ふつうっぽい日記
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2012年01月16日(月) 忙しくはないけれど暇はなし

通信制大学の学期末試験が今週から来週末にかけて実施される。
ただいまのところ、試験に向けての学習中心の生活が送れている。

試験前ではあるが、いわゆる「受験生」っぽいような重さはない。
といって、「受験生」が重さがあるなんていう表現は少々意味不明だ。

私は12月中旬以降から3月中旬あたりまで無給の暮らしである。
ではあるが、世帯的には食べていける収入は保たれている。

市の事業の臨時職員として今年もぼちぼちと勤務の予定だ。
事業の「局」を異にすれば、1年を通して賃金を得ることは可能ではある。
しかし、今のところは他局での勤務は考えていない。
同じ局での勤務は、最長で2ヶ月であり、再任用は任用期間分を休んでから可能となる。
といっても、必ずしも再任用されるとは限らないのではあるが、まぁ、そんなペースでも今のところはバランスが取れているのではないかと思う。


一とせに 二度もこぬ 春なれば いとなく今日は 花をこそ見れ(平 兼盛)


「暇」と入力して、辞書で検索したらこの歌にヒットした。

一日での「花」を見る時間は、「暇」なのかもしれない。
90分につき20分くらいの「暇」は作ることができる。

個人的には「暇」という言葉は避けているだけに、この言葉を「ふつうに」使っている人から「暇な時〜してね」などと言われると「残念ながら〜できない」と考えてしまう。
まぁ、「〜する」ことを「花」を見る時間だと置き換えられたら、有意義で貴重なひとときになるのかもしれない。そして、「花」を見る時間をコントロールして作ることができるのだとしたら、「〜するための時間」「花を見るための時間」として予定することだってできるのだ。

一番の幸せは、思いがけず、「花」を見る時間としてそのひとときを意味づけることができたことにあるのだろうな。


2012年01月06日(金) 新しい月に

新しい月になった。
1月になった。
そして、まぁ、新しい年を迎えた、とも言う。

新しい年が来ることが、おめでたいかというと実のところ微妙な気がする。

過ぎたことを引きずらないこと、などという言葉も分かる。

まぁ、しかし、ほどよく「バーッと」過ぎたことを自分に通過させることで、過ぎたての頃ともいうべき、その当時の思いや考えとは違った意識や感じ方のようなものを心地よく誕生させることにもなるので、過ぎたことの何もかもを否定的に悲観的に忘れようとか引きずらないようにしようとか努力することを頑張らなくてもいい気もしてくる。
なるほど、新しい年ということは、「開けてくる」きっかけに繋がることもあるのだ、ということなのかもしれない。

苦しいようなネガティブな思いのようなものであっても、その意識誕生は結果として意味のあることだと思えば、その始まりが新しい年を迎えることと結びつけるのならば、「おめでたい」ことともいえるのか。

まぁ、しかし、書面で文字で「おめでとう」という言葉を表現できたとしても、なかなか、わざわざと玄関の扉を叩いて、「おめでとう」と言いに出向くという行動は、そのふさわしいとされる、「らしい」期間に実行できるとは限らない。

喪中ハガキを出す具体的な理由はないけれども、なんだろう、今回の年末年始はささやかに、出来れば「ふつう」に近いような日常リズムで一日、一日をただ過ごしていけることの感謝を実感したい意識の流れのようなものがあった。

初売りや福袋やら、「らしい」要素みたいなものは身近にはあったけれども、「バーゲンだ」と言い聞かせることも容易な気がした。

もしかすると、例えば、子どもの一人でもいれば、「おめでとう」の挨拶を出向くことも、「わざわざ」なんて気持ちが浮上せずに自然にそうした行動を起こせたのかもしれない。

なんだかんだいって、結局はこれらのことは言い訳と変換されても仕方のないことなのだろう。


さて、カレンダー(的なものも含めて)がいくつあるだろう、とふと思った。
そのきっかけは、日めくりカレンダーを自室に設置したことによる。
今日、「あ。」と思い、3枚めくった。
つまり、めくられていなかったという訳である。

昔、「居間」に存在感のある日めくりカレンダーが設置されていたものだ。
その紙の厚さは薄かった記憶である。
大きさはB5くらいあったような気がする。
それをめくるのは、世帯主の役割だった。
めくられていなかったという記憶はない。

トイレには毎日の言葉が書かれたカレンダー的なものを掛けている。
寝室には2ヶ月単位の沖縄の景色が書かれたカレンダー、リビングには猫のイラスト入りの一ヶ月単位のもの、夫の書斎には新聞屋からポストに投入されていたもの。
リビングには少し離れた棚の上に卓上カレンダーも置いてある。
手帳は大きめの厚めの家族用、私用のカラフルな薄めなスケジュール帳、そして、いつから使ってもOKなビジネス的な手帳がある。ビジネス的な手帳は、読み物の要素も含んであるので、実質は来年あたりから使うことになると思われる。
家族用の大きめ厚めの手帳には、一日の大まかな食事内容を書くことにしている。
去年までは、食事内容を書くための手帳が別にあった。
まぁ、この記載もかなり適当に書く日もあれば、まとめて書く日もあれば、潔く、無関係な絵を描いて空白を埋めるという日もあった。

出来るビジネスマンは……(なんとかかんとか)、手帳で人生が……(なんとかかんとか)等の文字を本屋で見かけることもある。
「そうだなぁ」「へぇ」とか肯定的にそれらのテーマの本を有意義に立ち読みをすることもある。

でも時々思ってしまう。
いつまで保管、保存していくものか。
どうなっていくのか。

しかし、これだけは言えそうである。

畏れること、なかれ。


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