ふつうっぽい日記
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2013年10月15日(火) 渦の疼きの経過

思いのほか、深い部分で疼いていたことが実感された。
昨晩は浅い眠りだったことも影響しているのであろう。

ある人宛にメールでこの収まりきれない気持ちを伝えねばならないという気持ちが大きくなり、メールソフトを立ち上げ書くことがなくなるくらいにまで文章にした。

そして、それらをコピーしてここに一度は貼り付けてみた。
部分的に固有名詞とか個人情報に触れるような部分を修正しようと試みようとした段階で、
「どうでもよくなった」

昼になり、お腹が減ってきた。

冷蔵庫に昨晩の残りのたこ焼きがある。
昼はそれを温めて食べるのだ。

メールソフトに入力された文章は「キャンセル」とした。


2013年10月13日(日) 渦の疼き

核家族の世帯数は、単独世帯よりも少ない。
このことを数年前、データ的に知って衝撃を受けたものだ。
核家族とは「両親」と未婚の子からなる世帯だ。
当たり前だが、かつてその「両親」は、それぞれ両親と未婚の子なる世帯の「未婚の子」であった。
「親」という立場にならずとも独立は可能だ。
つまり、かつての核家族であった世帯から抜けて、あらたな世帯の「主」または構成員になるということ。

今日は、ある渦を通過させたくて文字化する。
この空間で通過させなければ、直接的に渦の疼きを確実に過去の出来事から引き出された思いを押しつけることを優先させてしまう。

文字化する言葉として表出されること。
不思議なのだかその過程で気付くことに我ながら癒される、つまり、渦の疼きから解放される、ということが起こりうるのだ。
そのことを知っているから、そうするようになったともいえる。
そして、同時にそのことは、直接的な過去の思いの押しつけは、かならず反射されて戻って来るということを知っているということも意味する。

文字化の過程では、矛盾や混乱が発生する。
渦が疼きとしてもはや結びつけることは困難であり、意味がなくなるくらいまで広げることが目標である。自分への期待である。

さて、そもそも「渦」や「疼き」というものから一生逃れるというのは可能なのであろうか。
拒絶して、排除することはおそらくは簡単なことなのだ。
逃避すればよいのだ。
状況によれば、ひとまずの逃避を実行して、あらためて起こってしまった出来事を冷静に分析することも賢い手段であろう。


「そのこと」は、いわゆる「その特性や状況」については、学術的にある程度の知識が深まっているはずだった。
だけれども、身近な人間での関係性の中で、「その特性」を目の当たりにして捉え返すという立場にあることから逃れられない状況にある時、後に強烈に意識されることになる、ダブルバインド的な環境において追い詰める側の立場に自分自身を据えていることも起こりえてしまうのだ。

関与しながらのそれは、血の濃い関係性の中では不可能であることをおそらくは現実的な場面から教えてくれたのであろう。


ところで、「最終的には子が親の介護をするものだ」、という考え方は強烈には批難されないであろう。熱心に親の介護をする子の姿は、神々しくも映るかもしれない。
「親思いの優しい子」

優しさというのが、万人に向けられねばならないものならば、そうであって初めて「優しさ」を発揮できていると言えるものであるのならば、わたしは優しさを発揮できてはいない。
それとも最終的に獲得できるものなのか。
「優しい」と言われるためには相当に頑張らねばならない。
しかし、優しさだけで、優しさの獲得だけを優先させて人生を過ごすというのは切ない。
そして、他者から「優しい」と認められたいという面のみに必死に頑張るというのはどこかバランスが取れていない気がする。

「親孝行」の行動の一つに
「孫の顔を見せる」という「通念」らしきものがある。
この「通念」も批難されないであろう。

ところで、「当事者」が足を運ぶ結婚相談所と、「当事者の親」が子どもの情報を持参して集い縁を繋げようという取り組みがある。
結婚相談所について、「当事者」の年齢層は、かつては女性は30代前半、男性は35歳以上であったそうだ。
現代となっては女性は40代前半、男性は45歳以上であるという。
年齢層は変わっても「結婚したい人がやってくる」という目的は同じである。
女性はフェミニズムの風と従来の昔ながらの男女役割分業の希望のせめぎ合いであり、男性は多くが昔ながらの従来の保守的な関係を結婚に求めているのだそうだ。
フェミニズムの風とは、例えば女性も仕事を人生の優先事項として位置づけ家事や育児も分担する関係を結婚に求めるというものであろう。
目的は同じであっても、結婚観は男女でズレがあるのだ。
また、コミュニケーション面や働き方という視点でとりわけ男性に特徴があるそうだ。
ほとんどが5,6回の転職暦があり労働時間も長時間であり、土日も仕事に追われている現実があり、具体的な出会いの設定をすること対面の期日を決める段階から努力が求められるそうである。

収入いわゆる「給料」と「結婚」のリンクが男性の方で特徴的なのであろう。
他にも男性側としては「子どもがほしい」という希望があり、そうなると相手のつまり女性の年齢層は30代後半で選択肢から切られるということになってしまう。そして、男性側が抱えている「荷物」つまり高齢の親を抱えてこんでいる精神的な要素もあるのだ。
たしかに20代や30代で高齢化した家族を抱えている人は少ないかもしれない。

しかし、ここで考えてみる。
今、40代で結婚した2人が順調に子どもを授かったと考えて、その子どもが成人した時、両親は高齢化している。

具体的なケース妻40歳、夫45歳。
夫が60歳になった時、子どもは中学生である。
子どもにとれば、これからお金が必要になる……のだとしたら、その必要な養育費を親は準備できる保証があるかといえば見通しは厳しい。
一方でその養育費相当額を子どもに出世返してもらうなどということは期待するものでないだろう。
かつては、
「長男を産んだから、義理は果たしたし、老後は安泰」という目論見、ビジョンもあったであろう。そこには暗黙に、健康的であること「五体満足」的な枠組みがある。
よって、枠組みから外れる状況は時に厳しい選択を強いられる。

選択をすること。
選択できる立場にあること。
選択できる立場に他者を導くこと。

選択できるというのは万人にとって幸せなこと……なのであろうという前提で回っている。
選択できることは自由。

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Erich Fromm日高六郎訳「ESCAPE FROM FREEDOM 自由からの逃走」からの抜粋から

「…よく適応しているという意味で正常な人間は、人間的価値についてしばしば、神経症的な人間よりも、いっそう不健康であるばあいもありうるだろう。かれはよく適応しているとしても、それは期待されているような人間になんとかなろうとして、その代償にかれの自己をすてているのである。こうして純粋な個性と自然性とはすべて失われるであろう」

「…性格とは社会的条件にたいする消極的な適応の結果ではなく、人間性に生得的な生物学的要素にもとづく、あるいは歴史的進化の結果内在的となった要素にもとづく、ダイナミックな適応の結果なのである」


わたしなりのまとめ。
その時の、ある過程における、「渦の疼き」とでも置き換えるしかない様な、消極的または積極的な状況や思いは、ダイナミックな適応の結果に過ぎない。


KAZU |MAIL