DOTFAMILYの平和な日々
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2002年07月31日(水) |
Super Camp:その3 |
「今頃スーパーキャンプへ行った子供はどうしているんでしょう? 皆と仲良くやっているかしら? 淋しい思いをしてないかしら?」 な〜んて心配する親はアメリカにもいる。 いや、アメリカ人の方が日本人よりも大袈裟に心配するんじゃないかな? なにしろ修学旅行に枕を持ってくる子がいる位なのである。 そう言えば、スーパーキャンプにも枕を抱えている子がたくさんいた。 「荷物は出来るだけ少なくしなさい。」なんて親は言わないのであろう。 とにかく環境が変わるのをやたら心配するのである。
が、毎日電話をかけて来られたりしても迷惑である。 ちゃんと「緊急時以外は電話お断り」という決まりがある。 では、可愛い可愛い我が子の様子がどうすればわかるのか? ウェブサイトですな。 敵も考えるものである。
ナント、毎日子供達がやったことをウェブサイトに掲載しているのだ。 写真もたくさん載っている。 それを見て親は安心するのであろう。
私は愚息のことは全く心配していない。 いや、心配はしているが、「皆と仲良くやっているかしら?」「淋しい思いをしてないかしら?」という心配は全くしていない。 彼は誰とでも仲良くできる・・・のではなく、1人でも全く平気なのである。 協調性は皆無なのだが、友達がいなくて淋しい、という感覚も全くない。
初めて1人でキャンプへ行かせた時、「電話しないでも良いからね」と言ったら本当に一度も電話をしてこなかった」 「お土産なんかいらないからね。」と言えば、絶対買ってこない。 親がいない環境が嬉しくて嬉しくて、私のことなど一度も思い出さなかったそうである。 そういうヤツなのだ・・・ま。、良いけど。
が、他の心配事はある(もちろん、「何か悪いことやってるんじゃないか?」という心配である。)ので、ウェブサイトを見てみることにした。 すると・・・愚息がいない! 写真は沢山あるのだが、愚息が写っている写真が全くないのである。 何故じゃ? って、見当はつくけどね・・・彼は写真が大嫌いなのである。 しかも、私がウェブサイトをチェックすることは彼は知っている。 私が彼の姿を見たがることも知っている。 わざととしか思えませんな。
しかし、3日目の所にはしっかりとアップで3枚も載っていた。 ふっふっふ、油断したな! しかしまぁ、取り合えずちゃんといることはわかったので、ちょっと安心。
以前はラスベガスへ行くと到る所から日本語が聞こえたものである。 あの日本人達は何処へ行ってしまったんだろう。 今回はほとんど見かけなかった。 東洋人の団体さんは沢山いたが、皆中国人と韓国人だった。 やはり日本はまだまだ日本の景気は酷いのかな?
が、これぞ成金夫婦!という多分今の流行からはちょっと外れているんじゃないかと思われるカップルを見つけてしまった。 場所は『シーザーズ・パレス』の高級店がずらっと並ぶショッピング街。 まだ若そうな(20代後半から30代の初めというところかな)2組のカップル。 女性は背中のぐわ〜んと開いたミニドレス、ダンナの方は麻のスーツ。 どちらも中々高そうだった。 女性が押している二人乗りの乳母車の取っ手にはシャネルやティファニーの買い物袋がかかっている。 子供は・・・乗ってたのかな? 紙袋に隠れて見えなかったが、多分乗っていたのであろう。 男性の方は・・・ほら、一時流行ったでしょう、男性が持つセカンドバッグ(っていうのかな)、あれを小脇に抱えて、目当ての店がどこにあるのかをせかせかと探している様子だった。
こういう人達ってさぁ・・・10年位前はLAでもたくさん見かけたんだよなぁ。 若いのに金持ちそうで、アウトレット・モールなんかには行かず、ビバリーヒルズやサウス・コースト・プラザでガンガン買いまくって。 金持ちがたくさんいたんだよね、日本には。
ラスベガスにだって、金持ち日本人はたくさんいた・・・彼らはいなくなってしまった。 なんだか、ちょっと淋しいな。 で、その金持ち風夫婦を見た時は、ちょっと楽しい気分になってしまった。 「頑張って買いまくっておくれ!」
ここだけの話だが(別に秘密にすることではないのだが、何となく恥かしい)、私はいつも万歩計をつけている。 完璧に習慣化してしまって、万歩計がないと何か忘れているような気になってしまう。 『テクテク・エンジェル』『ポケット・ピカチュー』等等、色々試してみたのだが、結局歩数しか計れない小さなシンプルなのをここ1年ほど使っていた。
が、ダンナが医者に「1日1万歩、歩きなさい」と言われたために、愛用の万歩計を取られてしまった。 まさかダンナが『テクテク・エンジェル』を使うわけにはいくまい。 私は気にしないが、彼はそういうのは嫌がる・・・当たり前か。 で、『テクテク・エンジェル』は今一可愛くないので、『てくまる』とやらをつけている。 誰か面白い万歩計、知らないかな?
昔々(でもないけど)『たまごっち』が流行った頃、愚息の『たまごっち』を持ち歩いていた。 流行はすぐに終わってしまったが、何故かその後2、3年持ち歩いていた。 結構しつこい性格なのである。 で、流石に飽きてしまった後、ポケットに何も入れてないと何か忘れたような気になってしまった。 丁度その頃、余りの運動不足に「このままでは50になる前に体が動かなくなってしまう。」という恐怖に駆られてお散歩を始めたので、『たまごっち』を万歩計に切り替えることにしたのである。 それ以来、種類は変わったが未だにつけて歩いている。
今日はギャンブルもせず、ショーも見ず、ホテル巡りをしてしまった。 ここ数年、新しいホテルが出来たり古いホテルを改装したり、と見るだけで楽しいホテルが増えているので、まだ行ったことがないホテルを覗いて見ることにしたのである。 寝る前に万歩計を見ると、2万歩を越えていた。 日頃の2倍以上歩いた・・・疲れるはずだ。 面白かったけど・・・実は私はホテルが大好きなのだ。
私はギャンブルには興味がない。 しかもラスベガスへは春に行ったばかりである。 なのに何故また行くのか? 今の所ダンナが遊びに行けるのはラスベガスしかないからである。
ダンナは1日4回、6時間ごとに透析をしなければならない。 ま、2時間程度の時間のずれは許されるそうである。 家からラスベガスまでは、途中で30ほど休憩を取っても4時間で着く。 つまり、家で透析を済ませて出かければ次の透析の時間までにはホテルに着くのである。
しかも、ラスベガスでは滞在しているホテル周辺のホテルを渡り歩くだけで充分楽しめる。 従って、遠出をする必要がなく、時間になれば部屋に戻れば良いのだ。 こういう観光地というのは他に思いつかない。
で、再びラスベガスへ。 今回滞在したのは前回と同じ『トロピカーナ』 ストリップ(ラスベガス・ブルバード)で最も古いホテルの一つである。 従って、特に設備が良いわけでも部屋が綺麗なわけでもない。 が、安い。
しかも、隣は『MGM』、向かいは『エクスカリバー』で、『MGM』の向かいが『ニューヨーク・ニューヨーク』、『エクスカリバー』の隣が『ラクソァー』(で良いのかな?)。 もうこれだけで充分。 (しかも『コカコーラ・ミュージアム』へも歩いて行ける。)
しかし、安いだけあってチェック・インのカウンターはとても混んでいた。 午後1時、ダンナが本日2度目の透析を済ませた後出発し、ホテルの部屋に入ったのが5時半だった。 で、ダンナはすぐに3度目の透析。 人工透析をやっている者にとってはラスベガスは手頃な遊び場であろう。
2002年07月27日(土) |
日本語学校一学期終業式 |
だったのだが、愚息は昨日からスーパーキャンプへ出かけているので不在。 成績表は他の人に貰ってきてもらう訳にはいかないことになっている。 (何故だろう?) 特に急いで見たいものではないのだが、夏休み中先生に持っていて頂くのも気の毒なのではないか、と思って取りに行った。 実は、成績表は二の次。 必要だったのは宿題のほうである。
愚息がいなに間に私が宿題をやり、帰ってきてから教えてあげなければならないので、新学期まで待つ訳にはいかないのである。 中3になると、ホイホイっと片手間に宿題を片付けることができなくなって来た。 数学と国語はまだまだ簡単なのだが、理科と社会は教科書を読まないと宿題ができない。私の学力は中3以下か!・・・しくしく。 という訳で、私が予習するために行ってきたのである。 これを親馬鹿と言わずしてナント言おう! (単なる馬鹿?)
「お母さん、頑張ってますね!」と担任の先生から誉めて頂いた。 う〜ん、誉められたのは随分久しぶりだぞ! もしかしたら、呆れられていたのかもしれない。 が、ここは誉められた、と素直に喜んでおこう! 確かに、中3の息子の教科書全てに読み仮名を振ってやる親などいないのかもしれない。 しかし、読み仮名を振ってあげないと読めないのだから仕方あるまい。
えっ、そういうのほっとけって? イヤ・・・好きでやってるんだから良いじゃないですか。
2002年07月26日(金) |
Super Camp:その2 |
スーパーキャンプというネーミングがちょっとね・・・
愚息が小学校の高学年の頃、あまりの態度の悪さに手を焼いていた学校の先生方に「私だって努力してるんですから・・・」という意思表示をしようと、初めてこのキャンプへ行かせた。 パンフレットなどによると、「スーパーキャンプに行けばお子さんの成績が確実にワンレベル上がります」ということだったのだが、キャンプから帰って着た愚息の成績は着実にワンレベルづつ下がり続けた。 ま、向き不向きっちゅうのはあるよな。
成績は下がったが(もちろんスーパーキャンプのせいで下がったのではない)、愚息はとても楽しかったらしい。 すっかり気に入ってしまって、「また来年も行く!」と言っていた。 が、続けて行っても同じことだろうと勝手に考えて(スーパーキャンプの人達に言わせると、同じことではないそうだ。)一昨年中学生コースに行かせた。 で、今年は高校生コース。
という訳で、今日から10日間、愚息はいない。 が、愚息の不在に合わせて、ダンナがバケーションを取っている・・・何故だろう? 彼は一体何を期待しているのだろう?
昨日は剣道の日。 夜中の12時頃まで練習をしていたので、帰ってきて寝たのが1時過ぎだった。 今日からキャンプ・・・寝不足の愚息は機嫌が悪い。 寝不足の私も機嫌が悪い。 些細なことでムカッとなる。 が、愚息が怒鳴りたくなるのを抑えているのはありありとわかる。 で、私も怒りを抑える・・・彼にも私が怒りを抑えていたのはわかったであろう。
10日間も(?)会えないというのに、お互いがむす〜っ!としたまま別れてしまった。 こういうのって、気分悪いよな。
2002年07月25日(木) |
Super Camp |
夏休みになると、色んなところで色んなキャンプが催される。 キャンプといっても山や海へ行ってテント張って寝泊りするヤツではない。 そういうのもあるけど・・・臨海学校のようなものである。 いや、臨海学校とも違うな・・・臨海でやるわけじゃないから。
要するに、テーマを決めて何かを学ぶ、あるいは遊ぶのである。 スポーツキャンプ、サイエンスキャンプ、アートキャンプ、色々ある。 泊りがけのもあるし、毎日家に帰って来るのもある。 ちなみに、愚息が6月の後半から通っていた高校のフットボールの練習も、フットボールキャンプと呼ぶ。 「合宿」というのが一番適当な言葉かな?
で、スーパーキャンプ。 これはMotivation Campである。 つまり、やる気にさせるキャンプ。 勉強の仕方、レポートの書き方、宿題のやり方、人付き合いの仕方、本を読まずに読書感想文を書く方法、勉強をせずにテストで良い成績を取る方法、全然授業を聞いてないのに先生には熱心な生徒だと思われるテクニック等等を教えてくれるらしい。 (後半3つは教えてくれる訳ではないが、教わったことを応用すれば出来る、と愚息は言っておった。) 小学生高学年、中学生、高校生、大学生の4つのグループに別れている。 今年から『親』という新しいグループができた。 ちょっと興味あるけど、英語に自信がないので止めた。 (嘘です。英語なんざぁ、なんとかなる。人前に出るのが嫌いなのである。)
アメリカ中だけでなく、外国でもやっているらしい。 (日本にはないけど) 人がいなくなった大学のキャンパスと寮を使って行なう。 愚息が行くのは家から車で30ほどの距離にあるクレアモント大学。 ヨーロッパやアジアから参加している子供達も結構いるらしい。
何故か愚息はこのキャンプが気に入っている。 参加するのは今年で3回目。 小学生コース、中学生コースを修了し、今年は高校生コースに行く。
明日からスーパーキャンプが始まる。
2002年07月24日(水) |
『話を聞かない私、地図も読めない私』 |
『話を聞かない男、地図が読めない女』という本を読んだのは、去年の夏だった。 ベストセラーになったのは、もっと前のことだが、そこはほれ・・・周りに持っている人がいなかたので、セールになるのを待っていたのだ。 で、先日愚息が通っている日本語学校の図書室で、日本語版を見つけたので、借りてもう一度読んでみた。
英語版のテストでも日本語版のテストでも、私の点数は変わらず(当たり前じゃ!)75点であった。 男脳である・・・ふ〜ん。
しかし、しかし、私は確かに人の話を聞かないかもしれない。 しかも、一度に絶対一つのことしかできない。 (ちなみに、ちなみにダンナはテレビを見ながらラジオを聞きながら仕事をしながら私に話し掛けてくる。) が、地図も読めなければ縦列駐車も出来ない。 つまり、悪いとこはどっちも持っているのである。 こういうのって、なんだかなぁ・・・
ところで、ダンナはテレビを見ている時やたらチャンネルを変える。 愚息も同じである。 これが私にはとても鬱陶しい。 「男はチャンネルをやたらと変えたがる」というのもこの本には載っていたのだが、理由は書いてなかった。 でも、これってダンナや愚息だけの習慣じゃなかったんだ。 アメリカの男性は皆やってるんだ。 日本の男性もやるのかな? 世界中の男性がやるのかな? 知りたいものである・・・ついでに理由も知りたいな。
スーパーマーケットには青い染毛剤は売っていなかった。 仕方ないのでビューティショップとやらに行ったらちゃんとあった。 ブリーチと同じく8ドルくらいだった。 高いなぁ・・・そんなもんかなぁ? 生活に必要でないものを私が買ってあげるというのも納得できない気はするのだが、たかが髪くらいのことで愚息と『お話し合い』(怒鳴りあい、とも言う)をするのも面倒だから、ま、いっか。
彼の前髪は2度目のブリーチによりほとんど金髪になってしまった。 が、髪が痛んでいるので、しばらくトリートメント剤を使って髪を休ませてからもう一度ブリーチをし、またしばらく休ませてから新学期が始まる直前に青く染める、と言う。 ナント!計画的ではないか! 愚息がここまで事前に計画を立てたのは生まれて初めてのことだ! 素晴らしい! 他のプロジェクトにも是非応用してもらいたいものである。
しかし、私のバスルームから私のトリートメント剤を盗み、さりげなく自分のバスルームのキャビネットにしまっておくのは止めて欲しい。
ところで、ビューティショップの店員さんは明らかに私より年上のおばさんであった。 私が「青の染髪剤を下さい。」と言うと、「あなたが使うんですか?」と胡散臭そうな目で見られた。 「いいえ、息子です。」と答えると、さらに胡散臭そうな目で見られた。 青い染髪剤なんて、やっぱ親が買いに行くもんじゃないよな。
愚息のへアースタイルはオールバックである。 毎朝ディップできちんと髪を固めて出かける。 で、ちょっと見ただけではわからないのだが、彼の髪は前だけがやたらと長い。 オールバックにしていない時に前に垂らすと顎まで届く長さである。
以前からその長い前髪だけを青に染めたいと言っていた。 が、愚息が6月まで通っていた学校は『自然な色以外に髪を染めるのは禁止』であった。 自然な色・・・黒、茶色、赤毛、金髪、位かな? 白やプラチナブロンドはダメだそうだ・・・何故だろう?
9月に入学する高校では髪の色は自由である。 ちなみに髪型も自由である。 ただし、スパイクにして髪の中に凶器を隠すのはダメだそうである。 (そういう規則があるということは、過去にそういうことをしたヤツがいるということである。)
ところで、愚息の髪の色は普通の日本人の髪の色である・・・濃い茶色。 これを青で染めても元の色が濃いので、ちゃんと色は出ない。 で、最初にブリーチをしなければならない。 ところが、ブリーチをすると金髪(あるいは黄色)になってしまう。 白くなるまで何度もブリーチをすると、髪が痛んで切れてしまうそうである。 (愚息の美容師さんに相談した。) 黄色+青=緑 つまり、青に染めたくても緑になってしまうであろう。 が、愚息はそれでも良いと言う。
私は愚息の髪型や色に関しては注文はないので、青に染めようがピンクに染めようがどーでも良いのだが、どーでも良いと思っているので「ブリーチとヘアダイ買ってきて」という愚息の頼みをついつい忘れてしまっていた。 忘れたまま月日は流れる・・・
今日、スーパーで買い物をしていると、何故かブリーチが目に止まった。 そういうことってあるんだよなぁ。 で、買って来た。 8ドルもするんだぜ!
二つの液を混ぜて使用するらしい。 しかも、一度混ぜたら全部使うか残った分は捨てなければいけないらしい。 前髪だけに全部使うのはもったいない。 という訳で、半分別の容器に移し変えて、半分だけ使うことにした。 そのせいでもないんだろうけど、思ったほど明るい色にはならなかった。
また明日やってみるそうである。
ハリー・ポッターがベストセラーになったのは、何時のことだっただろうか? 2作目が発売される日には本屋に長蛇の列ができた、とニュースで言っていた。 そこまで話題になるとついつい読んでみたくなる。 もちろん自分で金を出してまで読みたくはないが、そこはほれ、ここまで話題になると誰か持っている人がいるものである。 で、借りて読んでみた。 う〜ん、それ程面白くない。 これはきっと私の英語力が足りないせいであろう・・・仕方あるまい。
その後、愚息が通っている日本語学校の図書室で日本語版を見つけた。 で、借りて読んでみた。 う〜ん、やっぱりそれ程面白くない。
『マディソン群の橋の上で』とかなんとかいう名の本がベストセラーになった時と同じ状況に陥ってしまった。 変だなぁ・・・私は人が面白いと言う本は大抵面白いと思うんだけどなぁ。 (赤川次郎とシドニィー・シェルダンだけは例外)
先日、ダンナが何を血迷ったのか『ハリー・ポッター』のDVDを買って来た。 そんなお子様向きの映画を買うのだろうか? 見たければレンタルで充分ではないか! と思ったのだが、せっかくあるのだから、と見てみた。
う〜ん、面白い! 面白くて、2回も続けて見てしまった。 なにが面白いって、あのお城のような学校が素晴らしい! ああいうところに住んでみたいものである。 ああいう学校に行ってみたいものである。 イギリスに住んでなくて実に残念だ。 イヤ、イギリスに住んでいてもこの歳ではあの学校へは入れてくれまい。 イヤ、若くても元々魔女か魔法使いじゃないと入れないのかな?
映画だと面白いのに何故本だと面白くないのか? これはやっぱり私の想像力に欠陥があるせいだろうな。 ということを再確認するのは、やはりちょっと淋しかった。
2002年07月20日(土) |
英語をマスターせずに英語圏で暮らす。 |
私は英語がわからない。 わからないのにアメリカで暮らしている。 英語がわからなくて困った、という状況に陥るのはほぼ毎日のことであるから、取り立てて騒ぐほどのことではない。 が、一番困るのは、相手が言っていることが聞き取れないことである。
『知らない言葉は聞き取れない。』 これ、常識。 相手が言っていることが聞き取れない場合、その原因は相手が使っている言葉を私が知らないという場合がほとんどである。 知っている言葉なら、多少発音がおかしくてもなんとか聞き取れる。 (反対に、良く知っている言葉でも私の発音が悪くて相手が聞き取れない場合は良くある。) ようするに、英語をマスターしようと思ったら、語彙を増やせばよいのである。 (もちろん、それだけじゃないけど、やはり語彙力が基本だと思う。)
で、英語がわからないまま話をするにはどうすれば良いか? 「人間、考えることはみな同じ。」という基本方針に基づいて、相手が言っていることを察すれば良いのである。 推測、憶測する。 が、私の推測、憶測は、90%の確率で、まず外れる。 人間、皆同じじゃないんだなぁ・・・
じゃ、勉強して語彙を増やせば良いではないか! わかってはいるのだが・・・いるのだが・・・いるのだが・・・と月日は無慈悲にも流れていく。
話は変わるが・・・(変わってないけど) ケーブル・テレビや衛生放送(我が家にはどちらもない)で良く『ペイパー・ビュー』というのをやっている。 特別料金を払って、番組を流してもらうシステムである。 ほとんどがボクシングやプロレスの特別番組である・・・と思う。 (最近は、見たい映画だけをリクエストして映画ごとにお金を払う「オン・ディマンド衛星放送」なるものもあるらしい。)
で、この『ペイパー・ヴュー』 よく聞く言葉なのだが、最近まで何のことか全然わからなかった。 いや、それがどういうものかはわかるのだが、何故『ペイパー・ヴュー』というのかがわからなかったのだ。 意味はわかっているのだから、特に困ることはない。 従って、誰かに聞くこともない。 ペイパー=新聞、ビュー=時評、かな?と漠然と考えて、「新聞の時評に載るくらい有名な番組を特別料金を取って提供する」という意味なんだろうなぁ、と思っていた。
・・・全然違った。 “Paper View” ではない。 “Pay Per View”・・・番組ごとにお金を払う、だったのである。 皆「ペイ・パー・ヴュー」と言っていたのである。 私一人がいつも「ペイパー・ビュー」と言っていたのに、訂正してくれる人は誰もいなかった。
しかし、私が“Paper View” と言っても“Pay Per View”と言っても、発音は「ペイパーヴュー」・・・仕方あるまい。
こういうことは・・・日常茶飯事である。
2002年07月19日(金) |
続カタカナ英語:表記の仕方 |
『オンデマンド出版』という言葉を始めて聞いた時、まさかそれが”on demand”だとは思わなかった。 『オン・デマンド』ではなく、『オンデ・マンド』と読んでしまったからである。 日本語の場合、6文字だと3字と3字に分けて読んだ方が自然だと思うのは私だけだろうか? 『オンデ』って何だ?『マンド』って何だ?じゃぁ、意味がわかるはずがない。 そこで・・・ イディオムをカタカナで表す場合、言葉と言葉の間に・を打ってもらえないだろうか? 『オン・デマンド』と書いてあれば、見ただけで意味を察するのはそう難しいことではあるまい。
ついでに、『オン・ディマンド』と書いてくれるともっと嬉しい。 英語の発音うんぬんの話をしているのではない。 日本人が英語を読む時、De=デ、Di=ディ(Da=ダ、Du=ドゥ、Do=ド、ね)になるんじゃないのかな? (と、ついそうなってしまう私は考える。)
私が小学生の頃、ヴという表記はなかった。 少なくとも私は習わなかったぞ! ヴァイオリンはバイオリンであり、ヴィデオはビデオだった。 (テレビは、まだテレビだよね?テレヴィじゃないよね?) 最近はVサウンドはヴァ、ヴィ、ヴ、ヴェ、ヴォって書く・・・らしい。 愚息の漫画(ワンピース)を読んでいたら『お』に濁点が打ってあった。 (発音記号もつけて欲しい)
このように、表記の仕方は時代と供に変わって行く。 良い悪い、好き嫌いに関係なく、変わって行く。 その変化が激しい今、英語をカタカナで表す時の字の使い方を統一してくれると有難いのだが・・・変化が激しすぎて無理かな?
2002年07月18日(木) |
カタカナ英語、あるいは新日本語 |
「これを日本語でいえますか?」とか何とか言うタイトルの本があったような気がする。 パラパラと立ち読みしただけだから、うろ覚えなのだが、日常使われているカタカナ英語やアルファベットを使った略語を日本語ではなんと言うのか、ということが説明してある本だ。 一瞬、買おうかな?と考えてしまった。 とても役に立ちそうだったからだ。 (結局買わなかった・・・いつか買うかもしれない。)
カタカナ英語が氾濫すること自体は全然悪いこととは思わない。 実際、長ったらしい日本語を繰り返すより、英語をそのままカタカナにして使った場合の方がわかりやすく簡単な場合は多い。 そもそも言葉とは変わっていくものである。 国際化が進むにつれて、カタカナ言葉が大量に使われるようになるのは当然のことだろう。 言葉はわかりやすいのが一番である。
が、最新の日本語に接していない私は、意味がわからない言葉と出会うことが多い。 昨日の「リーダビリディ」のように、わかったようなわからんような・・・という言葉もたくさんある。 そういう時、解説書が必要なのである。 『現代用語の基礎知識』とか『知恵蔵』とかを持ってれば良いのだが・・・あんな分厚い辞書を毎年更新するのもなんだかなぁ・・・本、高いし。
と思いつつ、それ程困ったこともないから疑問は疑問のまま日々の暮らしは続くのであった。 どうしても必要な場合は、インターネット検索でなんとかその場を凌いでいる、という現状である。 しかし、日本の人達はちゃんと着いて行ってるんかね?
2002年07月17日(水) |
「リーダビリティ」の正しい使い方 |
誰か教えてくれないかな?
本を読むのは好きなのだが、新作を発売と同時に読むということはまずない。 自分で買うのは文庫のみ。 たま〜にノベルズを買うくらいである。 だから古い話で恐縮なのだが・・・
松岡圭祐著小学館文庫の『千里眼 ミトリの猿』という本の解説を読んでいたら「リーダビリティ」という言葉がやたら目に付いた。 「〜それを次章へのリーダビリティの核にしていくテクニックは〜」 「リーダビリティを何よりも重視するエンターテイナーとしての才能を〜」 「〜本書に強烈なリーダビリディを与えている。」等等 リーダビリティ・・・なんか知らない日本語だぞ!
「リーダビリティ」とはreadabilityのことだ・・・と思う。 「面白く読めること」という意味で使われているのじゃないかなぁ、と思う。 でも、「面白く読めること」「面白さ」を上の文のリーダビリディの代わりに当てはめてみると、ちょっと違うかな?という気もする。
本の後ろの方にある「千里眼シリーズ」の広告(?)には 「圧倒的な迫力と面白さ、リーダビリティとオリジナリティを誇る超娯楽エンターテイメント〜」 と書いてある。 面白さ=リーダビリディだとしたら、この文章は一つの文の中に同じ意味の言葉を2度使っていることになる。 う〜ん、きっと「リーダビリティ」には面白さだけでなく、他の意味が込められているに違いない。 しかし、それは一体何なのだろう? 「読まずにはいられない」とかかなぁ?
ところで、アメリカ在住の方々・・・readabilityって聞いたら「読みやすい」あるいは「読むに耐える」という意味に聞こえません? 本の紹介にreadabilityと使ってあると「この本は読むに耐える本です。」と言われているような気がして、読むのをためらってしまいそうになるのは私だけだろうか?
家にある本を「保存」と「処分」に分けるために片っ端から読んでいこう、と去年の後半から整理を始めたのだが、月日が経つにつれ、そのペースはどんどん遅くなって行く。 特にここ一月ほどは全然進んでいない。 思い立つとすぐに始めるのだが、長続きしないのはいつものことである。 数々の挫折プロジェクトは、挫折とは思わず一時的棚上げと考えることにしている。
で、話変わって・・・(実は変わってない) 清涼院流水という作家がいる。 日本で人気がある作家なのかどうかは知らない。 どういう人なのかも全然知らない。
講談社ノベルズから6冊本を出している。 他にも出してるのかもしれないけど、私は6冊しか持っていない。 「ジョーカー」「コズミック」「19ボックス」「カーニバル・イヴ」「カーニバル」「カーニバル・デイ」 「ジョーカー」「コズミック」「カーニバル」「カーニバル・デイ」の4冊はかなり分厚い。 京極夏彦真っ青の厚さである。
最初に本屋で「ジョーカー」を見た時、どんな話なのか、どういうジャンルか、人気作家なのか、など全く知らないまま、ついつい買ってしまった。 理由は・・・本が厚かったからだ。 私は分厚〜い本が大好きなのだ。 厚いというだけで読みたくなってしまうのである。 (実は京極夏彦の本を始めて買ったのも同じ理由だ。) だだし、エンターテイメントだけね。
ここ一月ほど、彼の本を読み返していた。 (そのため本の整理が停滞していたのである。) で、今日、やっと「カーニバル・デイ」を読み終えた。 読み終えたのではあるのだが・・・やはりどんな話なのか、どういうジャンルか、人気作家なのかどうか、などは未だにわからないままである。 でも、実に楽しかった。 これまでに読んだ色々なミステリーを思い出させてくれるような本だった。 後半は、トラベル・ミステリーを読んで世界の名所巡りをしているような楽しさもあった。 歴史の教科書をさらっと流し読みしているような気になることもあった。 (私は歴史が苦手なので、こういう所にちょこちょこと顔を出してくれていると、嬉しい) それにしても、この人(清涼院流水さん)欲張りだね。 「頭の中にあることを全部文章にしてみました。」という感じがする。 実際は彼の頭の中にあることの極々一部なんだろうけど、頭の中にほとんど何もない私にはそういう気がする。
何度も何度も読み直したくなるような本じゃないな・・・と思いつつ、講談社ノベルズから彼の新作が出れば、そして、それが分厚ければ、きっとまた買ってしまって、最初から読み直すことになりそうな気がする。 (実はそれを楽しみにしていたりして・・・)
その後、講談社ノベルズから彼の本が2冊出ているということがわかったが、まだ読んでいない。
保険がやっとダンナの腎臓移植を認めてくれた。 これでやっと色々な検査を始めることができる・・・らしい。 しかし、近々手術が出来るであろう、というのは甘い!
医者が病院(多分UCLA)に連絡を取ってくれたが、検査の予約はこちらが入れるのではない。 病院の方から連絡があるそうなのである。 一体何時頃連絡があるのだろうか? ナント、半年から一年後だそうである。 手術まで半年から一年待たされるのではない。 検査を始めるのに半年から一年である。
じゃ、一体手術は何時頃やって貰えるんかい?
ところで、ダンナは膵臓も悪い。 悪いというか機能していない。 これはもう腎臓より随分前に機能停止していた。 で、医者が「腎臓と一緒に膵臓も移植してしまいましょうね。」と言っていたので、ダンナはそれを楽しみにしていた。
しかし、ダンナが入っている健康保険は膵臓移植には利かないそうなのである。 というか、保険会社の人が言うには、膵臓移植には保険が適用されない(病気の種類によっては適用される人もいる)のはアメリカ中で決まっていることだそうなのである。 しかし、ダンナは保険会社の人の言葉を信じていない。 「検査始めますよ。」のお知らせを待ちつつ、健康保険を変えるべきかどうか検討中のダンナである。
ホームページの趣味の欄に「整理・整頓」という真っ赤な嘘を書いてから、少しづつ整理・整頓に励んでいる。 今日も一日お片づけ・・・をしていると、数年前に写したパスポートの写真が出てきた。 あれ?誰かに似てるなぁ?
私は極々平凡な顔をしている。 芸能人に似ていると言われたことはないが、同級生に似ているとか友人のお姉さんに似ているとか、どこかであったことがある?とかはよく言われる。 つまり、どこにでもある顔なのである。
しかし、私の直接の知り合いには私に似た人はいない。 (家族にはいるけど) なのに、写真を見て 「これはどこかで見た顔である。 絶対誰かに似ている。 しかも、この懐かしい気分は何なんだ?」 と思ってしまった。
しばし、考える・・・あっ・・・わかった!
小学生の頃読んだ漫画『蛇女』だった。 いやぁ、自分で言うのもなんだけど、ソックリ!
お葬式に行った。 今回もまた愚息関係のお葬式だったが、私達も知り合いだったので、家族3人で出席した。
この歳になると、友人の親が亡くなることは良くある。 ああ、もうそういう歳になったんだなぁ、としみじみと思ってしまう。 が、こういう場合は、 「お気を落とさないで・・・ 何か私に出来ることがありましたら、遠慮なくおっしゃってくださいね。」とかなんとか言うことができる。
しかし、私と同年代かそれより若い人のお葬式はやりきれない。 ま、それは私個人の感情ですけどね。 問題は・・・そういう人のお葬式に行った時に遺族に対して挨拶をする時だ。 私はこれがどうしても出来ない。 お焼香の後、遺族に向って礼をする時も遺族の顔を見ることすらできない。 頭がか〜っとなってしまうのだ。 お葬式の後は、頭だけ下げて、そそくさと去ってしまう。 こういうのって失礼だよなぁ。 今日のお葬式はダンナと友人の影に隠れて挨拶を誤魔化してしまった。 実に思いやりのかけらもない態度である。
でもね・・・ とんな一体どんな挨拶をすれば良いんだ! 「元気出して下さいね」・・・って元気でる訳がないだろうが! 「頑張って下さいね」・・・っつうのには早すぎると思う。 自分が遺族だったら、どんな言葉をかけられても白々しく聞こえるような気がする。 が、やはり何も言われないのも淋しいかもしれない。
なんて色々考えていると言語障害に陥ってしまうのである。 言葉が出ないだけでなく、体まで固まってしまう。 今日も、コケそうになってしまった・・・ いい年して、何をやってるんだろうね。
ウェブ日記を書き始めて半年ほどたった今日この頃・・・更新がやたらと遅れてしまっている。 読んで下さっている方々には誠に申し訳ないことである。
そもそも、何故私は日記を公開しているのか? ここだけの話なのだが・・・実は日本語の練習をしているのである。
私は日本人である。 最近、アメリカ国籍にしてしまおうか、と考えないでもないこともないのだが、とりあえずまだ日本人である。 生まれも育ちも日本だ。 しかも、三流私立とは言え、大学では国文学を専攻していたのである。
なのになのに・・・日本語が書けない。 数年前、それに気づいてしまった。 書けないだけでなく、しゃべることも出来なくなっている。 恐ろしいことである。 (もちろん、その分英語が上達していれば恐ろしくも何ともないのだが、相変わらず英語はわからん。)
去年まで通っていた学校の先生から、「毎日、日記(でなくても何でも良いのだけど)を書き、好きな本を筆写しなさい。」と言われた。 そこで、始めたのがホームページとウェブ日記なのだ。 「どこかで誰かが読んでるかもしれない」という緊張感があれば、少しは正しい文章を書こうとするのではないか?と思うのだが、果たして効果は上がっているのだろうか?
それにしても、読まされる方はたまったもんじゃないですな。 ・・・実に申し訳ないことである。
(でもカウンタが少しづつでも上がっているのを見るのはとても励みになるの・・・よろしくお願いします。)
私の友人はほとんどが日本人である。 日系人の友人すらほとんどいない。 理由は・・・多分英語のせいなのだろう。
数年前まで、毎日のように会っていた友人達がいた。 家族ぐるみのお付き合いで、独立記念日、感謝祭、クリスマスなど、アメリカ人だったら親戚で集って過ごす祭日にはいつも皆で集ってパーティをやっていた。 そんな友人達が一人減り、二人減り・・・そして誰もいなくなった。 帰国、あるいは遠くへ引っ越してしまったのである。 同時に、当たり前であるが愚息の幼馴染も全員いなくなってしまった。 祭日の時、こういうのって淋しいですな。
特に意識してはいなかったのだが、友人達はほとんどが駐在員家族であった。 永住組みにも友人はいたのだが、家族付き合いはしていなかった。 その理由に最近やっと気が付いた。
永住組みの友人達は、多かれ少なかれ、こちらに親戚が住んでいるのである。 彼らは祭日を親戚と供に過ごす。 また、それなりの親戚づきあいもしなければならない。 だから大きなイベントの際、家族ぐるみで集ってわいわい騒いでいる場合ではなかったのである。
ふ〜ん、こっちに親戚が一人もいないのって私だけだったんだ。 ちょっとショック。 イヤ、淋しいのではない。 親戚が一人もいないアメリカに、何故私は永住することになったのだろう? もしかして、これってかなり無謀なことだったのかもしれない。 って今ごろ気が付いても、もう遅いわい!
2002年07月10日(水) |
生きるということは・・・ |
ナントめんどくさいことなんだろう。
哲学の話ではない。 家事の話である。
炊事・・・食わねば生きていけない。 主婦であろうが務めていようが、結婚していようが独身だろうが、男だろうが女だろうが、生きていくためには食わねばならない。 仕事をしていようが、遊んでいようが、寝ていようが、時間が経てば腹が減る。 腹が減ってから何を食べようかと考え始めるのは遅すぎる。 腹が減る前に考えなければならない。 献立が決まったら、買い物へ・・・で下ごしらえ・・・で調理・・・で、食事。 食べ終わった後には何も残らない。 (文字通り何も残らないのが我が家の食卓である。) 鍋・食器を洗って、片付けて、台所を見ると・・・「何を食べようかなぁ」と考えていた時の状態と全く変わっていない。 何も進歩していない。 そういのって虚しい。
洗濯・・・洗濯をしなければ生きていけない・・・かな? ま、洗濯機と乾燥機があることだし、家にいながらできるのだから、洗濯はそれ程面倒だとは思わない。 が、私と愚息は肌が弱いので、いつも清潔な服を着ていないと身体が痒くなってしまうのである。 ダンナは透析用のチューブを埋め込んでいるので、私達以上に清潔にしていなければならない。 (暑くなってきたので、先日透析用チューブのお洋服を作った・・・ガーゼで作ったただの細長い袋だけど。) 使用するタオルや下着は殺菌しなければならない。 だから、やはり「洗濯をしなければ生きていけない」のだろう。 洗濯をする・・・干す・・・取り込む・・・たたむ・・・片付ける。 洗濯物籠が空っぽになり、衣類が箪笥に戻っただけである。 何も進歩してない・・・虚しい。
掃除・・・掃除はしなくても死なないよな。 「埃で死んだ奴はいない!」である。 でも、しないわけにはいかない・・・何故だろう? 多分、掃除をした方が生活しやすいからだろうな。 でも、掃除も何も作り出さない。 家を元の状態に戻すだけである。 そういうのって虚しい。
私は自宅で仕事をしている。 (お金を頂ける仕事ね。) 大した仕事ではない。 それでも仕事をした後は、やった仕事が残っている。 これまでにやって来た仕事はファイルされている。 だから何なんだ!という気もするのだが、やっぱり自分がやった仕事が残っているというのは気持ちが良いものなのだ。 仕事をやる前と後で世の中が変わったというようなことは絶対無いが、それでも自分の中で多少進歩したような気がする。 多分、錯覚・・・自己満足である。
でも、自己満足できるというところがポイントなのだ。 いくらやっても家事で自己満足することはできない。 もしかして・・・これって、真剣に家事に取り組んでない証拠?
私はほとんど化粧をしない。 ナチュラルが一番だと思っているわけでなく、単にめんどくさいだけだ。 それでも40を過ぎてから、このままではマズイかもしれない、と思い、1、2ヶ月に一度、フェイシャルに通っていた。 何しろ、朝晩の洗顔、クリームと化粧水が私の肌の手入れの全てだったのである。 (今でもそうだけど)
が、去年の暮れからダンナの病状が悪化し、どうも落ち着かない日々を送っていたため、フェイシャルどころではなかった。 当然、美容院にも行ってなかったのだが、これは6月の愚息の卒業式前に慌てて予約を入れて行ってきた。
先日、日本食マーケットの前で偶然フェイシャルをやってくれているMさんに会った。 ダンナも透析に慣れてきて、生活のペースもだんだん出来たことだし、これを機会にとフェイシャルの予約を入れた。 それが今日である。
愚息の腹痛は、だいぶ良くなったとはいえ、まだ完全に回復していない。 授業の方は、調子が悪ければ教室で寝るなり休むなりしていれば良いのだが、フットボールの練習はそういうわけにも行くまい。 が、私はフェイシャルの予約を入れている。 愚息とフェイシャルとどっちが大切か? もちろん、愚息である。
と思いつつ・・・ 愚息をフットボールの練習にドロップ・オフしてきてしまった。
迎えに行った時、「大丈夫だった?」と聞くと、 「ちょっと心配だったから、練習に出ないでウェイト・ルームでウェイト・リフティングしてた。 2時間もやってたから、もう足が滅茶苦茶痛い!」 ・・・やるな、そんなもん!
そう言えば、医者に3日間くらい休んでなさいって言われたんだっけ。 すっかり忘れていた。
相変わらずほとんど食わない。 5ポンドほど痩せたそうである。 彼が5ポンド痩せたところで外見に変化はない。
ホリディ・ウィークエンドも終わったことだし、愚息を医者に連れて行った。 案の定、愚息の担当医は忙しいらしく待ち時間が長いので他の医者に見てもらった。 彼女は小児科医であった。
本当は16歳までは小児科医に見てもらうのが良いのだそうだ。 というか、「16歳までは小児科」と決まっている。 でもねぇ・・・あの体格で小児科ねぇ・・・ という訳で、愚息は数年前から内科の医者に担当してもらっている。
医者は愚息の症状を聞いただけで薬を処方してくれた。 つまり、小児科でも全然問題はなかったわけだ。 それどころか、これなら誰でも良いんじゃないのかい?
抗生物質を飲んで家で3日くらい寝てれば治る・・・そうである。
そういえば、今日は七夕・・・
身近に「自分がやって欲しいと思っていることを人にやってあげるべきだ」と考えている人物が一人いる。 彼女はとても『良い人』である。 頼りになる。 特に頼りにしている訳ではないが、ああいう人が身近にいるというのはとても安心感があってよろしい。
よろしいのではあるのだが、親しくお付き合いをするとなるとかなり鬱陶しい。 過去数回、彼女のために嫌な気分になったことがある私は、今では付かず離れずのお付き合いをしている。 こういうのって自分勝手だよなぁ。
ちなみに、彼女はダンナ側の親戚である。 親戚であるので、縁を切る訳にはいかない。 親戚なのに縁を切ってしまった人も中にはいるのだが・・・私はそこまで人間関係にのめり込まない(つまり冷たいのね)ので、最悪の状態は避けられている。 喧嘩をしながら付き合いを続けている親戚も約2名ほどいるのだが・・・私はそこまで熱くなれないので、喧嘩をしたことすら一度もない。
しかし、距離を置いて考えてみると、先にも書いたように、彼女はやはり「良い人」なのである・・・困ったもんだ。
何故このような事態が生じるのかと言えば、それはやはり「自分がやって欲しいと思っていることを人に対してもやる」というのが原因なのではないか、と思う。 酒が大好きな人が酒を嫌いな人に酒を勧めるようなものである。 (ちょっと違うかな?) はっきり言って「余計なお世話」が多すぎるのだ。
しかし彼女は自分の考えが正しいと信じている。 子どもではないので、他人が考えを変えさせるのは非常に難しい。 真剣に取り組むと喧嘩になってしまうであろう。 それに・・・
これは私の意見であって、真理ではない。 「私の意見が正しい」とすら考えていない。 他の人(特に彼女のような人)には彼らなりの意見があるのである。 人の意見は尊重したい(だから私の意見も尊重しろ!)と常々思っている私は袋小路に入り込んだまま一生を終えるので・・・あろう。
世の中が善と悪に分かれていたら、とてもシンプルだろうな。 しかし・・・喧嘩から戦争まで、大抵の場合は『善』と『善』の戦いなのである。
実は愚息は一昨日の夜中からお腹を壊している。
今日は日本語学校の日である。 熱があったり頭痛がする場合は、薬を飲ませて学校へ送り届けるのだが、お腹を壊している場合だけは学校へ行かせるわけにはいかない。 という訳で、今日は日本語学校、お休み。
学校が終わる頃、欠席届を持って宿題を取りに行った。 宿題を受取って家に帰ってくると、愚息から「先生になんていったの?」と聞かれたから、「お腹壊してるって言ったよ。」と言うと、愚息が怒った。
病気とだけ言えば良い。 お腹を壊しているなんぞとディーテイルの説明は必要ない。 と言うのである。
でもね、欠席届に書くだけなら兎も角、目の前にいる先生を相手に「病気です。」の一言では余りにそっけないではないか? それに・・・お腹を壊したということを何故秘密にしなくてはいけないのだ?! エイズなら、ちっと秘密にしたいかもしれないけど・・・
というのは感受性が擦り切れてしまったオバサンの考えである。 若者は「お腹を壊す=下痢」というのが恥かしいのだろうな、多分。 愚息もそういうお年頃になったという訳だ。
さて、彼は昨日お粥を1杯しか口にしていない。 今日は何も食べていない。 水を飲んでひたすら眠っている。 愚息が何も食べないということは・・・本当に病気なのである。
テレビや映画を見ていると “Do you want to talk about it?” というセリフがよく出てくる。 悩んでいる人、落ち込んでいる人、悲しんでいる人等等、マイナーな感情を持っている人に対して聞く質問である。 このセリフは、相手の話を聞く覚悟がないと言ってはいけない。
これってもしかしてアメリカ人が日常頻繁に使うフレーズなんだろうか? 相手の気持ちを尊重した言い方だと思う。 つまり、答えが“No”であれば、それ以上聞いてはいけないのである。
しかししかし・・・ “No”と答えたにも関わらず、彼(あるいは彼女)は誰かに話たくてもどうやって話せば良いのかわからないのかもしれない。 話して良いのかどうかわからないのかもしれない。 話すのが恥かしいのかもしれない。
“No”と言われてももう一歩つっこんで話を聞き出そうとすれば、悩んでいる本人だって話してしまってすっきりしたり問題が解決したりする場合も多いのではないだろうか? 「嫌よ嫌よも好きの内」というくらいだから、「言えない」「言いたくない」が「誰かに聞いて欲しい」という意味の場合もあるのではないだろうか?
私個人としては「嫌よ嫌よは絶対嫌だ!」タイプなので、そういう言葉のアヤというか「本音と建前」というか、そういうものに実に鈍感なのである。
相手の言った言葉ではなく、気持ちを察する。 これは決しておせっかいではない。 思いやりである。 が、人とは基本的に自分を物差しにして世界を見ていると思う。 だから相手の気持ちを察するというのは実に難しい・・・と思いません?
私は常々愚息に 「自分が望んでいることを相手にやるのではなく、相手が望んでいることをやってあげなさい。 自分がやって欲しくないことを相手にやらないのではなく、相手が嫌がることをやってはいけない。」 と言い聞かせてきた。 要するに、「自分が望んでいることをみんなが望んでいると思ってはいけない!」ということが言いたいのである。 人の好みはそれぞれ違うのだ。 その違いを尊重できる人になって欲しい。 (あるいは、そういう人に私はなりたい。)
では、相手が望んでいることをどうやって知るのか? 聞くのが一番! でもなぁ・・・素直に答が帰ってこない場合が実に多いのである。 そういう時はどうすれば良いのだろうか?
ちなみに、”Do you want to talk about it?”と聞かれた場合、一番多い答えは・・・ “Not now…… maybe later.”である。
2002年07月04日(木) |
独立記念日、つつがなく終了 |
LAXでシューティングはありましたけどね。 他には特に問題はなかったようです。
さて、LAXで起こったシューティングとは・・・と地元に住んでいる私なら詳しいことを知っているだろうと思う日本の方々、そりゃ甘いってもんですぜ。
私の主なニュース源の新聞社のウェブサイトである。 つまり、地元にいようが日本にいようがアフリカにいようが、誰でも同じ時間に同じニュースを読むことができるのである。 従って、私の情報が決して早く詳しいということはない。 どころか、ニュースの要約すら読むのが追いつかず、1、2日遅れで読んでいるくらいだから、他の人の方が早く情報をキャッチしているだろうと思う。
で、『独立記念日LAX事件』 犯人は小型ピストルを落としたところで撃たれたそうですな。 人と殺したんだから殺されても当然だろうけど、ピストルを落としちゃった人を急いで殺す必要もないと思うのは、現場にいなかった者の浅はかな考えであろうか? でもなぁ、できれば彼がテロリストかどうか、どこかの組織と繋がっているのかどうかなんかを確かめてから殺して欲しかったなぁ。 などと勝手なことを考えてしまった。 殺された遺族が聞いたら、怒り狂うであろう意見ですな。
さて、話し変わって、花火について。 カリフォルニア州では基本的には花火は禁止である。 理由は、空気が乾燥していて火事になりやすいから。 が、一部では『独立記念日』のみ花火をやって良いことになっている。 私が住む町や両隣の町では禁止である。
で、夜・・・皆さん派手に花火をやってらっしゃいましたね。 今年はいつになく花火が盛んであった。 花火をやって良い地区でも違法の打ち上げ花火がバンバン上がっておった。 理由は・・・あの911だそうだ。 911以来始めての独立記念日、規則なんか無視して皆さんアメリカの自由を祝っておったのだ。
ま、良いけどね・・・
「ここはアメリカだ! 他のヤツに爆破されるくらいなら、自分達で燃やしてしまえ!」 と言っているような気がしないでもない。
そう言えば、私が行った大学に『人間関係学科』というものがあったが、あれは一体何を研究する学問だったんだろう?
シンプルに生きたいと常々思っている。 これが結構難しい。
愚息もシンプルが一番と思っているらしい。 彼のこの人生観(?)は私の与えた影響なのか、はたまた自分で打ち立てたものなのか・・・? 彼の場合はまだ未熟なためか、それとも私より精神的に強いためか、かなりシンプルに生きているようである。
このシンプル・ライフ、人付き合いに関しても例外ではない。 例えば、「誰にも言わないでね。」と誰かに言われたことは、私は誰にも言わない。 ダンナにも言わない。 噂話には出来るだけ耳を傾けないようにしている。 不覚にも聞いてしまったことは、大抵の場合「聞かなかったことにしよう。」で終わらせている。 「ねぇねぇねぇ、どうしたの?何があったの?」などという軽率な質問は決してしないように心がけている。
で、気が付くと私一人だけが知らなかった、という状況に陥っていることが昔からよくあった。 今でも良くある。
別に仲間はずれにされている訳ではない。 虐められている訳でもない。 100%自業自得である。
愚息の場合も同じ状況に陥ることが良くあるらしい。 だが、彼は気にしない。
私は・・・やっぱり気になるんだよなぁ。 私ってもしかして本当に冷たい人間なんじゃないか、と思ってしまう。 基本的に他人に興味が持てない自己中心的な人間なのではないか、と考えてしまう。
シンプルに生きるというのも中々難しいものである。 しかしまぁ、それで「困った」という状況に陥ったこともないので、これで良いのかもしれない。
2002年07月02日(火) |
Do you have fat? |
夕食はポークチョップだった。 ビーフ・ステーキの場合は普通Tボーンを買うのだが、ポークの場合は何故か骨なしを買ってしまう。 で、犬達は骨をもらえない。 匂いだけが漂ってきて何ももらえないというのは気の毒である。 今度は骨付きのポークを買ってこよう。
さて、肉の周りには薄っすらと脂肪がついている。 焼く前に脂肪を取り払ってしまうと肉の味が落ちるので、脂肪は食べる時に各自で切り取ることになっている。 ちょっとでも脂肪を食べるのが嫌な私が切り取った部分には、しっかりと肉がついている。 ダンナは結構きれいに脂肪だけを切り取る。 愚息は・・・彼は脂肪ごと食ってしまう。 いくら言っても聞かない・・・鶏の皮を食うな!と言っても聞かないのと同じである。 (鶏の皮はテーブルに出す前に取り除くことにしている。 油断していると食後台所へ皿を持って行った愚息がローストパンに残った皮を食べてしまうことがある・・・確かにカリッと焼けた鶏の皮はおいしいのだが。)
で、食後、お皿に残った脂身は犬のエサになる。 夕食が遅くなってしまったので出かけなければならない愚息はお皿をテーブルの上に残したまま出かける用意を始めた。 お皿に残った脂身を犬にあげるために集めていたダンナが、自分の部屋へ向う愚息の声をかけた。 “Do you have fat?”
愚息はちょっと振り向いて「失礼な!」と言って去っていった。 ・・・ま、確かに失礼だな。
月日が経つののなんとまぁ早いことよ。 と月が変わる度に書いている気がする。 でも、今年ももう半分終わってしまったのだなぁ。 なんと進歩のないことよ。
ホームページのプロフィールに「趣味:整理整頓」と書いてから半年近くになる。 家の中は相変わらず滅茶苦茶・・・昨日パントリーの片づけをした勢いにのって、汗だくになりながら台所の大掃除はしたのだが、他は目も当てられない状態。
ああ、私は「片付けなきゃ、片付けなきゃ」と言いつつ死んでいくのだろうか? しかし何故か死後「こんなゴミばっかり溜め込みやがって、迷惑だよなぁ」と残された者達が文句を言うであろうことは全然気にならない。 「あの人、なんていいかげんな人だったのかしら。」 「だらしない人だとは薄々思っていたんだけど、ここまで酷いとはねぇ。」 等等、言われそうな悪口なら一気に100以上並べることができる。 できるのだが・・・
死んだ後のことまで気にしてられるかい!
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