ふつうっぽい日記
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2013年06月30日(日) |
本との出逢いについて |
6月も気付けば月末である。 時々、自分の書いてきた日記の文章を「おみくじ」のように「もくじ」から選んで、それを自分自身へのメッセージだと置き換えたりしてきたものの、更新をしようというところまでは向かわなかった。
適当である。
適当……。 投げやりという意味ではない。 「せねばならない」という「枠」を取り外せた結果としたい。
何かの検索の結果として、自分の日記スペースにアクセスされた場合、検索の言葉や、どの日付の日記にヒットされたかについて簡易的ではあるが分かるような機能がある。 時々、気がついた時にその様子について調べてみることがある。 軽い追跡である。 その時、わたし自身が痕跡を残すことになる。 自分でつけた足跡なのに、他者の足跡かと思って追跡することもありうる。
今日、何気に軽い追跡をしてみた。 学生時代に受講した哲学の講師やレポートについて懐かしく振り返っていた内容だった。 約20年以上前に書いたレポートに記載していた参考文献についても触れていた。
ところで、わたしはここ3年ほど、多様な書籍を手にしている。 図書館で借りることもあれば、本屋で入手することもある。 本屋でも古本の場合もあれば、そうではない場合もある。 かつて図書館の蔵書であった本が 「ご自由にお取り下さい」的に処分として無償で入手できることもごくまれにあったりする。
ある時期、「読んだら売る」ということを前提に、丁寧に本を扱っていた。
しかし、ある時期から、考え方を変えた。 本当に読む本は、線を引きながら読もう、と。 「本当に読む」というのは、自分のものにするのだ!という気持ちがある場合のことだ。 自分にとって線を読みながら読みたいと思える本と出会えるということは、幸せである。
本を手にしたその日のうちに読了する、ということはわたしに関してはほとんどない。 何冊か並行して読む。 ある本は3,4日で読了することもあれば、何ヶ月もかかることもあれば、しばらくページをめくられるのが後になることもある。 図書館で借りて一度読んだのに、それを知って購入することもある。
ふと、こういうことを考える。 1冊の本がある。 その本を読む(必ずしも読了しなくてもよい) 次に参考文献や引用文献として挙げられている1冊を読んでみる。 さらにその本の参考文献や引用文献として挙げられている1冊を読んでみる……。
数珠繋ぎというやつだ。
ざっくりとでもテーマを持って、本を読んでいくと(入手していくと)、過去に出会った本に再会できたり、気になっていた本と遭遇できたりする。 難しくて避けてきた領域が時を経て近くに感じられることもある。 ただ文字が小さいからという理由で避けてきた本が実は、内容としてはシンプルで、心に染み入ることに気づける日が来たりもする。
本との出逢いは、手にした時に役目を半分終えているのだと考えるようにもなった。 だから 「買ったけど読んでいない」という状況でもちゃんと意味があるのだ。
出会った時の状況も引っくるめて、手元に置いておきたい本というのはそんなに多くはないのかもしれない。
本に関するあれやこれやで、残念なことはこれだ。 図書館で借りた本に線が書かれてあること。
これは、おかしな話である。
線を引きながら読みたいのならば、自分専用として購入すべきである。 運が良ければ、古本屋で出逢えることもある。
線を引きながら読む、ということそれ自体は、わたしは大賛成だ。 しかし、他人の、それも公共物に線を引くのはよろしくない。
さて、明日から7月だ。 月末には大学の定期試験を受験する予定だ……。 しかし、少々調子が鈍っている。 これもまた、なんだかの意味があるのだろう。 どうにでもなるのだ。 焦って急いでみる練習をするもよし、自主的留年するもよし。
朝、降っていた空も、今は強めの陽差しや心地よい風を放ち、洗濯物を揺らしている。 何秒間か、ただその揺れをぼんやり見るのにも多分意味があるのだろう。
大きな世界(空模様とか)での法則は、小さな世界(洗濯物を干す時間とか)でも当てはまるのだろう。 そういった法則の物語みたいな理屈みたいなメッセージを最近手にする本から読み取ることが多い気がする。
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