ふつうっぽい日記
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逃げるか、留まるか。
危うきものには近づかない方がいい。 さて、イライラの主は危うきものか?
その主と闘う意味があるのか? そもそも、闘うとはどういうことを「する」のか?
昔、会社勤めをしていた頃、ジャンケンで接客当番を決めるということをやっていた。 のほほんとした時代である。
わたしはそのジャンケンで負ける確率が非常に高かった。 一人負けということも珍しくなかった。
しかし、わたしはある時から流れを変えることに成功した。 つまり、勝率が高まったのである。 厳密には、確実に負ける率を減らすことに成功した。 5人でジャンケンをする時、4番目に負けることもあったとは思う。 しかしながら、総じてわたしは負けなかった、つまり、接客当番に選出されることはぐんと確率的に減ったのだった。 それは、他のジャンケンをするメンバーからも驚かれた。
メンバーの一人は、一人鏡に向かって練習しているのではないか?などと言っていたくらいだ。 全てが互角の勝負。勝負がつくことはありえない。
では、なにがわたしを変えたというのか。
それは、視点をずらしたからである。 ずらしたにも関わらず、一律の法則性があった。 それはなにか。
ジャンケンで出す順番を毎日同じにしたことである。 例えば、「グー、チョキ、チョキ、パー、グー、チョキ、チョキ、パー……」という感じに。 A→B→B→C→A→B→B→C…
A→B→C→A→B→C→という、「ABC」の繰り返しは、見抜かれやすい。
よって、わたしは A→B→A→B→Cという流れを1セットにした。
実は、これには、このジャンケンメンバーとは無縁の「コーチ」の存在があったのだ。
たかだか「接客当番をジャンケンで決めて負ける傾向にある」という、どうってことない悩みを俎上にあげたのである。
この悩みを共有してくれたコーチこそ、我が夫なのであった。
闘い方にはセンスが問われる。 なるべくなら、エネルギーは消耗したくない。 消耗したとしても、簡単にプラスに転じるようなものがいい。
イライラと闘う。 自分の中で引き出された「イライラ」。 「イライラ」は、自分の中に位置している。 よって、直撃すると、自分自身が危うい。 さて、どうするか。
仮に「イライラ」をAとしよう。 すると、A1、A2,A3……というように、Aにもいろいろあることに気付かされる。 今日のA1は今日のA1でしかないのだ。 明日には、A1がB1に転化していることだってありうる。 であるならば、「今」この一瞬においてのみ、A1なのであって、「今+X」秒には、X時間後にはA1そのものが意識されないことだってありうるのだ。
意識されない自分は、自分ではないわけではない。 意識しない、意識から外す、何かに置き換えられてA1でなくなる時の、「自分」は、やはり「自分」なのである。
そうやって、移りゆくA1の中にありながら、一貫性を持つ自分という存在に希望を持ってみるのも策である。 また、Aというカテゴリーに分けたに過ぎない、A1A2というあれやこれやのサンプルをコレクションし分析することに意識を傾け、「Aというカテゴリー」であることを自分自身でまとめあげることができた、自分に「自信」を持ち、さらに、その「自信」に寄与した存在について歴史的に考察を続けるというのもよいと思う。
歴史的とは過去へのとらわれともいえようが、そこには自分自身で実験的にたどりついた「自信」があるのであるから非常に意味がある。
自分の存在の歴史的考察とは、家族観にも繋がっていく。
「自信」は、自分自身を知ることで自分の中に浮き出てくるものであり、それを「うぬぼれ」にしないために、それを発動させるにいたった存在、つまり、命を与えてくれた存在に感謝するプロセスが必要なのだろう。
「イライラ」「A1」という感情発動の成功は、ともすれば嫌われるべき、排除すべき意味に取られるが、内側に備わっている感情は、思いがけず、しかし、絶妙なタイミングで引き出されるものである。よって、「イライラ」「A1」を抱える容器的な「自分」にはコントロールできるような次元のものではないはずである。
よって、イライラと闘おうと決意を決めた瞬間に、イライラの生みの母として生きることを決意しよう。
そうかそうかと、「A1」の誕生を感情発動誕生日として祝おうじゃないか。 毎日がなんだかの感情誕生日。
母は何かと大変である。
例えば、「べつに。」的な感じで現実を括る傾向にある人にとって、ある選択肢を提示して選んでもらうというのは、策なのかもしれない。
最近、知人から何気に振られた問いかけにムッとしたわたしがいた。 しかしながら、わたしはその時、雰囲気を大幅に変えることなく思いを伝えることができた。 よって、悶々とした愚痴的なものではなくて、一つのプロセスの事例として位置づけることに成功した、とも言える。
「旦那さんとしてはどこがいいと思っているの?」
転勤族である立場としての主体である我が夫に対する思いを、その妻であるわたしに問いかけることで答えを得ようとしているのである。
これ的な質問は、ふり返れば人を変え、ニュアンスを変え、言われてきた。
転勤と一括りにしても、状況は様々。 サラリーマンと一括りにするなら、もっと世界は広がる。 よって、例えばサラリーマンと自営業を括って何かを語るというのは、 「今度生まれ変わるなら、男がいいか女がいいか」という選択肢の空気に似ている。(と、わたしは思ってしまう)
転勤族。 転勤族というのは希望する場所に異動する人ではない。 場所がどこであっても叶うならば定住したいに決まっている。 定住できるという可能性があって、「マイホーム」を持つという選択肢が現実的になるのである。
「住めば都」という言葉がある。 この言葉を 「住めば都というじゃない」的に慰める言葉として放たれる空気に、わたしは親和性を感じない。 似たような空気として 「別居していても、それぞれが生活を楽しんで、時々一緒に会うというのもそれはそれでいいものですよ」がある。 これは、芳醇な人生の重みを放っている「教授」の言葉である。 20代30代の新婚的な主婦に向ける言葉としては適切ではない。
「旦那さんとしてはどこがいいと思っているの?」
出生の土地とか、またはどこかお気に入りの土地があったりするのか。 転勤族だからこそ、多様な土地で暮らす中で、ここはいいなぁとか思うところってあるんじゃないのか。的な、仮説が問いかける側にはあるのだろうと察する。
妻として、同居人として、転勤とともに翻弄されてしまう側として、その行動に強く影響を与える主体(夫)の感情に巻き込まれることは簡単なことだ。しかも、その感情というのは、思いこみなので、状況によっては「ひねくれ」効果を発動させる。
「転勤族にはいろいろあるだろうけれど。 ひとところに定住できるという約束がない立場にある者に、選択肢が与えられるというのは残酷なことだよ。たまたま、今いる場所がわたしの出身地だから、戻ってこれてよかったね、なんて言われるけれど。ここが戻る場所という前提があるわけじゃない。」
とはいえ、1日ずっと、次の転勤が言い渡されるまでの間ずっと、ネガティブな思いや不安に支配され続けている訳ではない。 そういうネガティブな思いが引き出される多くは、他者からの何気ない世間話で、この領域に及んだ時である。 ネガティブな思いは、当事者としては通過させていくべきものである。避けられない。 少なくとも、「生」今、ここで生きていることに希望や楽しみがあるのなら必ずひっついてくる。 しかし、日々過ごしていくこと、生きていくことを「どうでもいい」という強い信念があるならば、通過させていきべきものも「どうでもいい」のであるから、そもそも意識されないのかもしれない。
ネガティブな思いを通過させるにあたって、その時間は個人差があるものだ。 「なんでやねん!」的な憤りにしばらく支配されたのち、「仕方がないなぁ」と次なる行動を起こす。 「はいはい。転勤ですね。了解です♪」と、気持ちを切り替えられるに至ることができるとしても、頻度が8回なのか100回なのか、これまた個人差がある。
転勤と無縁の他者は、例えば年賀状の住所が頻繁に変わることに苛立ちさえ抱くこともある様だ。 「結局、今って、どこにいるんだっけ?」 という何気ない、メールのメッセージもタイミングによってはアドレスを削除したい感情に支配される。
安定している立場にとっては、「上から目線」的な構造になるのだろう。
例えば 「旦那さんとしてはどこがいいと思っているの?」 と 「資格があってもこの時給です。交通費の支給の限度額は決まっています。」
という言葉はまったく場の設定が違うけれど、これを言い放った人間は安定している立場にある。 後者は求人をしている側、つまり、従業員を募っている側である。 その事業主であることもあるだろうし、求人をすることが事業である窓口であることもあるだろうが、いずれも、この言葉を発する立場というのは雇用されている側である。 そこらへんにたまたま歩いていた人に言わせた言葉ではない。 いや、「言わせた」のならば、それを指示した立場が別に存在することになる。 「そこらへんにたまたまた歩いていた人が言った言葉」だとしたら、それは独り言なのであって、職を求めている人にとって有益な言葉として意識されない。
「上から目線」で言われることには敏感だが、自分自身もそういう立場で言っているということには鈍感なものである。
買い手市場、売り手市場。
職を求めている人はたくさんいる。 提示の条件に納得いかなくても別に構わない。 他にも職を求めている人はたくさんいるのだから。 一丸となって、「提示の条件」に断固として拒絶できないのが現実である。 収入を得るために、生活をしていくために、妥協してでも選択をせねばならないこともある。
選択できること、他者によって選択された状況を与えられること。 その次の行動は、わたし次第なのである。
悪魔と天使とか、そういうのではなくて。
自分自身という一つの入れ物のなかに意識される「私」と「わたし」。
先日、思いがけず大学時代の幼稚園関連の音楽表現の担当者の著書に出逢った。それは小さくて薄い本だった。 そこに「わたし」という言葉が載っていた。 「わたし」というのは、子ども目線での、子どもの心を中心とした純粋な、素直な自分自身という意味である。 子どもと関わる大人は、「わたし」と出逢っていたほうがいい。 「わたし」に近づくための、学びの一つとしての大学の科目。
「私」の中にある、もう一人の自分。 その存在イコール二重人格的な「枠」外の本来いてはならない排除すべき存在だと「私」は何年もの間、思い続けてきた。
ところが、わたしのここ1,2年くらい「学術的関係妄想」を抱かせていただいている尊敬すべき方々たちの中には、「私」と「わたし」がたしかに存在していたのであった。書籍の中での活字として放つ存在は、もっぱら、「わたし」からのメッセージなのである。 男性であれば「僕」と置き換えられる的な。 わたしに限っては、傾向として、「学術的関係妄想」として位置づけられる彼らは共通して「僕」と称している。 「僕」は、時に堅苦しい専門書では、「私」を使っているが、心を開いているような種類の言葉では「僕」を使っている。
「私」から「わたし」を誕生させることに成功したきっかけは「僕」の存在である。「あたし」を誕生させる試みもあることにはあったが、「わたし」が、わたしにとっては都合がいいというか、しっくりきた。
「わたし」を定着させていくために、例えば友人とのメールに、以前は「私」を使っていたが意識して「わたし」を使っている。 それくらい、「わたし」は「私」にとっても、器の主としても、しっくりくる存在なのである。
「わたし」は、別の誰かにとっては、「私」という記号で統一されていることだろう。その、わたし(つまり、この時の「」抜きの“わたし”とはこの文章を作っている主体のことである)にとっての「わたし」の意識化が、人生の発達の早期でなされることもあるだろうし、65歳以降かもしれない。 65歳以降であった場合の例えば高齢期に発症する病の中にあるとき、その心を支える存在に「わたし」がいるのだろうか?などと思った。 「わたし」を知りえない対象にとって、「私」との違いがギャップが例えば障害になっているのではないか?などということも思った。 または、「わたし」が「私」と共存していいという了解を肥大化してしまった「わたし」がつかまえられないのではないか?ということも。
病や障害や症候群的なそういう括りの原因や特徴とされる一つ一つは、似たようなことが「日常」のある短い時間、限られた期間において、起こっている。
日常的に「忘れっぽい」人にとっての「物忘れ」。 日常的に「忘れっぽい」人とはかけ離れている人にとっての「物忘れ」。
わたしの「わたし」は、例えば「忘れる」「忘れた」ということには、絶妙に鈍感力、楽観性を機能させることに成功している。 「ま、いっか〜」「なんとかなるさぁ」的に。
なるほど「わたし」の誕生は、鈍感力、楽観性の獲得、発達といえそうである。
数日前、友人とお酒を交えて食事会をした。 といっても、規模は二人である。 カウンター席というのは、心が開かれやすいということを実感した。 といっても、「どうもそうらしい」ということに触れたのは、その後だった。 逆にそう知っていたら、何だかの防衛が働いていたかも知れない。
今となれば、お酒を交えての語らいは久しぶりだった。 去年の今くらいの季節に実施したような気がする。
この1年の間に外的及び内的な対象喪失を経験した、というのが彼女との共通事項だ(と、わたしは繋げている)
語らいでは、引きの視点が自然に発動され、過去を取り巻く環境を構築してきたそのまた過去というレベルにまで広げられていった。 もっとも、大幅に広げて行ったのは、わたしだったと思う。
少なくとも、1年前までは語られなかったことが、自然な展開で語られた。 しかも、お互いに冷静だった。 お互いに「何か」を引き出そうとしていないのにも関わらず、そういった深層的なかつての「とらわれ」を俎上にのせて何か一つの結論に誘導するでなく語られた時間の流れ。
ーーーーーー
「弟」の喪の作業。
彼女にも小さい頃に「弟」または「妹」の喪の作業に関わっていたことが分かった。 彼女のご両親は社会的に彼女を発達させることに成功したのだな、と思った。
「(親と)一緒に、水子供養をした」 これは、確実なる「喪の作業」である。
彼女の母も、わたしの母も「母」としては同時期を生きてきた。 社会的、世間的に「男子を産む」ということの価値というのはある意味、共通理解されていたようなところがあった。
「男の子が欲しかったのに(女の子しか生まれない)」 「男の子をのぞむ、夫に申し訳ない」 的な思いも、共通理解されていたと思われた。
そんな時期に、男子の流産という状況が、その後の人生にどう影響を与えていくかは想像するに難しくない。
世の中には、本人の努力が反映されがたい仕方のない現実というのは多くある。
男子を家族として構成することができなかったことが、「出来が悪い」として括ることの考え方の狭さ。
その狭さゆえに、翻弄される女子の人生。
子どもは親を選べない。 考え方も選べない。
「時代の流れ」として、括ることは「思考停止」への道だ。
しかしながら、思考は停止しない。 生きているからこそ、である。
思考の枠は狭くなったり、広くなったりしながら、結果として確実に広がっていくものだ。 広くなりすぎそうになると、狭くするように動く。
「ひとまず、妹が、親に孫の顔を見せてくれているから」
こういう考え方、自己回避、安定でもって、やり過ごす、というのは、社会的に、世間的に共通理解されているのかな、とわたしには思える。
男女問わず、「独身」であっても、「甥」や「姪」の存在でもって、既婚でないことや、既婚であっても、子どもを持たない世帯であることの違和感を紛らわすことに成功している。 と、わたしには映ってしまう。
こう映ってしまうのは、わたしには「姪」「甥」がいないからこそ、である。 もしも、そうなっていれば、今まで展開してきた文章はおそらく誕生していなかっただろう。
しかし、「姪」「甥」がいるからといって、同じように何かが共通理解されていると括るのもまた、狭い考え方のはずである。
ーーーーーー 「誰も、私に子どものことを聞いてこない」 という話題も流れた。
新婚、2年とかそこいら。
これもまた、時代の流れというので括るのは思考停止である。
かつて独身であった女性が言っていた言葉を思い出す。 「結婚は?と、誰からも言われなくなった」
少し形の似た「寂しさ」を感じる。
気を遣われていることへの違和感。 といっても、当事者としては、周りへの気遣いを大切にする。 いや、だからこそ、だとも言えるのかもしれない。
一方で、わたしがそうであったように、 「今はまだ、お婆さんと呼ばれたくない」と、先送りにすることを願う思いを、ざっくばらんに伝えてくる、ということもある。 法的に安定的でありながら、避妊をする「生活」。
「今、(子どもが)出来ても(困る)」 は、やがて、 「もう、そろそろ」 となり、 「いい加減、一人でも」 となり、 「お墓も建てたことだし」 と、何やら思想的な宗教性を練り込まれたような思いまで引き出すことに繋がってきたりもする。
子どもを「作る」か「作らない」か、「選べる」時代になったとか言われる。 括られる。
子どもがいない状態であるということ。 夫婦だけの家族であるということ。
家族の数だけ、事情も違う。 社会が括るように「そう」であることは、確率的に多いのかもしれない。
しかしながら、何度も流産をしている、何度も相談機関へ足を運んだ、宗教性に委ねている、相談機関へ足を運んだが心が傷ついて今に至る、自然の流れに身を任せている、機能的に課題を抱えている、機能的な課題に折り合いをつけようとしている途上である、「そう」ではない確実な存在である可能性だってあるのだ。 しかも、それらの可能性は、当事者から自虐的に語られることもあるかもしれないけれど、静かに強く「さまざまな可能性」を祈っているものなのではないか。
「さまざまな可能性」は、「作る」ことが結果とは限らない。
一個人、人間としての発達だ。
「作る」「作られる」ことからの「学び」は、一様ではないはずだ。
「子ども」から学ぶことが、「我が子ども」からしか「血縁のある子ども」からしか得られないのだとしたら、その学びに限っては諦めるしかないのかもしれない。
「人様の子どものお世話もいいけれど、自分の子どももいいものですよ」と、言われたことを思い出す。 「言われた」と表現しているからには、ただただ受け身的にわたしは収めていくしかなかった。 今思えば、さほど揺らがずに(怒りや憤りの感情を発動せずに)存在できたことは、我ながら安定している。 自分が「そう」したくはないために、回避のために、その代わりに、「人様の子ども」に関わっているという「枠」のようなものが、その言葉を放った側にあるのだ、ということをわたしは学ばせていただいた。 揺らぎが少なかった理由は、かつて似たような言葉を受けたことがあるからである。 冷静になれば、「狭い」考え方から発言された、ということが分かったのだ。 「狭い」考え方から発言された言葉というのは、刺さりやすいが、広げられるきっかけにもなる。
「教育(保育)を学んできたあなたが子どもを産まないなんて。子どもが嫌いだったなんて。」 とまで、広げられてしまった、「あちら側」の考え方。 たとえば、「その時」の「排卵環境」を詳細に語ることで、この手の「あちら側」には伝わるのかもしれないけれど。
結婚をすれば、必ず、子どもができるという確実性なんてない。 というのは、共通理解されていないのだろうか、と、わたしは驚いたものだった。
出来ることなら、出来たことなら、高卒で仕事をして、22歳くらいで出産をしたかった。 かつて「共通理解」された時代のように。 とはいえ、当時の自分自身をふり返るに、そういった「思考」は、全くなかった。 大学時代でさえ、「わたし」の視点は意識されていなかったのだから。
2年前の「わたし」の意識化。 私が「わたし」と出逢えたこと。 「わたし」の誕生。
「わたし」の存在なくして、「子ども」が持てないのだとしたら、まだまだ、「わたし」は未熟な発達途上なのだから、なに、焦らなくてもよさそうである。 焦ったところで、時の流れというのは平等だ。
あれやこれや、揺れるの上等。 「途上」を流されるままに生きよ。
「途上」の連続、それが、その人の人生と言われているに過ぎない。
「…その子にとって、あなたとの関わりがきっと…」
子どもへの支援でのエピソードを自分自身の近況を伝えることとして、語ることがある。 もちろん、個人情報をぼやかして、限定しないかたちで。 あくまでも、目的は自分自身を知ってもらうために。
しかし、その場にいない対象を相手に、その場にいる対象を知らないという前提で、自分自身を知ってもらおうとするのは、甘いことだと学んだ。 その甘さの学びは、ある違和感がきっかけだ。 違和感は、エピソードが語られたその日から抱えられていたことであるけれども、状況によっては、自然と無意識下に埋没していくということもありうる。
エピソードを語っていたわたしは、自分自身の存在価値についてアピールしようとしていた。 また、対照的に「いかに自分自身の存在価値が揺らいだか」についての、数年前の個人的なエピソードについても吐露していた。
語られる側としては、なんとか存在価値を支持しようと聴くことに集中したいと思ったかも知れない。いや、語られる側の配慮を意識しないでも語ることができたからこそだ。 二人でテーマを決めることなく、お酒の力でもって、漂いながらの語らいだったので、お互いに連想したことを、つらつらと語り繋げていったに過ぎないのだけれど。
違和感として意識されたのは、 「…その子にとって、あなたとの関わりがきっと(何かの意味を与えているはず)…」
この言葉は、働きかけ、仕事っぷりを支持しているような前向きな言葉の種類になるのかな、と思われる。
しかし、ひっかかる違和感。
そこで、自分自身に問いかけてみた。 巡らせた。
わたしは、関わる子どもに対して、関わる意味を覚えていてほしい、意味づけたいと願って、寄り添っているのか?
答えは、NOである。 多くの通行人の一人であることをのぞむ。 存在してもしなくても関係なく、ピンチの時にどこからか現れ、気付くとその姿は確認できない的で、 「さっき、誰かいたよね?」 「え?」 「いや、何でもない。ま、いっか。さぁ、行こう!」 的な感じを自己演出できるものなら、やりたいような、そういう感じの。
他の誰かに助けを求める時の呪文を思い出させるための誘導役、または、呪文が通じるかどうかのお試し役のような感じの。 しかも、呼ばれて淡々と何でも対応するのではなく、気持ちを雰囲気として素直に表現して、人間的であることを伝える役目。呼んだからといって、いつも、どんなときも笑顔で答えるわけではないということをも、具体的な存在感をもって表現する役目。
こう、文章表現にすると、「微妙」さが漂う。 微妙さを伝えるのには、よかったのかもしれない。 しかし、だいたい、微妙さでもって、自分自身を知ってもらうというのは、意味不明だ。
ただ、存在している自分自身に自信があれば、仕事の場面をエピソードでもって自分自身の存在価値をアピールしなくてもいいのだ。
とはいえ、「その時」は、やはり「その時」なのである。 演劇の台本のように、台詞や場面が設定されているわけではないのだ。 そして、気ままな「おしゃべり」を、つらつらと楽しむことが目的だったのだから。
とはいえ、とはいえである。
いつかの「違和感」が、何かのきっかけで、思いがけず、続く言葉を表現を産み出さずにはおれないということもあるのだ。
間もなく、親元を離れ、13年が経過する。 彼らにとっての、内なる対象喪失。 妬んだり、羨んだり、誰かと比べたりして、ひねくれる過程を経つつも、彼ら自身の人生が実り豊かなものでありますように……。
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ここで、繋げられたことがあった。 仕事のこと。 仕事の仕組みのこと。
毎回、任用時に試験をしなければならない、という仕組み。 前年度採用実績者であっても、その都度、試験をするという仕組み。 それが当たり前の考え方として、ちゃんと派遣先や事業主が共通理解されていたこと。
「我慢が実を結んだ」一つの形として、繋げることができた喜び。
市民の声は、子どもと関わって、動揺しつつも受け止めてきたそのエピソードは、伝えられる意味があるんだ。
ちゃんと、喜怒哀楽の気持ちをふるい分けて、切なるメッセージとして受け止めていただけていたことに、感謝したい。
「戻ってきてくださいね」と気持ちをこめて、わたしに伝えてくださっていたこと。 わたしが人目をはばからずに、元気に飛び上がって手を振ったこと。
その気持ちを持ち続けることを続けたい。 その気持ちを持ち続ける、一つの「仕事」の形が、今のところ、パートタイム的な支援者であるに過ぎない。
少しずつ、わたしは守備範囲を広げようとしている。 理論と実践と結びつけながら。
実践は、「仕事」としての施設という場だけではない。 わたし自身が生きてきた、家族関係の歴史、人生としてのあれやこれやの実践。 喜怒哀楽、生々しい歴史。 憎しみの連鎖、世代間伝達もまた、貴重な歴史の実践記録だ。 わたしが抱いてきた繋いできたマイナスのスパイラルをプラスでバランスをとっていくのは、わたしの役目なのだ。
わたし個人から、「引き」の視点で広げることをどうか畏れないでほしい。
燃え尽きた経験をも確実なる歴史、実践記録にできる力が「わたし」にはあるのだから。
2012年06月18日(月) |
「シュウマイ」から広がった物語 |
昨日の出来事から。
大型ショッピングセンターへ買い物に行った。
「あと、1品何か、総菜的なものを食べたいね」ということになった。 最初の候補は、「薩摩揚げ的なもの」だった。 しかし、どうもピンと来なかった。
何気にわたしは 「シュウマイなんてどう?」と思いついて夫に伝えた。
夫は賛同した。
そして、「シュウマイ」探しが始まる。
近い記憶の、少し大きめの4個入りの「イカシュウマイ」が想起された。 後に夫に尋ねると、やはり同じ連想があったらしい。
「そうそう、あのイカシュウマイみたいなものがないかなぁって」
まず、餃子などチルド製品が陳列されているコーナーへ。 次に、魚加工品のコーナーへ。 そして、中華お総菜のコーナーへ。 さらに、冷凍食品のコーナーへ。
かつての記憶の「イカシュウマイ」は、実演販売的な期日限定数量限定的な地域物産展的な企画で扱われていた。タイミングによっては、上記4コーナーの他でのこの手の出逢いもありうる。
結局、わたし達は冷凍食品コーナーで「シュウマイ」を買ったのだった。
「あっちにもあるんじゃない?」という推測のあれやこれや。 具体的行動を起こしつつ、「もっと他のものがあるかもしれない」という期待と結びつけながら、次々に浮上する異なる所在イメージ。 その行動や思考過程における、脳の活動の心地よさ。
「近視眼的」な視点では、食材獲得。 そして、「引き」の視点で繋げる、獲得までの行動や思考の流れ。
ーーーーー
たとえば他者理解や、人間関係構築という次元であっても、「近視眼的」になったり「引き」になったりする過程で繋げられていくことが、おそらく、脳にとっては意味のある活動になっているのだろう。
木を見て森を見ず。
小さいことに心を奪われて、全体を見通さないことのたとえ。(大辞泉)
葉を見て木を見ずは、相似的な感じか。
まぁ、しかしながら、木を見ること、葉を見ることそれ自体はとても意味がある。
「木を見て森を見ず」ではいけない。 なんて、言われているけれど、「いけない」「すべきだ」と焦りすぎるのも疲れる。
言葉の例え、例えば諺的なもの。 それを言葉として文字として表出するのは、結構簡単。 「ありのままがだいじ」とか「みんなちがってみんないい」とか。 でも、その本質というか個人の経験に照らされてから、繋がること、腑に落ちることは、人それぞれだ。
「これがあれの意味することだったのか!」 「このことがあのひとの言っていたことだったのだ!」という、「わたし」の中での感動。
かつてあのひとのかつて言っていたあれ。 今となっては、かつてのあのひとはこちらのことは忘却の彼方であったとしても、「なんで?」という生き方を選んでいたとしても、「わたし」にとっては「かつて」と「今」を繋ぐたしかな物語。 あのひとにとっては、物語の構成要素にはなっていなくても。 いや、そうなっていないほどに、「わたし」が活かされてくる。
見ず知らずの人、ただすれ違った人の放つ言葉をきっかけに、「わたし」の中から何かが引き出されて、何かが繋がっていくのだとしたら、言葉を放った人の好き嫌いさ加減とかそういうのに翻弄されることのなんてちっぽけなこと。
2012年06月13日(水) |
わたしを繋ぐ物語の欠片 |
一ヶ月くらい前に、出逢った本。 発達に関連する本。
それは「愛着」に関して知識を得たいとわたしが思ったからだった。 1冊は古本屋で、1冊はよく行く本屋で検索をかけて入手した。 2冊を続けて読み進めた。
「愛着」に関して知識を得たいと思ったきっかけは、子どもとの出逢いだった。 その子どもは不安定な愛着の課題を抱えている(ように、わたしには映った) その子どもと関わる中で浮き出てきたことをわたしなりに繋げていき、知りたくなった。 公に例えばその子と生活をしている大人や指導者に「こういう課題を抱えています」と説明を聞いたわけではない。
つまりは、わたしの思いこみだ。 気にしない人は気にしないことだってありえる。 ただ、1日を、関わるように指示されたその時間を、ただ一緒に過ごす、パートタイム的な任務をこなす、ただそれだけでも充分な役割、仕事。
しかし、わたしは思い込んだ。 だからといって、変な風にとらわれているという訳ではない。 そして、何かを知りたいという時、チラッとネットで検索して「ふーん」と納得する程度でオチが付く、ということだってありえた。
愛着に関する2冊の本。 それを展開した研究者の言葉が、わたしにとっては分かりやすかった。 まぁ、ただそれだけの理由で、他の本を読んでみたいなぁという気持ちを持っていた。
パートタイムの仕事が一段落したので、通信制大学のテキストでの学習を開始。 このテキストは5月初旬にはたしか、手元に届いていた。 そして、テキストの内容に沿った「課題」と呼ばれる10問程度の択一問題を5月末くらいに解答した。解答はテキストをザッと読んで進めた。 気軽なものである。
そのテキストを二日前に本格的に開いた。 内容はラジオで専門家の音声で補足できる仕組み。
「ワンポイントレッスン」というコーナーがあるということをラジオを聴いてから知った。 テキストをめくれば、巻末にワンポイントレッスンの担当者の紹介が少し載っていた。
わたしは驚いた。 そのレッスンの担当者は、愛着に関する2冊の本を書いた研究者だったのだ。
思いがけない出逢い。 活字から肉声へ。 なんという広がり。 展開。
まるで本が引き寄せたかのような。
その嬉しい驚きの日、別のテキストで 「3歳くらいまでの間に全てのことのひな型を経験する」という言葉が響いた。
響いた頭を持続させているようなところへ、「母親からの排泄の訓練」「子どもの自律的行動を期待し、待ち構えるという態度が母親の愛情」「子どもは自律的に行動することによって母親に「報いることができる」ことを知る」という言葉がわたしのなかで繋げられた。
さらに、実母から 「(赤ちゃんであるわたしへ)授乳中、いつの間にか(母は)寝ていた」というエピソードが思い出された。他にも発達検査で痩せ型(栄養失調)と指摘されたことがあること。
たしかに母親にしてみれば、授乳中の子どもは「お腹いっぱい。もう、要らないよ」なんていう言葉を発しないので、どの程度満たされているのかという判断は難しいのだろうと察する。 定期的な体重計測で発育状態は分かるのだろうけれど、ここでも敏感さ(鈍感さ)というか関心の度合いによって、問題になるかは分からない。 「そういうもの」だという思いこみもあるだろうと察する。
「自分で絵本を開いて読んでいた(様に見えた)から、読み聞かせなんてしていない」というのも、ここ5年くらいの間に実母から聞いた(聞かされた) おそらく、 「大人が幼い子に読み聞かせをするのは、その子が文字が読めないから文字が読める大人として、その子に読んであげているのだ」という考え方なのだと思う。
よって、
「絵本の読み聞かせは、大人から文字が読める大人へだってなされることもあって、大人は癒されるのだ」 と、伝えたら驚くかもしれない。
母が子どもに絵本を読み聞かせるという営みがいつの時代から始まったとかそういうことは分からない。 けれど、少なくとも実母はその母(わたしにとっての祖母)から絵本を読み聞かせてもらった経験は無いのだと察する。
しかし、ここで思い出した。 「子守歌」は、歌ってもらっていたのだ。 おそらく、実母も歌ってもらっていた経験があったのだろうと思われる。
3歳。 わたしは三年保育として3歳で幼稚園に入園。 わたしはしっかり覚えている。 幼稚園に行く理由が分からなかったこと。 そして、嫌だったこと。 でも、だからといって、登園拒否は多分していない。 嫌だなぁと思いながらも通い続けていた。 「自分からしゃべらないねぇ(大人しいねぇ)」と、大人達が話していることも分かっていた。 意味も分かっていた。 でも、しゃべる意味というか目的が分からなかった。 静かに1日が終わるように切に願っていた。 面倒くさい運動会の練習も、早く終わらないかなぁとだるそうに眩しい太陽を見上げていた。 「なんでこんなことをしないといけないんだろう」 「お母さんはわたしのことを家で面倒を見るのが嫌なのかなぁ」 なんてことも思っていた。 二つ下の妹が二年保育という違いも、妹はわたしよりも1年長く母と密な時間を過ごせていることに妬みのような感情を抱いていた。
他の家の「ママ」「お母さん」というのは、隣の芝生は青い的に映るものなのかもしれない。 けれど、わたしは、周りがそう呼んでいる「同じ機能としての存在」になかなか重ならなかった。 それはわたしが名前ではなく、「お姉ちゃん」と呼ばれていたことへの不満に通じるかも知れない。
あれは小学校5,6年生だっただろうか。 積極性を培おうという狙いがあったのだろう。 グループ活動サークルに参加(させられた) そのグループの世話人は大学生だったと記憶している。 「させられた」という受け身から始まったが、わたしにも適応力というのが発達していたらしく、そこそこ、そこでの活動や人間関係を楽しんでいた。 どこか参加しているメンバーは通じるものがあった。 それはもしかすると「参加させられた」感情なのかもしれない。 そこでの活動を通して、わたしは「同じ機能としての存在」問題に折り合いをつけられる見通しを持ったのだ。 そのことは、今でも覚えている。 サークルでのお世話役の大学生を「青年」と呼んでいた。
「お世話をしてくれている青年だと思うことにしよう」と。
それは、今となれば、わたしなりの母親との母子一体的な関係からの分離の瞬間ともいえるかもしれない。
テキストによれば、母親は「世話をする人」(「世話をしてくれる人」)から「愛情を与える人」(「わたしを愛してくれる人」)となる、といったことが書かれてある。
「愛」「愛情」 微妙な表現である。 その行動の表現で、繋がるエピソードは幼少時代の母の日。 カーネーションではなく、菊の花を贈ったという。 さぞかし、母は切なかっただろうと察する。 よりによって、菊の花。 そのエピソードを母が誰かに呆れて話していたような光景も思い出される。 もしかすると、空想かもしれないけれど。 その時のバツの悪さ。 「だって、知らんかったもん!」とか「ごめんね……」も言わなかった。 多分、言えなかった。 でも、その時の母の期待はずれの気持ちはリアルに伝わってきていた。
贈る花の種類にも意味がある、なんていうことを4歳とか5歳とか(もっと上かも知れないけれど)それくらいの子どもが知っているのだろうか?
今となって、おぼろげに思い出されるわたし自身の幼少時代の行動を分析すると感慨深いものがある。
母親の役割とか家族の機能だとか心理だとか、そういった領域をわたしが今となって学んでいるということ。
不安定な愛着や発達の課題を抱える子どもと関わっているということ。
「3歳くらいまでの間に全てのことのひな型を経験する」 たしかに、言葉にすることは難しかったが、様々な気持ちが引き出される「経験」をわたしはしてきた。
2年前の今頃。 こういったことを思い出す度に、わたしは憤りの感情に支配されていた。 母親への憎しみ。 コンプレックス。
世代を超えた「母子一体の段階」以降の発達の歪みを意識化できた、わたしの世代。
母はちゃんと母の父母を赦せていったのだろうと察する。 それは、母の表情を見ていると伝わる。 コンプレックスを解き放つのは自分自身であるということ。 他者と比べているのは、自分自身であることに気づけると、するすると引っかかっていた課題が解決されていく。
63年かかって押し込んできた、守ってきた黒い固まり的マイナス的コンプレックス。 これから63年かけて、プラスに転じていくだけ。 苦しんだ分だけ、ちゃんと返ってくる。
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わたしのコンプレックスは あなたのそれとは違うってこと
それでも ちょうど同じ時に お互いのコンプレックスが解放されて
こんな幸せ
わたしは37年だったから 74歳までは返ってくる喜びに包まれるのかな
もしかすると 75歳から違う感じに発達していくのかもしれない それがどんな発達の形かは分からないけれど
2012年06月11日(月) |
信頼関係や絆の道を通って |
信頼関係や絆の道を通って、伝わるもの。
ふと、そんなテーマが頭の中をグルグル巡っていた。
厳しい現場のピンチヒッター要員的な位置づけで大人にとって気がかりな子ども達に寄り添うということ。 言葉では、たしかに「大人」だって言っていた。 「この先生はあなたが困っているんだなって思って、お手伝いをしてくれているのですよ」と。 子どもからすると、例えばそう言ってくる大人Aへ信頼関係が揺らいでいると、「だから?」と目を吊り上げながら反抗したくもなるものなのかもしれない。
ソワソワする食事の時間。 いろいろな周りの環境が気になって、なかなか席に着かないAさん。 いや、着きたくても着けないAさん。 食事室の職員は、Aさん指導担当のところへAさんを強引に引きずって連れて行く。 食事室での寄り添いも、わたしの任務ではあった。 食事室の職員は、後からこうわたしに言う。 「遠慮されず、Aさんを叱ってください」
この手の「遠慮」の裏に流れる「大人」の気持ちもわたしには分かっている。
「あなたは、この子のお世話をするのが仕事なのでしょう? ほら、こんな時、あなたはこの子をしっかり押さえて、ちゃんと椅子に座らせるように率先して動くのがあなたの仕事でしょう? あなたは、落ち着きがない子を落ち着かせるための人材なのでしょう? どうして、あなたがいるのに、こうやって、わたしがこの子の対応をしないといけないの? 何のためにあなたはそこにいるの?」
出逢って、対面してたかだか1週間やそこらで信頼関係を構築し、かつ、行動修正のための指示や叱責を与えることができるものだと思い込まれているのだろうと察する。 もっと言えば、即時に「大人」が納得する介入ができる訓練や研修を積んでいて、その力量があるから採用された人材だと。
そういう思いこみから始まると、たとえばこういうことも珍しくはない。 出逢って間もないのに、「甘やかせている」という解釈。
厳しい現場では、「いきなり」叱責できるような毅然とした人材が求められているのか?と、思いたくなることもある。 「毅然さ」というのはたしかに大切なことである。 命に関わること、事故に繋がるような事態は、結果として「いきなり」声を荒げて回避に導く、というのは大切なことだ。
第三者からの他者に対する人柄や性格、気質の解釈というのは参考に過ぎない。 学校という社会で考えると、校長と担任とでは子どもの行動、態度にはズレがあって当然だ。 さらに、そこへもって専門的な資格を有する教育者ではない一般人(市民)が参入してくると、さらにズレが出てくるだろう。
「お母さんや先生には話せないけど、このおばちゃんにはどういうわけか話せる」なんていうことは、容易に想像できる。 適度な距離感があるからだろう。 監視ではなく見守られている、という安心感。
わたしは叱責すること、大きな声を出して言い諭すことが苦手である。 相手が複数になるとさらに苦手である。
ただし、「個」と信頼関係を作りながら、「個」に何かを言い諭すことはむしろ自然に力まずに進めて行けそうな確信みたいなものがある。 キッと目を見開いて、しっかりアイコンタクトを取って、指示を伝える。 場合によっては、しっかりしたアイコンタクトに対して、子どもが、うろたえ、逆に反抗してくることもある。 ポジティブな場面、賞賛の声掛けをするという場合、キッと目を見開くというよりは、目を細めて微笑むことが多い。濃厚なアイコンタクトという感覚は意識されないと思われる。
いつも優しい大人が、この場面で、厳しさを表出してきたとき。 初めて怒られたと意識されたとき。 「こっちをジッと見ないでよ!」なんて言って、逃げ場を作ろうとする。 そんなとき、わたしは丁寧に解説する。 「あなたに言葉を伝えるために、伝わっているか知りたいから、わたしはあなたの目を見て話しているんです」 やがて、少しでも行動が修正されたり、正しい行動を起こす姿を認めた時、わたしは心から安心の表情を伝える。
信頼関係や絆の道を作るプロセス、その途上、周りから見ると、わたしたちの関係は依存的であり、「甘え」を与えている光景に見えることだろう。 そして、その光景を批判的に解釈している「大人」というのは、そのプロセスを踏んだ経験がない、理解に苦戦するのだと思う。
幼少時代に何だかの環境の影響で、信頼関係を構築すること、つまり、「信じる」ということに発達的につまずいていると、「甘える」という関係にも歪みが浮き出てくると思われる。 行動的に「甘えている」ように映るが、人見知りを健全に通過できていないゆえに、見知らぬ人であってもとにかく抱きついてしまったり、抱きつきたいくらいの気持ちがあるのにも関わらず、頑なに接触を回避するなど。
「ふつう」の「信じる」という営み、などと書くと思想的な世界に埋まっていきそうだが、わたしの解釈はこうである。 「ふつう」信頼関係や絆の道を作る、という時。 揺らがない安全基地、例えば母親との信頼関係がたしかにあって、それから、いいこと、悪いこと、あれやこれやの探索行動をして安全基地に戻ってこれた小さい時代の経験がたしかな土台になって、「信じる」センサーのようなものが比較的短時間で内側から発動される。 安全基地構築の途上に「甘える」ということが濃厚に実行されている。 そして、やがて、関わりを持とうとする新しい相手の「信じる」センサーとの有意味な駆け引き後、道が出来ていく。その道幅が強固であれば、指示が通りやすくなる。
別の言葉で言うなら、「信じる」センサーを発動させるまでのプロセスを幼少時代にしっかり経験していれば、学習できていれば、「信じる」センサーは短時間で発動することができる。 その学習になんだかのつまずきがあると、「信じる」センサーを発動させるまでのプロセスを何度も何度も人を変えてはその度に再現していくことになる。しかも、発動寸前で関係が分断される、途切れてしまうことの方が多い。
関わろうとする相手に、「いきなり」抱きつく、「いきなり」蹴る、暴言を吐いてみるといった、周りからすると気がかりな行動。行動をする当事者にとっては、そのものが「探索行動」なのだろう。その後の、相手の出方によって、これからの自分の行動を選んでいく感じの。そして、相手の出方を分類して、括って、やがて、折り合いをつけていくのだろう。
信頼関係や絆の道を作るまでに要する時間は人それぞれ。 「困っている」人ほど、丁寧に道を作っていく努力が必要なのだろう。 わたしは道が作られた、整えられた、という手応えを感じられない時、叱責することに苦手意識を持っているのに過ぎないのだろう。 考えてみれば当たり前っぽく思える。 自分自身も、相手も整っている時なんていうタイミングは分かるものではないけれど、少なくとも自分自身が整っていなければ伝わることも伝わらないはずだ。
期限付きパート勤務が無事終わった。 しかし、数ヶ月後に今のところ懲りずに応募するつもりだ。 職場の方とはほんの一部にしか挨拶ができなかった。 しかも、密に関わった方への挨拶がほとんどできなかった。 密に関わった方のクライアントさんからは、ささやかな感謝のメッセージをいただけた。
わたしの業務はおそらく2名程度で2ヶ月程度の交替で進められるのだろうと思う。 ただし、再任であっても毎回試験があるために、今から数ヶ月後の雇用が確定しているというわけでもない。人材を管理する側としても慣れた最小限の人材で回していくことを望むだろう、というのも分かる。
とはいえ、パート勤務。都合のいい体制の職種との出逢いがあれば、同じパート勤務という形態であっても候補から外してもらうことを伝えることもありうることだ。
最長2ヶ月という制約があり、3ヶ月半という期間をA,B,2名で回すというとき、2ヶ月任用がA、1ヶ月半任用がBとなる。当然、賃金制なので収入としての金額も変わってくる。 たとえば任用先が学校という場合で、子どもが登校している間の任務という場合、1学期、2学期、3学期をざっとイメージすると、それぞれの学期の始まりに任用される人材Aが2ヶ月まるまる業務に当たれることになる。3学期なんていうのは短いのでBは2週間程度の任期となる。 そして、同じ局での任用先を希望する場合、任用期間分は空けての再任用となる。 まぁ、でも、長い目で見ると、3学期から新年度への1学期を考えてみると、3学期1月10日〜3月9日のA(2ヶ月)、3月10日〜3月20日のB(11日間)であると、4月10日からの2ヶ月の任用にあたって、Aは対象外となり、2年の期間でほぼ公平な勤務ができるということになる。 そうだ、前年度が、3月が2週間に満たない期間で、なんだか少ないなぁとは思ったが、4月からみっちりと2ヶ月の任用の対象となれたのである。
さて、交替人材であるBさんと先日、研修で5分程度であったが引き継ぎ事項を伝えた。 研修も参加は任意であった中、参加してくださっていたのは助かった。 とはいえ、組織内では、補助的な位置づけである業務、つまり指示を出す正規職員あってのパート人材なのだから、補助的人材同士の引き継ぎというのは実質ないのかもしれない。 まぁ、今回はBさんがまったく新規の人材であるということで、多少経験がある立場としてポイントをつまんでお伝えした。 いろいろと置かれている状況を語っても、やはり、実際に関わってみないことには、先入観が膨らむだけで建設的ではない。
地区の特色などをザッと伝えてから、聞いておきたいことがないかをBさんにインタビューした。 今のわたしとしては、どうにでもなる、折り合いのつけやすい場面だけれど、たしかに、新規の人材らしい気になる場面について素直に語っていただけた。 食事のことと、「やめたいと思ったことはないか」についてだった。 なかなか、ポイントをついている。
わたしは、後者についてこう回答した。 「これがずっと続くと思ったら、勘弁してくれ〜的に嫌になる。けれど、どれとして同じ日はなく、ちゃんと毎日違うことが起こる。これは実際関わってから学んだことです。」
そして、偶然にも研修の講師も締めくくりとして言ってあった「ありがとう」の気持ちを伝えることを大切にする。
Bさんとの引き継ぎ話は、研修開始前にしていたため、私自身が腑に落ちる形で研修の時間を締めくくることができたような感じだった。
Bさんへ「ありがとう」のたとえ話として、こういうエピソードを語った。 掃除時間、子どもがバケツを片付けた姿を見届けた時。 子どもにとっては、係の仕事としてやるべき内容であって、何も感謝されるようなことではないと、無視するかもしれない。けれども、「ありがとう」と言いたくなったのは「こちら側」の自然な気持ち。ちゃんと見てるからね、ということを伝えるために。
希望的観測では、再任は9月。 夏休み期間中に試験があると思われる。
試験と言えば、通信制大学の期末試験がたしか来月末だったような…… 来週から本格的に学習計画を立てて実行していきたい。
2012年06月02日(土) |
「おねがい。わたしをひとりにして」 |
2年生女児Aちゃん。
「行くの行かないの?さっき行かないって言っていたけど、変えてもいいんだよ。 先生たちはこれから行きます。どうしますか。」
「行かない。」
大人はわたし一人が教室に残った。
「せんせいもいけばいいのに。いっていいよ。」
「……。」
「おねがい。わたしをひとりにして」
「分かった。じゃぁ、行くね。」
わたしは少々小走りに指導者のいるところへ向かった。 そして、状況を伝えた。
指導者は少し驚きながらも手立ての引き出しを開けた。 「そういえば、B先生が言ってました。 Aちゃんはクールダウンさせたらいいでしょうって。 クールダウンさせましょう。 先生は廊下あたりにいてください」
わたしは教室に近い階段に腰掛けて待った。
結構短い時間でAちゃんは教室から出てきて、わたしの姿を見つけて、 「行ったんじゃなかったの?!何をしているの?」と興味津々。 別の多動性を引き出してしまったかと少々反省するも、わたしは 「せんせいだって、一人で考えたいこともある。」と言って、座り続けて、腕を組んで下を向いて目をつぶった姿勢を取る。 Aちゃんは 「何を考えているの?」と言ってきたが、そのことに関しては黙秘を貫いた。 やがて、わたしは意を決して、 「よし。先に行っておくね」とAちゃんのいる気配の方向へ言葉を放ちわたしから変化の行動を起こした。
後ろをふり返らないことにエネルギーを注ぐ。
靴箱のある右折。ぐっと、我慢して淡々と外靴を履く。 中庭には他学級の同学年の子達が観察だか水やりだかそういう曖昧な活動をしていた。 自然と紛れることに成功。 他学級の子達からの絶え間ない、些細なわたしへの接触。 わたしは自然にその固まりから抜けて、外側からAちゃんがいる棟の方へ歩みを進めたが、自然にUターン。そして、また活動中の固まりに参加する途中でAちゃんの姿を小さく発見。 上靴で、中庭が見える渡り廊下で偵察するような動き。 わたしはAちゃんに接近するということをせず、やはり自然に接触してくる他学級の子達に淡々と対応。そのうち、Aちゃんが外靴を履いて、足早に担任のいるエリアへ行き、穏やかでありながら少し落ち込んだような表情で担任の近くのコンクリートの縁に座る。
活動は野菜の収穫だった。 野菜泥棒をした記憶の新しいAちゃんだけに、気が引けたのは当然のことだろう。 担任は 「どうぞ。今日は収穫しますって決めた金曜日だから。Aちゃんもどうぞ。 このキュウリはAちゃんが収穫するって約束していましたよね。はい、どうぞ」
Aちゃんは拒否。
でも、結果的には収穫して嬉しそうに下級生に見せていた。 あまりにも嬉しくて、触ってはいけない時間に触り続けるというAちゃんらしい行動もあった。
Aちゃんがよりよく生きていくための、ひとつの自己分析機能の発動の瞬間に立ち会えたようなそんな日だった。
自己分析機能としての、クールダウンという段階。 それは、外から強制的に威圧的にされると反発が増えていくものなのかもしれない。 内側から、当事者自分自身の中から、反発的ではなく、冷静な要求であったとき、発動できるのかもしれない。 そして、「こちら側」も冷静に要求に応じることができれば質的に、時間的に要領よくなっていくものなのかもしれない。
また、少し「引き」で見ると、指導者(担任)の関わり方の質的向上。 まぁ、わたしの立場でこういう解釈をするのは、ちょっぴり生意気なのかもしれないけれど、ひとまずの立場が「引き」の視点が必要そうなので、エピソードを括ろうとするなら、その通過点では解釈することも自然なのかもしれない。
明日は運動会。 きめ細かい支援指示というわけではないけれど、なんとなく見通しが持てそうなイメージが漂っていて、焦りはない。 「その時」焦って、「その時」直感的に行動すればいいはずだ。
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