪めてきた“オール与党”体質への挑戦でもあります。

しかし変わってると思うのは、これだけ歴史のある街で、市長が過去旧自治省や大阪府の天下りだったことです。今の市長も同様です。

この部分は相模原市民としても、理解しがたい部分です。

とにかく多くの体験をし、相模原に持ち帰りたいと思います。


2005年09月24日(土) 忍と室井慎次と四月の雪

最近見た映画3本です。

」はイマイチでした。SFXもびっくりするほどではないし、主役2人のラブストーリーも深くありません。

仲間由紀恵とオダギリジョーの対決も、すんなり刺され過ぎた分、悲しさが伝わってきませんでした。

良かったところは、日本の風景と、最後に仲間由紀恵がある決断をするシーンです。

日本映画のひとつの限界に、2時間枠をなかなか越えられないことがあります。こういう大きな物語は、どうしても中身が希薄か、最後が中途半端になってしまいます。

大企業のみが制作費を負担するのではなく、一般視聴者が投資できるようになって欲しいものです。

容疑者室井慎次」は面白かったです。真下正義も見ましたが、こちらの方が上ですね。

‘踊る系’らしくないストーリーと、トーンの低さが良かったです。暗い映画が好きな私にピッタリでした。

ひとつ気になったのは、室井慎次が辞表を出したことです。真実を知るためとは言え、釈然としませんでした。結果元の木阿弥になりましたが、少し安易だった気がします。執念で組織にへばりついて欲しかったです。

四月の雪」は、進んで見たわけではありません。しかしはやっているには、それなりの理由があると思い、興味本位で足を運びました。

相変わらず映画館内はすいてましたが、客層がいつもと違います。ヨン様の中心的支持層である、中高年の女性が多かったです。やはりそうなのかと、感心しました。

元々ラブストーリーは余り見ません。感情移入がしにくいからです。(もちろん面白かった作品もありますが)

この作品も、正直人に勧める程ではありませんでした。

ただタイトルにもなった「雪」景色と、韓国の風習が垣間見れた点は、良かったと思います。

韓国の戦争映画などは、血を血と表現するとことが良い点です。しかしラブストーリーだからといって、必ずしも裸を出す必要はないと思いました。

亡国のイージスを越える、次の作品は何でしょうか。期待しています。


2005年09月23日(金) 構造改革特区の意義と欺瞞

ソレイユ橋本で行われた「構造改革特区」に関する勉強会に参加しました。主催はJC(青年会議所)です。経済産業省の若手官僚による講演で、とても勉強になりました。

閉塞した地域自治のあり方に風穴を空けるという意味において、非常に意義深い制度です。また逆説的ですが、この制度導入によって自治体の創意工夫を促したことも、地方自治の発展に役立っています。

一方で、この制度に隠された欺瞞を、今日も強く感じてしまいました。

「地域の自主性を阻害する規制を外す制度である。」これが政府のひとつの見解です。

全国数百箇所の特区を、是非皆さんもHPなどで見てみてください。今日の講演でも「どぶろく特区」や「自家用タクシー特区」が例に挙げられました。

しかし、これらの規制は、その地域だから問題なのでしょうか。逆に言えば果たして相模原市では、『どぶろく規制』や『自家用タクシー規制』が必要なのでしょうか。

否です。

元々そんな規制があること自体が問題なのです。

現場の官僚が苦肉の策として生み出した制度であるならば、その勇気と努力に敬意を表します。

しかし「構造改革特区」は小泉総理の目玉政策であります。それぞれの地域に法の不備を見つけさせるのではなく、まず政府自身が規制緩和に向けた点検を行うべきなのです。

ただ高度な政治的判断として、将来の規制緩和に向けての実態調査をしているのなら理解もできますが。

講演をされた私より若い官僚は、意欲的で素晴らしかったです。上に対してもガンガン意見して、地域の実態を政府の政策に反映してくれることを期待します。


2005年09月22日(木) 藤井裕久先生と 最終回

少し話が戻ります。自自公連立の瓦解と同じくして、小渕恵三総理が亡くなりました。後任の森喜郎内閣は様々な理由により支持率が低下し、あわせて自民党の信頼も失われていきました。

相変わらず民主党の支持率は一ケタでしたが、一方で自民党もついにここまでかと、新しい政治の流れが起こることに期待しました。

しかし森内閣が総辞職後、自民党は切り札として小泉純一郎氏を総理にしたのです。そのブームの‘凄さ’や、内閣支持率の高さは、まさに異常でした。

「このままでは二大政党は潰える。自民党の中身が何も変わっていない中、今民主党を潰すわけにはいかない。」

大上段に構えた決心ですが、一方で自分がやらなくてはいけないという使命感でもあったのです。

また、「政党に入らず無所属でいる人間が、果たして自民党の批判ができるのか。」という長年感じてきた思いも重なりました。

決断後、残念ながら地元で色々あり、結局松沢成文代議士(当時)にアポを取り、議員会館の事務所で決意を伝えました。松沢氏は入党の紹介者になることを了承し、その場で党神奈川県連に電話をしてくれました。

さて行動が先に立つのが悪い癖でもあります。民主党入りをするにあたって、藤井先生のまわりの方々に理解を求めることを怠りました。これは反省です。決して少なくない方々が、私の決断で迷惑を被ったと後で聞きました。

藤井先生に対しても、割り切れない申し訳なさが残りました。無所属なら可能だったことが、正式に他党の党員になれば出来なくなるからです。藤井事務所の信頼している地元秘書の方から、藤井先生に趣旨を伝えてもらいました。

藤井先生「そうか。まあしょうがないな。」と言われたそうです。(伝聞)

その後です。入党した民主党地元支部内において、藤井系だった私に対し冷たい言動もなかったわけではありません。しかし信念で入党したわけですから、雑音など気にもなりませんでした。

年が明け、民主党公認候補として県議選に立候補することを決めた私は、改めて藤井先生とお会いしました。これも信頼していた秘書の方が、段取りをして下さったのです。場所は相模大野のある喫茶店です。

寺崎「県議に立候補します。」
藤井先生「政党からかい?」
寺崎「そうです。民主党に公認申請したいと思います。」
藤井先生「無所属なら、色々やりやすいんだがな。」
寺崎「いえ、やはり民主党でやります。」

そして藤井先生は、はっきりと言いました。

藤井先生「まあ一緒にやる日もくるから、お互いそれまで頑張ろう。」
寺崎「二大政党は夢ですが、遠い話でしょうか。」
藤井先生「いや、ここ2、3年のうちだな。」

最後の部分については、正直その様になるとは考えませんでした。もちろん期待はしていましたが。

その後正式に民主党公認候補として県議選に挑戦し、平成15年4月に敗れるまで、藤井先生と藤井事務所そして後援会の一部の方々は、様々なカタチでアドバイスをして下さいました。

落選した後、次回を目指し活動を始めました。しかし4年という月日は、とても遠くに見えました。

夏になり、テレビを通じて民主党と自由党の合併を知りました。程なく以前お世話になった藤井事務所の方や、後援者の方からご連絡を頂きました。選挙の支援要請です。

浪人中ではありましたが、要請されるまでもなく自分の選挙のつもりで活動しました。結果藤井先生は5回目の当選を果たし、民主党も躍進しました。

そして有権者は口々に言いました。「二大政党の一翼を担う民主党」と。

この言葉をテレビや新聞で聞くたびに、自分のひとつの想いがかなったことに感動しました。そして次のステップは「政権交代」だと確信しました。この時期に現職でないことが、悔しくてなりませんでした。

今日現在、私は次期県議選の民主党公認候補予定者です。一年半後の選挙に向けて、この時期に公認候補を決定することは前例がありません。

党神奈川県連の方針もありましたが、藤井先生の多大なる後押しがなければ、私の公認はあり得なかったでしょう。

藤井先生が引退の直前に下さった、この公認を大切にし、一日も早く現役議員として発言の場を得ることが、ご期待に応えることに繋がると考えます。

長々と書いてまいりました。藤井先生も政界を引退されたとは言え、第三の人生を違ったカタチで歩まれて行かれるはずです。

何年前からでしょうか。藤井先生の演説や話は、若い人間に対して何かを教える教師のようでした。

「かつての戦争は政治の失敗だ。これを繰り返してはならない。」

この言葉を、私の政治信条の中心に据えて、これからも頑張ってまいります。

そして将来は、藤井先生からお世辞ではなく「良い政治家だ」と言われるようになってみせます。

平成17年(2005年)9月22日。藤井先生と出会ってから15年の月日が流れました。

もうすぐ34歳になります。


2005年09月21日(水) 藤井裕久先生と その七

大分長くなりました。今しばらくお付き合い下さい。

長友義樹氏が市長選挙に立候補することにより、市議会に欠員が出ました。その穴を埋める市議会補欠選挙が行われることになったのです。

同じく市長選には県議2名も立候補したので、県議会の補欠選挙も行われ、3つの選挙が同時に行われたのです。

私に市議補選の話がきたのは、市議会会派“市政クラブ”の有志からお誘いを受けてのことです。何故私だったのか聞くと、他にアテにしていた人から全て断られ、正直誰もいなかったからとのこと。

欠員の原因をつくった長友義樹氏の側にいたため、たまたま目にとまったようです。

告示まで一週間ばかりです。大規模な補欠選挙で当選できるかどうか推測すらできませんが、何もない私にとってチャンスであったことから即断しました。

選挙戦がはじまり、藤井先生も何度か応援に来て頂きました。しかし市長選挙がメインであり、県議補選には新進党推薦候補も出ていたため、主眼はあくまでそちらです。

藤井先生が新進党県連会長だったこともあり、私のところにも県内新進党議員が応援に来てくれました。私のことなど知らなかったのでしょうが、以前藤井先生の事務所にいた人間が、無所属ながら立候補しているらしいとの話を聞いたのでしょう。

大概の皆さんはお顔出しを頂くだけでしたが、以前から親交のあった松沢成文代議士(当時)は、秘書を派遣下さるなど本気で支援頂きました。私と松沢成文現知事との関係は、また別の機会に書いてみます。

平成9年1月26日。当選し、25歳4ヶ月で市議となりました。もちろん嬉しかったですが、実感をもてる程の運動も出来なかったですし、市長選挙に長友氏が敗れたことの悔しさの方が大きかったです。

その後は藤井先生を支援する市議のひとりとして、以前とは違ったおつきあいが始まったのです。

新進党籍は持っていたのですが、市議になって数ヶ月で新進党は解党し、いくつかの政党に分裂しました。藤井先生は自由党を選び、その幹事長に就任しましたが、私は無所属になる道を選びました。

秘書をしていた伊藤達也代議士や、お世話になっていた松沢成文代議士が別の政党を選択したこともありますが、私は新進党を安易な理由で解党した小沢一郎氏を支持できなかったのです。ましてやその路線に純化していくのは、二大政党制の実現とは違う方向だと考えました。

ただ藤井先生の支援は、当然のように続けました。このことに矛盾は感じませんでした。

平成11年4月、統一地方選挙がありました。私にとっては2年半で2度目の選挙がやってきたのです。

藤井事務所からは、自由党の推薦なり公認なりが必要ならば、相談するとのお話を頂きました。しかし上に書いた理由で丁重にお断りしました。しかし藤井先生と事務所の皆さんは、色々な場面で選挙を支援して下さいました。

再選後は藤井裕久後援会副幹事長の職も頂き、藤井グループの執行メンバーのひとりになりました。

この次期、小沢一郎氏は自民党との連立を模索し、自自公連立政権が誕生しました。自民党と連立するという“元も子もない”行動に腹が立ち、藤井先生に対しても、これは誤りだという話をさせて頂きました。思えば藤井先生に対して、ここまではっきり意見を言ったのは初めてでした。

藤井先生からは「過渡期だ。」「それでも信念はまげない。」「いつでも連立政権を離脱する。」とのお話でした。

そして衆議院選挙が近くなってきたのです。もし仮にこのまま自自公連立政権で総選挙になった場合、私がどういう行動をとったのかわかりません。

私は既に参議院選挙をはじめとする、各種選挙で民主党の支援を行っており、むしろ藤井先生の支援が例外という状況になっていました。

非自民であるならば、それが何党であろうと、私のなかに矛盾はありません。しかし自民党と連立を組んでいる以上、自分の信条に対するどんな言い訳も通用しません。

しかし私の都合で言えば、運がよかったのでしょう。衆議院定数の削減問題で、自由党は連立を離脱したのです。だからこそ全力で、藤井先生を当選させなければと決意しました。

この連立からの離脱は凄いことです。小選挙区制のなかで少数政党として戦うことは非常に困難であり、ここでも改めて藤井先生の信念に感じ入りました。

事実自由党議員はこの時数十名いましたが、小選挙区で当選したのは小沢王国岩手県の3人と、他藤井先生のみだったのです。

この選挙も基本的には、与党自民党と野党民主党の対決でした。埋没しがちな状況のなかで、市内での個人人気を強調した選挙を行いました。また自由党という政党が得ていた、世間での一定の評価も支援に繋がりました。

僅差でしたが、藤井先生は4選を果たしました。私の支援者には、この選挙で知り合った方が多数います。それぞれが役割を果たし得た、内容の良い選挙でした。

さて今日まで7回にわたり、藤井先生との大切な思い出を書いてきました。その多くは、親しい方にも余り話したことはありません。何故話さなかったのでしょうか。改めて考えてみました。

ひとつは、そもそも過去の話をするのが好きでないことがあります。若い(?)のに思い出話はどうかと思います。

ふたつには、政治家同士に親分子分関係はあってはならない、という私の考えにあります。過去の関係を見れば、一般的に子分ではないかと思われることに抵抗もありました。

みっつめは、これから書いていくことです。藤井先生が自由党、私が民主党という時期が少なからずあったことです。このことによって少なからず周辺の誤解を招いたこともありましたが、同時に言い訳する必要もないと考えていたのです。

平成13年(2001年)春、小泉純一郎総理が誕生したとき、私は民主党に入党することを決意したのです。当時29歳です。

続く。次回最終回。


2005年09月20日(火) 藤井裕久先生と その六

大学卒業後、4月と5月はふらふらしていました。これからどうするかを、遅まきながら考えていたのです。

将来政治家を目指すことは、当然決めていました。地盤も看板もない私が、今とるべき選択肢は何かを考えていたのです。

やはり直接政治の現場に入ろうと思い至ったのは、5月も最後に近づいた頃です。

早速、秘書を探している議員はいないか、知人を辿りました。

過日書いたF秘書は、この時別の代議士の秘書をされてましたが、かの小沢一郎氏を紹介して下さいました。

何と、内諾は既に得ているとのこと。しかし小沢氏の秘書は慣例として、世田谷私邸での書生業と地元岩手での業務が必須とのことでした。

もう一方別のA氏は、藤井事務所でやはり仕事ができないか最後まであたって下さいました。これもうまくはいきませんでしたが、今でも感謝しております。

さて、私が国会議員を選ぶ条件を決めなくては、紹介も頼めません。

1,非自民であること
2,自宅から通えること(我が儘に聞こえるかもしれませんが、自分が立候補するのは相模原と決めていたので、地元に何も無い分、相模原に住み続けていたかったのです。)

結果として、当時日本新党の一年生議員である伊藤達也氏と出会い、以後2年半にわたるプロとしての秘書生活が始まったのです。

私の考え方や選挙のやり方、演説の仕方などについては、この間伊藤達也氏から大きく影響を受けることになります。この部分は、この文章の本題ではないので省きますが。

その後藤井先生の所属する新生党や、民社党・日本新党・公明党などが合併して、「新進党」が誕生しました。二大政党に向けた初めての試みです。

藤井先生は、新進党神奈川県連会長として引き続き活躍をされ、その姿は東京に通っていた私も映っていました。

小選挙区制度が正式に施行されました。旧神奈川3区は5つの選挙区に分割されましたが、藤井先生は相模原市一市で構成される新神奈川14区を選ばれました。

藤井先生が選挙に強かったのは、湘南方面だった記憶があったので、嬉しい反面不思議でもありました。何故相模原市だったのか、いつかそんな話を聞ける時もあるのでしょうか。

時は過ぎ、平成8年です。総選挙が行われました。初めての小選挙区選挙です。藤井先生の対立候補は、最近相模原にやってきた自民党若手とのこと。心配はしましたが、難なく当選されました。

伊藤達也代議士も二度目の当選を果たしました。開票日の夜、調布の選挙事務所から相模原の藤井事務所に電話をしました。相手は、学生時代から一緒に藤井事務所で学生秘書をしていた長友克洋現市議です。

彼の親族である、これも現市議の長友義樹氏が、来年一月の相模原市長選挙に立候補することが決まっていました。総選挙の結果を受けて、その見通しについて話をしたのです。

秘書の雇用は選挙が区切りです。伊藤代議士からは公設秘書のお話も頂きましたが、ここで区切ならないと次期総選挙まで勤めなくてはなりません。

年齢も25歳になり、相模原に対する思いが日々強くなっていた頃です。住んではいたが、言わばそれだけ。相模原のことを余り知らない自分に、焦りも感じていました。

同じく長友候補の市長選挙を手伝っていた友人から誘いを受けたこともあり、この市長選挙をきっかけに「相模原デビュー」をしようと決めました。早速長友義樹候補予定者に会うと、お手伝いする余地はあるとのこと。伊藤代議士とも話し、11月一杯で退職することになりました。

長友候補の必勝を信じてましたが、その後の身の振りを具体的に考えていたわけではありません。他からは安易との指摘もありましたが、こういう時は‘惹かれる’というのでしょうか。何の不安もありませんでした。

さて12月1日から、相模原市長選挙の手伝いが始まりました。長友候補は新進党総支部の幹事長だったので、当然藤井先生とは接触があります。

大変ご無沙していたので、この時期藤井先生が、私のことをどれだけ認識していたかは定かではありません。

しかし想定外のことが起こり、私と藤井先生は一蓮托生、同じ道を歩むことになるのです。

市長選挙と同時に行われる相模原市議会補欠選挙に、市議会会派“市政クラブ”の有志議員の推薦を頂き、立候補することになったのです。

時に平成9年1月、告示まで1週間の時でした。年齢は25歳4ヶ月です。

続く


2005年09月19日(月) 藤井裕久先生と その五

細川連立政権が組閣される前日、秘書から電話がありました。当日は少し早めに出勤してほしいとのこと。

早く事務所に行くと、皆さんお揃いでそわそわしています。今日が組閣であることは知っていたので、その関連と察知はできました。

しばらくすると官邸から呼び出しがあり、藤井先生を乗せて私が運転することになりました。

607の議員室から駐車場がある地下二階まで、車を出すべくエレベーターで降りる時、重大(?)なことに気づきました。

選挙中に車をぶつけていたのです。場所は相模女子大正門前。鉄製のポールです。車の後部をぶつけ、テールランプとバンパーが破損状態です。運行に支障がないのでそのままにしていたのですが、首相官邸の車寄せに行くとなると困ったものです。

じたばたしても始まりません。知らん顔して運転し、議員会館を出発しました。走行距離数十メートル、官邸はすぐ隣です。首相官邸に入ったのはこれが初めてです。正門を入ると、前方によくテレビで見る車寄せが見えますが、記者で一杯になっています。

寺崎「どうしましょうか。」
先生「堂々と着けなさい。」

記者を割って、車を停めました。いささか藤井先生も、緊張していたように見えました。

藤井先生が任命されたのは、大蔵大臣でした。衆議院当選2回ですから大抜擢です。

さて運転の役割はここまでです。この官邸から出るときは、SP付きの公用車になります。

その後も政局は動き続け、自民党から日々離党者が出ていました。これで自民党も終わりだと、本気で言っている方々もいました。事実自民党本部への来客者も、みるみるうちに減っていました。

現在公明党すらも抱えながら必死に政権を維持しているのは、この時の侘びしさを、当時の執行部だった面々が記憶しているからでしょう。

時を同じくして藤井事務所の体制も変わりましたが、小間使い生活は続きます。せっかくの見聞を広める機会ですので、大蔵省などへの用事を進んで引き受けました。

大蔵省は建物がとても古く、大臣室もそんなに広くはありません。相模原市長の部屋を初めて見たとき、その広さに驚きましたが、同じ位の大きさです。

あくまで印象ですが、藤井先生自身が大蔵省出身ということもあり、役所内の統制はうまくいっていたようです。当時の事務次官が確か親しい後輩で、二人だけのときには呼び捨てにしていました。

大臣であっても、土日は公用車がつきません。公私の区別をしているわけですが、日本国大蔵大臣に対してせこい話だと思いました。

公用車がつかない時は、助手席にSP後ろに藤井先生を乗せて、私が運転します。前との車間を大きくとらないと、SPから注意されたりします。運転をもう少し丁寧にと、何度も言われました。

かれこれ時は過ぎていき、学生生活も残り僅かとなりました。最後の春休みは旅に行きたかったこともあり、12月末日、年内一杯で学生秘書にピリオドを打ちました。

大学卒業後も、藤井事務所での勤務を希望しましたが、諸般の事情でそれは適いませんでした。

私と藤井先生の関わりはここで一区切りを迎えることになりました。

平成6年(1994年)3月、大学卒業です。

続く


2005年09月18日(日) 閑話休題

連載は今日だけお休みです。

本日は支援者の方々に、ポスター貼りをして頂きました。暑い中、本当にありがとうございました。

顔と名前を覚えて頂くことが、政策を伝える第一歩であることは、十年弱の政治活動のなかで身に染みています。

さて前原誠司氏が、民主党新代表になりました。43歳の若い党首です。大いに期待したいと思います。

掲示板にも書きましたが、思い切った改革をするためにこそ選ばれたのですから、党内グループになど気を遣う必要はありません。

さて、藤井先生が引退された後の総支部についても、立て直しが急務です。

人事に関心はありませんが、政策面ではどんどんと意見を言ってまいります。

今までの人間関係中心のあり方を、政策中心の組織に変えていくことが、ひいては自民党との差別化を図ることにもつながります。

引き続き精力的に頑張ってまいります。皆様のご意見もお寄せください。


2005年09月17日(土) 藤井裕久先生と その四

かくして総選挙の火ぶたが切って落とされました。

藤井先生は新生党から立候補しました。他にも日本新党や新党さきがけなどが多くの候補者を擁立し、「新党ブーム」の選挙とも言われました。

しかし藤井先生はじめ、今まで自民党にいた候補者が、そこを飛び出したことによってどういう影響があるのか、推測することもまた困難でした

この選挙で私に課せられた任務は、藤井先生の運転手です。

当時はまだ中選挙区制度です。藤井先生が立候補した神奈川3区は、相模原・津久井・座間・大和・綾瀬・海老名・寒川・藤沢・茅ヶ崎で構成されてました。

それぞれの地区に事務所が設営され、それぞれに出陣式や事務所開きを行います。相模原市よりも選挙区が狭い現在と比較すると、かなり大変な作業でした。

この広大なエリア内を、毎日行き来するのです。そもそも車の運転が苦手なこともあり、とても大変でした。

ましてやスケジュールは分刻みです。遅れるものなら、現地に先回りしている秘書から「まだか、まだか。」の催促です。

さすがの藤井先生も、時として車で寝られたりもします。すると私にも睡魔が襲ってきて、あまり好きでない‘ユンケル系'を結構飲んだりしました。

当時藤井先生が演説などで主張していたのは、「ブームで新党をつくったのではない。長期政権は必ず腐敗する。自民党に変わる政党が必要なのだ。」

以来今日に至るまで、一貫して藤井先生が言い続けたことです。ポスターには「政権交代」の4文字が、既に入っていました。

今では少し陳腐に聞こえるときもある「政権交代」は、当時はまだ過激な表現でした。ポスター打ち合わせを端で聞きながら、私も少し衝撃を感じたものです。

思えば支援者や秘書の中には、自民党と敵対する選挙になったことについて、多くのとまどいがあったはずです。

一般の有権者の中にも、自民党を離党したからといって急に自民党を攻撃するのは不可思議だ、といった反応がなかった訳ではありません。

しかし先般の小泉旋風ではありませんが、大きな流れの前では、全てが些細なことになってしまいます。

この時は、藤井先生と多くの「新党」にとって風が有利に吹きました。

藤沢駅で街頭演説会をした時のことです。羽田孜新生党党首が応援演説に来ました。駅は数十分前から超満員です。しかも観客のなかにも熱気が溢れています。これほどの街頭演説会は、先にも後にも経験したことがありません。

一日の選挙運動が終わると、ご自宅に帰るまで運転をしますが、藤井先生は大概ワンカップを一本、車の中で飲まれます。帰り際に酒屋があると、候補者本人が行くわけにもいかないので、私が代わりに買いました。

最近藤井先生は焼酎ですが、当時は日本酒だったようです。

相模原市中央5丁目の一角に、プレハブを建てて選挙事務所にしていました。現在は大きなマンションが建っています。

この一度前の衆議院選挙では、藤井先生は定数4のうち最下位当選でしたが、「新党」に対する支持の多さもあり、定数5に増えた中のトップ当選を果たすことができました。

生まれて初めて選挙運動を経験し、大規模かつ大人数で行われることに圧倒され、将来自分に出来るのだろうか、とても不安になったものです。

選挙の結果、非自民勢力が過半数を占めました。共産党を除く各党各会派は、細川護煕を首班とする連立政権をつくったのです。

選挙が終わったら、藤井先生のお手伝いを少しの間休止するつもりでした。大学卒業に向けての単位獲得が厳しい状態だったことと、ゆっくり卒業後のことを考えたかったからです。

しかし藤井先生が大蔵大臣に任命されたことにより、再び面白くて止められない状態になったのです。

平成5年(1993年)7月。いまだ大学4年生です。

続く


2005年09月16日(金) 藤井裕久先生と その三

佐川急便事件により、改めて政治と金の問題がクローズアップされました。金丸信元自民党副総裁の金庫から金塊が出るに及び、国民の政治不信は頂点に達しました。

政治と金の問題がきっかけではありましたが、冷戦崩壊や経済成長の終焉など、社会背景の変化も要因であったのでしょう。

さて昨日も書いた、私の政治スタンスを決定付けた政変のきっかけは、自民党内の派閥抗争でした。

藤井先生が所属した竹下派が、会長金丸信氏の起訴・議員辞職を経て分裂したのです。自民党最大派閥である竹下派の分裂抗争は、後に多く語られたように凄まじいものだったそうです。

藤井先生をはじめ小沢一郎氏のまわりに集まったメンバーは、領袖に羽田孜氏を据えたことにより、‘改革’を冠する派閥「改革フォーラム21」を結成しました。

最終的に竹下派内の抗争に、藤井先生たちは負けたのですが、仮に勝利していたら、私は藤井先生とは違った道を歩んでいたのかもしれません。

自民党本流であった竹下派が、果たして‘改革’を名乗る資格があったのか議論はわかれます。しかし時代の要請も受けて、その行動は世論注視の的になったのです。

さて藤井先生ですが、折りに触れ、小沢一郎氏を支持していると話は伺っていました。この時藤井先生の序列は決して高くなく、政局の中であまり目立つ存在ではありませんでした。

しかし一面でこんなこともありました。「改革フォーラム21」結成準備の段階で、大分出身のH代議士を藤井先生の車で、私が運転して宿舎まで送ったことがありました。

H代議士「一体どうなるんでしょうかね。」

藤井先生「わかりませんが、ただ行くところまで行くしかないかもしれませんね。」

派閥抗争がはじまった初期であり、政治改革法案はいまだ審議中、自民党からの離党などは、いまだ語れていない段階です。

H代議士は藤井先生よりも当選回数の多い議員でしたが、藤井先生に聞いたのは、恐らく当時より小沢氏側近として様々な相談を、藤井先生は受けていたのでしょう。

政治改革法案の審議が暗唱に乗り上げるに連れ、世論は法案に賛成する「改革フォーラム21」に、自民党からの離党を求めるようになります。

今思えば、メンバーは最後まで離党には慎重でありました。藤井先生をはじめとする一部を除いては、まさか本当に小沢氏などが離党に踏み切るとは思っていなかったようです。

法案否決後、宮沢内閣不信任案の採決が行われることになり、「改革フォーラム21」のメンバーは賛成する意向を固めました。

藤井先生は自分の行動を、余り人に語りません。時々随行した地元の会でも、政局絡みの話はしませんでした。地元支援者の皆さまは、ある意味物足りなかったかもしれません。

議員は本会議前に待機所を使います。通常は政党毎に割り振られる控室ですが、反逆することを決めた面々が、自民党控室を使えるわけもありません。結果藤井先生が就任していた大蔵委員長の、委員長室を使うことになりました。

議員会館の地下1階にあるこの部屋は、議員でも行く機会が少なく、案内係が必要ということで、私が部屋の前に立ちました。

しかしそれぞれ議員室もあったことから、あまり人数は来ずに、岡田克也氏をはじめ4〜5人をご案内し、事務員と一緒にお茶を出したの覚えています。

議員が本会議場に入った後、藤井先生の607号室に戻り、皆んなでテレビを見ました。

予想されていたよりも多くの議員が不信任案に賛成し、その中にはいわゆる‘守旧派'らしき人も含まれてました。山口敏夫氏が賛成票を入れるのを見たとき、「ああこの人もか。崩れる時はこんなものか。」そうはっきり思ったものです。

その後の対応としては、会長である羽田氏に離党届けを預け、一任となりました。しかしこの時点でもまだ、自民党離党の決断を全体でしていた訳ではありません。

私は自民党政治からの決別を、藤井先生に求めたかったですが、口を出せるはずもなく、強く心のなかで祈っていました。

そしてついに藤井先生はじめ、衆議院36名・参議院8名は、自民党を離党し「新生党」を結成したのです。

権力の側にいた者が、それを捨てて行動したのです。過去においても余り例のない、政治家の大いなる決断を目の当たりにし感動しました。

気がつけば、この歴史的瞬間に立ち会えることが嬉しく、ほぼ毎日議員会館に通うようになっていました。

自民党離党が決まった日、藤井先生が地元後援会長にする電話を取り次ぎました。

藤井先生「いやあ、ご覧の通りの状況になりました。引き続きよろしくお願いします。」

非自民党という選択肢があり得ることを、初めて実感しました。二大政党にいまだ考えは至っていませんでしたが、新しい政治勢力の一端に身をおけることが嬉しくてなりませんでした。

不信任案が可決されたことにより、宮沢総理は衆議院を解散しました。そして総選挙です。

これが私にとって初めての選挙運動です。学校も前期試験中でしたが、そんなことは気にもしませんでした。

平成5年(1993年)6月。いまだ大学4年生です。

続く


2005年09月15日(木) 藤井裕久先生と その二

学生ながら藤井先生の議員会館事務所に、週2〜3日出入りすることになりました。

不定期な出勤ながら、いくばくかの賃金(小遣い)と交通費を出して頂きました。

さて仕事ですが、もちろん大したことはできません。主にしたのが、自民党本部で毎朝開催される「部会」への代理出席です。

もちろん学生の私が代理で行ったところで役に立ちませんが、藤井先生の名刺を置いて資料をもらってくるのが仕事です。多いときはいくつも同時開催で、まわって資料のみ回収してきました。

会議の印象は、国会議員のみ朝食をガツガツ食べていたこと。政治家同士の議論はなく、官僚の説明に対する質疑のみであったことです。

議員会館の事務所は、国会議員のオフィスとしては狭く、3人の秘書と事務員1人、そして私がいると窮屈でした。と言っても一番邪魔だったのは私ですが。

学生時代は、夏春休みの度に海外へ旅に行きました。その都度事務所から餞別(表現?)を頂き、貧乏な私には貴重な資金でした。

その他F秘書は、将来政治を目指す私に気を遣って、多くのためになる機会をあえて与えてくださいました。今でも役にたつ経験ができたと感謝しております。

自民党竹下派に所属していた藤井先生の部屋には、竹下登氏の写真が飾ってあり、当時はどの派閥もこうした習慣があったようです。

各議員の支援者向けの研修会や、秘書会などの宿泊を伴う会にも参加ができました。正直馴染めませんでしたが、色々な方々と接する機会を頂きました。

さて、学校に行きながら一年・二年とたっていき、藤井先生の運転をすることが多くなってきました。当時車はセドリックです。運転の下手な私が、よく都内をウロウロできたと、今思えば空恐ろしいです。

最近でも都内に車で行くと、意外に道を知っているのは、ほとんどこの時の経験によります。

藤井先生はとても忙しく行動され、待機している車が発見できないと、自分で電車に乗って行ってしまいます。その都度ブルーになりながら、それでも何回か同じミスをしてしまいました。

そのうち車で待つのではなく、会場出口で待って先生を発見するようにしたものです。

さて冒頭にも書いたとおり、永田町での経験の日々は、あくまで週に2〜3日です。いわゆる‘書生’的な姿ではなく、都合の良い部分だけつまみ食いしていたのです。まあ学生だから、それも致し方ないと自分で割り切りながら。

大学三年生も半ばを過ぎる頃には、政治家を目指すという将来について具体的に考えるようになりました。

藤井先生と事務所の皆さんに大変お世話になりながらも、大きな意味での自民党政治に疑問を強く持つようになりました。特定のきっかけがあったわけではありませんが、段々と不満と疑問が積もってきたのです。

現実この間あった各種選挙では、自民党の公認・推薦候補に投票したことはありません。(もちろん藤井先生の選挙があれば投票するつもりでした。しかし結局自民党で藤井先生が選挙を迎えることはありませんでした。)

しかし55年体制の当時は、自民党以外の政党をイメージする状況でもなかったのです。

大学四年生になり、友人たちが就職活動を始めました。事務所の先輩方も、一度民間に就職した方が良いのではと、本気で心配してくれました。

今後どうしたものか考えている内に、今に至る私の政治スタンスを決める、政変がやってきたのです。

時に平成5年(1993年)3月、21歳の時です。

続く


2005年09月14日(水) 藤井裕久先生と その一

過去この日記では、「藤井先生」という呼び方はしませんでした。議員を先生と呼ぶことへの違和感が、私にも「藤井先生」本人にもあったからです。

しかし昨日の引退表明を受けて、今後は文字通り敬意を込めて「藤井先生」と言います。

今日選対解散式がありました。その中で藤井先生から、議員生活に終止符を打つ旨のお気持ちが述べられました。

政治家を辞めるわけではなく、あくまで国会議員生活からの引退であります。

今月一杯で、相模原事務所も閉めるとのこと。寂しい気持ちで一杯です。改めて過去における藤井先生との思い出を邂逅してみます。

その多くは、今まで余り人に話したことがありません。しかし私自身の新たな出発のため、あえて記していきます。


【藤井裕久先生と〜引退表明を受けて】

明治大学に入った私は政治をより研究すべく、直接政治家の事務所と知り合いになりたいと考えました。

相談したのは、当時自民党代議士の学生秘書をされていた、現秋田県議会議員の大関衛先輩です。雄弁部の二学年先輩でした。

すると縁があったのでしょうか。丁度私と入れ替わりで大学を卒業し、社会人になったH先輩が、相模原市から新しく衆議院議員になられた藤井先生の選挙を手伝っていたとのこと。

早速紹介を頼むと、数日のうちに藤井先生と会える段取りをして下さいました。

衆議院議員会館という所に生まれて初めて行き、第一秘書のFさんに会うと、学校に行きながらでも事務所を手伝ってみないかとのお話です。

正直そこまでの気持ちはなかったのですが、即答で「よろしくお願いします。」と答えたのが、今思えば私らしいです。

数分後に議員室でF秘書から、藤井先生を紹介して頂きました。確かF秘書が藤井先生に私を紹介した口上は、「今後事務所に出入りする学生の寺崎君です。政治志望です。」

すると「そうかい。それはいいことだ。いいことだ。頑張りなさい。いい顔をしてるね。」

初めての藤井先生からの言葉です。後段の“いい顔”はお世辞だったかもしれませんが、若い人が政治を考えていることに率直に賛意を示して頂けたのが印象的でした。

その後F秘書と地下二階の喫茶室に行き、だいたいの業務内容を聞きました。余り意味はわかりませんでしたが、とてもワクワクしたのを覚えています。

数日後に初出勤すると、「衆議院議員藤井裕久事務所 寺崎雄介」の名刺が出来上がっていました。こんな大層なものを、果たして一学生が持っていいのかと思いましたが、ありがたく頂きました。

平成2年(1990年)四月。当時大学一年生。今から十五年前のことです。

続く


2005年09月13日(火) 第2回福祉コミュニティ委員会

正式には「福祉コミュニティ形成モデル地区事業推進委員会」です。所属するNPO法人さがみはら市民会議から出向しています。

相模原市社会福祉協議会が設置した委員会で、目的はその名のとおり‘福祉コミュニティ’形成を推進するためにモデル地区を設定することです。

他の委員は福祉の専門家ばかり。なぜ市民会議に依頼が来たのかは不明ですが、自分の勉強も兼ねての参加です。

冒頭、社協事務局より、18公民館区別の施設数や事業内容などの説明がありました。

政治家根性でどうしても発言したくなり、早速挙手し発言しました。

「それぞれの数値は理解したが、それぞれ地区毎のコミュニティの形成度合いがどの段階であるか評価しているのか。あるいはその評価を含めて、この委員会で考えるのか。」

「いきなり集まった委員会で、それぞれの全体としての評価などできるはずはない。ある視点に絞って、その点でのみの段階評価をすべき。」

次回に向けて、より詳細な資料が出されることになりました。


2005年09月12日(月) 戦いは休むわけにはいかない

この選挙区での敗退について、いまだ事実を受け止めきれていません。しかし私に多くの支援者がいて下さる以上、自分自身の歩みを止めることは一時も出来ません。

今日は後援会役員会を開催していただき、総選挙でのお詫びと、今度の活動について再確認を致しました。

この劣勢を跳ね返すのは、強固な意志と信念しかありません。

健全な議会制民主主義は、政権の基軸となる政党が二つ以上なくては成り立ちません。これが私の信念です。

そしてそのために、人生をかけて、次期県政に邁進することが意思であります。

大切な方の落選に、大いなる動揺を抱いていますが、冒頭でも書いたとおり一瞬たりとも立ち止まることは許されないのです。

相模原市民の皆様、そして日本国民の皆様の、引き続きのご支援を心よりお願い申し上げます。


2005年09月11日(日) この現実に朦朧としてます

投票箱が閉まったら、色々な書こうと思ってました。

しかし今開票状況を見ながら、この厳しい現実の前に朦朧としています。

県議選で落選した当日も、頭は醒めていながら夢を見ているような感覚でした。

明日になれば、この現実を直視することができるのでしょうか。

藤井裕久党代表代行を落としてしまったことについて、相模原市民と日本国民に対して、本当に申し訳なく思います。涙も出ないくらい悲しい思いで一杯です。

二大政党への試みは、これで潰えるのでしょうか。

いや志ある限り、挑戦は継続すると信じます。今はこれが精一杯です。


2005年09月10日(土) 投票率の向上を

明日に投票日を控えて、今はただ支援した候補の当選と、あわせて高い投票率が実現することを願っています。

少なくとも過去数回の選挙は、投票率が下がり続け、このままではどうなってしまうのか不安に感じています。

小泉劇場と、総理の公約の立て方に、多くの有権者の関心が集まっていると言われています。

投票率の向上は、民主主義社会の政治家にとっては、共通の願いです。


2005年09月09日(金) 久々のラジオ出演

私の愛するエフエムさがみが、投票日当日に特番を放送します。題して「総選挙を振り返って。選挙の争点と今後の行方。」

ぞれぞれの政党に所属する市議に出演依頼が来たそうですが、民主党は皆んな当日予定があるとのことで、私におはちが回ってきました。

せっかくの機会ですので、頑張ります。

以前「みっぱらトーク21」で、他党の皆さんとも議論をしたことがありますが、あくまでそれは市政についてです。

国政について、相模原の政治家同士で話し合うのは、初めてのことであり楽しみです。

詳細は以下のとおりです。

  番組  特番「総選挙を振り返って。選挙の争点と今後の行方」
  日時  9月11日(日)21:00〜23:00
  周波数 83.9Mhz(エフエムさがみ)
  


2005年09月08日(木) 多くの応援演説

応援演説にどれ程の意味があるか、疑問を持ちます。どんな優秀な話手であれ、候補者本人には適わないのが選挙です。

しかしその知名度をもって、多くの観衆を集められる程の人物なら別です。

明日橋本駅デッキ上に、岡田代表がやって来ます。

自民党も小泉総理はじめ政府要人を応援に呼んだようです。

大分以前のこと・・。平成5年だったでしょうか。藤沢駅前で当時の羽田孜新生党党首を迎えての街頭演説は、本当に凄い人でした。

いわゆる「動員」を超えて、多くの有権者の気迫と熱気があったのを、今でも覚えています。

もちろん有権者は醒めてしまったのでありません。表現方法が変わっただけです。きっと、そうです。


2005年09月07日(水) 動員はやはり大変

各種集会で要求される「動員」が、正直得意ではありません。

自分の集会でも、なかなかうまくいかないのに、身内とは言え他候補の集会では尚更です。

今日は総選挙関連で集会があり、私も主催者のひとりのため、ノルマ設定がされました。

一軒一軒まわれれば、お願いの仕様もあるのですが、選挙運動でその時間がないので、FAXと電話が精一杯です。

しかし本日終わってみれば、目標よりもかなり多くの方々が参加して頂けました。

感謝に耐えません。ありがとうございました。



2005年09月06日(火) 選挙中間予測に一体何の意味が

国政選挙では、期間中に新聞各社が世論調査を行います。それも各党・各候補者の支持について、詳細なデータを集計します。

統計学に基づいて行われるため、事実と大幅に違うこともなく、大体的中します。

選挙運動をやっている側からすれば、これを見ながら今後の対策を練ったりしますが、多くの有権者(新聞から見れば購読者)にとって、一体何の意義があるのでしょうか。

公示日段階で○○党が優勢なことに、投票日3日前に△△候補が優勢なことに、それを知ることに一体どんな意義が?

色々考えましたが、やはり解りません。皮肉ではなく、この意義を教えて欲しいです。

ちなみにこの中間予測は、その後の世論動向に大きく影響します。一般的には中間予測の良い政党や候補者は、その後苦しくなると言われています。


2005年09月05日(月) 演説のスタイル

街頭演説をしていると、その感情の入れ具合や、自分の世界に入っている度合いが強いと、よく他から指摘されます。褒め言葉だと認識しています。

通常の生活や、カラオケなど声を出す時でも、だいたいが感情の起伏がないと言われます。

でも演説のときだけ違うようです。

演説には、ぞれぞれスタイルがあります。最終的には自分で確率するものですが、影響を受けた人がいる場合も多々見受けられます。

私は、かつて秘書をしていた伊藤達也氏(現金融担当大臣)に、演説が似ていると思います。

昔の知人や、伊藤氏の会などで話しをすると、そう言われたりもします。門前の小僧で、知らぬうちに影響を受けていたのでしょう。


2005年09月04日(日) 「失敗しました」では済まされない

国連安保障理の常任理事国入りが、政府の“努力”も虚しく頓挫したようです。

そもそもこの問題は、国民投票に値するほど重要なことであります。国会での審議すらなくして、外務省が国際社会で多数派工作をしていたこと自体が誤りです。

現状では、安保理事国になるという決意と準備が、政府にも国民にも整っていません。

方向性として必ずしも反対はしませんが、今立候補することは様々な点から非常に無理があると考えていました。

先般外務大臣が、アメリカをはじめ多数の理解が得られないため、現段階での常任理事国入りは困難との見方を示しました。

しかし今まで発展途上国やアフリカ諸国に対し、‘色々な手段’を使って展開してきたことについての責任は、一体どうなるのでしょうか。

学級委員の選挙ではあるまいし、「立候補したけれどダメでした。」だけでは済みません。

政府からは、今回の件で結果失われた国益について、明確な説明を求めます。


2005年09月03日(土) 鋭い指摘と感じ入る

連合・笹森清会長のお話を聞きました。その中で引用されたのが、本日の小沢一郎氏の発言です。

「この選挙云々ではなく、長い流れのなかで政権交代が近づいている。

その証拠に、経団連が初めて公式に前面で自民党支援を訴えている。

民主党が自民党にとって代わる危機感を、経済界が持ち始めたのだ。」

鋭い指摘です。経団連が自民支持を明確に打ち出したことは、新聞記事で承知していましたが、私はさらりと読み飛ばしてしまいました。

小沢一郎氏の鋭い眼光ならではでしょう。

小選挙区制度も徐々に定着しつつありますが、全国どこの結果を見ても得票が大きく開くことはありません。ほとんど僅差になります。

候補者にとっては過酷ですね。また死票が多い点も、今後制度を再検討すべきです。




2005年09月02日(金) 個人演説会という手法

前回県議選の際に、二回個人演説会を開催しました。市議選の時も同様です。

今回の衆議院選挙でも、各陣営とも多数“個人演説会”を開催するそうです。(他人事みたいな言い方になっているのは、特定の候補をHP上で応援することが、公職選挙法で禁じられているためです。ご容赦ください。)

「後援会」という存在について、候補者にとって大きな力となりながら、一方その文言に忌諱感を抱き、結果政治離れになっている方も多くいらっしゃいます。

「個人演説会」も同様です。選挙期間中に自分の支援者に対して、改めて政策を訴えることは意義深いと経験上思っています。

しかし参加を呼びかける範囲は、政治が既存で持っているネットワークの範疇です。

不可能を承知で言えば、理想的なのは、各候補者の討論会をテレビで放映することです。

現実的提案としては、選挙管理委員会が主催し期間中に各公民館などで、各候補者間の討論会を行うべきです。

今日も街頭演説をしました。相手を絞って訴えを行いました。それは、いまだ投票行動を決めていない、無党派層の皆さんです。

それぞれの支持層については、両党ともほぼ固まっているという調査結果が出ています。

選挙の結果を決めるのは、今まで政治の蚊帳の外におかれてきた「無党派」層の皆様です。皮肉なことですが、事実です。


2005年09月01日(木) 郵政民営化、ひとつの不安

郵政民営化について、以前から不安があります。元々民営化論者ですが、松沢成文著の「郵政民営化論」を読んだときから、ずっと考えていました。

先の国会における議論でも、選挙でも語られていないので、私の杞憂にすぎないのでしょうか。

郵便局は今まで、お金を民間に貸したことはありません。当然です。今回仮に民営化されれば、銀行と同じように貸し出し業務を始めます。

これをもって日本政府やアメリカは、巨大な資金を民間に流入できると期待しています。

しかしメガバンクでも現在は、“適切に貸して、きちんと回収する”ことができていません。

一度も貸し出しをしたことのない郵便局に、また昨日まで公務員であった方々に、本当に銀行業務ができるのでしょうか。

結果失敗すれば、それこそ210兆円に上る国民の財産が消えてしまいます。

この不安を感じるのは、私だけでしょうか。


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