ふつうっぽい日記
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おはようございます。 数日前にチラッとネットの文字を見ていたら、「涙活」というものがありました。
「○活」が、やたらと目につく今日この頃です。 それとか「○○力」とかね。 なにかしら、パターンがあるのだろうなぁ。
遠く見守らせてもらっている知人。 ジャズシンガーをされてある女性なのですが、思い立ったとき、ブログを覗いています。 彼女は、トイレ個室で泣いて、スッキリ出てくるのだそうです。 泣くきっかけは、「自分のためにあれこれ考えてくれているんだ」ということを知った時……なのではないかと思われます。
すっごく共感できます。
そう言われて見れば、母もやたらとトイレが長くて、言い訳のように 「なかなか……でなかったからねぇ」と尋ねてもないのに「解説」してきたものです。 その手の解説癖が最近、迫ってきました。 出来れば、少しずつ直していきたいなぁと思っている癖です。
トイレでの安定的な健康的なイベント(?)だからでしょうか。 気持ちが切り替えられるきっかけにもなってそうです。
ところで、「スイッチ」ですが。 最近、ピアノやシンセサイザーを弾いている親友のコンサートに行きました。 彼女はキャディさんでもあるのです。 バイタリティにあふれていますねえ。 しかし、そうですね。 「あまロス」(ドラマ「あまちゃん」)の主役の女優さんも言っていたけれど、ピンと張っていた緊張が切れてしまって、好きだけどする気がしないということもありえて。
シンプルですが、「涙の数だけ……」(『負けないで』)って、本当だなと思いました。
自分に「焦ってないかい?」「眠れているかい?」と問いかけましょうね。
やはり、睡眠不足だった。 昨日、処方を受けた。 日曜日だったので保安係の人に当直の先生と連絡をとっていただき。
なんだかいろいろと質問されたけれど、「眠れていない」のが主訴。 そのような症状のきっかけには、(犯人捜し的な要因)にはいろいろあるのになぁ…… と、思いつつも、思いっぱなしの言葉を羅列。 だって、それしかない。
で、診断名が付けられた。 ウソやろ? いや。その名称は実はなじみ深い。 これがそれなんか?! そうなんか。 この診断名の患者へは、「見通し」を持たせるために、結構大胆なことを言う。 この薬が……副作用が出た場合は、……入院もありえます。
をいをいである。 それは、大げさバージョンであろうと信じたい。
で、今は昨晩濃厚な睡眠が出来て、すこぶる体調がよいのである。
まぁ、糖尿病のインスリン的なアイテム(?)だと思えば「ありあり」なのであろうが。。
2014年09月25日(木) |
例えばよく眠れるということ。 |
例えばよく眠れるということ。
「今日も、仕事頑張った!疲れたぁ〜。今晩は、よく眠れそうだなぁ」
人は「仕事」の条件を括っている。制限する。 「正社員」「定職」「年収」「総支給額」「時給」「労働の質」…… そして、 「仕事を頑張ったから眠れる」 「眠れないのは仕事をしていないから。頑張っていないから。」 的な論理に狭まっていく。
そして 「疲れたら眠れるはずだ」という仮説を立てるが、そううまくはいかない。
ためしに「あーあ。疲れた〜」とつぶやいてみる。 しかし、即座に 「疲れる何をあなたはやったのか?」という問いが立ち上がる。 「仕事らしい仕事をやってないくせに」と責め始める。 やがて、ふつうなら意識や自覚無しに習慣で進められきたことが出来にくくなってくる。
この「現象」の呼び名は「うつ」的である。 それを治療対象にするためには、現象の持続時間が1ヶ月くらいではないかというのが私の考え方である。「不眠」というのもそうだ。「病」「症」に対する対処への自己努力の限界。
最近、友人宛にこういう内容をチラッと書いた。 再話なので脚色をしてある。
…インターホンが鳴って、何かと思ったら宗教の人。 「今回の特集はもえつきですが、冊子入れておきましょうか?」って言う。 何か波動みたいなのが見えていたのかなぁ。 でもね! この前、街に出た時もその冊子を扱っていたグループが目について、 「私は救いを求めているのかも知れない」って思ったよ。 でもね! 救いといっても、宗教グループに入会するのではなくて「現象」。 つまり「もえつき」について知りたかったのよ。 それで、「もえつき」的なテーマを扱った本を3冊買ったのよ。 何かの本に、一つのテーマについて知るには3冊読むといいらしいってあってね。 まだ、読み始めたところだけど、対人援助職の職業病みたいで「あるある」なことらしい。といって、ずっと本ばかりを読んでいるというわけではなくって、食事を作ったり、洗濯したり、することはちゃんとあるのよね。…
それらの本を読めば、即座に治療的な効果が表れるということではない。 とは分かっているものの、「私だけじゃないんだ!」という安心感みたいなものは、頼もしくて、なんだか一気に霧が晴れたかのような「錯覚」に陥るのだ。 しかし、それは「錯覚」。 迫り来るように感じられる現実。(些細レベルにも関わらず!)
ああ。似ている。数年前の「病」的な「気」に。 おろおろなる。 この「現象」がずっと続くのではないかという恐怖に包まれ、不安になってくる。 何かのせいにしたくなる。 天気のせい、ホルモンバランスのせい、自分の考え方のせい……自分の存在のせい…… 消えたい。死にたいとかではなくって、液体になって、ソファーの隙間に流れ込みたい……(なんじゃそりゃ的!)
しかし、さまざまな世界(?)で、コロコロと変わることはありえることだと意識し始める。そして、どちらでもない中立的な「ニュートラル」な状態を経て、「どっちでもいい」「こっちでもいい」的に移っていく。この時点では、その選択の拠り所は、自身ではないことに注目。 この現象は「自律神経失調症」的である。
私の持論は、(「持論」の形式は違うかもしれないけれど!) 「分からないところまで考えれば、それは考えるのをやめるべきとき」
他者からすると、それら考えている過程の有り様は「考えすぎ」「考え方が間違っている」と言いたくなる。聞かされる時間が苦痛になっていくのがふつうだ。
しかし、ある時、ふと繋がる。 きっかけの言葉は我が夫のこんな台詞だ。
「そういう時期があるんだよ。 特別に動いているという訳でもないのに疲れるという時期が。 ……5年くらい長く生きているからねぇ。」
言葉が「腑に落ちる」という。 「腑」って何だろうかと辞書で調べた。 「はらわた」である。 下に否定の語を伴って「どうも腑に落ちない」という用い方は、浄瑠璃〜……と解説は続く。 「浄瑠璃」については詳しくないが、なんとなく興味関心が向いてきている領域ではある。 「能」やら「歌舞伎」やらもそうだ。哲学もそうだけれど、言葉そのものの本質へ導かれているような感覚がある。同時に、「自分とは何者か」ということ、「自分自身を知ること」に注意が向く。
「自分自身を知ること」という言葉は、対人支援職の達人(と、私が勝手に位置づけている)から私に向けられたものだ。 達人の言葉は、シンプルだが深い。 シンプルな言葉を深く受け止めているのは、「私」であり、この「自分」だ。
ある言葉をどの程度深く受け止めるか、どのように解釈するかは、その人次第だ。 「その時」の感情ともなれば、自身のことでもそう簡単に分かるものではない。 よって、他者の感情を察することは必ず限界が来る。 けれども 「禍を転じて福となす」という言葉があるように、 「わざわいを、うまく変えて、しあわせになるように取り計らう」ことは可能なのだ。
眠れない夜もある。 眠れないような悩みがあるのにも関わらず、眠れてしまう夜もある。 それは、賢い身体機能の結果なのであろう。
2014年09月17日(水) |
この不安定さは、なんとも最強である。 |
秋という時季、いや季節の移り目というのは、面白い!! この不安定さは、なんとも最強である。 このブレというか、芯や軸が試される、これほど、人生は楽しむためにあると実感させられる時期はあるだろうか!
「実りの秋」という。 実るためには、様々な環境条件で揉まれることが多分重要なのだ!
そして、「待つ」ということ。 待てるか、ということ。 豊潤なものの恩恵にあずかるということの本当の意味を知るためには、自身も様々な環境にもまれ、多様な感情を体験し、そして、待てることを経験することが必須なのではないか。 といって、どの程度だとか、どれがそれなのかという枠や基準なんてものはない。
今日、ようやく手にした、できた、「燃え尽き」がテーマの本。 これを買う、という動的行動の中心は、無意識の力なのだと思う。 意識の力の発動は、無意識の力の直後というわけでもない。 無意識の物語、意図を巡らせる時間、ある種、腑に落とす時間が必要で。 意識の力の行動はそういったある種、理論的だとか理屈っぽいような意味づけをされてからでないと視覚的に、動的に行動しないのではないか。 というか、動的に行動するといっても、無意識の力が表面化したに過ぎないとでも言いたくなるような、こう、身体が勝手に動かされているような、という感じの。
と、ここで思う。 無意識の力とは、潜在的なもので、ある程度、共通理解されているもので(しかし、言語化するのは困難!)、それらを意識へとつなく「物語」に、個性とかズレが浮き出てくるのではないか。 俗に言う「らしさ」でもあって、これは、客観的な視座からしか言語化できない、自己中心的なものではないのかもしれない。よって、それはいかようにも書き換え可能な領域。
過去にすることで、次なる個性開発も可能。 個性を「キャリア」に置き換えてもいいかもしれない。
2014年09月16日(火) |
不安になるのはほぼ安定してきたからだ。 |
連休は天気もよく充実していた。
生理が5日ほど遅れている。
不安になるのは、ほぼ安定してきたからだ。 不安定な日常が常ならば、ささやかな安定に有り難みが感じられるようになるはずだ。 これからもずっと不安定だとは決まっていない。 それはゲリラ雷雨的。 だからといって止まない雨はないということを空が教えてくれた。 自然。 いつ降るか分からない、不安定な空、雲の配置は、移っていくものだ。
そう、毎日、空、雲の様子は違うのだ。 毎日続く青空の青だって、統一ではない。 意識が向かないだけであって。 そう、体温だって一定ではない。 風の吹き方も、強さも。
そして、多様なメッセージの受け取りかたもあるのだ。
そして……各人が、各人の試行錯誤のやり方で、折り合いをつけていくのだ。
古いものを出さないと新しいものは入らない。
毎年、毎日が古いとかそういうルールは、感覚は異なる。 「空席」を作ることで、救世主的な存在の入り込む余地ができる。 その余地に、型に、はまっていくことで、その存在もまた認められるのだ。 かつて、また、これから、それらの余地に自分も入ってきただろうし入ることもありうるのだ。
それが執着から解き放たれるということかもしれない。
2014年09月13日(土) |
褒められると嬉しいね。 |
褒められると嬉しいね。 当たり前のこと。 知らなかった訳じゃない。 他ならぬ「あなた」からの言葉が その価値がやっと通じたからだ。
あなたと私(わたし)
2人称の意識、目覚め!(このような言葉にすると「宗教」っぽいが)
2014年09月12日(金) |
自然からのメッセージはとてもシンプル。 |
自然からのメッセージはとてのシンプル。 そして、言葉にすること、名言集の様な格好いい言葉にするのも簡単だったりするから、その言葉を発した人がとてもスゴイ人に、自分にはできないコトをやっているようにも見えてくる。 それに引き換え、私は……と。
その人たちは、メッセージを運ぶ役割を与えられたのだ。 本人たちは、そのことには多分気付いていない。 ことばそのもの、ことばの成分たちのファンタジックな世界。 私たちは、その裏役者なのだ。 対話という場であったからこそ、言葉としてまとめあげることができ、「思わず」口から出てしまい、それが他ならぬ「私」にもかかわらず、驚き、関心することすらある。
嫌いな言葉、苦手な言葉がある。 それらを受容する工夫について考えてみた。 そのことばを含んだ本を読んでみる。 言葉(表現)の八方美人になる。
ーーー
Aさんは昭和10年代の生まれ。 「未熟児」であった。 そのためだろうとAさん自身は言っていたが、出生届は2ヶ月くらい後であったという。 よって、出生の正確な日時については知らないのだと言った。 Aさんはその長女の小ささを表現する時、「ポケットに入った」くらいだと表現した。 その長女については、未熟児であったという類の判定はない。 なるほど、自身のコンプレックス的な「未熟児」「小ささ」を我が子に投影して、それを受容することで自身のコンプレックスを解き放つことに成功したともいえるか。 ここで「未熟児」であるという自覚について考えてみよう。 「Aは未熟児だったから……」という表現は、おそらく両親や長子などによって語られてきたのだろう。「未熟」という言葉は何かと比較して劣っているような印象を持ってしまいそうになる。 広い視点に立てば、多くの統計を取れば、戦中戦後、そのような特徴を持った子は、多くあったはずだ。しかし、これは平和的な今であればこそ強く思えることでもある。
ーーー 今日は、眠さとの闘いだった。 横になってみるが、かといって潔く熟睡できるわけでもなく。 純粋な眠さとは違う感じであり、涙も出てきた。 といって、濃い絶望的な不安や心配が迫ってくるというわけではない。 まるで、過去を書き換えているような、同じエピソードを異なる視点からみつめ直しているような……。
2014年09月09日(火) |
つまり過去にできた。 |
昨日あたりからイライラしたり、頭の中がもやもやしている。 正確には(本当に正確とは言い難いが)、それは長時間というより降りてくるようなある程度枠がある感じの限られた時間だ。 もやもやというか、眠たさの闘いの様で、おそらく、そうあるからそうなるという自然な反応なのだと思う。 これが適応の状態だと思われる。
「今、ここ」(ちょくちょくこの表現には出逢う!) この環境条件に適応した、というか。 今、実際的にある特定化された職場組織の中での頭脳労働はやっていない。 表面的な直接的な人間関係にも巻き込まれていない。 「燃え尽き」状態からの解放、寛解がどういうプロセスをたどるのかについては詳しくないが、その途上にあったであろうということは自覚された。 身体と心の時間差的反応。 このちぐはぐな状態からは、おそらく抜け出たのではないかと思う。 つまり過去にできた。
過去にすべきであった「P」の状態にあるとき、「P’」のこと(確実なる過去)で「今、ここ」を埋めていたと思う。 よって、「今、ここ」で「P」が語られるべき時、「P’」を語って枠がいっぱいになってしまい、語られるべきPがP’になる機会を奪っていたのだろう。 特別なPであったゆえにこの「わたし」は特別なのだ的に自己が肥大していたのであろう。
PをP’の一部にすることへの抵抗は、こだわりとも思える。 このこだわり自体は、病的ではないはずで、このこだわりこそが純粋な内部(自分自身のマントル的な)を映しているのかもしれない。大きな広いしくみの中の一つとして。
ある一日をその一日として終わらせるということ。 なかなか当たり前過ぎて意識はしないことだが、一日として閉じるこの作業は重要だ。 この作業が少しずつ少しずつ遅れていって、やがて、「燃え尽き」的な状態になって、ただ一日を終わらせること、閉じることだけを頑張る必要が出てくるのだ。 それだけのことのために日々を消費するということに、「抵抗する」という段階を経て、ようやく頑張れるようになる。
心的な、内部的な、精神的なアンバランスを建て直す時。 「休養」を優先するように助言されるし、自然体でおいてもそのように心身が反応していく。 「動かねば!」 「〜せねば!」 と、具体的に動けない、動かない自分を恥じたり、ちっぽけに思えたりしてくる。 やがて進めば「焦り」も出てくる。 それらが「抵抗」だ。 その「抵抗」の声を、ありがたい「お告げ」だと奮い立たせて歩き出すことも可能ではある。 「抵抗」途上のあれやこれやを巡らせながら、意識しながら、見えてくる「感謝」の存在。
無事でなによりまた明日。
2014年09月08日(月) |
「私」と「わたし」。 |
ある本。 すでに読んだのだが、例えばこういうフレーズがあったとかいう具体的なエピソードや記憶はほとんど残っていない。 今一度、見てみるか…… なんとなく、サラッと読み、ああと思った。 それでいいのだ、と思えた。
日々のお告げ的な言葉がある。 それによると「一つのサイクルが巡った」的なフレーズがあった。 「あの時から」という言葉もあったか。 どの時か……と個別なエピソードは思い出せないが、結びつけようと思ったらなんとなくできそうな感覚だ。
意識して「わたし」を使い始めてどれくらい経っただろう。 この日記的なタイトルに「わたしの誕生」を名づけたはずだ。 後から見てみよう。
「私」と「わたし」で問答。 対話することも出来そうだ。 「わたし」は柔軟なのだ。 そうであることを知った旅路。 「わたし」は「あの時」から様々な状況と向き合ってきた。 時に「逃げ」の姿もあったことだろう。 しかし、それは向き合った「行動」の見え方の一つにすぎない。 現象、見え方の向き合いつつの、現象としては、向き合いの姿勢ながらも事実と気持ち、情緒とどうにか分離させようと区別しようともがくこともやってきた。 ある種の解離。 とつ弁になったり多弁になったりもした。 文体も型にはめたり、自由連想的な風を意識したりしてきた。 日々実践であった。
自由。 「私」と「わたし」。 いや、役割を決めてもいいのだ。 他ならぬ、私の中だ。
「私」は代表だ。やはり。
そして「わたし」はどうにか頼もしく支える存在。 そう、「わたし」は知っているのだ。 臆病な、自信のない、「私」のことも。 繋がったね、出てこれたね、「私」。
スッキリしてきたよね?!
2014年09月05日(金) |
自分のマントルへ進め!! |
「今日はどんないいことをしよう?」 新しいファンデーションを試す。 荷物を小さくすることを挑戦。 楽しいことを話す!
と、始めた今日。 脳内にいくつかの言葉や光景が浮上した。 それらのことによって、癒し的な涙、感謝の涙が流れた。 その中の一つの光景。 関西在住時代、友人が訪問してきたこと。 その時の語りの場。 その経緯。 「わたしはここにいます」のメッセージ。
結果、涙まみれになった。 軽くメーキャップもしていたがクレンジングした。 その後、久しぶりにセルフエステ的なことをやった。 まるでエステをするために「こう」なったかのようだ。 こういう考え方は、我ながら好きだったりする。
ラジオから聞こえた。
……自分の中にある、夢。 地球でいうとマントル。 だから、それと向き合うには 言い訳する自分とか、もうとにかく いろいろなものが出てくるんですよ……
かつて通っていた英会話教室の講師が英語で「何かあった?」と聴いてくれたことを思いだした。 表情が訴えていたのだろう。 そして、それにわたしは何かを伝えることができた。 そう、それは単身生活の時だ。 それでも、周りの人たちのおかげで楽しいこともあった。 見捨てられた訳じゃなかった。 たしかに10人いれば1人、2人は?!なコトも言う。 でも、わたしだって、ある状況では「?!」なコトをする人になっているはず。 自分のマントルへ進め!!
2014年09月04日(木) |
楽しいことに意識を向けよう。 |
朝、頭が痛かった。のども少し痛いような気がした。 9時から12時近くまで眠った。多少、汗をかいた。 頭痛はおさまっていた。
昨日をふり返れば、極端にポジティブだったなぁと我ながら「痛く」思える。 こう思えるのは、ただ自分と向き合う時間が多いからだろう。 「具体的に行動することだ」的なメッセージも分かっているつもりだ。 一方で「休むときは休む」ことの大切さも分かっているつもりで、今がその時にすぎない……とも言い聞かせることもできるといえばできる。 以前のように寂しさや悲しさに突如向き合い、泣くことはない。 まだ、棚上げした感情群とのアンバランスを巡らせ途上なのだろう。 即効性に一瞬、ふと、気持ちを切り替えることができることもあり、その時は「行動するぞ!」と内なる声の様な身体感覚を優先させられることもある。
楽しいことに意識を向けよう。
自由な時間はたくさん。
わたしは楽しいことに意識を向けてもいい。 許そう。というか、悪いコトをそもそもやったのだろうか?!
2014年09月03日(水) |
その時にありのままの感情と向き合えばよい。 |
難しい(変換)→面白い、面白すぎる!
「必要なものすべてが必要な時に与えられる」的なメッセージがすんなり入ってきた日。
同時に、小さな現象もまのあたりにできた。 「それは知っている」という視座の意義。 「俯瞰」「鳥瞰」という表現。
Aを通して語られるB。 Bへの先回りしてフォローしたくなる気持ち。 この先回りは不要だ! Bからのアプローチがあった時、その時にありのままの感情と向き合えばよい。
ーーー
「いのちの電話」相談員の募集要項などを初めて目にした。 レッスンになるなと思えた。
虐待やDVがテーマの漫画を半分読んだ。 学術的に入ってきた。 整えられた脳を自覚した。
2014年09月02日(火) |
そうかもしれない。濃い平和。 |
「本当にやりやいこと」というのは、見つかると簡単らしい。
「これ」がやりたいって、「これ」って一つなのだろうか。
ところで、本というのは不思議だ。 昨日、棚に戻した本(しばらくサヨナラ!)から、今日また呼ばれる。
法則みたいなもの、何かを括りたい、「そうか!」とつなげたい欲求に包まれている感じだ。 無意識は意識の前を歩いているというが本当だな。 しかし、そのことに気付くスピードみたいなものは毎度違うのだ。
今日は特別な濃い、例えば情緒的に「支配される」的な波に包まれなかった気がする。 例えば過剰に泣くとか笑うとか。 リセット的な状態になれたということだろうか。 整えられたということだろうか。 混乱の後の落ち着きだろうか。 冷静だということだろうか。 平和ということだろうか。
そうかもしれない。濃い平和。 何かの衝撃を抑制して、抑圧しての冷静さとは違う、広範囲な長時間持続できた冷静さ。 妄想とか不安にエネルギーをとられるようなひきこもり的な苦痛な退屈さでもなく。純粋な。 こういう、一日をかき乱されることなく過ごせたということ。 アンテナは敏感すぎることはなかった。 そう、敏感すぎることがわたしにはあった。 濃い受動!
「人生の意味は自分がどう意味づけするかで決まる」とはカーネギーの言葉だ。
内側の自分は内部的には不動。 外側とのエネルギーとの均衡状態。 完全な安らぎ?!の感覚理解レッスン。 均衡状態の2割、不均衡8割。
今日のわたしと明日は?!
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