ふつうっぽい日記
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2015年07月02日(木) |
手を組む癖について巡らせる |
ここ2ヶ月くらいだろうか、両手を組む癖ができてしまった。 「癖」が「できる」というのもなんなのかという感じだが。 お尻の後ろで両手を組むという器用なこともやったりする。 ただ重ねるということでもよさそうなのに!
まぁ、冷静になれば個人的な「問題」なのであってそれで誰かを不快にさせるというレベルではないのではあろうが。
他の人はどうしているのだろうかと、出歩く時に観察するようにもなった。 みなさん、自然に手を裁けているなぁと思う(裁けるって……) 電車で座っている時(4人掛けのボックス)斜め前の女性が、肘置きに頬杖をついていた。 ああ、そうかとまねてみたりもした(ちょっと近すぎでした)
もしかしたら、強く意識しているのが「今」というだけで、結構「自然に」「問題なく」わたしは手を組んできたのかもしれない。でも、今となっては、それは確認のしようがない。
荷物を手に提げれば「仕事」が与えられて気にならないのかもしれない。 だいたい、わたしが持つカバンというのは大きい。 肩にかけるか、斜めがけ。両手はフリー。 その中に、エコバッグも入ってはいるが、だとしても片方の肩に鞄、もう片方にエコバッグという感じで両手はフリーになることが多い。
こうして書いている行間にも、ふと、両手を組んでしまっている。
おそらくは気のし過ぎだ。
「問題」ではないはずだ。
夫からは、 「それをやったら罰金」 とまで言われ、夫の前では「頑張っている」。 つまり、すごい意識を集中させてそれをやらないように頑張っているのだ。
こうやってキーボードをタイピングしている時は、両手が動いているために組む動きはもちろんなされない(両手を組んだままタイピングまでする図って……!)
そうか、タイピングをし続ければいいのかぁ!!って、そういうことではないだろう。
ご無沙汰になっているピアノでも弾いてみるか。 他にも手段はあるはずである。
しばらくは、この癖の意識は続きそうである。
「家族」も「価値」もよく使う単語だ。 うむ。 家族の価値となるとどうだろう。 ちょっとあらためると難しい。 繋ぎの「の」が難しくさせているのだろうか。 英語で言うなら「of」だろうか。「about」だろうか。
ーーー
先日も書いた気がするが、家族とは一組の夫婦とその子どもから主に構成されるものである。 夫婦というのは、もとは他人である。 他人同士から、子どもが生まれるのである。
かつて、その他人、夫婦もまた子どもであった。 必ず、「大人」は子ども時代を通過させてきている。 それも何十年、何百年も昔からだ。 一人の人間が何百年も生きて、その様子を認めることは不可能だ。 それでも、「家族」というのは、昔から存在してきたはずだ。 その「価値」についても、おそらく論じられたり考察されたりしてきただろうとは思う。 「価値」というか、意味というか。
私にとって、家族の価値とは何だろう。 「絆」? 「愛情」? 「信頼」? 「心配の対象」? 「喜びの対象」?
ーーー 何かのニュースで「今時の若い人」の何%かは、彼女も彼氏も不要で結婚も不要だ的なアンケート結果が出た的なことが耳に入った。
彼らもまた、生まれた時は、いや、生まれる数ヶ月前までは、一組の夫婦的な構成要素と繋がってきたはずだ。
ところで、「ごみをポイ捨てしない」的な注意を子どもにすることがある。 試されるのは、大人の手によってポイ捨てされたであろう状況に子どもと一緒に出くわした時である。 「こんなところにゴミを捨てる人がいるんだから……たまらんわぁ」とブツブツ言いながらも、大人としてはそれを拾い、しかるべき場所に捨てればよいのだが、それは、スルーされる。 同じように、「挨拶をしなさい」というのがある。 「疲れたら休みなさい」というのもある(ちょっと違うか) 「〜さい」という命令的表現は、おそらくは親から子に言われるのが多いだろうと思う。 多いというか、その始まりを担うのが親というか。
そしてまた、「最近の親は子どもを注意しない」という声も聞こえたりする。 「〜さい」は、どうなっているのか。
まぁ、こんな風なので、「うるさい」(うざい?!)と、おじさんやおばさん達は言われてしまうのかもしれない。
「家族の価値」。 カッコから外せるにはまだ学習が必要らしい。
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