ふつうっぽい日記
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2015年10月28日(水) 万年筆で書くことの意味なのだろうか

手書きの日記は、9月18日から毎日書いてきている。
ただ、ネットの日記は自粛しているつもりはないけれども、ある意味「低空飛行」なので書き進めてはいない。
手書きの日記を振り返りつつ、そのエッセンスなどを残してみようと思う。
時にすごくそれは長かったりする。

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結構なことは(心配なことは)起こらないのかもしれない。
そして、起こったとしても、何とでもなっていく、
唯一の経験者ではないということだろうか。


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情報や行動のアンテナが研ぎすまされて行く時期やタイミングというのは、人によって違う。


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やはり、手帳は一冊にした方がよい。
手帳的なものは複数あってもいいかもしれないが、「的」なのであるから、「ノート」の様にすればいいのだ。
まぁ、手帳も「ノート」ではあるが。

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「0の人が1の力を出せば…」が思い出される。
私はいろいろと「0」である。
子育ての経験もないし、0どころか「ーX」ともいえるか。
といって、劣等感からは卒業したと思っている。

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コロコロと移り行く。
何、勢いということだろう。
だから直感力が言われるのだ。
じっくり考える時もあれば勢いで動くことや選ぶこともある。
そういうものだ。

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事故はどこにいても(家にいても)起こるときは起こるのである。

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いったん“枠”「」カッコでくくることから始まる物語もあるのだと思う。

ーー
他の人のカッコでくくる世界、それ自体は認められても、
その同じカッコを、こう、当てられていく行動は、少々息が詰まりそうになる。
なるほど、出口はなさそうだ。
そういう時は結論を急ぐ必要なない。

ーー
頭の中はスッキリだが、突如、昔のことが思い出されたり、勝手な疑惑が横切った。
そういうことなのか、と思った。
何を意識するのかで、その時の切り取り方は違ってくる。
たまたま、その切り取り方が、それについての記述が似ているというか当てはまったにすぎないのだろうが。
仮にというか、当てはまる感に漂えば、何だか心地よくもなりそうだ。
すなわち、それが癒しなのかもしれない。
俯瞰できる、というのか。

ーー
機会があれば、また、やってくる。
動いている“個”の方が関わりやすい…

ーー
少し前まで、「希望的観測」を「絶望的観測」に置き換えて過ごしていた。
低めのラインをもつことで、そのショック、落差によるダメージが抑えられると考えていたことによる。
今は、中立的を心がけている、
それをそれまでを批判していた自分に気づく。
しかし、曲がりなりにも人を殺めず、法を犯すことなく、やってこれたのもその観測に守られていたからなのかもしれない。
可能性としては、ゼロではなかったはずだ。
低かった自己愛によって肥大化に進まず済んできたともいえる。
おそらく「自分を愛す」をやったとしても、すぐには肥大化はしないのだ。
肥大化を恐れて、回避してきたけれど。

ーー
目的、気合いがないと身体は動かないらしい。
いや、身体は正直で、休むということをやっているに過ぎないのかもしれない。

ーー
夢に、父とよく似た赤ん坊が出てきた。
これは、私自身なのだろうと後から思った。


ーー
放電も、充電もそろそろ完了してもよい頃だ。

ーー
意識すると、安心して忘れてしまうこともある。
意識する手段の一つが、医者に行ってみるということ。

ーー
例えば5つのうちの1つの自分が“まとも”であり、“こちら側”に戻ってきたがっているのではないか。
または、5つのうちの1つの不安定ゆえに、“あちら側”にいない人を“あちら側”に引っぱり、完全なる1になろうとしているのではないか、と。
5つのうちの1つは、もはや自分の意識などない。
他者の意識の断片によって、自分を支えるのだ。
隣人、選ばれた人のすることを倣っているにすぎない。
自覚が5つのうちの1にはあるのではないか。
切れ目が疼くのであろうか。
しかし、その切れ目に私が入るわけにはいかない、
引きずられるわけにはいかない。
そこに弱さが、正しい弱さが必要なのだ、
弱くあっても生きて行く強さが必要なのだ。
それを生きる、生ききる自分が。
物欲が例えば減ったからといって、
“ツボ”を買うつもりはない。
買うわけにはいかないのだ、
ある種の“開かれた眼”によるその力は、強くはあるだろう。
しかし、その強さに混じるわけにはいかない。
リスクもあるかもしれない。
賭けみたいな。
それでも、自分を守らねばならない。
彼らの足音はそれでも弱いのだ。
弱さを生きる勇気を“主”は“外”へ求めたのだろう。
外に開かれた個と内をみつめる個の対立。
融合は厳しかろう。
それでもそれぞれの個にはそれぞれの人格があるのだ。
それを主は知らねばならない。
巻き込む力は跳ね返ってくる。


ーー
なぜ外に神的なものを求めるのだろう。

ある一が外にそれを求めようが内側に認めようが自由なのだ。
なかなか一つに収まらないところに「一」の価値がある。

ーー
実践を生きている彼らはある意味、強い。
強すぎる、コワい。

ーー

ああ、安らかに…
かつての敏感だった私よ

ーー
激しい眠気とか怒りとか。
そういう波が停滞している今、それらが無性に懐かしく感じられる。
そうなっていっているのだ…という波とそんなはずはない…という波の闘い。

ーー

以上。

かなり、思索めいたもの、巡らせようと「頑張っている」もの、いろいろ。
まぁ、多くが万年筆のペン先の具合とかインクの具合とか他愛のない内容なのだけれど、こうやって、エッセンスのようなものを「切り取る」と、不思議な文章にも思えてくる。
万年筆で書くことの意味なのだろうか。


KAZU |MAIL