ふつうっぽい日記
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2013年07月16日(火) |
ポジティブに考えようと堅く決意 |
二日前くらいに母からパソコンメール。 出かけなければならないので、週末買い物を代わりに行ってきて欲しいと依頼。
内容は見ていたものの、返信するのを見送っていた。
で、今日、携帯に母から不在着信。 その時間はまだ学校でお仕事中であった。
帰宅後に気付いた。
着信を見て、もしかして、メールを見たかどうかについて反応がないからそのあたりを確認したいのではないかという目的ではないかと予想した。 所用をしつつ、携帯宛にメール内容を確認したことを母にメールした。
それでも、なんだか、ワサワサして、電話をしてみた。
「もしもし。。。。」
なんだか悲しげな声であった……。
ワサワサはまだ解決されない。
なんぞあったのか?! 親戚問題? 父に何か?!
勝手にあれこれと想像してしまう。
すると 「お父さんとも話して、わがままなお願いメールをしたから、きっと不愉快に思って、怒って、返信してやるか!ってイライラした気持ちになっているんじゃないかって…… (だからメールの返信をされない) そして、電話しても出ないから、倒れているんじゃないかって……」
こうなっちゃうのか……
たまたま、わたしは生理前で少々不安定気味であった。 その不安定エネルギーを使わせていただき、こう言った。
「あのねぇ…… そういう風に悪い風に考えるとさぁ、お互いに気持ちが悪くなっちゃうでしょう? だからさぁ、そういうのは、やめましょうよ。 それくらいのことで、怒ると思ったの? 忙しくて無理とか用事があるから引き受けられない時は ちゃんと言うから。 電話に出られなかったのはねぇ、朝7時半くらいから 午後3時くらいまで仕事に出ていたので、なかなか 出られない訳なんですよ。」
すると
「あ、メール見た。 そういうことだよ。 メール見たのかなという確認をしたかっただけ。 あら? 今、仕事しているんだっけ。 まぁ、そういうことで……(やはり悲観的)」
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よく、母との会話やメールで、わたしの反応(※想像)に関わることを父や第三者(親戚)と共有していて、そのことをもわたしに伝えてくる。 わたしにしてみれば、第三者と母とのやりとりの具合を想像するしかなく、その様に憤りのような事を感じたとしても持って行き先がない。 第三者としても、わたしに告げられている内容や気持ちの持ち様がどうだとか、そんなことまで考えていないと思う。それが普通だ。
たしかに、他者の反応についてあれやこれやと想像すること、察する事は必要になる場面がある。そして、身近な人にその想像の具合を打ち明けてみる、ということもあるとは思う。
自分自身が揺らぐということはありうることではある。
打ち明けられた側にたつと、結構、いい加減というか無責任にもなれてしまうものである。 状況がよくわからないにも関わらず、詳細を尋ねるほどの関心もあまりなく、ただ同調してしまう風なこともあると思う。
メールの返信が来ないという現象はよくあることだと思う。 関係性によって、その沈黙の想像のされ方、受け取り方も違うと思う。 また、状況によっても変わってくる。 返信が来ないことが、すごく気になる時もあれば、送信したことすら忘れていたということもあると思う。
あれやこれやの申し訳ないという思いを、なんとかして「ありがとう」に置き換えられるゆとりを大切にしたい。
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学校活動の現場での子どもとのやりとりでも似たようなことがある。
あれこれと迷って、また、考えることが面倒になって、大人に頼る。 そして、大人の返した言葉そのままを採用して、結果として、 「何かが違った」という時、その大人のせいにする。
「言ったけん」(あんたの今の言葉、忘れるなよ)と、挑発するように言い放つ言葉をここ1年くらいで何回か聞いた。
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ある星占い的な今日のお告げに
「……私たちは自分の物事の見方を変えることができます。 ポジティブに考えようと固く決意することができます。 あなたや私が発揮しなければならない力はそれだけです。 そして、今日あなたがしなければならないことはそれだけです。……」
とあったことを思い出した。
ネガティブな波から試された、ということだ。 そう、ポジティブに考えようと堅く決意することができた。
(悲観的な)母とのやりとりから、ちゃんと開けてきた。
何事にも意味がある。 自分自身を知ることって本当に大切だ。
ちょっとしたテレビドラマを見ながら。
「(専業主婦として家庭に縛り付けたから、苦労させたから)楽させてやりたい」という夫。 そのタイミングは子育てを終了したとき。 子育ての終了とは独立(結婚)である。 「罪ほろぼししてもらいたいんじゃないの」という妻。
妻は、子育てが終了したら……(やりたいことをやる)と、夢を描いていた。 自分の支出を抑えて、それなりの蓄えもしてきた。 「やっとその日が来た」と考えているのである。
苦労する。 楽をする。
苦労の日々であっても、ささやかな幸せな時間はあったかもしれない。 だからこその小さな幸せの有り難みを感じられたかもしれない。
そう考えると 「楽をする」日々の中で、幸せな時間を実感するということはどんなもんだろうか。 しかも、「楽をさせてもらっている」という立場だったら。 そうなると「楽をさせてやっている」という立場はどうなるのだろう。
「苦労をさせる」「楽をさせる」 自分にとっての「苦労」「楽」と、他者にとってのそれは同じなのだろうか。
他者にとって「こんなことやって何が楽しいのか」と思えてしまうことが、自分にとっては幸せなひとときであることは珍しくはないと思う。
緻密な作業が得意な人、苦手な人(面倒くさい人)。 大ざっぱな作業が得意な人、苦手な人(気になる人)。 得意や苦手なんていうことは考えず、「そういうものだ」と淡々とこなす人だっているはずだ。 「こういう時はずっとこういう風なのだ」と決める必要もない。 体調によって変動することもある。
体調と言えば、今の時期、暑さで閾値が高まる。 暑さが疲労を引き寄せる。 といっても、少しずつ順応していくだろうから平坦ではないだろうけれど。
順応すること。 してしまうこと。 ここで、もう一度戻ってみる。 苦労すること。 楽をすること。
苦労を知っていることも楽を知っていることもきっと意味がある。
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小さなアリが一年生の女子の白いハンカチについてしまった。 小さなアリ。 でも、その子にとっては衝撃だった。 衝撃で大きな声で泣いた。 それを聞いた子が、面白がって、ついてもいないアリがいるとその子に言った。 さらに泣き声は大きくなった。
そういった小さな相互作用が重なって、成長いくのだろう。
ただただ衝撃の時。 衝撃を面白がる時。 衝撃に順応できる時。
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テレビドラマでは子どもたちが巣立った部屋になんだか訳ありの女性が二人。 DV夫から逃げてきた主婦、家出娘。 そして男性。この男性も訳あり。ひきこもり。 時間差で別々のエピソードでこの家にやってきた。 この家は間もなくレストランとして開店する。
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