ふつうっぽい日記
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2011年08月31日(水) |
「私」の開きかけたフタを支える物語 |
「その日は雨が降っていた」と、四十代後半にさしかかった会社員A氏は前ぶれもなく語り始めた。
会社では責任ある地位に置かれ、A氏は流通の担当から畑違いの経理に異動になった。 A氏の上司と、「私」は面識があり、共通の仕事を持っていた。 だからといって「私」の仕事は経理の領域というわけではない。
なぜだか、A氏の上司という方は、「私」によく声をかけてくださり、結構笑顔でジョークなども飛ばしてきた。後に聞いた話では、A氏の上司の妻である方と、「私」は似ているところがあったらしい。
A氏が「私」に語ってくる前。
「私」はA氏に、A氏の上司が「私」に丁寧にかかわってくださることを世間話として伝えたことがあった。A氏の反応は、「私はあの人とは虫が合わない。私に向かって、お前がいるとしらけると言ってきやがったから。君は綺麗だから、気をつけた方がいいよ。あの人は何をしてくるか分からないから。」といったものだった。
A氏は、慣れない経理という仕事に対してと、上司との人間関係にストレスを抱えているように映った。
A氏は「私」に、「飲みに行こう」と誘ってきた。 「私」は、少し迷ったが出向くことにした。
その頃の「私」は、「父親」との関係にギクシャクしていて、A氏に対して「父親」の理想像のようなものを重ねていた。 これは、何年も後になってから気付いた。
語りの体勢に入ったA氏。 うっすらと涙を流していた。 A氏は無邪気な少年のように「私」には映った。
「その日も、今日みたいに雨が降っていた……。 小学生の時に、私のおふくろは死んだ。 今日みたいな雨の音を聞くと、その時のことを思い出してしまう。」
A氏は周りの景色が目に入ってない様子で、「私」の前で、子どものように泣きじゃくったのだった。
「私」は、その場に特に共感といった感情を抱かずに、ただただ居続けた。 「私」は、周りの景色はほとんど覚えていなかった。 仕事の時に見るA氏とのギャップに動揺を抱きつつも、真面目一筋だと思っていたA氏の意外な一面を見られて安心感のようなものを「私」は抱いた。
なぜか「私」は、A氏の、この行動を他の誰にも言う気持ちを持たなかった。
結局、「私」とA氏は三回ほど一緒に食事をした。
そして、ほとんど「私」は、A氏の語りにただただ耳を傾けるだけだった。 上司の愚痴のようなものが多くを占めていたが、二回目の後半。
「君と一緒に死ねたら幸せなのかもしれないなぁ」と、A氏は「私」に言ってきた。 さすがに「私」は、A氏が何を伝えようとしているのかに集中する必要が出てきた。
「え?ちょっと、待ってくださいよ。私は死にたくないですよ。何を言っているんですか。」 と、「私」は、A氏に言葉を返す。 さらにA氏は、「今、ボクとの子どもが欲しいって言ったの?もし、ボクと君との関係で子どもができたらその時は責任を取るから」と、聞き捨てならないようでいて、よく分からないようなことを「私」に言ってきた。 そして、さらにA氏は語った。 「私の子どもは2人いて、1人は妻と一緒の部屋で寝ているんだ。 もう十分に1人で寝られるくらいの歳なんだけど、……。」
三回目にA氏と会ったのは、「私」の送別会の日だった。 「私」は、結婚のため、「寿退社」をしたのだった。
A氏と「私」は、その日を最後に会っていない。
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「私」が、結婚前であったこと。そして、「父親」との関係。
一方「A氏」は、四十代後半という、いわゆる揺らぎがちな「働き盛り」であった。 さらに、A氏は、その日がたまたま「雨の日」であったという条件によって、今まで抑えてきた、亡き「母親」への想いのようなものが、思いがけず溢れだしてしまった。 その場に、たまたま、同席することになった「私」の静かな揺らぎ、葛藤。
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「私」は「今」を生きている「あたし」ではない。 「私」から「あたし」へ、「開きかけたフタ」への対処を委ねてこられたゆえに、紡がれた「支える」ための物語としての消化の一つの形だ。
A氏によって語られた思いがけない言葉を、繋ぐ「私」としての統合のための物語であるともいえる。 「愛」のようなものが欠落していたと後に気付くに至った、ある「私」という存在を使った物語である。
もしも、A氏との関わりに「私」の中に確実な「愛」があったとしたら、残酷な現実の物語が展開していたのかもしれない。 確実な「愛」を知らなかったゆえに、A氏は「私」から「ボク」へ一時的に潔く「退行」のような行動を取れたのではないか。 A氏の現実の家庭を顧みた時に「ボク」から「私」に戻っていることが、物語としての一つの安定した「落ち」に導いている。
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ただ、聴く、という行為。
私も「私」のように、ただ「聴く」という機会になぜだか恵まれ、「聞き上手」だと言われることもあった。それは「話し上手」ではないこと、「話す」頻度が低いということを遠回しに指摘されていたのかもしれない。
私は今、思う。 「聴く」のは簡単な様で、微妙な、時としてリアクションに困る内容を話し手が話を終えるまで聴き続ける義務のような葛藤と闘うことがある。 しかし、何も心理カウンセラーとして専門的に聴いているのではないのだから「義務」なんて思わないでもいいはずなのだが、なぜだか、たまたま「聴く」という流れに自分が置かれていると意識するとそのことを続けるのが必要かもしれないといった考え方の癖が支配してくる感じがあったのだ。
「聞き上手」と言われていることを、確実に自分の中の特徴のようなものとして定着させたかった願望があったのかもしれない。
「ただ、そこに居続ける」ということが、「私の役割」のように意識されてしまう機会に恵まれている気がする。
「感受性」や「感性」が必要だとか大切だとか言われるが、その自覚というのは自分の中で意識できるものなのだろうか。誰か第三者から見て、「あの人は感受性が……」と語られるものなのだろうか。
「ただ、そこに居続ける」ということ。 「そこ」が、私の居場所なのだと思う。 「そこ」を、今、私は意識して広げようとしている。 「そこ」である「居場所」を特定していくことが、「専門」や「その道」なのかなとは思う。
何か一つの「専門」や「その道」に、偏るため、いずれ選び抜くために「ただ、そこに居続ける」というよりは、「ただ、そこに居続ける」そのものをただ続けていくことしかしない「道」が気付くと自分の後ろにできていた、ただそれだけの人生なのかもしれない。
ただそれだけでも、満たされていると感じて日々過ごすことは、何かが足りないのだろうか。
2011年08月29日(月) |
「今日は手紙の気分なので」 |
臨時的任用職員として11月からの枠確定の連絡が管理職からあった。
小売りの仕事の出荷作業をこなす。 出荷商品には一言メッセージを付けるようにしている。
商品の注文はメールが定着しつつある中、「今日は手紙の気分なので」と、ハガキで注文内容を伝えてくださったお客様がいた。 「今日は手紙の気分」というのが私の中でなんとも心地よくて、便乗したくなり、何人かの人にハガキを出した。いつもだったら、年賀状のやりとりで終わる方々である。
そして、社会的入院状態となっているイトコにも久しぶりに手紙を書いた。 少しばかりの気持ちのプレゼントを同封して。 明日はイトコの誕生日。
薬物治療の副作用もあって、イトコの文字はふるえている。 今年の年賀状は住所が判別できなかったらしく差出人の元で戻ってきて、イトコの父親(伯父)が宛先を書き直して再送してくださった。伯父も多分70代。お手数をおかけしたと思うが、気持ちが嬉しかった。私は伯父に対して偏った気持ちを抱いていたのだけれど、修正した。
偏った気持ちのあるきっかけについて。 高校時代、一時退院が許可されたイトコの自宅を実家家族で訪ねた時。 伯父は「働くのがばからしい。生活保護っていいよぉ〜」という言葉を放った。 高校生の私はこの伯父の言葉に嫌悪感を抱き続けることになった。 それでも、イトコのことを考えることはやめなかった。
「人は変わる」 このことを伯父の姿から学んだ。 「働くのがばからしい。生活保護っていいよぉ〜」という考え方を持ち続けている伯父だったとしたら、ハガキを再送するなんていう行動は起こさなかっただろう。
イトコ宛のプレゼントは素敵なレターセットと可愛いシールと記念切手と住所シール。
住所シールとしては差出人であるイトコの名前と住所を印字したもの10枚ほどと私の住所と名前を書いたものを4枚。
「よかったら使ってね」と添えた。 住所シールは小売りの仕事で、結構前から自作してきた。 でも、イトコのために作ろうという発想は今までなかった。
習慣化された作業から、何かが意識化されることは簡単な様で難しい。 でも、ある時、ふと、繋がってひらめいていくんだろう。
イトコは入院中に母親、ついでお兄さんを亡くした。 お兄さんは36歳という若さでこの世を去り、死因は生活習慣病だったと聞いた。 我が夫と同年代。 この知らせを聞いた時、夫とは別居していた(単身赴任) マイホームを売ってでも一緒に生活したい気持ちの大切さを教えてくれたのはイトコのお兄さん(従兄)だともいえる。
従兄の運転する車の助手席に私が乗り、私の両親が後部座席に乗ってどこかへ出かけた記憶がある。その時、私は従兄はなんて乱暴な運転をする人なんだろう!と、あまりいい気分ではなかった。従兄は関西生まれ関西育ちで、完璧な関西弁だった(多分) そして、私は「関西の人は嫌いだ!」と自分の中に刷り込んだ。
我が夫が関西生まれ関西育ちである現実を思えば、なんて一貫性のない考え方(観念、偏見、思いこみ)に縛られていたいたのだろうと笑えてくる。
イトコは私が高校生の時から入院している。
障害者への支援。 少しずつ気付かれないまま、意識されないまま、私はかかわるということ、寄り添うということを私はやっていた。誰かに頼まれたわけでなく。
そして、もっと遡れば幼稚園くらいの時から、私は「母」の言葉をただただ傾聴し、寄り添っていたともいえる。 「お母さんはずっと病気なの。お母さんの子どもにしてはあんたは上出来」と本人からの告白を聞いた、自らも心身的にハードだった、「あたし」37歳の夏。
特別な知識や資格がなくても、首を傾げながらでも寄り添う、理解者みたいな存在がいれば、お互いに成長していくんだと確信した。
セラピストや臨床家といった人たちは、訓練でクライアントの話を聴けるという。 いろんな心の動きを伴った言葉をただただ受け止めていくことは、相当にエネルギーがいる。
よく頑張っていたよ「あたし」。 我が母も、頑張って背負って来たね。 重たい荷物が下ろせてよかった。
そう思えるのは、それまでの「かかわり」があったからこそ。
まぁ、例えば、私に子どもができて、母として孫とのかかわりが出来ていたとしたら、背負って来た重い荷物のことなんて忘れることができたのかもしれないのかな、なんてことも考えるけど、これはきっと現実的じゃない。
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『元気をだして』作詞 竹内まりやさん より
「涙など見せない 強気なあなたを そんなに悲しませた人は 誰なの?
…
幸せになりたい 気持ちがあるなら 明日を見つけることは とても簡単
…
チャンスは何度でも 訪れてくれるはず …
あなたの小さな mistake いつか想い出に変わる 大人への階段を ひとつ上がったの
人生はあなたが 思うほど悪くない 早く元気出して あの笑顔を見せて …
ここ1年ほどをふり返り、言葉(発言、文章)として「私は〜が大好きだ」と表現している人、その姿が強く印象に残っている。
別に、恋愛的な内容での告白という状況ではなく、人生の師匠のような存在として尊敬している人に対する感情。
「好き」ではなく、「大好き」という表現。 好き嫌いがはっきりしているのかなぁなどと勝手に分析をしてしまう。 「大好き」を「ふつう」に使う人にとっては、平凡である「ふつう」が「好き」であり、その度合いが大きい、濃い場合を「大好き」と言っているのかもしれない。
「よく分からないこと」に縛られて心身のバランスが取れなくなった頃、はっきりした自分になりたいという希望から、「大好き」という言葉を伝えることに一生懸命になっていたことを今となってほっこりと思い出す。 バランスが取れていないゆえに、誰かに支えて欲しい、認めて欲しいとすがる行動。
今の私は「よく分からないこと」だからこそ、「よく分からないこと」に心を持って行かれないようにすればよくて、具体的に分からないことが分かった物事に関して具体的に悩み考えることをすればいいのだと解釈できている。だからといって、この考え方が普遍の原理だとは考えない。
あちら側で考えるとこうなってしまって、こうなってしまった経験はそれ自体は価値あるものだけれどもできれば再びこうならないようにしたいので、「こちら側」で考えてみたくなった、という感じに近い。
例えば、「癒し」と「ストレス」とがあったとして、来るべき「ストレス」に備えて今の内に思いっきり「癒し」を与えておこうというより、あの「ストレス」があったからこそ、この「癒し」に出会えた、という流れが腑に落ちる感じ。
予防接種もたしかに大切。 引きでみれば、その予防接種を存在させることができたのは、切実な犠牲があったからともいえる。
こんなふうに前向きに考えて自分自身と対話できるようになったのは、辛い出来事のおかげ。 この考えは私は「大好き」で、このことを私に気づかせてくれた場に深く関わった人たちに感謝している。
なるほど、そうか、その影響を与えてくれたのが一個人である場合に、その一個人に対して「大好き」と言いたくなって言うのか。
「ある人」がその人の心にとって「大好き」として存在している、「大好き」に関わるエピソードが語られ表現される場面に同席することになった「私」への影響は、「ある人」はこれっぽっちも心配していないし、疑問の対象にもあがらない。 「ある人」自身の中の、その人の思いをただ語っただけであって、その内容を聞き逃すのも自由、深く考えるのも自由。
しかし、こういうこともあるので人間というのはなんとも深くて面白い。 それは、「その時」はスーッとただ言葉が通り抜けていった様で大きく感情が動かされずに流れたことが、何日も、何年も後になって、バーッとメッセージのような感じで届いたような感覚。
流行の映画。 何年か経って、その根底に流れるテーマが自分に迫ってくるという感覚。
歳を重ねること、「大人になる」ということは、自分という庭に花が咲いていたことにふと気づいて、その花の種やつぼみのことを自分なりに関連づけられるようになることなのかと思った。
「人生80年」であれば間もなく折り返し。
これからの時間の流れは、「あの時のあれはこのことに繋がっていたのか!」と気付きの連続なのかもしれない。
「あなたからたくさんのことに気づかされた」と何人かの人に言われたことがある。 でも、私には意味が分からなかった。 でも、意味が分からないのは当たり前。 「気付き」という思いは「気付き」として通過した、相手の中での化学変化のある一瞬みたいなもの。そして、私自身には相手を気付かせる意図なんてものはなかったのだから。
他者の存在から、自分を知って、そこから他者の存在に感謝する。
引きすぎなのかなと思うが、私は私に影響を与えてくれる「考え方」というものに対して「大好き」という感情を持つと考えることがしっくりくる。
たまたまその「大好き」な「考え方」であるのが「あなた」であるにすぎない。 「あなた」に似た「考え方」の人はたくさん存在する。
こう考える私であるので、私はこう別れの時に言ったことがある。
「私みたいな人はたくさんいます。私みたいな人を探してみてください。きっと、その人はあなたのことを大切にしてくれるはずです。」
「この人は私がいないとダメだ」とか「私じゃないと、この人はきっと困る」みたいな「私」は、「私」の重要な価値みたいなものを表現しているように見えて残酷な視点。 「この人」と「私」の共依存。
「この人」も「私」もお互いに支え合っている意識が流れるまでの、あれやこれやの試行錯誤、押したり引いたりの駆け引きみたいなものからたしかな「絆」ができると考える。 「支え合う」ための「原因」とか「理由」を越えた向こう側、こちら側から、今日も「私」は「あなた」を見守っています。それは「あなた」が私にとって「大好き」な考え方をする人だから。
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小学1年生で「先生、結婚しようよ!」って。 あれは、忘れられないピュアな場面だったな。 君のこの「私」というちっぽけな存在を受け止めてくれた上でのこの告白は、大きな励みというエネルギーを与えてくれた。癒しの存在だって後から気付いたっけ。
「お願いだから、あっちへ行ってよ」が口癖のような君の言葉。 私はこりずに君のそばに居続けることを頑張ったっけ。 いつの日か、君は私が君の存在に気付いていない場所からでも急接近してきて君の存在をアピールしてきたっけ。 そう、私が毎回同じような服装だったのは君に気付いてほしかったからなんだ。 周りの子達は「先生、またこのジャンバー着てる!もしかして、他の服、持ってないの?もしかして貧乏なの?」って不思議そうに言ってきたものさ。
君が君自身で私のような君を支えるための存在を必要だと分かるその時を信じて関わった日々。 君はたしかに成長した。
君よ、君のやさしい感性、感覚、大好きだったよ。
君よ、元気に頑張っていますか。
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「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです」 (『魔女の宅急便』糸井重里さん考案キャッチコピーより)
「カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の やさしさに包まれたなら きっと 目にうつる全てのことはメッセージ」 (『やさしさに包まれたなら』作詞 荒井由実さん より)
2011年08月26日(金) |
特別な支援、特別な資格 |
「特別」という単語を、何度も何度も見ていると、なんというか、何もかもがどうでもいいような感覚になってくる。
「どうでもいい」といっても、例えば生きることがどうでもよくなったという意味ではない。 素直な言葉では「訳が分からなくなる」という感覚に近い。
9月初旬から特別支援教育領域のボランティアとして「現場」にかかわることになった。
市町村の児童福祉主管部署職員では「資格」(社会福祉士資格)所持者が4%に過ぎないといった実態を何かの本で見た。 その話題を提供された方の、国家資格がなくても素晴らしいスキルを発揮することができる人(実践者)が多数いることも認めつつも、この現状は組織的な詐欺ともいえるのではないかという主張も印象的だった。
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特別支援教育領域の支援員は、自治体によってなんだかの資格、例えば教員免許所持者を条件としていたり、「特別支援教育」に関心があること、「発達障害」に理解があること、と幅広い。 この制度自体が、「包括的」「インクルージョン」「ノーマライゼーション」的なのだろうか、と考えることもある。
「ニーズ」とは、「必要」「要求」「需要」と訳される。
誰もが「ニーズ」を自分や自分以外の力で満たしている。
この「ニーズ」。 人それぞれ、違った「ニーズ」がある、と分かりながら、何か共通した方向や価値観に導こうとしているんじゃないかと、考えることがある。
例えば、社会的外向、内向。 情緒的安定、不安定。
例えば「オタク」と呼ばれているような特徴は、社会的には内向でありながら情緒的には安定している。対極の「非行」は、社会的には外向であって情緒的には不安定。 ほどほどが「平凡」なのだろう。 境目のことを考えると、訳が分からなくなる。
突き詰めようとすれば、何もかもが曖昧。
ある人の「足りないところ」が他の人から「ニーズ」として見えても、「足りないところ」を所有している人にとっては「ニーズ」ではないこともあるだろう。 「ニーズ」ということに気づかないということもあるだろう。 他の人からみて、ある人にその「ニーズ」が満たされていればただ都合がいいに過ぎないということもあるだろう。
ある人にとって「本当はこれをしたいと思っているのにやりたくてもできない」という気持ちが伴ったもの、それが純粋な「ニーズ」なのかな、と思った。 または、そのある人にとっての気持ちを他の誰かと共有するまでの人間関係自体が「ニーズ」なのかもしれない。
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初めて「支援員」という任務にあたる人の多くは、「特別な資格がないので不安ですが頑張ります」といった意気込みのようなものを抱く傾向にあるようだ。
特別支援教育領域の支援員としての任用経験がある私は、教員免許を持っている。 持ってはいるが、使ったことはない。 任用先は「特別な資格」は問うていない。 私は教員免許というものを持ってはいるが、だからといって教員のように支援することをしないように意識している。そこが難しいところであり、支援員としての立場が試されるところである。
教員免許というものを持っていて、支援員任務にメリットはあるのかについて考えてみる。 「教員」との距離感に対する試行錯誤のエネルギーが少なくて済むのかもしれない。 「支援員」には求められない「教員」であればこその特別な役割が分かる可能性が高いかもしれない。
「特別な資格がないので不安ですが頑張ります」
比較的、「引き」の場所からこのメッセージを聴くと、「特別な資格がないのだから不安なのは当たり前なのだから頑張らなくてもよろしい」と助言したくなる。
何があるから頑張れるのだろうか。
「支援員の辞令をもらったが、特別な研修の機会が与えられません。丸投げじゃないでしょうか。 自腹で○○研修を受講しました。めげずに頑張ります。」
私も、任用当初、こういった憤りに支配されていた。 この憤りが解決された、満たされた完全な形とはどんなものだろう。 教員免許を堂々と使う教員という立場なのか。
定期的に研修が計画されている。 その研修にかかる費用の自己負担は無し。 勤務に差し障りのない週末土日または定時以降の時間帯に実施。
この「研修」をどのくらいが有意義に、主体的に受け入れることができるのだろうか。
「支援員の辞令をもらったが、特別な研修の機会が与えられません。丸投げじゃないでしょうか。 自腹で○○研修を受講しました。めげずに頑張ります。」
「特別な研修の機会は与えられるのではなくて、自分で見つけて自分の中に必要な知識をとりこんでいくものであって、その自発的な研修に関して辞令を渡した組織から妨害されない。そして、自主的研修にかかわる費用は無料に近いことだってありうる」
何をもって「研修の機会」と捉えるか。
「研修の機会が与えられないということは、自主的に(自腹で)研修を受けろということだ」という感覚でもって「丸投げ」なのか。
「現場」での流れる時間は、かかわる経験そのものなのだから、「研修の機会」であるともいえる。 必ずしも、あらかじめ「研修の機会」が与えられて次に「研修の機会(現場編)」という流れとは限らない。つまり、いきなり「研修の機会(現場編)」が与えられて、次も「研修の機会(現場編)」であることもあるうる。
「研修の機会が与えられない」という意味(意義)を、個人の中で自然に生まれてきた課題意識(視点や自己研修テーマのようなもの)が尊重されるのだ、と受け取るのはどうだろう。
「研修の機会」というのは、「きっかけ」だと解釈すれば、意識すればどこにだって転がっているものだ。
今、本屋で読みたい本を選べと言われて何を選ぶか。 私は、選べと自分に(指示する)言う人を「研修の機会を与えるべき人(与えてほしい人)」勝手に設定して想像すると、多数の「無知の知」を痛感する場面が押し寄せる。
「勝手に設定して想像する」というのは、偏ってしまえば「妄想」になってしまうかもしれない。 しかし、目指すべき(職業や立場としてに限らず)対象が自分の中に想像上とはいえ存在させることができる、というのは特別な領域に限らず、「人生」に置き換えても重要なスキルなのかもしれない。
9月初旬から特別支援教育領域のボランティアとして「現場」にかかわることになった。 派遣先はボランティア受け入れ実績がない。
つまり、いきなり「研修の機会(現場編)」が与えられることになる。
現場の人たちとの人間関係構築や仕組みを実際的に整えていくことそれ自体から多くのことを学びたい思いが今、私の中で盛り上がっている。
私の中での「ニーズ」(たとえば足りないところ)を、ちゃんと足りないままにして(いっぱいいっぱいにしないで)かかわりたい。
少しずつ「器」を大きくしながら、いつも何か足りない。 そういうのが理想。 ちゃんと足りないところがあればちゃんと誰かが満たしてくれる。 そうすればその「誰か」の存在に心から感謝できる。 ありがとうって言える。
2011年08月21日(日) |
照らされた「支援」への道 |
身近で聞いたエピソードで消化中の内容を整理するために書き残しておく。 私の中で揺らぐ、個人的な「怒り」を正しい方向に導くためともいえる。
20代前半からとある「持病」と向き合って、「再燃」予防のため、長期的な薬物療法による治療が必要な状態にある30代中盤の女性。 急性症状がおさまって、「薬を飲まなくても私は大丈夫なのかもしれない。」と過去に3回、薬を飲むのを勝手に止めて、急性症状により周りにいた人間によりかかりつけの病院もしくは滞在先で救急搬送された。
かかりつけの病院ではない滞在先での救急搬送。 1週間の入院と1週間の自宅休養をするにあたり、勤務先へ診断書が提出される。 その診断書の内容についての医療機関側の対応が腑に落ちない。
彼女の持病は、「統合失調症」である。 これは医師も認めている。定期的に通院し、薬を飲んでいることも患者自身や家族により伝えられている。
にも関わらず、診断書には「自律神経失調症」と書かれたそうである。 医者に、「そんなので、本当にいいのですか?」と患者を支える家族は素直な疑問の声を放った。 もしかすると、患者本人も同席していたかもしれない。 医者は、「いや、(統合失調症とは)書かない方がいいでしょう。そんなことをしたら、大変なことになりますよ」と言ってきたそうである。
「患者の権利」という言葉がよぎる。
「大変なことになる」というのは、患者の立場を配慮した言葉とは私には思えない。
それは、例えばこういうことに似ていると思う。 婚約者に持病のことを打ち明けずに秘密にしておく。 持病を持った人に寄り添うことになる第三者にそのことが知らされないことによって生じる不利益、不幸。
明らかな診断名があるにもかかわらず、その診断名によっての緊急な状態であることを記載しないという行為。その診断の内容を悲しみや苦しみを乗りこえ、受容してきた患者や患者を支える人たちの今までの人生を医者は察することはできないのだろうか。
勤務先への説明に医者という専門家に責任と使命感を持って答えていただくことは求めてはいけないのだろうか。あつかましいのだろうか。
「統合失調症」という名称は、2002年8月に、「精神分裂病」に代わり用いられることになった。彼女の発症は2002年8月以前であったことを察すれば、侵襲的とも思えるこの診断名に、患者本人や家族にとっては相当に受け入れがたい状況であっただろうと想像するのはそう難しくない。
だからこそ、その診断名を使わないことが配慮、というのは弱い人の使うウソだと思う。
今日の精神科病院では10年以上入院している人は約3割に及ぶのだそうだ。 その多くが「社会的入院」という、退院しても帰る場所(自宅)や地域にないことによって入院を継続していくしかない状況なのだそうだ。
2003年度に策定された、障害者基本計画「重点施策実施5か年計画」厚生労働省関係部分の概要によれば、「精神障害者施策の充実」の枠の中に「・精神科救急医療システムの整備(全都道府県)」という文字があった。 さらに、「考え方」のその計画の基盤には「社会の対等な構成員としての人権尊重」「自己選択と自己決定の下に社会活動に参加、参画し、社会の一員としての責任を分担」「活動を制限し、社会への参加を制約している諸要因の除去と、能力発揮の支援」とあった。
「制約している諸要因」が、統合失調症なのか。
「横断的な視点」としては、「社会のバリアフリー化の推進」「利用者本位の支援」「障害の特性を踏まえた施策の展開」「総合的かつ効果的な施策の推進」があげられている。 「分野別施策」では、1番目に「啓発・広報」とあった。
「啓発」とは障害に対する正しい理解というのも含まれるはずである。 正しく診断名の詳細について理解する、ということではない。 そういった「障害」という「課題」を、長期的あるいは生涯にわたって自分の一部として受容して生きる人そのものの存在についての理解だと私は解釈している。
見た目から分かる障害は、穏やかな対応が取りやすいところがあるが、そうでない場合も多くあるはずである。見た目から分からないのであるから、量的に多いとか少ないなどとは言えないが、そのことを想像することは難しくない。
統合失調症は、全般的に「軽症化」が医療現場で指摘されるようになったという。 「人格荒廃」といった著しい事例が減ったことや、薬の進歩によるものらしい。
「精神」に関わる問題であるので、発達障害や気分障害といった障害の境界が曖昧で、判断が難しい領域である、というのも理解できる。
「うつ状態」といっても、何だかの主たる病気の二次障害であることであるように。
私自身は「不安」や「怒り」のコントロールが、私の人生の課題であると思っている。 自分自身を知るということを基本に据えて、周囲の環境として存在する一個人、人間であることを自覚し、同じく周囲の環境である他者について、その存在を尊重するための深い理解と態度を身につけていきたい。
ーーー 「…服薬援助が患者支援における中心的な課題であることは今日も変わりがない。特に結婚や出産をめぐって患者の不安が強まることが多く、周囲がよく患者の気持を理解し支える必要がある。」
編著者 石丸昌彦 『今日のメンタルヘルス』財団法人放送大学教育振興会 (2011年) 118頁より抜粋
何のことかというと、コンタクトレンズが目の中でずれて迷子になった。
こういうことは、時々あって、たいがい鏡を見ながらグルグルと目を回したら上瞼から折りたたまれたレンズがほろりと降りてくる。
今日もそんな感じか?と、思ったら、簡単にはいかず、目薬をしてグルグル回したり瞼を触ったり30分してもダメだった。
気分転換のため別の作業にとりかかる。
時々手鏡をみて、降りてこないかを確認。
母に尋ねることがあってメールをしていたが、返事がないこともあって、自宅に電話してみることにした。
なんだか元気がないボイス。 にもかかわらず、「元気にしてますか。体調はどうですか。」などと私が気遣われる。 優しさなのだろうけど、慣れない言葉で(シンプルなのに)動揺する娘。
正直に、現実的なことを言う。 「小一時間くらいコンタクトレンズが目の中で迷子になっているのが、今、気になる一番の問題だよ」
少しそのことで雑談。 いくつかの間があってその度にちょっとした会話をする。 終話のきっかけは、「お父さんがお腹減ったメシはまだかって言っているから…」だった。
こういう時は、人のせい(口実)にするのは自然だな、と思った。
ついでのように広がっていた会話の中身では、さりげなく濃厚な内容が含まれていた。10年以上、私の中で気がかりなことだった。直接自分自身に関わることでないだけに、その気がかりな事について話題にすることは出来ないでいた。 自然な展開で真実が聞き出せたと思った。
その時、自分の中で確信した。 今の私の人生、自分自身を奮い立たせて、関わっている領域(支援)は進み続けるべき道なのだ、と。
自然な展開で自分の知りたかったことが聞き出せたという経験は、私にまた一つ確実な勇気と自信を与えてくれた気がする。
母さん、あなたという存在がいたからこそ。
ーーー
母との電話の後、鏡を見たら自然にほろりとレンズが降りてきた。
自然モデル。
確実にバランスが取れてきている、この感覚。
この経験まるごと、そのまんま、勇気と自信にするね。
ーーー
レンズが迷子の後の、ちょっとした会話。 この流れ、「仕組み」は、「傾聴」と言われるものだと考察。 母にしてみれば、ただ、「へぇ」とか「はぁー」とか適当に相づちを打ちながらただただ聴いただけだが、結果として私は迷子のレンズを見つけて、違和感を取り払うことができた。
もしかしたら、同じだけの時間、別の何かをしていたとしても、同じ結果になったかもしれない。 でも、曖昧そうな関わりの現実をいかに価値づけ、意味づけていくか。 そこに人間性みたいなのだ出るなと思われる。
BGMは、「ハナミズキ」。
「ハナミズキ」をネットで気ままに検索していたら、「底抜けに明るい花」とあった。
幼少時代、「暗いネ」と言われてからかわれていたこともあったな。
「明るい花」は、じっくりじっくり時間をかけて、周りから支えられながら、確実に咲いていくんだね。
私が、14歳だった頃のことを昨日思いだしながら、「こうだったのかな」と繋がったことがあった。
当時親しかった友人2人に「明日、動物園に行こうよ!」と誘った。 友人は、「いいね〜」と賛成してくれた。
ところがである。 待ち合わせの時間になっても、2人は姿を現さなかった。 まだ携帯のなかった時代である。 公衆電話から自宅に電話をかけて2人から何か連絡がなかったかを在宅していた母親に尋ねた。
何も連絡はなかった。 私は切ない気持ちで帰宅した。 そして、2人に電話をした。 2人とも、別の用事で留守だった。
私は自宅で悔し涙を流した…かどうかは忘れた。 泣いたような気もする。 しかし、結構、あっさりと母親が「人生には裏切られることはあるの…」と諭す言葉を私にかけてきたことは覚えている。
どうして覚えているのかを今になって、深く考えてみた。
私は母にも驚いてほしかったのだ。 衝撃な気持ちを共感して欲しかったのだ。
「え?!約束したのに2人とも来なかったの?!ひどいわね〜!まったく!」 みたいな感じで。
ところが、予想に反して母のかけてきた言葉は違っていたので、その悔しさも涙の一部になっていたと思われた。
14歳。思春期という時期でもある。
そして、今、当時の母親の思いを勝手に考察してみることにする。
「絶望的観測」「悲観的観測」「出来なくて当たり前」「そうなるはずがない」「出来るわけがない」といった思考が基盤にあったのではないか。
あらかじめ期待しなければかき乱されることはない。 「やっぱりね」で済む。
母の行くことができなかった幼稚園にも娘は行った。 ピアノがある家にだって住んでる。 そういった恵まれた環境、母親が夢見ていた環境に娘は当たり前のようにいる。
「人生、生きていれば、裏切られることだってある」 この言葉は教訓的であり、生きていく上での哲学になるとか、大人の社会はそういうものだと人生の先輩として伝えたかったのだろうなとは思う。
でも、そこには「信じる」ことの大切さなんていうものは繋がってこない。 「ありがとう」や「ごめんなさい」も。
家の中で私は「ありがとう」と言った記憶がほとんどない。 学校生活でもあったのかも思い出せない。 たくさんありすぎて、覚えていない、というのとも違う。
「ごめんなさい」というのも、人に言われてから気づいてまたは仕方なく言うことの方が多かった。
ーーーー
「信じること」「ありがとう」「ごめんなさい」
辛いのに大切な気持ちを素直に話してくれて「ありがとう」 その涙はあなたがお友達を信じていたからこそ、出た涙だと思うの。 人を信じること、信頼することってとても大切なこと。 あなたは素晴らしいわ。 もしかしたら、お友達は用事があったんだけどあなたの純粋な気持ちを考えると「ごめんね、明日は行けない」って言いたかったけど言えなかったのかも知れないわね。 もし、あなたがお友達の立場になったときに、そういう思いを持ったときに、「誘ってくれてありがとう。」と気持ちを素直に受け止めてから、用事があれば素直にそのことを言えばいいの。 今のあなたにはそれが出来ると思うの。
ーーーー
結構多くの女性が、思いがけず「母親」という役割を担うことになると思う。 完璧な、計画的な、確実な妊娠で、確固たる「母親」という役割を理解してそうなる人というのはあまりいないと思う。
結婚すれば必ず子どもが生まれる。
そう思っていた純粋な時期もあった。
ーーーー もしかしたら、以前にも似たような内容を書いたような気もする。
「お母さんは、学校の先生になりたかったの。大学にも行きたかったの。 でも、行きたくても行けなかったの。」
この言葉を聞かされた私は去年の春先くらいまで疑わずにずっと信じてきた。
不思議なもので、こういう思いを聞かされていると、叶えられなかった母の夢を私が叶えてあげたい…と自然に思えるようになっていた。
「どうしてお母さんは先生になりたいと思ったの?」という質問をするほどのゆとりは当時の私にはなかった。
「子どもが好きだからよ」とか「教えるのが好きなの」とか答えたのかもしれない。
私は私なりに考えて、「先生になるなら小学校」と決めていった。
でも、どうして小学校なのか…。 それは、幼稚園は私自身が幼稚園に通うことが嫌でたまらず先生に対してもいい想い出がなかったからだ。ちょくちょく「おもらし」をしたり、給食を食べるのが遅かったり、口数が少なく、様々な活動に指示が通っているのか微妙な反応だったことは、私自身も自覚していたのだ。
中学時代、理科の先生もいいなと考えた時期もあった。 しかし、中学時代の三者面談だか進路相談で「中学校だったらあなたはぶん殴られる」と母は言い、担任(担当は国語)も「小学校なら文系だな」などと、今思えば「それはいかがなものか?!」と思えることでも、「そう2人が言うなら小学校なんだ」となぜだか納得していたのだった。
時は流れ、教員採用試験の結果を待つという日。 厳しい状況ではあることは承知であったが、自分でちゃんと結果を受け入れる準備をしていた。 しかし、あるはずの結果が入った封筒を妹が持ち出すということが起こっていて、「薄そうだから多分、お姉ちゃんも受かっていない」という衝撃な台詞を聞かされかき乱される気持ちは、今でも時々思い出す。 また、その日はたまたま叔母夫婦が来ていて、そういうことが起こって自室にこもっていた私を無理矢理に母は引きずり降ろして叔母の前で「ちゃんと挨拶をしなさい!」と叱ったのだった。
母なりにその後のフォローはあった。 「くやしいのは分かる。あなたはお母さんが行けなかった大学にも行けて、教員免許だって取れたじゃないの。そこまで出来ただけでもすごいのよ。」
やはり、14歳の頃の悔しさに似たようなものがあった。
試験の結果がどうということではなかったのだ。 大切な結果を自分以外の人間を通して知ることになったことが辛かったのだ。
もしも、自分でその結果を受け止めることが出来ていたら、「やっぱり、ダメだった〜ダメだと思ったんだよね〜難しかったし、採用人数も少ないから仕方がないよね〜」みたいに顔で笑って心で泣いて的にバランスを取れていたと思う。
なぜだかそうなってしまった状況。 起こってしまったことは仕方がないというのは分かっている。
さらに時が流れ、3年ほど前から偶然の様な必然のようなタイミングで私は小学校で「先生」と呼ばれる活動をすることになる。
教員志望があった私としては夢が叶ったとも言えた。 そして、母の夢も叶えられた…かもしれないという気持ちもあった。 そして、同時に、母から「あら、よかったじゃない」とか「あなたが先生と呼ばれているのね。素敵!」とか「是非、頑張ってね」とか認めてくれるような言葉をかけてくれるんじゃないか、という期待があった。
しかし、現実はいたって淡々としたものだった。
私が夢を叶えていっているような姿に嫉妬しているのか?と真剣に思ったこともあった。
しかし、根本から違っていたことが分かる。
ーーー
去年。
「お母さんはおじいちゃん(母にとっての父)にお前は教師にでもなって、母ちゃん(母にとっての母)の世話でもしとけ!って言われたんだ。お前(母のこと)は、器量も悪いし結婚は できないって言われたんだから!誰ももらってくれないって言われた!… それでも、おじいちゃんは、「この子はべっぴんさんになる!」って言った…」
そう、私に母は泣きながら告白してきたのだった。
祖父は、私が誕生して少し経ってから亡くなった。
私にとっては14歳の揺れた自覚のある時期から「24年の時を経て」ではあるが、母にしてみれば50年以上、いやそれ以上の時を経て抱いていた思いを他の誰かに言葉として伝えた、ということになる。それも、よりによって、実の娘に、ということになるか。
母が泣いてから、私たちは強く抱擁した。 38年かかって信頼の基盤がようやく整えられた、というような実感が私の中で感じられた。
その時の「私」は、今の私ではない。 別人、という意味ではなく。 そして、「母と向き合わねばならない!よし!今だ!」と計画的に母との語りを決断して実行したのではないのだ。
その状況は、私が確実に心身共に悲鳴を上げたから、病院に行かざるをえない状況になったからである。
私は母に言った。「おじいちゃんはひどい事を言うんだね!くそじじいだ!」 「くそじじいって言いたいけど、おじいちゃんは死んでいないんだもん…!」
母にとっての「父」の死を、ようやく受け入れられたのかな、と後から私は思えたのだった。
母の背負っていたものを私は軽くしてあげられたのかもしれないと思えたのだった。
そうして、私は気づくのだ。 「なんとなく」で一昨年入学した大学が、どうして新鮮で勉強が楽しいとしみじみ思える理由。 そして、かつて卒業して、教員免許を取得した大学での基盤の思いは、「私らしい」ものとは言えなかったのだろうと。
これから、気持ちを新たに、教師を目指すのかと問われるとそれはちょっと違う。 人との関われる現場であれば、私は有意義に成長できる!という確信みたいな自信みたいなものを忘れなければ出会いが「たまたま」であっても、与えられた場で自分の役割を引き受けることができるのではないかと。 漠然とした曖昧な根拠のない自信じゃないか、とも思える。 でも、今の私はそれがしっくりとくる。
曖昧さの中で自分の存在を意識する。
お盆の真っ最中。 こういう有意義な気付きを与えてくれた、母の父である、亡き祖父に感謝したい。 そして、私を存在させてくれた両親にも、ありがとう。
2011年08月09日(火) |
年を取ったなぁと感じる |
メールで実妹が入籍することを伝えてきたのはその1週間くらい前だった。 つまり、「来週月曜日入籍します」という状況。
メールで、である。
相手になるのだろうな、と思われる方には5月に対面はした。 が、不思議なもので、近しい身内という立場だからか「ほんまかいな?…」という思いが盛り上がり、「そうならないのかもしれないこともあるかもしれない」などという素直ではない気持ちも共存。
初めて見る相手の風貌をインプットするのが精一杯で、名前がどうだとか新しい名字がどうだとかそういうことを話題にすることさえも出来れば避けたいなぁ…という思いが私にはあった。 それくらい、実妹の存在は大きかったということだ。
両親よりも妹に先に相談したり報告したりしてきた私だけど、だからといって妹が同じような思いであるとは限らないのだ、ということを私は学んだ。
両親は妹らの婚姻届に証人として名前を書いたということも「来週入籍します」メールとともに知ることになり、いったい両親はいつその届けにサインをしたのかと謎だった。 5月の対面の時にそういう確実な動きがちゃんとあったんだ…。 なんだか取り残されたような気持ちがした。 そうやって、それぞれの世帯が重視されて…疎遠になっているんだな…と考察した。
両親の兄弟関係を見ていて、どうして連絡を取り合わないのだろう?とか、どうして直接聞けばいいのに聞かないんだろう?と疑問だった。
これからは、「聞いた?」なんて言って、両親から妹の近況を間接的に聞かされる頻度が増していくのか…と思うと、すこし面倒に思える。 いや、「聞いた?」なんていう探り合いのようなコミュニケーション自体も無く、情報を発信した側は「両親に伝えたのだから伝わっているだろう」という根拠のない思いこみでいろんな実態が気づけば知らないところで動いていることに気づいて、ため息をつき、やがてそういうため息さえも意識されなくなるのが「ふつう」として収まっていくのかもしれない。
ーーー
「入籍します」メールは8月に入ってから間もなく受信し、「来月中旬、後半に引っ越しします」と書いてあった。実際は、「来月」というのは間違いで、「今月」だったのだ。 つまり、入籍後2週間後には別の住所へ移っているという、私にしてみれば「急」な展開に思えた。そりゃ、そうだ。来月と今月とでは感覚が違う。 おそらく、こういったことも、両親は何もかも情報としては持っていたのだ。
前述したように、私は実妹の新姓が何になるのかも今朝までよく理解していなかった。 名刺をもらった訳でもなく…。
昨日、無事に入籍したということを父から知った。 それも私が父宛に「次女さんのご結婚おめでとうございます」というメールを送ってからの返信で。そして、「9月に家族に会えるから楽しみです」といったことも書かれてあって、まだその時、私は妹が来月引っ越しをすると思っていたので、引っ越しで忙しいのに何を言っているのか繋がらなかった。
新住所を伝えてもらうに当たっては、来月だと聞いていたので「落ち着いたら住所知らせて下さい」と今の内からアプローチをしていて、そのうち、知らせてくれるだろうと思っていた。
それが実際は今月であることを告げられ、それにも関わらず、新住所が伝えられないという状況に私は戸惑いを感じた。
これを機に、親族である関係を何気に絶とうとしているのかも…。
サプライズ的な感覚があったからか、親族よりももっと近しい友人にはそのことをすでに伝えられていたのかは分からないけれど、その何もかものやりとりが「メール」で報告されたり説明されていくこの展開に「年を取ったなぁ」と私は感じた。
結局、父と妹宛に同報メールをして、謙虚な姿勢で、「新住所を知っていたら教えてもらえると助かります」と伝えた。 父からは「分かり次第伝えます!」と返信が即来たので、父も今、分からないのだ…と、思うと少し安心した。でも、同時に両親にも教えていないこの状況って何なのだろう、どういうつもりなのだろう、マイペースにもほどがあるだろう…と、呆れるような気持ちを抱いてしまったのも正直なところ。 結果、当事者、つまり妹から住所とフルネーム(新姓の情報)が記載されたメールが来て、必要な情報を私は得ることができたのだった。
今度、こういう少々複雑な気持ちが喚起した時は、迷わず電話してみようと思う。
なんなのだろう。 「家族」へのこの気遣い。 こうやって、「分離」ステージを通過していくのかもしれない。
今となってはあれだが、なんとも微妙な気持ちに支配されていた時、こんなことを思った。 「もし、私が妊娠しても、ギリギリまで知らせてやるもんか!」
「家族」とは難しい。 だからこそ、様々な「学び」の基盤になっている。 「生」そして、究極は「死」がテーマの学び。 究極の学びは可能な限り、先延ばしにしていただきたい。
母からのメール。
「お父さんがね…」
まぁ、この場合の「お父さん」というのは母の父親のことではなく、【夫】のことである。私にとっての父親であることから「お父さん」と呼んでいるのである。
この呼び名に関してはいつか、何度か話題にしたことがあるような気がする。二人家族に子どもが参入して増員した時、呼び名が変容を遂げることは珍しくはない。
子ども心には、「どうしてお父さんは自分の妻のことをお母さんというのか。どうしてお母さんは自分の夫のことをお父さんというのか。」という疑問を持ちながらも、それをストレートに質問する機会を逃しやすい。
そして、もうすでに、我が子が実家を離れ、世帯が別になっているにも関わらず、そういう呼称を使い続ける状況。 まぁ、たしかにだからといって、だからこそ、そういった二人の世界の呼称に関知しなくてもいいのだろうけど。
夫婦は他人同士なのに、その子たちには確実に繋がっている関係が発生する。
ーーーー
メールの内容というのは、まぁ、どうってことないようなことではある。 父親が久々に娘婿と飲みたいというありがちな内容。 それを伝えるのが母親というところに、私は少々違和感を覚えたのだと思う。別に母親にとってはどうってことないけど、夫が言うつぶやきを聞いてまったからには、「伝えないといけない」みたいな形。 母親だからそうなるもの、と一般化できることではおそらくはないと思う。 相手が夫の言葉でなくても、なんだかで自分を経由させて「伝えないといけない」という気持ち、使命感みたいなものに突き動かされて行動せずにはおれなかったのだと思われる。
その内容が相手にとって、あまり意味がないことであっても、使命感の力は大きい。
こういうことを思い出す。 イトコ、つまり母親にとっては甥っ子から、私、つまり母親にとっては娘に対して、こういうことを言われた様子。
「メールが来たけど、内容が空白だった。嫌がらせかよ!ってムカついた。」 私はイトコと我が母がそういった会話をするということも分からないし、母が「メール」についてどのくらい理解があるのかということにも無関心だった。
【ある時】、母から私は聞かされるのだった。 「イトコ君がアンタに対してムカついていたよ。無言のメールが来たとかで…」
イトコの「ムカつく」という感情を母親が思いがけず受け止めてしまうことになり、その感情が母の中で【ある時】盛り上がり、本来受け止めるべき相手(つまり、私)に「伝えないといけない」みたいな強い気持ちが盛り上がって行動を起こす。
いわゆる「板挟み」という状況に似ているのかもしれない。
他にも私が父に対して働き掛けたことが母を通して、なんだかの反応が返ってくるというシチュエーション。私としては、父から直接伝えてくれたら、抱かなくて済んだかもしれない誰に向けていいか迷う思いや気持ち。
「経由」すると、情報のようなものを蓄えることになって、結果としてそれらを組み合わせて「思い込み」ができあがっていく。 「思い込み」によって、語られたり、伝えられたりする内容は微妙な形になる。
まぁ、だからといって、「思い込み」をゼロにするなんていうことは不可能に近い。
ーーーー
ここで、もう少し私が掻き出された思いについて考えてみる。
≪メールの内容というのは、まぁ、どうってことないようなことではある。 父親が久々に娘婿と飲みたいというありがちな内容。≫
どうってことないのならば、つっかかることはないはずである。
「父親が我が夫と飲みたい」という思いを父から直接我が夫へ伝えられる場合、二人っきりでその計画が実行されるパターンと、夫から私に「こういうことをお義父さんが伝えてきたんだけど…」と相談されるパターンが考えられる。
実情からすると、上記の二つのパターンの可能性は低い。
父から私に対してはありえる。 その場合、計画実行には暗黙の了解として父の妻である、私にとっての母親も同伴となる。
母を経由して、「あなたの父親があなたのご主人と飲みたいと言っている」と伝えられると、受け取り方によっては、その場に私がいることは必ずしも必要ではないのか?と解釈できてしまう。 さらに、経由している「母」は、上記の例のように、暗黙の了解としての同伴さえも薄い。
母を主体にすると、「私はとくにそういう思いはないけど、我が夫、つまりあなたの父親がそのように言っているだけで、私はこれをただ伝えたまで」と、控えめな主張をすることによって、断られた時のダメージを抑えようとしているようにも思える。
私としては、「母」を含んだ誘いの形、つまり「両親」の思いとして伝えてもらえると素直になれたはずなのだ。
身近な家族であっても、コミュニケーションというのは受け取り方で様々な思いが交差する。 だから、コミュニケーションを取ること自体を避けたくなる思いが盛り上がることだってある。この気持ちは否定できない。
たかだか身内のやりとりではあるが、こうやって、立ち止まり、コミュニケーションについて考察する、自分自身に問いかけること自体は、私にとってはとても有意義なのだ。 この有意義さ具合を両親に共有してほしい、という思いは持っていない。
言葉にするならば、父親にはどうか手を離して見送っていただき、母親には母親自身の中に温かさと喜びを与える力があることにもう一度気づいてほしいと願う。
ーーーー
世間は「夏休み」「盆休み」で、何かと親族が集まったりして食事をしたりする。普段、あまり会わない家族も「盆と正月だけは」と集まるきっかけになることは「ふつう」なのだとは思う。
でも、だからといって、その「ふつう」の枠に苦悩して収めなくてもいいだろう、というのが私の思いである。
その一つの大きな特徴が私たちが二人家族であることなのだろうが、これも「だからといって」意図的に、計画的にその状態を維持することに努めているわけではないのだ。
それぞれの素直な形でペースで、探り合いながら、コミュニケーションを続けていくことが人生そのもの。
「私」を存在させて語っていく人生でありたい。
2011年08月05日(金) |
「私」でないといけない理由などない |
「私」でないといけない理由などない
と言って、その場から逃げようとネガティブな道を進む決心をしたという意味ではない。
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対人援助に関わっていた初めの頃、「私じゃないといけない」という気持ちに支配されていた。 ここまでやっと築いてきた人間関係。 その続きを次の他者に渡す、という時。 「私じゃないといけない」という気持ちは、その次の他者へ期待する思いに重ねてしまう。
この人に私の思いを知ってもらって受け継いでもらって…。
何年か経って気づかされる。
「私」の人間関係は他の誰かにそのまま伝えることなどできはしないのだと。 さらに、その時の「私」はすでに過去の「私」であって、今の「私」であればまた別の人間関係を築いていけるのだ、ということ。
他者を変えようとすること、「私」の型に収まってもらおうとすることは、なんと小さいことか。
そして、関わられた側の人間だってより善く生きる気持ちを持っているのだ。 力を持っているのだ。
「あの先生の時、こんなことやっちゃったけど、先生困ったやろうな…。 もうこんなことせんようにしよう」
やられた、言われた「こんなこと」や「あんなこと」。
人によって経験が違って、受け取り方も考え方も異なるのだから、同じ事をやられたり、言われたりしてもどうその状況を乗り越えるのかは人それぞれ。
でも、だからといって自分との関わりについての一切を共有しない、というのはなんだか無責任、無関心に思えるわけで。
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こんなことがあって→「!」 こうなってしまって→「…。」 どうしてだろうなって悩んで→「?」 こうなのかもしれないって思ったら→「!」
その通りで→「☆」
また別のこんなことがあって→「!!」
こうなってしまって→「…。…。」 どうしてだろうなって悩んで→「??」 こうなのかもしれないって思ったら→「!!」
その通りで→「☆☆」
また別のこんなことがあって→「!!!」
※こうなってしまって→「…。…。…。」 ※どうしてだろうなって悩んで→「???」 ※こうなのかもしれないって思ったら→「!!!」
※その通りで→「☆☆☆」
※また別のこんなことがあって→「!!!!」
「※」の繰り返しなのかなって思う。 「その通り」思った通りの「☆」の数みたいなものが、結果として自信に繋がっていくのかなって思った。
物事に折り合いをつけていく過程で、「☆」で歯切れ善くしっくりとけじめがつくような感じを持てる時もあれば、「!!!!!」動揺や衝撃を受けて間もなく、さてこれから悩もうとする時に関わりにひとまずの幕を下ろさねばならないという時だってある。
「ストレス耐性」という言葉がメンタルヘルス関連の本に載っていた。 ストレスを取り除いてやる、という関わり方もあるが、ストレスに対処していく力を育む、という視点もある。
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「私」でないといけない理由などない。
「私」を新たな場で試し、向上させていくためにも、その場にだけ「私」を留めることにエネルギーを使わなくていいのだ。
一期一会。 別れは出会いのはじまり。
「もう、ぼく、給食、先生がおらんでも大丈夫やけん。」 この言葉は、確かな「ぼく」の成長。
これから出会う「ぼく」や「わたし」のために、たっぷりとやすらぎの時間を大切にしよう。
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