ふつうっぽい日記
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2012年10月18日(木) |
苦戦するのは当たり前だ |
今日のある占いの仕事運のメッセージはこんな感じだった。
「周囲の仕事仲間の発言や行動に、いい刺激を受けそう。共感できる部分はどんどん吸収して。」
今日、ちょっとしたことがあって凹んだ。 昼休み、時々一緒になる日本語指導教室の教員と立ち話。 これが「周囲の仕事仲間の発言」と繋がる。
凹んだ表情は、予防のためのマスクで分からなかったはずだけれど、マスク姿は「大丈夫?」という感情を無意識に引き出すらしい。
「疲れるでしょう?……」という共感的な言葉に、ただそれだけで簡単に癒された。 「何かいい方法がないものかしらね」と、大枠での悶々とする課題は同じだったりする。 「なんだか叱る声ばっかりが耳に入って、大丈夫かなって思っているんですよ」と日本語教員。
遠くから見守ってくださっていたんだな……と、さらに嬉しくなる。
そして、 「ただただ、受け止めてくれる人というのも組織には必要らしいですよ」 と、わたしの悶々を先回りして受け止めてくれるような言葉。
この日本語教員の言葉だけでなく、ふしぎな感覚の経験もした。
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わたしの凹んだひとときは給食時間。
給食時間が終わって、教室まで戻る道のり。 「辛い」気持ちの固まりが盛り上がった。 その盛り上がった瞬間、1年生の子が背後からバシッと叩いてきた。 そして、2年生の子が背中にまとわりついてきた。 その子とは特別な関わりがあるわけではないのだけれど、気がかりな子ではある。 なんというか次から次に、まるで 「元気だしてよ!」みたいなメッセージを行動で伝えてこられたような感覚。
教室には緊張の空気があることが分かっていたけれど、どうにか、いつもの漂える鈍感力の波にのれることができた。 しかも、緊張する対象(担任)の素直な気持ちを引き出すことにも成功した。 構ってほしい子が一気に担任の目の前に集まり、混乱のジェスチャー。 「先生は、今、心が傷ついてギザギザになっています。静かにして。」
心がギザギザになっていると、収めていた言葉が思いがけず出てしまうことだってある。 その心の近くに、わたしが思いがけず接近してしまっただけだ。 自分の存在を責めるではない、わたしよ。
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「周囲の仕事仲間の発言や行動に、いい刺激を受けそう。共感できる部分はどんどん吸収して。」
……わたしたちの仕事は、目標に向かって学習を進めることだけれど、一対一なんだから、途中で目標を変えてもいいじゃない。席を立ったって、一対一なんだからいいじゃない。授業とは関係ない話にあなたも付き合えばいいじゃない。 と、日本語指導の指導主任的な立場の方から助言を受けたのだそうだ。 そして、試しに、今日はおふざけに付き合ったのらしい。 今までは1時間が苦痛でとても疲れたけど、今日はまったく疲れなかったと。
わたしの密に関わる対象ではない、些細な場で試してみた。 掃除時間。 1年生。
「先生、見て〜すごかろ〜」と、ホウキでふざけたのだった。 そこで、 「見たよ!」「すごい!」「(掃除)頑張ろう!」と、反応してみたわたし。 すると、1年生はニコッと笑った。
受け止めて、次を促すこと。
受け止め過ぎていたのだろうと。 いや、受け止める要領にあれやこれや苦戦していたんだろうな。 苦戦するのは当たり前だ。
折り合いをつけるための表現。
「可愛そうな子ども」
この言葉を越えないと子どもに愛を流すことができないという不思議な構造のなかで、 わたしには何ができるだろうか。
2012年10月13日(土) |
「今なら少しだけ魔法を使うことができます」 |
「今なら少しだけ魔法を使うことができます」的なメッセージが星占い的な言葉に出てきた。 この占い的なメッセージは、ファンタジックというか宇宙的なメッセージというか壮大なイメージを言葉にしている風で、わたしは気に入っていたりする。
今日のメッセージとしては「今なら少しだけ魔法を使うことができます」というもので、注意することとしては、「本当に叶ってしまうかもしれないのでくれぐれも注意してください」的であった。
そう考えて、いろいろと叶ってほしいことを頭に思い浮かべるとあれやこれやが巡る。 しかし、「本当に叶ってしまうかもしれないのでくれぐれも注意してください」と言われると、思いとどまる。
いろいろと期待をかけすぎないほどほどの毎日が過ごせますように? 健康で暮らせますように?
ほどほどで健康的な生活が200年続いてしまったら、なんだか大変そうだ。 両親の長生きがスペシャルに実現すると、わたしの人生の終わりにも立ち会わせてしまうことになるだろう、とか。
いざ、「絶対願いを叶えますから何か一つ言って下さい」と言われると即答できない。 しかし、個人的な欲望にこだわりそうな視点からは解放することができる。 広い思考に出てこられる。 世界の平和とかそういう広い大きな宇宙的な願いを叶えてほしくなる。 そうか、そういう思いを持てるような力が「絶対願いを叶えますから何か一つ言って下さい」という投げかけによって引き出されるのかもしれない。
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この1週間は濃密だった。 と、1週間経った今だからこそ、そう括ることができる。 この1週間の中間くらいの時期に、ちょっとしたメッセージを友人数人に贈る機会があった。 自筆でそれぞれに合わせた内容で書くので時間差が生じる。 最初のメッセージには「今、少し厳しい時期で……」と書き、次のメッセージには「長い2ヶ月です」と書き、さらに次のメッセージでは「あと3週間の勤務。こう書くと別れのことを考えてしまいます」のような感じで書いていた。 そして、それぞれのメッセージの後半では折り合いをつけるような言葉で締めた。
メッセージを受け取るまでの時差ももちろん生じる。 その時差の時間も長く感じたり忘れるくらいだったり感覚というのはちょっといい加減だったりする。 ちょっと重いような内容を書いたとして、書いたその行為によって重さは軽減されていて、受けてからの反応によって、過去の重さが再び話題になって、受け手の反応がすごく丁寧で心ある言葉だとか慰めるような共感するような言葉だったりすることは当然かもしれない。 過去の重さとの再接近で、どう折り合いをつけられるか。 心ある言葉をかけてくれた存在への感謝がやさしい過程なのかなと思う。 しかし、再接近によってフラッシュバック的なことにもなりうる。 それでも、その状況から、どう折り合いをつけていけるかが試される。
今日はある意味、わたしにとって再接近の課題と向き合う日になるのだろう。
「型破り」という場合、一通りの型を経験しておくことが求められるのだろう。 よって、わたしのような外部からのヘルパー的な人材がその活動領域において「型破り」をした、なんていうことは表現としては狭くなるはずだ。
最近、介入している現場で、施設外での活動引率補助を打診された。 正確には、促された。 自発性があるのか試された、というのが近い。 理由は、施設外での活動補助では外部からの雇われパートには何かと制約が立ちはだかるからである。 制約の中には、万一何か事故に巻き込まれた場合に労災認定されないということがありうるのだ。 よって、施設の側から積極的に依頼するというのはよろしくはなく、スタッフの熱意に負けて「承諾」「配慮」という形式でもって事を流すことが都合がいいらしい。
「大人の事情」とでも言うか。
大いに気がかりな対象が3名ほど、そして、気がかりな対象となると最低でも10名はいるかもしれない。60名以上はいそうな子ども等のグループを10名の大人で引率をしても大人の数は多すぎるということはない。 施設外の活動、それも交通機関を使った流れとなると安全面での配慮の目は多いにこしたことはないだろう。 現実的には10名も大人はいない。 わたしが把握しているだけでも片手だ。
労災といった制約、法的な縛りをほどいていく、広げるように働きかけるにしても一日そこらではできない。 困っている人を目の前にしながら、法律があるから近づけないとか関わることができない、なんていう話はない。
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何年か前、労災的な条件も具体的に決まっていなかった頃。 数十メーター先の図書館に同行するのでさえ、ためらわれた。 そういう中、純粋に施設外活動が楽しそうだから同行したいと気持ちを何度も伝えていたスタッフがいた。 当時のわたしは、自分が楽しいからというただそれだけの理由で参加したいと申し出るなんて、なんとも呆れた考えだという思いに簡単に支配されていた。 その活動参加者には知的障害を有する児童が含まれていて、多くの時間をその子と一緒に活動することになって、同行が実現したスタッフとしてはその子以外にも多くの参加者と活動をしたい思いが強くあったという気持ちが語られた。 結果として知的障害を有する児童の専属のようなかたちになってしまったことに不満を抱いているかのようにも映った。それでも、総じて、前例のなかった施設外活動に参加したという達成感のような、充実感のようなものもうかがえて、今思えばわたしの中では羨ましさがあった。
当時の制約や正義感と羨ましさの中で揺れた思いと、今回の思いがけない状況の思いの出逢い。
今日の星のお告げのメッセージにも重なる。
ーーーーーーー これまでのあなたなら断るような依頼や物事を、今日はなぜかトライしてみたくなるでしょう。そのやり方も、いつものあなたならしないやり方で試みそうです。もし、たとえそれで失敗したとしても、そこから学んで吸収するものも多いでしょう。今までのやり方や成功例にとらわれていては、見落としていたこともあったはず。今日のあなたは、そんな過去と決別するように、思い切った行動が取れます。それによって、あなたの心も充足するでしょう。
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心の充足とは、誰かの型破りに近くで揺れることによってなされることもあるのかもしれない。
型を破っているのはわたしではない、という意識を大切に謙虚に素直に純粋に楽観的に楽しもう。
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