ふつうっぽい日記
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2014年02月26日(水) |
今ここ、されど過去は巡る |
時々、「あれでよかったのか」と思う光景が巡る。 光景は実際の出来事だ。 しかし、一昔以上前のその出来事は、確実な過去。 断片的な場面の過去の記憶は、確実といえるのかは疑わしい。 ならば、思い出すのはよしたほうがいいのか。
過去に囚われてしまうのは、前進的ではない。 しかし、巡らせ直す、語り直すというプロセスはある主の発達を促すのではないか。 他者の気持ちを過去の断片的な記憶をたよりに紡ぎ直すというのは難しい作業かもしれない。 というより、不透明な、不確実な世界への没入的で、逃避になるだろう。 そうではなくて、自分自身の想像力を試すためだとすれば時間的には逃避的であったとしてもある種の「折り合い」として収められるのかもしれない。
その医者は、たしか、言った。 「キーパーソンはお姉さんですね」
その前のセリフを何となく思い出してみる。 「あたしの言うことは聞かなくて、お姉ちゃんのいうことなら聞くんです」
何気に、実際、家族面接的な作業が展開されていたのかもしれない。 今まで、 「どうして、家族面接、並行面接的なアプローチがなされなかったのだろうか」と疑問だった。 しかし、今なら思える。 そういった枠組みを当時は知り得なかったからなのだ、と。
臨床や家族システムや家族の機能や、家族を取り巻く社会情勢とかそういった領域に対して、実際的実感的な知識を取り込んだのはここ何年かだ。 当時は、大学の教養課程程度の心理学の知識や適当につまんだ書籍に照らす程度の「枠組み」で濃厚な家族のリアルと向き合ったつもりでいたに過ぎなかったのだ。 何かの祟りとか悪い霊がついているとかいった現実的ではない対処で現実を理解しようとしていた行動は、今であれば選ばれない方法だ。当時だからこそ、無知の知まで到達されなかった狭い世界だからこその「ありえた」方法としての理解。
社会規範的に、「世間」を意識しての「恥」を意識してのそれは正しい範囲であったのだろう。 そこには近しいと思い込めたからこその「否認」の感情も大きかったはずだ。
「病気」や「症候群」という枠組みを直線的に結びつけることをしなかった日常だった。
今でこその「わたし」も、「私」を出すしか存在できなかったような息苦しさの中で、「わたし」がはみ出ないように、「悪い霊」の一つとして俎上にあげられないように自分を縛り上げるのでいっぱいだった。
当時、私はこういう「仮説」を持っていた。 「父親との関係が不安定の場合、その不安定さを補うために理想とする父親的な他の存在に惹かれるであろう」と。 それはちょっとした友人が「不倫」について気軽に話してくるという環境の影響が大きかったと思う。 ああ、彼女は母子家庭で育っていたと聞いたし、言われてみれば母親の話はしても父親の話はしなかったなぁとか。 別の彼女は、厳しい父親と青年期に離れ、「そういうことはごくごくふつうだよ」と語っていた。 別の彼女は、毛嫌いしていた父親がこっそりアダルトビデオを観ていることを知って、妻子ある男性のお宅へ訪問することに浮かれていて、「母に言ったら、ふつうそういうお宅へは行かないものでしょう」と言われたことも楽しげに話していた。
私が息抜きをすることが権利のように許されていたひとときがあった。 夕方から街に出かけて深夜に帰るという、「ふつう」では不健全なライフスタイル。
しかし、私に権利を与えていた彼らも後に「あの悪夢はもうこりごりだ」的なセリフを言っていた。 私に権利を与えていたひとときは、たしかに献身的で健全な家族神話を展開することができていたのであろう。
間もなく、「一緒の部屋では眠れない」と彼は別室で就寝するようになった。 私は不健全なライフスタイルの罪悪感や反省の力で、彼女らと同じ場で就寝することを奮い立たせていたのだと今なら思える。
部分的に当時の罪悪感が迫ってきて、私を縛ろうとしてきたものだ。 今となれば、確実的な過去の話だ。
若い時代の過ちと言うほど、ドラマティックではないが、時々、感情的な気持ちだけがひょこっと今ここの自分を、わたしを試すように浮上してくるのだ。
健全的な、普遍的な折り合いを付けられるまで、おそらく何度も何度も試してくるのだろう。
今ここのわたしがわたしでいられるように、彼女の中のわたしがわたしでいられているはずだということを信じられる時代の始まりなのだろう。 「共依存」の健全的な解き放ち、解決なのだと信じたい。
ここで、もう少し過去をさかのぼりながら、あの行動の勇気と向き合おうと思う。 あの行動の勇気とは、不安定な魂を連れてひとまずの解決の場を誘導したことだ。 病的であろうと仮説を抱いて、その対応のため専門的な扉を叩いたことだ。 病的な主は、私ではなくて彼女だ。
私は、私以外の家族が仲睦まじく居間で過ごしていた光景を「追い出された」外から泣きながら見ていた。当時は、「悪いことをしたら追い出すよ」というセリフは日常的だった。 おそらく、社会規範的にも「やんちゃ」を育てる世帯では「あるある」な光景であったと思う。 たとえば、学校で体罰が体罰として意識されなかった、そういう情勢。 教師が子どもを叩いても教師に対して特別な憎しみや憤りを持つ感覚が発達していなかった。 「見せしめ」の効果は最強で、「そういうことをやったらこうなる」というある意味、「見通し」を描くことができていたともいえる。 「悪いことをしたら追い出すよ」と似たセリフとして「子どもの家に連れていくよ」というのがあった。これはかなり偏見であった。ただし、それは本当に無知だからこそ平気で言えてしまえたものであって、実際を知っていたとしたら、逆に愛しすぎるほど愛していたかもしれず、それはそれで過保護の極みのような家族社会の中で息苦しさの中を生きねばならなかったかもしれない。 どちらにしろ、二分思考とでも言いたいような厳しい選択の世界のような場に立たされていた。これは、大人にすれば些細な世界、時間の流れだろうが、子どもだからこその壮大な設定ゆえともいえる。 「生きるか死ぬか」という境地であった。 大人としては「しつけ」の一つの方略として、「ちょっと」のつもりであったとは思う。 それは今となれば分かる。 しかし、「生きるか死ぬか」の世界に生きていたその子どもは、「しつけ」の主に生きたいメッセージをひたすらに訴えるという持続性に限界を感じて、別の扉を叩いたのだ。
別の扉とは何か。 ご近所のあるお宅のチャイムを鳴らした。 ご近所は何件もある中で、そのお宅を選んだ理由が2,3歳児ながら、今思えばハイセンスだなと思える。 近所には「もらい湯」をさせていただけるほど親しいお宅もあったのだ。そのお宅を避け、別のお宅。親しいお宅は、親も親しいということ。つまり、親の味方だから回避したのであろう。 選んだそのお宅の「おばちゃん」はキャリアウーマン的であったイメージがある。 「もらい湯」のおばちゃんにはない「強さ」「毅然さ」を子どもながらに感じていたのだろう。
「この人なら助けてくれる」という確信が2,3歳児なりにあったのだ。
今思えば、さぞ驚かれたであろう。 泣きながら、2,3歳児がやってきたのだから。
キャリアウーマン的おばちゃんに手を引かれながら、わたしは自宅へ戻った。 両親はどういう気持ちがしただろう。 「ご迷惑をかけてすみません」と多分、謝ったと思われた。 「ありがとうごさいました」だったかもしれないが、社会情勢、社会規範的な設定を思えば、「恥」が先だったはずなのでやはり、謝らざるをえなかったかもしれない。
今思えば、追い出されたという経験は、一時的な苦悩のひととき、ネガティブな気持ちばかりを増強させるばかりであった。しかし、今となり、あらためて巡らせると、そこにわたしの「芯」みたいなものがありそうだと思える。
自身がピンチになったとき、なんだかの手段で自分を取り戻すための行動を起こせる力があるということ。 2,3歳児であったということは、発達段階的にはまだまだ未熟ゆえに「芯」などを言えるような強さだとか力だとかに結びつけるのは安易過ぎだろうか、とも思えなくもなかった。 しかし、ここは「であるにもかかわらず」と繋げたい。
そう収めていくと、大人側、養育者側の子どもに対する追い出すという行動下にあったからこそ、引き出された己の道を切り開く力と考えられなくもない。
彼女を専門的な扉へと誘導した、わたしは、その力を使ったのだろう。 使わざるをえなかったのだろう。 彼女の今の幸せを見守り続けることがわたしの一つの役割だ。 彼女は幾分若い。 順調に年を重ねれば、わたしの最後の姿を見届けてくれるかもしれない。 いや。こういうことを今ここの時点で書くのは「わたし」や「私」は期待していないはずだ。
表面的な「愛」を横取りしたかったがための、きょうだいへの仕打ち。 「愛」とは何か。 その学術的な特性、定義を自身に巡らせきるにはもう少し時間が必要そうだ。 それでもその時は近い気がする。
2014年02月15日(土) |
途上としての減量現象 |
「ダイエット」という単語。 わたしは、どうもこの単語を巡らせるとひねてくれてしまう。 カタカナだからか。ちなみに英単語では「diet」と綴り、同じ綴りで「議会」という意味の単語もある。
約2ヶ月くらい前から、「糖質」を意識した食生活を送っている。 意識するといっても、主に夕食。
夕食にご飯、めん類などの炭水化物を中心とした食事を制限することを心がけている。 週末の昼食が外食になってしまうことも珍しくはないが、その時も、リスクを意識して食べている。
きっかけは夫が健康診断で医者から「糖尿病予備軍」的な言葉を受けたからだ。 身内にも生きた教材がある。 我が母は糖尿病とは言わないけれど、血圧を下げる薬とコレステロールを下げる薬の処方を受けている。最近では骨粗鬆症とも言われてそのための薬も飲んでいる。 老化による諸機能の低下は発達上仕方のないことではある。 そして、生活習慣によって老化を早めたり遅くなったり差が出てくるのも仕方のないことである。まぁ、「差」といっても、自分以外の個体と比較して判断するのは広い視点に立てば狭い意味での差に過ぎない。
もう少し我が母のことを書いておこう。 過去に二回、片足太ももが「こむら返り」を起こして辛い思いをしている。 「こむら返り」とは、筋肉が突然痛みを伴って持続的に収縮する(ひきつる)発作。 こむら返りを起こす部位はいくつか考えられるが、太ももという部位は筋肉が大きいので辛さも比例する感じで辛いようだ。
一回目の発作では、救急搬送を選択している。 足がつったくらいで救急車を呼ぶのはいかがなものか。と、思ってしまうのは一般的だろうと思う。 身内としてのわたしは、過剰に心配してほしい気持ちが盛り上がった結果ではないのか、不安のコントロールに失敗した結果ではないのかなどと分析するのを回避できなかった。
二回目の発作は、救急搬送は選ばなかった。 夕方、父も在宅していて、病院に行って、「応急処置」を受けて落ち着いたそうだ。 「応急処置」は、医者側からすると二番目の方略であったようだ。 一番目の方略は、「痛みが続くようであれば、この薬を飲んでください」という薬物治療。 一回目の発作では、「応急処置」が実施されたのだ。その「応急処置」とは、整体的なもの。つまり、運動による。ふくらはぎがひきつったら、足の裏を伸ばしてみるとかそういう種類の運動だ。 一回目の応急処置のことをすぐさま想起して、その時の運動を実施すればよかったではないか。しかし、一回目の応急処置は救急搬送の現場であり、「こうなったら、そうすればいいんですね」的に冷静に受けとめることなんかできなかったはずだ。 二回目というのは、一回目を経験しているからこそ、冷静さは残されている。 父は、「先生、薬じゃなくて、応急処置をしてください。前に、なんか足を動かしたら治ったから、そういうのをやってみてもらえませんか」と医者に言ったそうだ。 医者は、半信半疑で「じゃぁ……」と、足を動かしたらしい。 すると、母が「治った!先生、治ったよ!」と言ったらしい。 足の動かし方としては、二つほど教えてもらったそうだ。
それでも、現在も、母は「また、ひきつったらどうしよう……足を動かしても治らなかったらどうしよう」と不安にまみれている。 わたしは「二つも治し方があるんだって考えようよ」と助言した。 それでも、やはり不安は残っている。 一回目の発作で落ち着いた後に、自主的に精密検査を受けていたことも伝えてきた。 「MRIを撮ったけど、原因は分からなかった」と。 リアルタイムな血流量や自律神経とか精神的な不安定さなんていうのはMRIには反映されないだろうし、慢性症状の処方薬の副作用かもしれないし、生活習慣によるものなのかもしれない。しかし、原因探しに偏る意識が優先されてしまう傾向にある。
周りで見守っている側としては、「運動した方がいいよ」とか「早寝早起きがいいらしいよ」とか「この本を読んだらいいよ」とか簡単に言えてしまう。 しかし、やはり、その身体をコントロールしている主体の内部から、どうにかしようと試行錯誤することの力を信用するしかないのだろう。 自分の身体の声を聴く、とは簡単に言えてしまうが、行動として実践することは、発作が起きても病気になっても、簡単にできるものではないのだ。 いろいろな過程を経て、自分自身を知ることの意味をつかんでいくのだ。
話を戻そう。糖質を意識した食生活についてだ。 その途上として、経過としての基準は何か。 体重やウエスト周りの数値が考えられるだろう。
実際、体重やウエスト周りに変化が出てきている。 わたしについて言えば、ウエスト周りは実感がイマイチだが、体重は小刻みに上下しつつも下降が優先されている。つまり、減量となっている。昨晩の計測ではここ3年いや5年?の中でも最低の数値であった。 夫は、職務上スーツを着用しており、ベルトを装着していて、ベルト穴が一番細めにしても緩く感じるらしい。ベルトの長さを短くして調整する方法もあるが、スーツ自体を買い換えしたいと言っていた。明らかに体型が変化した、ということだろう。
体型を整える営みは、体質を知る営みだ。 「ああ、お腹が鳴った。空腹なのだな。」みたいに当たり前なことの実感から、生活習慣が改善されていくのだろう。
家族とは、小さな社会だ。 狭くて、偏りのある社会だ。 その小さな家族社会から自立して、あらたな小さな家族社会を構築していく。
両親はともに高卒。 その子等は、短大や大学進学が当たり前のような世代だ。
「単位って何?」と、今思えば、母は言っていた。 その時、めんどくさそうに多分わたしは一応は説明したのだろうと思う。
大学を卒業して約20年。
現在、二つ目の大学在籍5年を経過した。 両親にしてみれば、大卒の資格があるのになぜまた大学に通うのか謎であることであろう。 大卒の資格がない自分たちへの当て付けに映るのかもしれない。 というのも先日、こういうやりとりが展開されたからである。
パートが2月いっぱいまで休業なので昼食を一緒にすることになった。 そのスケジュールを決めるにあたって、月初めは定期試験があるためそれ以降にしてほしいと希望を伝えた。
昼食当日。 「試験って何の試験だったの?」 「通信講座の提出課題に合格すれば単位認定試験というのを受けられるのよ」
今思えば、この回答のセンスはよくはない。
そして、 「じいさんばあさん層もいらっしゃるよ」とも言ってしまう。 それに対して、父が 「そういうのをお父さんたちもしたほうがいいのだろうけど……」とつぶやいたのだ。
わたしの現在の大学での学びを近況的に伝えたその内容が、 「あなたたちもやりなよ」的メッセージに置き換わったのだろうと思われたのだ。
わたしとしては、わたしという個人的な人間が、存在が、大学で学ぶという時間の使い方をしているということをただ伝えたかっただけなのだ。 例えば 「毎週、金曜日はジャズダンスサークルに参加しているの」みたいな感じで。 だから 「続けられているんだね」とか 「頑張っているんだ」とかその程度の反応が都合がよかったのだ。
そんな具合なので、おそらく科目を選ぶ時のワクワクとか迷いとか、アラビア語を選択するかスペイン語を選択するかとかで楽しく悩んでいることは、簡単には理解されてないだろうと思う。 しかも、その迷いや悩みは、20年前の大学での履修決定とは空気が違うわけで。
ジャズダンスサークルや生け花教室に通うというは分かるが、なぜ、大学に行くという選択をするのか。
人間というのは遺伝と環境の相互作用で発達する。 環境は子どもが幼いうちは、親(養育者)が把握できるものに限定されるものだ。
しかし、環境の中でのコミュニケーションの方略は親が教えたとしても仮説どおりにはおそらくはいかない。 「積極的に育ってほしいから、積極的な子と友達になってほしい」と考えるのは、ふつうなのかもしれない。 しかし、わたしは幼稚園時代それは苦悩であった。 あきらかにグループが違うというか気質が違う子の家に親に連れられていき、過ごした時間。
ある特定場面が想起される。 同年代の積極的な子Aちゃんには、お姉さんがいた。 そのお姉さんの年齢はどのくらいだったのか今となっては分からないのだが、幼稚園児であったわたしにしてみれば中学生くらいにも思えた。 そのお姉さんは、Aちゃんを押さえつけて両頬を殴っていた。 衝撃だった。 Aちゃんは泣いていた。 積極的なAちゃん。
Aちゃん姉妹にしてみれば、日常であったのかも知れない。 親の前でもそういうことをやって、その度に叱られていたのかもしれない。
わたしはどうしたか。 わたしにも妹がいた。 わたしはAちゃんを妹に位置づけて、わたしをAちゃんのお姉ちゃんに位置づけて、同じように押さえつけて殴ったのだ。
残酷な物語だ。 しかし、実話だ。
妹はその時のことをおそらく覚えているだろう。 いや、もしかすると覚えないようにして意識の底に沈めてきたかもしれない。
フタが開いて「怒り」の玉が浮かんできて、そして「哀しみ」の玉が浮かんできた。 怒り、哀しみの感情の誕生は「喜び」に繋いでいいのだ。 怒り、哀しみの感情を理解する能力の確信。 やがて、それは「楽」に生きていくためのエネルギーになる。
「怒り」「哀しみ」の玉は、どろどろしていて非常にネガティブ。 フタが開いた時、とても気持ち悪いし、不安になる。 不安の先には何がある。 不安を通過させるから何かがある。 その何かが「喜び」だったり「楽しみ」だったりするのだ。
不快や不安とか不安定などろどろしたものが何をもっても先にあるというのは、それが重要な感情だからだ。
ーーーーー 今回の文章を書いたきっかけは、実は父への不信感だった。 伝えたかったメッセージを文章にして落ち着きたかったのだ。 「そうじゃなくて」ということをその時に言わなかった自分を救いたかったのだろう。
対話というものが、ある言葉があって、後からいろいろと後付けされていくしかない営みだとしたら、その言葉が音声的に発していなくても続いていくものだとしたら、その対話は一つの物語であるようで、書換可能、語り直し可能な大きな一つの営みでもあるのだろう。
父には父の物語が、母には母の物語が小さな家族社会を通過点にして、多様に触手を伸ばしながら紡がれていっているのだ。
物語の演出はその物語の主役であり語り主であるそれぞれの「わたし」に委ねられている。
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