ふつうっぽい日記
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「飛び出す絵本」というのはある。 そして、立体的な3D仕様のあれやこれやというのもある。
題名の「飛び出している」とは、書棚を見たとき、手前に何気に出ている状態の意味である。 たまに、何を手にするか迷った時、飛び出している本を手にしてみることがある。
「おみくじ」ではないけれど、何か縁のようなものを感じることができるような気がしている。
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ここで、ある状況を整理するために文章にしてみることにする。 A氏が携帯に連絡をしてきて、用件を伝えてきた。 その用件はある会合への有料参加の意思を問うものであった。 といいながら、用件には時間と場所や参加費用についての詳細情報は含まれていなかった。 日付とおよその時間と想定されるエリア。 A氏も参加は迷っていると言っていた。 にも関わらず、参加の意思についての回答を早急に伝えてほしいと訴えてくる。 さらにA氏はその会合への参加については無理をする必要などなく現時点で欠席者も多数いることを告げてきた。 その連絡を受けた翌日までには回答することを伝えた。 その連絡を受けた時、参加費用のことについては意識が回っていなかったわたしだったのだ。 やがて、今度はB氏から同様の会合についての連絡が自宅にきた。 A氏は事務経理部署に所属し、B氏は営業部署所属である。 B氏は時間と場所と参加費用を伝えた上で、翌日までに返事をしてほしいと言う。 返事はA氏かB氏まで知らせてほしいとのこと。 参加費用についての平均金額というのがあるものではないが、その種の会合に参加してきた経験上、やや高めだった。 ひょっとすると、わたしの聞き間違いだったのではなかったかという疑いが出てきてしまった。 金額が高めなので辞退する、というのも自然そうでもあった。 その金額については、ある些細な出来事があって、援助してもらえることになった。 つまり、金額についての壁は取り除かれた。 金額が高いから参加しない、という理由はなくなった。 ではあるが、「ひょっとすると聞き間違いだったのでは」という疑いは残っていたため、参加の回答はほぼ決まっていたが、確認をしてみて参加の意思を伝えようと考えた。 A氏とB氏。どちらに回答するか。 営業部署は忙しいことが想像された。もちろん、事務経理部署だって忙しくないわけではないが、電話対応的に安定感を持っているという感じが強く、A氏を指名。 A氏はB氏からも連絡があって重複するようなことになってしまったことを詫びてきた。 A氏にB氏から聞いた会合の詳細(時間、場所、参加費)の確認をしてみた。 「××××円で間違ってないですよね??」 A氏の反応の予測としては、 「そうなんですよ〜ちょっと高めですよね〜」というものだった。 しかし、A氏はB氏が伝えてきた時間、場所、参加費についての情報を知らなかったのだ。 よって、A氏にその情報が間違っていないかどうかの確認をB氏にしてもらうという手間をかけてしまうことになってしまった。 同時にその時点で、A氏の会合への関心、つまり参加するかどうかの迷いは一掃されていること、つまり詳細を知る必要のない立場にあることをわたしは察したのだった。
会合への参加率や傾向というのは、情報に近い位置にあると読みやすい。 たとえば、回覧形式で参加の可否を問う場合、 「A氏が参加するなら参加する」 「A氏が参加しないなら参加しない」 「所用があり参加できないけれど、結構不参加者がいるのなら気軽だ」 「参加したくないけれど、結構参加者がいるから不参加と申し出にくい」 ということも起こる。
今回の会合参加に関しては、その会の会員等が所属する現場から2〜3ヶ月ほど距離を置いていたということもあって、場違いというか共通点を見いだしにくいのではないかという思いもあった。 しかし、わたしにとってはこれから期間限定ではあるが再びその現場とは関わりを持つことになるので存在を再アピールする機会にもなるというメリットもある。 一方で、A氏とB氏の意思疎通、情報共有の微妙さの空気から、あれやこれやの勝手な思いこみも浮上してきたりもする。しかしながら、やはり思いこみに過ぎないのだろう。 会合の参加メンバーに偏りがあったとしても、参加の意思を伝えたのはわたしなのだ。 A氏とB氏は決裂的な関係にあったとしても、わたしがその原因に巻き込まれる心配はしなくていいはずである。
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組織というのは、相互作用によって空気があれやこれやと変化するものである。 1年もあればいくつもの濃厚で癖のある空気が溶かし込まれ、穏やかなものではないというのは、ありうることである。逆に「因習」として癖が習慣化されることは、穏やかで安定しているように見えて発展性を発動しにくくなる。
学校は社会の縮図とはよく言われることである。 秩序が変容する時には前段階として混乱は避けられないものであるはずだ。
謙虚さを忘れずに、不安定な立場であることを自覚しながら、だからこその関わりを楽しんでいきたい。
心理学の理論的な文章に浸っている効果(せい)だと思う。 飾ってもないのに和室の壁、今、こうやって入力をしているパソコン側とは真逆の壁に、「曼荼羅」(まんだら)が飾ってある気がして、何度かその場所をついついふり返ってしまう。 詳しいことはまだ知らないけれど、学術的、教養的にそういった宗教性を秘めた芸術的作品にわたしは関心があるのだと思う。
ポストカードの絵だったのか、寺院見物のパンフだったのか。 しかるべき場所にしかるべき僧侶のような人間が収まっているような図。 しかるべき場所の広さは全体としてのバランスを保ちながらも、一様ではない。
他者から指摘されると苦しいが、転勤によって何度か引っ越しをしてきている。 夫に比べたら頻度は低い。 転勤による引っ越しは結婚してからの経験だ。
転校を伴う引っ越しは実質わたしにはないが、妹にはある。 わたしは中学校から別の地区で暮らすようになったが妹は小学校の途中だった(といっても学年末までは在籍していたが)
暮らすための空間。その場所、その規模。 「住む家を選ぶ」意味というのは、持ち家に限って有意味である、という考え方は偏っているというのは分かってはいる。 しかし、転勤によって「住む家を選ぶ」という時。 意味に浸っているゆとりはない。 交通の利便性、家賃、そして、広さ。 転勤先の土地についての具体的な情報が得られないというかイメージが繋がらない経験は今のところ、名古屋の一度だけだ。 高知県以外の県は出張で行ったことがある、というのは夫の経験だが、行ったことがあるからといって「もしもここに住んだら」という想像なんかはしないものだろう。 仕事が目的で行って、せっかくだから観光をしよう、なんていうのはもしかするとあるのかもしれないけれど。
「相応しい時に相応しい場所が与えられる」というフレーズを何気に見かけた。
見知らぬ土地に対して、「相応しい場所」と結びつけるには時間を要する。 しかし、必ず何かが時間を経ながらも繋げられるものだということをわたしは信じられるようになった。 自主的に望んでそうなるというわけではない、急な転勤辞令。 そのものの「受容」は後回しにしつつ、現実を目の前にすると進めなければならない多数のタスク。 タスクをこなしていくしかないことに集中することで、「受容」も裏で促されていっているのだ。 何事も「急な」こと、「いきなり」なことはショッキングなのである。 衝撃なのである。
ゆとりがあるときは、衝撃の意識が緩やかに感じられる気がする。 では、ゆとりがあるというのはどういうときなのか。 こころが安らいでいる時なのだろう。 でも、この安らぎを頑張って意識しようとするとこころは焦ってしまう。 衝撃の意識が緩やかに感じられて、やるべき行動に自然に移せて、ホッとして、ふり返ってみてから「これはゆとりがあったからなんだ」と分かることなのだろうと思う。 となれば、今、安らぎを求めようとしてなんだか捕まえられないような落ち着かないような気持ちの波の中にあったとしても、いつか訪れる「ホッとする」ひとときが意識されれば、ゆとりに繋げられるのだろう。
「ホッとする」時間。 「ホッとする」行動。 冬に温かい飲み物を飲んでホッとしていたっけ。 ああ、今は暑いから温かい飲み物は避けているなぁ。 お湯を少し沸かそう。 そして、温かい飲み物を自分のために入れよう。 きっと、ホッとする時間に繋がっていく。
同じ役者が各地を転々としてする舞台がある。
「学校」という舞台に関わるようになってかれこれ5年くらいだろうか。
「学校」とは何か。
「学校」という舞台。 教師や児童生徒が役者ならば、わたしの任務は役者を見守る裏方のスタッフになるだろうか。 心ある観客だろうか。
時々思う。 「学校」に集まる人たちは、入れ替わっていく。 もしも、たとえば、教師がグループで異動していくならば、「学校」という建物、舞台が替わっても、舞台役者が各地を転々としてする舞台のように同じようなメッセージや空気を放つのだろうか、と。実際的にはありえない設定ではある。 何が「学校」の雰囲気を作っているのだろう、と。
器が同じでも、そこに集まる人たちによって雰囲気は違う。 同じ人が同じところに集まったとしても、人というのは日々、一瞬一瞬、気持ちは変動しているものだ。 今日と明日とでは違う。明日と明後日とでも違う。 今、明日こうやりたいと思っていても明日同じようにこうやりたいと思っているかというと疑わしい。
今日、あれやこれやと明日のことを心配しても、明日は心配の予言通りには運んではくれないのだ。
それは自分にかかってきた電話に応答するのと、自分が誰かにかける電話に流れる気持ちの違いに似ている。かかってきた電話に応答する自分だって、気持ちの波がある。かけた電話に応答する相手だって、気持ちの波がある。
相手の状況に立った配慮。 後回しになっていたなぁ。 反省。 配慮されることに甘えていた自分。 意識して仕事として配慮することはできても。
謙虚さを忘れずに。 でもだからといって、自分自身を責める形で、自分自身を知ることに繋げないようにしよう。
2012年08月14日(火) |
伯父の話から巡らせる |
祖母の仏壇を管理(?)している伯父のところへ昨日両親と伯母と訪問。 伯父は、子どもがおらず、十年以上前に離婚し、「彼女」と同棲している。 こう書くとモダンな雰囲気が漂う。 伯父は来年79歳、「彼女」は多分60代後半か70代。 「彼女」は未亡人で、子どももいる。 といっても、その子どもは独立している。 「彼女」は、教員だったらしい。 「彼女」の子どもも教員なのらしい。 「彼女」の子どもが何人いるかは分からないけれど、教員をやっているというのは娘さんでそのご主人は警察官らしい。 その子ども、つまり「彼女」にとっての孫は、交通事故で去年亡くなったらしい。 当然と考えても変ではないのだけれど、その母親である「彼女」の娘さんは情緒不安定にあるらしい。 伯父のかつての奥さんは情緒不安定が原因で結婚生活が出来なくなり実家に帰ってしまわれた。 姑つまり祖母と同居、しかもご主人つまり伯父の仕事は年に何回かしか帰宅できない船乗りの仕事だったために、ストレスが不安定要因になるのも当然と考えても変ではないように思える。 伯母や我が母等は言っていた。 「子どもの一人でもいたらまた違ったろうにねぇ」 残酷ともいえる台詞だけれど、当人たちの耳には入らないところでのささやきなので、こういうことはありうることなのだろうと思うし、その程度の次元なのだと思った。
伯父の自宅は、春先にシロアリの被害にあったのだそうだ。 突然被害にあったというのではなくて、表に出てきたのがこの春先ということ。 伯父の自宅は注文住宅で和風な造り。 基礎はしっかりとしたコンクリートでシロアリなんてものは無縁だと思い込んでいたらしい。 しかしながら、それは思いこみだったことを痛感させられた。 シロアリ業者は神社仏閣や学校の「雨天体操場」(←ウテンタイソウジョウ:伯父の言葉そのまま。つまり「体育館」ということ)の対応で忙しい日々なのらしい。 シロアリ駆除は専門業者に託した伯父であるが、シロアリの生態や駆除(収束)までの流れを熱心に業者から学び、その知識をわたしたちに分かりやすく解説する姿から知性を感じた。その学びの姿勢は、どこかわたし自身にも似ているところを感じて、親近感を持ったのだった。 我が母にとって、実の兄にあたるわたしにとっての伯父。 兄嫁なんてものは妹等(いわゆる小姑)にとっては、母親(いわゆる姑)とつるんで何かと陰口を言われてしまう対象なのだろうが、そこには兄弟への「愛」あってこそなのだと考えることができるきっかけになった気がする。
さらに、伯父の自宅は2ヶ月くらい前に泥棒に入られたそうだ。 伯父と「彼女」は主として2階部分で生活している。 かつて祖母が生きていた時は1階が祖母の生活空間だった。 玄関は一つだけれど、2階部分にちゃんと鍵があるし二世帯の造り。 泥棒は刑事によると日本人ではない3人組で、近隣でも同様な被害が出ていたそうだ。 1階部分には祖母の他界後、たいしたものは置かれていなかったとのことだが、大型テレビを置いていたそうで、それが盗まれたらしい。そして、車のシャッターの鍵と車の鍵。 伯父の車は伯父が大切にしている車で、これを盗られるのはたまらないと鍵の取り替え手続をすませるまでバッテリーを抜いておいたのらしい。車の鍵の交換は7万円だったそうだ。
伯母は 「電車と相撲を取った」とのたまった。 すごい表現である。 いわゆる駆け込み乗車をして、荷物(伯母曰わく「財布だけ電車に乗った」)は電車に残ったが人間ははね飛ばされてホームで背中を打ったらしい。 さすがに電車は3分程度停車して、ちゃんと伯母を電車に収めたのだそうだが、背中を打ったせいで背骨が曲がって、身長が5センチ程度縮んだらしい。
そんな際どい近況を聞いていると、見知らぬ人が仏間に入ってきた。 一同唖然。 「誰?」 見知らぬ人は 「こちら、初盆ですよね?」と言う。 伯父「うちは違いますよ。」 見知らぬ人「すみません。家を間違いました。」 伯父「ちょっと、お宅は誰なんですか?」 やりとりを聞いていると、自治会だか隣組的なご近所の方だか檀家さん(?)的な方らしく、お隣が初盆で伯父が案内をしていた。 見知らぬ人のこの玄関でしっかり靴を脱いで勝手に(?)仏間に入ってくる行動には驚かされた。 泥棒が再犯を企んで下見をしに来たのではないかと想像したのは多分わたしだけれはないだろうと思うけれど、わたしだけかもしれない。
そして、母が言う。 「この子のところ(つまり、わたし)も、また、いつ転勤になるか分からないから行けるときにってね。 ぼちぼち、また転勤になるんじゃないの。次は東京だろう……」 さすがに 「ちょっと、そういう噂をしな〜い!引き寄せないの!分からないだろうけれど、引っ越しは大変なんだからね」とわたし。 「そうだよね、自分たちで家も探さないといけないし、せめて、会社が探してくれたらいいのにねぇ」と母。 「そういう問題じゃない〜〜〜っ」 伯母は 「やっぱり、そりゃぁ、福岡がいいでしょう?」と言う。 「いや、どこでもいい。でも、次がどことかそういうのは考えたくない」とわたし。 わたしとしては親戚の前で珍しく感情的になってしまったけれど、後から、感情的っぽい言葉を放ってもそのことに関して評価しないでいてくれた雰囲気がなんだか嬉しく感じられた。 穏やかな親子げんかを見守られていたというか。 カウンセリングルームとか心理療法の場というのは、構造的に「守られている」と表現される。 公ではないけれど、それらのカジュアル版規模での空気みたいな雰囲気が、昨日の仏間には漂っていたなと思う。 雰囲気の「気」は、特定の誰か、専門家が作っているというわけではない。 わたしにとっては、家族の相互作用の「気」の優しさのようなものを学ぶきっかけになった。
祖母のおかげなのだろう。 あ、祖父も。
2012年08月01日(水) |
出たとこ勝負の試され三昧 |
意思疎通が難しくてイライラした時どうするだろう。
まず、意思疎通する、しなくてはならない対象(相手)について考えてみる。 「しなくてはならない」関係は、結構限定されてくるのではないかと思う。 親子とかきょうだいとかお金がからまない関係、経済活動が関係すること、基本的人権が関係すること。基本的人権というのは、たとえば当事者の権利によるたとえば福祉的な手続きを進める状況、事件等で裁かれたり裁いたりする状況など。
ところで「体罰」といえば、教員等の指導者によってなされる行為がステレオタイプ的にイメージされる。 教員は「経済活動が関係する」活動だ。 教員という立場でも 「転職するにもつぶしが利かないし仕方なくお金のためだと思ってやっている」 「親が教員をやっていて選択の余地がなく仕方なく教員になったに過ぎない」 という人だって残念ながらいる。
わたしは二十代の頃、幼稚園と小学校の教員免許を取得したのだけれど、上記後者のつぶやきを実際に発した場面に思いがけず立ち会ったことがある。 聞いた話では父親が厳格な高校教員で、子どもには教員の道を進むことしか許さず、父親と同じ高校教員ではなく小学校教員を選ぶということで抵抗をしたのかなと思われた。大学入学は1年浪人したが、教員採用試験は厳しい状況の中、一発合格を果たした彼女。 人間性的な面では、カウンセリングマインドで冷静に受容しつつも自分自身の考えをしっかり持っていて、親から教員になるように言われたと言いながらも、客観的に見ていたわたしとしては彼女が教壇に立つ姿を簡単に想像することができた。
意思疎通する、しなくてはならない対象(相手)に戻る。 その対象が「障害者」という状況は、必ずしも誰もが関わらなくてはならないものではない。 なんだか苦手だという気持ちを優先させて回避することは罪にはならない。 極端な場面として「優先席」の近くには接近しないとか。
意思疎通の試行錯誤の途上では、「難しさ」からくるストレスに支配される。 それは育児でも当てはまるだろうし、親との関係にも当てはまるだろうし、上司と部下にも当てはまるだろう。 対象が乳幼児の場合は、日本語の学習が途上ということもあって、その試行錯誤にはかなりな「エネルギー」が注がれることになる。 親とか上司なんていうのは、日本語自体は通じるはずなのに意思疎通が難しかったりする。当然、試行錯誤には「エネルギー」が消耗される感が漂う。
エネルギーはストレスを支える頼もしい味方だったりする。 エネルギーもストレスも、それ自体は善でも悪でもない。 いくらでも変容していくものだ。 愛しすぎるストレス、愛されすぎるストレス。
中学時代の社会科の教員のことを思い出した。 その教員Kは 「だって、おふくろの遺言がお前教師になれだったんだから。これは仕方がないことなんだ。オレに文句を言われても困る」と時折言っていた。 この教員は教科指導力は生徒からしても謎を極めていたが、生徒指導的な面では評価されていた存在だった。とにかく授業は脱線(世間話)が中心で、教壇に腰掛けるようなもたれかかる姿勢で、視力が悪いにもかかわらず眼鏡をかけておらず、教科書の文字を見る時は鼻がつくくらいに近づけていた。
意思疎通が難しくてイライラした時どうするだろう。 教員Kならどうするだろう。
○○という仕事や任務や業務。 もしかすると、「仕方なく〜に言われたからやっているに過ぎない」という姿勢が、自然で絶妙な「引き」の姿勢を作っていけているのかもしれない。
かつての諸事情による退職の場面で 「また、こっちに戻ってきてね(是非この仕事をこれからも続けてね)」というメッセージがわたしの今を支えているなぁとも思った。
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