ふつうっぽい日記
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「個人的な事情です」 この言葉を含んだ手紙をパート先に送った。
それを書いた時と「今」の気持ちは変容している。
それは天気の移り変わりに似ている。 それを書いた時の自分への意味づけは「燃え尽き」だった。 そう文字にしたからだろうか。 逆向きの力が作用してきたのだろうか。
「好き」と言った時、それがピークであとは緩やかに下降していくように。 「嫌い」と言った時、それもまたピークであとは緩やかに上昇していくように。
言葉の力だろうか。
そう思えば「よく分からない」と思って、悶々とするプロセスは下降も上昇も包み込むような優しさや賢さがあるのかもしれない。 「よく分からない」まま、そう、そこに漂い続けることをやれる力が落ち着いているということなのかもしれない。しかし、それが「ふつう」ということでもなくて。
やわらかな挫折。 自分自身を客観視しながらの挫折。 過信からの解放。
「小さな心を受け止めてやれるのは、私しかいない」 「私が守らないと誰が守るのか」 狭苦しい暑苦しい空気へと誘ったのは私ではなかったか。 己の傷付きを回避するために甘えを与えていたのではないか。
他へ放った言葉や気持ちは、やがて自分に戻って来る。 自分自身を巡らせることになる。
あの小さな心、いや、実は大きな心の持ち主のそれの魅力に私は取り憑かれていたのかもしれない。 それを俯瞰する、客観視する視座がなかったというだけで。 傷ついて、回避してのその「後」の物語を、場を違えて展開することはありえることだ。 むしろ、人生とはそういう構造になっているのだろう。 例えば、子どもが養育者を反面教師にして己の道を切り開いていけるように。
ありがとうね。あなたのおかげでわたしはお勉強のお手伝いをするお仕事が楽しかった。 あなたからわたしはたくさんの気付きをもらった。 それはわたしとわたしのお母さんやお父さんやその他のひとたちを優しく包み込むような力にもなったんだよ。 与えてくれるものがとても大きくて嬉しくて、わたしのほうが依存していたのかもしれないね。 さまざまな感情を通過させながら生まれていた純粋な気持ちをわたしは吸い取ってしまっていたのかもしれない。
一番最初の子だから愛せる。 一番最初の子だから愛せない。
大人の考え方や生き方が、子どもを苦しめているのかもしれない。 大人の与える枠組み、そうありたい枠組みに、子どもを押し込むような関わり方をやっていないだろうか。 きっと子どもというのは、冷静で愉快なチャレンジャー。 不器用な大人の考え方や生き方を乗り越えて、踏み台にして、賢く生きていく力があるのだろう。 その賢さに大人は嫉妬したり、シャクだと思ってしまうのだろう。
やってみなければ分からない。 どんなに詳細な情報があっても豊富な知識があっても、紡がれる言葉や雰囲気というのは関わる人によって違うのだ。
一つのことにとことん付き合うのもよし、さまざまな出逢いを有意義に感じていくのもよし。 また、一つのことを見つめながら、別のフィールドに足をつっこむのもよしだ。 そして、同じ条件の中で選択できる道があるのならば、違う道にあえてそれてみるのもまたいいのかもしれない。道といっても、そう大きくはずれはしないのだろう。
どんよりした天気に同調するように気分がめいることもあれば、穏やかな風が吹いている心地よい場にいて、泣いてしまうこともあるのだ。
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