シネマ*マシンガン
映画鑑賞言いたい放題覚え書き DiaryINDEX|past|will
2005年04月13日(水) |
【アイデン&ティティ】ロックの神様降臨法 |
みうらじゅんの原作を田口トモロヲが映画化。バンドブームに翻弄されたあんま売れないロックバンド「SPEEDWAY」の栄光と挫折の物語。
バンドブームを目の当たりにしたものにとっては鼻腔の奥をくすぐられるような妙な快感のある話であり、そうでない人にとっては「ハァ?」なところももちろんあるとは思うのですが、どうですか、峯田くんはかわいいしカッコいいではないですか。
ロックロックと連呼する彼が、ささやかに情けない思いをしながらも、なんかカッコよく見えるのは、我々が気づいちゃいるけど見ないフリをしている、失われたものを未だに持ち続けていて、そのことによってのみ彼が輝きを放つことができるからではないでしょうか。ベタすぎな演出(ホールが歌う彼と聴く彼女ふたりきりになるとか)も、ここではだんぜん生きている。
マギー、中村獅童、大森南朋もいい味出してました。しかし麻生久美子は現代の大場久美子みたいなもんなんですかね。この、映画監督から神聖視されてる感じはどうなんでしょう。あるツボをすごく刺激している感じはわかるんですけども。
この映画でいちばん驚いたのはディランの出し方でしょうか。無理っちゃあ無理なんですが、まあアリなんじゃないかと思わせる神様の降ろし方をしていて、ネタバレなマジックを見ているような気にさせられました。それはぜんぜん不快じゃなく、むしろ楽しかったりもして。
2005年04月11日(月) |
【イブラヒムおじさんとコーランの花たち】途上へのあこがれ |
パリ・ブルー通りの愛に飢えた少年「モモ」と、行きつけの雑貨店のおやじ「イブラヒム」の交歓を描いている…のかと思ったら、ほんとは前置きの長いロードムービーだったんじゃないかな、という話。
父親の死まで、家にも「家族の愛」っていう幻想にも縛りつけられていたモモが、イブラヒムおじさんとの旅の末に迎える結末、っていうのがほんとの大筋なんじゃないかなあ。見ている最中は数々のエピソードが備わったブルー通りのあたりのほうが実際派手なんだけど、台詞も少ない後半部分のほうがなにか訴えかけるものが多いような気もする。
距離的な移動がないだけで、前半もモモにとっては「途上」の入り口なわけで、自分が何者なのか、とか、自分はどこにいるべきか、何をするべきなのかを探すっていうスタンダードな主題は貫かれているんだよね。ロードムービーとか年代記ふうな作品が増える背景には、そういう「途上」へのあこがれっていうのが全年代的にあるんじゃないのかと思ってみたりもする。
あまりの熱演に誰だこりゃ、と思ったらオマー・シャリフだったんじゃないですか、イブラヒムおじさん!アラビアのロレンス!
2005年04月10日(日) |
【トニー滝谷】沈黙の音 |
村上春樹の原作を市川準が映画化。一抹の不安を覚えつつ鑑賞、できばえにほっとする。 主演(といってもほとんど二人しか登場しないんだけど)のイッセー尾形、宮沢りえの力の抜けた力演が実に心地よい。イッセー尾形はもともと化けるのがうまい人ではあるが、青年から壮年までを無理なく見せた。ついでに親父と息子の二役まで。
宮沢りえも、タイプの違った二人の女性を微妙なところで演じ分けてみせた。外見を変えずに、わずかに通じるものを持つふたりの女性を演じ、そのどちらにもイッセー尾形は惹かれることになるけれど、つまりそれは姿が似ているからではない、ということを説明によってではなく感じさせることに成功していた。
音楽は終始控えめに流れていて、背中や全身を遠くから捉えるカットがとくに多い。効果音も独白もない、その場面に時折聞こえるものは、沈黙の音としか言いようのないようなもので、号泣する場面を見せられたりするよりも、それはぎゅっと胸つかまれるものだった。
原作自体地味な、少し不思議な話である。おさえた演出、大胆な省略に好感を持った。ただし、監督自身がつけくわえたというラスト付近のエピソードはやっぱり蛇足。 低い位置にカメラを据えた独特な映像もとてもよかった。しかし最近おもしろいと思う日本映画って、役者の個人技にささえられていることが多いんじゃないだろうか。いいのかな。
2005年04月04日(月) |
【海の上のピアニスト】ファンタジーに徹するか否か |
【ネタばれ注意】
ティム・ロスの演技よかったです。 エンニオ・モリコーネの音楽、よかったです。 船酔いのエピソード、愛しかけた女性のエピソード、対決、おもしろかったです。 1900は言ってみれば誕生から最後まで、疑問符だらけの人生なわけですが、それを すっと手渡すさりげなさに満ちた演出は好印象でした。
んだけど、ラストに近づくにつれて、強行に着陸していくような、無理くりなところが 露になってきて、なんだかテンションが落ちてしまった。1900の最後を見届けさせる 必要はなかったのでは? わからないままにしておいたほうがよかったんじゃないでしょうか。話のオチをつけさせ るために必要だったんだろうとは理解できますが。廃船に居座り続けた、っていうのは かなり無理な話だし、実体か霊体かあいまいな存在にしてあるならまだ、ファンタジーの 余地があったんですけどね。やけに現実的なしめくくりにはちょっと気をそがれました。
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