ふつうっぽい日記
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2015年06月30日(火) |
「水」の流れる音を含む音楽を聴きながら |
引き続き、ヘッドフォンで音楽を聴きながら書いてみている。
ああ、今日、今、いい感じで時間が流れているなぁと感じる。 感じられる。
水の流れる音は、今日の天気の雨音とリンクしているからかもしれない。
サブタイトルに「Mind Detox」とあるから、なるほど、「Mind」つまり心的なゾーンが「Detox」を求めているのかもしれない。
そう思う主体は、他ならない「私」(わたし)なのだ。 つまり、「わたし」がどう周りの環境と調和して切り抜いていけるか、ということなのであり、調和の度合いが一瞬一瞬違って感じられるに過ぎないのであろう。
次は、「風」がタイトルについている。
そういえば、ここ2日間で読破した本にも「風」が象徴的に出てきていた。 リンクするなぁ。 そう感じられるのも「わたし」の読書体験があればこそなのであり、読書をしなくても、もしかしたら、「今、風が吹いてきた」なんて言ってリンクさせることに成功するのかもしれない。
どう、繋げていくか。 それが、課題であり、人生であり、夢であり、希望であり、ワクワクであり、驚きであり。 生きているという活動なのだと思う。 実質的に、実際的に息をあげて動的な活動をしていることだけが「活動」ということではないのだから。 「活動」には、休むことも含まれる。 そして、休むっていっても、睡眠している時、内部ではいろいろなことが蠢き、整理される活動が執り行われているのだ。 だから、例えば、見た目に休止しているように見える「うつ」とか「引きこもり」であっても、内部的な動きは活発なはずである。というか、より激しく活動的であると思われる。(ように考えるようになった)その彼らの波長と調和する日は、必ずやってくるとわたしは確信している。 彼らの波長と調和というより、彼らが他ならぬ「わたし」という主体の自由さや優しさを知る日が必ずやってくるということを。
おお、気づけば3曲目。 サブタイトルに「新しい私」とある。
次回は、この音楽を清々しい「朝」に聴こうではないか。 新しい日の始まりに、新しい自分が始まる。 なんと自由で幸せなのだろう。
2015年06月26日(金) |
クラシックを聴きながら |
今、ヘッドフォンをしてクラシックを聴いている。 つまり、聴きながらこれを書いている。 CDプレイヤーといえば、その機能があるものとしては、我が家では数日前までDVDプレイヤーかパソコンしかなかった。それでも十分ではあったけれど、手軽に操作できるのが欲しくなって、ポータブルCDプレイヤーをあらたに購入したのだ。
いざ、音楽を聴きながら文章を書くにあたって、ボリュームを小さくした。 ああ、だんだんと音楽が邪魔になってきた。(これはこれは) ヘッドフォンを片耳だけにした。 うーむ。 ダメだ。 結局、今、両耳からヘッドフォンを解放。 生活音の中で書く(厳密には入力、タイピングだけれど)のが、わたしには都合がいいらしい。
ある本を読んでいて、文章を書きながら考えることについて取り上げられていた。 その過程が重要なのであって、手書きでもブログでもよろしいと。 書かれる文章は、考えた軌跡。一つの結果みたいなものだ。 だから、ほんの数秒違っていたら、書かれる言葉、選ばれる単語は多分違ってくるのだ。 書くって面白い営みだ。 前もって、こう書くぞと思っているわけでもないのにそうなっていくのだ。 進められていくのだ。 といっても、なかなかある種の「ゆとり」がないとこういう作業は進まないものだけれど。
今日はここまでとしよう。 もしかすると、加筆するかもしれないが。
体型が、顔が?! それもあるかもしれない。 というか、意識がという感じの。
ただ、ふと、両手が手持ち無沙汰になったとき、両手を強く組む癖のようなものが定着してしまった。 まぁ、これもここ数週間でのことなので、また、変わっていくこと、通過点に過ぎないのだと思う。
通過点だと考えれば、「丸くなった」ということだって、同じく。 「角張ってきたな」という通過点だってありうることだ。
なるほど、丸くなったり、角張ったりしながら、非対称な動きをとりつつ、成長、成熟していくのであろう。
ーーー
家族というのは不思議なものである。 その親という立場、一組の夫婦という状態は、結びつきはまったくの他人である。 その間に出来た、授かった子どもという結びつきは他人ではないのだ。 他人ではないものを生み出すには、他人が必要というわけである。
最近、受け取るメッセージ。 メッセージといってもリアルなメールとか手紙の類ではなく、ふと読んだ本とか、ふと付けたテレビとか、そういう媒体から受け取るキーワードみたいなもの。
非対称なもの、対立した環境で人間というのは成熟していく、ということ。 父の役割、母の役割。 最近では、両親が同じ考え方、意識みたいな環境で子どもが育つから、学校とか家族外の社会で関わる人が違う考え方、非対称、対立した態度で子どもと関わっていくのがよろしいと。 子どもとしては、「どっちやねん」と葛藤することになるが、その葛藤が社会性を培うのだと。 なるほどな、と、思う。
葛藤。 最近、動的な活動でもって、葛藤する場面は少ない環境にあるが、体型だとか、睡眠の取り方だとか、食事だとか、塗り絵をすることだとか、ささやかな次元で、ささやかな葛藤をおそらく体験している。 ささやかではあるが、成熟しているのであろう。
うわ〜〜〜っと追い立てられるように、急かされるように成熟させられてしまうこともあれば、ごくごくゆるやかにそうなっていくこともあるのだ。 今は、後者であり、通過点に過ぎない。
すべては連続している通過点だ。
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