ふつうっぽい日記
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2014年08月29日(金) |
今日はなんだか肌寒い |
季節の変わり目。 秋は「女心と秋の空」なんぞ言われる。 いろいろと変えて行くのに都合のいい時季なのかもしれない。 だって、空模様だって不安定なんだから、みたいな?
化粧品を変える時期としても最適らしい。 春夏用から秋冬用という内部的な調整にとどまらず、気になるメーカーを変えるとか。 そして、極めていくとか突き詰めていく、追究していく勢いにのるのに、いい時期なのかもしれない。 大きな季節の変わり目の3月とか9月は、通信講座系の宣伝が目立つが、人間の自然的なリズムにのった(理に適った)もんだなぁとあらためて思える。
また、季節の移り目だけではなく、髪型を変えるだけでも、「気」が変えられる。 失恋をすると髪を切る的なこと。 我が思春期時代にもそういったことが「ふつう」に言われていた。 ひねくれていた、私は、「ケッ」(自分がそうなったとしてもそんなことするもんか!)と思ったものだった。が、結局、ムズムズしてきてバッサリ切って段を入れたりして変化を受容する流れにのっかった。
何か一つの方向を追究するとか極めていくという考え方に、時折、批判的になることがあったなと思う。 「極める」ということを「寄りすぎ」だと置き換えて、「引いて」しまったのだ。 今、このように思えるのは、寄ったり引いたりしながら日々過ごしていくことが意識できたからだ。しかも一個人それぞれの内部でそれらは起こっている。 追究する、極めていくといっても、24時間それをやっているわけではない。 ちゃんと、「横道」にそれるものなのだ。 そして、追究する、極めていくことを小さいながらも積み重ねることによって、細い線が強くなるというより広げられていって、かつて「横道」であったものと重なるということ。 極めながら横道にそれながらというのは、難しいようでいて、自然だったりするのだ。
流されてばかりでは、与えていてばかりでは、なんだか窮屈そうだけれども、それでもその過程がなんだか楽しいということはあるということ。ただ、それに飽きてくるということもまたありうる。気付きの多かったこの3ヶ月。
ぼちぼち生きよう。
2014年08月27日(水) |
しくしく。ニコニコ。 |
朝、結果としては15分くらい雨が降った。 その最中は、 「ああ、今日は雨降りの1日になるのだな……」と、簡単に思い込んで、出かける用事も後回しになるなぁ……的であった。
しかし、である。 このところの天気変化で学習してきたはずだが、以後数時間雨は降らず、洗濯物も外に干せるくらいな穏やかな空模様として持続できたのであった。
天気変化にするのは、あれだが、まぁ、どこか情緒的に連動することころがあったのだろう。 いや、厳密には連動していない。 暖かい日射しの中で、わんわん涙も流したのだから。 どちらも、マイペースでそうなるからそうであることが展開された、そんな感じだったのだろう。 この現象のみをガッツリ切り取れば、情緒不安定な人である。 いや、違うか。 わんわん涙する濃厚な現象は、泣いている人として安定している。 情緒不安定な人として安定させるためには、泣いたり笑ったり次から次に移り変わる現象を切り取らねばならぬ。 まぁ、人生山あり谷あり的な現象を情緒不安定であるとは言わないだろうから、「あるある」の枠の中に収められるだろう。
前回の日記では、ずいぶんと濃厚な気持ちが巡っていたなぁと自己分析。
今のわたしならば、別の思いである意味、淡々とエピソードを聴けるような気がする。
衝撃的なエピソードに動揺してオロオロして、なんだかの情緒安定へと至るそのプロセスだからこそ、得る力のようなものがあるのだろう。 それを一括りにして、「ココロが強くなった」「気持ちが軽くなった」というのはちょっと軽いような気がしてくる。といって、重く受けとめる必要もないが、意識的に移り変わる自分自身の情緒から気づきや学びが得られるということは、ちょっぴり賢い力が発動できたと思いたい。
さらに、引いて自己分析すると、様々な思い込みの像が立ち上がって、思い込みにもかかわらず、その像の感情に巻き込まれて切なくなる、息苦しくなる状況にあった。 棚に上げられていた感情の部分的な成分というか材料が、思いがけずブレンドされて、なんだか意味不明にもかかわらず「涙」を出す現象を伴ってしまったというか。 まるっきり、心当たりがないという訳ではない。
強がっていた自分の切れっ端を意識したからである。 強がりを補強していたのは、都合のいい言い訳のような、正当化する理由だ。 正当化する理由の材料はしょせん小さな単位に過ぎない。 例えば、何人かに愚痴的につぶやいたときに得られるひとまずの落ち着き、安定感みたいな。 聴かされる側はよほどの関係にない限り、反論したり批判はしない。 というか、落ち着いて聴いてくれそうな人をあらかじめ選んで、言葉を発しているのだから、肯定される確率は高くなるのだ。
しかし、やはり、しょせん小さな単位。 それらを強固な一つにまとめあげるような統合するようなエネルギーも小さい。 自分の器が極端に小さいならば別だが(そもそも器の大きさなど測れない)、たいがい、人というのはよりよい方向に、視野が広がるように試行錯誤するものだろうから、広がり、大きくなろうとする器に小さな単位のものがあったとしても、ばらけていくばかりだ。 粘りのあるご飯粒だって、時間が経てば固まって、ポロポロになるのだ。
つまり、あれやこれやの衝撃の場面でひとまず棚に上げられた情緒的なものが、衝撃でない環境下になったことによって落ちてきたのであり、その落ちのタイミングが一発集中ではなくて分散されたということなのだろうと。 衝撃の場面では、ひとまず自分の感情を棚に上げないことには、その場に居続けることが不可能な場合がありうるということ。 その場面を共有する関係性によっては、淡々と話をそらしたり、極端な場合は逃避することも必要だろう。
意識的に聴こうとした、聴きの姿勢の枠に(役に)収めようとした「わたし」は確かにいたのだ。 自分の聴ける力を試そうとした「わたし」が確かにいたのだ。
地道に「聴く」レッスンを続けたいと思えた今日である。
2014年08月10日(日) |
「解決の鍵は自分自身の中にある」 |
物語にするしかないのでそうしてみる。 その現象報告はあまりにも厳しすぎた。(わたしにとっては) その現象を含む、社会問題としての統計とか実態は学術的テキスト的に触れてきた。 しかし、実際生活として身近な友人がその中心にいるということがとても切ない。 わたしに出来ることはないかとも巡るが、実態的に現実的にその現象が起こっていることを認めること、ただそれだけでもわたしにとっては厳しい作業である。
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A子は、A男と学生時代に知り合った。 2つ上の彼は、なんと出身高校が同じだった。 親近感が増した。 不器用に一人暮らしをしていた彼の部屋の掃除をしたり、料理を作ったりすることは、 「こんなわたしでもいいの」的に存在を認めてくれることがただただ嬉しくって、つきあって間もない頃にもかかわらず「結婚しよう」と言われたことは、当時はとても嬉しかった。 今思えば、その感覚は異様だ。 A子は、A男が初めてつきあう異性であった。 そして、今では高校生の子どもがいる。 A子もA男も医療関係専門職にあった。 結婚後、毎年のようにA子家族は引っ越しをした。 それはA男の仕事の不安定さの結果であった。 あるときは、17日くらいで仕事をやめた。 引っ越しの段ボールの多くはまだ解梱されていなかった。 A子は振り回されていた。 が、それもまた「妻のつとめ」的に自分を納得させていた。
そしてこういうことが続く。 A子は仕事のため自分のつてで医療施設で働くことを決めた。 A男は別の医療施設で職探しを進めていた様子であった。 A子は言われてしまう。 「○○に決まったから。お前も一緒にこい」 つまり、同じ職場で働くように指示されたのであった。 すでにA子は先方と面接の日も決めていたのにである。 A男の威圧感はすごかった。 逆らうと何をするか分からない。 A子はA男とともに同じ現場で働くことになった。 この関係は場所を変えても、現在も続いている。 A子は、ある時、ある芸能人のファンになった。 「ヨンさま」的な、「あるある」な状態であると思うが。(本当は違う芸能人であるが記号としてこう書く) 例えば、出演する映画を見たり、テレビを見たり、雑誌を見たりという類いの。 その行動にA男は多いに嫉妬したのである。 CDは割られ、雑誌の顔にはハサミで傷が入れられ、ビデオデッキも破壊された。 この様子を子どもも見ていて、号泣した。 そして、A男は、A子に暴力をふるった。
「今は、それほどでもない」と、A子は言ったが、明らかにあの現象である。
そしてA子は、心療内科でこう相談したという。 「離婚したいくらい憎らしい夫と一緒に眠るにあたって夫に不愉快な思いをさせないようにするためには、私はどうすればよいのですか。夫が言うんです。夜眠っている時に、夫が私を触った時、私は汚いものでも払いのけるように拒絶するそうなんです。無意識に。」
A子の中では一つの選択肢として「離婚」を考えているという。 考え始めたのは、今に始まったことではない。 子どもにもつぶやいたことがある。 「もしお母さんとお父さんが離婚したらどう思う?」と。 「そんなの分からないよ」と子どもは言ったそうだ。 暴力のことは、A男の両親にも訴えた。 ところが、 「嫁として、夫を立てるのは当たり前だ。 ヨン様的な趣味を優先させるとは何事か。 もう少し妻であるという自覚を持つべきだ。 ヨン様的な人は、所詮庶民に特別な気持ちを伝えてくる存在ではない。 無意味なことはやめるべきだ。 多少の暴力は嫁として我慢するしかない」という反応であった。 異様である。
A男には兄がいる。 兄嫁とA子は通ずるところがある。 つまり、兄弟気質的に似ていた。 そしてその両親に対しての違和感の共通理解があったのだ。 しかし違うことがある。 兄嫁は専門的な職業をしていない。(専業主婦的な立場にある) よって、こう言われてしまう。 「私だったら、離婚するのに(どうして貴女はそうしないのか)」
ーーーーー A子と初めて会ったのは10代だった。 25年来の付き合いだ。 毎年、年賀状は送り合っていた。 結婚はA子の方がたしか早くて、しばらく頻繁に住所が変わるという状況も気になってはいたが、そうやって居場所を伝えてくれることはありがたいことであり、私自身も20代〜30代はいろいろと慌ただしかったので「ありのまま」として通過させていたのだ。 年賀状に「会いたいね」ともしかしたら時々書いてくれてたのかもしれない。 たまたま、わたしが「是非会おう」と思ったのが今年であっただけで。
学校の学年同窓会の知らせが来たのもきっかけだったと思う。 「同窓会行く?」的な伺いをたてたハガキをA子に送ったのだから。 そのハガキには電話番号を書いておいた。 数日後に、A子から着信。 その時、わたしは電話に出られなかった。 留守電にメッセージが残っていた。 やはり「会いたいね」とあった。 翌日、私の方から同じような時間にかけてみた。 A子は出た。 そして、会う日を決めた。 その時に、 「実は、主人と同じ職場で働いていて…」と言い、 「実はヨン様が好きで…」と言った。 「ヨン様」はラジオ番組に出ておられて、その時間帯は「テープに録音したいから」家から出られないとも言った。そしてそのこと(ヨン様的番組を録音する)がご主人に「バレたら」「離婚」になるかもしれないとも言っていた。
第一感触として、「異様」であった。 冗談だろうとも思ったけれど。
4時間くらい喫茶店で話した。 ほとんど、わたしは聴くしかなかった。 ただただ、厳しい現実だと巡らせるしかなかった。
今思えば、そのとき、スマホで検索して、現実的な手だてを助言してもよかった。 しかし、それが行動として思いつかないほどにわたしはただただそこにいるしかなかったとも言える。
今思えば、A子の第一声は「知り合いに弁護士さんっていない?」であった。 後に語られる内容の解決への道であったのだ。 弁護士に相談してみるということが、彼女の中で活性化していて、それが意識化され行動として一歩を踏み出すのは彼女自身の選択である。
「解決の鍵は自分自身の中にある」というのは、ココロの師匠の言葉である。 その鍵の存在を気づかせるのが「聴く」側の役目なのであろう。 「君はこうすべきだ」と、強制するのは「A子」にとっての「A男」と変わらない。 「A子」が変わることへの支援は、「A子」の自己決定力、自己肯定感を見守ることだ。
ーーーーー この現象的物語の切れっ端を我が夫にも少し語った。 我が夫はヨン様的なモノマネをして笑いに持ち込んでくれた。 わたしはしみじみと夫が夫でよかったと思った。
夫婦の数だけ家族の形がある。 物語がある。 「空気」がある。
比べたところで、「隣の芝生は青い」的ではある。 しかしながら、「わたしたちは楽しくやれている」とちょっとでもホッとするきっかけは、実のところささやかな比較であるのかもしれない。 「反面教師」的なお手本というか。 「反面教師」を「反面教師」として据えるプロセスでは、腹の中がかき混ぜられるような苦悩が伴うということも忘れないでいたいと思う。
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