ふつうっぽい日記
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2011年12月26日(月) |
友達への近況を伝える手紙 |
今年はかつてないくらい早めに年賀状を完成させ、ゆとりをもってポストへ投函。
年賀状欠礼ハガキをいただいた方には、年末年始の隙間時間に寄せる思いなどをお便りしたいなと思っている。
今日一人の友達に手紙を送った。
その友達は、今年の秋、実の弟さんを亡くした。 学生時代の友人で、弟さんの姿を一度見かけたことがある。 弟さんとは8歳の年の差であった。
学生時代、私は演劇のサークルに入っていた。 大学の小さなホールでの公演に彼女のお母様や妹さん、弟さんが足を運んでくださったのである。 そうだ。 その時は、我が両親も来ていたっけ。 いや、母だけだったのかな。
その時の公演のタイトルは何だったのだろう。
彼女が母親で私が子役だったあの芝居だったのか、それとも……。
卒業して、あと数年すると20年も経つことになるのだから、曖昧な記憶であったもおかしくはない。こうであるからこそ、共通する思い出である友との再会というのは記憶が修正される機会にもなるので有意義なのであろう。
31歳で他界された弟さん。 とても若い。 そして、姉としてはその近しい親族の突然の知らせは現実が大きく揺らいだだろうと思われた。 奇しくも、それに近い日、私たち学生時代の友人は集まろうと、それもまだ新婚である彼女の自宅に押し掛けようと企んでいたのだった。
「ごめん。参加できません。」
当たり前である。
でも、この返事をするのがいっぱいいっぱいであることは少ない行間から伝わった。 彼女は集まりの会場が自宅であったことや、少々遠方から参加する数人の友人を自宅に宿泊してもらう準備もしていたため、非常に恐縮していた。 私と彼女の自宅は同じ区内であるということもあり、私がとりまとめ役のような立場になった。 私から知らされる友人からは、「どなたが亡くなったのだろう。近しい人ならば、お参りに行きたい」という反応もあったが、その時の私には、ただ待つということしか出来なかった。
もしかすると、ご両親だとか祖父母という関係にあれば、少々冷静にそのことを淡々とでも伝えることを彼女から出来たのかもしれない。
彼女の気持ちをただただ配慮することしか出来ず、「その先」について尋ねることは私には出来なかった。
その時は。
例えば、大学に進学した理由とか、家族のこととか、何となくは分かっていても、本当にそれは何となくであり詳しいことは知らなかったりするものだと思った。 私自身、自分の家族のことや家族への思いを友人に自分の心の内を吐露することはあるときまでほとんどなかった。 その理由は、自分自身と対話する意味、その意義を知らなかったからだ。
今でこそ、「自分自身を知る」ために日々行動しているとか公言しているけれども、その視点さえも持っていなかった。 その視点「自分自身を知る」ということを持てるようになったのは、「きっかけ」があったからである。 その「きっかけ」に関しては、言葉をかえ表現をかえ文章にして物語ってきている。
物語るということの意味も、学ぶことになった。
私は彼女への手紙にこのようなことを書いた。
「自分っぽさ+α(アルファ「何か」)」で、なんとか「自分」をやっているのだ、と。 前日の心当たりのある自分、7割くらいで統一感を持たせて繋げて過ごしているのだ、と。 よって、9割くらい(とても自己中心的)であったり、3割くらい(自分が離れている)であったりすることは、ありうることなのだ、と。
一日一日、同じようなことをやっていても、どれとして同じ一日なんていうものはなく、気持ちに流れる思い、想い、考えも変わるものだ、と。
そして、あるとき、突然、とりあえず閉めていたはずの「蓋」が思いがけず開いてしまうということもあって、その時は、その「蓋」を閉めるための物語を自分で作っていいのだ、とも。
もしも、また違う場面で似たような状況になったら、私は、気持ちを配慮することをして、「その先」について尋ねることをやりたいと思う。「その先」での「その先」のその人の近くに寄り添う行動を起こしたい。
今回、「その先」について尋ねることができなかったことについて後悔はしない。
ーー
イトコのお父さんが亡くなったとき。 私は遠方に住んでいる、という理由で葬儀には参列しなかった。 我が両親は、「あんたに任せる」と伝えてきたが、私は何度も些細なことで両親に頼る言葉を伝えた。結局、電報を送っただけだったが、それだけでも、どうしたらいいのかの戸惑いがあった。 それほどに、私にとって、誰かを弔うこと、誰かの葬儀に参加する、ということは遠いことだった。
両親としては「常識」だと思っているだろう。
昔の人は、大家族の中では、そういった「常識」を具体的な体験でもって取り込んでいけたのだと思う。
今更だが、遠方に住んでいるといっても、同じ日本である。 新幹線で3、4時間で移動できる距離だった。
私は「世間」に対して甘かったのである。
ーーーー
ルビー婚式の両親。 何ができるだろう。 何をしたいだろう。
2011年12月20日(火) |
「自立」に寄り添えるのは誰か |
たまたまある現場で聞かされたエピソード。 本来ならば支援学校就学対象である6年生のA君。 4年生まで何回も何回も転校を繰り返した。 特別扱いされることを嫌い気がかりな行動を度々起こしたという。 子どもの足では40分くらいかかるであろう道のりを親の目の隙を狙って家を出て歩き保護されたこと。
このA君を受け入れる学校のことを想像してみる。 そういった経緯を厳しく受け止めるならば、監禁すること、外に出ないように自由を奪うような手立てを試行錯誤したかもしれない。
別の現場での話。 支援学校で開催されたボランティア養成研修。 ある参加者の言葉が印象的だった。
「どうして一人で登校させるんだろう。 親は心配じゃないのかしら。 だって、JRに乗って、そしてバスに乗り換えるんでしょう? その間に、何かあったらって、私だったら心配でたまらない。」
A君に視点を戻す。 徒歩40分の道のり。 その先には彼の自宅以外の居場所である、例えば雇用契約を結んである場があるとする。 それは「自立」の姿のはずである。 そして、「規則的な毎日の一コマ」になっていくかもしれない。
「こちら側」から頼んでもないのに、指示してもいないのに、40分もの道のりを一人で移動した経験。
また別の視点。 時間がかかるけれど頑張ればできないということはない生活的動作。 例えば1時間という時間の枠。 ある生活動作に一人なら1時間、手伝ってもらうと5分だとする。 手伝ってもらうと残り55分という時間ができる。 その55分を誰かのために使うこともできる。
JRとバスの乗り換えの通学。 この通学が出来るようになるまでの道のりは長かったはずである。 何度も何度も親は子どもの後ろ姿を「尾行」して、少しずつ安心のようなものを積み重ねていっただろう。それでも完全に心配は取り除けない。 一大決心をして、「尾行」をしない初めての一日を、緊張の心配でいっぱいの一日を過ごす。 こういった「自立」への試行錯誤を、一教員が実践したというエピソードも聞いたことがある。
そして、これは私の体験から。 手先の不器用な少年B君。 また、B君は突飛な行動を起こしてしまう傾向があるため褒められる機会が少なかった。 例えばプリントをファイルに綴るという作業。 支援者である私はその作業を手助けした。 なんとB君は前の席で作業が緩やかなCさんの手助けを自発的に行ったのである。 プリントを揃えるという、ただそれだけである。 支援を受けていたB君が、今度はCさんを支援したのである。
私は学んだ。 「自立」に寄り添えるのは誰か。
支援をすることは何も特別な資格を必要とはしない。 B君の様に、自分に不器用なところや、苦手なことがあることを知っていて、周りの人に頼ることができて、周りの人が困っていることが分かること。
かつて排除されていた人が、別の排除されている人の存在に気づき、共感的なアプローチで信頼関係を構築していく、そういう姿も子どもたちの社会で見られる。 共感的なアプローチの基本は、「笑顔を引き出すこと」。 これも、子どもたちの様子から学んだ。
子どもは大人とは違い、お金を使わずに「笑顔を引き出すこと」をいとも簡単に成功させる。
年末年始のこの時期。 クリスマスプレゼントやお年玉。
大人は子どもから試されているはずである。 子どもは大人を試しているのである。
再びA君を想う。 彼が豊かな広大な自然の中の一本道を生き生きとした瞳で、手を広げて前へただただ走っていく姿が浮かぶ。
2011年12月19日(月) |
仕組みは少しずつ見直されている |
特別支援教育支援員制度がこちらの自治体で導入されたのは平成20年度。 よって、来年4月からの年度では5年目となる。
まだ、2年目、3年目あたりは「初の試み」なんて言っていた。
同じ任務内容のボランティア部門は平成19年度から始まった。
私はそのボランティア創設時から「特別支援教育」領域に関わっている。
当初をしみじみと思い出してみる。
派遣校を選ぶ時の迷い。 そして、思いがけない縁の接近。
ーーー
制度として二学期9月からの介入だった初年度。 6月になり、5月になり、そして、希望的観測では来年度は4月から支援員の配置が検討されているとか。
5月に運動会が予定されている学校も多い。
5月からの支援では遅すぎるという意見を事業主に現場職員から届けたということをチラッと聞く機会があって、ちゃんと現場も前向きに支援の仕組みのことを考えているのだなと思った。 まぁ、当たり前なのかもしれないけれど、そういった現場職員の支援の仕組みに対する思いや考えを聞く機会があまりないからこそなのである。
さらに聞き耳を立てていると、教員の非常勤職員の配置関連も方針が変わったとか。 まぁ、たかだか支援員という立場の私は、そういった教職員の人事や配置条件のようなことはまったく分からない。
思い返せば、「TT」(ティーティー)なんて言って、担任教員とチームを組んで指導にあたる担任以外の教員が3名ほどいたような気がするが、今はどうだろう。
担任以外といえば、理科の専科教員、日本語指導教員、新任指導教員、指導方法改善教員。(正式な名称ではないかもしれない)
TTが組み込まれていた指導体制では、低学年、中学年、高学年に1名ずつ計3名分けられていた。 よって、担任の出張や欠勤の時はそのTTが指導に入っていた。
今の体制では、そういった学年で共通理解された支援指導者というものは特に設定されていないからか、教務や教頭が自習監督として掛け持ちする姿も珍しくない。 新任指導教員は、在籍校以外の新任の指導にも関わっているので、定位置が定まりにくい中途半端な状況だというのも聞いたことがある。
ーー
希望的観測では私が今、配属されている学校、同じ現場で4月からの任用を予定している。
しかしながら、予算の兼ね合いがあり、支援員配置希望を出しても受理されるとは限らない。 私が関わっている現場は事業開始当初から配置が認められている学校であり、逆に当初から配置希望を出しているのにも関わらず、支援を受けられない状況である現場もあると思われる。
支援員同士の交流は、事業主主催の研修の場に限られる。 しかも、実践報告書の共有などというものもないため、各現場によって「使われ方」には格差があることを想像するのは易い。
例えば、「報告書」の有無。 私が関わっている現場でも、当初は存在しなかった。 徐々に形になっていったような感じだった。 しかしながら、形になって軌道にのってきたと思ったところで、管理職が替わり、方針も変わって行くのが実態。 まぁ、一つの考えでは、「因習にとらわれない」という視点で体制自体の成長が実現していくというのも分かることではある。
当初からあったのは、職員室内での居場所である。 共有ながらも机が準備された。 その一つの引き出しに荷物なども入れされていただけた。 翌年からロッカーも1個与えられた。 名札も当初は無かったが、これは早いうちに希望を伝え、すぐに作ってもらえた。 名札を付けるのは今ではセキュリティ上、管理職も守っているはずであるが、所属長あたりになると付けなくても別にいいような気もしてくるらしく、実際、このつぶやきを近くで聞いた。
名札を付けることで、コミュニケーションツールとして活かせた手応えをその所属長に伝えるということも、もちろん実施した。
エピソードを記録すること、レポートを書くことによって、子どもの様子を第三者に伝えることができる。 その活動自体を「負担」だとする、考え方の所属長の声も聞いたことがある。 「そこまでしなくてもいい」 たしかに、教育の専門家である教員であれば必要な工程だろう。 その割に、「本当に、A君は変わってきているのかな?(支援の効果なんてあるものか)」ということを定期的に、伝えてきたものである。 少しずつでも変わってきている様子は記録を見れば伝わったであろうことであろうと思った。 幸い、当時の配属学級の担任は私の一方的な、自己満足ともいえるエッセー風味の濃い日誌を読んでくださっていた。
まぁ、当時の所属長には何かと共通理解にもっていくのが少々厳しい状況であったが、変化が行動で伝わることよりも大きいものはない、分かりやすいものはない、ということを学ぶきっかけに繋がっていった。
「変わってきているって!」 という所属長からの声を聞いた時は、素直に嬉しかったものだ。 疑って様子を見続けることがあってこその「変化」。
今の現場は3行程度といえども報告書を記録することが活動に組み込まれている。 いかにその行間でエピソードを伝えることができるのかが、私にとっての今後の学びのテーマの一つである。
2011年12月14日(水) |
「あなたにとっての仕事場とは」 |
先日、いただいたメッセージで「本と対話をしている」というエピソードがあった。 本に書いてある言葉。
こういう感覚、センスって好きだなと思う。
そして、「対話をしてください」的な助言も自然に受け入れられる。
ーーー
今日、施設内にある図書室に行った。 もちろん、支援の一部である。 暖房設備がなくて寒かった。 にもかかわらず、子どもたちはとても静かにその場にいた。 入ってすぐの絵本中心のスペースと少し奥に進んだところに高学年向きの本があり、それぞれのスペースにテーブルと椅子がある。 椅子が動くたびに、キーッと音が鳴る。 これは、なんだかの配慮はできそうだなと時折、その音にそういった想像をしながら静かに反応していた。
指導者は絵本スペースの椅子に着席。 多くの子どもらは奥の高学年向きのスペースに着席。 私は最初、絵本スペースにいたが、対象児童が絵本スペースにおり、ためしに私が奥に移動すればその子も移動してくるのかと動いてみた。 15分後くらいに移動してきた。 私も静かに適当に選んだ本を取り、着席して読み進めるということをやった。
その本に書かれてあった言葉が、いくつか今よぎる。
感動する景色を誰かに伝える時、どうやって伝えるのがいいのか。 いくつか自問自答するような流れで、「ある人によると」的な言葉で、伝えたいことは、「具体的な行動」で伝わるという。 ここでの「行動」とは「変化」を伴ったものである。
例えば、自然の雄大さに感動したとする。 写真を見せたり、その情景を語ってもなかなか伝えたいことは伝わりにくい。 その感動経験によって、自分の行動を変えるのだ、と。 その姿から他者は「何か」を必ず感じ取るのだ、と。
他者の気持ちや、他者がどれくらい「知っているか」「分かっているか」なんていうのは分かるものではない。
自分自身についても、その所有者、主体である「自分」は自分自身のことを「知っているか」「分かっているか」というと、「絶対」なんてないのである。
ーーーーーー
あなたにとっての仕事場とは、どういう場所か。
ある気楽な占い的な診断的なコメントで「自己表現の場所」という言葉があった。
しっくりくるような、センスのいい言葉だなと私は感じた。
たしかに、わたしにとっての仕事場とは自己表現の場所だ、といえそうだ。 人間関係という自己表現の営み。 時間の流れ。
なつかしい景色を見て、想起する想い出。 そこにたしかに流れた時間。
そこにたしかに、「あなた」と「わたし」がいた。
「たしかに大変な現場だった」だとか「あれは厄介なケースだった」とか、もうすでに確実な「過去」となったエピソードにもかかわらず、それも「こちら側」と、「あちら側」という別の立場での関わりであったのにもかかわらず、「大変でした」「厄介だった」と共有して流れた貴重な時間。
あなたにとっての仕事場とはどんな場所だろうか。
ーーー
今日もあの子やあの子の存在に励まされた。 これからは、あの子の前でも躊躇わず顔を上げて笑顔で穏やかな通行人であり続けたい。
2011年12月13日(火) |
「待つ」ことの大切さ |
「先生と、朝、話をする時間を取るようにしようね」と、指導者が提案した。 素晴らしい提案だと思った。 そのとき、その言葉を聞いていた子どもは泣いていた。 かなり切実だったと思われる。
「もう、ボク、破れたって平気って感じ!」 図工の作業である。 指導者から認められたこと、自分の気持ちが寄り添われたことへの満足から、こう少し大きな声でつぶやいたのを私はたしかに聞いた。
それは、昨日から始められたはずである。 私は昨日は現場には入らなかった。
今日現場に入ったわけだけれど、「朝もちゃんと話を聞くからって言っているのに……」との、つぶやきが何気に耳に入る。 声の主は、先日の頼もしい指導者だった。
結果を急いでいるなと思った。 まだ、その取り組みは始まったばかりのはずである。 であるのに、「こちら側」の要求が満たされないことに立ち止まりたくなったのだろう。
毎日、子どもたちは成長している。 一日、一日、違う。
それはある面から、ある点から見ると「ワガママ」に映ることもたしかにありえるかもしれない。
「ワガママばかりにつきあってはいられない」
いろんな「ワガママ」を束ねたくなる。 それも分かる。
何かしらの共通してそうな要素を括りたくなる。 分類したくなる。 括ってから、ある一つの方法でもって、エイッと状況を変えたいような気持ちにもなる。 これも分かる。
落ち着きのない子どもたち、いや、大人であっても、そういった傾向がある場合は、とにかく違った刺激を求めているのだ。 したがって、飽きっぽい。 どんどん注意が動く、関心の対象が動く。 その動きを、支える人間はどうにか自分の楽に理解できる方法で、エネルギーを消耗しない方法で収められないかと試行錯誤してしまう。 やっと、辻褄があうような方法でもって行動に繋がったとき、やり甲斐のようなものを感じる。 そして、その方法ができれば長く続けばいいなと願ってしまう。
ツボを見つけたような気持ちになる。
しかし、やはり、どんどん注意が動く、関心の対象が動くという点では彼らの中では一貫性があることに気づかされるのだ。
その繰り返しと言ってしまえば、単調っぽいが、実際は違う。
関わりながら、支える人間の考え方や気持ちも「発達」しているのだ。 広がっているのだ。 その広がりが、心地よいものに換わっていくと、あれやこれやの試行錯誤も心地よくなる。 愛すべき、試行錯誤の対象になっていく。
「待つ」ことは大切だ。 一日やそこらで、芽が出るとは限らない。 丁寧に関われば、先の成長、例え緩やかで見通しがなかなか持ちにくい状態であっても、楽しみになるはずである。
そう、期待して、明日を迎えたい。
2011年12月12日(月) |
寒さによって抵抗力が落ちる |
昨日、夫にしみじみと私は言った。 「寒さで風邪をひくんだね」
すると、夫は「寒さによって抵抗力が落ちるんだって」と説明してくれた。
そんなの当たり前だろう、とも言えるかもしれない。 しかし、この、ただ風邪を引く日常っぽいことごときに、新鮮に立ち止まっている私を私は歓迎している。
今朝、6時頃、7度6分近く発熱した。 昨日の夕方からちょっと怪しげではあった。 早めに就寝したが、1時間おきに目が覚めるといった良質な睡眠が取れない状況であり、しかしながら風邪っぽいだるさできついという感じでもなかった。逆にそれが確かな不調を実感せずにおれないという感覚だった。 その判断の一つとして体温計の数値がある。 7時頃、7度3分だった。 少々だるかった。
月曜日は誰だってだるいものだ。 なんて言い聞かせて、実はちょっと無理して自分を励まそうと頑張っていた。 しかし、「無理」は素直な反応を起こしてくるものである。
次第になんだかゾクゾクしてきて寒気を感じるようになってきた。
検温すると6度5分だった。
「なんだ、気のせいか」と言い聞かせて少しやるべきことを進めた。 しかし、やはりだるい。
再び検温すると7度3分だった。
夫は「今日は休め!」と言った。 「施設の子供たちもいるのだから無理していく必要はないんだから。」
私はこの2ヶ月に満たない間にすでに2回欠勤している。 1回目も風邪だった。(月曜日) 2回目は夫の急病である。(金曜日) そして、今日が3回目。(月曜日)
なんだか申し訳ないような気がしていた。 しかも「月曜日」。
施設に連絡をするのも申し訳ない気持ちが漂う。
おそらく、この「申し訳なさ」が勝手に暴走すると「身体」の他にも「こころ」にも変調をきたしていくのだろうな、と思った。
支援の現場では指導者が1週間重い風邪を引いていたっけ。 一日終日休む、ということはなかったが、見た目にもきつそうであり、強制的に下校することを余儀なくされていたような感じだった。 そういう姿を見たからこそ、ここは同じように強制的に下校するように配慮されるような状況に追い込むことはしなくていいのだ、と、ようやく自分の中に素直に落とし込むことができた。
他の人にどう見られるか、休んでばかりいる人と思われたくない、といった気持ち。
しかし、である。 たかだか3日の欠勤である。 しかも、無断欠勤ではなく、連絡をしているのだし、ちまたに風邪は流行しているのだから、十分にありうることである。
ちっぽけな事なのに、別な誰かの状況と比較してそうであることを過大に受け止め、自分を埋没させていく必要なんてないのだ。
そして、私の中では収穫があった。 今朝、7度5分以上の発熱でありながら、4時間の良質な睡眠によって解熱剤に頼ることなく6度5分にまで自然に安定させることができている。 今朝のだるさはまったくない。 食欲はあり、腸の運動も正常である。 6時間程度早く回復されていれば出勤できていたのだ。 6時間で安定した体調にコントロールできたと思えば上等だ。
ただ、ちょっと、本当に申し訳なかったのは、欠勤の連絡の時に4分ほど発熱の数値を上積みさせて伝えてしまったこと。 7度6分と8度では、ダメージが違ってくる。
まぁ、厳密には数値の正当性は分からないものだ。 目安に過ぎない。
明日の朝も安定した体調であることを期待して、今日は感謝して過ごす。
1週間前までは予防といってマスクをしていたのに、ついつい油断をしてそれをしなかったので隙ができたのだろう。 「月曜日だから申し訳ない」という偏った思い込みを砕く「練習」の日であったのだろう。
2011年12月09日(金) |
騒がしい教室からの学び |
まぁ、教室というのは結構、なんやかんやと騒がしく(うるさく)なるものであります。
総じて、賑やかな雰囲気であることが多いのです。 いわゆる「学級崩壊」に近いような環境に措置的な役割で関わった(居続けた)こともある私なのです。 今の現場では、そのことを知っている職員もいます。
おそらく、昨年度に異動されてこられた職員だと思われます。
「昨日、うるさかったですよね。ボクだったら耐えられないですよ。よく、うるさい中にいることができますよね。」 なんて、「褒め」(?)の言葉を私はいただきましてね 担任先生は、キーッとなってしまって出てしまったのですね。
こういう場面。 私自身の義務教育時代、あったよなぁ〜と、ぼけーっと思い出しつつ、教室の後方に立ちながら時折、目を閉じて私はその場に居続ける、ということをやっていました。
一つの見方では、私も担任先生にならってその場から退出して、危機感を体験させ、どうしたらいいのか子どもたちだけで考えさせる、というのも「策」としては必要なのだろうな、とは思うのです。
ただ、空気のようにそこに居続けて、その場が収まるのを待つ人という存在がいてもいいはずだ、と私は考えるのですね。
巻き込まれたくない状況には、時として「君子危うきに近づかず」ではないですが、自分から距離を置く、ということも必要ではあります。 しかしながら、たかが、うるさく、騒がしいごときでその場から離れるという考えは私にはなかったんですね。 1時間も2時間も担任先生不在のまま騒ぎ続けるということはないだろう、と、のんびり考えているのです。
結局、どのような形でその場が収まったかというと、隣の教室の指導者がやってきて、「騒がしくて授業ができません」と言ってこられて、その指導者のもと、考えさせるという流れになったんですね。
まぁ、なんというか、純粋な不器用さんというか。 「静かにしていれば先生が戻ってくるかもしれないよ!」なんて声をかけあって、「静かにしてください」とか「○○!静かにしろ!」とか注意をする声で騒がしくなる。 廊下にいた担任は「静かにしても、先生は戻りませんよ。」と伝えます。
担任先生が教室を出るにいたったきっかけは、D君がふざける行動をして廊下に出されたのですが、納得いかなかったらしく、一度廊下に出ながらもすぐに戻ってきて、「ボクじゃなくて、先生が教室から出て行けばいい!」などと言ってしまったんですね。 担任先生としては、廊下に出されたD君の気持ちを考えてほしい気持ちがありました。 「静かにしていれば先生が戻ってくるかもしれないよ!」という子どもたちの提案の前には、こういうことを子どもたちはやったんです。
それはというと、なんとD君を寄ってたかって廊下に出した(排除した)のですね。
「排除すればいいっていう問題じゃないだろう」となり、考えさせるのです。
注意されて廊下に出させないために、クラスメイトとしてできることがあるでしょう、という思い。
愛すべき、純粋な不器用さんたちは、担任先生不在の中、考えるために方法を話し合うということをし始めたんですね。 それも方法というのは、「D君にどうやって思いを伝えるか」。 その場にD君もいるのです。 「グループで話し合って代表が言う」ということに。 漂う空気としての私は、 「ああ……こうなってしまうのか……」と耳を澄ましていました。
こうではないのですね。 「どうする?先生に悪いことしちゃったよね。先生、きっと悲しい気持ちだよね。先生に何て謝る?どうやって謝る?」 途中、「騒がしくて授業ができません」と言ってこられた指導者も、そのために考える時間を促していたと思われるのですが、あまりにも行動を起こさない(廊下にいる担任先生にアプローチしない)ことに、状況を確認せずにおられなくなった隣の指導者。 「司会者を決めて、さっさと話し合う!」と指示するものの、これがまた、立候補する子たちは、何かと気がかりな子ばかりで、「ちゃんと、話をまとめられる人じゃないとダメだ!」と喝。
そこへもって、グループ別に話し合っての発表のような形になり……。
D君が謝りに行くこと、D君が一人じゃ嫌だというのなら、一緒に行くよ、という流れでD君一人で謝りに。
無事に担任先生は戻ってきて、「今、D君は隣の先生に代表してお礼を言いに行ってもらっています。あなたたちは、お世話になったんでしょう?D君が戻ってきたらどうするの?」と促し、「ありがとう」のざわめき。
ーーー 通常学級での発達障害児への支援という支援員の「現場」。
めくるめく、人間模様が繰り広げられるのです。
そして、もう一つ。 学校で何だかの問題行動を子どもが起こしたとき。 当然ながら、学校で、がっつりと叱られます。 そして、「連絡帳」に学校(担任)より、家庭での指導にも繋げる報告がされることもありえます。 多くの子どもが、学校での指導(叱られること)によって反省ができると私は考えます。
家庭での「指導」。 その「指導」は、学校と同じような視点で叱ることを求めているのではないとも考えます。 学校での「指導」を受けた後、家庭での子どもたちの行動に配慮ください、見守ってやってください、ということを伝えたいのだろうと。 家庭という別の環境での行動で褒めるべき行動が見られたら、ぜひ、褒めてやってください、ということも。 「悪いことしちゃった……お母ちゃんに怒られる……」と自分を責めながら、子どもは帰宅することでしょう。 少し、前向きになれた時、せめて家庭では、いいことをしよう、お母さんを怒らせないようにしようといつもしないことに頑張るということもありえるでしょう。 いつも、注意されないとしないのに、自分から進んで行動を起こしたり、うるさく動き回るところが静かだったり。
E君は「連絡帳」に書かれた内容(学校側としては一つのエピソード報告の意味のもの)でお家の人から叱られて、その思いを抱えたまま登校していました。 そのことが分かったのは3時間目の途中です。 気分の波はある子ではあったのですが、机にうつ伏せて泣いたのですね。 担任先生の寄り添いによって、そういった状況が浮き出てきたんです。 その状況(家庭での様子)が浮き出る前は、同じグループの子を責める言葉が多かったのです。 話を聞いて行くうちに、E君は心を開いて語ってきたのです。 「つらかったね。朝からずっと言えずにいたんだよね。今の気持ちはどう?すっきりした?」とE君に声かけをすると頷きました。 「来週から、朝、先生とゆっくり話をする時間を取った方がいいみたいだね。 朝、すっきりした気持ちになれたら、優しい気持ちでお友達とも関わることもできるかもしれないもんね?連絡帳には、昨日のことは学校でちゃんと解決していますから大丈夫ですって書いておくからね。」という言葉にもE君は頷きました。
担任先生はE君の情緒的な波に「家で何かがあっているのかもしれない」と言ってきたことがありました。でも、なかなか、家庭のことゆえに探ることもしにくい、と、揺れているような表情でもありました。
そういった前置きのようなことが私には分かっていた分、担任先生とE君が自然なかたちで繋がる近い位置にいれたことに感謝したのでした。
担任先生は傾きがちな学級を立て直すことに必死なところがありました。 E君に寄り添いたくてもできないつらさがありました。 しかし、やはり、基本は一個人。
支援する人(例えば担任)を支援する人、それが支援員なのかなと思いました。
2011年12月03日(土) |
「増員」計画に寄せる思い |
例えば「支援員を増員する計画」と聞くと、「ああ、予算が充てられたのだな」と嬉しく思えてくる……。 でも、ただ人をつければそれで、ただ人の配置が進めば、その事業は向上、成功していっているのかというと、非常に疑問だ。
まだ、募集定員30名とか40名だったころ。 希望する施設が60以上あるという実態を知ると、「とにかく定員を増やしてほしい」と単純に思いたくなった。
でも、である。 配置されている一個人が、本来の目的で任務にあたっていると自覚できているのか、目的を持てて機能しているのかというのが見えない。
「本来の流れであれば、校内委員会から具体策が下りてきて、そこで初めて支援員は動くものである」といったことを事業主から聞いた。
本来の流れは、具体策まで練り上げることができている施設が、人材を任用できるということになるのかな、と思われる。
思われる。
思われる……。
「校内委員会」という存在すら、見えない状況。
「子どもに約束させてみてはいかがですか?」と、ある日の「報告書」に管理職からコメントがついた。 これが、「具体策」なのか? であるとすると、支援員とのやりとりで「具体策」とやらが打ち出されるということになる。
また、支援員の辞令を受けたとき、所属長から「どうかお力をお貸しください」的な言葉をかけられた。
まぁ、「支援する」ということを「力をお貸しする」と置き換えたとして、その方向性、計画は、組織で練られているものと思うのは間違った思い込みではないと考える。
しかし、なんだか、「この状況です。どうか、よろしくお願いします。」と委託されているような感じが否めないということが、意識化されてきてしまった。
例えば「巡回相談」という専門家で構成されたチームの介入であれば、それが「ふつう」だと想像する。
一度実施された事業主主催による「研修」では、各支援員の困っていること等を発言する機会があった。事業主によると、その発言内容は「本来の流れであれば、校内委員会から具体策が下りてきて、そこで初めて支援員は動くものである」ので、支援員が抱える課題ではない、との返答だった。
この事業としては4年目である。 毎年、支援員は「増員」されている。 配置の数字だけみれば、事業が順調に進められている感覚を持ってしまう。
「人材育成」の内容までは、数字からは見えない。
そして、人材を採用して受け入れるのは事業主ではなく、施設毎である。
自治体によっては、規定の事前「研修」を受講して修了した者が人材として登録でき、現場に入ってからのアフターフォローも「研修」に位置づけられているという「仕組み」がある。
私が登録をしている自治体の「仕組み」には、事前研修もアプターフォロー研修というようなものはいっさい無い。
施設の裁量と言えば、「上」からの押しつけがなく、自由度が高いともいえるが、人材として動く側は施設に依存するしかないようなところもある。
支援が必要な対象が「発達障害のある児童生徒」に限定されているので、ある程度のその領域の知識があること、知識を向上させていこうとする態度は前提にはなっているとは思う。
しかし、どういう障害なのかという具体的なものは語られない。 たしかに、診断名に依存して「○○障害のAさん」という枠を設けられて関わられるのは、対応が狭くなるような気もする。 「○○障害という特性をもつAさん」「○○障害といってもそれぞれ違う」障害の有無を超えて、「人はそれぞれ違うのだ」。どれも、意味は分かる。
でも、対象児童としてその対象のために機能する「外部からの人材」を新たに位置づける、配置するのであるから理由の共通理解は最低限だろうと思うのである。 しかしながら、実際、「外部からの人材」として現場に入ると、対象児童との距離感に戸惑う。 それ以前に、その施設に行くこと、それだけでも違和感を通過させなければならないのだ。 その施設の大人たち。施設の職員の「外部からの人材」への認知、認識、存在理由のようなものの理解。 一個人との人間関係という意味ではなく、その組織でどういった位置づけで機能する人材なのか、ということ。
こう、強引に考えたこともあった。 「外部からの人材」それは、「愛のある通行人」。 通行人は主張はしない。 ただ、通り過ぎるだけである。 「愛のある」つまり、「特別な思いをこめて」。
こう、考えたこともあった。 施設には多くの大人がいる。 それぞれが「外部からの人材」が関わる対象児童生徒へ「愛のある通行人」である意識を持てば、「外部からの人材」の必要はないのではないか。
例えば、休み時間、掃除時間、給食時間。 多くの大人が、「愛のある通行人」として対象児童生徒へ関わる。 対象児童生徒の持つ、自尊心は向上されていくだろう。
ただ、「Aさん、おはよう」と担任以外の大人から声をかけられる、ただそれだけで、自分の存在価値の揺らぎは減っていくだろう。
そう、私自身、「外部からの人材」として、「支援員さん、おはようございます」、「いつも、子どもたちの見守り、ありがとうございます」とただ声をかけていただくことで幸せなように。
「○○障害という特性をもつAさん」とコミュニケーションを取るためには、特別な資格はいらない。
ただ、「コミュニケーションを取る」。 ただ、これだけのことではある。 しかし、これがなかなか、苦悩するのが「こちら側」なのである。 「やればできるじゃない」 「どうしてそんなこと(暴言暴力)をするの」 と、言いたくなる感情を刺激される。 通過する。
そう、通過させるものなのである。 ただ、通過させていけばいいのである。 でも、「こちら側」としては自分の刺激された感情のやり場に、処理に、苦戦する。 感情に任せて「怒り」「叱り」したとしても、「あちら側」は、その感情を抱えてはくれない。 通過させてはくれない。 まるでその感情が存在しないかのように、ただただ透明な輪っかのようにその場に漂うだけで、「こちら側」に戻ってきている……ような気がしてくる。
そうこうした、あれやこれやの「期間」。 それも限定された「期間」。
その限られた「期間」で何かを変えたくなるのも、「外部からの人材」が通過させる思いなのではないかと思う。
私も、そうだった。 継続支援にこだわり、施設を選べるという立場にありながら、同じ施設を選び続け、可能ならば対象児童生徒も限定して継続して支援したいと強く思っていた。 担任は変わる。 でも、寄り添う支援者は変わらないのならば、対象児童生徒は落ち着くのではないか、という根拠のない確信のようなものがあった。
実際は、支援員がつく対象児童生徒は一名なのである。 支援員配置を検討する時期について、私は詳細を知り得ないが年度末、3月に来年度の支援体制の大枠が決まるとかいう話をなんとなく聞いたこともある。でも、定かではない。 支援員の募集は5月頃である。
私は可能な限り、同じ施設に応募し続けようと思い、昨年を除き、実際そのようにしてきた。 実際、対象児童生徒は毎回違っているのが実態である。
支援員配置希望を叶えるための施設側の策も、いろいろあるのだろうな、と思う。
しかし、思う。 気がかりな児童生徒の存在に施設側が困っているから、「お力をお貸しください」という願いが強いのではないか。 気がかりな児童生徒本人が困っているので、その困り感に寄り添う人材が必要です、であってほしい。さらに、その児童生徒の保護者も同じ思いであること。
学期末も近づく。 「自己評価」をする時期にもさしかかっているのだとは思う。 けれども、組織内での「仕組み」が機能しているのが見えない立場としては、組織が掲げる評価内容を提示されても、それをもとに反省することは厳しい。 せめて、その評価内容を任用始めに「目標」として周知していただいていれば、いち「過程」を、「通過」させる関わりの時間を、「目標」に到達するためだと位置づけることができただろう。
私にできることは、何か。 自問自答は、続くのである。
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