愛せらるるは薔薇の花 愛することは薔薇の棘
花はあまりに散り易し 棘はあまりに身に痛し
『なげき』堀口大学
真理が支配しているときに平和を乱すことがひとつの犯罪であると同様に、 真理が破壊されようとしているときに平和にとどまることも、 やはり、ひとつの犯罪である。
(ブレーズ・パスカル)
運命がレモンをくれたら、それでレモネードを作る努力をしよう。
『道は開ける』D・カーネギー
月のいと明きに
川をわたれば 牛の歩むままに
水晶などのわれたるやうに
水の散りたるこそをかしけれ
『枕草子二百十六段』清少納言
勝ち負けには、もちろんこだわるんですが、大切なのは過程です。 結果だけなら、ジャンケンでいい。
(羽生善治)
人を信じることは人を救ふ。
(高村光太郎)
秩序の破壊なくして前進はないよ。
(中内功)
人間は明日の朝に対して、何がしかの恐怖と希望と心配をもたずにいられない。
(シラー)
理想はわれわれ自身の中にある。 同時に、理想の達成を阻むもろもろの障害もまた、われわれ自身の中にある。
(カーライル)
悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。 およそ成り行きにまかせる人間は気分が滅入りがちなものだ。
『幸福論』アラン
未来を予測する一番良い方法は、未来を創ることである。
(ピーター・F・ドラッカー)
ごまかし、曖昧さ、ウソというものは、 一度は通じても二度三度は通じない。 仮に、相手を騙す気が無くても、 騙されたと思わせるような曖昧な態度だけは、 断じて取ってはならない。
(堤康次郎)
時間は時間から生まれた子供たちを飲み込む。 悩みも時間の子であって、 悩みが永遠を僭称するのは、まやかしにすぎない。
(セーレン・キルケゴール)
「大人ってかわいそうだね。」
「どうして?」
「自分より大きな人がいないもの。 寄りかかって甘えたり、 叱ってくれる人がいないんだもの。」
『ドラえもん』藤子・F・不二雄
自分さえよければそれでいい、という夢は絶対に実現しません。
(熊谷正寿)
ある選択をするということは、 その選択によって生まれるはずのマイナスをすべて背負うぞ、 ということでやんしょ。
『青葉繁れる』井上ひさし
自分がどうなりたいか、まず自分自身に問え。 しかる後、しなければならないことをせよ。
(エピクテトス)
発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。 新しい目を持つことなのだ。
(マルセル・プルースト)
生きていること、それはすでに、世間の恩であった。
『宮本武蔵 円明の巻』吉川英治
人生を歩むうち、わたしには一つの事がますます明らかになってきた。 それは、開かれた心を失わないことが 人間にとって何よりも大切だということである。 正しく開かれた心はもっとも貴重な人間の財産である。
(マルティーン・ブーバー)
あなたの心が正しいと感じることを行いなさい。 行えば非難されるでしょうが、 行わなければ、やはり非難されるのですから。
(エレナー・ルーズベルト)
未来の幸福を確保する最上の方法は、今日できうるかぎり幸福であろうとすることだ。
(チャールズ・W・エリオット)
自分といえる自分などが、どこにあろう。 ないはずのものを、あなたは、つかもうとしておいでられる。
『新・平家物語11』吉川英治
我々の直面する重要な問題は、 その問題を作ったときと同じ考えのレベルで解決することは出来ない。
(アインシュタイン)
かたつむりは
かたつむりらしく歩む
蛍草は
蛍草らしく咲き
雨蛙は
雨蛙らしく鳴き
『生きる』水野源三
人から貰ったような幸福は、いつか逃げ去るものだ。 しかし、自分でつくる幸福は、決して欺かない。
『幸福論』アラン
意志もまた、ひとつの孤独である。
(カミュ)
結婚生活を退屈させない唯一の方法は、 双方が全力をあげて伸びようとすることである。
『女の男性論』大庭みな子
『愛されていないという不安をもったとき』 先日、喫茶店で、隣のテーブルにカップルが座っていました。女性のほうは、「私のこと本当に好き?」と彼氏にしつこく訊いていました。仲のよいカップルがじゃれ合っているだけなら、「ごちそうさま」と言いたいところですが、彼女の口調は真剣で、まるで彼を責めているようでした。彼女は、たぶん好かれていないだろうという不満をもっているから、尋ねているのでしょう。しかし、わざわざ直接相手に尋ねても意味はありません。
「好き」と答えられても、相手の言葉と態度との違いに不誠実さを感じ、ますます不満を強めるだけです。「嫌い」と言われたら、「なぜ私を好きになってくれないのか」と、相手を責めようというのでしょうか。どちらにしても、もやもやとした不安は解消されないのです。
なぜ不安が消えないのかといえば、自分の心をごまかしているからです。「私のこと好き?」という言葉が出てくるのは、その人自身が相手を愛していない証拠です。自分を尊重してくれない相手に対して、少なからず憎しみを抱いており、相手も困らせてやらなければ気がすまないと考えているのです。相手への尊敬も、幸せを願う気持ちもなく、「私を尊重しない人間は許せない」という利己的な怒りがあるだけです。
相手への尊敬も信頼もないとき、発せられる言葉は質問形式になりがちです。「なぜこうしてくれないの」、「なぜそんなことを言うの」、「あなたはどう思っているの」……。自分がこう言えば相手はどう出るか、という敵対関係でしか相手を見ていないのです。勝つか負けるかの競争ですから、心が安まるときはありません。
好きな異性のタイプを尋ねられて、「誠実な人、ユーモアのある人」などと、相手の人格そのものを見る人もいれば、「私だけを一途に愛してくれる人、私のわがままを許してくれる人」などと、自分をどう扱ってくれるかということにしか考えが及ばない人がいます。後者に当てはまる人は、あまりよい恋愛はできないでしょう。
そういう人にとって、恋愛の目的は、ちっぽけなプライドを満たすことでしかないのです。どんなに理想的な恋人を得ても、関心の的は、恋人の人間性ではなく、「魅力的な恋人をもって、まわりからうらやましがられている自分」にあるのです。
恋人に愛を要求する人は、たとえどれだけ愛されたとしても、一時的な優越感がえられるだけで、心からの幸せは感じられません。相手が無条件で愛してくれたのではなく、自分が要求したからしぶしぶ従ってくれただけなのだということを知っているからです。そして、いつ見捨てられるか、いつ裏切られるかということにびくびく怯えています。要求してえられた愛には、けっして幸福はともなわないのです。
他人に好かれるためのもっともよい方法は、「自分が好かれているか」など気にかけず、「私は、あなたといるととても楽しい」という態度だけを示すことです。このような態度は、わざわざ意識しなくとも、自分の喜びから自然に生まれるはずなのです。
それができないのなら、自分も相手を愛していないということです。「自分だけが気を遣わされて、損をしている」という被害者意識が、「あなたは、なぜ私に気を遣わなくても平気でいられるのか」という怒りに変わるのです。
わざわざ互いの欠点を非難するために付き合っているのだろうか、と思わせるようなカップルがいます。「本当に私のこと好きなの?」と恋人を非難する前にすべきことは、自分は相手を尊重しているのかを見つめ直すことであり、強要しなくとも愛される人間になるよう自分が努力することです。そして何より、それほど不満があるのなら、もっと自分にふさわしい相手を選ぶことです。
相手を立てるということは、自分が我慢するということではありません。人間関係は、シーソーのように一方が上がればもう片方は下がるというものではないのです。人を愛することが自分の喜びであると感じられたとき、「自分はどれだけ愛されているか」などという不安からは解放されるでしょう。
『愛する人に愛される方法』たかたまさひろ
神の前で我々は等しく賢明であり、等しく愚かでもある。
(アインシュタイン)
どこまで行けるかを知る方法はただ一つ、出発して歩き始めることだ。
(アンリ・ベルクソン)
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