ふつうっぽい日記
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2014年03月25日(火) |
言語化が安定を促すということ |
自分の頭で考え、それを言葉に置き換えるということ。 この価値、意味が今朝、フーッと繋がった。 意外だった。
明日、我が夫は早朝から出かける。 出張だ。
わたしの頭の中では、疑惑の物語が巡った。 焦りの感情も引き出された。 ありもしない、悲劇的な光景を勝手に想像する。 若い女性との何かなのか?! という疑惑。 テレビドラマの見過ぎ的な暴走的妄想。 不安の波が押し寄せた。 夫に問い詰めようか、後を追いかけるか。 この光景も勝手に想像された。 もはや、病的だ。
しかし、である。 「あ。」と腑に落ちるベールが覆い被さった。
若い娘時代、夫と同年代的な男性にほのかな憧れを持っていたということ。 仕事が出来る大人というイメージに吸い寄せられ、飲み会の席で尊敬から来るほのかに淡い恋心のようなものを抱いていた、ということ。向かいの席や、隣の席でドキドキしたということ。 だからといって、その仕事が出来る大人と、修羅場的な特別な何かが起こったということはない。 しかしながら、わたしの中ではちょっぴりの罪悪感が育っていたのだろう。 維持されていたのだろう。
ああ、そうかと思った。 そういう過去の思いがわたしの中で巡ったからこそ、夫の出張という事案が迫ってきたのだろう、と。 わたし自身の過去の思いにわたしが引きずられたに過ぎないのだと。
夫はわたしに冷たいのか? よそよそしいのか? 違う。 というより、服を選んだりするとき、 「こういうのって持ってないよね」とか 「着てみないと似合うかどうか分からないよ」とか 親身になってコーディネートしてくれる。 幸せなことだ。
もしかすると、わたしの娘時代がそうであったように、娘的な誰かがほのかに憧れを抱いて、尊敬ビームを送り、受け取る側も都合のいいように解釈して、ちょっぴりなんだか調子に乗っていたりするのかもしれない。調子に乗るといっても、修羅場的な何かを期待したうえの戦略というのではなくって、安定した戻る場所があるからこその冒険に過ぎない程度であるが、ちょっぴりな罪悪感を補うため、バランスを取るため行動を起こすというような感じ。
そこまで巡らせても、濃厚な不安や嫉妬のような感情の塊は再燃しなかった。 というより、解き放たれたというか、人生そんなもんさというか、そういう揺れもまた人生の奥行きを与えるスパイスになっているのだろう、みたいな。 ある種の、成熟や発達なのかもしれない。
罪悪感は「発達」させることが出来るとは、発達心理学概論のテキストに書いてあった気がする。
多くの「発達」の行き着く先は、「今」であり「未来」である。 そして、「今」や「未来」という切り口でのその瞬間瞬間は、多様な感情が複雑に混ざり合ったり忘れられたり、ゆがめられたりされていくものなのだ。 書き換え可能な過去の物語に捧げられるのだ。
ざっくり括って、「中年の危機」というテーマの一つなのかもしれない。 そして、それはダイナミックな日々のほんの通過点に過ぎないのだ、ということ。 言葉にすると、簡単に括れるが様々な場でそれらは試されることになるのだ。
「あなた」の断ち切れない「関係」「癖」を、断ち切るためには、「あなた自身」で収束のための言葉を紡がなければならない。 文章が書けないとか、文章力がないなどは、言い訳に過ぎない。 あれやこれやの気持ちの波を自分自身で言葉に起こす作業の過程で、「あなた」は誰とも比較されない「わたし」になることが出来る。「あなた」の中のあれやこれやのコンプレックスからも解き放たれるはずだ。
一度、この日記空間を開いた。 「悶々」とした気持ちの途上を言葉にして考察しようと考えていた。 しかし、どういうわけかやめた。 パソコンも電源オフ。
そして、わたしは万年筆を握って、白紙のノートに何かを書き始めた。 そのノートに書いたことをここに紡ぎ直しておく。
「本を読む時」 書きながら、メモしながら読みたい時もあるし、えんぴつで線を引きながら読みたい時もある。 “せねばならない”とか“積まれた本の山”に、疲労感を感じることもあればその状況だからこそ、自身を奮い立たせることができることもある。
「ニュートラルに!」 “こちら側から” “あちら側から” 柔軟に考える癖をつけよう。 近視眼的になると、柔軟に考えることを忘れるらしい。 しかも、不思議な現象の感動の世界みたいな空間に逃避して、満足して、仮の落ち着きで満足して、速攻で少々“痛い” “軽い” “ぼろが出る” “奥行きの浅い” “理論的でない” “部分的な常識” “上っ面のみをコピペしただけのような” 行動を、対話的な相手に差し出すような行動に出て、いともかんたんに倒れ、結果疲れるということになりがちだ。
疲れるの中には、誰かを受け止めるためのサプライズや、調子にのった言動、突飛な企画をおもいつくことは含まれない。 結果としてのエネルギーが「疲れる」の後味をとったように見えたとしてもその“過程”では、脳内に面白根性が心地よく暴走しているのだ。
暴走を畏れるな。 その行動が、他の人間にとって、大変な営みや価値観であったとしても、 それを主体的にやっている「あなた」は、正しいのだ。 いや、正しいとか悪いとか、ずれているとか、間違っているとかそういう基準など、ありはしないのだ。
「私だったら大変」と言われても、 しょせん、他人になることなどできないのだ。
「これだったのだ!」 今日はパート先に履歴書を提出する期限だった。 この日付は、募集要項に書かれているものだ。 これまで、わたしは “マジメに” 締め切り日までに提出してきた。 いや?出すように、“上” から指示されたのでそうしたにすぎない。 自然な流れであった! では、今の自然の流れを見つめてみよう。 今の自然の流れはある意味、“自然” か?! いや、前例がない。 履歴書の提出を指示されないままに、次の扉へと促されているではないか!! いわゆる “内定” に似たものである。 これでよいのだ。 これが、自然なのだ。 前例のない、自然の流れには、身を委ねるしかないのが、自然であろう。 何を焦る必要がある。 ペースにのらされていることへの抵抗か。 “よい子” “いい人” “きちっと守る人” であることを維持することにこだわり続けたかったのか? 否である。 わたしは、流れに委ねる道を進むことを目指していたのだ。 だから、これでいいのだ。 タイミングが必要、重要というじゃないか。 こだわりを維持する行動は、タイミングを逸脱することがある。 場を混乱させることになり、やがて、自身が混乱していくのだ。 意識ある、意図的な、愛ある場の空気への戦略ではない。 状況によっては、場の空気をかき混ぜる勇気も必要ではある。 しかし、自身が混乱するというのは、疲労感が増すばかりである。 今、わたしは、混乱していない。 むしろ、一つ自然な流れにのれたような、肩の荷を下ろせたような楽さがあるじゃないか。 そう、わたしは “達観” “楽観” している、できるキャリアなのだ。 といっても、途上かもしれないが。 だから、これもそうあって、自然なのだ。 達観な人は、執着から解き放たれるものだ。 そうなってしまうものだ。
すでに、そうなった動揺を素直にわたしは表出したのだし、認めてくれる人間だっているのだ。 自分を信じ、自分を信頼してくれた人を信じればよいのだ。 今日は、執着、欠点が一つ解放された日なのだ!
2014年03月17日(月) |
「ふつう」の枠組みから「ゆとり」へ |
今日はパート活動先の学校が卒業式。 支援対象児童は卒業学年ではないので休業。 方針によっては、支援対象児童云々に関わらず、参加するように計画されていることもある。参加することが「規則」というわけではないのだ。 本年度は、支援の方針のメリハリがついていて、わたしにとっては非常に動きやすい。 動きやすさが実感できたのは、前年度が「微妙」であったおかげ(?)ともいえるか。 まぁ、「微妙」であるということは、ある程度は想定内であった。 というのも、支援学級新規開設年度であったし、新規支援員配置校であったからだ。
そういう前例のない場に誘導されたこと。 特定の偏見的な立場から見ると、「嫌がらせ」とも受け取れなくはない。 「厳しさ」というのはある一定は、どの学校であっても「平等」だろう。
ところで平成23年10月のデータで全国には585箇所の施設がある。 収容児童生徒個々がハイリスクな存在なのではない。 ハイリスクなのは、環境である。「世間」の考え方である。
「園の子だから可愛そう」 「園の子だからこうなんだ」 的な「世間」の考え方、受け取り方は、理想的な合理的な考え方に至る途上、必ず浮上する感情であるとわたしは思う。
その感情を越えられるかが、その環境を理解する者には問われてくる。
話を戻そう。
前年度、わたしが置かれた環境は、条件として、支援学級新規開設年度であること、新規支援員配置校であることに加え、児童養護施設が校区内にあるということであったのだ。 基本、支援員は勤務校を自分で選べることになっている。
わたしはあえて選ばなかった。 こだわりは、駅から近い方が助かるということくらいだ。
一昨年度の勤務校、教頭さんからの紹介で現在の勤務校を選んだ。 「ここよりも駅から近いよ」というのが素直にラッキーであった。 厳しい現場であることは、おそらく教頭さんも想像できたのであろう。 「もし、厳しくて出来ないなぁと思ったら、また、ココに戻ってきてもいいし」とも最後に「助言」された。 スキルがあるからとかではなく、偏ってきた因習的な雰囲気を戦略的に一掃したかったのかもしれない。 まぁ、でも、前任校は支援員の配置対象から外れていたという現実もあったので、わたしの想像に過ぎない。
支援学級新規開設年度であること、新規支援員配置校であることに加え、児童養護施設が校区内にあるという環境においては、「理想」や「目標」は持ちにくいものなのだ。 それぞれの「思いこみ」のぶつかり合いは回避できない。
今となり、前年度を振り返れば、周りの「感情」に支配されないように自分自身を励ましてきた。児童養護施設で暮らす子には限らないが、「愛着」が不安定な背景にある子と関わる時、自分自身の幼少時代の未解決な課題が引っ掻き出されるような感覚になる。 「お試し行動」と呼ばれる。 繰り返し繰り返しそれは起こる。人を変え、場を変え、それは起こる。 なるべくなら、激しい感情には巻き込まれたくはないと考えるのは「ふつう」であろう。
支援員という立場は、担任と連携して児童生徒の支援にあたる。 子どもと担任との信頼関係が構築されてから初めて支援員として機能することができるのだ。 その支援員の機能には、特別な資格は不要だ。
しかしながら、実際は、子どもと担任との信頼関係はそう単純に構築できるものではない。子どもと担任との信頼関係を構築する「お膳立て」のような役回りも支援員がすることになる。「しなければならない」というより、そうなってしまうのだ。支援員自身が健康的に機能するためには。
子どもと担任(大人)との相性は、やはりあるのだ。 相性がよろしくないと、お互いに厳しくなる。 「1年の期限だ」と言い聞かせてなんとかやり抜くという指導者も多いと思われる。 それに比べると、支援学級の担任は講師や定年まであと1年という立場でない限り、通常5年は続くのだ。
がっつり学校組織の中で位置づけられた職員ではないという立場だからこそ、いろいろと見えてくる支援員という立場。 わたしとしては、「キャリア発達」という視点で多くを成長させていただいている貴重な立場であると思っている。
燃え尽きて倒れて、関わるべき領域を修正するというのも、「ふつう」だと思えば、「ゆとり」が持てる気がする、わたしなのであった。 ひとまず、今日のところは。
友人から立体のケーキをいただいた。
実は「立体のケーキ」ということは、ネット検索をして知った。 立体のチョコレートかと思っていたのだ。 すっごいハードな甘いものが贈られてきたことにちょっと戸惑いを感じてしまった。
しかも「立体」とはパンダの立体である。 パンダは可愛いものである。 でも、「可愛い〜」よりも先にチョコレートの材料の重みが迫ってきた。
これはリスキーな品物を受け取ってしまったとコマ取ったのだ。
太らせようと企んでいるのか?という思いまで広がった。
友達思いの友人は家族思いでもあった。 しかし、わたしはそれを軽く嫉妬と置き換えてしまった。
「旦那さんと仲よく食べている姿を想像して選んだ」とあって。 どうして我が夫が想像の中に登場するの?! と、プリプリしたのだ。
わたしときたら、糖質制限をしていることなどをメールで熱く語った。
「可愛い」パンダ仕様のケーキを贈った友人としては、 「嬉しい〜ありがとう〜〜〜可愛い〜〜〜〜」という反応を予想していたであろう。
ああ。 わたしは「可愛い〜〜!」という感情の言葉を伝えるということをやっていない。 そういう発想自体が引き出されなかった。
ネットで検索して、同じくこの可愛らしいギフトを受け取ったという方がブログ的な空間に「きゃ〜〜〜可愛い〜〜〜〜」と綴ってあった。 それを見て、そういう反応をすればよかった……と、凹んだ。
なかなか、わかり合えない。 いや。 わかり合えないからこそ、繋がり続けているのだろう。 こういう妙な認知システム。 我ながら、 「なんじゃこりゃ」である。
それでも気づけるようになったことは収穫なのかな。
2014年03月11日(火) |
発達を妨げているもの |
今、この日記の題名を入力する段階で、自分自身へのメッセージがメッセージとして浸透した。 無意識のレベルでは「今、ここ」より前にそのメッセージを言語化していた。
「なんとかなる」という励ましの言葉もちゃんと受けた。
出来事の始まりは何かとごちゃごちゃするものである。 この言葉だって、言語化した。 受け止めてもらった。 「だからこそ、成長が楽しいし、嬉しい」とまとめあげも出来た。
「気」とは「空気」。 ああ、これもまた腑に落ちていく。
いつもいる場所にその人がいないという「気」だ。 張り詰めた「気」の意味が今となり、まとめあげられていく。
わたし自身の緊張の「気」で状況に膜を張っていただけだったのだ。 ほらそう、ほらそう、他の人だって、共通の「気」にどうにか折り合いを付けようとして、高らかに笑うしかなかったのだ。少々引きつったような笑いには意味があったのだ。 その笑いの原因がわたしにあるわけではなくって。
「気」を紛らわせるための、材料みたいな起爆剤のように投下されたのだろう。 「気」をかき混ぜる役回りなのであろう。 でないと、点と点が結びつかない。いや、特定の点と点を結びつけるのが目的というわけではない。
緊張を伴って現実をどうにか通過させようとしているのは、彼らなのだ。 その彼らの気持ちの雰囲気を読んでしまったのだろう。
もともと立場が違うということは分かっているのだ。 その違いを語るチャンスではないか。 「お嬢さんお入りなさい」という波は再びやってくるのだ。
「発達を妨げているもの」は心当たりがある。 でもそれが解消される場は、その解消のためだけにあるのではない。 やはり、同時にその場を共有する人間の何かも解消されて発達が促進されていくのだ。
その「気」はおそらくは珍しい現象というわけでもないはずだ。
まぁ、「こういう人もいるのだ」という少々口数の少ない子どもの寄り添い人もいるということだ。そして、その口を開きそうにない人が口を開くとき、まぁ、微妙さも引き出されるかもしれない。それもそれで、「こういう人もいるのだ」ということだ。 場を変えて、「こういう人もいるのだ」という自分以外の対象とだって関わっているではないか。
すべては、永遠に続くのではない。 そう、ちゃんと枠があるのだ。 枠の中に枠がある。
そういえば、B君がよくある物語を「宇宙」で置き換えていたではないか。 しかもとてもとても笑顔に満ちあふれて。
「気」の空間。 そうか、そうだ。 「聴く」だけでもいい。 期間限定のその人たちに「語ってみる」というのでもよいのだ。 それは限定された時間だ。 その時間の意味に、将来に期待しなければ何事もオーライなのだ。 明日は、少し素直になってみるレッスンをしよう。 明日は、C子も登校する予定だ。 そう。あの笑顔の素敵なC子に会えるのだ。 しかも、帰宅後は親友にも会えるのだ。 明日は幸せな日だ。 だから、「気」の空間もきっと素敵な時間に置き換わる。
また少し見えてくる。 子どもと向き合う人と入れ違いに「気」の空間に入るではないか。
また見えてくる。 昨日は、ハードなひとときを通過させた。 そのハードなひとときに近かった時間、ちょうど昨日の今くらいの時間に、明日のことが気がかりだった。 でも、昨日の明日の今日はどうだったか。 昨日のハードなひとときと全く違う、キラキラした笑顔が感じられたじゃないか。
そう、まったく同じ一日なんかない。 まったく同じ「気」の日なんかない。
何事も学びだ。 そして、わたしはわたしを動かしていくしか出来ないのであり、誰かに代わってその誰かを動かすなんてことは出来ないのだ。その誰かが今、動けないからといって、憂う必要はない。 ああ、憂いも想像であり、憂いの想像で「気」を重たくしていたのだ。
素直に脳天気にいこう。
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