ふつうっぽい日記
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先日、この日記にたどりついたという支援に関わる方からメールフォームでメッセージをいただいた。記憶の新しいうちに、簡単に返信をさせていただいた。
わたしも初心の頃、すがるような思いで適当な検索ワードであれやこれやとブログなどを読ませていただいたものである。といっても、当時はなかなか、有意義な内容というか実際的な内容にヒットする確率が低く、「親の会」がベースになった掲示板に入り込んで、謙虚さをアピールしつつ、アプローチを試みたものだ。 今思えば、30代の行動力だろうか。 いや、40代であっても行動力は発動できるはずであろう。
今現在、わたしは「支援」の現場からは「距離」を置いている。 「距離を置く」といって、思い出されることは、ある特化した「人間関係」、ある「個人」との付き合いの立ち位置の制限である。 その点からすると、今の距離を置くというのは、特別な個人に対するそれというわけではない。 なんというか、自身の身体感覚を尊重した結果の一つとでもいうか。 例えば、もしも、その感覚察知のようなものが、2秒前であれば、また違った展開が待っていたのではないかというそういうレベルである。
自覚的であるが、この4年、自身を左、右と揺らして試すようなところがあった。
例えば、 「ここで、こういう反応を取ったらこの先の展開はどうなるか」 「ここは、こうするしか出来ないのだから、固まるしかない」
距離を置く決断をした身体感覚は、例えば上記の2項目を自身の中で巡らせることすら思い出すことも考えることもできなかったのだ。(後となってはなんとでも言えるのではあるが)
それを「らしく」ないという表現にするのは、間違っていよう。 理由は「らしさ」は自身で構築し実感され意識されるような次元の表現ではないと考えるからだ。 あくまでも周りからみての、一つの評価に過ぎないのだ。 とはいえ、「らしいね」「らしくないね」と言われたら、どうも自身をスキャンせねばならないような感覚に支配されるのだから、多少は影響のある言葉といえるか。
支援の現場から距離を置いて、4ヶ月を越えた。 もう4ヶ月か、まだ4ヶ月か。 難しいところである。 なぜなら、1日の感覚がその日によって、違うからである。 まるで「1日」限定の「今」を生きている連続だと思える時があるからである。
だからなのだろうか。 明日の「わたし」(私?)へのメッセージをどうにか紡ぎたくて、どうでもいいようなことをノートに綴ってみたり、過剰にメモ書きにこだわったりする。
といっても、明日の「わたし」が誰かにとっての「わたし」に入れ替わるということはあり得ないのだ。
紛れもない「わたし」の連続。 一日、一日、少しずつ、弛んでいく、老いていく。 「老いていく」という前に「置いていく」と変換された。
そう、何かに少しずつ「置かれていく」。 置く主体は、「置いていく」。 例えば、アドレス帳から、自分の名前が消えていくように。 年賀状のやりとりが減っていくように。
それでも、緩やかな、細くて長い繋がりは弱くても、繋がり続ける力には芯がある。
そう思いたい。
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